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織 錦

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(1)

人麻呂の泣血哀慟歌と虫麻呂の

泣血哀慟歌と〈畿内伝説歌〉

〈畿内伝説歌〉

前桜「死者生前の様子をうたう歌—「萬葉集」における〈生前

{I} 叙述〉の甜相と虫麻呂歌」において、虫麻呂の〈伝説歌〉が有する、死者生前の様子を叙述するという側面に光を当て、「萬葉集』全殷における叙述のありようとの比較を通して虫麻呂の〈伝説歌〉の特徴について考察し、次のように述べた。すなわち、〈伝説歌〉における死者生前の叙述は、長歌の中で時間を追って丁寧になされている。一方、「梃業集』全体で見れば、死者生前の様子を叙述する歌は百首ほどあるが、虫麻呂の〈伝説歌〉のような叙述の方法は、雑歌・相聞·挽歌を問わず、古の人の生前の様子をうたう歌の中には見出し難い。〈伝説歌〉のような叙述は、むしろ、身近な人の死をうたう挽歌の中に認められる。中で、とくt生前の叙述が詳しいのは、柿本人麻呂の高市皇子挽歌(2-九九ーニ0l}と泣血哀慟歌(2二0七1九、ニ―0ーニ)、古日歌(5九0匹1六)である。 本稿は右の考察を跨まえ、人麻呂の泣血哀慟歌と虫麻呂の〈畿内伝説歌〉との関係性について考えるものである。右三首のうち、閥市皇子挽歌、古日歌ではなく泣血哀慟歌に注目するのは、次の理由による。硲市星子邸城上歿宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首むtかけまくもゆゆしきかも酋はまくもあやに畏き明日香の其神の原にひさかたの天つ御門を畏くも定めたまひて神さぶと岱限りますやすみしし我が大君のきこしめす背面の国の真木立つ不破山越えて高脆剣和射見が原の行宮に天降りいまして天の下治めたまひ食す国を定めたまふと閣が嗚<束の国の御軍士を召したまひてちはやぶる人を和せと奉ろはぬ国を治めと島子ながら任したまへば大御身に大刀取り偶かし大御手に弓取り持たし御軍士を率ひたまひ整ふる鼓の音は術の声と開くまで吹き嗚せる小角の音も敵見たる虎か吼ゆると諸人のおぴゆるまでにささげたる旗の郡きは冬こもり春さり来れば野ごとにつきてある火の風の共靡くがご

浩 文

- 1 -

(2)

とく取り持てる弓弾の騒きみ酋降る冬の林につむじかもい巻き渡ると思ふまで聞きの長く引き放つ矢の緊けく大雪の乱れて来れまつろはず立ち向かひしも紺霜の梢なば梢ぬベく行く烏の争ふはしに渡会の斎きの営ゆ神風にい吹き惑はし天槃を日の目も見せず指間に覆ひたまひて定めてし瑞枇の国を神ながら太敷きましてやすみしし我が大君の天の下奏したまへば万代にしかしもあらむと木綿花の栄ゆる時に我が大君息子の御門を神宮に装ひまつりて;・(2-九九)麻市皇子挽歌は生前の叙述が長歌一四九句中七六句あり、50%を占める。全体として、甜市皇子の壬巾の乱における実鋲を記録し称賛することに力が注がれており、そのうたい方は、虫麻呂の〈伝説歌〉の叙述の方法に通じるところがある。しかし、右の傍線部は、戦閥場面を多角的に捉え、それを比唸を用いて表現したものであり、虫麻呂の〈伝説歌〉のように、生前の出米半を時間

t3-に沿って叙述しているわけではない。

恋男子名古日

歌三首

k-fru

二打

世の人の貨ぴ願ふ七種の宝も我れは何せむ我が中の生まれ出でたる白玉の我が子古日は明屈の明くる朝は敷拷の床の辺去らず立てれども居れどもともに戯れ夕星の夕になればいざ疫よと手をたづさはり父母もうへはなさかりさきくさの中にを寝むとうつくしくしが語らへばいつしかも人と成り出でて悪しけくも良けくも見むと大船の恩ひ穎むに思は対して、人麻呂の泣血哀慟歌は虫麻呂の〈伝説歌〉に先行して 若ければ道行き知らじ賄はせむしたへの使負ひて通らせ(九0五)布施他きて我れは祈ひ賂むあざむかず直に率行きて天道知らしめ(九0六)右一首、作者未詳。但、以裁歌之体似於山上之操、戦此次瑶゜

古日歌は、古日生前の様子が生き生きとうたわれ、死に至る過程の叙述は詳細であり、死後の親の嘆きも丁寧にうたわれている。

{I-こうした叙述の詳しさは、虫麻呂の〈伝説歌〉に似る。が、左注に「作者未詳」とあり、また、「以裁歌之体似於山上之操」に沿って山上憶良の作としても成立時期が明確でなく、虫麻呂の〈伝説歌〉との先後関係は微妙であり、関係性を考えるにはなお似菰を要する。 反歌 ぬに横しま風のにふふかに毅ひ来ればせむすべのたどきを知らに白格のたすきを懇けまそ鋭手に取り持ちて天つ神仰ぎ祈ひ訪み国つ神伏して額つきかからずもかかりも神のまにまにと立ちあざり我れ祈ひ路めどしましくも良けくはなしにゃくやくにかたちつくほり朝な朝な_i日ふことやみたまきはる命絶えぬれ立ちをどり足すり叫ぴ伏し仰ぎ胸打ち咲き手に持てる我が子飛ばしつ世間の道(5九0四)

-2-

(3)

