u退 構
Ⅱ
1
遺 跡 の概 要焼却場建 設予定地 は現在 荒地 とな って い るが、 もとは水 田耕作地で 、 地 表 面 の海 抜 高 は約 54.30〜
54.40mであ る。発掘調査 区 は、西1坊々間大路 の条坊痕跡 と目され る
2筆
の長方形 の水 田 と、 この 西側 に南北 にのびる細長 い水 田2筆
の計4筆
に及 んでい る。旧水 田耕作 上 の厚 さは約02mで
、 この 下 に厚 さ約0.15〜030mの
床土 が あ る。床土 は東で薄 く、西へ向 うに 従 って厚 くな る。 調査 区の東張り出 し部では、 この床上 の直下 が地 山 とな るが 、中央部 か ら西側 の区域で は更 に厚 さ約0.4mの中世・
近世 の遺物包含層 の堆積があ る。
この遺物包含層 の上面 には、中世以降 に行 われた土取 りのための上壊が多数掘 られて いる。 これ ら の土壊群 は調査 区東張 り出 し部の地山面上 や調査 区西半部のかな り広 い範囲 に及んでいる。深 さは約
2.00mで
、砂質上 の地山が高 まって いる部分を残 して粘質上 の存在す る部 分 の大半 が掘 りこまれ、これによ って奈良時代 の遺構 は大幅 に破壊 されて いる。従 って砂質 の地 山面上 に掘 られた柱穴や、埋 土 に砂質分の多 い西1坊々間大路両側溝 (S D880・
920)な
どは この破壊 をか ろうじて免れて いる。土 取 りは、地表下2.Om、 標 高52.2mに存 す る黒色腐食土層上面 まで達 す る。 この層 は奈良 盆地形 成 以前 の最終氷河期の湖沼堆積 (ミ ツガ シワ層
)と
考 え られ る。堆積 は層理 をなす。地 山はS D920以西で は青灰色 の砂質土 で、S F910以東で は上下2層に分かれ、青灰色砂質土 の上 が更 に厚 さ0.40〜0.50mの黄褐粘質土層 とな る。青灰色砂質土層 は、造営以前 の旧河川跡 と目され る。
地 山上面の海抜高 は調査 区東張 り出 し部東端で最 も高 く54.05mで、西 に向 うに従 って削平が著 しく、
土壊群 の破壊 を免れた部分で は53.50〜
5370mで
あ る。2遺
構検 出 した遺構 は、建物1棟、塀
5条
、溝3条
、道路1条、井戸1基、土 壊6などで あ る。 なお これ らの うち、土 壊 を除 くすべての遺構 は地 山面上 で検 出 した ものである。 また、土壊 は奈良時代 の もの に限 って独立 の遺構番号 を付 し、中世以降の上取 りのための土壊群 は地域 によ って一括 して遺構番号 を付 けた。以下 に遺構番号順 に解説す る。S D 880
調査 区東張 り出 し部東端 に存在す る南北溝。上面 の幅0.90〜100m、 底 幅0.30〜070m、深 さ約0.30mであ る。溝 の埋土 は一様 に暗灰 砂質土 で、水が著 しく流れた痕跡 は認 め られ ない。後述 す るよ うに、西1坊々間大路
(S F910)の
東 側 溝 に相 当す る。S D 901 S D880の
中央 部へ東か ら合 流 す る東 西溝 。上 面 の幅約 1.15m、 底 幅約 0.90m、 深 さ約 0.09m。 埋土 は流水 の痕跡 を呈 さないが、S D880との合流点 が溜 りのよ うな状 況 を示 し、若 千 の表卜 引
∵
0 Y=‑18′1 840″
fig.6 調査区北壁 断面上層 図
流水程度 の流水 はあ った もの と考 え られ る。 ■坪 の東 隣の
6坪
宅地 内か ら流れ出 る排水溝で あろ う。奈良 時代 後半 期 の上器 とと もに帯金 具が出上 した。
S K 903 s D880の
西 に南北方 向 に帯状 に重複 す る土墳群 。少 な くと も6個
以上 の上 壊 が 重 複 し て い るもの と推測 され る。深 さは約0.40〜 1.00m。 14世 紀 の土 師器 の羽 釜 が 出上 した。S K 904
調 査 区東張 り出 し部の北辺で、S D880の西約2.00mの位 置 に存在す る奈良 時代 の土 墳 。 西端 はS K903と 重複 して い る。長径2.60m、 短径約0。70mの
