著者 松浦 章
発行年 2010‑01‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00020059
終 章
清代帆船の航運活動について
1 緒 言
清朝は台湾の鄭氏を平定し遷界令による海禁を解除すると、沿海地域の帆船は積極的に航運 活動を展開したのであった。この結果、遼東半島沿海から、渤海沿海、黄海沿海、東シナ海、
南シナ海と数千キロにわたる中国大陸沿海の航運が活発に展開されていたことは近年漸次解明 されてきた1)。
清代帆船による航運活動の活況は、
17
世紀後半以降より19
世紀後半に中国沿海に汽船が恒常 的に進出するまで盛況を呈していた。その状況は、1886
年の日本の領事報告の「清式帆船貿易 概況」において、清末中国帆船の航運活動について次のように報告している。今ヤ外國貿易日ニ隆盛ニシテ、海運ノ業大ニ進歩シ、南北ノ地互ニ其産物ヲ輸送スルニハ 大率汽船ヲ用フト雖モ、各産地ヨリ其貨物ヲ市場ニ送出スルニハ、仍舗重モニ清式船ニ依 ラザルハナシ。故ニ清國各地人民ノ日用諸品ハ皆必ラズ、一タビハ清式帆船ノ搭載ヲ經タ ル者ナリト爲スモ、決シテ不可ナルベシ。
と述べるように、汽船による航運業が台頭してきたが、なお中国式の帆船による航運業の活路 には見るべきものがあった。そして同報告は、帆船による沿海航運の主要な航路について次の ように述べている。
清式帆船ノ重モナル航路ヲ舉ケンニ、分テ三区トナシ、其一ハ遼東ノ錦州府・天津・芝罘 等ノ諸港ノ間トシ、稱シテ大北ト曰フ。其二ハ上海・寧波・乍浦等ノ諸港ノ間トシ、稱シ テ小北ト曰フ。其三ハ厦門及其近傍ノ間トシ、稱シテ厦郊ト曰フ。
とあるように、主要な航路を3区分して、渤海湾を中心とする航運海域、長江口から浙江省に かけての沿海海域、そして福建の厦門を中心とする航運業の活動海域をあげている。さらにそ の活動の内容を、
就中寧波ハ全國中清式帆船ノ出入最モ頻繁ノ港ニシテ、南北ニ回航スル者ハ概ネ該港ニ寄 航セザル者ナシ。其寧波ヨリ福建ニ航行スル帆船ノ如キハ、北地ヨリ該港ニ輸入シタル豆 餅、豆類、曹達、木綿等ノ品ヲ搭載シ、其福建ヨリ寧波ニ來ル帆船ハ砂糖、唐紙、橄欖、
密柑、材木等ヲ回漕ス。又寧波ヨリ鎮江ニ往復スル帆船ハ毎年二百余艘ヲ下ラス。其鎮江
1)郭松義「清代国内沿海貿易」『清史論叢』第2輯、1982年12月、92〜110頁。
松浦章「清代における沿岸貿易について─帆船と商品流通─」小野和子編『明清時代の政治と社会』京都 大学人文科学研究所、1983年3月。本書序論第2章参照。
松浦章『清代上海沙船航運業史の研究』関西大学出版部、2004年11月。
ヨリ寧波ニ輸送スル貨物ハ重ニ米穀・生豚ノ類ニシテ、其寧波ヨリ帰航スルモノハ紙、砂 糖、蓆等ヲ収載ス。又台州・温州ヨリ寧波ニ往復スル帆船ハ木炭、明礬、豚、密柑、製蓆 用料、下等雨衣等ヲ搭載シ、其帰航ニハ薬種、棉花、棉花餅、油等ヲ積載ス。又寧波ヨリ 北部ニ出航スル帆船ハ毎年百十艘ニ上リ、其着航地ハ芝罘、牛荘、錦州、天津等ノ諸港ニ シテ、其積込高ハ孰レモ巨多ナラザルハナシ。而シテ其物貨ノ過半ハ、京師ニ輸送スル米 穀ナリ。其帰航ノ時ハ北産ノ荳類、豆餅、索麺、棗、落花生、落花生油等ヲ搭載シ、或ハ 空船ニテ上海ニ寄航シ、杭州及ヒ浙江北部ヨリ同港ヘ輸入スル米穀ヲ搭載ス。但シ其積込 高ノ内、米ハ十分ノ八ヲ以テ率トシ、其十分ノ二ハ薬種、唐紙、明礬、竹竿、木材等ヲ以 テスルコトヲ常トセリ。其故ハ米穀ノ積込十分ノ八ニ至レバ他ノ貨物ハ課税ヲ免カルレバ ナリ。又臺灣ヨリ北海諸港ヘ航スル帆船ハ毎一年一航海ノ程度ニシテ、其帰航ハ概ネ年末 ニ在リ。即チ清暦正月前ニ回到スルヲ以テ常トセリ。而シテ其往航ノ載貨ハ砂糖、茶、板 等ニテ、帰航ニハ豆類、索麺、紅棗、獣油、焼酎、羊皮等ヲ積載ス。又南方沿海諸港ヨリ 新嘉坡ニ往復シ、彼此ノ物産ヲ交易スル者アリ。該地ニ往航スル帆船ノ貨物ハ竹、木炭、
棕櫚皮、薪、密柑、唐紙、板、長材、馬鈴薯、水甕等ニシテ、該地ヨリ來ル帆船ハ樹皮、
長材、豆、蛤貝、棉花、棗、花崗岩、茘枝、龍眼肉、薬種油、板、塩魚、砂糖、甘藷、昆 布、核桃、米、麥等ヲ積載ス。夫レ清國既ニ内外水運ノ便アリテ、汽船輸送ヲ除クノ外、
多ク其清式帆船ヲ用イルコト、此ノ如シ。加フルニ清人ハ用帆ノ術ニ長ジ、其潮勢ニ随ヒ、
風位ニ應ジテ、張弛展巻其操縦自在ナリ。故ニ能ク汽船ト並行シテ物貨ノ流通ヲ便ニス。
蓋シ清國ノ富源ハ多ク此帆航ニ存スト謂ウモ亦不可ナカルベシ。故ニ該帆船ノ航漕ハ清國 通商上ニ於テ最モ注意セザルベカラサルモノナリ2)。
として、上記のように帆船による物流のみならずこれら船舶が活動拠点とした重要な港は、渤 海沿海では天津、營口であり、そして中国沿海の地理的に基軸的位置にあった上海や寧波など である。とりわけ寧波においてはその地理的状況から沿海帆船による商品流通には多様な側面 が多々見られたことが指摘されている。
以上のように、これら中国沿海の航運状況を微視的に見ると各地域にそれぞれの特色が見ら れる。これらの地域の幾つか特に遼東半島沿海や山東半島沿海の海港や福建、浙江沿海などの 現地調査を踏まえて帆船航運と地域経済との関連に関して述べてみたい。
2 清代渤海沿海の航運
北京に近い天津には毎年華南の福建、広東方面からの海船が、その年に出来た砂糖等の物資 を積載して来航してきた。毎年の記録は不明であるが、残された断片的な記録から天津には毎 2)「清式帆船貿易概況」『通商報告』明治19年(光緒12、1886)第2回、108〜109頁。
年に南方からの帆船が入港している。その具体的事例は、清代官吏の報告に見る記録からも知 られる。既に雍正年間における天津入港の海船に関しては、香坂昌紀やシンガポールの呉振強
(Ng Ching-Keong)によって検討されている3)。そこで本章は、乾隆年間以降の天津に入港し た海船に関する記録を中心に述べてみたい。
乾隆元年(
1736
)八月初八日付の長蘆巡鹽御史兼官天津紗關事務の三保の奏摺4)によると、雍正十三年(
1735
)八月四日より乾隆元年八月二日までの一年間に天津へ入港した福建船は 七八隻にのぼり、これらの船は全て福建の商人の采配になるもので、松糖や白糖、枝圓、扛連 紙、粗碗などを積載し天津にもたらした。乾隆十年(
1745
)五月十七日付の直隷総督高斌の奏摺5)では、毎年天津に入港する福建船 は一〇〇隻以上に上っていたが、乾隆八年には福建地方における凶作のため、天津に来港した 福建船は僅か三〇隻にとどまっていたことが記されている。その後、三六年後の乾隆四十六年(
1781
)六月初二日の西寧の奏摺6)によると、天津常関 に入港する船舶による税収の内、福建や廣東からの海船によるものが全体の三分の一を占めて いた。ところが、乾隆四十五年六月から一年の間には、天候不順のためか僅か二隻の福建船が 入港したのみで、それによる税収は二九三兩があっただけであった。嘉慶二年(
1797
)正月二十七日付の董椿の奏摺7)において、乾隆年間には一般に天津に来 航する海船は毎年百数十から100
