大化改新の虚構と真実
木村時夫
一 虚構と真実との間
大化改新というと︑それが古代史上最大の変革で︑中央集権制と官僚制とはそこから出発し︑皇室の権威もまた
それによって確立された︒そして班田講授という画期的な土地制度と租庸調の新税制とが︑それを機に制定された
とも説かれた︒そしてその原因としては︑天皇の権威をも脅かすようになった︑蘇我氏の専横を憂えた中大兄皇子
に︑藤原鎌足が協力し︑大極殿における入前の五器によって開始されたという︑愛国的な物語も附加されている︒
また︑そのような新しい政治機構の創始には︑聖徳太子によって初めて試みられた︑積極的な中国の制度・文化の
摂取によって刺戟された面もあるとされている︒
ともかく大化改新はそのような聖徳太子の偉大性と︑その遺族が蘇我氏によって滅ぼされるという悲劇性と︑そ
のように強大化した︑蘇我氏に対する中大兄皇子と藤原鎌足の連合勢力の︑愛国的行動に裏付けられた画期的大変
早稲田人文自然科学研究 第32号(S62.10)
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革︑そしてそれは中国の進んだ制度を模倣した︑古代史上の壮大な歴史劇としてのイメージが濃い︒
昭和初期の特異な政治思想家であった北一輝は︑大化改新における天智天皇の役割を高く評価し︑明治天皇に次
ぐ偉大な天皇であるとした︒彼が陸軍青年将校に説いた︑いわゆる昭和維新の理想の中には︑明治天皇によって実
現されたとする四民平等と並んで︑天智天皇が実現したとする班田収授法による︑国民の経済生活の平等化と安定
とが夢想されていた︒少なくとも北一輝が学んだ明治時代の日本史には︑大化改新をそのように考えさせる叙述が
あった︒つぎに掲げるのは昭和三九年発行の高等学校用日本史教科書の︑大化改新に関する部分である︒
聖徳太子は︑高い政治理想をかかげ︑新しい日本文化の礎石を築いたけれども︑現実の政治体制に平ぎな変
革をもたらすまでにはいたらなかった︒太子の死後大臣蘇我氏はますます権勢をふるって皇室をおさえ︑聖徳
太子の王子山背大兄王の一家を滅ぼした︒
このころ︑さきに聖徳太子が派遣した留学生らは︑短くて一五年︑長いものは三〇年にわたる留学をおえ
て︑続々と帰朝した︒この大陸では︑六一八年に階が滅んで強大な唐が出現し︑律令による強固な中央集権国
家体制をうちたてるとともに︑四周の諸民族を征服しはじめた︒そのさかんな新興気分にふれ︑整然たる国家
組織を目前に経験して帰った留学生たちは︑祖国の現状に不満を感じ︑唐の国力の強大と法制の整備とを宣伝
し︑国内の改革を望んでいた人々を刺戟した︒やがて中大兄皇子︑中臣鎌足らが中心となってこれら留学生と
ともに計画をすすめ︑ついに六四五年六月蘇我蝦夷︑入鹿の父子を殺して︑皇室に対抗していた最大の勢力を
滅ぼすことに成功した︒その翌日︑皇極天皇に代って孝徳天皇が即位し中大兄皇子が皇太子となって︑新政を
開始した︒これまでの大臣︑大連を廃止して左右大臣︑内臣の官をもうけ︑国博士を任じた︒つづいてわが国
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大化改新の虚構と真実
で初めて年号をたてて大化元年とし︑年末には都を飛鳥から難波︵大阪︶ の長柄豊富にうつした︒大化二年
︵六四六︶正月︑改新の詔が起せられ︑改新政治の大綱が明示された︒それは①天皇はじめ豪族の私地・私民
を廃止し︑公地公民の制を実施すること︑②京師・畿内・国・郡・里の行政区画の制をたて︑関塞・防人・駅
馬などの軍事・交通の制を設けること︑㈹戸籍・計帳を作製し︑班田合壁の法をはじめ︑租稲をとること︑
ω田の調︑戸別の調︑庸の布︑米など新しい税制をもうけること︑の四ケ条であった︒
