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北方領土問題を歴史的に考える

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1 『朝日新聞』、2018年11月15日。

はじめに

日露平和条約締結のための交渉が2018年11月14日にシンガポールでおこなわれ、安倍首相

(当時)は北方領土問題についてロシアにたいし従来の4島返還要求から2島返還への政策変更 をしたといわれる1。政府は1956年の「日ソ共同宣言」を基礎に平和条約交渉を加速させること で合意したことを明らかにしつつ、2島返還要求に舵をきったかどうかについて明言していな いが、たとえそうだとしても2島返還要求の具体的中身やその根拠については、現在進行中の 出来事であるため明らかになっていない。2島返還への政策変更について野党やメディアによ る批判が高まっているが、本論で述べるように2島返還による領土問題の解決という主張は新 しいものではなく、日本政府を含め一部では従来から提案されてきたものである。しかし政府、

国政政党のほとんどすべて、そしておおかたの主要メディア各社が揃って4島返還要求を正当 なものと主張してきたため、2島返還論は必ずしも注目されてこなかった。また、4島返還を 正当なものと主張する立場からみると2島返還は譲歩であり、ことが領土にかかわることであ るから理性的議論は感情的な激しい批判を招きかねないものとなっている。

北方領土問題の解決や日露平和条約締結のためには政治、経済、法律、外交、軍事、文化な ど様々な要素を総合的に理解し、整理することが必要であるが、国家間の課題であるため、最 終的には政治的決着により解決されるものである。しかしそこに至るための議論や主張の主要 な根拠のひとつが歴史的視点であることはいうまでもない。北方領土問題についてはさまざま な視点からおこなわれた数多くの研究が存在する。しかし質的な観点からすると玉石混交であ り、また、バランスのとれた主張や論考は数少ない。重要なのは数多くの論考や研究のなかで 確かな根拠のもとで主張をおこなっているものを見分けることであるとさえいえる。そこで本 稿は北方領土問題に関する日本政府の公式見解を示している『われらの北方領土』における「日 ソ共同宣言」までに関する主張を、諸資料や質の高い研究とつきあわせてそれぞれの根拠を点 検する作業を通じて、いままでの北方領土問題をめぐる歴史的経過を示すとともに、現在にお ける北方領土問題解決のための歴史的根拠を提示することを目的とする。この作業により2島 返還論が歴史的観点からみてどれほど正当な主張であるか(ないか)があきらかになるとともに

吉 田   浩

北方領土問題を歴史的に考える

─安倍元首相による政策変更をめぐって─

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2 たとえば日露外相会談(2019年1月14日)後の発言。『朝日新聞』、2019年1月15日。これにたいし宇山智彦は

「ロシアの主張を今認めることは、ある意味でソ連・ロシアに対して2度負けることになる。それは、やって はいけないことだと考えます」と述べている。『朝日新聞』、2019年1月24日。

3 『朝日新聞』、2020年7月25日。ただし国境の再確定は例外とのただし書きがある。

4 『朝日新聞』、2021年2月16日。

5 『朝日新聞』、2019年1月24日。

6 『朝日新聞』、2021年7月15日。

7 鈴木美勝『北方領土交渉』ちくま新書(2020)、229頁。

8 鈴木(2020)、220、263頁。

9 松本俊一『日ソ国交回復秘録』朝日新聞出版(2012)、175-176頁。

「日本側が第二次世界大戦の結果を認めることが(平和条約交渉の)第一歩だ」、つまり北方領土 は大戦の結果ロシアの主権下に移ったというラヴロフ外相が繰り返しおこなっている主張2が 何を意味するかを理解することができるからである。

ロシアで2020年7月4日に公布された改正憲法は「領土の割譲禁止」を明記し、7月24日には

「領土の一体性の侵害」につながる行為を違法な「過激行為」として処罰対象とする連邦法改正案 が可決された3。プーチン大統領は2021年2月14日に放映されたインタヴューで新憲法に触れ、

「日本との関係は発展させたいが、憲法に反することは何もしない」と述べた4。これら最近の ロシアの動きは今後の日露平和条約交渉や北方領土の返還に何を意味するのだろうか。過去の 交渉過程を分析すると、ロシアには一貫した主張がある一方、日本は初期交渉の過程でロシア

(ソ連)の譲歩にたいし要求を引き上げたり、千島列島の範囲について根拠なく考えを変更した ことが北方領土問題の解決を難しくしてきたと筆者は考えている。

安倍元首相による政策転換はごく近年の出来事であるため、その意義についての学術的検討 はまだおこなわれていない。報道レヴェルでの専門家の発言としては、在モスクワ日本大使館 公使をつとめた河東哲夫5と領土問題研究の第一人者である岩下明裕が奇しくも同じ「一人相 撲」という言葉を使い否定的な評価をしている。岩下は、安倍外交が外務省ロシアスクールを 交渉ラインから外し「外交素人の経済産業省出身の官邸官僚が自分達の都合のよい方向に(ロシ アの意図を)解釈し動かしていった」二重構造に失敗の原因があると断じている6。ジャーナリ ストによる評価としては対露外交を担当した歴代外務省官僚の個性に注目して分析した鈴木美 勝がほぼ同じ見方を示している7。しかし安倍対露外交の一時期にロシア大使や日露関係担当 政府代表となった「ロシアスクールの切り札」である原田親仁が4島原則派であった8ことから わかるように、ロシアスクールが交渉ラインにいるがゆえに交渉が停滞した可能性も考えられ る。逆に、日ソ国交回復交渉の際に外交の素人であった河野一郎農林大臣がソ連首脳とわたり あって外交のプロである松本俊一全権代表を感嘆させた事例もある9ので、安倍元首相の手法 が誤りであったとは一概に言えないのではないか。以下、先行研究に依拠しながら日本政府に よる領土に関する主張とその妥当性を日ソ国交回復交渉までの時期について時代ごとに分析し ていきたい。

