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I 西隆寺 の沿革 と現状

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Academic year: 2021

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(1)

I  西隆寺 の沿革 と現状

1.沿  

西隆寺 は

,奈

良時代 の末

,西

大寺 の近傍 に営 まれた官 の尼寺 で あ る。正史 には倉J建 につ い て直接 の記載 は ないが

,続

日本紀ネ申護 景雲 元年 (767)八 月丙午条 に

従 四位 上伊 勢 朝 臣老 人為造西隆寺長官

,中

衛 中将 参河守如故。

とあ り

,九

月幸亥 条 に

従 五位 下池原 禾守 為造 西隆寺 次官

,大

外記右 平準令 如故。

とあって, この頃造営 が開始 された と考 え られ る。続紀│こよ ると

,翌 2年

5月幸未

,恵

美仲 麻 呂の越前国 の地

200町

,故

近 江按察 使従 三位藤原朝 臣御楯 の地 100町が施 入 されて いる。

また六 月成寅

,七

月朔

,七

月成子 の各条 には先 の両 名 が依然長官 。次官 と してみ えなお造営 は続 いていた ら しい。 しか し宝亀二 年 (771)八月己卯 条 には

初 令所 司鋳僧綱 及大安 ・薬 師 。東大 ・典福 。新薬師 ・元典 ・法 隆 ・弘福 ・四天王 ・ 崇福・ 法幸 ・西隆等寺F口

,各

頒 本寺 。

とあつて

,寺

F「を頒 たれた ことがみ えるか ら

,既

に寺 と しての様相 はほぼ整 って いたで あろ う。宝 亀六 年 (775)正 月の韓国千村解 (妥

)に

,経

典 の書写 に関係 して西隆寺 の名が み える (書 Bす嘉養)。

 

他 にも年時未詳 の西隆寺鎮 三綱 務所宛造東大寺 司牒 が あ り(査晃介有る責) 裏 面 の文書 か らす れば

,宝

亀 頃 と考 えて よいで あろ う。 内容 は経典 の貸借 に関す る もので あ

る。 また続 日本紀 宝 亀 九年 (778)二 月丙寅 条 には,

誦経襟 東大西大西隆 三寺 。以皇太子寝膳 乗和也。

とあ り

,皇

太 子 山部親 王 の病 平癒 のため

,誦

経 の行 なわれた ことが知 られ る。伊 呂波字類抄 (十巻本

)は ,西

隆寺 の条 に

な:武天皇 御 宇 て年 そ月封一百戸施 入之。

とい う記事 をのせ

,桓

武 天皇 の御宇 西隆寺 に対 して封戸 の施 入 の あ った ことを伝 えるが

,こ

の こ とは他 に所 見 が ない。

長承

3年

(■

34)5月

の大和国南寺敷地図帳案 (壇交蓑著烹1姦賓

)に

よれば

,西

隆 寺 の寺地 は,

西隆寺 四丁四段 敷地 右京一條 二坊北辺

一條 二坊

九坪 一町 西隆寺 西小一反 同寺

 

南小 一反同寺 十坪 一町 同寺

 

西小 一反 同寺

 

南大三反 功

‑1‑

(2)

西隆寺の沿革と現状

十一坪 一 町 勅 十 二坪 一 町 勅 十三坪 一 町 勅 十四坪 一町 勅 十五坪 一 町 西隆寺

十 六坪 一 町 西隆 寺

 

西大 三段 勅

 

