『哲学詩集』 第二回
その他のタイトル Tommaso Campanella, Poesie Filosofiche, tradizione di SAWAI Shigeo, Numero 2 .
著者 トンマーゾ カンパネッラ, 澤井 繁男
雑誌名 關西大學文學論集
巻 66
号 2
ページ 1‑22
発行年 2016‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/10762
一﹃哲学詩集﹄第二回︵澤井︶ ﹃哲学詩集﹄第二回
トンマーゾ・カンパネッラ著
澤井繁男訳
9 自己愛についての驚くべき発見
自己愛のせいで人間は軽信となり万有も星も︑みなぼくたちより強くて美しいにもかかわらず︑感覚も愛も持たないとされて︑ぼくたちのためにだけ回転していると信じられてしまっている︒
さらにそのため︑ぼくたち以外のほかの者たちは野蛮で無知であり︑神はその者らを見つめず︑聖職にある者だけに目を向け給うとその者たちは信じて︑とうとう自己愛に陥ってしまう︒
二關西大學﹃文學論集﹄第六十六巻第二号
労苦を厭 いとうて知識を避け︑世界が自分の思いに叶わないと見るや︑神の摂理︑もしくは神の居給うことすら否定する︒
こうしてひとは狡智を知とはかって背徳者となり︑ひとびとを支配しようと新たな神々を創る︒ついに自己を宇宙の創造主と断言してしまう︒
︿解題﹀
されている︒ 森羅万象に感覚がない︑と信じ込ませる自己愛を批判していることからも︑カンパネッラの汎感覚主義が強く打ち出 ﹁ 8世界の諸悪の根源﹂の最終連で断罪された〝盲目的自己愛〟をくわしく詠んでいる︒第一連で︑星も含めて
第四︑五連は︑︿申命記﹀第四章
にいるすべての民に分け与えられたものである﹂と︒ 星といった天の万象を見て︑これらに惑わされ︑ひれ伏して仕えてはならない︒それらは︑あなたの神︑主が天の下 19を下敷きにしていると思われる︒つまり︑﹁また目を上げて天を仰ぎ︑太陽︑月︑
10 自己愛と普遍的愛を較べて
この自己愛には嫌気がさすものの︑生きんがためやむをえず︑ひとは︑思慮深く︑善良で︑勇敢であるふりをする︒
三﹃哲学詩集﹄第二回︵澤井︶ この三つの装いのせいで身の破滅を招き︑ついに改心するのである︑︵誉れは純粋な言葉にあり︑黄金は輝くけれど︑ひとの辛苦は隠せず︑むなしいもの!︶
他人の徳に感ずる嫉妬心は︑自己批判のかたちで還ってきて︑屈辱︑破局︑労苦へと自己愛を公然と貶 おとしめ︑焙 あぶり出してしまう︒それに反して神の普遍的愛にいたっているひとたちは︑ひとびとをみな兄弟とみなし︑神とともに善なる歓びにひたる︒
聖フランチェスコよ︑あなたは︑魚や小鳥をも同朋と呼び︵おお︑これを知るひとこそ幸いかな!︶︑ぼくたち凡人とちがって︑
あなたはいつもにこにこして︑気がつけば︑動物たちの言葉にも耳を傾けている︒
︿解題﹀
託している︒ 自己愛が嵩ずるとやがて国家間での﹁嫉妬心﹂を煽り︑戦いがはじまって国が滅ぶ原因になることを︑この詩に暗に 者を︑聖フランチェスコを例に称えているソネットである︒カンパネッラは︑革命を企図するくらいの人物だから︑ ﹁proprio amorecomune amore9﹂に続いて自己愛を論難するにあたって︑神の普遍的愛を持ち出してきて︑後
一方︑普遍的な真の愛とはまさに神の愛であって︑国より世界を︑換言すれば︑自己よりも故国を価値あるものと
四關西大學﹃文學論集﹄第六十六巻第二号
見ている︒聖フランチェスコを登場させることは︑聖人の生き方が︑文字どおり︑権力でなくて愛と純真のためだったからである︒
11 至上の善である神を愛さず他の善を愛すのは︑無知に理由がある
神がぼくたちにいのちを授けて下さるなら︑それを保ち︑善行は神の御意しだいである︑だから神の愛でしか人間の心は燃え立たない︑
でも妖 ニンファ精のほうが︑男を手なずけるのはうまいだろうか?哀れで傲岸な無知ゆえに︑神を冒 おかし︑善行でこじつけて神を売りわたす者は︑未知の事物に愛情を傾けず︑意気消沈して︑精神的に卑劣になる︒
たとえ騙 だまされても︑真心はのこして︑相手にはわたさない︑卑屈に従いもしない︒神はぼくたちに善の光線を垂れ︑みなの行く手を照らして下さる︒
しかしぼくたちはひとを欺 あざむき︑苦しみを与える︵ああ︑いまいましい!︶ぼくたちは実りある気高い希望も抱かず︑永遠不変の意味もわからずにうめている︒
五﹃哲学詩集﹄第二回︵澤井︶ ︿解題﹀
表題中の﹁他の善﹂とは誤 あやまてる宗教を称える善のことであろう︒それは無知に原因があって︑神を知らず愛してもいない︒人間の善悪以前の問題である︒カンパネッラの三つのプリマリタ︵力︑知︑愛︶の形而上学によると︑これら三つは同価であり︑神を知 0らずして神を愛 0する能力 0はない︑とされている︒したがって︑﹁無知﹂の効能というものがあるとすれば︑愛の目標は︑死すべき卑しい事物を愛すように︑人間を愛すことであろう︒愛のめざすものは︑不滅な︑神的な恒久の美にあるのだから︒