成立したことが明らかであり、かつ、以下に述べるように、虫麻

.呂

の〈伝説歌〉における死者生前の叙述、およぴ死後の様子の叙述についての類似性があり、表現についての影閣関係が石取されるところがある。本稿において人麻呂の泣血哀慟歌に注目するのは、そうした理由に基づく。考察に入る前に改めて確認しておくと、ここにいう〈伝説歌〉とは、「甜橋巡虫麻呂之歌集」所出の珠名娘子歌(9-七三八1九)、.浦島子歌(9-七四01-)、真間娘子歌(9-八0七1八)、菟原処女歌(9-八0九1-l)の四首をさす。これら四首は「痰葉集』においては巻九雑歌と巻九挽歌に二首ずつ分かれて収録されている。が、虫麻呂は、藤原宇合の下で宇合の常睦国守時代(従老三年11七一九年頃)、知造難波宮事時代(天平四年11七三二年頃)を中心に歌作をしたと見られ、「虫麻呂歌集」において四首はおよそ次の顧に並んでいたと推察される。A詠勝鹿真間娘子歌一首翡訳B詠上総周淮珠名娘子l首翡R

c

詠水江捕鳩子一首代社吐D見菟原処女樅歌一首¢駅匹首は、A11下総国其間、B11上総国周淮、CII摂津国住吉、DII摂律国珠屋というように特定の地域と関わっており、大きく東Iii(AB)と畿内(CD)とに分かれる。AB二首は宇合常陸国守時代、CD二首は宇合知造難波宮事時代の作と考えられる。 そして、この見方に沿うように、長歌の長さは、A11四十三句、B11二十九句、CII九十三句、DII七十三句というように、AB二首よりもCD二首のほうが長大であり、そしてまた、CD二首には、ABにはない作中人物の直接話法、心内表現が取り入れられていることなど、ABからCDへと作品としての進展が認められるようである。ここでは、AB二首を〈東国伝説歌〉、CDニ首を〈畿内伝説歌〉と呼ぶ。このうち本稿で取り上げるのは、〈畿内伝説歌〉二首である。人麻呂泣血哀慟歌からの影響を受けていると見られる点が〈畿内伝説歌〉のほうにより多く存すると理解されるからである。

泣血哀慟歌と〈畿内伝説歌〉との比較

柿本朝臣人麻呂瑛死之後、泣血哀慟作歌二首外H天飛ぶや軽の道は我妹子が里にしあればねもころに見まく欲しけどやまず行かば人目を多みまねく行かば人知りぬペみさねかづら後も逸はむと大船の思ひ頼みて玉かぎる岩垣淵の隠りのみ恋ひつつあるに渡る日の荘れゆくがごと照る月の槃隠るごと沖つ淡のなぴきし妹は黄菜の過ぎてい行くと玉梓の使の言へば梓弓音に聞きて言はむすべせむすべ知らに音のみを開きてありえねば我が恋ふる干匪の一狐も慰もる心もありやと我妹子がやまず出で見し軽の市に我が立

3-

(4)

去年見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年離る ち冊けば玉たすき畝傍の山に嗚く島の声も冊こえず玉杵の道行き人も一人だに似てし行かねばすべをなみ妹が名呼びて袖ぞ振りつる(2二0七)短歌二首秋山の黄策を茂み惑ひぬる妹を求めむ山路知らずも(=10八)黄菜の散りゆくなへに玉梓の使を見れば追ひし日思ほゆ

(―10九)うつせみと思ひし時に取り持ちて我が二人見し走出の堤に立てる槻の木のこちごちの枝の春の薬の茂きがごとく思へりし妹にはあれど頼めりし児らにはあれど世間を背きしえねばかぎるひの燃ゆる荒野に白たへの天領巾砥り烏じもの朝立ちいまして入り日なす開りにしかば我妹子が形見に骰けるみどり子の乞ひ泣くごとに取り与ふる物しなければ男じもの脇ばさみ持ち我妹子と二人我が寝し枕づく要屋の内に昼はもうらさぴ咎らし夜はも息づき明かし咬けどもせむすべ知らに恋ふれども逸ふよしをなみ大烏の羽易の山に我が恋ふる妹はいますと人の言へば岩根さくみてなづみ来しよけくもぞなきうつせみと思ひし妹が玉かぎるほのかにだにも見えなく恩へば(ニ―0)短歌二首 (ニー一)会・出を引手の山に妹を岡きて山路を行けば生けりともなし(ニーニ)人麻呂の泣血哀慟歌は、第一長歌、第二長歌ともに、前半部を用いて妻生前の様子をうたうことに多くを割いている(傍線邪)。第二長歌には、「取り持ちて我が二人見し走出の提に立てる槻の木」とあり、要とともにあった頃の仲睦まじい様子を具体的な映像をもって表現している。こうした具体的な叙述は、虫麻呂の〈伝説歌〉全般の叙述のあり方に通じるといえる。それだけではない。注目されるのは、人麻呂の泣血哀慟歌では、第一長歌、第二長歌ともに後半で要亡き後の夫周辺の様子を詳しくうたっているということである(波線部)。第一長歌では、「我が恋ふる千煎の一煎も慰もる心もありや」と夫の心内を表現し、「畝傍の山に嗚<烏の声も聞こえず玉枠の道行き人も一人だに似てし行かねば」と周囲の状況を説明し、「軽の市に我が立ち開けば」「妹が名呼びて袖ぞ振りつる」と夫の行動をうたっている。第二投歌では、「我妹子が形見に囮けるみどり子の乞ひ泣くごとに」と我が子のことをうたい、「大鳥の羽易の山に我が恋ふる妹はいますと人の酋へば」と周囲の人の酋業を引用し、「岩根さくみてなづみ来し」と夫の行動をうたっている。こうしたうたい方が、虫麻呂の〈畿内伝説歌〉のうたい方に通じるところがある。実際に虫麻呂の〈畿内伝説歌〉と比較してみる。まずC浦島子