南北 方 向 の楕 円形 を呈 す る。埋 土 は炭 化物 を含 む 。S K 905
奈良 時代 の上 壊。北辺 お よび東南隅部 がS K903と 、西南隅部 がS K907と重複 して い る。深 さは約0.12mで、 s K 904と 同様 に埋土 に炭化物 を含 む。 S K 904と S K 905と は、 西
1坊
々 間大 路(S F910)の
路面上 に存在 し、路上 で行 われ た祭扁E等に関連 して掘 られ た もので あ ろ う。S K 907 s K903の
さ らに西 に存在す る不 整形 な土 壊で 、灰 褐 粘 質上 の中世 遺物 包 含層 の上 面 か ら掘 られて い る。深 さは約1.00mで、す り鉢 状。 中世 遺物包含層 は この土装 よ り東側 にはな く、 西 に 向 うに従 って厚 く堆積 して いる。S K 908
調 査 区東南隅部、S D920の東 に存 在 す る土取 りの ため の土 壊。 北端 は地 山 との 高低 差 が0.57mあるが、 南端 は徐 々にたちあが って い く。 南 および東 は、調査 区外へ との び る。S F 910 s D880と
S D920とには さまれ た道路遺構 。畦畔 にみ る条坊痕跡か ら、平 城 宮 南 面 西 門 (若犬養門)か
ら南 にのび る西1坊々間大路 で あ る ことがわか る。両側溝心 々間距離 は24.550〜 25,725mで
、天平尺(1尺
=0.295〜0.296m)換
算値 は82.9〜 86.9尺 とな る。 これ まで の調査 で明 らか とな った平城京大路 幅 は2条
大 路 が120尺 とや や広 い以 外 は、東1坊大路、西1坊大 路がそれぞれ80尺 で 、 今 回 の成 果 もほば これ らの数値 と近似す る。 ただ、遺構 か ら読 み とれ るS F910の東 西 両端 の 高 低 差は約0.50mで、 路面 の水 はけ勾配は2.7%とや や大 きい。先述 の如 く、S D920以西 の削 平 が著 し く、
路面全体 が削平 された もの と考 え られ る。S D920に比 して、S D880が極 めて小規模 で あ るの は、 雨 水排 水 をす べ てS D920で受 け るよ う計画 され て い た た め で あ ろ う。
S D 920A・
BoC
西1坊
々間大 路(S F910)の
西 側 溝 。溝上 面 の幅 は5.50〜 11,00m、 溝 底 の幅 は3.00m〜8.00m、 深 さは約1.50〜1.75mを測 る。 東 側 溝S D880が
小 規模 で 、 雨 水 排 水 をす べ てS D920が受 ける と して も、道路側溝 と して は不 相 応 に大 規 模 で あ る。埋土 の状 況 か ら溝 は概 ね
3時
期 に分 け る こ とが で き る。A期
の溝 は平城京造営当初 の溝で、堆積 層 は無 い。B期
の溝 は両岸 を暗灰色 の粘土 で護岸 して い る。溝 の堆積 は最下層が灰黒色 の粗 い砂層 で 、 流れ によ るえ ぐれのためか、1部護岸 のための粘土 の下層 に も ぐりこむ。 この上 に砂層 と粘質土層 と が互層 をな し、溝幅 はA期
の ものよ り約2〜 3m狭くな って い る。暗灰色粘土層 (第4層 )か
らは主
と して平城 宮 出土土器編年 Ⅱ・ Ⅲの上器が 出土 した。
5300m
3中世 遺物 包 含層 4地山(青灰砂 質 土) Y‐‑181820
1
耕作土2
床土
S D920の南部 で、
B期
の溝 の堆積層の中か ら、溝の護岸 に用 い られ た もの と考 え られ る シガ ラ ミ を溝 内側 に向 って流失 した よ うな状況で検 出 した (fig.‑7)。シガ ラ ミは径約0.10m、 長 さ約0.50mの杭 を用 い、径0.01m程度 の小 枝 を横方 向 に交 互 に編 んで い る。最 も残存 の良好 な もので
5連
