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弁論家の言論と善

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Academic year: 2022

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(1)プラトン『ゴルギアス』における正義・善・美. 宮崎. 文典.

(2) 目 次. 序論. 第1章. 第2章. 第3章. 1 第1節. 問題の背景. 1. 第2節. 考察上の注意点. 2. 第3節. 本論文の考察の手順. 4. 弁論術の知のあり方. 7. 第1節. 正不正、善悪、美醜の問い. 7. 第2節. 弁論術の対象の特定と拡張. 9. 第3節. 弁論家の言論と善. 15. 第4節. 正不正、善悪、美醜の連関. 19. 弁論家と正しい人. 23. 第1節. 正しいことの知と正しい人. 23. 第2節. 学び知ることと〈人のあり方〉. 25. 第3節. 行為と欲求の方向性. 26. 第4節. 弁論家としての〈人のあり方〉. 30. 第5節. 正義と善のつながり. 32. 技術と善. 36. 第1節. 技術と迎合および経験. 36. 第2節. 快楽についての説明可能性. 38. 第3節. 善についての説明と快楽についての説明 ――R. Woolf による解釈とその問題点. 38. 第4節. 善にもとづく説明. 42. 第5節. 魂を益する善. 43.

(3) 第4章. 第5章. 第6章. 行為と善い行為の間. 45. 第1節. 〈善いと思うこと〉と〈望むこと〉をめぐって. 45. 第2節. 467c5-468e5 の検討. 46. 第3節. 善い行為と知性. 54. 第4節. 善い行為の基準としての正義. 57. 不正が恥ずべきであるのはいかにしてか. 60. 第1節. 不正を恥ずべきとする判断をめぐって. 60. 第2節. 不正をめぐる信念の表層と深層. 61. 第3節. 「恥ずべき」という判断の表層のあり方. 64. 第4節. 「恥ずべき」という判断の深層と快苦. 67. 第5節. 弁論術が孕む問題――快楽の追求と正義との関係. 69. 第6節. ソクラテスとカリクレスとの対話との問題連関. 71. 魂の秩序と行為の有益性. 74. 第1節. 魂の秩序・規律をめぐって. 74. 第2節. 従来の解釈の検討. 75. 第3節. 行為の有益性と正義. 80. 第4節. 行為の有益性としての魂の秩序・規律. 82. 第5節. 魂の内なる原理としてのノモス. 86. 第6節. ピュシスの正義の主張への応答. 87. 結論. 89 第1節. 正不正、善悪、美醜の連関と対話の問題連関. 89. 第2節. 正不正、善悪、美醜と弁論家. 91. 第3節. 先行研究に対して. 92. 使用テクストおよび参考文献. 94.

(4) 序論 本論文は、プラトン『ゴルギアス』において論じられている正義(正しさ δίκαιξμ) ・ 善(ἀγαθόμ) ・美(立派であること καλόμ)という 3 つの価値が相互にいかに連関しあい、 またその連関がどのような意味をもつものであるかを明らかにすることをめざすもの である。 ここでは、この問題の背景、および考察上の注意点を確認し、考察の手順を提示する ことにしたい。 第1節 問題の背景 本論文がとりあげる、正義・善・美、またこれらと対置される不正・悪(害悪)・醜 (恥ずべきであること αἰςχπόμ)は、プラトンの描くソクラテスの思想の中核にかかわ る重要な要素であるといえる。このことは、『ソクラテスの弁明』や『クリトン』にお いて、次のようなかたちであらわれている。すなわち、ソクラテスにとって、善く生き る(εὖ ζῆμ)ことは、立派に(καλῶρ)、また正しく(δικαίωρ)生きることと同一である (『クリトン』48b4-91)。また、ソクラテスは、不正をおこなう(ἀδικεῖμ)ことが恥ずべ き(αἰςχπόμ)ことであり害悪(κακόμ)であるということを知っているという( 『ソクラ テスの弁明』29b6-7)。また、ソクラテスのこうした信念は、脱獄拒否(『クリトン』) にみられるように、彼自身の生き方のうちにあらわれている。このように、正義・善・ 美の一致、そして不正を恥ずべきこと、また害悪とすることは、プラトンの描くソクラ テスの思想の基軸といえるだろう。 『ゴルギアス』では、ソクラテスのこの信念(そして、この信念に即した彼自身の生 き方)について、対話相手による反論の吟味を通じて、あらためてその真理を確認する ことが試みられているといえる2。そもそも、不正を害悪とするソクラテスの考えは、 われわれ多くの読者にとって自明のこととは必ずしも言いがたい。ソクラテスが考えて いるのは、不正をおこなうこと、そして不正な人であることが、「不正をおこなう人に とって」 (509b2)害悪となるということである。ところで、不正をおこなうということ は、とりわけ、他人の利益(善)を侵し「より多く持つ(ολέξμ ἔχειμ)」 (483c2)という ことを意味する。だとすれば、 「自分の思いのままに」(469c7)行為し、より多くの利 益をむさぼる不正は、不正をおこなう当人にとって快く、益になるのではないかという 1. 以下、ギリシャ語テクストからの引用箇所は、ステファヌス版プラトン全集のページ・段 記号・段内行数によって示す(使用テクストについては本論文末尾の「参考文献」に記し た) 。引用のさいに作品名を明記しない場合は、『ゴルギアス』からの引用である。また、 引用のさいの訳文は本論文筆者が訳したものである。なお、引用文中の〔 〕内は引用者 による文意の補足であり、 […]は省略をあらわす。 2 同様の指摘として、Kahn (1996: 126-127) を参照。 1.

(5) 疑念が、上述のソクラテスの考えに対して向けられるかもしれない。『ゴルギアス』で は、不正な人であっても幸福でありうるとする対話者ポロスによる反論や、より多くを むさぼることとしての欲望充足を、不正ではなくむしろピュシス(自然)の正義とする 対話者カリクレスによる反論が提起されている。こうした反論は、いま述べた疑念に通 じるものといえる。『ゴルギアス』における正不正、善悪、美醜をめぐる議論は、こう した反論と対決することを通して、ソクラテスの信念を根拠づける試みと捉えられよう。 以上が、本論文が取り組む問題の背景である。これをふまえ、本論文では、『ゴルギ アス』においてソクラテスとその対話相手との「対決」のなかで示される、正義・善・ 美の一致というソクラテスの信念がもつ哲学的意味を捉えることを試みることとした い。 第2節 考察上の注意点 次に、以下でおこなう考察において注意すべき点を確認することにしたい。だがその まえに、『ゴルギアス』にかかわる最近の諸々の研究および解釈上の争点のうち、代表 的なものに言及しておくと、 [a]ソクラテスのエレンコス(論駁)の方法にかんする G. Vlastos, ‘The Socratic Elenchus’ の解釈とそれ以降の一連の論争3、 [b]『ゴルギアス』におけるソクラテスの対話を、対話相手の個人にかかわる (personal)要素や対話の劇的(dramatic)構造に焦点をあてて読み解く試み(C. H. Kahn)4、 [c]行為と欲求についての諸解釈、 などを挙げることができる。 [c]については、対話篇前半(ゴルギアスとの対話、およ びポロスとの対話。そのうちでも特に 460a-c や 467c-468e5)ではいわゆる「ソクラテス の主知主義」 (行為とその動機づけは善についての知に従う、とする考え方)6にあたる 立場が示唆されているが、対話篇後半(カリクレスとの対話)では、善に従わない欲望 (ἐοιθτμία)が示唆されているという不一致が指摘され(T. Irwin)、この不一致をプラト. 3. Cf. Vlastos (1983). また、Vlastos (1983) 以降の諸家の議論の整理および批判的検討として、 中畑 (1997) を参照。なお、本論文ではこのソクラテスのエレンコスの方法の問題の詳細に は立ち入らない。 4 Cf. Kahn (1983). Kahn は、 『ゴルギアス』におけるソクラテスの対話を、対話者個人にかか わる(personal)要素と議論の論理的(logical)要素との間の相互作用ととらえ、論理的要 素だけでなく、personal な要素をも重視している。同様に、対話者の立場や対話の場面を重 視した議論解釈の試みとして、Stauffer (2006) を挙げることができる。 5 460a-c については本論文第2章で、467c-468e については本論文第4章で、それぞれ中心 的に検討する。 6 いわゆるソクラテスの主知主義については、Penner (1992); Taylor (2000: 62-63) を参照。 2.