隻前後に上るが、しかし、嘉慶元年に天津に来航した福建船 は59隻であった。減少した原因は海上に出没する盗賊、即ち海盗の横行によるためであったと 報告されている。これらの奏摺からも明らかなように天津関において徴集される税課は、清代康煕年間末から 福建や広東の海船が天津に来航して貿易することに依存していた。そして毎年天津に来航する 福建や広東からの海船は平均110余隻から100隻前後にのぼっていたのである。華南方面の物資 を積んで海上を南方から北上してきた帆船が、一年に100隻も天津に入港していたのである。
さらに道光六年(1826)年以降に天津に入港した長江河口の上海方面から政府御用の米穀等を 輸送してきた船舶である沙船は数百隻にも達した8)。これら南方から天津へ来港してくる船乗 り達のため、海上航路の安全を祈念するための天后宮が天津の中心部の海河沿いに設けられて いる9)。
3)香坂昌紀「清代前期の沿岸貿易に関する一考察」『文化』第35巻1、2号、1971年。
Ng Ching-Keong: 1683-1735, Singapore University Press, 1983.(呉振強『厦門的興起』)
4)中国第一歴史檔案館所蔵「硃批奏摺 財政類 関税項」MF18-734コマ。
5)中国第一歴史檔案館所蔵「硃批奏摺 財政類 関税項」MF18-2242コマ。
6)中国第一歴史檔案館所蔵「硃批奏摺 財政類 関税項」MF20-868コマ。
7)国立故宮博物院所蔵『宮中檔嘉慶朝奏摺』第3・4輯(5)649下〜650上頁。
8)松浦章『清代上海沙船航運業史の研究』関西大学出版部、2004年11月。
9)松浦章「天津民族博物館・天后宮」『阡陵』(関西大学考古学等資料室)No.29、1994年9月。
天津にあった日本領事館の伊集院彦吉が明治39年(1906)10月13日に作成した報告中の「沿 海「ジャンク」貿易」において、
外洋ノ「ジャンク」貿易ハ、近来大ニ其数ヲ減ジタリ。従来寧波、福建等ヨリ紙、茶、竹、
竹器、酒、煙草、木材等ヲ積載シテ天津ニ向テ出発スル「ジャンク」ノ数、非常ニ多カリ シモ、近来汽船業者ハ圧倒スル処トナリタリ。原來「ジャンク」輸送ノ特点ハ、唯其運賃 ノ低廉ナルノミナレトモ、保険業者ガ、海上保険ヲ附スルコトヲ好マザルト、仮令保険ヲ 附スルモ其率ハ殆ンド禁止的ノ高率ヲ課スルガ爲メト、且清國海軍ノ衰亡ニ依リ、沿海海 賊ノ危険多キト其運搬ニ要スル時日ノ不定ナル点ニ於テ、到底汽船ノ敵ニ非ズ。
従来鴨緑江ヨリ木材ヲ積載シテ天津ニ輸入シタル「ジャンク」ノ数一ケ年数百ヲ以テ数フ ル程ナリシモ、日露戦争以前ヨリ木材ノ輸入杜絶シ、平和回復後ノ今日ニ至ルモ未タ一般 ノ入港セルモノナシ。尚ホ従来大東溝、安東縣ハ開港地ニ非ザリシヲ以テ、特別ノ認可ヲ 受ケタル汽船ノ外ハ入港スルコト能ハサリンモ、今回同港解放ノ結果、将来汽船ニテ輸入 スル木材少カラサルベク、従テ日露戦役前ノ如キ「ジャンク」ノ盛況ヲ見ルコト能ハザル ベシ。
近来天津及大沽ニ於テ諸種ノ名義ノ下ニ賦課セラルル税金少ナカラザルヲ以テ、其重税ト 繁雑ニ堪ヘ兼ネ従来大沽ニ入港シタル「ジャンク」モ近来山東省新黄河(大清河)ノ河口 ナル程子口(又名大山口)河南及山西ノ諸省ニ貨物ヲ輸送スルモノ多キヲ加ヘタルモ大沽 ニ入港スル「ジャンク」ノ数ヲ減シタル大原因ノ一ナリ(汽船ノ航行シ能ハザル未開港地 ト大沽間ノ「ジャンク」貿易ハ数年前ト同ジク盛ンニ行ハレツツアリ)
明治三十七、八年中大沽輸出入ノ「ジャンク」数ハ左ノ如シ。
船 別 摘 要 三十七年 三十八年 南洋ジャンク 寧波、福建ヨリ雑貨木材ヲ積載シタルモノ 三四 二九 北洋ジャンク 營口、遼東半島、芝罘ヨリ来ルモノ
(鴨緑江ヨリ木材ヲ積ミ来ルモノヲモ含有ス) 三三三 一九五
塩 船 一,四五一 一,三五三10)
と、明治37年、38年(1904、1905)における天津の帆船貿易の状況を述べている。天津には寧 波や福建からの帆船によって紙や茶、竹、竹器、酒、煙草、木材等の物資が運ばれて来た。さ らに天津は渤海湾に面していたことから東北沿海との航運関係も密接であり、対岸に当たる遼 河の河港である營口や遼東半島の諸港との関係も緊密であった。
渤海における沿海航運の状況を詳細に知る資料は少ないが、
19
世紀末の状況については光緒 二十三年十月初一日、西暦1897
年10
月26
日に天津の紫竹林海大道で創刊された『國聞報』に渤 海沿海の航運の一端が記録されている。『國聞報』第43
号、光緒二十三年十一月十四日付の「營 10)外務省外交史料館「管内状況調査報告3」(各国事情関係雑纂・支那ノ部・天津 第一巻)簿冊番号:B-1-6-280。
口新聞」には、「停辦布疋○大尺布又名沙布、係蘇省通州及海門兩属所出、近年沙船商人装運 到營、計毎件布二千五百尺、本銀約三十兩」とある。遼河の河港である營口に毎年江南方面か らの沙船が長江口の通州や海門などで生産された「大尺布」や「沙布」と呼称された綿布を運 んで来ることを伝えている。
營口に陸揚げされたこれら綿布の販路に関して、『國聞報』第
471
号、1899
年2月26
日付「營 口新聞」の「布貨滞銷」には、「大尺布産自江南通州・海門廰、去年布客由上海運到者計二萬 餘件、冬季銷路、大滞存貨頗多、竊思遼陽・瀋陽・吉林・長春・雙城・賓州・呼蘭・綏化各府 廰州等城鎮、向銷此布、近聞積貨甚属寥寥、一經天時和暖、各路商販、定當争先就道矣」とあ るように、その販路は現在の東北三省の内陸部にまで及んでいたのであった。さらに『國聞報』第
61
号、1897
年12
月25
日、光緒二十三年十二月初二日付の「營口新聞」に「衛船沈没○營口訪事友逓來書云。天津益隆號某衛船、由津装載鐵鍋牛皮等物、開駛來營、將 到口門、被颶風飄至復州界紅崕子洋面、施被沈没、船中三十餘人、遇救者僅十二名、餘皆從屈 大夫逝矣」とあるように、天津にあった益隆號が所有する衛船が天津より鉄鍋などを積載して 營口に入港する直後に大風に遭遇して沈没して乗員
30
余名のうち、救助されたのは12
名のみで あったとする記事が見られ、この海難事故の記録から天津における船式である衛船の航運活動 の一端が知られる。『國聞報』第
436
号、1899
年1月13
日「營口新聞」には「進口船數○營口自開河迄封河進口輪 船共四百五十四艘、内計糧船四艘、煤船三十一艘、雜貨船四十六艘、餘皆装載洋貨。又有夾版 船十四艘、他若改売船一百八十六艘、杉船一百八十七艘、寧波船七十二艘、東船二十九艘、後 尚有運載鉄路木料之輪船十餘艘、不在此數」とあり、遼河の河港である營口に、遼河が解氷す ると汽船のみならず、各地からの帆船も来航した。杉船とも呼称された江南の沙船が187隻、寧波船が72隻、山東からの帆船である東船が29隻の来航が見られた記事が掲載されている。
このように、東北沿海における帆船の航運活動は活発に展開していたが、19世紀末の中国沿 海地域における汽船の進出によりその航運活動が漸次縮小していった。
3 清代福建沿海の帆船航運
清代において帆船活動の中心地の一つが華南沿海の福建省であった。その福建省の帆船活動 を知る記録が中国第一歴史檔案館や台北の故宮博物院に残された閩海関即ち福建海関に関する 記録に見られる。それらを中心に東シナ海、南シナ海における帆船活動に関する具体的な記録 を掲げてみたい。
乾隆八年(
1743
