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〈論 説〉
1910年 代 朝 鮮 に お け る農 事 改 良 政 策 と在 村 地 主 層
松 本 武 祝
は じめ に
植民地権カー地主一農民 とい う三者間 の経済的政治的 な結合/対 抗関係 を明
ら か に す る こ と は 埴 民 地 ・::.一 業 研 究 に お い て 最 も=?.:.な 課 題 の ひ と 評
あ る。 これ まで の研 究 にお い て は,以 下 の よ うな点 が ほぼ通 説 とな って い る。
① 「産 米 増殖 計 画 」 に積 極 的 に呼 応 す る朝鮮 人 「新興 地 主」層 の 出現 ② 地 主 一 小 作 農 間 の階級 対 立 の深 刻 化 に と もな う小 作争 議 の頻 発 ③ 民 族 主 義 や社 会 主義 の影響 を受 け た農 民 運動 の展 開,と い う一 連 の 変化 が1920年 代 に起 こ り, そ の結 果 「新 興地 主 」 を 中心 とす る朝鮮 人地 主 は 自 らの階 級 的利 害 を保 全 す る た め に植民 地 権 力 にす り寄 って い った。そ して,1920年 代 中葉 に は 「朝 鮮総 督 府 と朝 鮮 人地 主 との政治 的連 合 」 が成 立 し(1926年 「朝鮮農会令」施行がその メル
クマ̲ル),朝 鮮 人地 主 は 「植 民地 支配 の社 会 的 支柱 」 と しての役 割 を担 って ゆ く,と い う理解 が それ で あ る。
この課 題 に関 す る研 究 は,一セと して1920年 代 以 降 を対 象 と して な され て き たが,近 年71910年 代 に関 して もい くっ か の注 目す べ き研 究 がな され て い る。
まず,当 該 期 の 「米作 改 良 政策 」を体 系 的 に論 じた鄭然 泰 氏 は,「 日帝 の農 業 改 良 政 策 が 基礎 と して い た明治 農法 体 系 は韓 末以 来朝 鮮 人地 主 階級 が追 求 して き た農 業 改良 論 と一 致 す る こ とか ら地 主 階級 一 般 に拒 否 感 な く受 容 され た」,そ
して 「1910年 代農 政 は総 督 府権 力 と植民 地 地 主 階級 の政 治 的 ・経 済 的癒 着 を も た らす機能 を 果 た し鬼 と指 摘 して い る.ま た冷 顯 道 の一 地 域 の詳細 な モ ノ グ ラ フを著 した洪 性 讃氏 は 「日帝 初 の地 主会 が(は),単 純 な農 事 団 体 で は な
132商 経 論 叢 第32巻 第2号
0301)
く議 兵 闘争 と強 占を経 た の ち 蹄 と鯛 人 地 主層 が
ド ー方 は統 治 の必 要 か ら, も う一 方 はr小 さ くは地主 経 営 に必 須 の勧 確保 の た め汰 き くは従 来 か ら追 求 して きた地主 的方 向 か らの近 代 化 論 と符 合 した農 瓢 策 とい う点 に お い て
, それ ぞれ の利 害 が噸 を見 て設 立 され た団 体 であっ兜」 と謝 て い る。
舐 の指 摘 は・ 繍 府 の農 業 政策 に呼飼乱 た朝鰍 駐 の存在 を 明 らか にす る こ とに よ って・1910年 代 の農 事 改良 政 策 が暴 力 的 な強 制 に よ
って実施 され た こ とを強調 す る従 来 の理 解(い わゆる 「武断政治潮 の 「サーベ儂 政」)に 対 す る 舶 しを迫 って い る・ただ し澗 氏 の輪}こ お い て は潮 鮮 繍 府 と朝 鰍 地 主 との政 治 的連 合 」 が・ 従 来 言わ れ て きた192・ 年 代 に で はな く,す で に191。
年 代 に は蹴 して いた こ とに な る.し か しそ れ だ と,今 度 は溜 頭 で述 べ た 1920年 代 の変 化 の 醐 性 が 明瞭 で な くな って しま い
,繰 的 に は191。 年代 固 有 の歴 史 的特 質 を軽 視 した議 論 に な って い る と考 え られ る
。
本 稿 で は・191・年 代 にお い て朝 鮮 総 督府 に よ る農 事 改良 政 策 を積 極 的 に受 喜ナ 入 れ て い った階層 を朝鮮 人地 主 の中 か ら析 出す る こ とを第 の 目標 とす る
.そ れ は,鄭 ・洪 両氏 の指摘 を筆 者 な りに具体 化 しよ うとす る試 み で あ る
。 そ して 第 二 に一 方 で そ の儲 の歴 史 的G'llに 見 通 しを っ け,他 方 で191。 年 代 か ら 20年 代 に か けて の 当該 階層 の鮒 社 会 に お け る役 割 の変 容過 程 を分 析 す る
こ とで・ 冒頭 で述 べ た三 者 間 の結 合/対 欄 係 の191・ 年代 に固有 の特 質 を易咄
しよ うと 考え る。
1.「 篤 農 家 」 の 分 析
1910年 代 の̲̲改 良 政 策 にお い て,総 督府 は,そ の財政 的制 約 の ため に積 極 的 な財政 出動 を と もな うよ うな利 益 誘 軸 手 法 を とる こ とが で きな かった.当 時 は詫 た る政策 手 法 と して1"術 員 や巡 回教 師(そ して岡知のように潜 察機構 がこの隊列に加わ った)の 派遣 あ るい は講 習会 の開催 を通 じての技 術 指 導
,そ し て各種 品 評 会 を通 じて の農事 改 良 奨励 が 重要 視 され て い た
。
1916鞭 の数値を例 に挙げ 詑 「 農事講習伝 習」(普醗 鞭 業
}畜 産の合
計)は1年 間 に 長 期108ヶ 所 ・短 期7 ,871ヶ 所 で 開 催 さ れ て お り,そ こで の 修
(300) 1910年 代 朝 鮮 にお け る農 事 改 良政 策 と在 村 地主 層133
了 生 数 は そ れ ぞ れ1,772名,49,106名 に及 ん で い る。 ま た,郡 単 位(一 部 複数郡 に よ る開催 あ り)で の 「農 産 品 評 会 」が 同 年 度 中 に あ わ せ て316ヶ 所 で 開 催 さ れ, そ の総 出 品 人 員 ・入 場 人 員 は そ れ ぞ れ20万 名 弱 ・100万 名 強 に 達 して い る。
な お,1910年 代 に は,一 定 面 積 以 上 の 農 地 を 所 有 す る地 主 を 構 成 員 と す る
「地 主 会 」 が 郡 単 位 に組 織 さ れ て い っ た。 「地 主 会 」 は,概 ね,郡 守 が 会 長 を 兼 任 しか っ郡 庁 内 に事務 所 が置 か れ るな轡,半 ば官 製 団体 で あ った・「地 桧 」の
主要 な事 業 もまた,技 術 員設 置 や 講 習会 ・品 評会 開催 な どを通 じた農 事 改良 の
くの
推 進 で あ った。
とこ ろで,1910年 代 の農 事 改良 政策 の 中心 的課 題 は米 作 改良 で あ った。そ の た あ に総 督 府 は,「 優 良 」品種 の普 及,乾 燥 調 整 の改良,灌 概水 の供 給 施肥 の 奨 励 とい う4つ の 目標 を掲 げ た。
ただ し,米 作 改良 政 策 にお い て もまた,財 政 的制約 の ため に,多 額 の財政 支
(7)
出 を伴 う ことの な い政策 手 法 の み が追 求 され て い くこ ととな った。 農事 改 良 政 策 に本 格 的 な財 政 支 出が な され るよ うに な るの は,1910年 代 末 以 降 の ことで あ る。結 果 的 に,「 灌 概 水 の供 給 」に関 して は,地 域 農 民 の労 働 力使 役 を前 提 とす る蘇 水 利 搬 の改 修事 業 躾 施 す るに とどま っ健.ま た 「施 肥 の奨 励」 につ いて は,肥 料 輸 移入 額 の増 加 や農 民経 営 の商 品経 済 化深 化 へ の懸念 とい った配 慮 か ら,当 該 期 に は金 肥 の消 費 に対 して はむ しろ抑 制 策 が と られ,堆 肥 ・緑 肥
ゆ な ど の 自給 肥 料 の 奨 励 が 行 わ れ た 程 度 で あ った 。
結 局,上 記 の4っ の 米 作 改 良 事 項 の 中 で1910年 代 に 最 も顕 著 な 「成 果 」 を挙 げ た の が,「 優 良 」 品 種 の 普 及 事 業 で あ っ た。 水 稲 「優 良 」 品 種(そ の ほ とん どが
日本 種)の 普 及 率 は,作 付 け 面 積 比 率 で1912年 の2.8%か ら1920年 に は
(lo)
57.5%へ と短 期 間 の うち に急 伸 して い る。
「優 良 」 品種 普 及 のた め に総督 府 は,上 記 の講 習会 や 品評 会 の実 施 に加 えて,
「優 良」品 種普 及 の た め のル ー ト作 りに着手 して い る。す な わ ち,中 央 に勧 業模 範 場 を,各 道 に種 苗 場 を,そ して郡 以 下 に苗場 ・採 種 沓 をそれ ぞ れ設 置 した の で あ る。 多 くの 「地主 会 」 もまた採 種沓 を経営 して 「優 良 」品 種普 及 に補助 的
な役 割 を果 た した。
134商 経 論 叢 第32巻 第2号
{299)
こ う した,行 政 ・半 官 製 機 関 に 混 じっ て
,1910年 代 に は 「篤 農 家 」(京 畿.全 北 減 北)・ 「大 地 主 」(全 北 ・鋪) ・「模 範 農 」(楠 ・・i三北),あ る い は 「個 人 」(忠 北)と い った個 人 の事 業 に よ る採 瀦 力囎 され て し凱1922年 に始 ま
った