こうして天皇を頂点とする中央集権の政治機構をつくって︑土地︑入民を直接国家が支配する唐風の国家を
うちたてようとしたのである︒聖徳太子のかかげた政治理想がここに実現したといえよう︒これが大化改新で
ある︒
改新政治は︑豪族の私地私民を廃止したが︑豪族の社会的経済的地位を否定するものではなかった︒私地私
民にかわるものとして食害の制度がもうけられ︑旧来の職制︵氏姓制︶をあらためて新たに百官をもうけ︑位
階を定めてかれらに賜うべきことが予告された︒そして中大兄皇子は率先して天皇に土地人民を献上して範を
示した︒ ︵自由書房刊﹃日本史﹄︶
叙述はかなり詳しく︑改新の具体的内容にもふれているが︑聖徳太子との関連を示す叙述も多い︒そして最近の
歴史学界で定説になっている改新の詔に対する疑いについては全くふれていない︒
ところが︑それからほぼ二〇年後の︑昭和五八年発行の一教科書の︑大化改新に関する部分はつぎのとおりであ
る︒ 六一八年︑中国では階にかわって唐王朝が中国を統一した︒
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唐は階の政策をうけついで︑高句麗を攻撃したが︑高句麗は根強く抵抗した︒いっぽう︑高句麗と百済には
さまれて攻撃をうけていた新羅は︑唐に救援を求め︑これと同盟を結んだ︒
大和朝廷は︑このような国際関係の緊迫に対応するため︑政治体制の強化をはかった︒このころ蘇我蝦夷の
子入鹿は︑聖徳太子の子山背大兄王とその一族を滅ぼして︵六四三年︶専権をふるっていた︒六四五年︑中大
兄皇子︑中臣鎌足らは蝦夷︑入鹿らを滅ぼし︑天皇家を中心とする支配の強化と政治の改革をはかった︒
新しい教科書の本文はこれだけである︒分量において前者の三分の一強である︒もっとも本文の改革の注とし
て︑細字でつぎのように記している︒
①﹃日本書紀﹄では六四六年に孝徳天皇が︑ω私有三民を廃して公地・公民とし︑豪族にはかわりに食封
をあたえる︑鋤地方の行政区画を定める︑㈲戸籍・計帳にもとつく斑田収授の法をおこなう︑ωあたらしい税
制を定める︑といった歪力条の詔を出して︑のちの律令制をめざした制度を樹立したことになっている︒しか
しこの改新の詔については︑後代に文章が書き改められたという説や︑全面的に書紀の編者がつくったという
説がある︒すくなくとも︑のちの律令法に見える諸制度が︑当時からそのまま実施されたものではなかった︒
︵三省堂刊﹃日本史﹄︶
新しい教科書の特色は︑当時の日本をめぐる東アジアの情勢の変化を前面に出し︑それに対処するための改革と
とらえている︒そして改革の一々の具体的内容にはふれず︑それを注の形で記しながらも︑それらを別にしてい
る︒改新の詔に︑強い疑問を投げかけ︑改新そのものに大きな重点をおいていない︒
この二つの教科書は︑たまたま筆者の手許にあったもので︑同一の編者によるものではないから︑時日の経過に
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大化改新の虚構と真実
よって生じた叙述の変化を比較するには厳密な方法ではない︒しかも高等学校の教科における指導方針にも変化が
あり︑叙述に疎密の差を生じたという事情があるかもしれない︒
しかし筆者は最近の教科書の扱い方のほうが︑史実に忠実で︑しかも日本古代史や大化改新そのものに関する︑
最近の研究の成果をふまえたものであると思う︒
なぜならぽ︑大化改新について叙述している最も古い書物はいうまでもなく﹃日本書紀﹄である︒そして不思議
のようであるが︑それだけなのである︒しかも大化改新という固有名詞はそのどこにも出てはいない︒そしてそれ
以後の歴史書には︑ ﹃水鏡﹄にも﹃愚管抄﹄にも﹃神舞正統記﹄にも︑そして江戸時代の﹃大日本史﹄にも一切ふ