)年九月十一日付の内務府総管の三和等の奏摺によれば、…策楞兼管関税、乾隆六年分徴収税銀…乾隆六年分、進口洋船四十三隻、共収税銀二萬 九千三百七十餘両。内有往販葛剌巴進口洋船七隻、収税銀七千八百七十餘両。嗣因署閩浙
督臣策楞等、於乾隆六年内、請禁商船販葛剌巴一案、至乾隆七年十二月内、閩省撫臣始准 部文南洋一帯諸番、仍准照旧通商、是以七年内、各商船並無往葛剌巴貿易、該年進口洋船、
雖有四十五隻、皆往販柔佛・暹羅等處小番地方之船、僅収進口洋船税銀二萬一百九十餘両、
較之六年分少、収葛剌巴進口洋船税銀七千八百七十餘両以上、計免過豆麥税銀、并少収葛 剌巴進口洋船、税銀共一萬七千餘両、査乾隆七年分、盈餘銀両、較之六年分、僅少銀一萬 二千三百餘両、若以前項免徴豆麥税銀、并少収葛剌巴進口洋船税銀一萬七千餘両、較算寔 属有多無少、臣経細加査核理合拠寔恭摺、代為奏明等因11)。
とあり、乾隆六年(
1741
)分の閩海関の常税収入は25
萬7
,700
余両であった。乾隆七年分は24
萬5
,300
余両で前年の六年分より1萬2
,000
両余り減少している。乾隆六年(1741
)に閩海関を 通関した海船は海外貿易船が四三隻あった。内七隻は葛剌巴即ちインドネシアのジャカルタに 交易に赴いた船で、乾隆七年(1742
)は海外貿易船が四五隻であり、その多くがカラパやジョ ホールやシャム等に赴いた船であった。乾隆六年の海外貿易船による税収は2
萬9
,000
余両にの ぼるが、そのうちカラパ船の7
隻で7
,800
余両の税収を得ている。一隻当たり1
,000
両以上にのぼ り、これだけで全収の25
%以上を占めており海外貿易船一隻あたりの税収の高さのみならず、貿易規模の大きさが推察できる。
乾隆九年(
1744
)五月二十日付の内務府総管海望等の奏摺では、…閩浙総督那蘇圖奏稱、閩海関…至乾隆柒年、免過豆税銀捌千捌百貳拾陸両、麥税銀参百 肆拾餘両、又因該年巴地不法、暫禁販巴、並無該處回棹洋船、少収税銀柒千捌百柒拾餘両、
其餘進口洋船、雖有四十五隻、均属別洋回棹、僅収進口洋税銀貳萬壹百玖拾餘両、…12)
とあり、乾隆七年の海外貿易船は四五隻であって、それらによる税収のみで二萬百余両の税収 があった。
乾隆十年(1745)九月初四日付の吏部尚書兼管戸部尚書劉於義等の奏摺には、
…内閣抄出福州将軍兼管閩海関事務新柱奏稱、…出口洋船、惟往販呂宋者貨属細軟、税銀 為多、八年分載往呂宋商貨、積滞不銷。是以九年分、販往貨物少収、税銀二千四百餘両、
又臺灣糖蔗不旺、糖船進口、較八年分、共少一百三十三隻少収糖銀四百八十餘両以上、共 少収銀一萬九千七百餘両、所頼其餘貨税彼盈此絀、截長補短、稍抵不足、此現在盈餘銀両、
八年分尚少収一萬二千六百両零、所有盈餘短少縁由13)。
とある。乾隆九年(
1744
)分の閩海関の常税収入は22
萬8
,600
余両であった。乾隆八年の福建 海関の盈餘銀は16
萬7
,600
余両であったのに対して、乾隆九年分は15
萬5
,000
余両に減少した。その減少の原因として、漳州産の煙草の減少、海外貿易船が平年より五隻少なかったこと、さ らに台湾砂糖が減産であったため乾隆八年に比較して台湾から砂糖を積載し厦門等に入港して
11)中央研究院歴史語言研究所所蔵檔案「明清史料」登録號054045。
12)中央研究院歴史語言研究所所蔵檔案「明清史料」登録號051720。
13)中央研究院歴史語言研究所所蔵檔案「明清史料」登録號073203。
くる帆船が133隻も減少したこと等の要因があげられている。
乾隆十四年(1749)二月二十四日付の福州左翼副都統の鄧廷相の奏摺には次のようにある。
據各委員等稟称、本年閩省、上游春間缺雨、笋乾・紙張不甚出産、渓河水浅、木植磁器、
運載維艱、下游夏秋、天旱糖蔗・青靛・火油及青菓等物、均属歉収、沿海所産海蜇・鮭醤・ 魚鮝等項、縁七月間颱風屡發、採捕無幾、兼北來棉花・紬布等物、亦進口稀少、是以盈餘 不足、較上届缺少等情14)。
同年十一月の福州将軍の馬爾拜の奏摺には次のように報告されている。
…伏査、閩海關額設徴税大口六處、上游則有福寧府属之寧徳、福州府属之南臺、下游則有 興化府属之涵江、泉州府属之泉州、厦門二口、並漳州府属之銅山。凡此六口、毎處向委筆 帖式防禦等一員、綜理事務、其進口之税、外省如廣東・江浙絢緞紗羅布疋棉花等貨、並夷 船番錫・胡椒・蘇木・黒鉛等貨。本省如臺湾之烏糖・火油・菜子、及沿海所産之魚蝦・鮭 醤等貨。其出口之税、上游則木植・紙張・茶葉・笋乾、下游則青靛・磁器・明礬・荔枝・
福橘等貨15)。
乾隆十四年の二件の奏摺は、福建省における不作の状況が沿海貿易における航行船舶の減少 に影響したことを述べる。とくに後者では福建沿海部を南北二区に分け、北部に相当する上游 は福建北部沿海の福寧府、福州府とし、南部に当たる下游は興化府、泉州府として論じている。
そして広東省や江蘇、浙江省からの繊維製品や外国船によって南洋諸国から香木が、台湾から 砂糖が、沿海部からは海産物もたらされた。他方、福建省の北部沿海部からは木材や紙類、干 し筍、南部沿海部からは青靛・磁器・明礬・荔枝・福橘等の物が搬出され、帆船による物流の 状況について具体的に商品名を掲げ例記している。
乾隆十五年(1750)九月初八日付の福州将軍新柱の奏摺には次のように報告されている。「本 年進口洋船五十三隻零星、共帯有食米二萬七千七百二十二石、稲穀八百二十石、於漳泉二属民 食、不無小補、目下洋船将次出口」16)とあり、乾隆十五年分として、海外に出港した貿易船は 五三隻にのぼり、これらによって二萬七千余石の外国産の食米が輸入された。
乾隆十六年(1751)九月初五日付の閩浙総督の喀爾吉善は「臣差弁自福建厦門回浙據稟、厦 門近日自外洋回棹商船、傳言暹羅國呂宋番人因争地界互相構兵等語」17)とし、乾隆十六年に厦 門に帰帆した海外貿易船より入手した情報では、シャムとルソンとの紛争があったこと。乾隆 十六年九月二十八日付の福州将軍の新柱は「閩省環山阻海、田少人多、所産米糧、往往不敷民 食、而漳泉二府為尤甚。査漳泉民食、向藉臺湾商販、源源接済。近年臺郡偸渡之人日多、米價 亦不能平減、是以青黄不接之時、漳泉一帯市價日昴」18)と記し、福建から台湾へ窃かに渡海す
14)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF19-172コマ。
15)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF19-317コマ。
16)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF19-491コマ。
17)『宮中檔乾隆朝奏摺』第1輯582頁。
18)『宮中檔乾隆朝奏摺』第1輯815頁。
珠 珠 珠
る人口が多いこと、台湾から福建南部に供給される食米が減少して漳州・泉州一帯の米価が高 騰していることを報告している。
乾隆十七年(1752)七月十七日付の福州将軍新柱の奏摺には「今自五月下旬起至七月初旬止、
據厦門税口委員彭誉稟報、臺湾進口商船共三百一十隻、運厦米二萬五千四百石零、又進口杉板 船六十九隻、運厦米二萬七千六百石零、又進口洋船内、各帯回米共二萬六千石零、又龍渓縣商 民徐芳陞、前請給照、赴暹造船、買米運回接済、今於六月二十九日、運回米五千石以上、共米 八萬四千石零、現在漳泉市價漸平、民食充裕、所有陸続運到各船米数、理合彙摺奏報、再査、