(5)

伏。

.`

常枇辺に住むべきものを剣大刀己が心か

らお

そやこの君 春の日の霞める時に住吉の岸に出で居て釣り舟のとをらふ見れば古のことぞ思ほゆる水江の浦島子が鰹釣り鮒釣りほこり七日まで家にも来ずて海境を過ぎて沼ぎ行くにわたっみの神の娘子にたまさかにい漕ぎ向かひ相とぶらひ言成りしかばかき結び常世に至りわたつみの神の宮の内のへの妙なる殿に拙はり二人入り居て老いもせず死にもせずして長き代にありけるものを世間の愚か人の我妹子に告りて語らくしましくは家に帰りて父母に事も語らひ明日のごと我れは来なむと君ひければ妹が酋へらく常世辺にまた帰り来て今のごと逸はむとならばこの箱を開くなゆめとそこらくに緊めし酋を住吉に焔り来りて家見れど家も見かねて里見れど里も見かねてあやしみとそこに思はく家ゆ出でて三年の間に垣もなく家失せめやとこの箱を開きて見てばもとのごと家はあらむと玉櫛筍少し削くに白雲の箱より出でて常枇辺にたなぴき行けぱ立ち走り叫び袖振り臥いまろぴ足すりしつつたちまちに心消失せぬ若くありし肌も戯みぬ黒くありし嬰も白けぬゆなゆなは息さへ絶えてのちつひに命死にける水江の捕島子が家ところ見ゆ(9-七匹0)反歌 詠水江浦鳩子一首ル晶

を (一七匹一)補品子歌は、長歌九十三句中八十四句、90%が古の出来事の再現部分、すなわち捕烏子の生前の様子を叙述する部分にあたる。神の娘子との関係で捉えれば、①神の娘子と結ばれるまで・・・水江の浦烏子が1酋成りしかば賃の娘子との夫妍生活·:•かき結ぴ常世に至り1長き代にありけるものを③神の娘子との約束…泄間の愚か人の1そこらくに堅めし君

④神の娘子との約束の忘却:・住吉に畑り来りてー常世辺にたなぴき行けば⑤神の娘子との死別:・立ち走り1命死にけるというようになる。①ー②は理想的な要との出会い、そして淡とともにあった「甜世」での仲睦まじい様子を描く。これは泣血哀慟歌における要生前の夫婦の様子を描く部分(「取り持ちて我が二人見し」)に皿なる。③において、「しましくは家に怖りて父母に事も語らひ明日のごと我れは来なむ」「幣枇辺にまた婦り来て今のごと途はむとならばこの箱を皿くなゆめ」というように、捕島子、神の娘子の言業を直接話法で表現する。これは泣血哀慟歌における「玉梓の使」「人」の君策を表現する部分(「沖つ泌のなぴきし妹は黄業の過ぎてい行くと王梓の使の言へぱ」「大烏の羽易の山に我が恋ふる妹はいますと人の言へば」)に匝なる。また、

- 5 -

(6)

③I④において、「玉櫛筍」を開け「白娯」が箱から出て「喘世辺にたなぴき」、要との再会がかなわなくなったことを悟った補烏子の様子を「立ち走り叫ぴ袖振り臥いまろぴ足すりしつつたちまちに心消失せぬ」とうたう。これは泣血哀拗歌における要死後の夫の様子を描く部分(「すべをなみ妹が名呼ぴて袖ぞ捩りつる」「昼はもうらさぴ牲らし夜はも且づき明かし咽けども」)に菰なる。また、④の「王櫛笥」を開ける楊而において、「あやしみとそこに思はく家ゆ出でて_二年の間に垣もなく家失せめやとこの箱

.を

開きて見てばもとのごと家はあらむと」というように

なる。 現する部分(「我が恋ふる干砥の一煎も慰もる心もありや」)に

m

の心内を表現している。これは泣血哀慟歌における夫の心内を表 、捕島子

珠屋の菟原処女の八年子の片生ひの時ゆ小放りに嬰たくまでに並ぴ居る家にも見えず虚木綿の限りて居れば見てしかといぶせむ時の垣ほなす人の問ふ時茅袴壮士菟原壮士の伏屋焚き

すすし競ひ相よばひしける時は焼大刀の手かぴ押し

ねり白真弓靱取り負ひて水に入り火にも入らむと立ち向かひ競ひし時に我妹子が母に詣らくしったまきいやしき我が故ますらをの争ふ見れば生けりとも逢ふべくあれやししくしろ黄泉に待たむと混り沼の下はへ骰きてうち哄き妹が去 次に、D菟原処女歌と比較してみる。見菟原処女猫歌一首Jf姜 ぬれば茅粋壮士その夜歩に見とり統き追ひ行きければ後れたる菟原壮士い天仰ぎ叫ぴおらぴ地を踏みきかみたけびてもころ男に負けてはあらじとかけはきの小大刀取りはきところづら縁め行きければ親族どちい行き染ひ長き代に椋にせむと辿き代にgJionり継がむと処女諮中に造り骰き壮士硲このもかのもに造り骰ける故緑冊きて知らねども新喪のごとも哭泣きつるかも(9-八0九)

