ヨーロッパ各地の博物館に見る水車風車関係展示品
著者 末尾 至行
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 1
ページ 188‑202
発行年 1995‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16504
筆者はこのところ︑水力エネルギーもしくはその代替である風力エネ
ルギーの︑開発利用手段である水車ならびに風車の研究にほとんど専念
している︒主な研究対象地域は日本国内であるが︑一九五九年以来九二
年に至るまで︑文部省科学研究費によって中近東諸国を調査する機会を
何度か与えられ︑また八五年には関西大学から在外研究︵調査研究六ヵ
月︶の許可を得︑ョ−ロッパ諸国の水車・風車利用の実情をつぶさに見
聞することができた︒
ョ−ロッパ諸国を旅して印象づけられた事柄は︑ョ−ロッパの人達の
持つ水車・風車に対する愛着︑思い入れの深さである︒日本では︑多く
の人達の水車に対する理解は︑せいぜい農村の米搗水車場の域を越えず︑
風車に対しては今一つ馴染みがない︒しかし︑ョ−ロッパの水車は︑中
世以降は製粉以外にも様々な加工業の原動力として利用きれ︑人々との
かかわりも深く︑さらに風車は︑殊の外著名なオランダのみならず︑ョ
−ロッパの各地に建造きれて主に製粉を担当してきた︒これらの幅広く
長期にわたる水車・風車との触れ合いの上に︑ョ−ロッパの物質文化は
成立っていたのである︒
今日︑ョ−ロッパを旅して巡り合う水車博物館・風車博物館の存在は︑
ョ−ロッパ各地の博物 館に見る水車・風車関係展示品
首都コペンハーゲン北郊のリングビーご長与村にある野外博物館
軍旨呂のョ易の里には︑四つの製粉水車が展示されていてそれぞれに興味
深いものがある︒
その一つは︑北大西洋上に浮かぶデンマーク領の離島︑フェロー
要の﹃oの諸島からの水平型水車であって︑いわゆるノース言﹃の①︵北欧︶①たて式水車そのものである・竪軸水平型の水車は木造の粗末な小屋︵図1︶の
床下にあり︑車軸は歯車なしで小屋の中に据えられた石臼︵上臼︶に直結
する︒八枚からなる水車の羽根の個々の大きさは三八センチ×一八セン
チで︑ほとんど垂直に車軸に差し込まれ︵図3︶︑向かって右奥からの水
流によって時計回りに回転する︒石臼の大きざは直径四五センチ︑上臼
の厚さは中心部で一○センチ︑周縁部で五センチである︵図2︶︒往時 水車・風車に対するョ−ロッパの人々の思い入れの深ざを物語っている︒また︑各地の野外博物館に集積された水車小屋や風車塔も︑種類も豊富で多数に及ぶ︒本稿は︑これらの博物館を探訪して眼にした水車・風車関係展示品に関する記録である︒
︽デンマーク野外博物館︾
末尾至行
一八八の用途は︑多数の農家が共用する自家用の大麦粉挽きであった︒
ノース式水車は他にも一つ︑スウェーデン南部のスモーランド切冒平
冨且将来のものが展示されている︒先の例に比べれば︑建物は屋根も
板葺きで造りも大きく︑羽根は二三センチ×一四センチとやや小型であ
るが一四枚を数え︑水流の衝撃に応じるよう︑幾分の傾斜角をもって車
軸に装着されている︵図4︶・石臼も直径一メートルの大きさであり︵図
5︶︑水車々軸と直結して時計回りの回転力を受ける︒
技術発達史の上からは︑竪軸水平型のノース式水車はギリシア式水車
とも呼ばれ︑横軸垂直型のいわゆるローマ式水車と対比される︒ちなみ