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10 以前は冊子体で発行されていたが、現在は外務省のサイトで全文を読むことができる。https://www.mofa.

go.jp/mofaj/files/000035437.pdf (2021年10月7日閲覧)。本パンフレットは年1度の発行で、本編と資料編か ら成る。以前の発行主体が外務省国内広報課であったことからもわかるように、日本政府の北方領土に関す る主張を日本国民向けに説明することを目的としている。

11 『われらの北方領土』、4-5頁。

12 『われらの北方領土』、6頁。

1 戦前期

過去60年あまりの間、日本政府は4島返還を主張してきた。現在、その主張と根拠が最も明 確に示されているのは外務省発行の『われらの北方領土2020年版』である10。そのはじめの部分 に政府の基本的立場が書かれている。「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島から成る北方四 島は、我が国民が父祖伝来の地として受け継いできたもので、いまだかつて一度も外国の領土 となったことがない我が国固有の領土です。」4島の日本への帰属を求めるが、その返還の方法 については「スターリンにより強制退去させられ」た日本人元島民の悲劇が現在島に住んでいる ロシア人に繰り返されない解決方法をロシア政府と共に講じていく。領土問題は国家の主権に かかわる基本的な問題であり、北方四島が当然日本に帰属すべき領土であることにつき国民一 人ひとりに正しい認識を深めてもらうことが必要である11

4島の日本への帰属を求める根拠はいくつかの時期区分ごとに挙げられている。第二次世界 大戦までの時期については、17世紀初頭より松前藩が北方四島を自藩領と認識していたこと、

ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことが一度もなかったこと、1855年に日露間の 初めての条約である日露通好条約でウルップ島と択捉島の間に国境がひかれ、当時のロシア皇 帝ニコライ一世も同じ考えであったことなどを挙げ、平和的・友好的な形での合意であったこ とが指摘されている12

以上の点については日露両国で概ね承認されていることであるが、先占はこの問題において 領土領有の権源として論点になっておらず、どちらが先に発見し、実効支配したかは純粋に歴 史研究における事実確定問題以上の意味はない。日露通好条約で定められた国境線は確かに平 和的・友好的に合意されたものであるが、新しい条約が結ばれた場合には古い条約での国境線 は無効となる。したがって1855年の条約の際の国境が択捉島とウルップ島の間であったこと をもってその国境に戻りたいという議論は感情に訴えかけるものに過ぎず、法的な意味をもた ない。つまり『われらの北方領土』における以上の説明は北方四島が「いまだかつて一度も外国 の領土となったことがない」ことを示すことを目的としており、これをもって固有の領土であ ると主張するための根拠としている。しかし、そもそも国際法に固有の領土という考え方は存 在しないため、日本国民にたいし北方四島が日本領であると印象づけることはできても、国際 的には通用しない議論である。

1875年に結ばれた通称「樺太千島交換条約」に関する説明にも問題がある。「我が国は千島列 島をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄することに決定し・・・(同 条約はー筆者)日本がロシアから譲り受ける島としてシュムシュ島からウルップ島までの十八

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13 『われらの北方領土』、6-7頁。

14 『われらの北方領土』、10-11頁。

15 例えば伊藤憲一による理解。『諸君』1987年2月号、30-31頁。参照、和田春樹『北方領土問題を考える』岩波書 店(1990)、29-30頁。

16 千島列島とはこの時譲渡された18島であるという日本政府の現在の主張は条約交渉全権代表の榎本武揚名に よる日本語訳を根拠としているが、榎本訳は原文を一字一句翻訳したものではなく、半ば誤訳である。村山、

和田の主張は条約正文であるフランス語に基づくものである。村山七郎『クリル諸島の文献学的研究』三一 書房(1987)、143-146頁。和田(1990)、48-68頁。問題となるのは“le groupe des îles dites Kouriles qu’Elle possède actuellement”というフレーズ(ロシアが現在所有するクリルと呼ばれる島々のグループ)である。村 山、和田の解釈について木村汎が反論し、「ロシアが現在所有している」という語が「クリルと呼ばれる島々」

ではなく、「グループ」にかかっているという解釈の可能性を指摘しているが苦しい反論であり、長谷川毅は Kourilesとqu(e)の間にコンマが入っていないことからそれは成り立たないと明確に否定している。木村汎

『日露国境交渉史』中公新書(1993)、64-66頁。長谷川毅『北方領土問題と日露関係』筑摩書房(2000)、22-23頁。

17 『われらの北方領土』、9頁。

の島々の名を列挙しています。これらの事実は・・・当時既にこれらの島々(北方四島─筆者)が、

ロシアから譲り受けた千島列島(The Kurile Islands)とは明確に区別されていたことを物語っ ています13。」北方四島とシュムシュ島からウルップ島までの18島が明確に区別されることは地 理的、歴史的に説得力のある説明である一方、この記述によると千島列島とは1875年の条約 で日本が譲り受けたシュムシュ島からウルップ島までの18島であると読み取れるが、これは 誤解をまねく表現である。この記述はのちに説明される1951年のサンフランシスコ平和条約 で日本が放棄した千島列島に北方四島が含まれないとの主張14の伏線にするためのものである と推察される。このような理解は、フランス語のみが正文である「樺太千島交換条約」の原文を 読まず、榎本武揚が「謹訳」した誤りのある日本語文のみを読んでいた冷戦期の外務省関係者に よる勉強不足から生じた15。しかし村山七郎や和田春樹の研究が明らかにしたように、1875年 の条約で日本に譲渡されたのは、千島列島のうちロシアが所有していた18島であり、千島列 島全体ではない16。千島列島のうち1855年条約で日本領となった択捉、国後島(南千島)に加え て、1875年条約で新たに日本領となったシュムシュ島からウルップ島(北千島)を合わせて、全 千島列島になったというのが正しい。