郊屋の菟原処女の奥つ城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ(一八一0)硲の上の木の枝靡けり問きしごと茅浮壮士にし寄りにけらしも(-八―一)右の菟原処女歌は、長歌七十三句中六十八句、93%が古の出来事の再現部分に当たる。登場人物によって分けると、①処女の生前の様子…森歴の疫原処女の1妹が去ぬれば②処女の死後、壮士たちの様子…茅浮壮士い1恥め行きけれギ

③壮士の死後、親族たちの様子・・・親族どち1造り磁けるといようになる。①において「小放りに促たく」と処女生前の様

子を

描き、「しつたまきいやしき我が故ますらをの争ふ見れば生けりとも逢ふべくあれや」と処女の言菜を引用する。これらは、先に捕島子歌について見たところと同じく、泣血哀拗歌に通じる 反歌

(7)

うたい方である。②ー③において、菟原処女亡き後の茅浮壮士・

.菟

原壮士の行動、さらに親族の行動をうたい、残された者の様子を具体的に表現する。これは泣血哀慟歌において要亡き後の夫周辺の様子を詳しくうたうのと同じ姿勢といえる。こうして虫麻呂の〈畿内伝説歌〉二首は、捕島子・菟原処女の生前の様子を詳しくうたうのみならず、夫婦の別離

後、

菟原処女の死後に残された者の様子をうたうことを加えて、人麻呂の泣血哀拗歌のうたい方に瓜なるところが多いと見られる。この見方を表現の面に向けて視り下げてみる。浦烏子歌の長歌の中ほどに「世間の恐か人の」という句がある。旧稿「高橋虫麻呂捕島伝説歌に関する一考察—「世間の愚か人の」を中心としてー」において、この句は、捕島子がついに躇世の人にはなれなかったことを表し、常世を離れる淵烏子の行動を人冊の本性としてあり得るものと開き手(読者)に気づかせる働きを有すると捉えられるということを述べ、そして、虫麻呂がこの歌に「世間の愚か人の」の句を取り入れたことについては、人麻呂の泣血哀慟歌「世間を背きしえねば」(2ニ―0)から得るところがあったのではないか、ということを述べた。需盟が集jには「世間」

とう

たう作が大きく捉えて四十ある。その中でも捕島子歌の「世間Jは泣血哀慟歌における「批間」の用法に似る。泣血哀慟歌箱二長歌において「世間を背きしえねば」の句は中間邸に位協し、それ以前は要生前の回想であり、それ以 捕島子歌菟原処女歌

「取り持ちて我が二人見し走出の堤に立てる槻の木」 泣血哀慟歌「我妹子」「妹」「我妹子」「妹」「我妹子」「妹」 降は要死後のことをうたう。生と死とを分けるその境目のところで「世間を背きしえねば」の句はある。この句は、この世には人は必ず死ぬという定めがあるという認識に基づいており、第二長歌の中で生と死の対比を支える確固たる足場となっている。対して捕島子歌の場合は、「世間の愚か人の」の句が「常世」(不老不死)と「世間」(老死)との対比を支える足楊となっている。泣血哀慟歌の「世間を背きしえねば」は生と死の境目、補島子歌の「世間の悠か人の」は「前世」と「世間」との投目にあり、二首ともその句を焼にして事態が急変し、前後の対比が繰り広げられ る。「世間」をこうした用法で歌に詠み込むのは、「腐菜梨

j中、

この二首以外にない。

「世間を秤きしえねば」と「世間の愚か人の」の対応だけでは

ない。泣血哀慟歌と捕島子歌との間には関辿を痰わせる表現・箇所がその他に

もある

。そしてそれは菟原処女歌にも当てはまる。ここまで述べてきたことを含めて一罠にしてみる。〈要・処女の呼称〉

〈夫婦の描写〉泣血哀慟歌

-7-

(8)

菟原処女歌

菟原処女歌 捕島子歌 〈会話の引用〉泣血哀慟歌 油島子歌

なし 「我妹子と二人我が寝し枕づく要歴の内」「わたつみの神の宮の内のへの妙なる殴に携はり二人入り居て」

※ただし、「生けりとも迩ふぺくあれやししくしろ貿泉に待たむ」「冊きしごと茅浮壮士にし寄りにけらしも」とあり、「取り持ちて我が二人見し」「我妹子と二人我が衷し」というような、ありうべき男女二人の状慇を処女の心が希求するようなうたい方になつている。

「「沖つ硲のなぴきし妹は黄策の過ぎてい行く」と王梓の使の習へば」「「大烏の羽易の山に我が恋ふる妹はいます」と人の首へば」「枇間の恐か人の我妹子に告りて語らく「しましくは家に帰りて父母に事も語らひ明日のごと我れは来なむ」と言ひければ」「妹が言へらく「常世辺にまた婦り来て今のごと途はむとならばこの箱を開くなゆめ」と」「我妹子が母に語らく「しったまきいやしき我が故ますらをの争ふ見れば生けりとも途ふぺくあれやししくしろ黄泉に待たむ」と」 菟原処女歌 「「我が恋ふる千韮の一煎も慰もる心もありやjと」「あやしみとそこに恩はく「家ゆ出でて三年の間に垣もなく家失せめや』と「この箱を開きて見てばもとのごと家はあらむjと」「「もころ男に負けてはあらじjと」「親族どちい行き集ひ「長き代に標にせむjと「遠き代に語り維がむ」と」〈残された者の行為〉泣血哀慟歌「妹が名呼びて袖ぞ振りつる」捕島子歌「立ち走り叫ぴ袖掠り臥いまろぴ足すりしつつ」菟原処女歌「茅浮壮士その夜歩に見とり続き追ひ行きければ」「後れたる菟原壮士い天仰ぎ叫ぴおらぴ地を踏みきかみたけぴて」.「親族どちい行き集ひ長き代に椋にせむと遠き代に語り継がむと処女墓中に造り囮き壮士磁このもかのもに造り骰ける」こうした人麻呂の泣血哀慟歌と虫麻呂の〈畿内伝説歌〉との対応関係は、偶然に生じたものではないように見受けられる。というのは、たとえば、虫麻呂の〈東国伝説歌〉などにおいては、こ 補島子歌 〈心内の引用〉泣血哀慟歌

