• 検索結果がありません。

新島襄の米欧教育制度調査と文部省『理事功程』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "新島襄の米欧教育制度調査と文部省『理事功程』"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

新島襄の米欧教育制度調査と文部省『理事功程』

著者 大越 哲仁

雑誌名 新島研究

号 109

ページ 65‑91

発行年 2018‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000250

(2)

文部省『理事功程』

大 越 哲 仁

はじめに 本論考の目的

本論考では、新島襄の岩倉使節団への参加と米欧教育制度視察、そして文 部省『理事功程』草稿の執筆が、

1)明治初期の日本の教育にどのような影響を与えたのか、そして、

2)新島のその後の志と実践にどのような影響を与えたのか を可能なかぎり明らかにしたい。

なお、筆者は過去に「『理事功程』と新島襄」と題する論考を発表してい るが1)、本論考はその論考を発展させたものである。また、先行研究につい ては文字数の制限の関係で冒頭には取り上げず、本文において適宜触れるこ ととする。

序 新島は犯罪者か?

本論考において、私は、新島が明治初期の日本の教育に貢献した事実を論 じようと思うが、現代の大学関係者においては、新島がいかに日本の教育に 貢献したとしても、しょせん彼は海外渡航禁止令という国禁を犯した犯罪者 ではないか、という気持ちが強いようである。それは他大学だけでなく、同 志社大学の学生や教職員の一部においてもそのような認識がある方がいるよ うに私は学内の方からうかがっている。しかし、そのことを敷衍すると、同 志社自体が犯罪者によってできた学校法人という極めて不名誉な話になる。

果たして本当だろうか。

この点をまず明らかにしないと、現代人にとって新島の日本の教育に対す

(3)

る貢献が正しく認識できないが、先行研究をみても、この点についてはほと んど言及されたことがない。それ以上に、同志社自体が、新島の国禁を犯し た海外出国を単なる「海外渡航」という表現に言い換えて、ともすれば新島 に想起するかもしれない「犯罪臭」を消すように努めている。

しかし、「海外渡航」という表現だと「海外旅行」とほとんど同じであっ て、彼の命がけの出国の決意や情況が正しく伝わらないきらいがある。

たしかに新島は1864年7月17日(旧暦元治元年6月14日)の夜半に箱 館港から米国船ベルリン号に乗り込み、翌朝、同船は出航。彼は1635(寛

永12)年から続く幕府の海外渡航禁止令に違反して出国している。それは

事実である。

それでは、その新島は、自分が法を犯して出国した、という罪の意識があ ったのだろうか。

実は彼は、アメリカ滞在当初はその意識があったが、日本で明治維新が起 こり、新政府ができたところでその意識は無くなっている。

岩倉使節団参加の1年前の1871年3月、新島はワシントン駐在少弁務使 森有礼と出会い、森から、「自分は誰で、アメリカで何を学び、帰国後に何 をしたいのか」を述べた手紙を日本政府に宛てて書けばパスポートをもらっ てあげよう、と提案された2)

この内容は、フリント夫人に宛てて書いた新島の書簡にある文章だが、パ スポートを得るための条件に関するポイントとしては極めて重要な意味があ る。その意味とは、日本政府宛てに書くべきものとして森が新島に指示した 項目に、新島が旧幕時代に行った海外渡航禁止令違反に対する謝罪がすっぽ り抜けていることである。

実際に、彼が政府に提出した「請願帰朝之書」では、新島は、至愚(自分 の卑称)は元板倉主計頭の家来であり、元治元年に洋学を志して箱館に行っ たが、そこには洋学者もおらず、西洋人は利に走る商人ばかりで大いに失望 したが、同地で「國を憂へ民を愛するの志益憤起し且五大州を歴覧せんとの 望益擴張」したために「恐多も國禁を犯し且身の不肖をも不顧」、ひそかに アメリカの商船に乗り込んだ、と述べた後、森から言われた通り、自分はア ンドーヴァーのフィリップス・アカデミー、ついでアーモスト大学に進学し

(4)

て「文法算術歴史窮理書本草學点算度量測地學地理天文セーミ擦地學(地質 學)礦物学等」を修め、さらにアンドーヴァーの「眞理學館」へ入学し「當 時至大至妙天地万有の造物者乃獨一眞神の眞理及びパレスティン國の古史を ひ(し)らへ傍らグリーキ語」を学んでいる、と自分がアメリカで学んだ学 科を述べる3)