又龍渓縣商民徐芳陞、係自備資本領照赴暹買回例」19)とあり、さらに乾隆十七年九月初五日付 の新柱の奏摺では「査核向年進口洋船、多則五十餘隻、洋貨旺盛之年税銀、不過三萬一千餘両、
本年七月初七八等日、據船戸稟称、外洋並無颶風、回棹洋船、曁上年壓冬之船、先後到厦門者、
共計六十五隻、内六十二隻、業經査騐上税、共収税銀三萬七千八百六十九両零、尚有三船、未 經騐竣上税」20)とある。ついで乾隆十七年十一月二十七日付の閩浙総督喀爾吉善の奏摺では「四 月初間、臺邑船戸洪協華即在鹿仔港外被劫、五月望後、又有臺邑船戸徐得利在大甲渓口外被劫、
其鳳邑船戸許得萬、李長茂、臺邑船戸陳鄭全三船、均於夏末秋初、在北路洋面被劫、…七月 二十五日、在蓬山港口拿獲廣東潮陽縣王萬利紅頭船一隻、又在武楽洋面拿獲臺湾縣船戸魯源茂 彭仔船一隻、倶經解往彰化縣究訊、又於七月三十日在後龍洋面、見有無字號泉州船一隻、正在 尾追蔡長吉商船」21)とあるように、乾隆十七年七月の新柱の奏摺によると、厦門の税口委員の 報告では、乾隆十七年五月下旬より七月初旬までの間に台湾から厦門に入港してきた海船が
310隻あり2萬5,400石の食米をもたらした。さらにシャムからも食米が8萬4,000石をもたらし
たため漳州・泉州地域の米価が安定していること、シャムへ渡海した海商として龍渓縣商民の 徐芳陞の名が報告されている。九月の奏摺では帰帆した海外貿易船は65隻にのぼり、その内の62隻だけの税収のみで3萬7,800余両に達していた。閩浙総督喀爾吉善の奏摺より、乾隆十七
年四月から七月にかけて海盗による被害を受けた船舶の様子が報告されている。四月、五月は いずれも台湾府治下に属する台湾縣や鳳山縣の船戸の船であり、七月は広東省潮州府治下の船 や台湾縣と泉州府治所属の船舶であったことから台湾海峡を航行する船舶の所属府縣が台湾の 台湾縣、鳳山縣、廣東省の潮州府や福建の泉州府など明確に知られる。乾隆十八年(
1753
)二月二十三日付の閩浙総督喀爾吉善の奏摺では「閩省漳泉二府、戸口殷 繁、民俗慓悍、本地所産米穀不敷民食、内地各属、山嶺阻隔、輓運維艱難、惟臺湾一郡、産米 之郷、海道通連、片帆直達、緩急可以接済」22)とある。さらに同年三月二十九日付の福州将軍 新柱の奏摺では次のようにある。「據委員彭誉具報、現在洋船、先後出口、計六十五隻、共徴19)『宮中檔乾隆朝奏摺』第3輯399頁。
20)『宮中檔乾隆朝奏摺』第3輯777頁。
21)『宮中檔乾隆朝奏摺』第4輯442頁。
22)『宮中檔乾隆朝奏摺』第4輯735頁。
洋税銀五千八百四十八両零等情」23)
とあり、乾隆十八年は相変わらず福建省南部の漳州府や泉州府では食米が不足していた。新柱 の奏摺は、乾隆十八年に厦門より出港した海外貿易船が65隻にのぼり、出港に際して積荷より 得た税金は五千八百余両であった。一隻当たり約
90
両になる。帰帆すると乾隆七年の例からみ ても一隻当たり600
余両の税収が見込まれるから、単純計算であるが海外貿易は少なくとも大 約6、7倍になったことが判る。乾隆十八年五月二十九日付の閩浙総督喀爾吉善の報告は、
…伏査閩省民情、精心計利、善於経営、下游福興漳泉福寧各郡、濱臨海洋、非業漁塩、則 販外洋、富商巨賈、貿遷交易、専重外番銀銭、以銀作銭、仍按銀両軽重行使民情久已相安 所以囤蔵銭文、非具所利、其上游、延達汀邵各郡永龍二州、廣産竹木茶紙販異地、比戸皆 然民間交易、雖銀銭兼用、而各郡跬歩、無非崇山峻嶺、銭文質重、搬運艱難、民間行使、
以銀為便、是以歴來上游、銭價較賎於下游、此閩省上下游各郡、民情地勢、實在情形也。
…本省民間轉輸之用、惟沿海各口往来洋面販運之船、従前竟有夾帯出口之弊、曾經定有大 船不許帯銭至十五千以上、中船不許帯銭至十千以上、小船不許帯銭至五千以上、違者将銭 一半入官一半就地平價發売、…24)
とあり、閩浙総督喀爾吉善のこの奏摺は、福建省における経済状況とりわけ銀と銅銭の流通状 況を概略的ではあるが如実に記している。
乾隆十八年七月十九日付の福建水師提督の李有用の報告では、「厦島係洋船騈集之区、見在 各處回棹洋艘、據口報陸続到港已有四十四船、載回洋米、共計四萬四千一百七十石、厦中市米、
毎石價銀一両九銭零、不特厦地一處、即漳泉民食、亦可充裕、海彊寧謐、兵民安堵。…」25)と あり、乾隆十八年七月現在で厦門に帰帆した海外貿易船は44隻あり4萬4,000余石の食米を福 建にもたらし、漳州、泉州地域の米穀流通を円滑ならしめた。
乾隆十八年七月二十日付の閩浙総督喀爾吉善の奏摺では次のようにある。
…本年五月内、據福州府海防同知郝窪稟報、有龍渓縣商人呉秀若等、自備資本、僱江蘇長 洲縣林華盛洋船、装載貨物、於乾隆十七年十月内、由乍浦出口、往販南洋、遭風失舵、飄 至日本、将貨兌換紅銅銅器等貨、開行回棹、洋中又遭颶風、損壊蓬項、飄至閩省亭頭地方、
収泊人船、幸獲保全26)、
福建漳州府治下の龍渓縣の海商呉秀若等が自己資本によって江蘇省蘇州治下の長洲縣の林華 盛の海外貿易船を雇用して南洋に赴くつもりであったが、海難に遭遇して日本に漂着し、日本 銅等を購入して帰帆したが、帰国の途中で再び海難に遭遇し福建省に漂着したとの報告である。
23)『宮中檔乾隆朝奏摺』第5輯8頁。
24)『宮中檔乾隆朝奏摺』第5輯516頁。
25)『宮中檔乾隆朝奏摺』第5輯828頁。
26)『宮中檔乾隆朝奏摺』第5輯861頁。
当時の日本は中国の貿易船に入港制限に当たる通商許可書である信牌を支給していた27)ので、
漂着したからと言って簡単に貿易はできなかったことから、この船は最初から日本貿易を目的 とした船であったと思われる。信牌をもった江蘇の商人からそれを高額で入手しての日本貿易 を企図したものと考えられる。
乾隆十八年八月二十日付の福州将軍新柱の奏摺には、
…今於乾隆十八年七月十七日、有暹羅國夷商蘇輝駕船到厦、載米七千二十餘石、另載蘇木 五百担、黒鉛三十担等貨、進口随飭厦門委員彭誉、確切盤騐米数、相符照依市價、發糶民 間、合計該船、應徴梁頭課銀七百五十両、貨物税銀六十八両六銭七分、倶遵諭旨、定例減 免十分之三、…28)
とあり、乾隆十八年七月にシャムからの貿易船が厦門に来航して
7
,000
余石の食米や蘇木等を もたらしたが、定額通りの税額では800
余両に達するが、食米をもたらしたので税額を十分の 三に減額されている。乾隆十八年十二月十六日付の福州将軍新柱の報告では次のようにある。
…乾隆十六年十一月十六日起至乾隆十七年十一月十五日計一年所征税課正餘銀三十三萬 二千四百一十八両一銭二分零之数、本年計少収銀一萬七千九百六十九両九銭五分零、又比 較乾隆十五年十二月十六日起至乾隆十六年十一月十五日連閏一年所征税課正餘銀三十萬 八千八百八十三両七銭六分零之数、本年計多収銀五千五百六十四両三銭九分零、再比較雍 正 十 三 年 二 月 二 十 日 起 至 乾 隆 元 年 正 月 十 九 日 連 閏 一 年 所 征 税 課 正 餘 銀 二 十 萬 三千三百三十六両四銭一分零之数、本年計多収銀一十一萬一千一百一十一両七銭五分零。
…今年洋船回棹所帯番錫胡椒甚少、遂致厦門洋税較諸乾隆十七年分計少収銀一萬二千餘両、