を教 え、遺存す る延長 は計約10mで
ぁ る。 お そ ら く前述 の暗灰色 の 粘土 は、 この シガ ラ ミの豪 込 めで あ った もの と考 え られ る。 しか し、S D920がす べ て シガ ラ ミで護 岸 されて いたか ど うか は不 明 で あ る。 と りわ け、X=‑149,010地
点 の西 岸 溝 底 に打 ち こまれ た杭 は 青灰砂質土 の地山面上 に達 し、 これ よ り南 の シガ ラ ミが溝 中央 へ 流 され た状 況 を呈 して い ることか ら、これ よ り以南の限 られ た部 分 にのみ シガ ラ ミ護岸 がな されて いた可能性 もあ る。
C期
の溝 はやや狭 く浅 くな り、堆積土 は灰色 の細 か い砂 を主体 とす る。 出土遺物 は少 ないが、主 と して奈良時代末期〜平安 時代初期 の もので あ る。 これ らの3期
に区分 で きる溝 を最終的 に赤褐色 の均― な粘土 で埋 め る。埋土 は厚 さ0.20〜 0.30m、 幅約7.00mで、西 1坊々間大 路の路面 上 に まで お よん で お り、おそ らく路面敷 を削 って埋立 て た ものであろ う。 この層 か ら、
9世
紀代 にお さまる灰 釉陶器 片 が 出土 した。S K 921 S D920の
西 約4.00〜5,00mの位 置 か ら西側 一 帯 に広 が る複 数 の土 壊群 。 中世 に行 われ た土取 りの ための上墳 で、砂質土壌 の地 山部分 を残 して大規模 に掘削 されて い る。底 はほば水平で深 さは約2.00m。 掘形 の東端 の肩 はほぼ南北 に直線 的 に通 って お り、 S D 920の 砂質土 層 を避 けて掘削して い る ことが うかが わ れ る。
S A 923
調 査 区中央 西 南 よ りで、S K921の破壊 を受 けな か った砂 質 土 壌 の地 山面 上 にお いて検│―
,8970 1‑'a860
l18850 1コ■
840 1引 8830
出 した南北塀 。検出 したの は4間分で 、 柱 間寸法 は
7尺 (2.lm)等
間 。 柱 掘 コ4理形 は小 規模 で、平均径約0.50mの不 整 円形 を呈す る。深 さは0.20〜0.30mで 削平 され たため浅 い。柱 痕跡 は認 め ら
れ
な い。東側 が S K 921に よ って深 くまで肖1りと られてい るため精査で きな か ったが、東へのび る南北棟 の西側柱 列 で あ る可能性 もあ る。
S A925
調 査 区西 南 部 で S K 921.9ぃ。
に削 りと られず に残存 した砂質土の地 山面上 で検 出 した南北塀 。2間分 で柱 間 寸 法 は24尺 (7.2m)。 中 央 の 柱 掘
Y=18845
│ │
fig.7 SD920シガ ラY=コ8850
│
fig 8 S D920土層図 δ
形 はS K921に よ って失 われ た らしい。南北棟 の妻柱 列で ある可能性 もあ る。柱 掘形 の径 は約0.50m で、柱痕跡 の径 は約
0.20mで
あ る。S E 930
調査 区南端 中央 部 で検 出 した奈良 時代 の井戸 。掘 形 上 端 の 西 半 部 を S K 921に よ って削 平 されて い る。井 戸枠 の据 え付 け掘形 の径 は、 南北 約4.00m、 東 西約 3.60m、 深 さは約 3.50m。 井 戸 枠 は底 か ら約2.50mの位 置で後 に継 ぎた して い る。当初の井戸枠 は、横板組 みで、 これ を
4隅
の柱 によ って内側 か ら支 えて いる。4隅
の柱 の断面 は方 約0.10mの正方形 で、長 さは平均2.50m、1辺
の内の りの長 さ は約0。72m、 上 端 か ら約0。20m〜
0.40mの
位 置 と、2.20〜2.30mの位 置 に深 さ約0.05mの柄穴 を うが って横 果 を2段