(9)

のような泣血哀慟歌との対応はほとんど認められないからである。この点を次に述べる。

泣血哀慟歌と〈畿内伝説歌〉の特異性

〈畿内伝説歌〉に見られた泣血哀慟歌との類似性は、虫麻呂の〈東国伝説歌〉においてはほとんど認められない。A

詠勝鹿真間娘子

歌一首itlu

鶏が嗚<束の国に古にありけることと今までに絶えず言ひける勝鹿の旗間の手児名が麻衣に汗衿培けひたさ麻を裳には織り滸て嬰だにも掻きは椋らず沓をだに股かず行けども錦綾の中に包める斎ひ子も妹に及かめや望月の足れる而わに花のごと笑みて立てれば瓦虫の火に入るがごと港入りに舟漕ぐごとく行きかぐれ人の首ふ時いくばくも生けらじものを何すとか身をたな知りて波の音の騒く港の奥つ城に妹が臥やせる遠き代にありけることを咋日しも見けむがごとも息ほゆるかも(9-八0七)

勝鹿の其間の井昆れば立ち平し水汲ましけむ手児名し息ほゆ(-八0八)B詠上総周淮珠名娘子一薗Ir晶しなが烏安房につぎたる梓弓周淮の珠名は胸わけの広き我 反歌 妹腰細のすがる娘子のそのなりのきらきらしきに花のごと笑みて立てれば玉鉾の迫行く人はおのが行く道は行かずて呼ばなくに門に至りぬさし並ぶ隣の君はあらかじめおの痰淫れて乞はなくに鍵さへ奉る人皆のかく惑へればたちしなひ寄りてぞ妹はたはれてありける(9-七三八)かな門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける(一七三九).A其間娘子歌には「妹に及かめや」、B珠名娘子歌には「妹」とあるけれども、ともに「我妹子」の語はない。細かいことではあるが、〈畿内伝説歌〉一本目には泣血哀慟歌と同様に「我妹子」の紺を用いており、〈東国伝説歌〉には用いていない。また、先に掲げた〈夫婦の抽写〉〈会話の引用〉〈心内の引用〉〈残された者の行為〉ということについても、〈束国伝説歌〉ニヤ日にはこれに相当する部分がない。B珠名娘子歌には「たちしなひ奇りてぞ妹はたはれてありける」などとあるけれども、「挽はり二人入り居て」というような夫婦の仲睦まじい様子を表現しているのではない。このように見てくると、〈東国伝説歌〉は結婚(夫婦)ということに焦点を当てず、対照的な二人の女性を取り上げ、対照的な生き方そのものを主煩としているということに改めて気づかされる。A以間其間娘子は「身をたな知りて」自ら命を絶ち、B珠名 反歌

-9-

(10)

娘子は「身はたな知らず」男と会った。〈東国伝説歌〉はその迩いを強糊し、その後の出来事について触れることはない。〈畿内伝説歌〉のうたい方とは災なり、娘子の死後の周囲の様子、あるいは男と会ったその後の展開については全く述べないのである。虫麻呂の〈伝説歌〉四首は死者生前の様子を詳しく叙述するところに特徴があり、共通性がある。が、夫婦の別離後、男女の死別後の様子をうたっているのは〈畿内伝説歌〉のみであって、〈東国伝説歌〉にはそれがない。すなわち、夫婦の別離後、男女の死

.別

後の様子をうたう点に〈畿内伝説歌〉の特性があるといえる。このことは、虫麻呂の〈伝説歌〉と同じ伝承の女性をうたうその他の歌々と比較してみても変わらない。過勝 鹿真間娘子硲時、

山部宿祢赤

人作歌一

首位薮東阻

"H「#巳n籠れK給リ切

古にありけむ人の倭文機の帯解きかへて伏屋立て要問ひしけむ勝鹿の兵間の手児名が奥つ城をこことは聞けど兵木の菜や茂りたるらむ松が根や遠く久しき言のみも名のみも我れは忘らゆましじ(3四三一)反歌我れも見つ人にも告げむ勝施の真削の手児名が奥つ城ところ(四三二)勝施の其間の入江にうち靡く玉淡刈りけむ手児名し思ほゆ(四==1- 山部赤人の典間娘子歌においては、長歌の傍線部において爽どいした男たちの様子をうたい、反歌の傍線部において娘子生前の様子を思い描く。しかし、娘子死後の残された者の様子についてはうたわない。過罪屈処女梨時作歌一首点u古のますら壮士の相競ひ要問ひしけむ深屋の菟原処女の奥つ城を我が立ち見れば長き代の語りにしつつ後人の偲ひにせむと玉鉾の道の辺近く岩構へ造れる塚を天怨のそくへの極みこの道を行く人ごとに行き寄りてい立ち喉かひある人は哭にも泣きつつ栢り継ぎ偲ひ継ぎくる娘子らが奥つ城ところ我れさへに見れば悲しも古思へば(9-0-