…又閩省今年出口花生油麻等物、進口棉花布疋等物、較諸乾隆十七年分、亦皆減少、遂致 日征商税計少収銀五千餘両、…29)
乾隆十八年の税収を報告する新柱の奏摺であるが、乾隆十七年分の閩海関常税収入は33萬
2,400余両、乾隆十六年分は30萬8,800余両、さらに雍正十三年分は20萬3,300余両であった。こ
れらと比較している。乾隆十八年は海外貿易船の帰帆したものが外国産の錫や胡椒を持ち帰る もの少ないことで乾隆十七年に比較して1萬2,000余両の減額であった。乾隆十九年(
1754
)四月初六日付の福州将軍新柱の奏摺では、…現有臺米、接済泉漳、并江西隣米、接済汀州、及延建米石、接済省城、民食流通、且値 麥秋、又有資益、並無缺乏地方、寧帖、…30)
とあり、台湾産の食米が福建南部の泉州府や漳州府に供給され、内陸部の汀州には江西省産の
27)松浦章『清代海外貿易史の研究』朋友書店、2002年1月。
28)『宮中檔乾隆朝奏摺』第6輯219頁。
29)『宮中檔乾隆朝奏摺』第7輯175頁。
30)『宮中檔乾隆朝奏摺』第7輯907頁。
米が供給され、福建北西内陸部の延州府や建州府産の食米が省城である福州に供給されていた ため乾隆十九年は米価が安定していたとされる。これが福建省における米穀流通の平常時の状 況であった。
乾隆十九年四月二十八日付の福建巡撫の陳弘謀の奏摺では次のようにある。
…査閩省地處海濱、南洋諸番、在在可通、福興漳泉等府、地狭民稠、田土所産、不敷食用、
半藉海船貿易、為資生之計、康煕五十六年、禁止南洋之後、閩省在外貿易人民、不得復帰 故土、…乾隆十四年有龍渓縣民陳怡老私往葛刺巴潜住二十餘年、充当甲必丹、携帯番婦子 女、私自回籍、…31)
福建省の地理的状況から海外へ進出することが多かったが、康煕五十六年の南洋への渡航禁 止によって福建省に戻ることが出来ない民衆がかなりいた。そのひとりである漳州府龍渓縣出 身の陳怡老がカラパに密出国して二十余年ぶりに外国人の妻と彼等の間に生まれた子供達をと もなって故郷に帰ってきたことが報告されている。
乾隆十九年七月十七日付の福州将軍新柱の奏摺では「今歳出洋商船共計七十隻、現在回厦者 五十餘隻、由番帯米來閩頗多、民食充裕、價値平減、各處地方、咸臻寧帖」32)と、乾隆十九年 の海外貿易船は
70
隻にのぼり、その内厦門へ帰帆したのは50
余隻であった。その多くが外国産 の食米を福建にもたらしたことが知られる。乾隆十九年九月二十四日付の福州将軍の新柱の奏摺には「閩海關、於乾隆十九年閏四月末旬 起至八月中旬止一切往洋貿易船隻、陸続回棹共計六十八隻、収入厦門関口、徴収洋貨税銀三萬 一千九百二十五両零、較諸上届乾隆十八年徴銀二萬七千二百五十四両零、今年計多徴銀 四千六百七十両零」33)とあり、乾隆十九年閏四月下旬より八月中旬までの間に帰帆し厦門税関 に通関した海外貿易船は六八隻にのぼり、それらから3萬2,000両に近い税収を得ている。平 均一隻当たり470両になる。
『皇朝文献通考』巻二百九十八、四裔考、英吉利によれば乾隆二十二年(1757年)に、「[乾隆]
二十二年、部議、英吉利不準赴浙貿易、於是収泊廣東、毎夏秋交由虎門入口」とあり、イギリ ス船の浙江貿易が禁止され、廣州のみでの交易となった。この後、道光二十二年(1842)の南 京条約締結まで85年間にわたってイギリス東インド会社による中国貿易は廣州のみでの貿易と なる。
乾隆二十四年(
1759
)閏六月二十三日付の暫署福州将軍の明福は、…査閩海關一關、設立南臺涵江・泉州・厦門・銅山・寧徳六口税館所轄小口岸共三十處、
惟厦門一館事務最繁、轄十六口岸、其餘五館所轄多寡不一、界連福・興・泉・漳・福寧五
31)『宮中檔乾隆朝奏摺』第8輯138頁。
32)『宮中檔乾隆朝奏摺』第9輯192頁。
33)『宮中檔乾隆朝奏摺』第9輯626頁。
府沿海各口、徴収貨税、巡査偸漏、盤詰奸匪緊要、…34)
と報告し、福建沿海に設置された閩海関の口岸は30余箇所にのぼるが、最も事務が多忙なのは 厦門であって、その他の口岸は収税において様々な問題を生じさせていたことが報告されてい る。
乾隆二十五年(
1760
)三月初七日付の福州将軍の杜圖肯は次のように報告している。…奴才訪得沿海各外澳居民、以舟為業、或一人各下置造商漁船数隻、或一澳之中幾十 隻 至百餘隻不等。向例新造雙桅大船、帰關量絡征課給牌、近聞有等船戸置造大商漁船、並不 赴關輸税領牌、恃居海濱外澳、巡哨難周、私借別船牌、照影射透越、…35)
福建沿海には多数の港があるがそれぞれの港には数十艘から
100
隻以上の商船・漁船があっ た。その海港において新造される海船は年々大型化してしかも海関に登録されていないものも 多かったことが知られる。乾隆二十九年正月二十四日付の福州水師提督の黄仕簡では、
窃照厦門地方為閩省海口之門戸、商船雲集之奥区、四通八達、周流中外、無論内地之商賈 到處往来貿易、即外國之夷民、亦復出入経営、所有進出口岸在在、均関緊要36)。
とあり、厦門港は福建の最重要な海港であるため様々な人々が出入し、外国人も見られたため 口岸を出入する船舶の監視を重視するよう報告されている。
乾隆三十八年(
1773
)十月初七日付の薩哈岱の奏摺では次のように報告された。…奴才細加確祇因本年回棹洋船止有一十四隻、連収廣東省遭風船一隻、實共一十五隻、計 徴洋税銀一萬八千三百四十四両一銭七分六厘、其餘洋船、均未回閩、且経六月二十八九両 日、連作颱風之後、不知飄収何處、較之上年二十六隻之数、計少洋船一十一隻、以致六七 月間、絀収洋税銀一萬六千八十七両二銭八分37)。
乾隆三十八年に帰帆した福建省の海外貿易船は十四隻にとどまり、遭難して福建省で通関し た廣東省隻の海外貿易船を含めても一五隻であって、税収は一萬八千余両に止まっていた。
乾隆四十一年(1776)九月十一日付の覚羅永徳の奏摺では、
…本年夏間北風時、作貿易洋船、有飄往別省、或遭風失水者、半年期内、進口洋船一十八 隻、比上年進口二十四隻之数少、進洋船六隻計少、徴洋税銀七千百三十六両七銭一分二厘、
又第二個期内、有出口洋船一隻、徴税銀七十七両五銭四分七厘實少、徴洋税銀七千五十九 両一銭六分五厘38)。
と、乾隆四〇年の海外貿易船は二四隻、乾隆四一年は一八隻と最盛期に比較して大幅に減少し ている。
34)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF19-1257コマ。
35)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF19-1346コマ。
36)『宮中檔乾隆朝奏摺』第20輯、411頁。
37)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF20-133コマ。
38)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF20-497コマ。
珠 珠 珠 珠
乾隆四十八年(1783)正月十五日付の覚羅永徳の奏摺では、
…奴才節次厳査縁前歳、江浙両省、秋遇風潮、棉花歉収、是以本年進口棉花・布疋無多、
閩省出口木植等貨、亦倶稀少、又台湾于四月内、猝被颶風、商船多有飄没、兼之臺属漳泉 民人械闘、往来販運船隻、倶観望不前、以致税銀虧短39)。