そして、自分が帰朝の後は、「至愚兼而學得し學術眞理を有志の子弟に傳 ん事至愚の望む所」だとして4)、帰国後は習得した洋学とキリスト教を教え たい、との希望を表明する。

そこから続く新島の言葉が注目される。

「国家一新し 天皇頗賢明傑才を擧用し草蘆の士ニ至る迄も盡く其所志を 得其所長を呈するを得し」は至愚の歓喜雀躍せざるを得ず、しかし、「若し 明朝〔聡明な朝廷が〕舊例ニ依り至愚の國禁を犯し皇州を脱奔し米國へ渡航 せしを以て至愚の身を加刑し賜らば 明朝至愚の丹心を不知と可申」、また、

帰朝が認められた場合にも、「朝命を以て可東西と使役し賜らば是又至愚の 甘んずるところに非す」、臥して願くは、「草莽の士を以て相接し至愚をし而 不羈之士とならしめ至愚の存意ニ順ひ東西し兼而學ふ所の術攻むる所の道を 以て有志の子弟ニ伝へ候ハ丶至愚ニ於而足矣」5)と述べるのである。

新島は、明治維新によって国家が一新した今、新政府がもし幕府時代の旧 例によって私に刑罰を加えるのであれば、それは私の真心を知らないことと いうべきだ、と諭すように語った上に、帰朝が認められた暁には、自分は政 府への出仕に甘んじるつもりはない、自分は草莽の士(民間人)として、独 立した自由な「不羈之士」として自分の意思に従い、学んだ学と修めた真理 の道を子弟に教えたい、と自分の帰朝後の希望を憚りなく述べるのである。

新島はこの手紙で、明治新政府が旧幕時代の海外渡航禁止令違反を問うべ きではない、と主張しているのである。

彼の論理があながち無茶ではないことは、このような謝罪の意を欠いた手 紙を新島が送っても彼が留学免許状とパスポートを得たこと6)から理解でき る。森が明治政府に提出した新島のパスポートを斡旋する文章にも「同人儀 脱走ノ節ハ御国内未タ渡海ノ規則モ一定不致、総体御一新ノ罪過ハ科ニ因リ 御赦免相成候義ニ付...免状御渡相成候義ハ強テ差支リモ無之哉ト存

(5)

候」7)とある。

この中の「〔新島の〕脱走ノ節ハ御国内未タ渡海ノ規則モ一定不致」とい う言葉が何を指すかというと、その時点では既に米・露・英・蘭との和親条 約(1854〜5年)の締結、さらには安政の五ケ国修好条約の締結(1858年)

によって日本と米・露・英・蘭・仏との間は条約国としての関係が成立した のにもかかわらず、日本人の渡航に関しては規則がまだ整っていなかった、

ということである。

それ以上に重要な文言は、「総体御一新ノ罪過ハ科ニ因リ御赦免相成候」

である。明治維新に関わる罪科は定めによって全般的にご赦免になっていた ので罪に問えない、という論理であった。

新島のパスポートを斡旋した森自身が、1865(慶応元)年に薩摩藩ぐるみ で国禁を犯してひそかに密航した同藩の密航組19名の一人であった。森等 は幕府の警戒の目をくらますために変名を使い、長崎からではなく、薩摩串 木野の羽島からひそかに出立している8)。明治政府の要職に就いた伊藤博文 や井上薫等長州藩の三名も1863(文久3)年に国禁を犯して密航したが、こ の時長州藩は、海外渡航を禁じる幕府の手前、「幕府へ御申立にも難相成候 間右〔海外留学の〕内願之趣御許容難被仰付候」として「右三人共五ケ年之 間御暇被下」という扱いとした9)

それでは、厳格な法学的知見から考えるとどうなるであろうか。

実は、法学的知見からいうと、まさに新島の解釈こそが正しいのである。

周知のとおり、明治政府は王政復古のクーデターによって成立した政府で ある。そしてクーデターによる政府において、前の政府が定めた法律の継続 性如何に関しては、もはや国内法の範囲ではなく、国際法の知見が必要であ る。そして、その知見によれば、クーデターによる政府は、その成立にあた って法の継続性が破られる10)。だから、そのために旧政府との条約締結国は 新しい政府に対して政府承認を行う必要があるのである。実際に、条約締結 国は、戊辰戦争の際は新政府と旧幕府軍との間で局外中立を宣言した後に、