「種 硬 新 計 剛 が 郡i沓 一 面 採 種 沓 一 搬 農 民 と い う地 方 行 政 上 の 経 路 を 通 じて 一 元 的 ・維 的 に 実 施 さ れ た の と は文照 的 で あ る
.そ こ で 以 下 で は,「 篤 農 家 」 と い う 諜 を 手 が か り に,「 優 良 」 品 瀦 及 を は 髄 と して191。 ヰf三代 の 米 徹 良 に積 極 的 に関 わ って い った と お もわ れ る陥 を 析 出 して み た い
。 表 一1は ・忠 清 北 道 が 「篤 農 家 表 彰 規 定 」に も とつ い て1911年1こ 表 彰 を 行
っ た 24名 の 「篤 農 家 」 の 一 覧 で あ る・ 階 層 と し て は 郡 内 ト ッ プ レベ ル の 館 家 (#3'10'11)か ら 「中 等 ノ 自作 農 」(#13・14・18)ま で か な り多 岐 に わ た
って い る もの の渤 倹 お よ 濃 事 改 良 実 践 が そ の 「業 績 」 と して 評 価 さ れ て い る点
で ほ ぼ 共通 して い る。
「篤 農 家 」 の 評 価:.と して 勤 倹 が 翻 され た 理 由 と して は
,働 労 節 約 」 や
「 勤倹膳 」が翻 され た 「 明膿 政」期 の凱 囎 の影響 をまず指摘す る こと がで 輸 加えて・「 凱 枯 来単 二天恵 二繭 シテ肋 二由ル禾1」 用 ノ方法
ヲ閑
却 シ….」 と い っ た 朝 鰻 民}こ対 す る糖 府 官 僚 の 観 的 識 が
,そ れ を増 幅 した と思 わ れ る・ な か で も#16に 対 す る指 摘1こ見 られ る よ う に
,解 家(と りわ け両班地 め 二不 在 寄 生 地 主 と い う イ メ ー ジ の対 極 的 な存 在 と して
,地 主 で あ り な が ら も 自 ら(あ るい は#3・23の よ うに 「雇 人」 とと もに艘 業 に も従 事 し
て い る在 村 耕 作 地 主 が ・ 望 ま し き人 物 と して顕 揚 され て い る.こ れ らの3名 以 外 に も#7'8.10・11が 在 村 耕 作 地 主 で あ っ周 能 性 が 高 い
.さ ら に,嘲 鮮 農 家 ノ 多 数 ハ小 作 及 ビ大 地 主 ノニ 階 級 二分 タ レ… … 所 謂 社 会 組 織 ノ 中 堅 ヲ欠 如 シ
ー 酢 齪 ヲ構 護シ若一馳 セサ呵 讃 」と
い狛 膿 保護聯 上の脈
絡 に お い て も・ 勤 倹 貯 蓄 を通 じた 「社 会 組 織 ノ 中 堅 」 の 維 持 が 重 要 視 さ れ て い た と考 え られ る。 こ の点 に 関 わ っ て,本 表 中8名(#1・4・7・10.11・15.17.
2Dは,「 貧 家 」 に 生 ま れ な が ら も 「精 励 」 に よ
って 資 産 の 蓄 積 を 成 し遂 げ た 人 物 と して 紹 介 さ れ て い る。
た だ し,総 督 府 の農 業 政 策 上 の 課 題 か らい え ば
,農 民 の 勤 倹 は そ れ 自体 が 政
(29$)
No.氏 名(年 齢)
1延 乗 雫亘(43) 2姜 鼎 潤(80) 3李 沢 栄(33)
4567891011121314151617
厳 顕,*.(67) 裏 守 京(59) 朴 洵 述(37) 厳 木セ憲(49) 申 吉占季莫(88) 金 基 栄(85)
柳 遠 大(62) 羅li載字可(37) 本ト基i豊玉(46) 宋 敏 圭(65) 安 孝 舜(73) 愈 致 舜(58) 18褒 璃'喚(58)
1910年 代 朝 鮮 に お け る農 事 改良 政 策 と在 村地 主 層135
表 一1
岡濃
1鱗 隔
奪 柄醐 灘 ○
灘
懐仁郡 ○ 忠州郡 沃川郡O 沃川郡 ○ 清風郡O
清風郡 ○ 清風郡 報恩郡 ○ 報恩郡 報恩郡 永同郡
忠 清 北 道 「篤 農 家 」 一 覧(1911年)
一 一.,̲̲̲一 一̲̲̲一̲一̲一 一 一 一 一 一一 一 一一 一一 一一 一 一闇一 π一一 一 一一一1
a
備 考
[
88iゴ ー}一 一 『一 一 一一]
010「 本 郡 第 一 流 ノ 両 班 」 「雇 人 二 伍 シ テ … … 労 役
lI二 服 ス」
△回 ○粋糠 民1驚 」
8b磁 年巡校ノ̲」
[
O O O O O O O O O O
oi両 班 ニ シ テ 財 産 ヲ有 シ 」
○ 「里 長 ノ 職 二 在 ル カ 里 民 ノ心 服 厚 ク」
○ 「郡 内 一流 ノ 富 農 」 「唯、民 ヲ鼓 舞 激 励 」
○ 「郡 内 屈 指 ノ 資 産 家 」 o ,
「中 産 ノ 白 作 農 」
・陣 劇 膿 」
Ot
19張 錫 勇(57)1永 同 郡 20金 済 鵬(?)1陰 城 郡
顯蝋犠瀦
̲L̲̲⊥
・ 騨 朝鮮富家ノ轍 食ナ励 ヒニ在ラス」1
otr中 等 川 儂 」
・btrイ 膿 家 二感化 ヲ及 セ リ」
818融 之二倣ヒ」
「雇 人 小 作 人 ヲ 率 ヒ」 「付 近 農 民 ヲ シ テ 之 二 倣
一阯 総 轡 ツ 之 轡 、
〈 資 料 〉 『朝 鮮 彙 報 』 大 正兀 年2月 号,80〜83頁 よ り作 成 。
〈 註 〉 〈 印 は 「勤 倹 」 で は な く 「勤 勉 」 と記 述 さ れ て い る こ と を 示 す 。
策 目標 ではな く,網 府 が提示 し膿 轍 良 の メニユ}膿 民 が勤倹 屯愉 う日
常 的 な生 活 指 針 に基 づ いて実 行 して ゆ くこ とが よ り重要 で あ ったで あ ろ う。農事 改良 それ 自体 へ の取 り組 み が,勤 倹 とな らんで 「篤 農 家」 と して の評価 基 準
136商 経 論 叢 第32巻 第2号
0297) と して 強 調 され た 所 以 で あ る。
農 羅 営 を 自 ら行 う こ と で 農 業 の 知 識 や 技 能 を あ らか じ膳 積 して い る こ と 膿 轍 良 に と っ て は祠 欠 の前 提 と な る と い う判 断 か ら
,繍 府 は在 村 耕 作 地 主 の 存 在 に 湘 した と考 え られ る・ ま た,搬 齪 と比 べ れ ば,新 技 術 導 入
に と も な う危 険 負 担 増 に 耐 え 得 る だ け の 経 済 的 基 盤(資 産)を 兼 ね 備 え
て い た で あ ろ う こ と も 彼 ら(姓 糟 主 は ご く希 な存 在で あった 拷 え る)の 評 価 を 高 め た も う ひ と っ の 要 素 で あ った と思 わ れ る
。
こ う した 「業 績 」 を挙 げ た 「篤 農 家 」 の ほ とん ど に奏ナして 「他 の農 家 の 模 範 で あ る」 と い っ た た ぐい の コ メ ン トが 付 さ れ て い る
.こ の コ メ ン トは,二 っ の 文脈 で 捉 え る こ と が で き よ う・ ひ とつ は,鷹 農 家 」 の 千働 鯛 辺 の農 家 は見 習 うべ きで あ る と い う繍 府 側 の 意 向 表 明 で あ り
,も う ひ とつ は,彼 らの 存 在 が 実 際 に 周 膿 家 に 「模 範 」 と して 影 響 力 を 及 ぼ して い る と い 獺 告 と して の
コ メ ン トで あ る・ こ こで は・#5・9・1・ ・19・21・23・24に 対 す る コ メ ン トに 見 られ る よ う に・傭 農 家 」の 行 動 醐 辺 農 家1こ対 して 実 際 に淀 の影 響 力 を及 ぼ して い た と思 わ れ る点 に 注 目 して お き た い
。
次 に 表 2は ・1915・16年 にr朝 鰻 報 』誌 上 に 紹 介 さ れ た 鰭 各 道 の 「篤 行 者 」 の う ち で 騨 改 良 に 関 わ る業 績 を 挙 げ た朝 鰍 の み を ピ
ッ ク ア ッ プ した も の で あ る。 一ヒの 「篤 農 家 」 と同 じ類 型 の 人 物 た ち を 捉 え て 差 し支 え な い と考 え る。
まず ・本 表 に登 場 す る入 物 の 繍 的 階 層 を検 討 す る と
,「 優 良 」Q配 布 や ノ1、
作 人 の,.,.化 と い っ た か た ち で 配 の ノ」・作 人 と の 関 わ り が 明 融 の が9名 (#3'4.5'7'10・ll・12・13・18)あ り,彼 ら は 当 然 地 主 と い う こ と に な る。
#2'8も 役 職 か 硯 て 地 主 で あ っ た こ と}まほ ぼ 間 違 い な い
.し た が っ て,本 表 20名 中 ・ 少 な く と も11名 は 地 主 で あ る と確 定 す る こ とが で き る
.他 の9名1こ つ い て は確 定 が 騰 で あ る が・表1の 事 例 か ら類 推 して,駐 ま た は 自 儂 層 (た だ し・#16は 小 膿 あ るい1ま自小作 農 で あろ う)に 属 して い た と思 わ 調
。 本 表 にお いて特 徴 的 な こ とは・まず,2・ 名 中14名 が 「優 良 」樋 の試 作 を 自
コ ノ の
り 灯 っ て い る と い う 点 で あ る(た だ し・ 水 稲 以 外 に 麦,大 豆 あ る い は 桑 の 「優 良 」 品
C29fi) 1910年 代 朝 鮮 に お け る農 事 改 良、政 策 と在 村地 主 層137
表̲2朝 鮮 人 「篤 行 者 」 の 農 事 改 良 に 関 わ る 事 業 一 覧
1
1
」 69 9 10
優良品種
̲開̲一 国
一
試 配布 ・奨 励
No.氏 名 住 所 ̲‑r一
洞 近隣
f里 等
一 ̲一 一 一}
1金 鐘翁 忠南扶余郡 1
2沈 相星 忠南天安郡 ○