れられていない︒そして鎌足が改新の功臣として描かれたこともない︒大化改新が古代史上の大変革として︑その
意義が議論されるようになるのは︑明治二〇年の前後からである︒明治二〇年前後というのは文明開化の風潮に乗
じて欧米にむけられていた日本人の眼が︑ようやく日本の伝統に向けられ︑反省期に転ずる時期である︒そしてそ
れは明治維新の意義をもう一度再検討しょうとする時期でもあった︒そしてそれとの関連において︑今まで取上げ
られることのなかった︑ ﹃書紀﹄の叙述が脚光を浴びるようになったのである︒
今日︑ ﹃書紀﹄の大化改新の前後の部分を読んでみると︑それがいわゆる六四五年のクーデターに成功した︑勝
者側の編集であるから︑当然のことともいわれようが︑蘇我氏一族を悪人に仕立て︑中大兄と鎌足とを英雄とし︑
その後の改革事業が︑あたかも歴史の必然であったかのような叙述をしている︒
たとえぽ︑蘇我氏の専横の例として︑蝦夷・華語の父子が民衆を勝手に使役し︑生前からその墓を造らせ︑それ
おおみささぎ こみささぎそれ大陵︑小藩︵天皇についてだけ使用し得る名称︶と呼ばせたこと︑聖徳太子の子︑山背大兄王を排し︑血縁関
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ふるひとおおえのおうじ係のある古人大兄皇子を皇極天皇の皇太子としたこと︑さらに入鹿は山背大兄王を急襲して自害に追いやったこ
あまかしのおか み かど み こと︑ついで家を甘梼丘に建て︑これを宮門といわせ︑その子を王子と呼ばせたことなどを列挙している︒また一方
においては︑中大兄と鎌足とは︑たまたま法興寺における打球の会で知り合ってから︑共に新しい学問を求めて通
かるのみこ あ ぺのくらはしま ろ直する︑南風請安の許への往復に密議を交したこと︑その後の鎌足が軽皇子︵皇極の弟︶や阿部倉梯麻呂︑蘇我倉
山田石川麻呂らを与党に引き入れる工作などが劇的に叙述されている︒そして中大兄や鎌足がすぐれた人物として
描かれていることも印象的である︒
むしろしとみ 後に中大兄や鎌足らによって殺害された入鹿の屍体が︑箒障子で覆われたまま庭に放置され︑折からの大雨にぬ
れるにまかされたという記事も︑勧善懲悪の匂いがする︒
﹃書紀﹄の大化改新の叙述が危殆に瀕した朝権を回復した愛国的物語として︑維新という大業のために生命を惜
しまなかった志士の行動に比ぜられたのも無理からぬことであった︒
さて﹃書紀﹄の叙述は︑クーデターの成功という結果を踏まえた物語風のものに堕したきらいがあり︑その挿話
の中には︑後世においてつけ加えられたものもあろう︒しかし︑その叙述を通しても︑蘇我氏が宮廷内においてそ
の勢力を強大化し︑時にその勢威が皇室のそれを脅かすような事態を生じつつあったことは事実であろう︒
先には蝦夷の父馬子がその部下をして崇峻天皇を殺害させている︒蝦夷は蘇我氏と血縁のある古人大兄皇子を皇
太子に立て︑霜露は対抗勢力であった聖徳太子の子山背大兄王を自害に追いやった︒このように蘇我氏が皇位の継
承に深くかかわるようになるのは︑後の藤原氏と同じように︑その女を宮廷に入れ︑皇室と深い姻戚関係を結んで
いたためである︒そして先にも記したように︑天皇は自から政務の処理に当らず︑皇位の継承についても自からは
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大化改新の虚構と真実
決定権がなく︑すべて重臣の合議に委ぜられているという政治の在り方においては︑蘇我氏のような特殊な豪族が
権力を専にする可能性はあった︒当時の朝廷は︑これも前に記したように︑大規模な武力討伐の結果成立したもの