(6) ンの魂論の発展の契機と捉えようとする試み(J. M. Cooper)がみられる7。 以下、本論文の考察では、上に挙げた諸論点に関連する諸々の解釈についても適宜と りあげ、検討することになるだろう(上記[a]~[c]のうち、本論文が特に深くかか わるのは[c]の問題である) 。ただし、こうした諸先行研究のそれぞれでなされている 考察において、正不正、善悪、美醜の相互連関がもつ意味について十分に注意され、検 討されているとは、必ずしも言いがたい。さらに、次に挙げる解釈上の課題についても、 これら諸先行研究において十分に検討、解明されているとは言いがたいように思われる。 (1)ひとつは、『ゴルギアス』において弁論家(ῥήσωπ)がソクラテスの対話相手とし て選ばれていることの意味にかかわる課題である。『ゴルギアス』におけるソクラテス の対話相手は、弁論家ゴルギアスとその弟子ポロス、そして弁論術(ῥησξπική)を修め、 政治家(弁論家)となることを志向するカリクレスである。では、正義・善・美が一致 するとするソクラテスの信念が、こうした弁論家たち(の主張)と対決させられている のはなぜか。ひとつの理由として考えられるのは、言論のなかで正不正、善悪、美醜に かかわるということが、弁論家、そして弁論術の特質であるから、ということである。 弁論家は法廷や民会など、さまざまな集会において、正不正、善悪、美醜にかかわる言 論をおこなう。そこで、正不正、善悪、美醜(の相互関係)をどう扱うかという点で、 弁論家とソクラテスとは一致するか、あるいはいかに相違するかということが必然的に 問題となろう。だとすれば、正義・善・美が一致するとするソクラテスの信念が含意す ることは、ソクラテスと弁論家との対比においてこそ、とりわけ鮮明に示されることに なるだろう。 このことをふまえれば、正不正、善悪、美醜の連関がもつ意味を考えるさいには、こ の問題をめぐるソクラテスと弁論家との対比関係を、文脈を精査することによって理解 する必要がある。しかし、上述の諸論点をめぐるこれまでの研究は、この点を十全に明 らかにしたとは必ずしも言いがたいように思われる8。 (2)次に、いま述べたソクラテスの立場と弁論家の立場との対比に注意したうえで、 ゴルギアスとの対話、ポロスとの対話、カリクレスとの対話の問題連関を捉える必要が ある。たとえば、さきほど言及した Irwin の議論は、対話篇前半(ゴルギアス、ポロス との対話)で示唆される(と目される)ソクラテスの主知主義と、対話篇後半(カリク レスとの対話)で示唆される欲望についての考え方との不一致を指摘するものであるが、 これは『ゴルギアス』というひとつの対話篇がその内部に不一致を孕むという指摘にほ かならない。また、当対話篇の最初に位置するゴルギアスとの対話は、そもそもそこで 7. Cf. Irwin (1977: 128); Irwin (1979: 195); Irwin (1995: 116-117). また、cf. Cooper (1999: 74-75). 本論文第6章では、ここに挙げた Irwin、Cooper それぞれの指摘をあらためてとりあげ、特 にカリクレスとの対話における ἐοιθτμία についての Irwin の解釈を批判的に検討する。 8 正不正、善悪、美醜の連関にかんして、ソクラテスの立場と弁論家の立場との対比をもと に考察した数少ない例として、出村 (1987) がある。 3.

(7) 何が問題となっているかが(一見するかぎり)必ずしも明瞭とは言いがたい。その意味 では、ゴルギアスとの対話とポロス、カリクレスとの対話との間の議論の連関もまた、 必ずしも明瞭ではないといえよう。こうした問題を意識しつつ、ゴルギアスとの対話、 ポロスとの対話、カリクレスとの対話の問題連関を、正不正、善悪、美醜の相互連関と いう観点から捉えることが、本論文の課題となる。 そこで、以上のように、正不正、善悪、美醜の相互連関が含意することを、 (1)この 問題にかかわるソクラテスと弁論家との対比関係を、文脈の精査によっておさえつつ、 (2)ゴルギアスとの対話、ポロスとの対話、カリクレスとの対話の問題連関を捉える ことによって、明らかにすること――これが、本論文の考察において注意すべきポイン トとなる。 第3節 本論文の考察の手順 上述のように、正不正、善悪、美醜をめぐるソクラテスの立場と弁論家の立場との対 比をおさえつつ、ゴルギアスとの対話、ポロスとの対話、カリクレスとの対話の問題連 関を捉えることが本論文の考察で注意すべき点である。そこで、以下の考察では、まず ゴルギアスとの対話において正不正、善悪、美醜がどのような問題として議論にあらわ れ、それがポロス、カリクレスとの対話にいかにして引き継がれ、深化されていくかを 見届けなければならない。このことを念頭におきつつ、本論文は以下の手順で考察をす すめることにしたい。 [1]第1章および第2章. 本論文ではまず、ゴルギアスとの対話を検討し、上述のよ. うに、そのなかで正不正、善悪、美醜という三対の要素がどのようなかたちで問題化さ れているかを捉えなければならない。そこで、第1章、第2章ではゴルギアスとの対話 をとりあげ、この点について検討する。 まず、第1章では、ゴルギアスとの対話のうち、弁論術による言論の内実を吟味する 一連の議論の脈絡を読み解くことで、弁論術による言論と善とのかかわりがいかなるも のであるかを考察する。そして、この考察をもとに、ゴルギアスとの対話において、正 不正、善悪、美醜のそれぞれについての知が、いかにして相互の連関において問われて いくことになるかを明らかにする。 次に、第2章では、460a-c で展開される「正しいことを学び知った人は正しい人とな る」という議論を検討し、行為と欲求のあり方という観点からみた正義と善とのつなが りを捉える。また、ここでいう「正しい人」というもののあり方の検討を通じて、行為 と欲求という点からみた弁論家のあり方もまた、「正しい人」のあり方との対比から捉 えられることになるだろう。 [2]第3章および第4章. 以上のように、ゴルギアスとの対話において正不正、善悪、. 美醜の相互連関の問題がいかなるかたちで主題として捉えられるかを第1章、第2章で 4.