に︑ここでいうギリシア︑ローマの呼称は古代ギリシア︑古代ローマの謂
であり︑技術史上︑水平型と垂直型の双方の水車が︑これらの時代にそれ
ぞれ支配的であったとみる旧慣に由来するものである︒他方︑水平型水
車のノース式︑ギリシア式の二種類の呼称については︑これを北欧式︑南
欧式と置き換えて捉え︑その地域差の指摘が重要であると筆者は考える︒
その地域差とは水車・石臼の回転方向の違いであるが︑南欧よりもむし
ろその東の延長部で南欧と一体とみなされるべき中近東の︑反時計回り
②の水平型水車にかねて慣れ親しんできた筆者にとっては︑デンマークの
野外博物館の時計回りのそれから受ける印象は新鮮そのものであった︒
垂直型水車も三つが展示きれている︒一つはバルト海上の離島︑ボル
ンホルム野目言言からの製粉水車で︑水車は直径四メートル︑幅六○
センチの下掛け式である︒この製粉水車は小屋内部の石臼の配置に特徴
があり︑二層に仕切られた部屋の上段の屋根裏スペースに石臼があって︑
挽かれた粉は下段で受けて袋詰めされる仕組みであるが︵図6︶︑まき 首都ブクレシュチの北郊六キロのヘラストラウ函の墨の寓言公園の一角に設けられたこの野外博物館三目の昌蟹冨巨の三の弩忌ぎ言匿感には︑国内各地から集められた水車小屋︑風車塔が展示されている︒その幾つかを次に紹介する︒
製粉水車⁝トランシルヴァニア山脈西部の山村から︑床下に水平型水
車を備えた水車小屋が二つ︑もたらざれている︒その一つはプラヴィシ
ェヴィッッァ国胃耐のぐ営村将来の一九世紀末建造の切妻型の建物であ
り︑他はテレゴヴァ惠﹃晶○ぐ幽村からの一九世紀初期建造の寄棟型の建
物である︒床下にもぐって確認したところ︑水車の羽根数は前者は一四
枚︵図7︶︑後者は一二枚であり︑ともにスプーン型であって︑その回
転方向は時計回り︑すなわち先述のノース式である︒
製油水車⁝トランシルヴァニア地方のアルバ産冨地区︑ヴァレァ・
一八九 に製粉風車の石臼の配置に酷似する︒
今一つの垂直型水車は︑デンマーク中央部のフュン甸言島将来のそ
れであり︑水車小屋の側面に直径一・六メートル︑幅一メートル前後の
水車二台を︑斜め前後に並べた点に特徴がある︒そのうち外側の水車は︑
歯車の連動によって大麦挽割臼︑ライ麦挽割臼および穀粒選別器を動か
ふるいし︑内側の水車も歯車の連動によって小麦製粉臼︑燕麦挽割臼︑飾器
および織機を動かすなど︑その用途は多彩であり︑室内にはこれらの作
業機が所狭しと置かれている︒なお︑挽臼類はすべてが時計回り回転で
ある︒
︽ルーマーーア村落︒民衆芸術博物館︾
I
図
2
図1
図
3
図
6
上は上段の石臼、下は下段の粉受けヽ 5
ゞ.ぶ
.r-,•·
闘
図 4
図
5
九〇
ミカく巴の四三&から将来された一九世紀後期建造のものである︒直径
一・九メートル︑幅五○センチ︑二八枚羽根の上掛け垂直型水車で︑数
たて本の竪杵を上下に作動させ︑カボチャの種子・大麻の種子を粉砕して搾
油していた︒
金鉱石粉砕水車⁝同じくアルバ地区のブチウム・ポィエニ冒の旨皀
ぎ尉昌村将来の︑一九二六年以来の水車である︒上掛け垂直型水車は直
径二・八メートル︑幅六六センチ︑羽根数は三二枚を数え︑太い水車車
軸には異なった角度で九個の爪が突出し︑それぞれの爪が車軸の回転に
おもし応じて順次九本の竪杵を上下させる︵図8︶︒なお個々の杵先には重石
として花崗岩の石塊が取付けられている︒