に組 む。横 梁 は、 木 口 が縦脚 .07mで、長 さは約0.75mであ る。横 板 は、大 きさが揃 わず縦 0.10〜 0.50m、 横約 0.80m、 厚 さ 約0.65mを測 る。横 板 には柄穴 や 出柄 の仕 回 はな く、横板 を直接支 柱 に添 わ し1段積 む毎 に掘 形 を埋 めて固定 して い る。この当初の井戸枠 の上 に後 に縦板組 みで継 ぎた して いる。す なわ ち当初 の井戸の
4隅
の柱 の上面 に 相 欠 き仕 口を施 して長 さ0.90〜1.10mの後補 の柱 を立 て る。 この柱 の中程 に、 木 口の縦 横 約 0.05m、長 さ0.72mの横 異 を組 む。 縦 板 は これ らの
4隅
の柱 と横果 によ って支 え られて いる。残存 す る縦板材 は、縦約0.70m、 幅0.20m〜0.24m、 厚 さ約0.05mで、枚数 は各 辺 に平 均4〜 5枚
、 計 22枚 で あ る。4隅
の柱 と同様 に上端 がS K921の削平 を受 け、据 え付 け時 の規模 を復 原 し得 な い。 当 初 の井 戸 枠 埋 土 か らは、奈良 時代 前半 の上 器や曲物 が、後補 の井 戸枠埋土 か らは奈良 時代末期の上器 や瓦片が出土した (fig.9参照)。
S B 935
調査 区中央 のや や北 西 よ りで検 出 した掘 立 柱建物 で南 に庇 が付 く東 西棟 と思 われ る。検 出 した の は東妻部 分 と庇 の桁 行1間
分 で あ り、 西 側 がSK
921の 撹乱 を受 け、建物全体 の規模 は知 り得 な い。 桁
│̲
行 の柱 間 寸 法 は
9尺
(2.7m)、 異 行 は2間
で12尺(3.6m)等
間 で 、 これ に梁 行9尺
の南庇 が付 く。S
A923と東妻柱 筋 を そ ろ え る。 柱 掘 形 は径 約 0.50m、深 さは0.40m程度 で、東 南 隅部 の柱 掘形 で確 認 した柱 痕 跡 の直径 は、約
0,30mで
あ る。S A 940 調査区北西隅部にある掘立柱の東西塀。■,■
検出したのは
2間分で、東は
S K921によって破壊さ!● I れ、西は調査区外へのびる。柱間寸法は
13尺(3.9m)■ ■
│等間である。なお柱掘形は円形であり、直径が約
0.40 54000nl〜0.60m、 深 さは0.20mと極 めて小規模 で、 柱 痕 跡 は 認 め られ な い。
これ以外 にS A923と 重 複 す る柱 掘形
(1間
分 、 柱 間寸法7尺 )や
、S B935の南 に も奈 良 時 代 の柱 掘 形 を い くつか検 出 して い るが、S K921の撹 乱 の ため性 格 は不明であ る。いず れ に して も小規模 な掘形 で あ り、雑舎 や それ を囲 む塀 にな る と思 われ る。 S E 930立 面 図 (西か ら)
3
占地
今 回 の調査 の結果明 らか とな った西
1坊
々間大 路両側溝心 および大路心 の座標値 (国 土調査法 に定 め る国上方 眼第6座
標系 を基準 とす る)は
tab.2のとお りであ る。 この座 標 値 を もとに、平城宮 跡 第 133次 調査 で得 られ た平城宮南面 西門 (若 犬養 門)心
の座標値 との関係 を求 め る と、 西1坊
々間大平 城 宮 南 面 西 門 (若 犬 養 門)
路中軸線 は、北 で西 に0° 21/40″ 偏 して い る ことにな る。
従 来 の調査 で平城京 朱雀大路 の中軸線 は北 で西 に0° 15′ 41〃 偏 して い る ことが明 らか にな っているか ら、西1坊々間大路 の方が偏 りがやや大 きい といえ るで あろ う。
また、平城宮跡第 133次 調 査 で得 た
2条
大 路心 と、南面西門 (若 犬養門)′とヽの座標値 と か ら、門前 における2条
大 路 と西1坊々間大 路 との交差点 の復原座標 を求 め ると、X=一
146,024.796、
Y=18,851.961と
な る。一方、平城宮跡第 125次 調 査 で得 た右京9 条1坊
5坪
付 近 にお け る9条
大 路北側溝心 の 座 標 値(X=‑149,739.47、 Y=‑18,795.