ではなく︑諸部族の連合によってできたのであるから︑その支配関係はゆるく︑皇室の絶対的権力というものはな かつらぎ あがたかった︒ ﹃書紀﹄には馬子が推古天皇に対し︑皇室の直轄領である葛城の県を︑そこが蘇我氏の出身地に近いから
という理由で︑割譲を要請したということを記しているが︑強大な重臣と天皇との勢力関係は︑このような危険な
バランスをとっていたのである︒
このような国内問題とならんで︑七世紀初頭以来の朝鮮半島をめぐる情勢の変化に対し︑日本の為政者は新たな
対応を迫られていた︒というのは中国大陸においては階王朝を亡ぼして唐王朝が成立していた︒階王朝はその統一
の余勢をかつて北進し︑朝鮮半島北部の高句麗を攻撃した︒高句麗の強力な反撃のため︑晴王朝はその目的を達せ
ず︑かえってそのために滅亡を早めたが︑これに代った唐王朝も高句麗に進攻してきた︒朝鮮半島において最もわ
が国と関係の親密であったのは南部の百済で︑高句麗とわが国との交渉はなかったが︑この段階で高句麗はわが国 みまなに接近してきた︒またわが国の朝鮮半島における軍事的拠点であるとともに︑経済的な活動の拠点でもあった任那
を併呑したのは新羅で︑それと日本との関係は当然ながら円滑ではなかった︒新羅は半島内部における新しい情勢
の変化に際し︑新たに唐王朝と提携し︑従来の孤立政策を止めるとともに︑それによって半島内に覇を唱えようと
したから︑そのような情勢の変化が日本に与えた影響はきわめて大きかった︒
聖徳太子が晴王朝に使節を派遣した目的は︑もっぱら中国文明の摂取にあったが︑大国階との公式な交流という
事実によって︑朝鮮半島の諸国にその勢威を示そうとしたこともいなめない︒階王朝に代った唐王朝に対し︑いち
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はやく使節︵第一回遣唐使︶を派遣したのも︑その目的と意図とは同じであった︒ところがその唐王朝が一方にお
いて︑日本との関係の必ずしもよくない新羅と提携したのであるから︑日本としては緊張せざるを得なかった︒宮
廷を取巻く皇族や重臣の中にも︑このような内外の危機に直面して︑強大化した諸豪族の勢力を排除し︑皇室によ
る国家権力の統一と強化とが必要であるとする者が生じた︒
そのような考えが生れてくるのには︑新たに中国大陸を統⁝した唐王朝に関する知識がもたらされ︑それがわが
国の為政者層に刺戟を与えたからである︒その点︑聖徳太子が二階使に同行させて︑多くの留学生︑学問僧を中国
に派遣したことがようやく結実するにいたったといえよう︒ただし︑先にも記したように聖徳太子の遣使の目的
は︑あくまでも新文化の摂取であって︑政治制度の研究ではなかった︒今も中宮寺に伝わる痛暴︑麟ゐ鞭ち幌の中に︑
せ けんこ け ゆいぶつぜ しん生前の太子が常に口にしていたという﹁世間虚仮︑唯仏是真︵世の中はすべて虚しいが︑唯だ仏のみが真実であ
る︒︶﹂の文字が残っている︒
太子についてはその出生をはじめとして︑種々な伝説的要素が附加され︑事実以上に偉大な人物にされているき
らいがある︒しかしこの八文字に示される︑太子の仏教理解は事実で︑しかもそれが太子の人間性を最もよく示す
ものではなかろうか︒
みなぶちのしようあん たかむこのくろまろ 太子によって派遣された︑学問僧には景法師がおり︑留学生には南淵請安︑高向玄理らがおり︑前者は二四年
間︑後二者は三〇年間︑それぞれ中国に在留し︑中大兄や鎌足らが蹴起する十年前ないし五年前にそれぞれ帰国し
た︒彼等はその専門とする学問の他に︑中国において階から唐への王朝の交替を眼のあたり見てきた︒何よりも壮
大な唐王朝の完備した国家体制を見てきた︒帰国した彼等の周囲には︑恐らくその新しい知識や異国の偉容に憧れ