[
1
0
1
3ヂ 志嫡 忠南論山郡 ono 0 4宋 乗直 忠南論山郡 ono
1 U
1
1 李基升 忠南瑞山郡 ○金商碕 忠南論山郡 ○ 金学洵 全南順天郡 ○ 金肯鉱 全南長城郡 ○
審翻 塞離購0
11金 明玉 慶北清 道郡 12朴 喜彰 慶北 金泉郡0 13李 豊換 慶 北栄 州郡0 14姜 信黙 慶北 聞慶郡0 15成 泰根 慶南 昌寧 郡OI 16張 碩 鳳 慶南 昌寧郡 17李 益樫 平南順川 郡 18文 広魯 平南 中和郡 19李 鎮沫 威北 明川郡 20朴 乗権 威北富寧 郡
O ono
O l
9 0
U
u
onoO O
○
面
0
面 U
○ ○ ○
農 民 組 織 化 地域
面 組 織 名
○ 勧業契
。/信用組膿 事改
○
1
‑
00
1
t。
信
O 良契 小作人契
1備 考(役 職 な ど)1
〕
共同耕作地 金家小作人組合 小作人講話
小作人信用組合 巡山契,参 業組合
(面)
金組 組合 長 ・郡参 事
郡参事 ・金組 評議 I員
l弟 が 元 郡 守 I
i1地 セ会 副会長
郡守
金 組評議 員 ・地 セ 組合 員
… 夜業会
矯風 会 ・副業貯蓄 組 合
副業貯 蓄組合 洞契(貯 金) 契(植 林)
洞 契 ・部落共 同植
」 埜̲一.
地主組合員 郡参事
森林組合長
国有地小作人組合 長
1
i・里 面 内 中 流 の 地 位
墜」
〈 資 料 〉 『朝 鮮 彙 報 』 大IE4年6月 号 同7♪Pあ 同8月 号,同lO月 号 同12月 号 大 正5年1 月 号,同2月 号,同3月 号,同4月 号,同5月 号,同6月 号,同7月 号 よ り作 成 。
〈 注 〉 「近 隣 等 」 欄 中 「面 」 と は,面 を 範 囲 と した 配 布 ・奨 励 事 業 を 指 す 。
138商 経 論 叢 第32巻 第2号
0295) 種 の試作 者 を も含め て記 載 して あ る)。 しか もそ の う ち9名 は上 で 示 した11名 の地
掘 嘱 して い る・ こ の 点 か ら 膿 事 改 良 に 積 極 的 に取 り組 儂 業 者 と りわ1ナ 在 村 耕 作 地 ↑こに対 して 総 督 府 が 高 い 評 価 を 与 え て い た こ とが 確 認 で き る
。 そ して・ 表 1の 「篤 農 家 」 が そ うで あ っ 六二よ う に
,彼 らの 多 く は 「優 良 瑠1 搬 培 を 他 の 農 民 に積 極 的 に奨 励 して い る.す な わ ち,14名 の 試 儲 の う ち,
自 己 の 小 作 人 に試 作 した種 子 ・苗 木 を 配 布 した り あ る い は栽 培 を 奨 励 した り し て い た の が7名(#3・4・5・7・12・13・18)
,洞 胆 内 で 配 布 や 奨 励 を して い た の が5名(#4・6・7・14・18) ,面 内 で配 布 や 奨 励 を して い た もの は1名(#13)
, そ して・領 域 は 確 定 で き な い もの の,「 近 隣 」 な ど へ の 配 布 や 奨 励 を行 っ て い た
もの が4名(#2・3・6・9)と な って い る(重 複分 を除 いて総 計11名)
。 ま た,そ の 他 に2名(#16・2・)が ・ 試 作 の有 無 は 棚 な が ら 「優 良 」 品 種 灘 の 奨 励 を周 膿 民 に行 って い る・ こ う し儂 事 改 良 事 業 と あ わ せ て 洞 膿 民 や 配 の 小 作 人 に 対 して 勤 倹 貯 蓄 を 強 調 ・奨 励 した と い う報 告 も9例 に及 ん で い る(#2 . 4・9・10・12・14・17・19・20) 。 この よ う に,「 篤 行 者 」 に よ る農 事 改 良 や 勤 倹 貯 蓄 の 奨 励 は・ 地 ト 小 作 関 係 あ る い1銅 里 な ど の地 縁 関 係 と いっ た 具 体 的.日 常 的 な 面 接 関 係 を媒 介 と して 実 施 さ れ て い っ た こ とが わ か る
。 さ らに,こ れ ら 「篤 行 者 」 の 主 導 に よ って
,農 事 改 良,勤 倹 貯 蓄,金 融 山 林 管 理 あ る い は副 業 な ど を奨 励 す るた め の 様 々 な 組 織 が 作 られ て い る
。 これ ら の 繊 の う ち・9件(#1・4・9・13・14・17・18・19 ・2・)は 洞 里 を 領 域 と した も の で,件 数 と して は最 も多 い。 これ に対 して 面 レベ ル で の組 織 の 事例 は一 例 に と ど ま る。 な お,1915年 に忠 清 南 道 長 官 の 小 原 新 三 は 「管 内 未 だ 面 と して
,特 に 著 く優 良 な る も の を 挙 げ 得 ざ る は,ま こ と に 遺 憾 と す る所 に 有 之 候 鰯 七,
… 唱の 内 に は註 目に{直す る もの少 なか らざ るは
,真 に愉 快1こ裾 晶 と報 告 して い る。 こ の 時 期,面 よ り もむ しろ洞 里 の ほ うが 「臼治 的 」 な 結 合 力 が 強 か った ことを示 唆 す る指 摘 と して興 麟 習1。
以 上 の よ う な地 縁 組 織 と は 別 に,自 己 の 小 作 人 を 対 象 と した組 織 と して4件 の 事 例(#5・10・11・12)が 報 告 され て い る
。 こ の4件 の 地 主 の 内,#5は1918 年 の 「小 作 人 契 」 難 数 が1 .,597(19),#1・ は 報 告 時 の 所 有 踏 が2
,8。。糖
(294)191・ 年代 朝 鮮 にお け る農 轍 良 政 策 と謝 地 掘139
(1斗 落 一200坪 で 換 算 す れ ば 約185町 歩),そ の 小 作 人 数 が586名 に 及 ん で い る 。
また#11は 「郡 内有 数 の資 産家 」 と指摘 され て 落#12の 地 祉 して の規模 は糊 だ が,地 椥 韻 で あ る ことか ら郡 内 トップ レベ ルの地 † で あ った と思 わ れ る.以 上 の よ うに,小 作 人 の組 織イヒを試 み た地 柑 ・ いず れ も郡 内屈 キ旨の 大 地 主層 に属 して い た点 が,そ の特 徴 とな って い る。
こう した洞 膿 民 や小 作 人 の騰 化 は,当 日寺縄 府 が政 策 的 に髄 した課題 で もあ った。まず 洞 職 ベ ルで の農 民騰 化 の試 み1こ関 して はT「ff7朝 鮮 に 行 はれ た る 舐 郷 約 を経 と し内慰 こ於 て行 は る る産 業組 合 及 報徳 社 を緯 と した る洞 約 規 則 を 規 定 し… … 今 や 道 内 全 洞 里 に 亙 り之 が 設 、アを 見 ざ る所 な き に (窒
」 っ た 威 鏡 北 道 の 「洞 契 」 の 例 が 有 名 で あ る(#19・20の 事例 に もその 「成果 」 が見いだせる)。#17に み られ る 「矯 風 会」 は,総 督 府 が 唱導 したr民 風 改 善」
団体(前 述註15参 照)が 洞 里 レベ ルで設 置 され た事 例 で あ る と思 わ れ る・この他 に も道 が奨 励 した洞 里 レベ ル の類イ以団体 と して・ 観 の限 りで も 忠 清南 道 の 「振 興 会」,全 羅 北 道 の 「貯 穀 契」,平 安 北道 の 「平 安 北道 洞 約 」,威 鏡 南 道 の
く ラ
「威 南勤 倹貯 蓄契 」 とい った 事例 を挙 げ る こ とが で きる。
他 方,小 作 人 の儲 化 に関 して総 督 府 は,「地 主 ト小 作 人 ト・・正 二親 子 ノ関 係 二等 シキ 調)」 とい っ襯 点 か ら,地 主}こよ る温情 機 的 な小 作 人膿 の腰 性 を強 調 して い た.各 郡 の地 主会 はその方 針 綬 けて・ 地 桧 が巌 に管 内小 作 農 に対 して 「改 良 灘 」奨 励 「ノ」・作米 品 評会 」 あ るい は 「優 良 小イ乍人表朝
を行 った ほか,地 桧 会 員 に対 して も 「ノJ・作 人 会∬ 小作 人 懇言舌会 」「ノ」'作人信 用 組 合」を設 置 した り1小 作 米 品評 会 」「小 作 人表 彰 」を行 う こ とを奨 励 して い (24)
.な お,#11に よ る小作 人1こ対 す る 「耕 作 上備 話 」お よび#12の 「朴 喜彰 小 作 人信 用 組合 」 は,い ず れ も 「地 主組 合 員講 習会 」 の受 講 を契機 に始 め られ た もので あ った とし蹴 また#5は,「 瑞 山郡地 主 会 に於 て臓 した る事 項 に基 ま響 」,「小 作米 品評 会 」 を実 施 して い る。
以 上 の事 例 分 析 を通 じて,総 督 府 の農 業 政策 に呼応 して 自 らが勤倹 と 「改良 農 法」 を実 践 し,し か も洞 里 単位 で農 事 改良 や 勤倹 貯 蓄 を主導 した りあ るい は
配 の小 作 人 を"':'.1して それ らを奨 励 して ゆ く在 村耕 作 地 主を 当 時 の 「篤 農
140商 経 論 叢 第32巻 第2号
表一3農 家経 済調査 の 「上農 」 に関 す る集計 値
戸数 内
訳 所 有沓(反) 所 有田(反) 合計(反) 経営 沓(反) 営 田(反) 合計(反) 族 人数(人) 族労 働力(人) 雇 人数(人)
耕作地主 自 作 農
9南 部
北 部3 77.4 27.4 104.8 s.0 16.6 25.5 11.1 3.0 2.0
6南 部2
北 部4 10.9 17.4 28.3 10.9 16.9 27.5 7.3 2.8 1.2
自小作 3南 剖
ず1
24.3 43.?