縮絨水車⁝厚手の毛織物を叩き締めるための縮絨水車言愚︶は︑ルー
マニアでのかつての普及の度合いを反映し︑アルバ地区のフェネシュ
弓ご$村から一︑シビウの言匡地区のグラ・リウルイの貝四国巨巨村から四︑
併せて五つ集められている︒なお水車の型式はすべてが垂直型である︒
フェネシュ村の縮絨水車は二○世紀初頭以来のものであり︑壁は石積
み︑屋根は茅葺きの小屋である︒水車は直径二メートル︑幅六五センチ︑
二四枚羽根の上掛け型式で︑水車車軸の八個の爪が八本の横杵を作動さ
せ︑臼の中の熱湯に漬けられた毛織物を叩き締める仕掛けである︵図9︶︒
グラ・リウルイ村の縮絨水車のうち一九世紀初頭以来のものは︑八本
の横杵を備え︑横たえられた太い丸太に穿たれた四つの穴が︑二本ずつ
の杵を受けて臼の役目を果たす︒なお︑水車は中程に落水を受ける腰掛
け型式であるが︑近付けず寸法取りは不可能であった︒一九世紀以来と
いう他の一つは︑八本の竪杵を持ち︑水車は直径一・四メートル︑幅八 ○センチ︑一六枚羽根の上掛け型である︒
なお︑ルーマニアでは︑水車動力の杵を用いての機械的な縮絨方式の
ほかに︑桶の中に漬け置かれた毛織物を直上からの落水の衝撃によって
縮絨する装置︵三s胃の画︶も普及しているが︑そのサンプルも一つ展示
されていた︒
製粉風車⁝ドナウ川デルタ地帯のトゥルチャ目匡言の凹地方からもたら
きれた風車塔が三基認められる︒最大のものは︑本体も六枚の羽根も︑
すべて木板で造られたサリキオイ蟹風呂巨村の箱型風車であって︑一
九世紀初頭以来の歴史をもつという︵図遡︶︒塔内は二層に分けられ︑
梯子で昇降する上層には小麦用とトウモロコシ用に区別された二基の石
臼があって︑反時計回りの羽根の回転を歯車の連動によって受け︑二日
ともに反時計回りに回転する仕組みである︒ちなみに石臼の大きさは直
径九○センチ︑厚き︵上臼︶一○センチである︒なお︑風向に合わせる
ための方向転換は一人の力で可能であるという︒
ヴァレア・ヌカリロルく巴困二月胃言局村将来の一九世紀初頭以来と
いう風車塔も︑本体・羽根︵四枚︶ともに木板製の箱型風車であって︑
約一メートルの高言に積み上げられた石造の基台の上に据えられている
点だけが異なる︵図Ⅱ︶︒羽根・石臼︵一基︶の回転方向はともに反時
計回りである︒
エニサラ固昌笛匿村からの︑一九四一年に造られたという風車塔は︑
本体の高き約三・三メートルと如何にも小型であって︑四枚羽根こそ木
板製であるが本体は葦の茎材で囲われた粗末な造りである︵図的︶︒後
述の通り︑ハンガリー南部の散村地帯においてもこれに匹敵する小型風
一
九
一
九
オランダのライデン序昼曾市の市街地の北寄りの一角に︑﹁ドゥ・フ
ァルクロのぐ四房︵薦︶﹂風車と呼ばれる︑ステージ付きの高さ二九メー
トルの風車塔が聟え立っている︒一七四三年に︑当時の市壁上に建てら
れた由来をもち︑市民のために小麦粉を製出する製粉風車であった︒現
在は風車塔そのものが博物館となり︑当時の風車製粉の情況をつぶさに
示し︑併せて様々な模型や風車の補修工具などを展示して︑オランダの
昔日の風車の全貌を伝えようとしている︒
風車塔は八層からなり︑地上一四メートルのステージ付きの五階から
上が本来の製粉場である︒六階には石臼︵かつては四基︶が据えられ︑
八階にある風車車軸からの伝導動力を受ける︒五階は六階の石臼で製せ
られた小麦粉の袋詰め場であり︑ステージには︑風向に応じて風車の向