12 賢人であることの好運
大いなる好運とは︑持てるもののなかで最大なもの︑叡智である︒賢人は満足ということをわきまえている人士を指す︒
彼らの出自は卑しいものだが︑生地の名を挙げる驚嘆すべき定めを負っている︒好運を求めて苦難を嘗 なめると︑名が知られ名声がとどろく︒殺されたときに︑みなに崇拝される聖人になれたり神格化されたりするが︑歓びを浪費すると愚者におちぶれる︒
なぜというに︑賢人には愉悦や倦怠は気晴らしにすぎないからだ︒恋人同士には歓喜と悲哀と思えようが︑
六關西大學﹃文學論集﹄第六十六巻第二号
妖精にとって︑なんとそれは切ないことか︒
人生の困難な歩みは無分別な人間が背負う不幸で︑みじめな炎を消して︑悲しく歩んでいく︒
︿解題﹀
賢者や賢人が不幸であることはなく︑さらにあらゆる不幸は彼らにとって好運となり︑倦怠や歓喜も同様に好運のもとになっている︒だが無知な者は不幸にみまわれるとすぐに乱脈となり︑好運であっても以前よりも不幸になる︒あらゆる出来事で愚鈍と無能振りを見せてしまう︒
賢者と愚者の歩む人生や︑好運と不運の関連を︑﹁知﹂を第一義とするカンパネッラの立場から詠っている︒
13 古代のひとたちのなかで賢者の知力を受け継がない思慮分別は︑ 狂人の狂気に屈する︑ということ︒
ある土地でかつて会った占星術師らが言うには︑人間どもが夢中になっている星位表が︑健康人︑次に負傷者を救 たすけるため︑逃避の相談役を担ってきたという︒
その後統治者の館に戻って︑占星術師は狂人になるまえの生活習慣を称讃し
七﹃哲学詩集﹄第二回︵澤井︶ 狂人どもを説き伏せようとした︒
でも彼らはみな耳を蝋 ろうで固め︑拳 こぶしを当てて訊く耳を持たなかった︒こうして賢人は︑死を跳ねつけるため︑愚者どものしてきた生き方で生きようと努めた︒それは最悪の愚人が︑支配者という過酷な任務に当たるからである︒
賢人たちは思慮分別をわきまえて独立独歩で生きてきた︒公 おおやけのまえでは他人の名をじっさい誉め称えながら︑狂人を装って過ちを犯そうとする︒
︿解題﹀
古代の賢人の寓話のなかに︑わが身にふりかかった事件は︑陰謀の最中やその後も︑狂人の振りをするのが救かる道だとある︒このソネットは革命蜂起が未遂に終わって獄舎につながれたカンパネッラが︑最後の拷問の直後︵一六〇一年︶に詠んだものであろう︒なぜならカンパネッラはずっと狂人を装って死刑をまぬがれ得たからである︒
世界が悪のせいで正気を失っていく際に︑賢人たちは︑世界を改善しようと思いつつも︑あえて狂人のような言葉を吐き︑行ないをしなくてはならない︑という逆説的な寓話が存在するのである︒
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14 人間は神や天使たちの舞台道具である
仮装の世界劇場では肉体から出離した霊魂と︑肉体の想いの込められた霊魂こそが見せ場の究極である︑
自然や神の御業でも成り立っている︑この世に生を受けた者みなすべてには訴えるものがある︒舞台で作品が上演され︑合唱がつぎつぎに続く︒
歓 コンメディア喜と苦悶に身を包んで喜劇を書くことで︑運命の書が整えられる︒神が万民に歓びを与えるために満を持して書かれるもののほかは︑何も知りたくないし︑認めたくないし︑したくもないし︑耐える気力もない
そのときついに舞台道具と化して悪行にいたった際︑仮装は大地や天空や海に戻ってしまって︑神におもねるひとが浮かび上がってくる︒
九﹃哲学詩集﹄第二回︵澤井︶ ︿解題﹀
肉体が霊魂の仮装︵仮面︶であるとカンパネッラは主張している︒肉体はいちばん大切な仕事をするのでなく︑舞台上の人工的な役を果たすのである︒
いろいろな仮装が馬脚をあらわしてくると︑生きた光である神には︑みなお見透しとなってしまう︒負の想にかられる者は善行をするし︑最後の審判に描かれる︿喜 コンメディア劇﹀の知識を待ったり︑和解を必要とする者も現われたりする︒
遣わした理由が︑パオロをはじめとしてわれわれが︑世界・天使・人間という役者になるためだから︑となっている︒ 存在を意義づけている︒︿コリント信徒への手紙一﹀の第四章と第九章の内容を汲み取ると︑神が役者として使徒を ︿世界劇場﹀を持ち出してきて︑人間界が一舞台であり︑役者が人間だとすることで︑それを統べる神の透徹した
︿世界劇場﹀の︿世界﹀はむろん︿宇宙﹀と同義である︒
15 人間とは︑政治的支配の理法よりも偶然に従うが︑ 自然を模倣するのは稀である︑ということ︒
自然は︑神のお導きにより︑世界芝居を宇宙空間で成り立たせている︒そこでは︑星や人間や動物たち︑それに諸々の事物がみな交替で役をこなしている︒
芝居がはけると︑︵品定めをするように︶︑審判官たる神は︑芝居の良し悪しも︑公平不公平も判断する︑人間の芸が正道にあって︑