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『モダン日本・朝鮮版』出版の背景をめぐって On the Historical Background of Publication

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On the Historical Background of Publication Modern Nippon Chosen-Ban

山田安仁花

Anika YAMADA

Abstract: The paper deals with the magazines Modern Nippon Chosen-ban (the special issue on Korea), which were published by Modern Nippon publishing company in 1939 and 1940, when Korea was under Japanese colonization. In the late 1930’s, the magazines played a key role as Korean works were increasingly published in Japan, bringing a phenomenon of “Chosen boom”. The previous researches on Modern Nippon often refer to Ma Hae-song, Korean president of Modern Nippon publishing company. Also most studies focus on the role in propaganda of Japanese government. This paper examines the process of conversion of Modern Nippon into the propaganda of imperialism, in order to understand the influences of socio-political background of the time on Modern Nippon Chosen-ban.

Modern Nippon publishing company encountered difficulties in strict censorship, shortage of paper, and consolidation of magazines, since the new system movement aiming at unification in publishing industries began after the outbreak of the Japanese-Chinese War in 1940’s. Many of the publishing companies were desperate to survive and some major companies picked up the articles on “Naisen Ittai” (Japan and Korea as one), or all-out war system. Modern Nippon Chosen-ban met the national demand in wartime, while it also published many of Korean literature. What was the motive for introducing Korean works to Japanese readers? This paper tries to answer this question by surpassing the framework of colonialism and empirically researching Korean cultural texts, introduced during “Chosen boom”.

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1. はじめに

日韓国交正常化から50年の時が過ぎたが、今なお植民地支配の数十年がもたらした日本と韓 国・北朝鮮両国間の深い溝は埋まらない。その植民地時代にあって、1930年代後半から1940 年代初頭にかけて日本に朝鮮文学が集中的に発表された「朝鮮ブーム」と呼ばれる時期が存在す る。この「朝鮮ブーム」において、朝鮮特集の雑誌『モダン日本・朝鮮版』(1939年と1940年の 二度刊行)をはじめ、李光洙の『嘉実』(1940)や『有情』1940)、李泰俊の『福徳房』(1941)と いった朝鮮文学の単行本を刊行したモダン日本社の存在は大きい。ここにはモダン日本社の社長 が朝鮮人の馬海松であったことが影響している。なかでも『モダン日本・朝鮮版』は多くの朝鮮 文化を日本に紹介しており、日本にとって朝鮮を身近に体現させるメディアとして目を向けると、

当時の日本における朝鮮文化の受容の実態を垣間見ることができる。また、『モダン日本・朝鮮 版』をどのように評価するかという問題は、上述の「朝鮮ブーム」の意義を考察するうえでも関 わってくると考える。『モダン日本』を取り上げる研究では、多くの場合、朝鮮人編集者の馬海 松に言及しつつ、『朝鮮版』の朝鮮文学紹介に対する評価や、雑誌のコンセプトであるモダニズ ムの要素の分析などがなされているが、とくに『モダン日本』にみられる帝国日本のプロパガン ダとしての傾向に関する議論に重点が置かれているようであり、当誌に掲載された内容に対する 実証研究は十分に行われていないというのが現状である。そこで本論では、『モダン日本・朝鮮 版』刊行時の歴史的背景を調査し、その時代的影響を踏まえたうえで、朝鮮文化を伝える媒体と しての『モダン日本・朝鮮版』の役割を検証するために、今後必要とされる研究の方向性につい て論ずる。本研究が植民地時代における文化テクストの研究の発展に結びつくことを期待する。

2. 『モダン日本・朝鮮版』の研究

1『モダン日本』と馬海松

『モダン日本』は193010月に、当時菊池寛が社長をしていた文藝春秋社より創刊された大 衆雑誌であり、1939年と1940年に『モダン日本・朝鮮版』として朝鮮特集が組まれた。『モダ ン日本』を扱う研究の多くで、モダン日本社にいた朝鮮人の馬海松という編集者が言及される。

馬海松は1905年に京畿道開城市で生まれ、1921年に日本大学芸術科(現・日本大学芸術学部)

に入学し、そこで菊池寛の講義を受けた経験をもつ(馬,1953)。馬海松は1924年に文藝春秋 社に入社したが、文藝春秋社の社長であった菊池寛に『モダン日本』を担当したいと申し出た(佐 藤,1961)。それを機に『モダン日本』を引き受けることになり、1932年にはモダン日本社とし て独立し、そこから『モダン日本』が刊行されるようになる。

川村(1998p. 125)は、『モダン日本』について「『文壇』とも『大衆文壇』とも直接的につな がることなく、『キング』に代表される日本の最も多数である地方的な庶民性とも、『新青年』の 都会的なモダニズムとも常に一歩隔たったところにいて、『大衆』の表層的な欲望や興味・関心 には敏感に感応する、都会派的な非個性的な編集姿勢」と言い表し、これは馬海松が朝鮮人とし ての個性を捨て日本人社会に同化したことの裏返しであると述べている。その一方で『モダン日 本・朝鮮版』に対しては、「『朝鮮人社長』の郷愁や懐郷といった要素が見られる」(川村,1998

p. 127)とし、馬海松の朝鮮人としての個性が表れていると考えている。

盛合(1998)は馬海松のジャーナリストとしての活動に注目し、馬海松が担当した頃より『モ ダン日本』が赤字経営を脱したことから編集者としての力量を評価している。また、『モダン日