きを変える装置が備わっている︒羽根の大きざは︑その一枚分が八階か
らステージに届く程で︑直径約二六メートルである︵図過︶・
ステージから下の四階・三階は︑本来は小麦および小麦粉の収蔵スペ
ース︑二階・一階は風車番すなわち製粉業者の居住スペースであったが︑ 車を眼にするが︑ともに孤立的な集落での︑少ない小麦粉需要に見合った製粉手段であったと判断される︒なお︑羽根・石臼はともに反時計回り回転である︒
現在はそれぞれ博物館の展示スペースに当てられている︒
ちなみに︑このような高層の風車塔が必要となったのは︑時代ととも
に町の家並みが高くなり︑風の取込みに不都合が生じ始めたのがその理 ︽ライデン市立ドゥ・ファルク風車博物館︾ ロッテルダムの東方二五キロのキンダーダイク︻宮居己涛には︑一八世
紀中期に相次いで建造された一九基の排水風車が林立し︑オランダ的景
観が最もよく保たれているが︑これらの風車は現在も時折その役割を果
たしていて︑いわば生きた博物館である︵図陞︶・
キンダーダイクの風車は︑降水期に生じる地上の余水を︑河川水位よ
りも低い位置にある干拓地︵ポルダー︶から強制的に揚排水するために
機能するものであって︑その用に供せられる垂直回転の水掻き車が風車
を動力にして動かざれるのである︵図賜︶・
ポルダーからの排水は一挙になされるのではなく︑まず︑ポルダーの
余水は下段列の風車によって︑ポルダーよりも上位に設けられた貯水池
しも︵いわば下池︶へいったん揚排水きれる︒これをざらに上段列の風車が
かみそれよりも上位の︑河川へと通じる別の貯水池︵いわば上池︶へと揚排
水するのである︒
キンダーダイクの風車塔は高さ平均約一五メートル︑風車の羽根の直
径は約二八メートルである︒塔の最下層は︑水掻き車の据えられた部分
を除いて︑風車番の居住空間であり︑居室︑寝室︑台所などに間仕切ら
れている︒ 由であったという︒
︽ザーンダム風車博物館﹀
オランダの首都アムステルダムの北西方八キロのザーンダム蟹自忌冒 ︽キンダーダイクの排水風車︾
九
固1
4
図1
5
左は屋外から、右は屋内からの撮影図1
3
ぷ..
. . , : ; 入 . 、
図1
6
図17
一九四には︑製材︑揚排水︑製紙︑製油など︑各種の用途に供きれていた風車
の模型が多数展示きれた博物館があって興味深いものがある︒また︑そ
の北側のザーンセ・スハンス野目の①浮冨ロのには︑実物の風車も約一○
基︑水路沿いに集められて野外博物館を形成しており︑色彩豊かに化粧
きれたこれらの風車塔が水辺に映えるさまは︑ひときわなごやかな景観
である︒
そのうちの一つ﹁ドゥ・カット屠宍胃︵猫︶﹂風車は︑ブラジル︑メ
キシコ︑西インド諸島から輸入されるペルナムブコ︑カンペチェなどの
木材を粉砕して赤︑青︑黄などの塗料を製出する︑いわゆるカラーミル
である︒もともとこの地点には︑オランダで最古の一六四六年の創業と
いうカラーミルがあった︒しかしこれは一七八二年に焼失しそのあと製
油風車として再興されたものの︑これも一九○四年には崩壊状態となっ
た︒現在のカラーミルは︑一六九六年以来ザーン市東部にあった別のカ
ラーミルが︑一七八一年に火災にあったのち再建きれたものの近年の市
街地の膨張によって立退きを迫られ︑この地に二代目として移転してき
たものであるという︵図陥︶︒なお︑風車によって回転きせられる臼の
型式は転石︵硬︶である︵図Ⅳ︶︒
ハンガリー中東部のタンヤ弓目言と呼ばれる散村地帯には︑一般の