fi.2 49.8
8.7 4.0 1.7
副
〈 資 料 〉 梶 村 秀 樹 「1910年 代 朝 鮮 の 経 済 循 環 と 小 農 経 営 」 中 拳 か 『朝 鮮 近 代 の 経 済 構 造 』 日 本 評 論 ネ七1990年
,237・238 頁 よ り βゴ集 言f。
〈 注>1)個 別 事例 の 報 告 の み を 対 象 と し譲 数 事 例 卿 均 値 が 示 さ れ て い る も の は 除 外 した 。
2)京 畿 ・江 原 両 道 以 南7道 を 南 部fほ か の6道 を 北 部 と し た 。
(293)
家 」 の典 型 と して 措 定 す る こ とが で き る と考 え る
。
さて・ こ こで問 題 と な るの は・ こ う した 「篤農 家 」 と して の在 村 耕 作地 主 が 当時 の朝鮮 農 村 に どの程度 存 在 して いたの か,と い う点 で あ る.当 時 の統 計上 で は凋 知 の よ うに 「所 有 地 ノ大 部分 ヲ小 作 セ シ メー 部 ヲ醐 作 スノ瑠 」 が地 主(乙)と して 掲 載 さ れ て い る(た だ し,1916一 ユ932鯛 のみ).た と え ば,192。 年 に は地 主(乙)戸 数 は 朝 鮮 全 体 で7万5千 戸 強 で あ
っ た.7万5千 弱 あ った と し、
わ れ る洞 里(「 併AC‑]後 にT7洞 里 と して..合 され る以 前 か ら存 在 して きた も の)数 と対 比 す る とa里 に は 平 均 す れ1ま1戸 強 の 地 主(乙)が 存 在 して い た こ と
1こ な る。
っ つ い て ・在 村 耕 作 地 主 の 所 有 ・経 営 規 模 を 検 討 して み た い(表 一3)。1910年 代 初 に 『朝 鮮 農 会 報 』 な ど に 掲 載 さ れ た農 家 経 済 調 査 事 例 に 関 して は
,す で に 梶 村 秀 樹 が 詳 細 な 分 析 を 行 って い る・ そ の う ち 「儂 」 に 関 す る数 値 輌 集 計 した もの が 本 表 で あ る・ な お・ こ こ で の 「上 農 」 と は,ひ とっ の 鯉 内 に お4、
(292)191・ 年 代 朝 鮮1こ お け る 農 轍 良 政 策 と 在 村 地 主 層141
て 「純 地 主 を 除 い て も っ と も論 と:a.̲者 が判 断 し膿 家 で あ る・
「上農 」 の 個 別 事 例18戸 の う ち,耕 作 地 主 は そ の 半 数 の9戸 に 及 ん で い る。
残 り は 自 膿 が6戸 泊 小 膿 が3戸 で あ る・ これ ら諸 の な か で の 耕 作 地 主 の 特 徴 を 見 る と,第 一 に は所 有 面 積 が 他 の 二者 を 圧 倒 して 大 き い こ と,第 二 に は,経 営 面 積 は 自 小 作 農 に は及 ば な い もの の 自作 農 と は ほ ぼ 同 一 水 準 に あ る こ と(自 作農 に比 べて耕作 地 主の事例 力̀南部中心 で ある ことを勘 案す れば・ 実質 的 な経 営 規模 はむ しろ大 きい とい え る),第 三 に は,家 族 労 働 力 と常 雇 人 数 は 自作 農 を 上 回 って お り,常 臥 数 だ け だ と 自小 作 農 を も 上 回 って い る こ と・ を指 摘 す る こ
とが で き る。
本 表 を 見 る 限 り,「上 農 」と して の 在 村 耕 作 地 主 は豊 富 な家 族 労 働 力 や 雇 用 労 働 力 を 基 盤 に 農 業 経 営 を 行 い,そ こか らえ られ た 余 剰 で も っ て 土 地 集 積 を 遂 げ
た(遂 げっ つ あ る)農 家 と して 類 型 化 す る こ とが で き る。 表 一3の 事 例 が どれ ほ ど 普 遍 化 に堪 え う る もの な の か は不 明 で あ る が,ひ とつ の 見 通 し と して,あ え て こ こ で の 数 値 を 一 般 化 す る と,1洞 里 に 平 均 して1戸 ほ ど 存 在 して い た 地 主 (乙)の う ち,そ の 半数 は洞 里 内 最 上 級 の 「上 農 」 と して 積 極 的 に 農 業 経 営 に 携 わ って い た,と い う想 定 が 可能 とな る。
さ らに,こ れ ら地 主(乙)の 農 事 改 良 へ の 関 わ りの 度 合 い を 検 証 す る た め に, 図 一1を 作 成 した 。 本 図 は1921年 時 点 で の 地 主(乙)の 「密 度 」(=1洞IH当 た り 平均戸数)と 米 穀 「優 良 」品 種 普 及 率 とを 道 別 に算 出 して,両 者 の 相 関 関 係 を 見
た もの で あ る.1921年 に は 「優 良 」品 種 の 普 及 率 は朝 鮮 全 体 で す で に62%に 達 して(29),気 象 条 件 や 耕 地 条 件 な ど,さ ま ざ ま な 要 素 が 普 及 率 を 規 定 す る要 因 と して す で に作 用 し始 あ て い た こ と が容 易 に 予 想 で き る。 した が って 地 主(乙) 密 度 の規 定 性 だ け を 抽 出 す る こ と は 困 難 と な る。 こ こ で は,諸 要 因 の な か で も 特 に影 響 力 が 大 きか った と考 え られ る気 象 条 件 を差 し引 い て 検 討 す る た め に・
地 域 的 な 配 置 に 留 意 し て13道 を グ ル ー プ 分 け し て み た 。 京 畿 忠 北(図 中#1・
2),南 部5道(#3・4・5・6・7),お よ び 北 部6道(#8・9・10・11・12・13)と い う3グ ル ー プ が そ れ で あ る。 そ して,南 部5道 と北 部6道 そ れ ぞ れ の グ ル ー プ 内 で は,強 度 に は差 が あ る もの の い ず れ も,「 優 良 」品 種 普 及 率 と の 間 に正 の 相
142商 経 論 叢 第32巻 第2号
70%一 一一
夜
良60%一
言
50%震4・%一 率
30%.