南小 一反 西隆寺

とあ り

,小

とあ るの は小 路

,大

とあ るの は大路 を示 す もの と考 え られ

,西

隆寺 は

,右

京一條 二坊 の

9,10。 15'16坪

4町

を占め

,南

は条 間大路

,西

は二坊 大路 に面 して いた こ とがわ

る。伽藍 の詳細 は不明で あるが

,鎌

倉時代 にで きた西大寺 旧蔵 の絵 図 (東大国史研究室所蔵) (図版39参 照)に は

,右

京一条 二坊 の 9。 10'15。 16の

4坪

の中心 に「金堂」

,10坪

に「西隆

寺塔」

,10坪

と15坪 の間 に「 南大門」

,15坪

に「灯JFm石」 の注 記 を もつ もの が あ り, これ に よって金堂 と南 大 門 が南北一直線 上 にな らび

,金

堂 の東 南 にあた つて塔 を配 す る伽 藍 配置 を とった こ とが推 定 で きる。 なお宝 亀 11年 (780)の 絵 図流 記 を以 て模 写 した とい う元禄

H年

,

(1699 

八 月の西 大寺絵 図 (西大寺大鏡1)(図版40か 照

)に

,西

隆 寺 も描 かれて お り

,上

記 の伽藍配置 に則 って重 閣 の金堂

,金

堂 を と りま き講堂 に と りつ く回廊

,二

重 の宝塔 な どが配 されて い る。 ただ この図 の西大寺 の部 分 を現 存 の資財帳 と比較す る と

,内

容 は ほぼ一 致 す る が

,明

らか に後 世 の建 物 も描 かれて お り

,ま

た小 塔 院 の よ うに細殿 の意味 を解 さず に描 いた

とみ られ る個 所 が あ る。 この絵 図 が どの程度 事実 を伝 えて い るかは なお検討 を要 しよ う。

平安 時代 の西 隆寺 につ いて は記録 に乏 しいが

,早

くか ら西隆寺 の帰属 が問題 にな った よ う で あ る。大同二 年 (807)七 月の玄蕃寮牒 (祗蔚亮養

)に

よれば

,玄

蕃寮 は僧綱 所 に対 して

,西

隆寺 を法華 寺 に管 隷 させ て は な らない と通達 して い る。 この問題 は

,元

慶 四年 (880)五 月, 西大寺 が西隆寺 を摂 領 す るとい う形 で一応 の決着 をみた。 三代実録 の同 月十九 日条 に

令 西大寺摂 領 西隆尼 寺

,此

両寺

,是

高野天皇倉1建

,以

西隆尼寺 為西 大寺僧 等浣濯 法 衣之 庇 也

とあ る。 ここには当尼寺 が西大寺 の僧等 の法衣 を涜濯 す る所 とみ え るが

,こ

れ がその ま ま実

情 で あ つた とは い えないで あろ う。

西隆寺 の廃 絶 時期 につ いて も明確 な史 料 は ない。弘仁 式 及 び延喜 式 にのせ る越後 国 の正税 中 に西 隆寺 料一 万束 がみ えるので

,十

世 紀 には なお存続 していた ら しい。建 長 三年 (1251) の西大寺寺 本検注 目録 (留蓮 薬異 な智

)や

永仁 六年の西大寺 田園 目録 で は

,寺

地 が田 畠 とな

って お り

,廃

絶 して いた こ とが明 らかで あ る。 なお法務 御房 御初 任 次 第 裏文書 (字雲遷憂所 辟 鍵 鎗 望 紳 ,基呈は露豚̲音5)に み える西 龍寺が当寺 を さす とす れば,平安 時 代 最末 期 には

,存

続 し

て いて その所領 が葛 下郡 にあつた こ とにな る。 しか し文 書 は

,西

龍寺 が僧寺 で あつた こ とを 示 して お り, また西龍寺 独 自の所領 が当時 なお寺 か ら遠 く離 れた葛下郡 に確保 されていた と も考 えに くい。 む しろ異 なった寺 で あ る可能性 が強 い と思 われ るが

,後

の検討 を侯 ちた い。

‑2‑

(3)