栢り維ぐからにもここだ恋しきを直目に見けむ古壮士(一八0三)右の「田辺福麻呂歌集」の歌は、虫麻呂歌と同じく菟原処女をうたう歌でありながら、処女生前の叙述が少なく、処女死後の壮士たちの様子をほとんどうたわない。むしろ、「奥つ城」を見た後代の人たちのことをうたっており(波線部)、虫麻呂歌とは異なるうたい方になっている。

追同処女砥

歌一

首Jf"

二) 古の信太壮士の要問ひし菟原処女の奥つ城ぞこれ(-八0 反歌

- 10 -

(11)

古にありけるわざのくすばしき半と言ひ継ぐ茅浮壮士菟原

壮士のうつせみの名を争

ふとたまきはる命も捨てて争ひに 要問ひしける娘子らが開けば悲しさ春花のにほえ栄えて秋 の葉のにほひに照れるあたらしき身の盛りすらますらをの 酋いたはしみ父母に巾し別れて家離り海辺に出で立ち朝夕 に滴ち来る淵の八重波になぴく玉硲の節の間も惜しき命を 舘霜の過ぎましにけれ奥つ城をここと定めて

後の世の開き

椛ぐ人もいや遠に偲ひにせよと黄松小櫛しか刺しけらし生

ひて靡けり(19四ニー一)

娘子らが後のしるしと黄柏小櫛生ひ変はり生ひて靡きけら

kl(四ニーニ)

同じく菟原処女のことをうたう大伴家持歌では「春花のにほえ 栄えて秋の策のにほひに照れる」というように、

比咄によって全

体が形成されており、虫麻呂歌に見られるような処女生前の様子、

処女死後の様子についての具体的な説明はない。

この歌で詳しい

のは、か空の上の木の枝

、つま

り、「後の世」の人が刺した「黄楊

小櫛」の「生ひ変はり」についてであり`

この歌の主題はむしろ

そこにあると捉えられる。

虫麻呂の〈畿内伝説歌〉は、古の出来事を再現する中で、別れ

た後の夫の様子、処女死別

後の男たちの様子を詳細にうたってい

る。以上の考察からすれば、

このことは、〈畿内伝説歌〉の呪立 つ特質としてよいようである。

一方、人麻呂の泣血哀慟歌は、死者生前の様子を叙する歌であ

るとともに、夫婦の別れ、死別後の夫周辺の様子を心内表現、

体的な行動を叙しながら削的にうたっていた。人麻呂の泣血哀慟

歌は、身近な人の死に際しての挽歌であるが、思えば、泣血哀拗

歌のこうしたうたい方自体がそもそも特殊なことであったといえ

需窯采集」の挽歌を見渡すと、内容的に〈生前の様子〉〈死に至

る過程〉〈死後の様子〉〈うたい手の感慨〉によって成ると見られ

る。が、当然のことながら、全ての歌がこれらを必ず詠み込むわ

けではない。多くは、「偲ひ」を旨とし、

人はよし思ひやむとも王硲彩に見えつつ忘らえぬかも(2

一幽九)うつ

せみし神に堪へねば渡れ居て朝限く君放り居て我が恋

ふる君玉ならば手にをき持ちて衣ならば脱く時もなく我が

恋ふる君ぞきぞの夜拶に見えつる(2-五0)

のように〈うたい手の感慨〉をうたうのを基本とする。そうした

中、歌(長歌)に

〈生前の様子〉を詠み込むことを積極的に行っ

たのは、柿本人麻呂である。日並皇子挽歌(2-六七ー九)以降、

人麻呂の身近な人の死をうたう長歌においては、死者生前の様子

をうたうことが必ず行われており、それが人麻呂挽歌(長歌)の

特徴の一っとなっている。中でとくに〈生前の様子〉が詳しいの

は高市息子挽歌と泣血哀慟歌であることは前述のとおり。その上

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(12)

に、〈死後の様子〉を詳しくうたうという点を加えると、泣血哀慟歌の特殊性が俄然浮かぴ上がってくる。人麻呂の泣血哀慟歌は、〈生前の様子〉とともに〈死後の様子〉を詳しくうたうという点で、従来の挽歌とは異なるうたい方を示している.こうしたことを確かめると、人麻呂の泣血哀慟歌のうたい方が、虫麻呂の〈畿内伝説歌〉の形成上のそこかしこに彩秤を与えたのではないかという思いが膨んでくる。要の呼称、夫婦の描写、会話の引用、心内の引用、残された者の行為の描写など、表現上の.相似の数々は、虫麻呂の〈畿内伝説歌〉が泣血哀慟歌から刺激を受けて形成されたことを示唆しているのではないか。すなわち、虫麻呂は、生前の様子をうたうこと、

死後

の様子をうたうこと、そしてその叙事的なうたい方ということについて、人麻呂の泣血哀慟歌から相当なる刺激を受けて〈畿内伝説歌〉をなしたのではなかろうか。そもそも虫麻呂の〈伝説歌〉の成立自体、人麻呂の近江流都歌(1二九ー三一)、吉備津釆女挽歌(2l-―七\九)などからの―-‘) 流れの上に形成されたとする見方があり、虫麻呂が人麻呂歌、人

KC-麻呂歌集を参照していたらしいことは他の事例からも疫える。そうした事情を踏まえてみても、捕島子歌をうたう際に虫麻呂が泣血哀慟歌の表現を参照することはあり得ることと考えられる。以上、虫麻呂の〈幾内伝説歌〉と人麻呂の泣血哀慟歌との関係性について述べた。位後にこの立湯から、〈東国伝説歌〉から〈畿 内伝説歌〉への進展と、〈畿内伝説歌〉における虫麻呂の作歌態度ということについてまとめる。‘

長歌の可能性の追求

虫麻呂の〈伝説歌〉は、旅の途次、あるモノを見てうたうとい

【り】一う旅歌の流れの上に形成されたとする見方がある。たしかに、虫麻呂の〈東国伝説歌〉のうちA真間娘子歌については、この理陪がうまく当てはまる。真皿娘子の「奥つ城」「兵間の井」を見ることを通して娘子生前の様子に思いを馳せ、古の出来事を再現するといううたい方は旅歌にある。長忌寸奥麻呂見結松哀咽歌二首

•••. ••••

() 岩代の船の松が枝結ぴけむ人は焔りてまた見けむかも(2一四==)

.........