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大化改新の虚構と真実
て︑多くの人が集まったと思われる︒先にも記したが︑中大兄や鎌足は法安の教えを受けるために日夜通学してい
たようで︑入鹿も重たその中に加わっていた︒恐らく皇族や豪族の若い子弟が︑そのような所に通うことが当時の
流行であったのかもしれない︒それはまた中国の新文化摂取に対する︑日本人の選択がすでに日常的な物品から︑
書物を通じての政治や道徳等の精神的分野に変っていったことを示すものである︒
そしてそのような集団の間では︑律令による中央集権体制や︑その具体的な政治機構や官僚制等について︑それ
を日本に取入れた場合における構想等が密かに語られたであろう︒
国家権力の統一とその強化のためには︑それと平行した︑国家財政の確立という経済的側面も考慮されなければ
ならない︒そのために構想されたものが︑私地私民の制を廃止しての公地公民制の採用であり︑公有化した土地の
耕作のためにとられたのが︑唐の均田制に模倣した班田収授法であり︑さらに租庸調という︑国家自からが徴収す
るところの新税制だったのである︒
中大兄らの武力による蘇我氏の討滅に対しては︑何らの反撃もなかった︒他の諸豪族も︑蘇我氏の専横の結果︑
その滅亡を当然のことと考えたのであろう︒
かるのみニ 皇極天皇が退位し︑軽皇子が即位して孝徳天皇となった︒かねて皇太子の地位にあった古人大兄は辞退して即位
しなかったばかりでなく︑その地位をも中大兄に譲った︒宮廷から身を引いて吉野にかくれたこの古人大兄は︑後
に陰謀の企てがあるとして︑中大兄の攻撃を受けて殺された︒何となく権力争いの影を感ずるのであるが︑当時の
権力ある者の間には︑そのようなことがしぼしばあったと思われる︒
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二 改新の事実とその意義
うちりおぺ おおおみ おおむらじ さて中央においては新たに左大臣︑右大臣︑文臣を置き︑従来の大臣︑大連は廃止された︒また景法師と高倉玄
理が新設の国博士に任ぜられ︑政府の最高顧問となった︒左右大臣には阿部倉梯麻呂︑蘇我倉山田石川麻呂がそれ
ぞれ任命されたが︑これは従来の豪族勢力を代表するものであった︒内訳には中臣鎌足が任命されたが︑これは裏
面にあって天皇を補佐するものであった︒ともかくこの新しい官制により︑それまでの諸豪族の宮廷における地位
ぶ少くとも天皇︑皇太子と同一線上にではなく︑その下位の官僚の一人として組込まれたことは皇室の権威を高め
るとともに︑後の律令にもとつく官司制のいとぐちをなすものであった︒
その後天皇は東国と大和の六県︵共に皇室の直轄地が多く︑皇室との関係が密接であった︶に国司︵くにのみこ
ともち︑といい︑令制による国司とは性質がちがう︶や使節を派遣し︑戸籍の作製と︑検地とを命じている︒これ
は来るべき班田と︑新税制の施行に対する準備のためであった︒そしてそれは当時の政府の力をもってしては︑全
国にわたって一挙に改革を行うことが到底不可能であったから︑最も行いやすい直轄地を手始めに︑少くともその
準備を開始したのであろう︒はじめて大化という年号を立てたのもこの年である︒
そして翌大化二年正月に︑張力条の内容をもつ改新の詔が出されたと﹃書紀﹄は記している︒その詔の内容と性
格については︑先にかかげた二つの教科書がそれぞれに記している︒
つまりこの改新の詔は全部が書紀の編者がその後の政治の実際を参考にして作り上げ︑大化改新という事実を修
大化改新の虚構と真実
冠しようとしたものである︑とする説もある︒そこまではいわず︑あれほど細かい規定を含まないまでも︑ともか