1  ,谷

ただ

,南

元阿弥 陀仏作善 集 (轟奔藁 ),菅 家本諸寺縁起集 (懸杢菖条

)に

現 われ る「西 龍寺」 の 舎 利 は

,海

竜王 寺 文書 (西大寺所蔵

)に

よつて

,西

隆寺 の もので あ る こ とが確 め られ る。廃 絶 後 も中世 に当時 の合 利 が信 仰 の対 象 と なって いた こ とが知 られ よ う。

西隆寺 の遺址 につ いて は

,江

戸時 代 に入 って和州 旧弥 幽 考 や五畿 内志 も言 及 して い るが, 比 較的正確 で詳 細 な もの は

,元

禄 十 一 年 (1698)八月の西 大寺 古伽 藍 地 井現存 堂舎坊 院 図, (西大寺旧蔵

,東

大国史研究室所蔵

)で

あ る。 これ には旧寺 地 に「西 隆寺跡 」 と注 して礎 石 の 散 在す る様 が描 かれて い る。

2.遺

跡 の 現 状

西隆寺跡 は

,大

和盆 地 の北 縁部 や や西寄 りに位置 し

,北

には山背 との境 をなす奈 良 山丘陵 が迫 り

,東

には奈 良山 に源 を発す る秋篠 川 が南流 して

,寺

域 の東 限 を画 して い る。 この地 は, か っての平城 京右 京一条 二坊 にあた り

,東

には平城宮 が

,西

には西 大寺 が隣接 し

,京

の要地

の一つ で あつた こ とが うかが える。

違跡 は奈 良市西 大寺 町 にあ り

,約 250m四

方 の寺域 をもつ。1962年 に撮影 された航空写真 をみ ると

,寺

域 の南 を通 る一条条 間路 が現 市道 と して存 在 し

,北

限 の北 一条 大路 ・西限 の二 坊 大路・ 東 限 の二坊坊 間路 も痕跡 的 で は あ るが

,細

い水田畦 畔 で た どることがで きる。寺域 内 は まだ水 田 や畑 地 が大 半 を占め

,寺

域 西南部 に接 す る近 畿 日本鉄 道 西大寺 駅周辺 と北 辺 の 一部 が宅地化 されて いた にす ぎない。寺域 ほぼ中央 には

,長

40mの

楕 円形 の水 田 が あ つて 金堂基壇 の痕fBlと み る こ とがで き, さらに

,回

廊 の痕跡 か とも考 え られ る畦 畔 が金 堂 の南 と 東 西方 で た ど る こ とがで きる。金堂 の北 方 には講堂 が位 置 す るので あ ろ うが

,す

で に一部 が

宅 地化 して お り

,本

田畦 畔 か ら痕跡 をた どる ことはで きない。塔 が想定 され る位 置 は まだ水 田で あつた が

,明

確 に塔 基壇 あ るい は それ を と りま く回廊 などの痕跡 は認 め られ な い。 この よ うに逮跡 地 は

,10数

年 前 まで水 田地 帯 で あ り

,畦

畔 な どか ら西隆寺 の寺域 や伽藍 配 置 の一 端 を知 るこ とがで きた。

しか し

,西

隆寺 弥 が西 大寺 駅北 口 に近 接 す る関係 か ら

, 5〜 6年

の間 に再 開発 の波 をまと もに受 け るよ うに なった。西 大寺 駅 は以 前 か らも奈 良 。大阪・京都・橿原へ の乗換駅 と して 賑 って いた が

日本住宅 公団 が計画 した平城 ニ ュー タウ ン建 設構 想 を契 機 と して

,駅

同辺 は

大 きく変貌 し始 め た。駅 】ヒロ か ら東へ伸 び る市道 (一条条間路

)沿

い にはシ ョッピ ングセ ンターや銀 行 などが建 設 され

,水

田 は急 激 に減少 した。 これ に平 行 して宅 地 の進 出 も著 る し く

,現

在で は金堂 跡 周辺 に若 千 の水 田 が残 って い るにす ぎない状 況 で あ る。

‑3‑

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