とあり、乾隆四十八年は江蘇、浙江両省において秋に風潮による被害を受けたため、福建省に もたらされる綿花や綿布の量が平年に比較して減少していた。このため福建から搬出される木 材の出港量も減少していた。さらに台湾も台風の被害をうけて多くの商船が漂没したため台湾 から大陸側に来航する船舶も激減していたのである。この結果、当然閩海関の税収も減額する ことになったのであった。
乾隆五十七年(
1792
)九月十二日付の福州将軍の魁倫の奏摺では、次のように報告されてい る。…奴才伏査致短之由縁、自上年報満以後、冬令進口之棉花・布疋等貨無多、截至本年三月 半年期内已短徴銀三萬三千八百有奇、原擬夏秋両季、徴収溢額可補、前缺不期自入夏以来、
洋面颶風時、發進口船隻稀少、兼以本年遇閏満關、較早一月、其奉天・天津・山東等處、
北來貨物、尚未進口、以致税課、補苴無多、仍有短絀。…40)
乾隆五十六年冬以降において福建に綿花や綿布をもたらす船舶が減少し、さらに台風の発生 によって出港船舶数も減少していた。さらに北方の東北沿海や天津、山東産の物品の移入も少 なく、当然閩海関の税収も減少していた。
乾隆六十年(1795)三月初七日付の福州将軍の魁倫は、帆船活動に関して、
…査實縁去秋漳州泉州一帯、被水之後、本省商販船隻、比前減少、且山東等處、亦因上年 両水過多、所有棉花・布疋等項、商船來閩較少、是以所収税銀比較短絀。…41)
と報告し、乾隆六十年は福建南部とりわけ漳州府、泉州府において水害の被害を受けたため、
福建省の商船が平年に比較して減少し、また山東方面においても水害の被害があったため福建 省に舶載される綿花・綿布が減少し閩海関の税収も減少していた。
嘉慶元年(1796)八月初八日付の閩浙総督兼署福州将軍の魁倫は、
…査閩海関自乾隆六十年七月十六日起、至嘉慶元年正月十五日半年期内、共徴税課銀一十 萬六千六百三十八両二銭、…今自嘉慶元年正月十六日起、至七月十五日下半年期満、共徴 税課銀八萬六千二百一十一両六銭七分二釐、合計一年期内、通共徴収税課正額盈餘銀 一十九萬二千八百四十九両八銭七分二釐、…奴才詳細確査、實縁上秋漳泉一帯、被潮被旱、
収成歉薄、物産無多、且自冬徂春、今海洋未靖、南北商販、不能如前流通、以致各口所収 税銀、比較上年三年、均有短絀。奴才復以督緝洋盗、屡過各海口、随時密訪、並抽査日収、
39)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF20-910コマ。
40)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF20-1562コマ。
41)「明清史料」登録號103796。
珠 珠
及商人親填各簿冊、逐一較覈、所有委員、曁書吏丁役等、尚無飾詞縦漏、及徴多報少情弊42)。 と報告した。それでは乾隆六十年の閩海関常税収入は19萬6,600余両と減少した。最大の理由は、
乾隆六十年秋における漳州、泉州地域での海潮や日照りによる被害があったため物産の産出が 減少し、冬から春にかけて沿海の航運が進展しなかったため過去三年分の常税収入より減少し た。海盗の巡視を兼ねて各港を調査し海関の帳簿類も調べたが不正な報告は見られなかった。
嘉慶六年(
1801
)十一月十八日付の福建巡撫の汪志伊は次のように報告した。為呂宋夷船至閩貿易循例辧理恭摺奏聞仰祈聖鑑事、…嘉慶六年八月十八日、有甲板夷船一 隻、収泊厦港、査係呂宋夷船隻等情、…譯訊得呂宋夷船一隻船戸即凡憐蘭氏、帯舵水 八十五人、配帯防船砲位六門、装蘇木・烏木・牙蘭・米・海龍皮等貨、於本年七月二十四 日、在本國開駕出口、欲往廣東貿易、并搭載琉球國遭風漂到難夷雲正等七人、嗣因海洋風 訊不順、収泊厦口、現在船身、須加修葺、情願将所載貨物、就厦輸税發賣、修葺船隻、竣 日回國、詳請具奏等情、…43)
嘉慶六年八月十八日に厦門港に呂宋船が入港して来た。この船は本来は廣州に赴いて貿易す る予定であったが、海洋不順であったため予定を変更して厦門港に入港したものである。この 船には琉球国人の海難遭難者七名を搭乗させていた。呂宋船は船体の修復と積荷の交易を求め ている。厦門には航路上の関係からか時折、呂宋フィリッピンからの船が来航し交易している44)。 福州には毎年のように琉球からの朝貢船も来航していた。この朝貢船は福建・福州の南臺に 接岸した。福州は琉球国からの朝貢船の中国への最初の関門にあたり、琉球国の朝貢船が来航 する地であった。琉球からの朝貢船が帰帆の際に本国へもたらす物品には福建産の物産である 毛邊紙などもあったが、中国産ではない物産もあった。これらは海外から中国の貿易船によっ てもたらされた東南アジアの産品であったと考えられる。砂糖は廣東省北西部の潮州や厦門あ るいは台湾より沿海貿易船によって福州にもたらされたものと考えられる。琉球国が朝貢船に よって自国にもたらす産品には、中国産品のみならず海外の物も含まれていた。これらは明ら かに福建と言う立地条件から中国の海外貿易船や沿海貿易船による航運による物流と深い関係 があったことが知られる45)。
嘉慶十一年(1806)四月初九日付の福州将軍の陽春は、
…縁厦門一口、冬季銭糧大半仗臺湾船隻、装載糖油等貨、進口輸納、査自上年四月至十月 止、通関課額、尚未短缺、自十一月間、蔡逆竄臺、滋事以後至本年三月四個月、商販不通、
厦門泉州等口、進出貨税短絀、以致少収盈餘銀一萬八百二十九両五銭八分六厘46)。 と報告し、厦門は台湾からの船舶の重要な来航港であり、特に砂糖が主要な搬入品であった。
42)『宮中檔嘉慶朝奏摺』第2輯448頁。
43)『宮中檔嘉慶朝奏摺』第11輯、285頁。
44)松浦章『清代海外貿易史の研究』朋友書店、2002年1月、496〜521頁。
45)松浦章『清代中国琉球貿易史の研究』榕樹書林、2003年10月。
46)中国第一歴史檔案館・朱批奏摺・財政類MF20-2665コマ。
しかし嘉慶十年十一月以降、海盗の蔡牽が跋扈して商船の往来が減少し、閩海関の税収に大い に影響していた。
嘉慶十二年(1807)四月十六日付の閩浙総督の阿林保は、
…縁閩海關税課、全仗海道疏通、洋船隻往来絡繹、方能徴収充裕、上年廣東・浙江・江蘇・ 天津・錦州各商艘、因海洋未靖、到閩無多、即本省臺湾船隻、亦較往時稀少、其赴外番貿 易回棹洋船、更属寥寥、兼之緝匪緊要47)。
と報告し、閩海関の税収は全て船舶往来、出入の多寡に関係するが嘉慶十二年より海盗蔡牽の 跋扈によって、廣東、浙江、江蘇、天津、東北沿海の錦州の産品をもたらす船舶の福建への入 港が減少し、さらに台湾からの船舶、加えて福建の海外貿易船も減少していたのであった。
道光五年(
1825
)九月十三日付の福州将軍の薩秉阿の奏摺には次のようにある。…閩海關、自道光四年八月十六日起至道光五年八月十五日、計一年期満、縁本年春間、臺 湾米船、運赴天津交卸、載貨陸続回閩、計共大號商船七十餘隻。奴才准部文奉旨免税、徴 収不無短絀、幸江浙商船、物産尚旺48)。
道光四年八月十六日より道光五年八月十五日までの一年間に台湾から天津にむけて食米を輸 送した大型船舶
70