く改新の詔の原形ともいうべきものの存在は認めるが︑大部分は後世の大宝令の規定を用いて書きかえたものでは
なかろうかという説もある︒
それではなぜそのような矛盾点を指摘することができるのであろうか︒それは第二項の行政区画について記した
ニおり さと こおりのみやところに郡と里とがあり︑郡に郡司を置くとあるからである︒なぜならば大化以後の今日に残る文書の中には︑ ニおり郡の文字の代りに﹁評﹂の字を用いている場合が多いので︑行政区画としての郡に﹁郡﹂の字を用いるのは大化よ
りずっと後になるからである︒つまり改新よりずっと後の文字の用法が改新の詔に出てくるのはおかしい︑という
のである︒
このような疑問は津田左右吉博士らの学者によって︑早くから指摘されていたのであるが︑昭和四一年=一月︑
その疑問の正しいことが事実によって証明された︒というのは同年同月︑藤原京趾の発掘調査の過程で沢山の木簡
が発見された︒藤原京というのは持統︑文武︑元明の三代︑つまり平城京に都を遷すまでの︑三天皇の都のあった
ところで︑少くとも大化改新からは五〇心ないし六年余年をへだてている都である︒木簡というのは︑薄い木片 みつぎで︑紙の代りに︑今日いうメモ用紙として用いられたものである︒その中に︑地方からの調に添付したと思われる
ものがあり︑明らかに﹁郡﹂と記すべきところに﹁評﹂の字を記したものが複数発見された︒これは奈良時代に入
り︑大宝令が制定されるまで︑一般には﹁郡﹂の文字の代りに﹁評﹂という文字を用いていたことを事実をもって
証拠づけるものであった︒したがって大化年代に︑すでに郡の字が使われていたかのように記す︑改新の詔はおか
しいということになるのである︒
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つぎに第三項に田の広さについての規定があるが︑三六〇歩を一段︑一〇段を一町とするというのは後の大宝令
の規定である︒︵大宝令は現存しないが︑養老令の規定によってその内容を再現することができる︒︶そうするとこ
の点からも改新の詔はおかしいということになる︒.しかし疑点はいろいろあるが︑あれほどの内外の危機を痛感した新政府の当局者が︑蘇我氏滅亡後六ヵ月もすぎ
た年頭に当り︑新たな施政方針について何も明らかにしなかったとすると︑それもおかしいことで︑少くとも唐王
朝の中央集権制度にならった新しい国家体制の構想︑そのために必要な公地公民の制と︑それにともなって必要と
なる︑諸処置の概要についてはこれを表明したと思われる︒
しかしそのような新しい政治方針が実施されるためには︑それらを細部にわたって規定する令の制定をまたなけ
ればならない︒最初の令といわれる近江令にしても︑その制定までには二〇余年︑大宝令までは実に五〇余年を要
きよみ はらしている︒その間に飛鳥浄御盛令のあることも知られているが︑これら令の度々の改変はわが国における唐制を模
範としながらも︑実際の体験をふまえ︑国情に適合するように行われたものであろう︒そうすると近江令までの
間︑具体的にどのように改新の政治というものが行われたかは分らない︒少くとも大和や東国を手始めに︑それま
での制度を本にしながら︑徐々に新しい制度に切換えていったのであろう︒
大化改新といって︑やや誇大にその革新性が強調されてきたきらいがあるが︑変革の事実はこのようなものであ
った︒しかし少くとも成文化された規定にもとづいて政治を行い︑血縁と地縁とで結ばれた集団による政治から脱
却し︑近代的な官僚制度を指向した点は画期的なものであり︑従来︑貴族や豪族が直接支配し︑政府の支配の及ば
なかった土地と人民とが︑形式的にもその支配下入り︑政府の手で貢租を徴集するようになったことは大きな変革