第二次世界大戦期の出来事に関わる四島返還論の根拠として領土不拡大原則(大西洋憲章)

や、カイロ宣言における「暴力及び貪欲により略取した地域の放棄」に北方四島が該当しないこ とを挙げているのは妥当な主張である。議論となりうるのはポツダム宣言の解釈である。ポツ ダム宣言第8項には「日本国の主権は本州、北海道、九州、及び四国並びにわれらの決定する 諸小島に限られなければならない」とある。これに関連して『われらの北方領土』は「戦争の結果 としての領土の最終的処理は平和条約によって初めて行われるものであり、その意味で、ポツ ダム宣言のこの規定は、平和条約と別に、それだけで領土処理について法的効果を持ち得るも のではありません」「同宣言は、われらの決定する諸小島とのべているにすぎず、この内容を 具体的にはっきりさせたものではありません。また、これがカイロ宣言の領土不拡大の原則に 反するような方針を述べたものとも解釈できません」と記述している17。ではサンフランシス

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18 『われらの北方領土』、11頁。

19 和田春樹『北方領土問題』朝日選書(1999)、85頁。1884年には色丹島も「根室国」から「千島国」に編入された。

同書、93頁。

20 『われらの北方領土』、11頁。

コ平和条約はどのような内容であろうか。

2 サンフランシスコ平和条約期

サンフランシスコ平和条約第2条(C)により日本は千島列島とポーツマス条約で得た樺太の 一部を放棄した。そしてこれらの地域がどこに帰属するかについて同条約は、何も定めていな い。また、放棄した千島列島の地理的範囲についても定められていない。放棄した範囲がどこ であるかについて考える際に『われらの北方領土』は次の点を考慮すべきだと述べている。すな わち、条約草案起草段階で日本はアメリカに「歯舞群島、色丹島は北海道の一部であり、また、

国後島、択捉島は千島列島とは違って一度も外国の領土となったことがないこと」を示す資料 を提出し、サンフランシスコ会議で吉田茂全権が「歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成 するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本の領土だった事実について会議 参加者の注意を喚起し」たことである。この論拠により「平和条約にいう『千島列島』には、日本 固有の領土である歯舞群島、色丹島及び国後、択捉両島は含まれないとの解釈は、我が国を拘 束するいかなる国際合意とも矛盾し」ないと主張している18

きわめて巧妙に書かれているが、国後、択捉両島に関する部分に日本国民の理解をミスリー ドする記述がみられる。つまり両島が当時の日本で「千島国」という行政区分に属していたこと や19、吉田茂がサンフランシスコ会議で両島のことを「南千島」と呼んだことを隠し、一度も外 国の領土となったことのない固有の領土という国際法上通用しない根拠のみで千島列島ではな いと主張しているのである。率直に言えば、国後、択捉両島は千島列島の一部である一方、歯 舞、色丹は北海道の一部であったという当時の日本政府の認識を隠している。そもそもこの時 点で、歯舞、色丹、国後、択捉を一つのまとまりとして考えられることはなく、「北方領土」と 呼ばれることもなかった。『われらの北方領土』ではさらに、「日本政府も国会審議などで、国後、

択捉両島は日本固有の領土であって、サンフランシスコ平和条約で放棄した『千島列島』には含 まれないという見解を繰り返し明らかにしています」と書かれているが20、以下にみるように日 本政府は国会で、国後、択捉両島が千島列島に含まれることを根拠とともに繰り返し説明した のち、根拠を示さず解釈を変更し、両島が千島列島に含まれないことを繰り返し説明するよう になったのである。一連の記述は現在の日本政府の主張にとって都合の良い部分のみ述べ、都 合の悪い事実を隠していると言わざるをえない。

サンフランシスコ条約でいう千島列島とはどの範囲を示すのか、歴史的資料や研究に基づい てみてみよう。先に言及した条約起草段階で日本政府がアメリカに提出した資料とは外務省の 条約局と政務局を中心として設置された平和問題研究幹事会が作成したものである。1946年 11月提出の調書「千島、歯舞、色丹」は本来収録されるべき外務省文書「対日平和条約関係準備

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21 和田(1990)、100-102頁。

22 和田(1999)、193頁。

23 原貴美恵「北方領土問題とサンフランシスコ体制」五百旗頭真他編『日露関係史』東京大学出版会(2015)、632頁。

24 和田(1999)、195-197、201頁。

25 和田(1990)、111頁。塚本孝「北方領土問題の経緯 【第4版】」『調査と情報』第697号(2011)、3頁。

26 和田(1999)、212頁。

27 原(2015)、628頁。

研究関係」第1巻から削除され公刊されていないが、和田春樹は既に1990年の段階で国後、択 捉が「南千島」として説明されていると推測した21。この推測は原貴美恵がオーストラリアの国 立文書館で発見した史料により裏付けられた22。原によれば、当時の日本政府の現実的目標は、