風車︵セルマロムの思言巴○且とは別名の︑風力挽臼の吊匡四国ざという
名の特異な小型製粉風車がかつてみられた︒伝聞によれば︑第一次大戦
中︑東部ガリチアの画言冨︵当時オーストリア・ハンガリー帝国領︑現 ︽タンャ博物館︾ ウクライナ共和国領︶戦線で捕虜となった二人の青年が︑彼地でこれを
③実見して郷里にもたらしたものという︒となればその原型は︑ハンガリ
ーより北方のガリチア地方に求められるべきものであろう︒
彼らは一九一八年と一九年に︑それぞれ自家用にこの小型製粉風車を
造るが︑さらに近隣の農家の頼みに応じて造作し︑あるいは隣人達がこ
れを模作するとかで︑一九三○年代にはその近辺でこの小型製粉風車は
約二○基を数えるに至ったという︒しかし第二次大戦後はその数も次第
に減少し︑今日では︑タンヤ地方の中心都市ホドメズューヴァーシャル
ヘイまQ己の&墨患昌の々近郊にあるタンヤ博物館弓目冨冨言の巨曰に︑一
九七二年に移設ざれ復元されている最後の一基を︑辛うじて眼にするに
すぎない︒
タンヤ博物館は︑タンヤ地方に点在していた孤立農家そのものを施設
とするものである︒その前庭の一角に︑小型風車は︑かつての配置状況
そのままに据え置かれているが︵図肥︶︑孤立農家にとっての自家用小
型製粉風車の存在はその孤立性の故にいかにも合理的であるとの印象を
受ける︒
風車小屋は木造で︑高ざは二・八メートル︑型式は箱型風車であるが︑
中心支柱はなく︑背後から外枠に差し沿えられた二本の斜め支柱によっ
て支えられる構造である︒羽根数は四枚で布張りであるが︑布張りのた
めの個々の木枠の大きさは︑長き一・七五メートル︑幅七八センチであ
る︵図的︶︒底辺九○センチ四方の小屋の中には︑ピラミッド半裁型の
ホッパー︵穀入れ︶や︑直径四五センチの石臼などの備えがあるが︑通
常の風車塔に比べればいかにも狭苦しく︵図別︶︑製粉に当たっては身
一九五
ノ
を乗り入れるだけの作業に終始したものと想像きれる︒
なお︑この小型風車での製粉は︑トウモロコシ︑大麦︑キビなどの家
畜飼料が主であり︑風の条件に恵まれれば製粉量は一日約三○○キロに
達した︒通常は町方の製粉風車に依存する小麦粉も︑稀に製せられるこ
ともあったが︑その製粉には家畜飼料の倍の時間を要したという︒
ハンガリーの西部国境に近く︑ケーセグ患闇侭の町の南西七キロに
位置する山村ヴェレムく巴の日に︑極めて整った製粉水車場が残されて
いる︒水車の起源は一五六八年まで遡るというが︑当然のことながら建
物はその後幾度となく改修されており︑現存のそれは一九一九年に三階
建てに改築きれた状況を伝えるものである︵図趾︶・
ヴェレムの水車場は一九五二年までは現役であった︒その前年︵一九
五一年︶に国有化きれたものの︑水車場が小規模であったため︑すぐに
所有主のシュルテル浮言言﹃氏に返却されたという︒ただ︑シュルテ
ル氏がその翌年に死去したために業が閉じられ︑以後三八年にわたって
水車場も廃屋となるが︑一九八○年︑ヴァーシュく麓県知事の指示に
よって博物館として復活されることとなり︑水車・製粉機械類も程なく
整備されて今日に至っている︒これらの水車・機械類を用いて毎日一○
○キログラムを限度に小麦粉を挽き︑これを記念袋に入れて売っている
のも︑他に例をみないこの博物館の特色である︒
昔日の営業当時の状況を補っていえば︑搬入きれた小麦は秤で重量を