...

岩代の野中に立てる結ぴ松心も解けず古思ほゆ(-Rg四)生石村主真人が歌一首

大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代経ぬらむ(3三

.... .

五五)右は、旅先の「松が枝」「石室」を通して古の出来事、古の人に恩いを馳せる。虫麻呂のA真間娘子歌はこれを長歌反歌の形で試みたものといえる。しかしながら、同じ〈東国伝説歌〉でもB珠名娘子歌には旅先のモノがうたわれていない。A真問娘子歌に

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は「身をたな知りて」とありB珠名娘子歌には「身はたな知らず」とあることからして、B珠名娘子歌の主たる目的はAの其圃娘子と対照的な女性を描くことにあり、旅先のモノをうたうという伝統を継承しようとするこだわりは、少なくともB歌においてはなかったと考えられる。すなわち、虫麻呂の〈伝説歌〉は、旅の途次、

あるモノを見てうたうという旅歌の流れの上に形成されたと

理解してよいけれども、実際には、旅先のモノよりも古の人の生

・き

方ということに関心を寄せる歌であるといってよい。そし

内伝説歌〉に至って、 て 〈畿

古の

出来事を再現する姿勢を一段と強め、夫婦の別離後、男女の死別後のことにも力を注ぐ歌になった。これによって〈畿内伝説歌〉は、古の女性の生き方に関心を寄せる〈東国伝説歌〉の域を超え、たとえば涌島子歌であれば補島子の家はどこに求めるべきであったのか、菟原処女歌であれば菟原処女にとってはどういう形になっていればしあわせであったのかということなどを考えさせる、いわば哲学的要素を含みもつ、より深みのある歌になったといえるであろう。旧桜「麻橋虫麻呂補島伝説歌に関する一考察ー「枇間の愚か人

-10) の」を中心としてー」において、派終的に、「世間の恐か人の」は、人麻呂長歌の表現を維承Lつつ、新たな艮歌の可能性を追求しようとした姿勢からもたらされた表現と見られること、そしてこのことは、虫麻呂が悩業長歌の転換期に位皿し、いわば伝統と革新の問題に対峙した歌人であったことを物甜る、と述べた。以上の 考察を蹄まえて改めていえば、〈東国伝説歌〉から〈畿内伝説歌〉へと進む過程で虫麻呂がめざしたものは、やはり、長歌の可能性の追求ということではなかったかと考えられる。〈東国伝説歌〉を経て〈畿内伝説歌〉をなすにあたり、虫麻呂は、風土記などの文献や漢籍、「萬葉集jに収鋒されることになる先行歌を参照し劾屯Jしたものと拙察される。そういう中で虫麻呂は、人麻呂の泣血哀慟歌から多くの刺汲を受け、古の出来事を再現する歌の中で夫妍の別離後、男女の死別後にも焦点を当ててうたうということに思い至ったのではないか。夫婦の別離後、男女の死別後の様子をうたうということは、旅先で古の出来事をうたう従来の歌にはもちろん見られなかったことであり、結果として虫麻呂は新しい性質の歌を生み出したといえる。かくして虫麻呂の〈畿内伝説歌〉は、長歌の可能性を追求した虫麻呂の作歌活動の結品として`空前絶後の長歌作品となったと捉えることができる。(二0一八・九・九)

注(l)錦織浩文「死者生前の様子をうたう歌ー「巡狡集jにおける〈生前叙述〉の甜相と虫麻呂歌」(岡大国文論稿祁四十六号・ニ0一八年〉。そこでは、死者生前の様子についての叙述を〈生前

叙述〉として説明した。

(2)野家啓一「物甜の哲学l(岩波現代文庫・ニ00五年)は、「物語り行む」を「時間的に離れた複数の出来事を指示し、それら

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を〈始めー中間ー終わり〉という時間的秩序に沿って筋立てる行あ」と定義する。これにならえば、〈伝説歌〉における死者生前の叙述は、総じて〈物語り行偽的〉であるといえる。(3)ただし、死者生前の戦闘の様子をうたうという慈味では、菟版処女歌の壮士らの戦闘描写に通じるともいえる。(4)古日歌は、古日生前の様子と死に至る様子を記録するような性格が強く、「偲ひ」を旨とする従来の挽歌のあり方から雌れるところがある。巾西辿「古日の歌」(「山上憶良j河出古房新社・一九七三年)には、「こうした体質において`はじめて非伝粒的な挽歌(いやむしろ挽歌ですらないのだろうが)が可能となった。それほどに、この作からは飢魂性が剥珪しているのであって、太々と前面に押し111されているのは、子を失おうとしている人間の悲しみ、そしてそれを現実として甘受せねばならぬ人間の歎きであった。死者への奉仕から拗哭する人間そのものへと、主体を転倒せしめたところに、この作の特質がある」(四九六頁)とする。虫麻呂の(伝説歌〉との先後関係は明祐ではないが、古日歌もまた死者生前の様子、死後残された者の様子を具体的に叙し、従来の挽歌とは界なる様相を見せる。古日歌もまた泣血哀慟歌の影界を受けてなされたかと見られる而があり、虫麻呂の〈畿内伝説歌〉との関連をも我わせる而がある。古日歌については作者が明らかではなく、成立時期についても明確ではないが、この歌もまた長歌の可能性を追及する姿勢によって導かれた作品といってよかろう。(5)字合と虫麻呂の関係を認めない説もある。本相は、字合と虫麻呂の関係を認める立楊をとる3箪者の考えは、拙消「高板虫麻 呂研究」(おうふう・一10-―年)において述べた。近時発表された、大久保廣行「悩柏虫麻呂の万策世界ー"郷と伝承の受容と削造j(笠間柑院・一