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大化改新の虚構と真実
であった︒
しかしこれによって民衆が︑すべて貴族や豪族の隷属下から解放され︑平等な地位を獲得したと考えるのは誤り
で︑天皇の地位がそれによって専制的性格を帯びるようになったのでも︑また皇族や豪族がその社会的地位と経済
的地位を失い︑民衆と同じ立場に立つようになったと考えるのも︑同じように誤りである︒それは改新の目的が民
衆の立場を主とした社会的改革を目指したものではなく︑国家的立場に立った政治的改革で︑民衆生活の実際はこ
の改革によって大きく変化することはなかったからである︒
改新の最大眼目は︑公地公民制とそれにともなう班田収授法とである︒そしてそれが唐の制度に刺戟されたもの
であることはいうまでもない︒しかしだからといって成立直後の新政府の実力で︑長い間︑世襲的に保有してき
た︑貴族と豪族の実大な私有民と私有地とを︑一片の法令で政府に集中することが可能であったろうか︒むしろ新
政府当局老がその不可能を知り︑実施した場合の多くの反撃を予想したからであろう︒政府は予かじめ公地公民制
じきふの実施と同時に塩江の制を約束した︒食封というのは一定戸数が政府に納めるべき貢租の一部もしくは全部を︑貴
族豪族の地位に応じて与える制度である︒後に彼等は新しく整備される官制の下で︑新たな官職にもついた︒この
改新によって貴族︑豪族の地位にも権力にも変化がなかったと記したのはこのためで︑このような補償措置があっ
て︑はじめて公地公民制はその緒についたのである︒
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三 新政の破綻
班田収授法の施行にあたり︑果して為政者は彼等が範とした︑唐の均田制なるものが︑どのような目的で制定さ
れ︑実際にどのように運用されているかの実態を︑詳細に研究したのであろうか︒またそれをわが国に採用した場
合中国とわが国土とのちがい︑四年毎の班田にどのような手数がかかり︑当時の政府や地方官の行政能力で︑それ
を行うことができるかどうかを検討したことがあるのだろうか︒
唐の均田制をひたすらに聖人の法のように考え︑その成否を度外視し︑ただその実施だけを急いだということは
なかったのであろうか︒実施後班給すべき田の欠乏に悩み︑規定通りの班田を実施することができないという事態
が︑たちまちのうちに生じたということからも︑そう考えられるのである︒
人間の土地に対する︑わけても私有地に対する執着はきわめて強い︒まして近代的産業の勃興以前︑農業を主と
する時代においてはなおさらで︑歴史は土地に対する政策の歴史であるともいえる面をもっている︒公地制とい
い︑班田制といっても︑その根本はこの人間︑わけても農民に特有な︑私有地に固執する伝統的精神に真向から対
立するものである︒ そうたく このような人々の私有地に対する強い欲求は︑班田制の施行後において︑山林藪沢の開拓をさかんにし︑それが
班田の不足を補うものとして奨励もされた︒そして新しい墾田は︑種々な経過はあったが︑やがて永久私有を認め
られ︑土地公有の原則と背馳するようになった︒山林や荒地の開拓の労力と資力とは︑一般民衆がもち得るもので
はなかったから︑いきおいそれらの事業は権力者や寺社の手に委ねられ︑結果として︑それらが広大な私有地を所
有することになった︒それらがやがて荘園に変質し︑そこを経済的基盤とする貴族や武士によって︑時代は大きく
変っていく︒
大化改新という画期的な土地制度の創始は︑またその反面︑このような矛盾をもたらす要因を内包していたので
ある︒
大化改新の虚構と真実
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