2島返還であった23。アメリカ側が作成した最初の平和条約草案(1947年3月)では、日本が千島 列島(Kuril Islands)をソ連に割譲することが盛り込まれた。しかしその後アメリカとソ連の冷 戦が激化するについて方針は揺れたが、割譲する範囲は1875年の条約でロシアが日本に譲渡し た部分(シュムシュ島からウルップ島まで)にすべき、つまり4島は日本に与えるべきであると いう議論がアメリカ国務省で1949年まで有力となった。ただし注意しなければならないのは和 田が示すように国後、択捉が千島列島の一部ではないという議論にはならなかった点である24。 したがってヤルタ協定で約束した千島列島はソ連に割譲されるべきであると一貫して考えて いたイギリスが議論に加わると、4島を日本に保持させるという案は却下される。他方で、詳細 な分析に基づき歯舞ないし歯舞および色丹が千島列島に含まれないという認識があらわれた25。 そうしたなか1951年5月3日に米英共同草案がだされ、第4条で日本が千島、南樺太をソ連に 割譲すると規定された。同案をうけてニュージーランドやフランスが「現在ロシアの占領下に ある歯舞群島と色丹島が日本のものとして残ることを明らかにしうる」ように日本の領土を緯 度、経度ではっきり確定すべきだと述べたのにたいし、アメリカは「まさにソ連が占領中であ るが故に、歯舞群島、色丹島の日本返還を特別に規定しないのがより現実的だ」とコメントし た26。日米安全保障条約を結ぶことが予定されている一方、ソ連はサンフランシスコ平和条約 を締結しなくてもこれらの島を手放さないであろうから、歯舞と色丹を日本領であると明示す れば米ソ間にトラブルがおこることが予想されたからである。こうして千島列島の範囲は故意 に曖昧にされた。さらに6月14日の修正案では日本による南樺太、千島列島の放棄のみが条約 に記され、その帰属先は書かれないことになった。もともとは台湾の帰属先「中国」が消された ために、それと整合性をとるためであったが、講和会議欠席が予想されるソ連に利益をあたえ ることはアメリカ上院での批准を難しくすることがその理由とされた27

当時の日本では、放棄した千島列島の範囲についてどのように認識していたであろうか。サ ンフランシスコ講和会議における吉田茂全権の演説が注目される。

「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗 議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝 政ロシアも何ら異議を挿さまなかったのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日

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28 デ ー タ ベ ー ス「 世 界 と 日 本」( 代 表: 田 中 昭 彦) https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/

JPUS/19510907.S1J.html (2021年10月7日閲覧)。

29 国後、択捉が千島列島に含まれないのではないかという請願が国会にもっとも早くだされたのは1947年10 月6日である。塚本(2011)、4頁。

30 国会会議録検索システム

https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=100703968X00719500308&page=1&spkNum=0&current=1

(2021年10月7日閲覧)。

露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南 部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたのであります。名は代 償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計ったのであります。その後樺太南部は1905 年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で日本領 となったのであります。

千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。

また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存 在したためにソ連軍に占領されたままであります。」28

既に記したように、『われらの北方領土』はこの演説で吉田が歯舞、色丹を日本本土の一部を 構成するものであり、国後、択捉が昔から日本の領土だった事実について会議参加者の注意を 喚起したと説明している。それは正しい。しかし演説で「千島南部の二島、択捉、国後両島」

「得ウルップ撫以北の北千島諸島」と表現していることを指摘していない。千島南部の二島ということは、

択捉、国後両島が千島であると認識していることを示している。またウルップ以北が北千島諸 島であるということは、その南に南千島諸島が存在することを示し、ウルップのすぐ南の島は 択捉島であり、さらに南が国後島であるから、この両島が南千島、つまり千島列島の一部であ ることを意味するからである。

さらに、国会での議論においても既に知られているように、サンフランシスコ平和条約で放 棄した千島列島に国後、択捉が含まれることが繰り返し言明されている。たとえば条約締結前 の1950年3月8日衆議院外務委員会において、浦口鉄男議員が日露通好条約(1855年)および樺太 千島交換条約(1875年)の日本語訳を根拠にウルップ島以北が千島列島ではないか29と質問したの にたいし、島津久大政務局長、西村熊雄条約局長との間に次のような議論があった。

島津「ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言っておる と考えるのです。ただ北海道と近接しておりますハボマイ、シコタンは島に含んでいないと考えます。」

浦口「そういたしますと、千島、樺太交換条約と非常に矛盾して来るのであります。いわゆるウルッ プ以北がクリル全島、こういう呼称でよばれているのであります。」

西村「交換条約で言う意味は、いわゆる日露間の国境以外の部分である千島のすべての島という意味で ございましょう。ですから、千島列島なるものが、その国境以北だけがいわゆる千島列島であって、そ れ以南の南千島というものが千島列島でないという反対解釈は生まれないかと思います。」30

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31 国会会議録検索システム

https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101205185X00419511019&current=1 (2021年10月7日閲覧)。

32 若宮啓文『ドキュメント 北方領土問題の内幕 クレムリン・東京・ワシントン』筑摩書房(2016)、91頁。

サンフランシスコ平和条約締結後のいわゆる批准国会において、1951年10月19日の衆議院 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会で高倉定助議員のクリル・アイランドとは一体どこ をさすのかという質問にたいし、西村条約局長は「条約にある千島列島の範囲については、北 千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまった くその立場が違うことは、すでに(吉田茂)全権がサンフランシスコ会議の演説において明らか にされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であ るということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。なお歯 舞と色丹島が千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました。」31と答弁してい る。つまり、国後、択捉は南千島であり、放棄した千島列島に含まれるということである。こ の発言は先の吉田茂の演説における認識や、連合国が検討した千島列島の地理的範囲に関する 認識と当然であるが完全に一致している。