量られた後︑箱リフトで階上へ上げられ︑選別機で混雑物が取除かれる︒ ︽ヴエレム水車製粉博物館︾
スロヴェニァ国境に近いオーストリア南東部の中心都市グラーッ
の国園から北へ一五キロ︑一寒村ステュビング②言亘晨村にこの広大な
オーストリア野外博物館○の席﹃重の言のgのの卑里言三日崖のの崖ョはあり︑各
地からもたらされた多くの民家に混じって︑計六つの水車小屋が展示さ
れている︒ その後小麦はホッパー︵容量五○○キロ︶に移され︑ガンッ霞邑画社製の製粉機によって製粉きれるが︑粉は箭器を通る過程で最終的に①上質
あら粉︑②クッキー粉︑③パン粉︑④粗挽粉︑⑤ふすまの五種類に仕分けら
れ︑ダクトを通ってそれぞれの袋に収納される︵図加︶︒製粉能率は二
四時間で一五○○キロ︑すなわちホッパー三杯分であり︑賃挽料は搬入
量の五六パーセントであった︒
今の水車は︑四○年間使われた前の水車に代わって一九八○年に新造
されたもので︑直径五・二メートル︑幅○・八メートル︑材質は赤松で︑
車軸と軸受には樫材が用いられている︵図酪︶︒水車の回転率は一分間
に六回転︑これが歯車によって一○○回転に高められ︑製粉機に伝導さ
れる︒
ちなみに︑かつてこの水車は製粉のほかに製材にも用いられたことが
あり︑粉挽場に接して製材場もあった︒また︑水車は発電の用にも供せ
られていたという︒なお現在は︑水車場の付属施設であった水車番のワ
イン醸造場が残されており︑室内には二二三年前に製作されたブドウ搾
り機が展示されている︒
︽オーストリア野外博物館︾
一九七
図
2 5
図
2 4
図
2 6
図
2 8
図
2 7
図29
仕 切 り の 左 側 が グ ラ イ ン ダ ー 九八
グラーッ周辺のシュタイエルマルク津田胃冒胃穴地方からは︑入口か
ら順に次の四つの水車が集められている︒
油搾・製粉用二連水車⁝一九六四年まで現役であったペラウ蚕言巨
から将来の二連水車で︑その大きさはともに直径三メートル︑幅一三セ
ンチであり︵図創︶︑一方は五本の竪杵を稼働して亜麻などの種油搾りを︑
他方は石臼を反時計回りに回転させて製粉を︑それぞれ担当していた︒
ちなみに計測したところ石臼︵上臼︶の大きざは直径九六センチ︑厚さ
四三三六センチであった︒
製材水車⁝ミュルッ冨胃園川の支谷流域からもたらされた巨大な二階
建ての造りであり︑階上部分に台車と垂直鋸が据えられ︑直径四メート
のこぎ鼠リル︑幅三○センチの水車がこれら台車と鋸を稼働きせる仕組みである︒
このような構造の製材水車は往時︑ヴェネチァ鋸機くの邑昌目の墨呈の﹃の
名で呼ばれていたという︒
二連製粉水車⁝ビルクフェルト四﹃蚕の昼からもたらきれた水車二台
を備えた製粉場であり︑ともに直径約三メートル︑幅二六センチのそれ
ぞれの水車が︑反時計回り回転の石臼一基ずつを動かしている︒石臼︵上
臼︶の大きさは一方が直径九○センチ︑厚さ一二センチ︑他は直径八六
センチ︑厚さ一三センチとほぼ同一であった︒厚ざはもちろん臼が使わ
れたその減り加減によるものである︒
鍛造・研磨水車⁝ムラウ冨匡国巨から移設きれた金属加工場の建物︵図
〃︶には︑直径二メートル︑幅三○センチの水車が二台備わっている︒
一つは横杵を動かす鍛造水車であり︵図翌︑他の一つは回転グライン
ダーを動かす研磨水車である︵図釣︶︒往年︑前者は鋳鉄製品︑主に華 イギリスの産業革命が︑ワットの蒸気機関の発明によって動力的基礎
を与えられた史実は否定すべくもない︒しかし︑その初期においては︑