(8) 確認したうえで、第3章以降ではポロスとの対話、カリクレスとの対話を検討する。ま ず、第3章、第4章では、おもにポロスとの対話の冒頭(461b)から 468e までの議論、 特にそのうち 464e-465a の一節、および 466a-468e に焦点をあて、善(あるいは有益) がいかなるかたちで語られ、また問われていくかを吟味する。 第3章では、464e-465a の一節がもつ意味について考える。この箇所は、弁論術は技 術(σέχμη)ならぬ迎合(κξλακεία) ・経験(ἐμοειπία)であるとする、弁論術に対する批 判の文脈にあたる。そのなかで、技術ならぬ経験は「自らが提供する対象あるいは提供 するものが本性においてどのようなものであるか、何ら説明(λόγξρ)を有していない」 (465a3-4)9といわれるが、ここでいう「説明」とはいかにしてなされるべきものなの か。第3章では、この問題について、善という観点から考察することを通じて、技術に おいて善がいかなるかたちで語られるかを明らかにする。 第4章では、466a-468e を中心にとりあげ、善がどのようなかたちで語られるかとい うことについて、さらに検討する。この箇所では、善いと思う(δξκεῖμ)ことをおこな うことと、望む(βξύλεςθαι)ことをおこなうことが対比的に語られているが、この議論 で問われているのは、ある行為を何をもって善いと評価するかという問題であると思わ れる。第4章では、このことを、「弁論家は望むことをおこなっていない」というソク ラテスの主張がもつ意味とともに明らかにする。 [3]第5章 ソクラテスは 470a-c で、正しい行為が善い(有益な)行為であり、不 正な行為が悪い(害悪となる)行為であるということを明示する。では、正義と善、不 正と悪(害悪)とのかかわりにおいて、美(立派であること)および醜(恥ずべきであ ること)にはいかなる意味があるのか。第5章では、ポロスとの対話のうち、474c-475e をとりあげ、不正が恥ずべきであると判断されることがもつ意味を中心に、この問題に ついて考察する。 [4]第6章 ポロスとの対話において、ソクラテスは正しい行為が善い(有益な)行 為であり、不正な行為が恥ずべき悪い(害悪となる)行為であるとした。これに対して、 カリクレスは欲望充足を人がなすべき「立派で正しい」 (491e7)行為規範とし、不正な 行為を恥ずべき害悪とすることを否定しようとする。こうした議論展開のもと、あらた めて問われるべきは、正しい行為の善さ(有益性)ということが、魂の善さ(徳 ἀπεσή) 、 そして幸福とのかかわりにおいて、いかなる意味をもつのかということだと思われる。 第6章では、この問題について、おもに 503d5-504e5 で述べられる魂の秩序(κόςμξρ, κόςμηςιρ)および規律(σάνιρ)ということの意味の解明を通じて考察する。 本論文では、以上の考察手順によって、正不正、善悪、美醜のそれぞれの意味と相互 関係を文脈に沿って理解するとともに、これら三対の要素をめぐって弁論術および弁論 9. 465a4 のテクストについては、ᾧ οπξςφέπει と ἃ οπξςφέπει との間に ἤ を補う Dodds に従っ て読む。この点については本論文第3章の註 2 を参照。 5.

(9) 家が孕む問題を明らかにすることをめざすことになる。この弁論術および弁論家が孕む 問題の析出は、特に第1章、第2章、第4章、第5章において重要な課題となろう。 それではまず、ゴルギアスとの対話の検討に入ることにしたい。. 6.

(10) 第1章. 弁論術の知のあり方. 本章と第2章では、ソクラテスとゴルギアスとの対話(447b-461b)について考察す る。まず、本章でとりあげるのは、ゴルギアスとの対話における、弁論術および弁論家 と、それが語る当の事柄についての知との間の関係を問う一連の議論である。この一連 の議論は、いかなる問題を導き出すものなのか。それは、正不正、善悪、美醜の相互連 関、なかでも特に正義と善の連関という問題である。本章では、この問題が、ゴルギア スとの対話でなされる弁論術の機能の分析から必然的に引き出されるものであること を示すことをめざす。 第1節 正不正、善悪、美醜の問い ゴルギアスとの対話には、弁論家が弁論術を用いて語るという事態について吟味する 一連の議論がみられる。それは次のようなものである。 まず、弁論術は正しいことと不正なことを主題とするものとされる(454b5-7)。そし て、正しいことと不正なことについて、知をもたらすことなく信念のみをもたらす説得 をつくりだすものと規定される(452e9-455a7) 。これにつづいて、弁論術および弁論家 と、それが語る当の事柄についての知との間の関係が問われていく。まず、弁論家は説 得しようとする当の事柄について知っていなくても説得力をもつことができるという、 弁論術を用いて語るさいの弁論家自身の知のあり方に対する吟味がおこなわれる (458e3-459c5)。次に、この吟味がさらに、弁論術がその主題とするはずの正しいこと と不正なことについての知に対する弁論術および弁論家のかかわりへと向けられる。す なわち、弁論家は正しいことと不正なことについて知っていなくても、知っているのだ と思われるようにするものなのか、という問題である(459c6-460a2) 。 しかし、この問題をゴルギアスに問いかけるソクラテスの発言には、一見したところ、 疑問の余地があるように思われる。ソクラテスの発言は、以下のようなものである。 [引用 1:459c8-e1] 弁論術の心得のある人は、正と不正、美(立派なこと)と醜(恥ずべきこと)、善 と悪について、健康的なことにかかわるとか、その他諸技術が対象とするものにか かわるのと同じようにかかわるのですか。つまりその人は、何が善であり何が悪で あるか、何が美であり何が醜であるか、何が正であり何が不正であるか1、それら. 1. テクストで ‘τί ἀγαθόν’ というように ‘τί ...’ というかたちで述べられている一連の問い を、ひとまず「何が~であるか」と訳した。この一連の問いがいかなることを問い求める ものであるかという問題は、本章の考察課題のひとつなので、この点について詳しくは後 述する。 7.

(11) の事柄そのもののことを知っていないのだが、それらについて説得を工夫している (μηχανᾶσθαι)から、知っていなくても、知っていない人々のなかでは、知ってい る人よりも、より知っていると思われる(δοκεῖν)ようにするのでしょうか。 ソクラテスはここで、弁論家が正と不正についての知をもつか否かという問題ととも に、善悪、美醜についての知についても問うている。しかしこれに対して、われわれ読 者は意外に思うかもしれない。というのも、それまでの議論では、弁論術による言論の 対象となるのが正不正であるということは認められていたが、弁論術が善悪、美醜とは っきりと関連づけられていたとは、一見するかぎりでは言いがたいからである。このこ とからすれば、ここで弁論家について、正不正の知だけでなく善悪、美醜の知の如何が 問われているということには、唐突な印象があるといえる。したがってまた、ここでこ れら三対の要素について問われるべき必然性が、少なくともそれまでの議論とのつなが りからは見えづらい感があるといえよう。このように考えると、この点について、次の ような疑問が浮かんでくる。 (1)ソクラテスがここで、正不正、善悪、美醜という三対の語を提起して、それらに ついての弁論家の知のあり方を問うているのはなぜか2。 この問題にかんして、Dodds や Irwin は次のような指摘をおこなっている。すなわち、 ソクラテスはここで、問うべき対象としてモラルの領域(および社会的、政治的な領域) をはっきりと指示するために、正不正、善悪、美醜の三対の語を並置しなければならな かったのだということである3。この指摘にはたしかに一理あるものと思われる。じっ さい、彼らが指摘するように、ソクラテスの発言はこうした広くモラルにかかわる領域 にかんするものと思われるが、そうだとすれば、やはり彼らが指摘する通り、正不正だ けでは指示する領域が狭すぎるし、一方、善悪、美醜だけでは逆に、指示する対象が広 すぎるからである。 とはいえ、この通りであるとすれば、ソクラテスがこうした広くモラルにかかわる領 域に対する弁論家の知のあり方を問うているのがなぜなのか、明らかにされるべきだろ う。そのためには、ゴルギアスとの対話における、弁論家が弁論術を用いて語るという 事態について吟味する一連の議論の脈絡を検討することで、弁論術と正不正とのかかわ りだけでなく、弁論術と善悪、美醜とのかかわりについて考える必要がある。 (2)そもそも引用箇所でソクラテスは、正不正、善悪、美醜についての知として、ど のようなことを求めているのか。 2. この問題について Fussi (2001: 134) は、おそらくは 1 つの知(たとえば正義の知)がその 他のものの知(善、美についての知)を必然的にともなうからであるとしている。しかし、 この指摘は、1 つの知がそのように別の知を必然的にともなうのがなぜなのか、あるいはい かにしてかを理解するには説明不足と言わざるをえない。 3 Dodds (1959: 217); Irwin (1979: 124-125). 8.

