I 西隆寺 の沿革 と現状
1.沿
革西隆寺 は
,奈
良時代 の末,西
大寺 の近傍 に営 まれた官 の尼寺 で あ る。正史 には倉J建 につ い て直接 の記載 は ないが,続
日本紀ネ申護 景雲 元年 (767)八 月丙午条 に従 四位 上伊 勢 朝 臣老 人為造西隆寺長官
,中
衛 中将 参河守如故。とあ り
,九
月幸亥 条 に従 五位 下池原 禾守 為造 西隆寺 次官
,大
外記右 平準令 如故。とあって, この頃造営 が開始 された と考 え られ る。続紀│こよ ると
,翌 2年
5月幸未,恵
美仲 麻 呂の越前国 の地200町
と,故
近 江按察 使従 三位藤原朝 臣御楯 の地 100町が施 入 されて いる。また六 月成寅
,七
月朔,七
月成子 の各条 には先 の両 名 が依然長官 。次官 と してみ えなお造営 は続 いていた ら しい。 しか し宝亀二 年 (771)八月己卯 条 には初 令所 司鋳僧綱 及大安 ・薬 師 。東大 ・典福 。新薬師 ・元典 ・法 隆 ・弘福 ・四天王 ・ 崇福・ 法幸 ・西隆等寺F口
,各
頒 本寺 。とあつて
,寺
F「を頒 たれた ことがみ えるか ら,既
に寺 と しての様相 はほぼ整 って いたで あろ う。宝 亀六 年 (775)正 月の韓国千村解 (妥倉警
)に
は,経
典 の書写 に関係 して西隆寺 の名が み える (書 Bす嘉養)。他 にも年時未詳 の西隆寺鎮 三綱 務所宛造東大寺 司牒 が あ り(査晃介有る責) 裏 面 の文書 か らす れば
,宝
亀 頃 と考 えて よいで あろ う。 内容 は経典 の貸借 に関す る もので ある。 また続 日本紀 宝 亀 九年 (778)二 月丙寅 条 には,
誦経襟 東大西大西隆 三寺 。以皇太子寝膳 乗和也。
とあ り
,皇
太 子 山部親 王 の病 平癒 のため,誦
経 の行 なわれた ことが知 られ る。伊 呂波字類抄 (十巻本)は ,西
隆寺 の条 にな:武天皇 御 宇 て年 そ月封一百戸施 入之。
とい う記事 をのせ
,桓
武 天皇 の御宇 西隆寺 に対 して封戸 の施 入 の あ った ことを伝 えるが,こ
の こ とは他 に所 見 が ない。
長承
3年
(■34)5月
の大和国南寺敷地図帳案 (壇交蓑著烹1姦賓)に
よれば,西
隆 寺 の寺地 は,西隆寺 四丁四段 敷地 右京一條 二坊北辺
一條 二坊
九坪 一町 西隆寺 西小一反 同寺
南小 一反同寺 十坪 一町 同寺
西小 一反 同寺
南大三反 功
‑1‑
I
西隆寺の沿革と現状十一坪 一 町 勅 十 二坪 一 町 勅 十三坪 一 町 勅 十四坪 一町 勅 十五坪 一 町 西隆寺
十 六坪 一 町 西隆 寺
西大 三段 勅
南小 一反 西隆寺
とあ り
,小
とあ るの は小 路,大
とあ るの は大路 を示 す もの と考 え られ,西
隆寺 は,右
京一條 二坊 の9,10。 15'16坪
の4町
を占め,南
は条 間大路,西
は二坊 大路 に面 して いた こ とがわる。伽藍 の詳細 は不明で あるが
,鎌
倉時代 にで きた西大寺 旧蔵 の絵 図 (東大国史研究室所蔵) (図版39参 照)に は,右
京一条 二坊 の 9。 10'15。 16の4坪
の中心 に「金堂」,10坪
に「西隆寺塔」
,10坪
と15坪 の間 に「 南大門」,15坪
に「灯JFm石」 の注 記 を もつ もの が あ り, これ に よって金堂 と南 大 門 が南北一直線 上 にな らび,金
堂 の東 南 にあた つて塔 を配 す る伽 藍 配置 を とった こ とが推 定 で きる。 なお宝 亀 11年 (780)の 絵 図流 記 を以 て模 写 した とい う元禄H年
,(1699
八 月の西 大寺絵 図 (西大寺大鏡1)(図版40か 照)に
は,西
隆 寺 も描 かれて お り,上
記 の伽藍配置 に則 って重 閣 の金堂,金
堂 を と りま き講堂 に と りつ く回廊,二
重 の宝塔 な どが配 されて い る。 ただ この図 の西大寺 の部 分 を現 存 の資財帳 と比較す る と,内
容 は ほぼ一 致 す る が,明
らか に後 世 の建 物 も描 かれて お り,ま
た小 塔 院 の よ うに細殿 の意味 を解 さず に描 いたとみ られ る個 所 が あ る。 この絵 図 が どの程度 事実 を伝 えて い るかは なお検討 を要 しよ う。
平安 時代 の西 隆寺 につ いて は記録 に乏 しいが
,早
くか ら西隆寺 の帰属 が問題 にな った よ う で あ る。大同二 年 (807)七 月の玄蕃寮牒 (祗蔚亮養)に
よれば,玄
蕃寮 は僧綱 所 に対 して,西
隆寺 を法華 寺 に管 隷 させ て は な らない と通達 して い る。 この問題 は
,元
慶 四年 (880)五 月, 西大寺 が西隆寺 を摂 領 す るとい う形 で一応 の決着 をみた。 三代実録 の同 月十九 日条 に令 西大寺摂 領 西隆尼 寺
,此