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57 本・朝鮮版』における朝鮮文化紹介の背後には、「支配国である日本を攻撃するだけの過激な民 族主義的なものでもなく、徒に支配国に迎合するいわゆる新日派的傾向のものでもない、文化的 な理解を以て日本と朝鮮をつなごうとする、民族の壁を乗り越えた文化人としての馬海松の姿 勢」(盛合,1998p. 120)があったと述べている。 

末國(2008p. 368)は、『モダン日本・朝鮮版』で朝鮮の妓生が多く取り上げられたことに対 し、「馬海松が差別や偏見を助長する意図がなかった」と指摘したうえで、続けてつぎのように 述べている。

馬海松は、朝鮮人として日本を見ることもできれば、日本人として朝鮮を見ることもできた。

このバランス感覚があったからこそ、(植民地支配下というバイアスがかかっているにせよ)

日本を礼讃して朝鮮を一方的に貶めるような偏った特集にならなかったのではないか。そ の意味でも、馬海松が日本の(一部であるが朝鮮の)モダニズムに果たした役割は小さく あるまい。(末國,2008p. 368

洪(2010p. 64)は、「日本語が母語でない植民地出身の知識人馬海松は『獲得言語』を通した 言論活動の場として雑誌『モダン日本』のなかに『真正なる朝鮮の姿』を伝えようとした」と同時 に、「それは『帝国』のメディアの『大衆的』実践という役割を果たすという葛藤と矛盾に満ちた もの」であったと述べる。以上の先行研究を踏まえると、『モダン日本・朝鮮版』刊行において、

朝鮮人社長の馬海松の存在は大きいと考えられているようだが、馬海松以外に『モダン日本』に 関わった人物が存在する点は留意するべきである1

2『モダン日本』とモダニズム

『モダン日本・朝鮮版』では、女優や女性舞踏家の写真グラビアや芸者に関する記事、「ミス 朝鮮当選者発表」、朝鮮女学生の座談会など、朝鮮人女性が多く取り上げられている。金(2007 p. v)は、女性のグラビアは「朝鮮の伝統美とともに、朝鮮を『女性的』イメージで訴える効果を もたらしている」と述べている。末國(2008p. 367)は、1930年代の日本のモダニズムを踏ま えながら、『モダン日本』は「エロ・グロブームを意識してか、現代風俗を幅広く紹介する雑誌」

と述べ、『モダン日本・朝鮮版』で朝鮮の妓生が圧倒的に多く取り上げられた点に対しては、「も ともと『モダン日本』にはエロネタが多かった」ことを指摘している。

張(2014a, p. 45)は、『モダン日本』における「モダン」的要素とその受容について分析し、「読 者に対する『モダン日本』の戦略は単に雑誌を買って読むことで終わるのではなくて、読者自身 の行動を促す傾向を見せており、それは雑誌と読者の関係の形成にとどまらず、読者自身の文化 生活や読者同士のコミュニケーションを拡張する可能性」も含み、そのシステムを通して「モダ ン」文化を形成しようとしたと結論づけている。さらに張(2014a, p. 45)は「『モダン日本』が築 いた、読者を行動させる『モダン』システムは、しかし、戦争体制に入ると、読者を戦争に向か わせる強力な装置として機能するようになる」と、プロパガンダに転じていくことを指摘してい

る。張(2014b)は、この変動期に組まれた雑誌という位置づけで『モダン日本・朝鮮版』を分析

している。この点はのちほど詳しく見ていく。

3『モダン日本・朝鮮版』による文学紹介

洪(2010pp. 62-63)は、『モダン日本・朝鮮版』は「都市風俗の諸相」を大衆的な形式で綴る

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通常の『モダン日本』とは誌面構成が全く異なり、「日本の読者に『朝鮮』を知らせる目的があっ た」ため、「大衆雑誌であるにもかかわらず、朝鮮文壇の『純文学』作品がずらりと並べられた」

ことを指摘している。梶井(1981)は、同時代に同じく朝鮮に関する特集を組んだ『文藝』や『文 學案内』と違い、『モダン日本』は文芸雑誌ではなく、大衆娯楽雑誌であったが、「古典作品から 現代詩まで、文学の範ちゅうに入るものはほとんど網羅した、『モダン日本・朝鮮版』における 文学は、むしろ他の二誌よりはるかに『文学特輯』らしい印象を与える」(pp. 109-110)と述べて いる。

『モダン日本・朝鮮版』193911月号では朝鮮藝術賞が制定された。朝鮮藝術賞の主旨は「本 賞ハ我國文化ノタメニ朝鮮内ニ於テ為サレタル各方面ノ藝術活動ヲ表彰スルコトヲ以テソノ目的 トス」と記されている。盛合(1998pp. 119-120)は、「朝鮮人作家のための朝鮮文学の権威付け、