アークライトの水力紡機が果たした役割の大きさからも明らかな通り︑
④水車動力も一方の主役であった︒
巨大な工場が水車動力によって支えられていた情況は︑ョ−クシャ
ー・ウェストライディングのリーズ房の房にある︑アームレイエ場
弩巨星三房︵現リーズエ業博物館︶や︑ランカシャーに南接するチェ
シャーの一小村スタイアルのご巴にあって現在ナショナルトラストとし
て管理きれている︑クアリーバンクエ場C匡胃ご野晏冨筐の偉容から
も窺うことができる︒
リーズは︑一七世紀初期から︑ヨークシャーの毛織物工業の中心地と
して水力縮絨業が盛んであったが︑アームレイエ場の地点も伝統的な縮 材の鍛造に用いられ︑後者は鍬の研磨に用いられていたという︒
南チロル地方の製粉水車⁝敷地のかなり奥に︑南チロル蟹三三のシ
ュナルスのg旨房からの︑一七七三年以来という製粉水車が展示きれて
いる︵図茄︶︒水車は直径三メートル︑幅二四センチで︑石臼の回転は
反時計回りである︒
ザルッブルク地方の製粉水車⁝ざらに奥まったところにはザルッブル
ク野旨言侭地方のルンガウ盲信目からの製粉水車がある︵図踊︶︒水
車直径は二・二メートル︑幅は二七センチで︑この水車だけが石臼の回
転が時計回りであった︒
︽王立スコットランド博物館ほか︾
一九九
図
3 0
図32
図
3 3
クアリーバンク工場側断面解説図図
3 1
水車の組立て工程を示すパネル図奴l
絨水車場の︱つであったという︒一七八
0
年頃から︑綿工業からの技術移転によって機械化が進行し︑工場内には縮絨機や粗杭機などが設備さ
れるようになる︒一七八八年には世界最大の毛織物工場との評価をえるが、縮絨機の動力としては直径――-•七メートル、幅一・五メートルの水
車五基が稼働していた︒さらに一九世紀の初めには︑この水力地点の有効利用を図るために工場の増設をみるが、新たに直径五•五メートル、
幅八・七メートルの出力七
0
馬力の胸掛け水車二基が加えられたという︒リーズ市によって購入され︑博物館に転じたのは一九六九年のことであ 二
00
るが︵図別︶︑残念ながら当時の水車はその雄姿をとどめていない︒
他方︑スタイアルのクアリーバンクエ場は︑一七八四年にサミュエル・
グレッグ蟹冒匡巴の﹃侭によって建てられた水力綿紡織工場である︵図調︶︒
水はボリン害三口川から引かれ︑工場の増築にともなって水車も代替
わりを繰返すが︑一八一九年に建造されたそれは︑直径九・八メートル︑
幅七・三メートル︑出力一○○馬力であった︵図瓠︶︒この水車は一九
○三年にタービン水車に席を譲り︑そのまま五九年の廃業を迎えること
となるが︑昔日の巨大な水車への懐旧もあって︑目下水車修復のための
募金が呼びかけられていた︒巨大水車は工場敷地の一隅に長さ七・五メ
ートル余のその芯棒を残すのみであったが︵図塊︶︑もちろん筆者もざ
さやかながらその募金に応じた︒
産業革命期の初頭を飾った巨大水車の一サンプルは︑エディンバラに
ある王立スコットランド博物館ご苫屋8葺筈冨扁2日の展示品にみる
ことができる︵図剖︶︒一見︑茶筒を横たえた様にみえるが︑現実には
直径の方が幅より大きく︑その仕様は直径七・七メートル︑幅六・四メ
ートルであって︑水受板は四八枚を数える︒
この水車は一八二六年︑マンチェスターのヒューズ・ウレン痔箸硯
陣毒﹃の口社の製造にかかり︑アバディーンのグランドホルムの国己言言
工場において︑大麦加工︑綿紡績︑羊毛加工と多用途に用いられてきた︒