20%一
図一1地 主(乙)密 度 と 「優良 」 品種 普及率 との関係(1921年)
0291)
iO%
0・40・8 ・1.s2 。4
地}三(乙)密 度(戸/洞 里)
〈 資料 〉 鄭 然 輔 蝋 文44碩 潮 鮮 総 督 膿 欄r朝 雛 於 ケル小 傷 関 ス ル参 騨 項 腰 』1934年 ・49〜6項 お よ び朝 鮮 繍 府r朝 鮮 に於 け 膿 村i r:'・運 動 の 実 施概 況 と其 の実 績 』1940年,5頁 よ り作 成 。
〈 注〉 図 中 数 字 は以 ドの 道 を示 す。
海臓 謙 詰 臨 撫 扇全露.罪 北櫛8一 黄
関 関 係 が あ る こ と が 認 め られ る(前 者;R・e・ .874,者;R・ 一・.624)。
さ らに・ 図 1と 対 照 す る た め に・ 図 一2で は1915年 に お け る 日本 人 沓 所 緬 積 比 率 と米 穀 「優 良 」 品 瀦 及 率 と の 相 関 関 係 を示 して み た
.本 表 か ら は両 者 の 間 に 正 の 欄 関 係 が あ った こ とが 認 め られ る(R・ 一・.49・.な お:.':〈 図中
#8>を 異常値 と して除外 す る とR2徽0 .589と な る)。
以 上 の二 っ の 図 か ら,1910年 代 朝 鮮 で の 米 穀 「優 良 」 品 種 の 普 及 過 程 に お い て・ そ の 前 半 で は 日本 人 地 主が 主 導 的 な役 割 を 果 た した の に 対 して
,後 半 に は む しろ 朝 鮮 人 地 主(乙)(厳 密 に は地 主(乙)1こ は ト体 人 も含 まれ て はい るが
,朝 鰍 のそ れ と対比 して無 視 しう る数 値 で あ った と考 え られ る)が 積 極 的 な 役 割 を 果 た
し た ・ と い う欄 鱒 き 出 す こ とが で き る
.こ の 点 に 関 連 して,す で に 鄭 然 瓢 は 「1910年 代 後 半 に は 日本 人 の 土 地 鵬 鰯 か っ た 慶 尚 道 とGこ 慶 北 地 域 の (「優良」品種:引 賭)普 及 率 カゴむ し ろ先 頭 を 走 って い た 」 と い う事 実 を 指 摘 し
,
(290)
60
50%
コ
優40%
良
I̲..T
品30%
種 普 及20%
率
10%一 一
1910年 代 朝鮮 に お け る農 事改 良 政策 と在 村 地 主 層X43
図一2日 本人土地 所有率 と 「優良 」 品種 普及率 との相 関(1915年)
口 本 人 ヒ地 所 有 率(%)
〈 資 料〉 鄭然 泰前 掲 論 文44碩 お よび朝 鮮 総 督 府r朝 鮮TC府 統 計年 報 』1915年 度 版 ・ XO6頁 よ り作 成 。
〈 注>1)日 本 人 ヒ地 所 有率=総 沓 面 積 に 占め るH本 人所 有 沓 面 積比 率 。 2)図 中数 字 は図一1脚注 に同 じ。
「朝 鮮 人 地 主 階 級 も 品 種 改 良 に 積 極 的 に 対 応 し て ゆ く よ う に な っ た 」 と 指 摘 し て 、1翠。 これ ま で の分 析 に よ っ て,さ ら に 具 体 的 に,「 朝 鮮 人 地 主 階 級 」 の な か で も特 に在 村耕 作 地 主 が 「優良 」 品 種普 及 に 「積 極 的 に対 応 」 して い った とい
う推 定 を付 け加 え る ことが で きた と考 え る。
な お,図 一1に 関 連 して,地 主(乙)の 「密 度 」の指 標 と して 「耕 地面 積100町 歩 当 た り平 均 戸数 」 を用 い て先 と同 じに優良 品 種普 及 率 との相 関 関係 を観 察 す
認 南部5道 北部6道 と もに 陵 良」品瀦 及率 との間 に正 の相 関が認め
られ る.た だ し,R・‑0.785(前 者),R・‑0.363(後 者)と な っ て ・ 一ヒ記 の 場 合 よ り,い ず れ も 当 て は ま りが 悪 くな る。 在 村 地 セの 影 響 力 の 強 弱 が 単 な る空 間 の物 理 的 な 広 が り に よ っ て で は な く,洞 甲 と い う社 会 的 領 域 に よ っ て 規 定 さ れ て い た こ と が 間 接 的 に 示 さ れ た と 考 え る 。 さ ら に い え ば,そ れ は,在 村 地 主 が
「優 良 」品 種 普 及 を 試 み た 際 に は,洞 甲 内 に す で に 成 立 して い た 在 村 地 主 一 農 民 間,あ る い は 農 民 同 士 の 間 の 日常 的面 接 関 係 が 有 効 に機 能 して い た こ と を示 唆
して い る。
144商 経 論 叢 第32巻 第2号
0289)
以 上・表…3や 図一1の 分 析 樋 じて・191・年代 の朝膿 村 にお いて は,纏 府 帳 彰 した よ う妙 数 の 「礫 家 」 ば カaりで は な く濃 轍 良 働 倹 rに 自 ら取 獺 稠 辺 農 民(と くに鯉 内の農民)に 影 響 を及 ぼ した在 村 耕 作 地 主 が広 範 に存 在 して い た ことを確認 で きた と考 え る
。 2.在 村 耕 作 地 主 層 の 出 自
張矢 遠 氏 は・ 李 朝糊 か ら搬 地期 にか1ナての 「朝鰍 大 地 主 の成 長 系 譜」
(こ こでの 「大駐 」とは5・‑1・・研丁歩以上の耕地を所有する地 麟 す)と し
て,「 商 人'高 利 飴 身 ∬ 燗 醜 人 出身」「官W身 」 と並ん で濃 民 .中 小 地拙 身 」 す なわ ち 「農 粕 耕 樋 じて 中小地 主 に成 長 しそ れ を基 礎 に さ らに大 地 主 にな るケ ー ス」鵬 定 し・4つ の個 別 事例 を紹 介 して し鑑 大 地 セに まで成 長 す るケ 』 ス妙 数 に とど ま ったで あ ろ うが
,儂 業 自耕 樋 じて中小 駐 に成 長」
して耕 作 地 主 の形 態 を と るケ ー ス はか な り一 般 的 な こ とで あ
った と考 え られ る。
1901年 の 「光鵡 案 」の分 析 か ら も,李 朝糊 段 階 で の在 村耕 作 地 掘 の存
(翻 確認で きる・ まず・李栄薫氏 の忠清 南道磁 郡瓶村面 「 量案」分析 による
と・当該 酬 に2結 以 上 の 耕緬 積 を持 つ人物 が22名 存 在 した が,そ の うち2 名 は・ そ れ ぞれ13雛 ・23雛 を所 有 し,い ず れ も2結 強 の経 営 を行 って残 りを借地 に 出す 両班 駐 で あ った・ この2名 は あわ せ て13戸 程 の 「挟 戸」を保 有 して お り・ これ らの労 働 力 を使 役 して 自家 の農 業 経 営 を行 った と考 え られ
る・ この2名 ほ どの所 有 醸 はな い ものの,他 に3名 が耕作 地 主 と して1勧 上 の貸 与地 を鮪 して い る(た だ しこの うち 瑠 こは借入地 もある)
.耕 作 礁 が2 結 を下 回 る人物 まで含 め れば・ 耕 作 地主 の数 は さ らに増 え る はず で あ る。
また・李 世紙 による同 じ舗 の扶余郡縣内酊 量案」 の分析 によ 認 面
内 の2結 以 上の土 地 所 鰭8名 の内 ,鰍 所 儲 は12結 強 を所 有 して9結 強 を貸 し出 し の こ り3雛 舶 作 す る耕 作地 コ三で あ る.彼 も3戸 の 「挟 戸 」 を 鮪 して い る・ この他 に は・3名 力弍1結 以上 の貸 与地 を所 飢
,1結 弱 一 蹄 吉強 の 自作地 経 営 を行 って い る(う ち2名 は 「挟戸」を1戸 ず
っ保有)。
(288)191・ 年代韓 における農事改良政策と在村地主層145
以 上2つ の 「光 武量 案 」分 樽 例 樋 じて,忠 繭 道 で は2・ 世紀 初 の段 階 に お いて在 村 耕 作地 主 とよ び うる農家 が,そ の 内部 に階 層性 を は らみつ つ・ ひ と つ の面 に少 な くと も数 名 の オ ー ダーで存 在 した ことが確 認 で きた。
在 村耕 作 地 主 の存 在 それ 自体 は,さ らに18世 紀 末 か ら19世 紀初 に まで遡 っ て観 す る こ とが で き る.す なわ ち汀 舗 の諜 経営 論 搬 討 す る中 で辣 直氏 は,「大 中規 模 の地 主 は その数 が きわ めて 少 な か った の に対 し〆 郡 県 で も 数 百 の小 地 主 が存 在 した」 「この小 地 主 た ちが 朝鮮 後 期 の 土地 鮪 関 係 にお い て 中心 的 な位 置 砧 副 た,と い う指摘 を お こな い・ さ らに 「この小 地 主 た ち はた いて いが 地主 自膿 だ った 肩 鯉 」と齪 して い る・そ して よ り具 体 的 に・
18世 紀 末 〜19世 紀 初 に お け る 丁若 鋪 家 を は じあ と した在 地 両 班 地 主 に よ る