および朝鮮人作家への経済的な支援」が馬海松の朝鮮藝術賞における目的であったと述べ、『モ ダン日本・朝鮮版』における朝鮮文学の紹介と合わせて、朝鮮文化を伝えようとする馬海松の文 化人としての姿勢を評価している。

こうした見方に対し、張(2014b, p. 60)は、「帝国メディアにおける植民地表象の問題より植 民地出身の編集長である馬海松による朝鮮紹介という側面のみが強調されることになり、日本が 本格的な戦争体制に入るにつれてプロパガンダとしての役割を担っていった『モダン日本』と『モ ダン日本 朝鮮版』は断絶されてしまう恐れがある」と批判している。また、任(1970)は、上 記の朝鮮藝術賞の主旨にある「我國文化ノタメ」というのは「内鮮一体化の寄与」を意味すると考 える。以上を踏まえると、『モダン日本・朝鮮版』における朝鮮文学紹介の側面を取り上げる前に、

その政治性について整理する必要があるようである。

4『モダン日本・朝鮮版』における政治性

『モダン日本・朝鮮版』193911月号の「編集後記」の以下の文章は、その刊行の意図を植民 地主義の文脈でとらえる根拠とみなされる。

モダン日本十周年記念臨時増刊「朝鮮版」は、今や朝鮮半島が軍事的、經濟的、文化的に 大陸に結ぶ足場として、その重要性が叫ばれ、朝鮮の認識は絶對となり、識者は言ふに及 ばず、全國民の愛國的關心が澎湃として起る際に、その刊行は時局に適した絶好のものと して、朝鮮總督府を初め朝野名士擧つて賛同、全國的な支持聲援は正に國民運動の一つの 現はれたる觀を呈した。(鄭知寧・編,2007p. 364

朴(1985p. 375)は、「日中戦争から太平洋戦争に至る時期」に起きた「朝鮮ブーム」は「日本

の反動支配層とそれに追随する勢力によって、意図的につくり出された」ものとみなし、『モダ ン日本・朝鮮版』をその典型的な例として取り上げている。朴(1985)は、『モダン日本・朝鮮 版』に掲載された「内鮮一体化」や「皇国臣民化」に関連するものとして、1939年版については

「内鮮一体と協和事業」、「朝鮮経済界の展望」、「朝鮮の工業的躍進」、「新しき朝鮮を語る座談会」、

「朝鮮と私」(ハガキ回答)、「朝鮮読本」、「見よ!内鮮一体の精華」(グラビア)、「海外で名を挙げ た人々」、「朝鮮百人物」を、1940年版については、「南総督は語る」、「朝鮮に於ける皇国臣民化 運動」、「朝鮮産業界の将来」、「歴代朝鮮総督を語る」、「朝鮮産業十人男」、「我が交友録」、「朝鮮 交友録」、「朝鮮の今昔を語る座談会」、「朝鮮読本」、「運動界に気を吐く朝鮮の人達」、「東京で活 躍してゐる半島の人々」を挙げている。朴(1985p. 369)は、軍国日本の最終的な目的は「内鮮

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59 一体化」「皇国臣民化」を成し遂げることによって、「朝鮮の『兵站基地化』を実現し、朝鮮人すべ

てを『聖戦遂行』に総動員する」ことであったと述べたうえで、『モダン日本朝鮮版』の「志願兵 より見たる朝鮮人」(塩原時三郎)や、「北支戦線を巡りて」(林学洙)、「志願兵訓練所訪問記」な どにおいて、「兵站基地化」論が強調されている点を指摘している。朴(1985p. 371)は、「『モ ダン日本・朝鮮版』は、太平洋戦争突入直前の、朝鮮に対する日本軍閥の凶悪な企図を忠実に具 現して見せた 仇花 だったといえるであろう」と述べている。『モダン日本・朝鮮版』のこうし た側面が、朴が「官製 朝鮮ブーム 」と呼ぶゆえんである。

張(2014b)は、『モダン日本』がプロパガンダに転ずる過程について論じており、1937年の

日中戦争に突入する頃より、モダンな色合いであった雑誌の性格が変化し始め、1941年太平洋 戦争勃発以降は大きく変わったと述べている。『モダン日本・朝鮮版』については、次のように 述べている。

39年版が朝鮮を深く理解することが「時局的」に相応しいことであり、また朝鮮人たちは 朝鮮が「帝国日本」と同化するために「内地人」の承認を求めているということを以て「内 鮮一体」を宣伝しているとすれば、40年版は朝鮮の近代性や朝鮮人たちにおける自己認 識を強調することで、「帝国日本」の国民として自発的で積極的に自分を位置づけていく 朝鮮と朝鮮人像を露呈しているといえる。(張,2014bp. 52

以上の内容を踏まえて、張(2014b)は、「日本人の視線に徹底的に頼っていた39年版より、朝 鮮の自主性を尊重しているように見える40年版の方が、より強力な帝国主義のプロパガンダと しての役割を果たしたのに違いないと考えられるのである」(pp. 52-53)と述べている。