両寺,是
高野天皇倉1建,以
西隆尼寺 為西 大寺僧 等浣濯 法 衣之 庇 也とあ る。 ここには当尼寺 が西大寺 の僧等 の法衣 を涜濯 す る所 とみ え るが
,こ
れ がその ま ま実情 で あ つた とは い えないで あろ う。
西隆寺 の廃 絶 時期 につ いて も明確 な史 料 は ない。弘仁 式 及 び延喜 式 にのせ る越後 国 の正税 中 に西 隆寺 料一 万束 がみ えるので
,十
世 紀 には なお存続 していた ら しい。建 長 三年 (1251) の西大寺寺 本検注 目録 (留蓮 薬異 な智)や
永仁 六年の西大寺 田園 目録 で は,寺
地 が田 畠 となって お り
,廃
絶 して いた こ とが明 らかで あ る。 なお法務 御房 御初 任 次 第 裏文書 (字雲遷憂所 辟 鍵 鎗 望 紳 ,基呈は露豚̲音5)に み える西 龍寺が当寺 を さす とす れば,平安 時 代 最末 期 には,存
続 して いて その所領 が葛 下郡 にあつた こ とにな る。 しか し文 書 は
,西
龍寺 が僧寺 で あつた こ とを 示 して お り, また西龍寺 独 自の所領 が当時 なお寺 か ら遠 く離 れた葛下郡 に確保 されていた と も考 えに くい。 む しろ異 なった寺 で あ る可能性 が強 い と思 われ るが,後
の検討 を侯 ちた い。‑2‑
1 ,谷
ただ
,南
元阿弥 陀仏作善 集 (轟奔藁 ),菅 家本諸寺縁起集 (懸杢菖条)に
現 われ る「西 龍寺」 の 舎 利 は,海
竜王 寺 文書 (西大寺所蔵)に
よつて,西
隆寺 の もので あ る こ とが確 め られ る。廃 絶 後 も中世 に当時 の合 利 が信 仰 の対 象 と なって いた こ とが知 られ よ う。西隆寺 の遺址 につ いて は
,江
戸時 代 に入 って和州 旧弥 幽 考 や五畿 内志 も言 及 して い るが, 比 較的正確 で詳 細 な もの は,元
禄 十 一 年 (1698)八月の西 大寺 古伽 藍 地 井現存 堂舎坊 院 図, (西大寺旧蔵,東
大国史研究室所蔵)で
あ る。 これ には旧寺 地 に「西 隆寺跡 」 と注 して礎 石 の 散 在す る様 が描 かれて い る。2.遺
跡 の 現 状西隆寺跡 は
,大
和盆 地 の北 縁部 や や西寄 りに位置 し,北
には山背 との境 をなす奈 良 山丘陵 が迫 り,東
には奈 良山 に源 を発す る秋篠 川 が南流 して,寺
域 の東 限 を画 して い る。 この地 は, か っての平城 京右 京一条 二坊 にあた り,東
には平城宮 が,西
には西 大寺 が隣接 し,京
の要地の一つ で あつた こ とが うかが える。
違跡 は奈 良市西 大寺 町 にあ り
,約 250m四
方 の寺域 をもつ。1962年 に撮影 された航空写真 をみ ると,寺
域 の南 を通 る一条条 間路 が現 市道 と して存 在 し,北
限 の北 一条 大路 ・西限 の二 坊 大路・ 東 限 の二坊坊 間路 も痕跡 的 で は あ るが,細
い水田畦 畔 で た どることがで きる。寺域 内 は まだ水 田 や畑 地 が大 半 を占め,寺
域 西南部 に接 す る近 畿 日本鉄 道 西大寺 駅周辺 と北 辺 の 一部 が宅地化 されて いた にす ぎない。寺域 ほぼ中央 には,長
径40mの
楕 円形 の水 田 が あ つて 金堂基壇 の痕fBlと み る こ とがで き, さらに,回
廊 の痕跡 か とも考 え られ る畦 畔 が金 堂 の南 と 東 西方 で た ど る こ とがで きる。金堂 の北 方 には講堂 が位 置 す るので あ ろ うが,す
で に一部 が宅 地化 して お り
,本
田畦 畔 か ら痕跡 をた どる ことはで きない。塔 が想定 され る位 置 は まだ水 田で あつた が,明
確 に塔 基壇 あ るい は それ を と りま く回廊 などの痕跡 は認 め られ な い。 この よ うに逮跡 地 は,10数
年 前 まで水 田地 帯 で あ り,畦
畔 な どか ら西隆寺 の寺域 や伽藍 配 置 の一 端 を知 るこ とがで きた。しか し
,西
隆寺 弥 が西 大寺 駅北 口 に近 接 す る関係 か ら, 5〜 6年
の間 に再 開発 の波 をまと もに受 け るよ うに なった。西 大寺 駅 は以 前 か らも奈 良 。大阪・京都・橿原へ の乗換駅 と して 賑 って いた が,
日本住宅 公団 が計画 した平城 ニ ュー タウ ン建 設構 想 を契 機 と して,駅
同辺 は大 きく変貌 し始 め た。駅 】ヒロ か ら東へ伸 び る市道 (一条条間路
)沿
い には, シ ョッピ ングセ ンターや銀 行 などが建 設 され,水
田 は急 激 に減少 した。 これ に平 行 して宅 地 の進 出 も著 る し く,現
在で は金堂 跡 周辺 に若 千 の水 田 が残 って い るにす ぎない状 況 で あ る。‑3‑