io

一八年)は、宇合と虫麻呂の関係を認めた上で、字合は焚老三年(七一九)七月に常沌困守北按察使となり、虫麻呂は喘松国の大採と按察使の典の大任を担って字合とともに常陸国に下向したと推定している。また`字合が帰京して式部卿となった際、虫麻呂は字合の樅部により式部省の役人となった可能性があり、字合が知造誰放宮事となった際、虫麻呂は再ぴ字合に用いられ、造難波宮司の主典として参西したと推定する。(6)錦織浩文「高伯虫麻呂捕島伝説歌に関する一考察ー「世間の愚か人の」を中心としてー」(淡夫君志第八士二

t”

・ニ0―二年)(7)伊藤悼「伝説歌の形成」(『抵狡集の歌人と作品下」硲舟房・一九七五年、初出一九六四年)には、〈伝説歌〉の源流に人麻呂の近江荒都歌(1二九\三一)を見、村旧右訂実「歌われた伝説ー万藻集の「捕島子」)」(「説話t11集第十八j梢文堂・010年)には人麻呂の吉俯沖釆女挽歌(2ニー七\九)に〈伝説歌〉形成の契椴を見る。(8)虫麻呂には「社二月、祁卿大夫等下雖波時歌二誼化R」と俎する長歌を述ねる

作が

ある(9-七叫七\八・一九匹九1五0)。それは、人麻呂の吉野粛歌(l_二六\七·一そ八\九)`石見相間歌(2-三―\三•-三五i七)、泣血哀慟歌(2110七\九・ニー

o-

二)などの長歌による辿作に学んだものと見られる。また、虫麻呂は「亦抵述虫麻呂之歌集」を組んでおり、「淡菜集」の編集汗科として用いられているが、本来の仕様は「柿本朝臣

11

(15)

人麻呂之歌集」に倣うところが多かったと推察される(拙若「高協虫麻呂研究」おうふう・ニ01―年)。(9)前掲、伊藤他「伝説歌の形成」(注7)(10)前掲、

錦織浩文「高歯虫麻呂捕島伝説歌に関する一考察ー「世

間の愚か人の」を中心としてー」(注6)

(11)廣岡義隆「説話の生成と展開—捕島説話を俎上にー」(「説話論 集第十八集」惰文堂・ニ010年)に「この窃橋虫麻呂によ る悛歌文芸は、「丹後因凧土記jに収戟された漢文作品に材を取ったものであり、伝説伝承に取材したものではないと見るのがよい。この「詠水江捕嶋子1首」中に四箇所(略)見られる直接話法(会話技法)も「丹後陵屎土記」「館川村」条にヒントを得たものである可能性がある。またこの後の作と推定される「見苑原戌女翡歌l首井短歌」(9.一八0九\『八―-)長歌中の直接話法(会話技法)もまたこの影栖下にあるのではないかと考えられる」と説く。小島悠之「伝説歌の表現」(「上代日本文学と中国文学」塙秒房・一九六四年)には、虫麻呂歌

の用字・表現について、捕島子歌の「衿」は「文選」(子虚駅)

などの用法と同じであり、菟原処女歌における親族による袋造りは至台新邑の無名人作「為――化砿"詞要ー作If序」の「両家求谷紐、合如蔽山傍i」に似て、処女墓の木の靡きは同作「東 西椛.一松柏\左右種.一梧桐"、枝々相覆盗、甜々相交通」に通じ、

処女の百策「ししくしろ黄鼠に待たむ」は同作「貸泉下相見」と同想と説く。これによれば、虫麻呂は〈畿内伝説歌〉をなすにあたり、少なくとも『丹後固風土記』「文選」「玉台新詠」などを参照していたと誰寮される。 愛知教育大学大学院国諾研究(愛知教脊大学大学院国語教育専攻)二六愛知県立大学説林(愛知県立大学国文学会)六六愛知淑徳大学国紐国文(愛知淑徳大学国文学会)四一愛知大非諮文梨(愛知大卑國文秘台)五七愛文(愛扱大学法文学部国語国文学会)五―――粁山語文(宵山学院大学日本文学会)四八湖の本(秦恒平)一三八、一三九、一四0、一叫一岡山大学国甜研究(岡山大学教脊学部国語研究会)32学芸国語国文学(束京学芸大学国語固文学会)五0

楳習院大歩固器因文卑會誌(広孟習院大れ本翌協苓^卑合)六一

〈雑誌〉 俗地と文人ー碓末期大坂の萩原広道1(山崎勝昭苦) 研究室受贈図書雑誌目録ー(平成三0年一月1―二月)〈単行本〉

束京女子大学図也館所蔵古今和歌集伝正撤箪(東京女子大学古

典文学研究会編) (にしこおりひろふみ阿南工業高等専門学校教授)

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