朴(1985)が列挙したような目次のタイトルからもわかるように、『モダン日本・朝鮮版』に 戦争の宣伝ととれる要素があった点は否定できない。しかし、盛合(1998)は、「馬海松自身も 内鮮一体をすすめるためにこの『朝鮮版』を刊行したのか」(p. 115)という点を問題にし、『モダ ン日本・朝鮮版』の一番の大きな目的は「朝鮮の文芸の紹介」(p. 116)であったと主張する。ま た、川村(1998p. 126)は時局便乗的な側面があっても、『朝鮮版』は「あくまでも、『モダン日 本』という雑誌であること、そしてそこに馬海松の個人的な『郷愁』を見ることが否定できない のではないか」と述べる。張(2014bp. 50)は、こうした態度に対し、「雑誌そのものにみられ る帝国主義への批判はあっても、その批判自体を馬海松個人に向けることは避けられてきた」の は、「プロパガンダ化に彼自身が直接関わった証拠や記録などは見つからなかったから」だと述 べる。このように『モダン日本・朝鮮版』について論じる際に朝鮮人馬海松に関心が寄せられる が、本研究は『モダン日本・朝鮮版』のという雑誌の役割を明らかにすることを念頭に置いてい るため、編集者個人に関してではなく『モダン日本・朝鮮版』の出版に関わる背景について具体 的な調査を進めたい。

3. 『モダン日本・朝鮮版』出版の背景

1戦時下の出版統制

『モダン日本・朝鮮版』が出版された頃の時代的背景の調査に先駆けて、まず戦前の出版統制 の流れを概観する。昭和初期の出版統制を扱う研究では、1937年の日中戦争以後、統制が厳し くなり、第二次近衛内閣において、1940年頃より高揚した「新体制運動」の流れを受けて、出版

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界では生産・流通・配給が一元化された「出版新体制」が完成するまでの過程が説明される。以 下でその様相を具体的に見ていく。

紅野(2012p. 58)は、「大日本帝国憲法」第二十九条には「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言 論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とあり、言論の自由は認められていたものの、「法律」とい う条件の付いた「建前上」の「自由」であったと述べている。この「法律」とは1893年公布の「出 版法」や1909年公布の「新聞紙法」などを指し、1949年に廃止されるまで、当時の言論統制の 根拠とされた(紅野,2012)。「出版法」と「新聞紙法」2を見ると、「安寧秩序」の妨害3や「風俗 壊乱」4が検閲の基準とされていることがわかる。これらの法律の下における検閲について、紅

野(2012, p. 59)は、「発売頒布禁止や差押えによって、新聞社や出版社に大きな経済的打撃を与

え、経済動機によってみずから規制するように仕向けることが、近代日本の出版検閲の大きな特 徴であった」と述べている。出版側は検閲の対応策として、危ないと思われる個所を、○×など の記号や空白などに置き換える伏せ字という方法で自己検閲を行った。検閲制度の主管は内務省 警保局であり、それ以外に地方裁判所検事局に検閲担当があった他、軍事外交に関する情報の宣 伝と機密保持のため、陸軍省新聞班、外務省情報部、海軍省軍事普及部などが、内務省に注文や 要求を送った(紅野,2012p. 60)。

日中戦争の頃より検閲は内務省から内閣情報部に移り、「内務省による法律の官僚的な適用と いう領域から、軍部による一層不明確な弾圧の領域へ移行した」(ルービン,2011p. 362)。内 閣情報部では、陸海軍省報道部から派遣された陸海軍将校が中核的存在として、「言論取締」か ら積極的な「言論指導」に乗り出すようになり、出版社に月に1回ないし2回「雑誌、出版懇談 会」への出席を命じて、そこで雑誌の「編集企画内容への干渉」(畑中,19771965],pp. 22- 23)を行った。同時期に出版社は「内閣、陸軍、海軍主催の懇談会のみならず、外務省情報部、

警保局、そして大政翼賛会や国民精神総動員本部のような公式・非公式の右翼組織の主催する懇 談会にまで出席を要請」(ルービン,2011p. 360)された。そのため、出版社側は各機関との懇 談会での応接に忙しい状況であったが、194012月に内閣情報部が「情報局」に改称されると ともに、「陸海軍報道部および警保局図書課や外務省情報部の所管事務を一元的にここに統合」

し、「国策の宣伝・対外思想戦・国内言論指導の最高機関」(畑中,19771965],p. 23)となっ た。19415月より、各雑誌は内閣情報局に雑誌の目次を提出するように命じられ、提出され た目次は、「情報局において、前もってふるいにかけられ、好ましくないと判定された企画や記 事は撤去を命じられ、またかねてマークされた執筆者は容赦なくしりぞけられ、それにかわる

『官選』執筆者や記事のおしつけなどのことも半公然のうちにおこなわれた」(畑中,19771965],

p. 36)という。以前より発行者側が出版物を刊行する前に検閲課に相談する「内閲」は許可され

ていたが、ここにきて目次提出が義務となることで、「在来事後検閲を手がかりとしての言論取 締りは、ここに事前検閲をとおしての企画内容への直接容かいにかわって、文字どおり編集権へ の干渉が当然のこととしておこなわれるにいたったわけである」(畑中,19771965],p. 39)。