3 日ソ国交回復交渉期

サンフランシスコ講和会議にソ連は参加したが中国への連帯をあらわすために条約に調印し なかったため、日ソ間には無条約状態が継続した。シベリア抑留、漁業、国連加盟などの懸案 を解決するために日ソ間の交渉の必要があったが、吉田茂首相は外交の基本方針を親米として いたため、ソ連との外交関係再開に意欲をもたなかった。1954年12月10日に吉田のあとを襲っ て首相となった鳩山一郎も反共産主義者であったが、彼は首相就任前から日ソ間の懸案解決に 意欲を示し、12月12日に「ソ連との国交回復を内閣の使命としたい」と演説した32。他方、ソ連 でも1953年にスターリンが死亡し、同年9月に共産党第一書記となったフルシチョフが平和共 存外交の形を模索していた。両者の思惑が合致し、1955年1月25日、元ソ連通商代表代理ドム ニツキーがソ連政府の書簡を鳩山に届け、日ソ交渉への扉が開かれた。実際の交渉は外交官出 身の松本俊一衆議院議員を全権代表として同年6月にロンドンではじめられ、1956年10月19 日の「日ソ共同宣言」により日ソ間の国交回復が実現した。

この交渉について『われらの北方領土』は次のように説明している。領土問題については歯舞 および色丹を除いては意見の一致する見通しがたたなかった。1956年9月29日の「松本・グロ ムイコ書簡」で領土問題を含め平和条約を結ぶための交渉は日本とソ連との間で正常な外交関 係が再開された後に続けられるという合意ができ、まず国交を回復するための交渉に切り替え られた。日ソ共同宣言は平和条約の締結について、「両国間に正常な外交関係が回復された後、

平和条約の締結に関する交渉を続ける」とし、続いて「ソ連は日本の要望にこたえかつ日本の利 益を考慮して歯舞群島及び色丹島を引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は日本と ソ連との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と規定された。「この ように、日ソ共同宣言において、平和条約の締結交渉は外交関係回復の後に継続されることと

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33 『われらの北方領土』、12頁。

34 久保田正明『クレムリンへの使節 北方領土交渉1955-1983』文藝春秋(1983)、74-75頁。訓令は産経新聞記者で あった久保田正明が同著書で明らかにし、その内容が正しいことは田中孝彦が発見したアメリカ側史料によ り確認されている。田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究』有斐閣(1993)、96頁。和田(1999)、238頁。若宮(2016)、

117頁。さらに、ロンドン交渉に参加した重光晶が保存していた資料で和田はこの訓令内容を確認している。

和田春樹『領土問題をどう解決するか 対立から対話へ』平凡社新書(2012)、129-130頁。当時の条約局長下 田武三は領土要求として1南樺太、千島列島、北方領土、2択捉、国後、色丹、歯舞、3歯舞、色丹の3段階 の案が提案されたと記している。下田武三『戦後日本外交の証言(上)』行政問題研究所(1984)、142頁。しか し和田が主張するように下田の記述は疑わしい。当時は4島を一括して北方領土とする考え方は存在しなかっ たからである。和田(1990)、146-147頁。

35 松本全権が先方に提示した覚書にも、領土については「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太」が記載され るのみである。松本(2012)、26頁。

36 松本(2012)、27頁。

37 国会会議録検索システム

https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101305254X07019520731&current=1 (2021年10月7日閲覧)。

38 松本(2012)、30-34頁。

なっています。平和条約の内容となるべき重要な問題の中で、日ソ共同宣言で解決されなかっ たのは領土問題、すなわち、国後、択捉両島の問題にほかなりません。」33 交渉の経緯が省かれ、

「日ソ共同宣言」では歯舞と色丹の引き渡しが決まり、さらに国後・択捉については継続交渉に なったと説明されている。日本政府のこの説明について、以下検証してみたい。

日ソ国交回復交渉がおこなわれたのは60年以上前のことであるが、政府は平和条約交渉が 継続中であるとして現在に至るまで資料を公表していない。しかし交渉にあたった人物や取材 記者などの著作、これらを資料とした研究により現在では詳細がほぼ明らかになっている。『わ れらの北方領土』で触れられていない重要な点は、交渉をはじめた時点での日本政府の方針と ソ連が2島の引渡しを申し出た経緯である。松本全権にたいし出された政府訓令で領土に関す る部分は(1)ハボマイ、シコタンの返還、(2)千島、南樺太の返還、とされた。また、訓令を作 成した谷正久外務省顧問は「ハボマイ、シコタンが返されれば、それで上出来だ」と言ったと いう34。ここで重要なのは、国後、択捉の名前が出ていないことである35。サンフランシスコ 平和条約で千島、南樺太は放棄しているので、(2)は明らかに取引材料として提示することの みに意味があり実現をめざすものではなかった。松本全権も「交渉の終局においてこれを全面 的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたることを示した」と書いてい る36。つまり歯舞、色丹の2島返還により交渉を妥結してよいというのが当初の方針であった。

これは1952年7月31日に衆議院で可決された「領土に関する決議案」とも合致する。この決議 においても歯舞、色丹島の引渡しをもとめつつ、国後、択捉の名前は出されていない37。この ように、当時の日本政府の領土要求は2島返還であり、国後、択捉の返還を求めるものではな かった。

日本が歯舞、色丹、千島、南樺太を交渉対象とすることを求める一方、領土問題は解決済み であるというのがソ連の当初の立場であり、さらに日本が軍事同盟に参加しないこと(日米安 全保障条約を破棄すること)を求めた38。交渉を8回重ねたあと、1955年8月5日の非公式会談

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39 松本(2012)、40-41頁。

40 和田(1990)、166-170頁。和田(1999)、244-245頁。

41 和田(1990)、175-178頁。

42 『読売新聞』、1955年10月6日。和田(1990)、182頁。

43 国会会議録検索システム

https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102403968X00419560211&current=2 (2021年10月7日閲覧)。

44 国会会議録検索システム

https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102403968X01819560310&current=2 (2021年10月7日閲覧)。