その後︑九七年には同地の製紙会社アレックスピリー垂一関里国の陣
ざ易社に買取られ︑ドンロ目川に臨んだウッドサイドミ8房昼の工場
で製紙原料のぼろ布粉砕用の動力に利用され始める︒しかし︑第二次大
戦後︑ぼろ布に代わってナイロンなどが製紙原料として登場するに及ん 以上のほかにも︑水車・風車関係の展示を求めて筆者が訪ね歩いた博
物館は数多い︒例えば︑ミラノの国立科学技術博物館三宮のの︒壽凰o邑巴の
号言のaの口目の烏言目のo昌目︑パリの国立技術博物館宮屋の密室皇︒p巴の
︑号弓のo言昌匡の︑カーディフのウェールス民俗博物館毒巴筈弓弄冨巨の①匡冒
アルンヘムのオランダ野外博物館壽烏﹃冨呂の○罵口旨呂言匡のの巨日︑ミュ
ンヘンのドイツ博物館ロ①巨房の言の冨匡のの巨冒︑キールのシュレースヴィ上・
ホルシュタイン野外博物館己四の浮三閉言侭︲函○房毎旨厨呂の卑①三の言︲
日巨のの匡日︑オデンセのフュン村落博物館ロの口ごロの言宮自身g︑ウィーン
の工業工芸技術博物館目のo言言言の三房g己冨二己巨の三の巨巨の①尋の弓の︑
ザグレブの民族誌博物館厚ロ︒喫禺の画室巨星︑ブダペシュトの製粉博物
館三里○日三言呂目等々である︒
それぞれに記録に留めておきたい展示品は多数あったが︑紙幅の関係
で二つに限って次に述べる︒一つはミラノの科学技術博物館で見た︑レ
オナルド・ダ・ヴィンチの構想による水力製粉場の模型で︑その規模は︑
中央の水路上に雁行状に配せられた五台の垂直型水車と︑水路の両側に
整然と並べられた一六基ずつ︑計三二基の石臼とからなる︑巨大なもの
であった︒他の一つは︑ルイ一四世の求めに応じ︑セーヌ川からヴェル
サイユ宮殿にまで高度差一五三メートルを克服して水を汲み上げるべく︑
セーヌ河畔のマルリィ冨胃々に一六八○年代に造られたという動力水
車場の模型であって︑パリの技術博物館で眼にすることができた︒ で一九六五年︑工場も閉鎖され︑水車は博物館に移管されたというわけである︒
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○
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②末尾至行﹁西南アジアの水車・風車調査覚書①﹂関西大学東西学術研究
所紀要︑一○︑一九七七︑一一六頁︒
末尾至行編﹃トルコの水と社会﹄大明堂︑一九八九︑九○二三頁︒
③﹈︑三言重の蚕の唇四三口津二言g↓弓の留登胃登旦震言の&墨患忌の言
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④四国害后の﹃ぬゞ三の宮口8号篇g§三己屋の耳買ロ届き︾早目い胃言口吻
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時②のI﹂四① ︹図版について︺
図版はほとんどが筆者撮影にかかる写真であるが︑以下の図版はそれぞれ
次の資料によった︒
図咽ドゥ・ファルク風車博物館解説書の説明図
図Ⅳザーンダム風車博物館販売の絵葉書
図釦リーズエ業博物館解説書の表紙写真
図銘スタイァルエ場博物館入場券の図柄
図剥王立スコットランド博物館販売の絵葉書
なお︑図の説明は本文の記述で十分と考えたため︑キャプションは必要最
小限にとどめた︒
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