(12) Irwin はここでいわれる知について、それは「何が善いものであるか」という、個々 の善いものの事例を見分ける知のことなのか、あるいは「善とは何か」という定義の知 のことなのかと問うている4。しかし、この問題については、弁論術と正不正とのかか わりとともに、弁論術と善悪、美醜とのかかわりがいかなるものであるかを検討するこ とで、Irwin による問題設定とは別のかたちで考察することができるのではないかと思 われる。 上記(1)(2)について考えるべく、本章では特に弁論術と善の関係という問題に焦 点を定め、弁論術の言論についての一連の吟味の検討を通して、弁論術と善との間のひ とつのかかわりを明らかにすることをめざす5。なるほど先述のように、ゴルギアスと の対話では、弁論術の主題として正不正があげられる一方で、弁論術と善悪(また美醜) とのかかわりははっきりとは述べられていない。しかし、弁論術と善のかかわり(また、 そのかかわりが孕む問題)は、弁論術の機能の分析から必然的に引き出されるものであ ると思われる。本章では、弁論術の言論についての一連の吟味を、弁論術と対比される 諸技術の知のあり方に照らして読み解くことで、この点を明らかにし、上述の 2 つの問 題について考えることにしたい。 第2節 弁論術の対象の特定と拡張 ソクラテスとゴルギアスとの対話はまず、弁論術をめぐって、それが何にかかわる知 (ἐπιστήμη 449d9)であるかを問うかたちで進められている。そのさい、この問いは「何 をつくりだすか」という成果(ἔργον)を問うことに重点を置くものとなっており、そ こで弁論術は「説得をつくりだすもの(πειθοῦς δημιουργός)」 (453a2)であるという規定 がなされている。本章で特に検討したいのは、この規定がなされた以降の議論である。 そこでまず、議論のおおまかな流れを確認しておこう。 [議論 1]説得の主題となる対象、およびそれがどのような説得であるかの特定 (453b5-455a7) : 弁論術が説得をつくりだすものであるということが規定されたこ とをうけて、その説得がいかなるものであり、何についてのものであるかがさらに問 われる。まず、その説得は、法廷やその他諸々の人の集まりにおいてなされる、正し いことと不正なことについてのものであるとされる(454b5-7)。ただしそれは、正と 不正について聴衆に対して教えるのではなく信じ込ませるものであるということが、 認められる(454e9-455a7)。 [議論 2]弁論術の射程の拡張と不正使用の可能性(455a8-457c3) 4. Irwin (1979: 124-125). 本章の考察では、弁論術と善のかかわりを捉えることが中心となるが、弁論術と美醜のか かわりについては、本章註 19 を参照。 5. 9.

(13) [議論 2A]弁論術の射程の拡張(455a8-456c7, 457a5-b1) :. ゴルギアスによれば、. 弁論術が効力を発揮するのは正と不正についてだけではない。弁論術は、船渠、城 壁、港湾等の建設を提案し意見を通すこと、医者による治療に従うよう患者を説得 すること、弁論家が医者を差し置いて公務のための医者として選出されうることと いった、あらゆることについて説得力をもつものである。 [議論 2B]弁論術の不正使用の可能性(456c7-457c3) : しかしゴルギアスによれば、 そのようにどんな人に対しても、またどんなことについても説得的に語ることがで きるからといって、弁論術を不正に用いてはならない。弁論術が不正に用いられる 場合には、その責任は不正に用いた人自身にあるのであって、その人に弁論術を教 えた教師に責任があるのではないとゴルギアスは主張する6。 [議論 3]弁論術が用いられる現場の吟味(458e3-459c5) : 上記[議論 2A]の事例を うけて、「弁論術が健康的なことについて医者よりも説得力をもつ」という事例がと りあげられ、それが知の有無(つまり、対象となる事柄について知っている人である か、知らない人であるか)という観点から捉え直される。これにより、 [議論 2A]に おける弁論術の実践のあり方が吟味される。そこから、弁論術は「知らない人々には、 知っている人々よりもよく知っているようにみえる(φαίνεσθαι)ようにするという、 説得についての一種の工夫(μηχανή) 」 (459b8-c2)であるとされる。 [議論 4]正不正、善悪、美醜の知と、弁論術の実践および教授との関係(459c6-461b2) [議論 4A] (459c6-460a2) : さきの引用(引用 1:459c8-e1)でみたように、弁論術 は正と不正、善と悪、美と醜についても同様に、知らないのに知っていると思われ るようにするものであるのかが問われ、また弁論術の教授とはそのようなことを教 えることなのかということが問われる。 [議論 4B] (460a3-461b2) : そして、この問いを起点に、弁論術の不正使用([議論 2B])をめぐる吟味論駁がおこなわれる。 弁論術の言論が、弁論術および弁論家と、その言論で語られる当の事柄についての知 とのかかわりという点から吟味されるのは、[議論 3](458e3-459c5)、[議論 4] (459c6-461b2) においてである。 しかし、 [議論 1] (453b5-455a7) と[議論 2] (455a8-457c3) には、 [議論 3] [議論 4]の議論を理解するうえで重要な論点が用意されているように 思われる。そこで、以下ではまず、 [議論 1][議論 2]について注意すべき論点をみて 6. ゴルギアスによるこの「弁論術の教師の責任回避の弁」は、弁論術を学んだ人が弁論術を 不正に用いるケースを、拳闘の術を学び心得た人が殴るべきでない人を殴るケースとの類 比でもって説明しようとするものである。しかし、Murray (2001) が指摘するように、拳闘 術が、攻撃すべき相手がリング上の相手に限定されるといったことをはじめとする一連の ルールの教育を内包するものだとすれば、ゴルギアスによる弁論術と拳闘術の類比は、弁 論術の不正使用についての教師の責任回避の説明として、成功していないことになる。 10.