でソ連全権マリクは「ほかの問題が全部片付けば、ソ連側としては日本側の要求に応じて、歯舞、

色丹を日本に引渡してもいいし、また軍事同盟禁止の条項は、日米安保条約の性質があなた(松 本)のいわれるように純粋に防禦的なものであるならば、外の問題が解決すればこれを撤回し てもいい」という趣旨を述べ、第10回会談(8月9日)で正式に提案してきたので松本は耳を疑う ほど驚愕し、かつ喜び、交渉の終結が近いと考えた39。ところが松本がソ連の提案を報告する と、外務省では国後、択捉を加えた4島を要求するという新提案が作られた。これは『朝日新聞』

にリークされ、8月20日の紙面であたかも日本が先に譲歩して全千島、南樺太をあきらめ、国 後、択捉に要求をしぼることにし、歯舞、色丹は既に日本領であると報じられたのである。他 方、ソ連側の2島返還譲歩は8月25日の毎日新聞で報道された40。ここではじめて4島返還が 日本の方針となる一方、ソ連は日本の新しい要求を当然ながら拒否したため、交渉は決裂した。

日本では9月から『朝日新聞』により4島返還へ世論を導こうとする社説や連載記事が出され たが、その根拠は国後、択捉の南千島は固有の領土である、あるいは1875年条約の誤りのあ る日本語訳に依拠し国後、択捉は千島列島に含まれないとするものであった41。松本全権は10 月1日に帰国し、『読売新聞』紙面で次のように語った。「ただわたくしとしては国後、択捉に ついては突如として出てきた問題なのです。最初から強く主張しろということだったら、考え 方もあるが、最後に出てきたから非常にやりにくいんです。向こうもいまさらというふうに考 えているし、また向こうとしては歯舞、色丹を返せば解決できると思っていたのが、国後、択 捉が突如として出てきたので向こうもビックリした。日本が欲張っているという気持ちをもっ ているようですね。だからもう少しようすをみようということになっているんじゃないかと思 う。これが現実です。現実をいわないでただ希望だけをいってむやみに国民の希望だけをつな いでおくことはしたくないので、そういう実情を国民にも政界にも了解してもらって対策を立 ててもらおうと考えているんです。」42 日本の当初方針は歯舞、色丹の2島返還だったことが この発言でも明らかである。

さらに、国会でも政府見解の変更が語られた。森下國雄外務政務次官は1956年2月11日の 衆議院外務委員会で国後、択捉両島を南千島と呼びつつ「サンフランシスコ平和条約はソ連が 参加しているものではないが、右平和条約にいう千島列島の中にも両島は含まれていないとい うのが政府の見解であります」と述べた43。同年3月10日の衆議院外務委員会で、下田武三条 約局長は歯舞、色丹、南千島(国後、択捉)を日本の固有の領土であるという意味で一つのグルー プにまとめ、これをはじめて「北方領土」と呼んだ44

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45 若宮(2016)、174-175頁。この際河野はロシア語に堪能な新関欽哉一等書記官を伴ってクレムリンにむかっ たが、会談には一人で臨んだため記録はロシア側にしか存在しない。この会談で漁業条約の発効に国交正常 化交渉の再開という条件がつけられたが、それを提案したのはソ連ではなく河野であることをソ連側通訳が 1990年に明らかにした。N. アドイルハエフ「河野一郎氏とN. ブルガーニンとの会談の『秘密』」『極東の諸問題』

Vol. 19, No. 3(1990), 178頁。堀徹男『さようなら、みなさん!鳩山日ソ国交回復50年目の真相』木本書店(2007)、

62-63頁。若宮(2016)、190-191頁。

46 堀(2007)、92-93頁。

47 和田(1999)、252頁。

48 «Правда», 1956/8/4. С. 4. イズヴェスチヤ紙にも同日「ソ日関係の正常化によせて」という同趣旨の記事が 掲載された。サンフランシスコ条約にソ連が調印していないことを理由として千島列島の帰属は未確定であ るとの日本側の主張にたいし、同条約は列強(英米ソ)が戦時中および戦後におこなった日本の領土に関する 取決めを承認していると反論している。«Известия», 1956/8/4. С. 4. 若宮(2016)、210-211頁。

1956年4月末に河野一郎農林大臣は漁業交渉を主目的として訪ソし、ブルガーニン首相と5月 9日に会談した際に領土問題が話題にあがった。ソ連側は歯舞、色丹以上の譲歩はできないと 述べる一方で、アデナウアー方式によれば戦犯(抑留者)と漁業問題は解決できると提案した45。 ところが河野はこれを、歯舞、色丹の2島返還に加えて、国交正常化後の平和条約交渉時に国 後、択捉の2島について継続審議としてはどうかと提案されたと誤解した46。この点があとで 問題となる。他方、この会談がきっかけとなって重光葵外務大臣を首席全権として国交回復交 渉が7月31日に再開した。重光は在ソ連日本大使などを経て戦前から何度も外務大臣を務めた 外交のプロで、吉田茂と総理の座を争ったこともある大物政治家であった。前年にソ連が2島返 還を打診してきた際にそれを拒否して4島返還の新方針作成を主導しただけに、固有の領土論と 大西洋憲章の領土不拡大論を根拠として4島返還を主張した。しかしソ連のシェピーロフ外相に 拒否されたため、「2島返還+残りは棚上げ」を提案するがこれも拒否された。最後にサンフラン シスコ平和条約にならい日本は南樺太と千島列島を放棄するという文言をいれるのみとし、あと で国後、択捉は千島列島に含まれないと主張することを狙ったが、これも拒否された47