「地 主 自作 」騨 が,小 作地 貸 与,奴 女卑労 働 力 に よ る 自給 的穀 作 お よび家族 労 働 力 に よ る商 品作 物 栽培 とい う3部 門 よ り構 成 され・ そ(3fi)の収入 に よ つて両班
と して の生 計 と儒 業 の維 持 を図 って い た ことを論 じて い る。
李 朝 後 期 に,労 働 集約 的 膿 業 技 術 の普 及1こと もな って小 農民 経営 膿 村 で の支 配 的 な生 産様 式 とな って以 降 は,上 層 農民 に と って は 自家労 働 力 お よび数 名 の従 属 的 他 人労 働 力 によ って耕 作 可 能 な面 積以 上 の耕地 は小作 に出 す のが 一 般 的 な行動 様 式 とな った といえ る.ま た,中 ノ1・地 主 は・ 小 作料 収 入 の碇 あ る
い は不 安 定 性 を補 うた め に 自 ら農 業 経 営 を 行 う必 要 に迫 られ て いた と思 わ れ る.他 方 で18・19世 紀 に は・ 「'sや 蕩 平 策 実 施 以 後z中 央 政 界 か ら曙 した り官 界進 出 に挫 折 す る ことで 郷村 に土着化 した士族 集 団 と して の両 肚 豪 」 が 多数 発 生 して い った.そ して彼 らが,在 村 耕イ乍地 主 の主 要 な構 成 員 とな って ゆ く.加 え て洞 じ時 期 に農 村 での 商 品経済 化 が嚴 し・ そ れ に と もな って い わ ゆ る 「庶 民 地主 」が成 長 して くる。「庶 民地 主」の一 定部 分 も耕 作 地 主層 と して 存 在 して い たで あ ろ う。
以 上 の よ うに,在 村 耕 作 地 主 層 の存 在 は18世 紀 末 に まで 遡 って 確認 す る こ とがで きた が,当 時 の耕 作地 主 と1910年 代 の それ との間 に は相 違 点 が あ った こと に も留 意 してお く必 要 が あ る。 す なわ ち,農 事 改 良 の対象 とな る主 た る作 物 の違 い とい う点 で あ る.諾 鋪 の時 代1こは,穀 作 は 醗 部 門 で あ り・ その他
146商 経 論 叢 第32巻 第2号
0287)
の 商品 作 物栽 培 がr縫 膿 法 」 と位 置 づ け られ
,そ の 「多 撒 膿 方 法 鰭 (38}る ことが・ 七大 夫 たち の ま さに応 え な けれ ば な らな い翻 で あ った とし、
う・これ に対 して191・ 年 代 の耕 作 駐 層 に よ る齢 改 良 で は
,前 述 の よ う1こ稲 作 が そ の 中心 で あ った。
この違 い は・「開 港」を契機 に畑 米 穀 輸 出 が急 増 して
aそ の篠 糠 力嘲 鮮 牒 鰍 のCICI作 物 とな った ことに起 因 して い る と考 え られ る
.な お瀾 蔽 の急 激 な繍 変動 とい う点 鋤 案 す れ ば 一一一1bこ関 して 先 に指 摘 した
,「 貧 家」
か ら身 を起 こ して淀 の館 形 成 を成 し遂1ナた よ うな人物 は
,「蝶 家」と して の厳 しい陶冶 を く ぐり抜 けて き堵 た ちで あった と いえ(39).19世 紀 耕作 地 主 の 「礫 家精 神 」 は191・ 靴 の耕 作 地主 の そ れ に は及 ば なか
った で あ ろ う。
さて それ で は・ 在 村 耕 作 地 掴 が191・ 年fにに農 轍 良 や勤 倹 貯 蓄 の奨 励 に 積 極 的 に関 わ って い った の は・ いカ・な る動機 に もとつ く もの で あった の で あ ろ
うか。
まず 端 的 に旧 らの繍 的利 害 に もとづ 働 機 が 考 え られ る
.す な わ ち泊 作 地収 入 の増大 を 目的 と し儂 事 改良 で あ り,ま た小 イ乍料 収 入 の安定 化 憎 大 を 目的 と し儂 轍 良 働 倹 謄 の 配 ノJ・作人 へ の奨励 で あ る
.「 企業 家 精 神 」 に富 む耕 作yV ̲で あ る ほ ど・ こ う した経 済 的 動機 は強 く作用 した はず で あ る
。 さ らに は・ そ の時 点 で は地 域 の中 で上層 農 と して の経 済 的 地位 を確 保 して い た と して も泊 然 条 件(病 郷 故 も鋤 て)曽 ヒ会 経 済 の変 動 あ るい は相 続 が 契 概 な って・ 次世 代 に は没落 の憂 き 目に会 うか 蜘 れ な い とい う リス クを抱 え た不安 定 な状 況 の下 で は・地 域 社 会 の農 業生 動 を総 体 と して 堺 させ て ゆ く こ とが・ 結 果 的 に は 自己 の家 族 に と って リス ク分散 の有 効 な手段 とな る と
い う 判断 が あ ったで あ ろ う・ 洞 膿 民 を対 象 と し磯 瓢 良 働 倹 購 を奨 励 した 背 景 に は こ う した判 断 が あ った と考 え られ る。
他 方 ・当時潮 鮮 噺 臓 人 帥 心1こ展 開 され た 「実 力 養成 醐 論 」 もま た , 彼 らの行 動 働 櫛 け る ひ とっ の要 素 とな って い た と推 察 され る潮 鰍 新 知 識人 層 を 骸 とす る 「実 力 養成 運 動論 」者 は,旧 鰍 の 「愛 国 鹸 醐 」(「自強 運動」)の系 譜 を ひ きなが ら,い わ ゆ る 「社 会 進 化 論」的 世界観 に基 づ い て,1910
0285) 1910年 代朝 鮮 に お け る農 事 改 良 政策 と在 村 地 主 層147
年 代 に は 「産 業 振 興」 と 「旧思 想 ・旧慣 習改 革 」を通 じて朝 鮮 人 の 「実 力養 成 」
を図 ることの重難 を強乱 て鳳 冒頭で紹介 した鄭 ・洪両氏 の 「 鰍 以来
朝 鮮 人地 主 階級 が追 求 して きた農業 改 良論 」,「地 主 的方 向 か らの近 代 化論 」 と い う指摘 も,こ う した イ デ オ ロギ ー状 況 を踏 まえ た もの で あ る といえ る。 さ ら に,多 くの 旧愛 国 啓 蒙 団 体 会 員 が1910年 代 に は朝 鮮 農 会 に参 画 して勧 農 活 動に取 り組 んで いた とい う雌 紙 の誹箋 もまた,「実力猷 翻 論」的 イデオ・
ギ ー が在村 地 主 の レベ ル に まで影響 力 を及 ぼ して い た こ とを示 唆 す る もの と し て興 味 深 い。 先 述 した よ うに,彼 らの多 くは勤倹 を通 じて 「貧 家」 か ら身 を起
こ した とい う経 験 を有 して お り,そ れだ け に 「実 力養 成 運動 論 」 イデ オ ロー グ の 「社 会進 化 論 」 的世 界観 を 共有 しやす いバ ック グ ラ ン ドを有 して いた といえ
る。
ただ し,在 地 耕 作 地 主 の即 自的 な意 識 は,こ う した個 別 の利 害判 断 や彼 らを と りま くイデ オ ロギ ー状 況 にで は な く,む しろ,地 主一 小 作 人 間 の家父 長 的温 情(42)や 洞 里内 で の 「相 扶 相 助」 の精 神 とい った伝 統 的 な秩 序意 識 に よ って規 定 づ け られ て いた と思 わ れ る。 言い換 え れ ば,こ う した伝統 的秩序 意 識 に基 づ く行 動 が在 村 耕 作地 主層 の個 別 利 害 や イデ オ ロギ ー状況 と矛 盾 せず,む しろそ れ を補 完 す る結 果 を もた らして いた こ とが,1910年 代 に彼 らが 末端 農 村 にお け る農事 改良 の推 進 主体 と して 「活 躍」 で きた重 要 な要 因 で あ った とい う ことが で き る。 また,在 村 耕 作 地 主層 の行為 が農 村 の伝 統 的秩 序 意識 に背馳 しなか っ たが ゆ え に,彼 らの主張 が小 作 人 や洞 里農 民 に対 す る影響 力 を容 易 に獲 得 し得 た ので あ ろ う。
さ らに確 認 す べ き こ と と して,在 村 耕 作地 主層 の こ う した意 識 構造 が,地 主 に よ る温情 主義 的 な小 作 人 保護 や伝統 的 な地縁 組 織 の活 用 とい った政策 手 法 を 通 じて農 事 改 良 や勤 倹 貯蓄 を奨 励 して い こ うと した当時 の総 督 府 の農 業政 策 と も,結 果 的 に は一 定 程 度 の親 和 性 を もっ もので あ った とい う点 を挙 げて お きた
い 。
148商 経 論 叢 第32巻 第2号
表 一4水 稲 栽 培 「改 良 農 法 」 と 「在 来 農 法 」 の 比 較 (1924・25年 平 均)
「改 良 」(a)「 在 来 」(b)a‑b
0285)
反当直接費支出(円) 種子代
肥料代等 俵装材料 労力費 牛耕代金
農具償却修繕費 合計
反当収量(石)
1.12 '1 1'1 1700
0.92 3.06 31.9Q 3.22
1.44 2.60 1.!