(14) おくことにしたい。 2‐1 偽なる信念 [議論 1](453b5-455a7)について注意すべき点をみてみよう。 まず、[議論 1]では、弁論術がつくりだす説得の主題が正と不正であるとされてい るが、しかしそのさい、弁論家自身が正不正の知をもっているか否かについてはまだ問 われていない。なるほど、ここでは弁論家がつくりだす説得は「正と不正について、信 じ込ませるもの(πιστευτική)であって、教えるもの(διδασκαλική)ではない」 (455a1-2) とされ、したがって「弁論家は正しいことと不正なことについて、法廷やその他諸々の 人の集まりでの教師ではない」 (455a2-4)とまでいわれている。しかし、それでも弁論 家が正不正について知らないということには必ずしもならず、この点についてはいまだ 確定していないといえよう7。 とはいえ、ここで弁論術による説得が「信じ込ませるもの」とされていることには、 やはり重要な意味がある。ここでいう「信じ込ませるもの」とは「知ることを抜きにし て信念(πίστις)をもたらすもの」(454e3-4)ということであるが、信念は真でも偽で もありうるものであり、その点で知(ἐπιστήμη)と区別されるものである(454d5-8) 。 ところで、そもそも弁論術は「聴く人々の魂のうちに説得をつくりだす」 (453a4-5)も のである。だとすれば、弁論術には、聴く人々の魂のうちに知をもたらすどころか、 〈偽 なる信念をもたらす説得〉をつくりだす可能性があるということになるのである。 このように、[議論 1]では弁論術および弁論家の知のあり方が直接吟味にさらされ てはいないものの、〈偽なる信念〉という問題に注意するならば、弁論術の知としての 身分の疑わしさが、すでにここで暗示されているものと考えられる。ところで、この〈偽 なる信念〉は、特にいかなる事柄にかかわるものなのか。この問題は、弁論術および弁 論家の言論における知のあり方を吟味する[議論 3] (458e3-459c5)について考えるさ いに、重要となってくる。この点については本章第3節で検討することにしよう。 2‐2 弁論術の対象の拡張がもつ意味 つづいて、 [議論 2] (455a8-457c3)についてみてみよう。 [議論 2]の冒頭でソクラテスは、「われわれが弁論術についていったい何を語って いるのか、みてみましょう。というのも、私は自分でも、私が何を語っているのか、ま だ理解できていないのですから」 (455a8-b2)と述べている。この発言からすれば、 [議 論 2]以降の対話は、「弁論術は何にかかわるものなのか」という問いをめぐってなさ れたそれまでの吟味のなかで語られたことが何を意味するのかを再吟味するものであ ると捉えることができる。そのなかで、[議論 2]をめぐっては、以下の二点を注目す 7. この点については、吉田 (1993: 46) が指摘する通りである。 11.

(15) べき問題としてあげることができる。 ひとつは、 [議論 2A] (455a8-456c7, 457a5-b1)にみられる、弁論術による説得の対象 (主題)の拡張である。すでにみたように、それまでの議論のなかでえられた結論は、 「弁論術は正しいことと不正なことについて信念をもたらす説得をつくりだすもので ある」ということであり、この結論は「弁論術はあらゆる言論にかかわるわけではない」 (449e3-4)という同意のうえで引き出されたものだった。しかし、[議論 2A]で「弁 論術の力(δύναμις)はいったい何であるか」 (456a4-5)があらためて問われると、弁論 術の力は「正と不正についてのみ」 (455d3-4)有効なのではなく、船渠、城壁、港湾等 の建設や、公務のための医者や船大工といったつくり手(技術者)の選出などにも有効 であるとされることになる。つまり、 [議論 2A]では、弁論術は「あらゆることについ て」 (457a5-6)語ることができるのだとして、 [議論 1]では正不正に特定(限定)され た弁論術による説得の対象が、あらゆることへと拡張されているのである8。 もうひとつは、こうした弁論術による説得の対象の拡張と、 [議論 3] (458e3-459c5) 、 [議論 4] (459c6-461b2)における弁論術の吟味との関係である。 [議論 3]では弁論術 が説得力をもつその現場について吟味されるが、この[議論 3]でとりあげられるのは、 正不正の事例ではなく、「健康的なこと」にかんして医者よりも弁論家のほうが説得的 に語るというケースである。そして、正不正についての説得にかんする吟味は、そのあ と([議論 4] )に回されている。しかし、当初弁論術による説得の対象が正不正に特定 されていたことを考慮すれば、正不正についての説得にかんする吟味がこのように後回 しにされているのは、やや不自然な印象がある。 ではこのように、(1) [議論 1]では正不正に特定(限定)された弁論術による説得 の対象が[議論 2A]で拡張されたのはなぜだろうか。そして、(2)弁論術が用いられ る現場についての吟味がおこなわれる[議論 3]で、正不正以外の事柄についての言論 がとりあげられていることは、何を意味するのだろうか。以下、この 2 つの疑問につい て考えてみよう。 (1)第一の疑問については、次のように考えることができる。ゴルギアスは弁論術が あらゆる事柄について力をもつことを主張するさい、「弁論術の力のすべてを包み隠さ ずはっきり示す(σαφῶς ἀποκαλύπτειν)ようにしよう」 (455d6-7)と述べている。この発 言を重視するなら、ゴルギアスが弁論術の力として考えているのは、正不正のみを対象 8. ここでの議論は、弁論術が公務のための医者、船大工の選出や船渠、城壁、港湾等の建設 といった正不正以外の事柄についても有効であるか否かをソクラテスが問い、ゴルギアス がそれを認めるという展開をとっている。そこでは、ゴルギアスはソクラテスに対し「君 のほうで話の糸口をうまく示してくれたのだから」 (455d7-8)と述べ、またソクラテスのほ うもゴルギアスに問いかけるさい、 「あなたのことを真剣に考えている」(455c5)のだとし て、ゴルギアスの弟子になろうとする志望者に対するアピールをそそのかす発言をおこな っている(455c5-d1) 。こうしたやりとりからすれば、ゴルギアスが弁論術による説得の対 象を拡張するように、ソクラテスのほうが誘導していると捉えることができるだろう。 12.

(16) とする(さらにいえば、正不正についてのみ用いられる)ものというよりもむしろ、正 不正に限定されることなく、「あらゆる人々に対して、またあらゆることについて語る ことができる」(457a5-6)ということであるとみることができる。つまり[議論 2A] ........ では、弁論術がいかなるものであるかということについてゴルギアス自身が主眼を置く ものが「包み隠さずはっきり示す」かたちで引き出されているということである9。 (2)第二の疑問については、次のように考えることができるだろう。すなわち、弁論 術は一応のところ正不正についてのものであるとされながらも、じつはそれはあらゆる ものについて説得力をもつことができる。そうだとすれば、弁論術がそうした説得力を もつゆえんとなる弁論術の特質は、それ特有の対象とされる正不正をめぐる言論よりも、 それ以外の事柄をめぐる言論においてこそ、よりはっきりと浮かび上がると期待される のではないか、ということである。この点について考えてみよう。 まず、そもそも弁論術が正不正についての説得であるとされたことには、議論の脈絡 からみて、どのような意味があるのだろうか。ソクラテスとゴルギアスとの一連の議論 は、次のような仕方で始められていた。すなわち、まず、ゴルギアスはいかなる技術の 心得があるのか(τίνος ἐπιστήμονα τέχνης 449a3-4)というソクラテスの問いかけに対して、 自分は弁論術という技術の心得があるのだとゴルギアスが答える。これによって、弁論 術がひとまず技術として想定されることになる10。そしてそのうえで、議論は、 「機織り の術は着物の制作にかかわり、音楽術は歌曲をつくることにかかわる」といった技術と の類比(449d1-4)をもとに、弁論術が何にかかわる知(ἐπιστήμη 449d9)であるかを問 うことから始まっている。このように、目下の議論は、弁論術をある特定のものにかか わる知として同定しようとするというかたちを(一応は)とっている11。弁論術の対象 が正不正として特定されたのは、こうした議論のなかでのことである。だとすれば、議 論の脈絡にしたがうかぎり、弁論術は〈正不正にかかわる知〉であるということが期待 されることになるのである12。 9. [議論 1]において、弁論術を「法廷やその他諸々の人の集まりにおいてなされる、正し いことと不正なことについてのもの」としたのはゴルギアスである(454b5-7)。しかし、彼 が弁論術のつくりだす最大の善いものとして「言論でもって説得することができるという こと」 (452e1)を挙げたとき、彼は、その説得が法廷だけでなく政務審議会や民会、その他 あらゆる集会で用いられるものであるとしていた(452e1-4)。このように、 [議論 2A]で主 張される弁論術の全能性(あらゆる事柄について説得できること)は、ゴルギアスが「説 得」ということで最初に述べていた 452e1-4 の描写に沿うものである。その意味では、[議 論 2A]は、 「弁論術が「何に関わるのか、何を生み出すのか」という問いのくり返しによっ て、いわば削ぎ落とされてしまったかに見える、弁論術の「現に動いている場面」をもう 一度原寸通りに戻す」 (吉田 (1993: 49))ものであるといえる。 10 Cf. Irwin (1979: 113). 11 Cf. 吉田 (1993: 45-46). 12 もちろん、 [議論 3] (あるいは[議論 2A])以降では、弁論術の知としての身分、そして 弁論家の知のあり方に対して疑いが向けられ、吟味がなされることになる。しかし、少な くとも[議論 1]では、弁論術を何らかの知と想定したうえで議論がなされているとみるの 13.