ソ連側の領土に関する主張は交渉時にソ連共産党機関紙『プラヴダ』に掲載された記事「ソ日 交渉によせて」にみることができる48

「よく知られているように、1943年のカイロ宣言で領土問題解決の全体的形態は規定された。その後 1945年7月26日のポツダム宣言で次のようにはっきりと示された。『カイロ宣言の条件は実行されるべ きであり、日本の主権の及ぶ範囲は本州、北海道、九州、四国とわれわれが示す諸小島である。』1945年 9月2日の降伏文書で日本はポツダム宣言の諸条件を無条件に受け入れた。

同じように、1951年9月8日にサンフランシスコで日本は平和条約に調印し、次のように明確に規定 されたこともよく知られている。『日本は千島列島と樺太のうち1905年9月5日のポーツマス条約で日本 が主権を得た部分についての権利、権原および請求権を放棄する。』

以上言及した国際条約により南樺太および千島列島の問題は最終的に解決されている。

同じようによく知られていることとして、列強による極東に関するクリミヤ合意(ヤルタ協定―筆者 註)ではっきりと決められたことであるが、南樺太およびその付属する島々がソ連に返還されることが

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49 ロシアでは、色丹、歯舞をあわせて「小千島(малые Курилы)」と呼ぶ。

50 和田(1999)、253頁。

51 和田(1999)、254頁。

52 和田(1999)、255頁。

53 さらに米国はヤルタ協定について「いわゆるヤルタ協定なるものは、単にその当事国の当時の首脳者が共通 の目標を陳述した文書に過ぎないものと認め、その当事国による何らの最終的決定をなすものでなく、また 領土移転のいかなる法律的効果を持つものではないと認めるものである」と1956年9月7日の「日ソ交渉に対 する米国覚書」で述べた。『われらの北方領土 資料編』、23頁。

54 「歯舞、色丹の即時返還を求め、国後、択捉が日本領土である主張を堅持し国交正常化後に主権回復につい て継続協議をする。」若宮(2016)、258頁。

定められ、千島列島も同様である。これらの地域は無条件かつ絶対的なものとして譲り渡された。ロン ドン交渉時にソ連が日本に一定の条件のもと歯舞と色丹を譲渡すると述べたとしても、それは平和愛好 政策および日本への歩み寄りゆえである。

領土問題に関するソ連政府の立場は5月9日、日本の農林大臣河野との会談の際にブルガーニン首相 によって明らかにされ、詳しく説明された。この会談で特に述べられたのは、両国間の関係正常化のた めにソ連側の大きな譲歩として歯舞と色丹を手放すことである。当然のことながら、この譲歩は関係の 完全な正常化の際、つまりソ日平和条約締結の際に実行される。」

ここで明らかなことは、ソ連はヤルタ協定、カイロ宣言、ポツダム宣言を根拠として南樺太と 千島列島を得たと認識していることであり、千島列島のなかには歯舞と色丹までもが含まれてい ると考えていることである49。千島列島の定義問題で争えば、歯舞と色丹は含まれないのでソ連 の譲歩になっていないと主張できたかもしれない。しかしそれでは逆に南千島である国後、択捉 を要求する根拠がなくなってしまうという欠点があった。重光は仕方なく4島返還要求を諦め、

8月12日に2島返還のみで決着する決意を固めた。松本の助言により東京に請訓したところ8月 13日の閣議は重光の判断拒否を決めた50。8月19日に重光はダラス国務長官と会談しソ連案を受 け入れるほかないと述べると、ダラスは日本が国後、択捉をソ連領と認めることはサンフランシ スコ条約以上のことをソ連に認めることであり、その場合にはアメリカは条約第26条に基づい て沖縄を永久に領有する立場にたつと答えた51。有名な「ダラスの恫喝」である。しかし時系列を 考えるとダラスの恫喝がなくても日本政府は4島返還要求を続けることを決めていた。とはいえ、

アメリカが日ソ間の離間をめざす目的で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島および色 丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ正当に日本国の主権下 にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した」と言明した52ことに より、日本が2島返還でソ連と平和条約を結ぶことを難しくさせることになった53

このままでは平和条約が結ばれることはなく、当時喫緊の課題であった漁業、シベリア抑留、

国連加盟問題等を前進させることができなくなるので、既に提案されていたアデナウアー方式、

つまり領土問題を先送りする形での国交回復をめざすことが政府の方針となり、鳩山首相自ら が訪ソすることが決定された。とはいえ、9月20日の自民党新党議によりソ連が既に約束して いる歯舞、色丹の返還に加えて国後、択捉の2島を継続交渉にすることが目標となるが54、そ

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55 松本(2012)、220-222頁。若宮(2016)、251-253頁。

56 『われらの北方領土 資料編』23-24頁。

57 その内容については日本側代表団の通訳のメモおよびソ連側記録が野口徹男により公表されている。野口

(2007)、87-88頁。

58 松本(2012)、231頁。堀(2007)、93頁。若宮(2016)、301頁。

59 堀(2007)、104-105、109-111頁。

60 堀(2007)、123-124頁。

61 松本(2012)、235頁。これを修正したソ連案が翌日フェドレンコ外務次官から届けられたが、松本によれば この部分についての修正はない。松本(2012)、157頁。鳩山の首席秘書官であった若宮小太郎のこの日の日 記に以下のような記述がある。「歯舞・色丹は譲る。但し、それは平和条約の時で、アメリカが沖縄・小笠 原を手放した時、それ以外の領土は継続協議ということ。大分進んだ」堀(2007)、145-146頁。「外ム省の連中、