言論の最高機関たるこの内閣情報局が設置された同時期に、日本出版文化協会が結成された。

この協会の設立趣旨には、「乃ち玆に国家の全面的新体制確立の要請に即応して出版界に一大革 新を加へ、全国の出版事業関係者が一元的なる出版事業新体制の傘下にあって健全なる新日本 文化建設の使命を担当するの任務に就き、以て出版報国の実を挙げんとするものである」(畑中,

19771965],p. 41)とある。日本出版文化協会は業者団体であるものの、人事や政策には内閣 情報局の許可が必要であり、実質的には「官庁機関の下請機関」(畑中,19771965],p. 41)と なっていた。この協会の役割を理解するにあたって、その設立の背景にある「出版新体制」に至

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61 る経緯を見ていく。

「新体制」という表現が具体的に使われるようになるのは1940年以降であるが、日中戦争が 起き、言論統制が強化されるようになる1937年が「出版新体制」運動の分岐点とされる。19379月の「国民精神総動員計画要綱」が発表された日に、内務省は有力十雑誌社の社長5を招い て、要綱の趣旨の説明と協力要請を行った。また「総力戦」への認識の高まりに伴い、「国家総動 員法6」(1938)と、「電力国家管理法案」(1938)が制定され、経済面における国策協力が求めら れるようになるのであるが、これらの法案は出版界の再編成にも影響を及ぼした。19405月、

内閣に新聞雑誌用紙統制委員会が、「廣義的には事變目的と相反するが如き傾向を有する定期刊 行物乃至同種同傾向の定期刊行物に對して整理廢合を行ひこれにより言論統制を強化し、狹義的 には用紙消費統制の實績を収めんとするもの」(東京堂,1941p. 55)として設立され、加えて、

「從來既に同種乃至國策に何等寄與しない雜誌等に對して行つてゐる整理廢合」(東京堂,1941 p. 55)も担うことになった。

用紙統制は用紙の不足という物質的要因から1938年頃より実施されてきたが7、新体制運動 のなかで「政府としては、それまで商工省の下で物として扱ってきた用紙の配給を、国としての

『広報宣伝政策』の見地に立って決めねばならなくなった」(日本雑誌協会,1969p. 17)のであ る。これ以降、同種同類雑誌の廃刊・統合が押し進められるようになる。19408月になると、

いよいよ「出版新体制」が高唱されるようになり、政府が出版新体制準備委員を任命した。「出版 新体制」とは、「経済的には自由競争営利主義、思想的には興味本位、自由主義、個人主義など を排除する出版界の戦争遂行体制を意味するものであった」(吉田,2010p. 184)。1940年発 足の新聞雑誌用紙統制委員会を中心とする軍部・内務省・文部省・商工省等が企図した「出版新 体制」の構想は下記のとおりである。

1) 出版界を一元的に統制する日本出版文化協会を作る

2) 出版物を配給する組織を一元化し日本出版配給会社を作る

3) 紙の供給を統制する紙の共販会社を作る

4) 書籍雑誌の小売商の新しい団体を結成する(日本雑誌協会,1969p. 14

さらに印刷業の統制団体、印刷文化協会を加えた「五本柱の完備」には極めて短期間しか要さず

(日本雑誌協会,1969)、1943年頃には「印刷から配給まですべてが、軍部・官僚の統制下にお かれ、名実ともに強力な一連の『出版新体制』が実現した」(吉田,2010p. 187)。

以上が1940年前後の日本の出版界の動きである。吉田(2010p. 209)は、1940年当時につ いて、「各業者の事業を集約していく統制が中心であり、出版社内部への資本統制はみられない」

ことを指摘している。吉田(2010)は戦時の出版界の思想状況ではなく、書籍発行事情や大衆雑 誌が置かれた状況に注目しているが、出版社は個人的な企業であるため、新聞の場合と異なり、

「資本、経営の側面が明らかでない」(p. 210)と述べている。戦前の出版界における状況は通時 的に詳細に調査されてきているが、出版界全体の動きが、個々の出版社にどのような影響を与え ていたのかということを含め、共時的にその実態を描くことは課題として残されているといえる。

本論はモダン日本社を対象に、『モダン日本・朝鮮版』を出版する時期に焦点を当てて、当時の 出版界の変化がもたらした影響について調べていく。

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2『モダン日本』の存続をかけて 1検閲対策

『モダン日本・朝鮮版』が刊行される頃の検閲は、軍事外交等の一部の記事に対して許可主義 がとられていたことを除けば、原則として届出主義であった。先に述べたように1941年以降、

毎回雑誌の目次の提出が義務付けられるようになるが、1939年と1940年に刊行された『モダン 日本・朝鮮版』の編集当時はまだ事後検閲の形式をとっていた8

『雑誌新聞発行部数事典 ― 昭和戦前期』付属の「発禁本部数総覧」によると、『モダン日本』は、

53800部発行した88号(19377月号)が193767日に、50800部発行した108 号(19398月号)が1939626日に、いずれも「安寧秩序紊乱」を理由に発禁処分を受け ている。『モダン日本』を編集する者としては、再度こうした処分を受けないように意識してい たことは推測できる。