(17) このようにして、弁論家が正不正についての知をもつものとして期待されるとすれば、 正不正について言論(説得)をおこなう場合には、正不正の知が弁論家の有する説得力 に何らかのかたちで関与し、それを支えている可能性が考えられるかもしれない(また、 そう期待するのが自然かもしれない)。それでは、弁論家が正不正以外の事柄について 説得的であるというケースだと、どうだろうか。 こうしたケースとして、たとえば「患者が医者による治療(切ること、焼くこと、投 薬など)に従おうとしないとき、医者たちが患者を説得できないでいるところを、弁論 家(ゴルギアス)が説得した」というケース(456b1-5:以下、これを〈患者の説得の 例〉とする)や、「医者と弁論家が、両者のどちらが公務のための医者になるべきか、 言論で競い合った場合に、弁論家のほうが選ばれる」というケース(456b6-c2:以下、 これを〈医者の選出の例〉とする)が考えられる。これらのケースは[議論 2A]でゴ ルギアスが例に挙げたものであり、こうしたケースでの言論のあり方が[議論 3]で吟 味されることになるが13、これらのケースにおいて弁論家が語るのは、正不正について ではなく「健康的なことについて」 (459a2)である。しかしながら、健康的なことにつ いての言論は、本来医術の知がなしうるものであり、正不正の知が関与するものではな いはずである14。したがって、この場合に弁論家が説得力をもつ理由を正不正の知に求 めるのは不自然であるといえよう。 しかし、そうだとすれば、弁論家が正不正以外の事柄について説得力をもつというこ とには、正不正の知とは別の何かがかかわっているのではないか、そして、その何かが 弁論家の説得力を支えているのではないか――このように考える可能性がでてくるだ ろう。 このように、弁論家が正不正以外の事柄について――それも、その事柄についての技. が自然だろう。 13 [議論 3]の吟味は、 〈患者の説得の例〉とも無関係ではないにせよ、特に〈医者の選出 の例〉のほうに対応するものと思われる。 [議論 3]の序盤において、 「じっさい、あなたは ちょうど今、健康的なことについて、弁論家のほうが医者よりも説得力があるだろうとい うことを言われていました」 (459a1-3)とソクラテスが述べると、ゴルギアスはこの発言に 対して「じつに、そう言ったのだ、人の集まり(群衆 ὄχλος)においては、とね」(459a3) と答えている。こうして、 [議論 3]は、 「群衆が相手である場合に、弁論家が医者より説得 力をもつ」という事態を分析するものとなっている。このように、おもに群衆を相手にし た言論が問題とされていることからすれば、個々の患者を相手に説得する(この点につい ては、456b3 の「患者たちのうちのある人」という言葉を参照)という〈患者の説得の例〉 よりも、民会その他何らかの集会(cf. 456b7-8)での説得である〈医者の選出の例〉のほう が、 [議論 3]での吟味により直接的に関係するものといえるだろう。 14 [議論 1]では技術との類比から弁論術の対象とする事柄が特定されているが、この議論 には、1 つの技術にはそれに対応する 1 つの事柄(主題)があり、技術とその対象は一対一 対応となる、という前提があるといえる。弁論術が正不正にかかわる知と想定されるのも、 この前提に即してのことである。技術についてのこのような考え方については、Kahn (1983: 77-79) を参照。 14.

(18) 術をもった専門家(もっとも技術の心得ある人 τὸν τεχνικώτατον 455b5)以上に――説 得力をもつという事態は、弁論術には弁論家に説得力をもたせる何らかの特質が、正不 正の知とは別にそなわっているのではないか、と予感させるものといえる。弁論家が語 り、説得力をもつその現場を吟味する[議論 3]において、正不正についての言論では なく、正不正以外の事柄にかかわる事例があえてとりあげられたのは、弁論術のこうし た何らかの特質を、正不正の知に訴えることができない場面から抽出するというソクラ テス(あるいは著者プラトン)の意図によるものと思われる。 第3節 弁論家の言論と善 そ れでは、 弁論術がもつ 説得力 の 特質とは、い かなるも のなのか。[議 論 3 ] (458e3-459c5)をみてみよう。ここではまず、ゴルギアスは弁論術の教師として、弁 論家志望者を弁論家にすることができること、こうして弁論家となった者は群衆(人の 集まり)を相手に説得力をもつものとなるが、ただしそれは教えることによってではな く説得することによってである、という[議論 1]の論点が再度確認される(458e5-459a1) 。 そのうえで、「健康的なことについて、群衆(人の集まり)においては、医者よりも弁 論家のほうが説得力がある」という事態(459a1-3)について吟味がくわえられる。 この吟味の特徴として重要なのは、弁論家、医者、群衆のそれぞれが、知の有無とい う観点から捉え直されている点である。それは次のように論じられている。まず、健康 的なことについて知っている人々を相手にして、弁論家が医者よりも説得力をもつこと はありえないはずである。そこで、弁論家によって説得される群衆は〈知っていない 人々〉 (τοῖς μὴ εἰδόσιν 459a4)と言い換えられる。そして、医者は健康的なことについて 知っているはずであるから、医者は〈知っている人〉(τοῦ εἰδότος 459a7)と言い換えら れる。これに対して、弁論家は医者が知っている当の事柄について心得がないのだから、 〈知っていない人〉 (ὁ οὐκ εἰδὼς 459b3)と言い換えられる。こうして、問題の事態は「 〈知 っていない人々〉のなかでは、〈知っている人〉よりも〈知っていない人〉のほうが説 得力がある」というかたちで捉え直されるのである(459b3-5)。そして、弁論家および 弁論術は他のどんな技術と競合する場合でもこのようなあり方をとるとされ(459b6-7) 、 弁論術は次のようなものであると結論づけられる。 [引用 2:459b7-c2] それ〔弁論術〕は諸々の事柄そのものがどのようであるか知っている必要はないの であって、必要なのは、知っていない人々には、知っている人々よりもよく知って いるようにみえる(φαίνεσθαι)ようにするという、説得についてのある種の工夫 (μηχανή)を発見しておくことなのです。. 15.