10.90 0.20 a.97 16.55 1.94
〈 資 料 〉 朝 鮮 総 督 府 殖 産 局 農 務 課 「水稲 在 来耕 作 法 と改 良 耕 作 法 との経 済 比 較 」 『朝 鮮 農 会 報 」 第1巻 第1号 ,1927年4 月,82〜90頁 よ り算 丘到。
〈 注>1)肥 料代 等 に は害 虫 駅 除 材 料 費 を 含 む 。
2)原 資 料 で は労 力 費 と牛 耕 代 金 が 括 計 トされ て い る が,こ こで は分 離 して 算 出 した。
Q.32 fi.3i Q.30 6.10 0.72 2.08 15.35 1.281
..̲‑1
3.在 村 耕 作 地 主 層 の変 質
以 上述 べ て きた よ うに・1910年 代 を通 じて在 村耕 作 地主 層 は農事 改良 に努 め て い ったが,い ったん 「改良 農 法」 が朝 鮮農 村 に定 着 しは じめ るや
,そ れ 自身 が持 っ生 産 力 的 な特 性 が,在 村耕 作 地 主層 の行 動様 式 に一一一彼 らの当初 の意 図 を越 え た ところ で一 変 化 を もた ら し,ひ い て は彼 らと小 作 人 との 関係 あ る い は彼 らの洞:Tの なか で の役割 を変 え て ゆ くこと にな る。 そ こで まず,「 改良 農 法 」 の生 産 力 的特 性 を整 理 してみ た い。
表一4に 示 した よ うに,水 稲 の 「在 来 農 法」 と 「改 良農 法 」 の反 あ た り直接 費 支 出額 を比 較 す る と・ 前者 に比 べ て後 者 は15円 強 ,比 率 に して93%も 高 い数 値 に な って い る。 こ う した支 出額 増 加 の成 果 と して反 収 は1 .28石 ・66%の 伸 び を示 して い る。 ただ し支 出額 の 伸 び ほ ど に は反 収 は増 大 して お らず
,し た が って,籾1石 あ た り直接 費 支 出額 は 「改良 農 法 」 の ほ うがむ しろ高 い ことが わ か る。 支 出項 目別 に見 る と,肥 料 代 と労 力 費 の2項 目で の増 加 額 が大 き く
,
(284) 1910年 代 朝 鮮 に お け る農 事 改良 政 策 と在 村 地 主 層149
両 者 だ けで増加 額 の81%を 占めて い る。
投 入 した肥 料 の種類 に注 目す ると,堆 肥 は反 あた り 「在 来 農法 」88貫1「 改 良
灘 」92貫 とほぼ同一蝉 で あるの1こ 対 して・金肥 では後者 で大豆樵 騨 燐酸
石 灰 が 用 い られ て い る(あ わせ て4.03円)点 が お お きな 違 い とな って い る。た だ し,こ の 数 値 は1920年 代 中 葉 の 勧 業 模 範 場 で の 試 験 に基 づ く もの で あ り,10 年 代 の 農 村 で 実 際 に行 わ れ て い た2つ の 農 法 の 間 に施 肥 法 に か ん して こ れ だ け
大 き な 格 差 が あ っ た と は考 え に くい 。 な ぜ な らば ・ 統 計 上 で は大 豆 粕 と過 燐 酸 石 灰 の 消 費 量 は,1924・25年 平 均 が 朝 鮮 全 体 で そ れ ぞ れlo.s百 万 貫 ・1.9百 万 貫 で あ っ た の に た い して,1916年 に は0.4百 万 貫 ・0.1百 万 貫 と,ほ とん ど無 視 し う る よ う な 水 準 に と ど ま って い た か らで 認.有 茸述 の よ う に,191・ 年 代 を 通 じて総督 府 は,金 肥 の導 入 に対 して は否 定 的 な態 度 を と って い た。 消極 的 な
(45)
が ら も金 肥 導 入 容 認 に 踏 み 切 った の は1918年 の こ とで あ っ た。
した が っ て,1910年 代 に お け る水 稲 「改 良 農 法 」 は,「 優 良 」 品 種 導 入 と労 働 多 投 と の 結 合 が そ の 核 心 で あ った と い う こ とが で き る。 第1節 で 指 摘 し た よ う
に,総 督 府 に よ る勤 倹 の 強 調 は,「 改 良 農 法 」の こ う した 生 産 力 的 特 性 に も由 来 して い た と い う こ とが で き る。
こ こで,小 作 料 率5割 の小 作 経 営 を 想 定 し,表 一4の 数 値 を 適 用 して 反 あ た り 稲作 所 得(労 賃収入相当額)を 算 出す 毘 「在 膿 法 」11.2円 に た い して 「改 良 農 法」 は14.5円 とな る。 しか し労 働投 下 時 間1時 間 あた りの所得 を算 出 す る
と,「 在来 農 法 」が10.4銭 で あ るの に対 して,「 改 良 農法 」 で は8.8銭 に とど ま る。「改良 農 法」で の労 働 集 約化 の進 行 は,結 果 と して労 働 の限 界生 産性 を低 め て い た こ とがわ か る。
綿 製 品 を は じあ とす る 日本 国 内製 工業 製 品 の大 量 移 入 の影 響 を受 けて,在 来 の農村 手 工 業 が縮 小 し,そ の結 果 と して農 村 に お け る農外 就 業機 会 が縮 小 す る とい う当 時 の状 況 の下 で は,農 民 は限界 労働 生 産 性 を あ る程 度 犠 牲 に して も自 家労 賃 収 入 の総 額 の極 大 化 を 目指 した と考 え られ る。 この限 りで は,総 督 府 や 在 村 耕作 地 主 が提 示 した 「改良 農法 」 を農民 が受容 す る経済 的 根拠 が あ った と
(47) い う こ と が で き る 。
150商 経 論 叢 第32巻 第2号
(283) な お,第 一 次 大 戦 の 影 響 を 受 け て ,10年 代 後 半 に は 米 穀 価 格 が 急 騰 した。 1915年 の籾100斤 あ た り2 ・85円 を 底 値 に して,ピ ー一ク時 の1919年 に は そ の4 倍 弱 の11糊 を記 録 して 鳳 これ は,「 改良 農 法J入 に と もな う限 界労 働 生 産 性 の 低 下 を糊 塗 す る の に充 分 な だ1ナの 価 格 上 昇 で あ った と い え る.こ の 時 期 に は,か な り下 層 の 農 家 で も米 穀 価 格 騰 貴 の 恩 恵 を蒙 っ た と思 わ れ る(も ち ろん・ 販 売 可能 な米穀 を生産 しえな い最 下層農民 に とって は,米 鵬 騰 はむ しろ経 済的 損失 とな った)。
と こ ろ で,同 じ時 期 に ,「 改 良 農 法 」 は 大 き な技 術 的 限 界 に 直 面 しっ っ あ っ た 。 「優 良 」 品 種 と 在 来 品 種 の 反 収 格 差 が1910年 代 を 通 じて 徐 々 に 縮 小 して い っ て い る の で あ る。 た とえ ば ・X915年 に そ の 値 は0.45石 で あ っ た もの が, 192・ 年 に は ・・31石 と な って し1響.こ れ は,在 来 樋 の 平 均 反 収 が ほ1ま一 定 の 水 準 を保 って いた の に対 して,「優良 」品種 の それ が徐 々 に低下 して いった た め で あ る。「優良 」品 種反 収 の低下 は,ひ とつ は種 子 の混 交 や劣 化 に よ る もので あ
り,も うひ とつ は土 地条 件 の不適 合 な耕地 へ の耕 作普 及 に と もな う もので あ っ た。1918年 の 「米騒 動 」 に象徴 され る 日本 国 内 で の食 糧 問題 の顕 在化 とい う状 況 が 直接 的 な契機 とな って,こ れ ら2条 件 の克 服 が 政策 的 に図 られ て い くこ と
に な る。
前者 の条 件 を克服 す るため に,総 督 府 は,「優 良 」品 種 の種 子 更新 事 業 を開始 す る。1917年 に当該 事 業 は着 手 され るが,予 定 の成 果 はあが らな か った。22年 に面 採取 沓設 置 の予算 措 置 が取 られ る こ とで は じめ て系統 的 な種 子更 新 事 業 が 可能 とな り・以 後 ・ 事 業 が本 格化 して い った。 後 者 に対 して は,水 利事 業 を は
じめ とす る土 地 改 良 事業 の推 進 と金 肥 使 用 の 奨 励 が政 策 的 に実 施 され て い っ た。土 地 改良事 業 は1920年 に開 始 され た 「産 米 増 殖 計 画」の中 核 的事 業 と して 位 置 づ け られ た。金 肥 に関 して は,1919〜25年 間 の 「消 極 的奨 励 時代 」を経 て
,
1926年 鵬 「 積極的奨励時代」 を誠 習 .1926年 か らの 「産米増鞭 新緬 」
で は,土 地 改良 事 業 の予算 規 模 が拡 充 され る と と もに,肥 料購 入 の ため の低 利 資 金制 度 が導 入 され て い る。以 上 の よ うに・1920年 代 に は,「改良 農 法 」の生 産 力 を 引 き上 げ るた め に肥 料
0282) 1910年 代 朝 鮮 にお け る農 事改 良 政策 と在 村 地 主 層15]
購 入 や 土 地 改 良 に多 額 の 資 金 が 投 入 さ れ て ゆ く。 基 本 的 に は 「優 良 」 品 種 に 労 働 多 投 を結 合 させ た だ け の1910年 代 の 「改 良 農 法 」 と比 べ て,質 的 な 転 換 を 遂 げ て い っ た と い う こ とが で き る。 そ の 際 に重 要 な点 は,土 地 改 良 は い う ま で も な く,肥 料 購 入 の た あ の 投 資 も,主 と して 地 主 層 に よ っ て 担 わ れ て い た と い う こ と(51)。 地 主 は こ れ ら の 資 金 を 小 作 料 収 入 か ら回 収 す る こ と に な る。 した が って 地 主 層 に と っ て は,い か に投 資 額 に 見 合 っ た小 作 料 増 収 を 確 保 す るか ・ しか も い か に 資 金 回 収 の確 実 性 を 向 上 させ る か,と い う こ とが 重 要 な経 営 課 題 と な る。 これ ら2っ の 課 題 を 達 成 す る た め に,地 主 は これ ま で 以 上 に 個 々 の小 作 人 の 経 営 状 態 を 掌 握 し,監 督 す る度 合 い を 強 め て 行 か ざ る を え な くな る。 そ