余隻が福建に帰帆した。これらは官物輸送であったため閩海関の税収の増額 にはならないが、この年は江蘇、浙江方面の商船がもたらした物産が多かったため、閩海関の 税収は好調であった。道光二十三年(1843)三月十八日付の福州将軍の保昌の奏摺に次のように報告されている。
…査據各税口委員稟称、委因年來、海洋不靖、貨船稀少、且寧波・乍浦・上海等處、均被 夷船滋擾、商賈難以互通、以致缺徴税額等情、…49)
福建沿海もアヘン戦争の影響を受け、船舶の航行も減少した上に、福建との関係が深い浙江 省の乍浦や江蘇省の上海もイギリス海軍の攻撃を受けて商船の航行が激減したため、閩海関の 税収も平年を大きく下回る状況にあった。同年四月初四日付の署理閩浙総督の劉鴻翺の奏摺で は次のように報告している。
厦門鼓浪嶼寄泊夷船、干預民事、上年龍渓地方黄・呉村荘拾獲漂流木筏、事主赴夷告訴、
呉姓被焚房屋十三所、黄姓出銀六百圓獲免。又同安附近械闘、夷匪得銀助闘、其赴臺載米 商人、在洋被搶、亦訴夷目代為緝獲財米均分。其閩越交界之南澳地方、該夷蓋館築楼、並 教場操演随處、肆掠婦女、擅辧民事等語。…50)
厦門の鼓浪嶼に外国船が停泊するようになると様々な問題が生じていた。漳州府龍渓縣の黄 村や呉村では海上を漂流する木材を集めていたが、それを口実に焼き討ちにあったり、銀を出
47)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF20-2787コマ。
48)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF21-1171コマ。
49)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF21-224コマ。
50)『宮中檔道光朝奏摺』第13輯798頁。
珠 珠 珠
して外国人からの難を逃れるなど。また同安縣では村民同志の争いに金を得て助力する外国人。
また台湾から厦門に米を輸送していた商人が海上で米を奪われるなど。福建省と廣東省が隣接 する南澳地方では外国人が商館等を築き、布教の場や兵士の訓練場などを設け、婦女に乱暴を するなど中国民間のことに様々な介入が見られた。同年六月十六日付の耆英の奏摺にも、「奴 才査厦門向為内地客商由海販運貨物、往来各省貿易輸税之所、被兵以後、商販絶迹」51)とあり、
厦門もアヘン戦争の少なからざる影響を受け、商船の出入が激減していた。
道光二十四年(
1844
)二月十四日付の福州将軍の壁昌の奏摺では、…厦門一口、為閩省商賈聚集之区、各省進出口商船、絡繹不絶、故額定税課、幾居通省之 半、自道光二十年、突遭兵燹、民皆失業、該處向有之行桟十倒八九、且夷人将鼓浪嶼佔為 巣穴、其船隻倶聚泊於厦港、各省商販、咸存疑畏、不敢軽來貿易。…52)
とある。厦門一港のみで閩海関税収の大半を占めていたが、道光二十年以降のアヘン戦争の影 響により、船舶の出入が激減したため、連鎖倒産的に厦門の行桟の八割、九割が失業すること になった。さらに加えてイギリス海軍が厦門港に対峙する鼓浪嶼を占拠したため、厦門に入港 する船舶が皆無の状況になっていた。
道光二十五年(
1845
)二月十六日付の福州将軍の敬穆は、…奴才細査短絀根由一因、厦門地方、自被兵以後、人多破産、舊有之行桟、海船僅存什一、
商賈稀少、所致一因、厦門従前徴収税課、以棉花・布疋・洋貨等税為大宗、向來在厦商人、
将本省漳州府属、及同安縣土産之棉布等物、由海道運至寧波・乍浦・上海・天津・錦州・
蓋平、及臺湾鹿港一帯銷售、復在寧波等處、販買江浙之棉布、以及各種貨物、至厦門售売。
其各省商船之來厦者、亦如此、轉輾行運、至外洋所産之大呢・羽毛・嗶嘰等類、併一切貴 重之器物、則専有閩廣商舶、赴粤運銷、一出一入、均須徴税。…53)
と報告している。厦門港はアヘン戦争の影響を受けたため閩海関の税収が激減するのみならず、
多くの商家が破産し、古くからの行桟や海船で残っているのは一割に過ぎないとまで見られて いた。このため厦門の税収は綿花や綿布そして外国産品が主要な物品であり、これまで厦門の 商人は漳州府や同安縣産の綿布などの品々を海上輸送して寧波や乍浦、上海、天津、さらに東 北沿海の錦州や蓋平、加えて台湾中西部沿海の鹿港などにおいて販売していた。帰帆に際して は寧波等で江蘇、浙江産の綿布や様々な産品を購入し厦門において売却販売したのである。他 方、各省から厦門に来航する商船の場合も同様であった。外国産の繊維類も並びに貴重な器物 なども殆どが福建や廣東の商船によって廣東省において得られたもので、それらの厦門への流 入が閩海関の税収増加に対応していた。
同治元年(
1862
)八月十二日付の福州将軍の文清の奏摺では次のように報告している。51)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF21-2133コマ。
52)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF21-2184コマ。
53)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF21-2229コマ。
珠 珠 珠
…伏査閩海關常税、全頼内地南北商船往来販貨、課額尚不至大虧、爾来江浙未靖、内地客 商大半歇業、兼有外國洋船包攬土貨、由海代運、因貨在洋船、皆納洋税、所以近年以来、
洋税逓届加増、常税愈行短絀、至本年應徴常税、如因寧波不守、商船歇業、福州・厦門・
泉州三口、祇有零星小販、徴収無多、又兼福鼎縣地方會匪滋事、寧徳等口税課無徴、継因 臺湾匪擾、正値糖季旺盛之時、福州・厦門・泉州三口糖季停帮、税課更形短絀、疊據各該 口委員先後稟報均經。…54)
閩海関の常税収入は全て国内の沿海貿易による物資の流通に依拠しているが、太平天国の出 現で江蘇、浙江地域が混乱して国内商業が停滞しているのに対して、新たに進出してきた外国 籍の貿易船が国内産品を搬運するようになったため、その税収は洋税として納入され、常税項 目には何らの増収にはなっていない。とりわけ、寧波の商業活動が行われず、商船が航行しな いのであれば、福建の福州や厦門や泉州の三口としても僅かな物品の流通のみで閩海関常税の 増収は見込めない。さらに福建東北沿海部の福鼎地方では會匪が発生したため、商業活動が停 滞して海関の常税が得られない。続いて台湾でも匪賊による混乱が生じたのは砂糖生産の重要 な時期であった、本来なら台湾から砂糖を積載して福州や厦門や泉州に来航する船舶が激減し 砂糖の流入による常税収入が激減していた。
同治三年(
1864
)十二月初六日付の福州将軍の英桂の奏摺55)によると、同治三年九月十四 日に、突然叛徒が漳州府城を襲撃して厦門と漳州地区を占領したため漳州府治下の商業活動は 停滞したため閩海関の常税は激減した。さらに閩海関の一支所である雲霄税館が焼かれたため 石碼・銅山・詔安・舊鎮などの各港も叛徒の襲撃を恐れて商人等が離散し、常税は入らなくな った。しかもこの混乱で福州や泉州地方でも戒厳下におかれたため、商人達は事態の趨勢を眺 めているだけであるため、搬運活動が激減したため閩海関の常税は激減したのであった。光緒元年(1875)三月初八日付の福州将軍文煜の奏摺56)によれば、同治十三年分の閩海関 の常税収入は13萬6,200余両であった。対外開港したものの、外国船の搬運による海関収入は 洋税として徴収されるため閩海関の常税としては減少することはあっても増収は見込めない。