全くこの成果に驚いていた」。若宮(2016)、318-319頁。

の提案は既に重光交渉時に拒否されているため、実現の難しい課題であった。そのため事前に 懸案事項に関して確認がとれた後に訪ソするという手段が選ばれた。9月11日に鳩山首相から ブルガーニン首相あて親書が出され、9月13日に回答が届いた55。鳩山は「領土問題に関する交 渉は後日継続しておこなうことを前提として」1.両国間の戦争の終了、2.大使館の相互設 置、3.抑留者の即時帰国、4.漁業条約の発効、5.日本の国連加盟へのソ連の支持を求め た。ブルガーニンの回答はこの5項目を認めつつ、領土に触れていなかった。そのため松本俊 一が鳩山に先立ち訪ソして領土に関する部分の確認をおこなうこととなった。それが前述の「松 本=グロムイコ書簡」である56。そこには確かにソ連が「両国間の正常な外交関係が再開された 後、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉を継続することに同意することを言明します」

と書かれている。

10月12日に鳩山首相はモスクワに到着した。河野農林大臣が同行して領土問題の交渉にあ たった57。河野はブルガーニン首相に宛てて「歯舞、色丹の即時返還、その他の領土の継続交渉」

を申し入れるが、10月15日のソ連案に島の名前は書かれず、単に「国交正常化後に、領土問題 を含む平和条約交渉を継続」と書かれているだけであった58。このソ連案は松本=グロムイコ 書簡に合致していた。

フルシチョフとの第一回会談(10月16日)で河野は、島の名前が明記されていない松本=グ ロムイコ書簡では自民党が納得しなくなっていることを詫びつつ粘り強く交渉するが、フルシ チョフは「歯舞、色丹以外のいかなる領土問題での日本の要求は受け入れず、この関係での提 案がいかなるものであっても協議を拒否する」「我々の国民は、もし、我々がさらに大きな譲 歩をし、日本に我々の国家に合法的に属している新しい領土を引き渡そうとしたら、我々を理 解しないであろう。我々はいかなるこれ以上の妥協もできないし、向かわない。歯舞、色丹は 平和条約で引き渡すことはできるとしても、しかし、これらの島の引渡しと共に領土問題は全 体として完全に解決されたと見なされねばならない」と表明した59。また、国後、択捉は経済 的な価値をもたないが、「国家の威信を判断する場合や、戦略的な側面の問題では決定的な役 割を果たしている」とその領有の理由を説明した60。10月16日の日本案には歯舞、色丹の引渡 しと外交関係回復後、領土問題を含む平和条約交渉を継続することが盛り込まれた61。第三回

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62 松本(2012)、158頁。堀(2007)、153頁。

63 堀(2007)、153-154、165-166頁。

64 国会会議録検索システム

https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102403968X00419560211&current=2 (2021年10月7日閲覧)。

65 歴史的にみて歯舞ないし歯舞・色丹が千島列島に属さないことは明らかであるが、また別の話である。

66 岩下明裕『北方領土・竹島・尖閣、これが解決策』朝日新書(2013)、21頁。

会談(10月18日)で河野農相は歯舞、色丹の引渡しの他に、あらためて「両国間に正常外交関係 が回復後、領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉を継続することに合意する」という案 を提示したが62、ソ連側から「領土問題を含む」という字句の削除が提案され、日本側は第四回 会談でそれを受け入れた63

以上の交渉の過程をみると、日本側は最初に松本=グロムイコ書簡に沿って領土問題はすべ て先送りすることによる国交回復をめざし、ソ連も同意した。ところが実際の交渉時に日本側 は自民党の新党議に拘束され、宣言に具体的な島の名前をいれざるを得なくなったため、ソ連 もそれに応じた。しかしソ連としては歯舞、色丹以外の島を引き渡す意図がないことを交渉の 際に繰り返し明確に表明し、日本も受け入れた。以上の経緯からして松本=グロムイコ書簡は

「日ソ共同宣言」によっていわば上書き保存され、効力を失ったと考えるのが妥当である。

おわりに

歯舞、色丹の「引渡し」に関連して、衆議院議員池田政之輔は1956年2月11日の衆議院外務委 員会で「日本の領土であるから、(譲渡ではなく)返還を要求するという建前を堅持」すべきである と求め、政府は了解している64。それにもかかわらず共同宣言では「返還」ではなく「引渡す」とい う表現に落ち着いた。これはロシアからみたら、「既にロシアの領土となった歯舞、色丹を日本 に譲る」ことを日本が受け入れたことを意味する。近年ラヴロフ外相が日本に第二次世界大戦の 結果を認めることが交渉の前提であると主張しているのは、このことを指すのではないか65

『われらの北方領土』の説明は、日本国民が北方領土に関する正しい知識を身につけることを妨 げている。日本に都合の良い事実を記載する一方、不利な事実を隠している。本稿で検討した ように2島返還論には歴史的根拠があり、領土交渉に関する数ある選択肢のなかから日ソ両国が 一度は合意したものである。2島返還という解決法を選択したとしても、海域における国境線の 引き方によっては係争地域面積の折半が可能であることは、岩下明裕が示すところである66。安 倍元首相による政策転換は歴史的根拠をもつものであったにもかかわらず、日本国民が正しい 歴史的知識をもたない(もてない)ために国民の支持が得られなかった。プーチン大統領は、た とえ2島返還で合意したとしても、日本国民の支持に基づかない結論であるため、日本は将来 さらに国後、択捉を要求するのではないかと疑って平和条約締結に進まなかったのではないか。

保守勢力にも強い影響力をもつ安倍元首相が2島返還論に歴史的根拠があることを国民に説明 したうえで政策転換をおこなっていれば、北方領土問題は解決していた可能性がある。

本稿は紙幅の関係で「日ソ共同宣言」までの分析に終わった。それ以降の時期については他日 を期したい。

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