明治政府に対して政府承認を行っている。

新島が1864年に違反した幕府の海外渡航禁止令については、明治新政府 がその効力を追認すれば別だが、実際には、新島の脱国の2年後の1867

(6)

(慶応2)年に幕府自身が学術修業および貿易のための海外渡航を許可して いる。そのために新政府が追認しようにもその禁止令自体が無効になってい るのであった。禁止令自体が無効になっても、それが有効だった時期に罪を 犯せば、そのままでは犯罪者のままである。しかし、明治新政府が成立した 時点で、幕府の定めた法令の継続性が破られたので、罪自体が消滅してしま った。

したがって、法的見地から言っても、新島は、1864年に幕府の禁令は破 ったが、新政府成立とともに旧幕時代の罪が消滅してしまい、罪から解放さ れて犯罪者ではなくなっていた。

現代に生きる我々がもし、自分が過去に行った海外旅行に関して役所から

「あなたの出国は江戸時代の海外渡航禁止令違反です」と言われたらどうで あろう。「そんなことを言うとは、なにかの冗談ではないか」と思うに違い ない。新島の場合は、このケースと全く同じなのである。

結論として、新島の名前の変遷の時期に沿って言えば、旧幕時代の新島七 五三太は1864年に幕府の禁令を犯して犯罪者となった。それは、「未タ渡海 ノ規則モ一定不致」事情もあった。しかし、明治維新によって新島七五三太 は、その問われるべき罪自体が消滅してしまった。だから、岩倉使節団に参 加した時点はすでに犯罪者ではないし、帰国直後から用いた名前としての新 島襄についていえば全く犯罪者ではない。

今後、新島の1864年の海外脱出について略歴として書く場合は、「1864 年7月(元治元年6月)、幕府の禁令を犯して出国(同禁令は2年後に幕府 によって解除され、明治政府成立とともに幕府の禁令違反の罪自体が消 滅)」とするべきであろう。

1.新島の岩倉使節団への参加と米欧教育制度視察、そし て文部省『理事功程』が、明治日本の教育にどのよう な影響を与えたのか

まず、新島襄の岩倉使節団への参加と米欧教育制度視察、そして文部省

『理事功程』草稿の執筆が、明治初期の日本の教育にどのような影響を与え

(7)

たのか、ということについて論じたい。

1)尾形裕康著『学制成立史の研究』

新島の明治日本の教育に対する影響について、早稲田大学教授で教育史学 会の常任理事を務めた故・尾形裕康氏が著書『学制成立史の研究』で次のよ うに論じたことは比較的知られていることである。

「学制」制定に当たって、早くからその軌道を敷いた江藤新平・フルベ ッキ・森有礼らをはじめ、政府当面の責任者文部卿大木喬任・文部大丞

(〔明治〕04年10月12日任命)田中不二麻呂、その他「学制」立案に 当たった箕作麟祥以下十余名の文部省関係官(「学制取調掛」)の精進が あった。このほか日本の教育近代化をめざし、民間人として、思想上大 きな影響を及ぼしたのは福沢諭吉〔脚注略〕である。また海外にあって

「学制」制定と、それ以降のわが教育制度改革のために貢献したのは新 島襄であった。

新島の貢献は大要二大別して考察されよう。その一はかれがアメリカ に渡ってから、明治4年3月森弁務使と会談するまで約7ヵ年間、アメ リカ教育制度−とりわけ小学校教育−を調査研究した蘊蓄を、森の要請 に答えて示教し、かつその高邁な教育に関する所見をひれきしたことで ある。森はこれを文部省の「学制」調査関係者へ刻々報告した。さらに 文部理事官田中不二麻呂らの強い要請で、かれの私設顧問の資格で5年 3月以降6年1月まで行を共にして、アメリカ・ヨーロッパ諸国を巡行 し、教育制度の調査研究に従事した。かつ膨大な関係資料を新島はみず から収集し、これを翻訳し、所見を加えて整理、編集の上、草案を執筆 した。これを田中が帰国後、清書せしめ、報告書として提出したのが

『理事功程』全15巻である。これは明治前期学制制定や改革の基礎資料 になった。これ田中が「明治教育制度の基礎はほとんどかれによって据 えられた」といわれるゆえんである(大隈重信・日米両国の歴史的友誼