さらに民間の商品の多くも外国船に積載され搬運されるため、これらは全て洋税に納入される ので常税はさらに減少し、洋税が激増する状況になっていた。
光緒二年(
1876
)三月初十日付の福州将軍の文煜の奏摺57)によると、光緒元年分の閩海関 常税収入は十五萬九千四百余両であった。前年の同治三年分より二萬三千両余り増加したもの の、閩海関の常税が洋税によって侵奪される傾向に変化は見られていなかった。光緒三年(
1877
)正月二十八日付の文煜の奏摺58)には、光緒二年分の福建海関の常税収入54)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF22-28コマ。
55)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF22-208コマ。
56)『光緒朝硃批奏摺』第71輯、536〜537頁。
57)『光緒朝硃批奏摺』第71輯、564頁。
58)『光緒朝硃批奏摺』第71輯、598〜599頁。
珠 珠
は14萬8,700余両であった。閩海関の常税が洋税によって侵奪される傾向に変化は見られず、
光緒元年分より1萬両余り減少している。さらにその減少傾向を増強する要因として、厦門に 外国商人が進出して来たため、国内産品の多くが外国商人の手を経て流通されることになり、
閩海関の常税は減少する傾向をとどめることは出来なかった。
光緒四年(
1878
)正月二十八日付の福州将軍の何璟の奏摺59)では、光緒十四年分の閩海関 常税収入は14
萬500
余両であった。常税収入は外国船による洋税収入の増加に対して下降傾向 にあった。光緒三年五月の杉は商業活動を停滞させ、とりわけ福州省城の南台は厳しい状況に あった。さらに厦門に進出した外国商人によって漳州や泉州産品が殆ど彼等によって輸送を寡 占されつつあり、中国商人の商業活動は圧迫されていた。光緒十一年(
1885
)八月十五日付の福州将軍の穆圖善の奏摺60)によると、福建海関の中国 商船による常税収入は減少し、洋税収入となる外国汽船による輸送が増加し、福建産の主要産 品である茶葉や砂糖は殆ど外国船によって輸送される状況であった。光緒十八年(
1892
)八月十五日 福州将軍希元の奏摺61)によれば、光緒十八年分の閩海関 常税収入は一八萬五百両に近い額であった。しかし光緒十七年夏には水害を被り、さらに台風 により多くの商船が壊滅に近い状況にあり、壹年近くなっても復旧できないため、多くの中国 商人は貨物輸送を外国船に委託する事態に至っていた。光緒十九年(
1893
)八月十五日付の福州将軍の希元の奏摺62)によると、光緒十八年分の閩 海関常税収入は17萬5,800余両であった。閩海関の常税収入の大きな部分を占める砂糖の搬出 は、水害の被害を受け、冬季には大雪の被害を受けたため砂糖の搬出困難であった。さらに年 を越えて夏秋には台風によって商船も大きな被害を受け、海船による航運が困難であった。外 国船の航行以来、中国民船が圧迫された上に、台風による船舶の損壊は、中国民船の航運活動 の減退に拍車を掛けた。光緒二十一年(1895)年四月初五日付の福州将軍の慶裕の奏摺63)によると、光緒二十一年 に起こった甲午中日戦争は、閩海関にも大きな影響を与えた。日本軍が海港を封鎖し、さらに 澎湖列島近海には日本海軍の軍艦が横行しているため、福建の商船は活動困難になっていた。
当然閩海関常税収入の減少は歴然であった。
光緒二十二年(
1896
)八月初七日の福州将軍の裕禄の奏摺64)によると光緒二十一年分の閩 海関常税収入は17
萬3
,000
両ほどであった。しかし、閩海関の常税収入は海船の航運活動によ るものであるのに、甲午中日戦争の影響を受け、北は東北沿海の営口から南の台湾まで海船の 59)『光緒朝硃批奏摺』第71輯、652〜653頁。60)『光緒朝硃批奏摺』第71輯、936頁。
61)『光緒朝硃批奏摺』第72輯、766〜767頁。
62)『光緒朝硃批奏摺』第73輯、8〜10頁。
63)『光緒朝硃批奏摺』第73輯、255頁。
64)『光緒朝硃批奏摺』第73輯、463〜464頁。
航運を阻まれていた。
光緒二十四年(1898)の奏摺65)には、光緒二十三年分の閩海関常税収入は16萬500余両であ った。常税は、洋税の増加に大して圧迫され、福州南台から搬出される木材の場合、常税には 木材の大小長短による関税率があるのに対して、外国船による搬出には木材の大小の区別もな く一律の関税率であったため、大型木材は殆ど外国船による搬出となり、これらは洋税収入に なった。さらに中国商人も外国商人に委託して物資を輸送する傾向にあった。さらに台湾が日 本の領有となって以降、台湾の商人も外国商船による輸送を行うようになり、常税収入の増加 は見込めることはなかった。
光緒二十五年(
1899
)八月初二日付の閩浙総督の許應騤の奏摺66)福建は沿海にあるため航 運によって台湾や遠くは東北沿海の牛荘や営口まで物資の流通を可能にしたが、台湾が日本に 領有されると台湾との航運による商船活動は全て洋税収入となった。さらに風害による海船の 漂没は商船の活動に大きな打撃を与え、閩海関の常税収入は回復不可能な状況であった。以上、乾隆八年(
1743
)年より光緒二十五年(1899
)まで、硃批奏摺の中の福建海関に関する 記述を中心に150
余年間にわたる福建海関の常税収入の変遷を中心に帆船の航運活動見てきたが、常税収入の変遷は単に海関の関税収入の数値の変化のみならず、福建沿海の海船による航運活 動やその後背地に関係する商業活動の変化を如実に反映していることが知られるであろう。
4
小 結上述のように清代の沿海における帆船の航運活動は、康煕二十三年(1684)に海禁政策であ る 遷界令 が解除されると活発に展開し、中国大陸の沿海のみならず海外へとその航運活動 を拡大していった。そして19世紀後半における汽船の航運活動が進展するまで、渤海、東シナ 海、南シナ海における航運活動を蹂躙していたのは中国帆船であったと言っても過言ではある まい。しかし中国帆船と言っても一様では無い。渤海を中心とする海域では天津を中心とした 衛船、山東省在来の東船そして長江口を中心に長江口以北の東シナ海のなかでも水深の浅い海 域や長江などの比較的吃水の浅い水域での航運活動を得意とした平底型海船の沙船が活動し、
特に沙船は東北海港や山東沿海の海港と長江口付近の海港とを結ぶ幹線航路の主役として活躍 したのであった67)。これに対して東シナ海、南シナ海などの水深の深い海域で活動したのが鳥 船、福船、廣船などの尖底型の海船であった。特に鳥船は江戸時代の長崎に来航した実績を豊 富に有する海船であった68)。
65)『光緒朝硃批奏摺』第73輯、746〜748頁。
66)中国第一歴史檔案館・ 批奏摺・財政類MF24-115コマ。
67)松浦章『清代上海沙船航運業史の研究』関西大学出版部、2004年11月。
68)松浦章『清代海外貿易史の研究』朋友書店、2002年1月。
珠