その意識の表れとして、1940年の『モダン日本・朝鮮版』に掲載された短編、崔明翊「心紋」

(金山泉・訳)にみられる自己検閲が挙げられる。以下が該当箇所である。aは原文、括弧内は筆 者訳、bは金山泉の翻訳である。なお、下線は筆者による。

1 a. 如玉이의귀를바라볼때침실의如玉이의열정을의아히생각하리만치

(如玉の耳を眺めるとき、寝室の如玉の熱情を怪訝に考えられるほど)

b. じょきょくの美うつくしい耳みみを眺ながめてゐると、    での、あの如じょきょくの、娼しょうふ婦のような熱ねつじょう情 が異い よ う様に感かんぜられるほど、

2 a. 그때如玉이를 따라들어온 나는넓은떠불뼅드요속에 ……

(その時如玉を追って入ってきた私は広いダブルベッドの敷布団の中に)

b. じょきょくの後あとを追うて入はいつて行つた僕ぼくは廣ひろい      の蒲ふ と ん団の中なかに……

原文は朝鮮で1939年に雑誌『文章』で発表されたが、その際には表記されていた表現が、1940 年に発表された日本語版では削除されている。このような空白による伏せ字は、検閲の基準であ る「風俗紊乱」に反しないようにするための措置であると考えられる。

2言論の統制指導への対応

言論取締りとしての検閲制度が課されていた一方、日中戦争以降、雑誌の内容に対する積極的 指導の姿勢がみられるようになる。昭和16年版『出版年鑑』(東京堂)には、雑誌界に対する言 論統制の姿勢について以下のように記述されている。

事變發生以來、當局の言論取締に對する態度は、單に檢閲を強化したいといふ如き消極的 なものではなく、つとめて民間側と懇談して意志の疎通を圖り、業者をして進んで國策に 協力すべきことを要望したのであつた。これはもとより相當な効果があり、綜合雜誌をは じめ、大衆雜誌、婦人雜誌、兒童雜誌に至るまで當局の方針を汲み、自粛自戒國策協力に 努めてゐるのであつたが、我國の立場は愈々高度國防國家の體制を強化して物質戰に於て も思想戰に於ても寸分のゆるみなき體制を確立せざるを得ず、こゝに於て情報宣傳機關の

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63 確立、大情報局の出現を見ると共に、出版界も一大改革の機運に遭遇したのである。(東

京堂・編,1941p. 9

このように消極的な検閲から、国策への協力の呼びかけを行う積極的な姿勢に変わり、各雑誌も それに呼応していたことがうかがえる。

モダン日本社についても例外ではなく、政府の国策協力への積極的な要請に応じたことが示唆 される資料がある。『雑誌年鑑』(日本読書新聞社)の「一般雑誌目録」に掲載された『モダン日本』

の項目を見ると雑誌の内容概略が以下のように変化する。

1. 「モダン日本」の内容概略(前年度末を基準にしたデータに基づく)

出版年度 内容概略

昭和14年度版 今日を知り、明日に生きんとするものゝ雜誌、明るく正しく樂しく 昭和15年度版 今日を知り、明日に生きんとするものゝ雜誌、明るく正しく樂しく 昭和16年度版 新鮮明朗な健全娯樂たるべき小説讀物、平易な時局解説等

昭和17年度版 健全明朗なる娯樂讀物適確懇切なる時局解説靑年國民生活指導雜誌

昭和16年度版より「時局解説」という説明が加えられており、1940年以降、『モダン日本』が明 確にそのような立場をとるようになったことがわかる。

3用紙獲得の問題

1938年から用紙統制が始まり、19405月には新聞雑誌用紙統制委員会が設立され、これ まで商工省や企画院などが担当していた用紙統制は内閣に移されることになった。用紙の獲得が 厳しくなってきたこの時期に、まさにモダン日本社が用紙の確保の問題に直面していることが、

『モダン日本』(19408月)の馬海松の「雑記」において、『モダン日本・朝鮮版』の月刊化の要 望に応えられない痛切な記述から読みとれる。なお、原文の漢字のふりがなは省略した。

この大方の要望に應へるためには、損得の問題は、暫く措くとしても、用紙の問題だけは どうにもならないので心を痛めた。血を絞つたやうなこの紙である。[中略]用紙の問題 が、解決すれば、月刊にしたい氣持は、大ありである。しかし當分その見込がないばかり か、年二囘も危い程であるから、何んとも御約束は出来ないが、出来る丈、頻繁に發行し たいとは思つてゐる。(韓日比較文化研究センター・編,2009p. 245

『モダン日本・朝鮮版』(19408月)には、『モダン日本・秋の朝鮮版』の広告が掲載され、「秋 の爽風と共に登場する第三號朝鮮版に絶大なる御期待を賜らんことを!」、「第三號『朝鮮版』十 月十七日發賣」「今から豫約注文あれ!」などと記されているにもかかわらず、「年二回も危い」

と述べた馬海松の言葉どおり、実際に『秋の朝鮮版』は刊行に至らなかったようである。この事 実からもモダン日本社が用紙統制の打撃を受けたことがうかがえる。

4雑誌統合の危機

用紙統制に加えて、19407月に雑誌の整理統合がいっそう本格化した様子が以下のように

(10)