17)と、羅城門調査 で得 た右京
9条
1坊5坪
南 に お け る平城 京 外濠
(9条
大 路 南側 溝)北肩 の座標 値
(X=‑149,757.14、 Y=―
18,780.24)とか ら、
9条
大 路 の路 面 幅 は約17.67m(60尺 )を
得 る。 外 濠 によ る路面 の 浸蝕 も考 え られ るか ら、9条
大 路 の計画幅員 は60〜 80尺 であ った ことにな る。従 って、西Fig.10 条坊復原概念 図
1坊
々間大路中軸線上 におけ る平城宮若犬養地 点 X Y 備 考
1
2 3
―‑148,956 500
‑‑148,956 500
‑‑148,956 500
―‑18,345 650
‑‑18,821 100
‑‑18,833 375
本調査
4 5 6 7
―‑145,994 578
‑‑146,006 534
‑‑146,042 934
‑146,024 796
―‑18,852 045
‑‑18,824 538
‑‑18,824 455
‑‑18,851 961
第133次調査 推定復原座標 8 ―‑146,074 691 ―‑18,841 633 第
141‑4次
調査 9 ―‑149,739 470 ‑18,795 170 第125次調査―‑149,757 140 ―‑18,780 240 羅城門調 査
tab.2
条坊座標値一覧表門前 の
2条
大 路心 か ら9条
大路北側溝 までの計画寸法 は12,560〜 12,570尺 とな り、 この寸法 で実長 を 除 した値 、す な わ ち3,714.674m■ (12,560〜 12,570尺)=0.2955〜 0.2958m/尺
が単位 尺 あた りの メー トル法換算値 とな る。従来 の調査 で明 らか とな っている造営単位尺 は、0.294〜0.296mで、今 回 得 た数値 もこの範囲内にお さまる。 この単位尺 と、前述 の西1坊々間大路の振れを もとに右京8条
1坊 11坪4周の条坊 を復原 した ものが fig.11と tab.3であ る。
次 に これ らの成果 を もとに、本調査 で明 らか にな った遺構 の平城京 内 にお け る占地 および坪 内 にお ける配置 につ いて考 えてみ よ う。
fig.11に よ って南北溝S D880と S D920と は、 西
1坊
々間 大 路 S F 910の 東 西 両側 溝 で あ る こと が明 白で ある。またS E930は、 11坪 を ほば南北 に
2分
す る中軸線上 に位 置 して い る。土 取 り穴S K921によ って遺 構 が大半破壊 されて い るため、宅地割 の情 況 はま った くとらえ られないが、 S E9301ま 奈 良 時 代 当初 に掘 られ、一時期廃絶す るが、奈良時代後半代 に修理 して再 び使用 されて い ることか ら、宅地割 の変 更 が行 われ た可能性 もあ る。また S A9401よ 11坪 の北 限 に近 い位 置 に存在 し、 11坪 の北 を限 る塀 で あ った可能性 もあ る。 しか し、
S D880と S D920とが西1坊々間大路の東西両側溝で あることは疑 う余地がない と して も、今回の調 査 で は東西条坊 を確認 して いないため、S E930や S A940の位 置 につ いて はなお疑間 の余地 を残 す 。
そ してS K921に よ る削平 のため、 これ らの遺構 の時期 区分 を行 う ことは因難 で あ る。
fig.11 11坪の 占地 (左は1尺 =0.295m、
A B C D
‑18,833̲523
‑18,832 685
‑‑18,965 660
‑‑18,966 498
A B C D
‑18,833 505
‑18,832 666
‑18,965 776
‑18,966 615 西一坊坊間大路 B
‑148,950 188
‑149,083 160
‑149,083 160
‑148,950 188
‑148,953 158
‑149,086 265
‑149,086 265
‑148,953 158 tab.3 11坪四周の条坊の推定復原座標一覧表 (同上)