(19) ここで重要なのは、 〔T1〕弁論術あるいは弁論家が、ある事柄について知っていない人々にとっては、 その事柄について知っている人々よりもよく知っているようにみえる という事態である。こうした事態をつくりだす「説得についてのある種の工夫」こそ、 弁論家に説得力をもたらす、弁論術の特質であるといえるだろう15。この事態〔T1〕は、 弁論家が正不正の知とは別の知(医術にかかわる、健康的なことについての知)にかん する言論をおこなう場面から引き出されたものである。したがって、〔T1〕の事態をつ くりだす工夫こそ、弁論家のもつ説得力を、弁論家に期待される知(正不正の知)とは 別の次元から説明するものであるといえる。 それでは、〔T1〕の事態は、より具体的にはいかなるものであるといえるだろうか。 〔T1〕がどのようなことを含意するものか、検討してみよう。 3‐1 善いものにかかわる知 〔T1〕の意味を考えるためにはまず、ここでいう「知っている」ということが、どの ような意味での知であるのかを確認する必要がある。 いまの議論で弁論家が〈知っていない人〉とされているのは、「医者が知をもつ(心 得がある)(ἐπιστήμων)ことについて知をもたない(心得がない)(ἀνεπιστήμων)」 (459b2-3)ためである。このとき、医者は「健康的なことについて」(459a2)知をも つのだといえるが、これは具体的にどのようなことを意味するのか。それまでの議論を 参照すると、医者あるいは医術について、次のような特徴をあげることができる。 a:医術(医者)がつくりだす成果(ἔργον)…医者は健康をつくりだす(452a3-b1) 。 b:医術(医者)の言論(λόγοι)…医術は患者に対し、どのように養生すれば健康 になるかを明らかにする言論にかかわる(cf. 449e1-2) 。 ここで重要なのは、a が「技術が善いものをつくりだす」という点にかかわる議論 (451d-452d)のなかで言われているということである。じっさい、その議論ではまず、 弁論術の言論がかかわるのは「人間にかかわる事柄のうち、最大にして最善のもの」 15. 引用 2(459b7-c2)のソクラテスの発言について、ゴルギアスは「他の技術を学ばずとも それ〔弁論術〕ひとつを学べば、諸々のつくり手(専門家)に劣らない」 (459c4-5)のだと して、肯定的に捉えている。ここから、Stauffer (2006: 34) とともに、 〔T1〕の事態をつくり だす工夫こそ弁論術の特質であるということを、ゴルギアス自身の本当の見解とみなすこ とが可能と思われる。同様に、ゴルギアス自身が弁論術による説得と知とのつながりを否 定していると捉える解釈として、McCoy (2008: 89-91) を参照。 16.

(20) (451d7-8)であるとゴルギアスが述べる。すると、この発言に対してソクラテスが、 医者や体育教師、実業家はそれぞれ自身のつくりだす成果を最大の善いものと主張する だろうと応じている(452a1-c6)。a は、この議論のなかで述べられたものである。とこ ろで、この議論では、医術や体育術などは、それぞれが「善いものをつくりだすもの」 として提示されている。その意味で、これらの技術は「善いものにかかわる知」として 提示されているとみることができる16。この点をふまえると、a と b を次のように言い 換えることができるだろう。 A:医術(医者)がつくりだす成果…医術は健康という〈善いもの〉をつくりだす。 B:医術(医者)の言論…医術は患者に対し、どのように養生すれば健康という〈善 いもの〉がもたらされるかを明らかにする言論にかかわる。 このように考えるなら、医者が知をもつということは、A、B についての知をもつとい うことを意味するものといえる。そうだとすれば逆に、知をもたないものとされる弁論 家は、A、B の知を欠いたものであるということになる。 このように、〔T1〕における「知っている」ということがこの A、B の意味での知に あたるとすれば、 〔T1〕を次のように捉え直すことができるだろう。 〔T2〕A( 〈善いもの〉をつくりだすこと)と B(〈善いもの〉をつくりだすことに かかわる言論)の知をもたない人(弁論家)が、知っていない人々(群衆)にと っては、A と B の知をもつ人々(技術者)よりも、それ以上に A と B の知をも つもののようにみえる。 3‐2 群衆にとって善いもの ところで、いま問題となっている知が「善いものにかかわる知」であるとすれば、こ 16. この議論で例示される健康や身体の美しさ(体育術がつくりだすもの)などは、ここで 宴会で歌われる歌のなかで善いものとされているものとしてとりあげられている(451e1-5) 。 この点で、これらは一般に善いとされるものにあたり、ソクラテス・プラトンが積極的に 主張するような真の善(魂の善さといった)とは異なる。とはいえ、ともかくこれらが目 下の議論のなかでは善いものとして提示されているということに間違いはないだろう。 したがって、Roochnik (1996: 185) のように、魂の善さだけを「価値を付与されたもの (value-laden) 」ととり、健康のような身体の善い状態を「価値中立的なもの(value-neutral) 」 とみなすのは、文脈に照らすかぎり適切とはいえない。Roochnik のこのような見解に対し て、Teloh (2007: 71-74) は技術がかかわる目的を善いものと捉える点から反論している。ま た同様に、技術の所産の〈善いもの〉としての側面を重視する解釈として、出村 (1987: 4) を 参照。なお、Teloh に対する Roochnik の再反論(Roochnik (2007: 79-80))は、あくまで知(知 識) (knowledge)と目的とを区別し、そのうえで技術における epistemic な側面(つまり、 目的が含む善さとは別の意味での、知識の側面)を強調する点に問題があると思われる。 17.

(21) の〈善いもの〉は誰にとって善いものなのか。そこで、聴衆である群衆と弁論家の関係 について考えてみたい。そもそも、医者がつくりだす健康が善いものであるという場合、 それは言うまでもなく患者にとって善いものである。また、〈医者の選出の例〉の場合 であれば、医者がつくりだす善いものは、個々の患者にとどまらず、ポリスにとって(公 共にとって)善いものであるということができる。したがって、それは当然、公務のた めの医者を選考する民会に集まる群衆にとって善いものであると考えられる。だとすれ ば、〔T2〕はさらに次のように理解されることになろう。 〔T3〕A と B の知をもたない人(弁論家)が、知っていない人々(群衆)にとっ ては、A と B の知をもつ人々(技術者)よりもそれ以上に、知っていない人々(群 衆)にとっての〈善いもの〉にかかわる A と B の知をもつもののようにみえる。 3‐3 善いものについての偽なる信念 〈医者の選出の例〉のように群衆にとっての善いものが問題となる場合に、〔T3〕の ように「弁論家が、群衆からみて、ある特定の事柄について、その事柄にかかわる技術 者以上に、群衆にとって善いものをもたらす知をもつもののようにみえる」とすれば、 それはいかなる事態であるといえるだろうか。 ここで、いまの議論の最初に、弁論家が説得力をもつのは「教えることによってでは なく説得することによって」 (458e7-459a1)であるという確認がなされていたことに注 意したい。ここでいう「教えるのではなく、説得する」ことは、本章2‐1でみたよう に、知をもたらすことなく、真でも偽でもありうる信念をもたらすということにあたる といえる。だとすれば、本章2‐1で確認した〈偽なる信念〉の問題が、ここで重要な 意味をもつ。じっさい、 〔T3〕のような事態において、弁論家が群衆にもたらす信念は いかなるものなのか。健康という善いものをつくりだすこと(A)についての知と、そ れにかかわる言論(B)についての知をもつのは医者であり、弁論家はこれらの知をも たない。にもかかわらず、弁論家のほうが知をもつ人(医者)以上に知をもつもののよ うにみえるとすれば、この場合に弁論家が聴衆である群衆にもたらしているのは〈偽な る信念〉であることになるだろう17。だとすれば、〔T3〕はさらに次のことを含意する ものと考えることができる。 17. 〈医者の選出の例〉は、医術の知をもたない弁論家が医者を差し置いて公務のための医 者として選ばれるというのだから、明らかに偽なる信念をもたらす事例といえる。しかし、 〈患者の説得の例〉の場合、弁論家が患者にもたらすのは、医者が指示する処方に従うよ うにさせる信念と考えられる。したがってこの場合、患者にもたらされる信念は偽なるも のではなく、むしろ真なるものといえるかもしれない。なお、このようにみた場合、Weiss (2003) のように、 〈患者の説得の例〉を、技術をもつもの(医者)と弁論家とが協力しあう 事例と捉え、そこに哲学と弁論術の理想的な関係のモデルを見出すことも可能かもしれな い。Weiss と同様の指摘として、Fussi (2000: 54-55) を参照。 18.