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記述されている。

不急不用出版物の抑制

政府は國民生活粛正のため贅澤品不用不急品禁令と相呼應して凡ゆる享樂機関歡樂機關を 抑制し、銃後生活消費面、戰時下國民としての新生活體制を確立すべく近くこの細目を閣 議に諮つた上關係各省より省令を發するが、この細目中には不健全なる娯樂讀物、同種同 型雜誌、同種出版物の整理廢合、不急不用出版物の抑制等強度の出版統制案が含まれてゐ る。既に内務省は今後の用紙難と事變處理聖戰完遂に邁進するため不急の雜誌の整理廢刊 等強度の統制を行つてゐる。(東京堂,1941p. 56

1939年から『モダン日本』の発行兼編集印刷人となった須貝正義の記録より、『モダン日本』に 訪れた危機を知ることができる。194312月、企業整備令が施行され、出版界で整理統合が 進むなか、敵性語廃止で『モダン日本』より改題した『新太陽』は、大衆雑誌部門で講談社の『富 士』と新潮社の『日の出』との三誌で談合し、二誌になるように命ぜられた。日本を代表する出 版社を相手に、小資本の『新太陽』が吸収されてしまうかもしれないという危機的な状況であっ た。しかし、代表でこの会合に参加した当時29歳の須貝正義は、「馬さんの作戦指示は見事だ った」(須貝,1992p. 12)と称賛する。

馬さんの指示は、編集方針に力点をおいて発言して、経営とか発行部数とかについては殊 更に沈黙を守り、たとえば、今回は一切無言で通し、相手に喋りたいだけしゃべらせて帰 って来い、というようなものだった。[中略]結局、テコでも動かぬ「新太陽」に手を焼いて、

両社が情報局に働きかけたようで、「新太陽」は、一般大衆雑誌部門ではなく、娯楽雑誌 部門だという査定に変更された。つまりわが社は、駅売りの娯楽雑誌の用紙配給の権利を 買収して、存続し得たのである。私は、馬さんの指示通りに動く操り人形だったが、談合 の流れが、馬さんの云うとおりに進行する、その読みの深さと鋭さに、舌を巻いた覚えが ある。(須貝,1992p. 13

櫻本(1996)は戦前の雑誌の統合について記述しているが、その全貌を示す正確な数値は把握で きないのが現状らしい。小川(1962)は「企業整備後の各部門雑誌」の中で大衆娯楽誌について、

以下のように述べている。

昭和十二年頃は軍需景気と農村の景気恢復によって大衆物、娯楽物は非常に伸び、一年間 に二六〇種の増刊号を出し、昭和十五年には十一誌で二九五三万冊という昭和初年度に比 し二倍の伸び方であった。それが十九年の企業整備により国民雑誌としての『日の出』『富 士』(キングと合併)、娯楽誌として『講談倶楽部』『新青年』『講談雑誌』(博文館)、『新太陽』

(新太陽社)、『明朗』(春陽堂)の七誌(統合前は約三十誌)を残すのみとなり終戦時に至っ た。(小川,1962p. 143

モダン日本社は新太陽社と名前は変わるが、「出版新体制」の激動の改革期を乗り越えて終戦時 まで生き残り得た数少ない出版社の一つであったのである。

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4. 結論と今後の課題

本論では、1940年前後における出版界の変化とともに『モダン日本・朝鮮版』がプロパガンダ としての機能を備えるようになる経緯を調べた。1943年頃に完成した「出版新体制」という、一 元的な権力の下に出版界が統制される構図をつくり上げる改革が推し進められた激動の時期に刊 行されたのが『モダン日本・朝鮮版』であった。モダン日本社の馬海松は、そのような時代に雑 誌の存続をかけて、検閲の対策をし、雑誌の用紙の獲得に頭を悩ませ、雑誌の統合と廃刊の危機 を乗り越えた。そうしたなかで、『モダン日本』は「総力戦」体制に向かう時代の要請に応えるた め、当初のモダンな色合いを失い、政治性を帯びるようになった。日中戦争以後、雑誌メディア が戦争宣伝の役割を担うようになるのは主要雑誌に共通にみられた傾向である。本論はこの事実 に対し、『モダン日本』を維持するためにプロパガンダに転じたことはやむをえなかったと擁護 する立場をとるものではないが、政治的側面を以て『朝鮮版』が発信した内容を総じて否定的に とらえる見方に同意できない。

ここで問題にしたいのは、戦時体制下に置かれた出版界の厳しい変革期に『モダン日本・朝鮮 版』で朝鮮の文学が紹介されるようになった動機である。これは張(2014b)が危惧するような プロパガンダ化した『モダン日本』の通常号と切り離そうとする趣旨のものではなく、時局と『朝 鮮版』における文学紹介との関連性を分析しようという試みである。この問題は当時の「朝鮮ブ ーム」について考えるうえでも要になってくる。第一にあくまで「内鮮一体」の手段として朝鮮 文学が紹介されるようになったにすぎないのか。第二に朝鮮の「兵站基地化」を目指す戦時下の 時局に便乗して、文学も発表するようになったのか。第三に時局とは別の動機で始まり(とはい え、植民地統治下で日本に朝鮮人の存在が身近にあった背景から完全に切り離して考えることは できないが)、戦時体制の悪化のなかでプロパガンダとして働くメディアに圧倒され、やがてそ の機運を失ってしまったのか。この問いに対する答えは、当時紹介された朝鮮文学からどのよう な朝鮮の姿を表れているのか、ということを分析することで見えてくるのではないかと考える。