の 結 果,「 勤 倹 」 度 や 「信 用 」度 の 低 い 農 民 と りわ け零 細 農 民 が 小 作 人 か ら排 除 さ れ や す い傾 向 が 生 ま れ た と考 え られ る。 しか も籾 価 格 が,1924〜26年 間 の 短 い 反 騰 期 を 除 け ば1920年 代 を通 じて100斤 あ た る7〜8円 台 の 水 準 に と ど ま
(52)
り,そ の後 の 昭 和 恐 慌 期 の 低 迷 期 に 連 な る と い う動 き を 示 す 中 で,こ の 傾 向 は よ り深 刻 さ の 度 合 い を ま して い った と い え る。
こ と こ こ に 至 る や,1910年 代 に は 随 所 で 見 い 出 す こ と の で き た地 主 一 小 作 人 間 の 温 情 主 義 的 な 関 係 は も は や 存 続 しえ ず,零 細 小 作 農 の 意 向 に 反 して ま で も 地 主 は 自 己 の 地 主 経 営 の 「合 理 化 」方 針(一 零 細小作 農切 り捨 て)を 貫 こ う とす る よ う に な る。1910年 代 に す で に 小 作 人 の 組 織 化 を 図 って い た比 較 的 所 有 規 模 の 大 き な 地 主(た とえば表一2の#5・10・ll・12)の な か に は・1920年 代 に は小 作 人 と の温 情 主 義 的 関 係 を 清 算 して 「小 作 制 農 場 」 の 設 立 を め ざす ・ い わ ゆ る 「新 興 地 主 」 へ の転 身 を 試 み る人 物 が 現 れ た と考 え られ る。
先 に 紹 介 した 李 基 升(表 一2,#5)に よ る1918年 の小 作 米 品 評 会 に お い て 「受
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持 舎音 の面 目に関 し小作 権 に も関係 を及 ぼ す の虞 あ る… …」 とい う指摘 が な さ れ て い る。 小作 米 品 評 会 が地 主 一 小作 人 間 の温情 主 義 的 関係 の確認 の場 と して で はな く,お そ ら くは李 基升 の思 惑 を越 え た ところで,両 者 の対 立 を顕 在化 さ せ る場 と して機 能 す る 可能 性 を は らんで いた ことを示 す事 例 と して興 味深 い。
1920年 代 以 降 の状 況 を先取 り的 に示 して い る とい うこ とがで き る。
金 禎 泰(表 一2,#10)の 場 合,1915年 に発足 した前 述 「金家 小 作 人組 合 」 が
152商 経 論 叢 第32巻 第2号
(281)
X932年 時 点 で も存 続 して い た ことが確 認 で き る。32年 の組 合 総 会 で は長 期 継 続小 作 人 の表 彰 が行 わ れ てお り,表 彰 者 数 は,30年 以 上継 続 者 が52名}同 じ く 2・年 以 上が81名 で あ っ(究。 あ わせ て133名 は組 合 発騰 か らの 小似 で あ
っ た こと にな るが,こ の数 値 は発 足 時 の小 作 人 数586名 の23%を 占め るに と ど ま る。 この報告 記 事 は,金 禎 泰 に よる地 主経 営 の温 情 主義 的 な側 面 を告 知 す る意 図 で書 か れ た と思 わ れ る。 しか し,一 部 の 「優良 」小作 人 の みが地 主経 営 に と っ て の中核 的 な小作 人 と して選 別 されて いた こ と,そ して それ ら小 作 人 と地 主 と の間 に の み温 情 主 義 的 な 関係 が成 立 して い た と い うの が そ の 実 態 で あ
った こ と,を,そ の報 告者 の意 に反 して,強 く示 唆 して い る。
他 方,小 規模 な在 村耕 作 地 主の場 合 は,日 常 生 活 に お いて洞 里 内の 人間 諸 関 係 に依 存 す る度 合 いが一 層 強 か った と考 え られ る。 したが って,洞 里 の伝 統 的 秩 序 意 識 に抵触 して まで も自己 の地 主 経営 の 「合 理化 」 を図 る こ とは,そ の分 だ け,よ り困難 な こ とで あ った と思 わ れ る。 しか し,昭 和恐 慌 期 の米 価 低 落 に と もな って彼 らの経済 基 盤 が一 層 脆弱 化 す る こ とに よ って,1930年 代 に は彼 ら と零 細小 作 農 との 間 の対立 は抜 き差 しな らな い もの とな って ゆ51)
。
なお,1920年 代 後半 以 降 総督 府 は地 主 一 小作 関 係 へ の政 策 的 な介入 を強 化 して ゆ く。 そ の手 法 は法 制度 整備 に よ って農 地 賃 貸 借 契約 を小作 側 に有 利 な 方
向に講 しよ うというものであ 理.総 督府 は池 方 では地主̲小 作燗 の温
情 主 義 の重 要性 を強 調 し続 け て はい た。 しか し,そ れ だ けで農 村 社 会 の安 定 が 保 持 され うる とい う認 識 を,総 督 府 自身 が す で に放 榔 して しま って いた ので ある。
以 上,「 改 良農 法 」の生 産 力 的特 性 に起 因 す る地 主一一小 作関 係 の変化 を後 づ け て きた。 この他 に も,1910年 代 以 降 の総 督府 行 政 の変化 が,結 果 的 に農 事 改良 政 策 にお け る在村 耕 作地 主 層 の役割 を相対 的 に低下 させ て い った点 をつ け加 え てお きた い。
そ の ひ とっ は,行 政 レベ ルで の農事 改良 機 関 の充 実 で あ る。 種 子 更新 事 業 の た め に1922年 に は郡 採取 沓 → 面採 取 沓 とい う行 政 的 系統 が確 立 され た こ とは さ きに述 べ た とお りであ る。加 え て,総 督 府 の農 業 技 術 員 は,1915年 に国費 支
(280)191・ 年 代 朝 鮮 に お け る農轍 良 政 策 と在 村 地 潴153
弁7。 名.地 横 支 弁67・ 名 で あ っ た の が ・2・ 年 に は そ れ ぞ れ106名 ●1,037 名 に,さ ら に25年 に は151名 ・1,3・5名 へ と ・1・ 鞘 に ほ ぼ2イ 音 に 拡 充 さ れ て
L鳳 そ の分 だ け儲 府 は,192・ 年 代 以 降 の 騨 娘 政 策 にお いて在 村 耕f乍地 主 へ の依徽 を低 め逆 に農民 を よ 殖 接 的 に掌握 しうる シ ステ ムを作 り上 げ
て い った とい うこ とが で きる。
そ して も うひ とつ は,洞 里 に対 す る政 策 の変 化 で あ る・191・ 年 代 に総 督 府 は,地 縁 的 ま とま りと して の洞 里 に湘 して洞 契 な どの設 置 を奨 励 した こ と
は前 に述べた.し か し他方では・面財政拡充のために 「 部鮪 鴨 鯉 に関す
る件 」(1913年)校 付 して,洞 里 有 財 産 の 面 へ の 吸 収 を 図 って い る・1914年 に は 洞 鮪 財 産 収 入91千 円 に 比 較 して 面 醐 産 収 入 は14千 円 とわ ず か15%禾 呈 度 の 水 準 に と ど ま っ た の に対 して,21年1こ は 蒲 は約1・2千 円 で ほ とん ど増 カlI
して い な い(物 価上 昇 を勘 案す れば実質減 少)の と は対 照 的 に後 者 は298千 円C.r(69)20 倍 以 上 の 伸 び を 見 せ,前 者 に対 して も3倍 近 い 水 準 を 蘇 す る に 至 っ て4'る ・
ま た,r朝 難 督 府 施 政 年 報 』 の1917年 度 版 ま で の 誌 上 に は 「地 方 改 良 」 の 項 目 が も う け られ,そ こで は 「驕 又 ・・副 業 ヲ 目的 トス ル 契 及 組 合 状 況 」 カゴ騰 さ れ て い た の に 対 して,そ れ 以 降 の誌 上 に は 当 該 記 事 は 見 い だ せ な い 。 お そ ら
くは,「 面 制 」施 行(1917年)や 金 繭 合 制 度 改 正(1918年)に と もな って ・網 府 の そ れ ら洞 里 団 体 へ の 対 応 が 消 極 化 した た め で あ ろ う・ 鯉 の 自治;=能 が
行政団体 あ るいは金調 合膿 会 といった糖 製団体 に吸収 されてゆ く璽詳
もな って,在 村 耕 作地 主 の独 自の活 動 領域 は狭 め られて い った と推 察 され る。結 び に か え て
朝 鮮総 督 府 に よ る191・ 年 代 の農 事 改 良政 策1ま・米穀 「優 良 」qの 普 及 な ど で一 定 の 「成果 」 を挙 げた。 本稿 で は,そ の要 因 と して,
① 網 府 の騨 改良 政 策 に対 応 して,在 村 耕作 地 掘 が 自 ら 「改 鹸 法 」 を積 極 的 に採 用 した,
② 在 村耕 作 地 主 層 は,地 主一 小 作 燗 の温 情 議 的 関係 あ るい は洞 里 な どの地 縁 的 関係 な ど,農 村 の伝 統 的 秩序 を媒 介 と して 「改良 農 法 」 を普及 させ て い っ