(22) 〔T4〕 〈善いもの〉にかかわる A と B の知をもたない人(弁論家)が、知っていな い人々(群衆)に、A と B についての〈偽なる信念〉をもたらす。 以上をまとめると、〔T1〕は次のことを含意するものと捉えることができる。まず、 〔T1〕のような事態をつくりだす「工夫」こそ、弁論家が発揮する説得力を支える弁論 術の特質である。ところで、 〔T1〕は、[議論 1] (453b5-455a7)で論じられた「弁論家 が聴衆に信念をもたらす」という事態に対応するものである。この点をふまえると、弁 論術は次のようなものとして捉えられることになる。すなわち、それは(1)聴衆に、 個々の事柄における善いものについての信念をもたらす。しかしこのとき、 (2)弁論家 は善いものについての知をもたない。したがって弁論術は、主として(3)善いものに ついての偽なる信念をもたらすものである。 こうして、弁論術と善のかかわりが明らかになる。すなわち、弁論術はこのように、 善いものについての信念(特に、偽なる信念)をつくりだすというかたちで、つねに善 いものに関与する、ということである。そもそも〔T1〕は、弁論家が諸々の技術の心得 をもつ人々と、その技術が対象とする事柄について言論で競い合う(λόγῳ διαγωνίζεσθαι 456b7; ἀγωνίζοιτο 456c3)という事態について述べたものである。そして、それぞれの技 術がかかわる対象はいずれも善いものとして捉えられうるものである18。だとすれば、 弁論術の言論が以上のようなかたちで〈善いもの〉あるいは〈善さ〉に関与するのは、 弁論術の機能上、必然のことと捉えることができるのである。 第4節 正不正、善悪、美醜の連関 以上をふまえ、本章の最初の問いについて考えたい。最初にみた 459c8-e1 のソクラ テスの発言(引用 1)を、再度確認しておこう。 [引用 1:459c8-e1] 弁論術の心得のある人は、正と不正、美と醜、善と悪について、健康的なことにか かわるとか、その他諸技術が対象とするものにかかわるのと同じようにかかわるの ですか。つまりその人は、何が善であり何が悪であるか、何が美であり何が醜であ 18. 452a1-c6 において医者、体育教師等が「最大の善いものをつくりだす」事例としてあげ られていることについては本章3‐1で述べたが、 [議論 2A] (455a8-456c7, 457a5-b1)にお いて弁論術の力が及ぶとされた一連の事例(公務のための医者、船大工等の選出/城壁、 港湾、船渠等の建設/指揮官の任命、軍隊の配置、陣地の占領など)がいずれも公共の事 柄であることにも注意すべきである(この点を強調する解釈として Levy (2005: 195) を参 照) 。これらはいずれも公共の事柄であるかぎり、その審議において念頭に置かれるのは公 共にとっての善いことであろう。その意味で、それぞれの事例に対する専門の技術者は〈善 いもの〉をつくりだすものとして理解されうるものと思われる。 19.

(23) るか、何が正であり何が不正であるか、それらの事柄そのもののことを知っていな いのだが、それらについて説得を工夫している(μηχανᾶσθαι)から、知っていなく ても、知っていない人々のなかでは、知っている人よりも、より知っていると思わ れる(δοκεῖν)ようにするのでしょうか。 本章の当初の問いは、 (1)引用箇所でソクラテスが正不正、善悪、美醜という三対の 語を提起し、それらについての弁論家の知のあり方を問うているのはなぜか、 (2)また そもそもソクラテスは正不正、善悪、美醜についての知として、どのようなことを求め ているのか、というものだった。 (1)第一の問いについては、次のように考えることができる。前節でみたように、弁 論術は善いものについての信念をつくりだすというかたちで、善への関与をその機能上 必然的に含意している。そうだとすれば、正不正とともに善悪、さらに美醜の知につい て問うというソクラテスの問いかけは、弁論術のこうした機能の分析から必然的に引き 出されたものだと考えることができるだろう19。 また、このように考えるなら、ソクラテスがまさに問うているように、正不正、善悪、 美醜に対する弁論家のかかわり方が、弁論家が他の技術の対象にかかわる仕方と同じな のではないかと疑われるのは、自然なことといえよう。というのも、前節でみた〔T1〕 (弁論術あるいは弁論家が、ある事柄について知っていない人々にとっては、その事柄 について知っている人々よりもよく知っているようにみえるという事態)は、ただ弁論 術の善への関与を含意するだけではなく、その言論の対象となる善いものについての弁 論家自身の無知を含意しているからである(前節〔T2〕 〔T3〕 〔T4〕のように)。このよ うに、弁論家の語る言論が、無知でありながら説得力をもつというかたちで、もともと 善についての無知を含意するものであるとすれば20、弁論家の知に対する疑いは、弁論 19. 本章はここまで、弁論術による言論と善のかかわりを考察するなかで、美醜については ふれてこなかった。しかし、吉田 (1993: 58)、出村 (1987: 4-5) の指摘にもあるように、弁 論術が他の技術と言論で競い合うとき、弁論家による説得の言論には善や正という言葉と もに、美という言葉もまた、何らかのかたちで含まれていると推察することができる。 この点に関連して、448c4-9 のポロスの発言に注目したい。この箇所で、ゴルギアスはい かなる技術の心得があるのかという問いに対して、ポロスは「最も善い(すぐれた)もの 〔技術〕にあずかるのは最も善い(すぐれた)人々であるが、このゴルギアスもまたそれ らの人々のうちの一人であり、諸々の技術のうちで最も美しい(立派な)ものにあずかっ ているのだ」と述べており、この発言はソクラテスによって「弁論術と呼ばれるもの」 (448d9)と評されている。ポロスのこの発言が「善い(ἀγαθόν) 」「美しい(καλόν) 」とい う言葉でほめる(ἐγκωμιάζεις 448e3)というかたちをとっていることは、弁論術が善、美と いう価値をあらわす言葉に関与するものであることを示唆するものと思われる。 20 本章註 15 で述べたように、 「弁論家が、語ることについて知っていないのに、知ってい るようにみえる」という事態をつくりだす工夫こそ弁論術の特質であるということを、ゴ ルギアス自身の本当の見解(本音)とみなすことが可能である。そうだとすれば、弁論家 は本質的に自身が語ることについて無知であるということを含意しうるものだということ 20.

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