帝国日本に向けて植民地朝鮮の文化を伝えていく行為において、その時代的背景と無関係でい られた媒体はなかったであろう。今後の課題としては、『モダン日本・朝鮮版』で紹介された作 品を初め、当時日本で発表された朝鮮人の作品を取り上げて、出版の背景を踏まえながらその影 響を具体的に調べていきたい。このような実証研究を通してこそ、植民地期の「朝鮮ブーム」の 日朝の文化交流史における意義を知ることができると考える。また、植民地時代の文化的テクス トを見直すことが、今後の日韓関係を考える新たな糸口を見出す契機となることを期待したい。

1 昭和15年度版『文藝年鑑』(文藝家協会・編)におけるモダン日本社の項目には、社主・社長が馬海松、

編集長が牧野英二、編集者が幸田房子、金原健兒、木村正治、須貝正義とある。1939年と1940年に 刊行された『モダン日本・朝鮮版』の奥附は須貝正義の名が記されている。

2 [新聞紙法]第二三条 内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認 ムルトキハ其ノ発売頒布ヲ禁止シ必要ノ場合ニ於テハ之ヲ差押フルコトヲ得

前項ノ場合ニ於テ内務大臣ハ同一主旨ノ事項ノ掲載ヲ差止ムルコトヲ得

[出版法]第一九条 安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ

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内務大臣二於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得

3 安寧秩序紊乱は「(一).皇室の尊厳を冒涜する事項 ( 二).國體を變革せんとする事項(三).現在の國家 組織の大綱を否認又は不法變革せんとする事項(四).軍事上重大なる支障を來す虞ある事項(五).外 交上重大なる支障を來す虞ある事項(六).財界を攪亂するは如き事項(七).その他著しく社會の不安 を惹起する事項」(協同出版社,1939pp. 54-55)を指す。

4 風俗を紊乱する事項の内容は「(一).卑猥なる事項(二).亂倫なる事項(三).墮胎方法を紹介する事項

(四).遊里、魔窟等を紹介する事項(五).殘忍なる事項(六).その他善良なる風俗を害する事項」(協同 出版社,1939pp. 54-55)である。

5 野間清治(講談社)、畑中雄作(中央公論社)、山本實彦(改造社)、菊池寛(文藝春秋社)、佐藤義亮(新 潮社)、増田義一(実業及日本社)、大橋進一(博文館)、都河龍(婦女界社)、鈴木利貞(日本評論社)、

石川武美(主婦之友会)

6 国家総動員法第一条「国家総動員トハ戦時ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル 様人的物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。日本雑誌協会(1969p.9)は、国家総動員法につい て「国民生活を戦時体制下におくことを目的としており、出版等も勅令をもって統制下におくことを認 めていた」と解説している。

7 193912月に刊行された『パルプ及び紙統制』によると、当時、雑誌用紙は供給不足の状態であった ため、供給制限及び消費制限による統制が実施されていたと記されている。日中戦争の勃発により、

1937年の第一次物資動員計画で軍需品の優先的輸入に伴い、製紙用パルプ輸入が抑制された。この輸 入パルプの減少により、紙の節約が必要となったため、商工省は企画院、臨時物資調整局との協力研 究のうえで、消費制限を課すようになる。

8 1939年に刊行された『雑誌年鑑』(日本読書新聞社)に雑誌の検閲について記されている。雑誌には「新 聞紙法」と「出版法」の二種が適用され、『モダン日本』は新聞紙法に依拠していた。新聞紙法によって 雑誌の刊行する際には、次のような過程を経る。新聞紙法第4条に依り、第一回発行の日より十日以 前に管轄地方官庁を通じて、内務大臣に以下の事項を届出る。「一. 題号、二. 掲載事項の種類、三. 事に関する事項の掲載の有無、四. 発行の時期、若し時期を定めざるときは其の旨、五. 第一回発行の 年月日、六. 発行所及び印刷所、七. 持主の氏名、若し法人なるときは其の名称及び代表者の氏名、八. 発行人、編集人及び印刷人の氏名年齢但し編集人二人以上あるときは其の主として編集事務を担当す る者の氏名」。この届出が受理されれば、十日後、雑誌の発行ができる。その発行の際は、毎回内務省 へ二部、主管地方庁へ一部、地方裁判所検事局へ一部、区裁判所検事局へ一部、合計五部の納本を要 した。第一回発行の際にのみ上記に則した届出を要し、それ以後は毎回雑誌の頒布と同時に、現物の みを上記の機関に納めれば良い形になっていた。納本された雑誌は、各機関によって検閲された。

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参照

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