(新日本第1巻第8号))。

その二は明治7年11月新島がアメリカから帰国後、平素口のはにし

(8)

た「日本を改革するに2個のダイナマイト(爆裂弾)あり、即ち学校と 教会なり」(石橋正治・新島先生言行録50-51ページ)との素志を貫い て、キリスト教主義の同志社を創設し、教育家として不朽の功績を残し たことである。11)

この尾形氏の記述によると、新島の明治日本の教育界への貢献のポイント は次の3点である。

①新島は、「アメリカ教育制度−とりわけ小学校教育−を調査研究した蘊 蓄を、森の要請に答えて示教し、かつその高邁な教育に関する所見をひ れきし」、それが「学制」制定に影響を与えた。

②新島は、田中不二麿と共に米欧を巡行し、かつ「膨大な関係資料を新島 はみずから収集し、これを翻訳し、所見を加えて整理、編集の上、草案 を執筆した」。それを田中が帰国後に清書して提出したのが『理事功程』

全15巻であって、「これは明治前期学制制定や改革の基礎資料になっ た」。

③アメリカから帰国した新島は、「日本を改革するに」学校と教会という

「2個のダイナマイト」が必要であるとのモットーからキリスト教主義 の同志社を設立し、教育家として不朽の功績を残した。

尾形氏のこれらの主張は、同志社大学外かつ教育史の権威によるものであ るために、同志社においても一時期大きな影響力を持った。特に、新島が文 部省『理事功程』15巻全巻の草稿執筆者であるとの論拠とされた。

しかし、これらの議論は、『新島襄全集』(以下、『全集』)刊行前の資料に よって為されたものであって、「学制」に対する新島の影響に関しては、今 日、『全集』1(教育編)を見ても、新島がアメリカの小学校教育に関して書 いたレポートは収録されていない。

『理事功程』の草稿についても、『全集』1にドイツ編の草稿はあるもの の、そのほかの国の草稿は無い一方で、同書に収録されている「ノールウェ ー国」や「スウェーデン」については、『理事功程』には収録されておらず、

(9)

デンマークについては、『全集』1の新島の記述は、「米国内地事務局」の 1872年のレポートの翻訳だが12)、『理事功程』の記述(巻15)は、デンマー クの首都コペンハーゲンの公学校の略記と公学校生徒規則の翻訳であって13)

内容が異なる。

したがって、尾形氏の指摘については、③の同志社英学校の設立という

「教育家として不朽の功績」については間違いなく首肯できるものの、②の 新島が『理事功程』の全ての巻の草稿を執筆したとの記述は誤りであり、① の「学制」制定に関する新島の影響についても、「学制」とはフランスの学 区制に倣ったもの14)という一般常識からいっても疑わしい。

しかし、教育史の権威の主張は必ず傾聴すべきところがあるはずであっ て、検討せずに否定するのは学問的な態度ではない。

そこであらためて、尾形氏の主張の正否を検討することとする。

2)新島は「学制」制定へ貢献したのか

まず、「学制」がフランスの学区制を採用したものであることは間違いな い。

日本の「学制」が全国を8大学区に、各大学区を32中学区に、各中学区 を210の小学区に分けて、それぞれの大学/中学/小学区毎に大学校、中学 校、小学校を1校ずつ設ける計画だったのは周知の事である。一方、『理事 功程』の巻4、「仏国ノ1」によれば、フランスの文部省には、小学寮、中学 寮、大学寮の3寮があり、全国を17の「大学区」に分け、それぞれの大学 区には「大中小ノ学悉ク備ハザル者無シ」15)と綴られている。当時の一次資 料からも日本の「学制」がフランスの学区制を参考にしたものであることは 明らかなのである。

しかし、実は、学校の設置方法についてはフランスに倣ったものの、学校 の科目や小中学校の接続方法についてはフランスでなく多分にアメリカ合衆 国に発達した小学校と中学校に関する考え方が採り入れられていた。

アメリカの教育の考え方とは、小学校を全国民の為の必須の初等教育機関 と位置付けたこと(「学制」第21章)をはじめとして、小学校(尋常小学)

の課程を上下に2分して低学年と高学年に分けたこと(同27章)、その小学

(10)

校の種類の中には貧民学校、慈善学校、村落学校の考えた方に基づく小学が 規定されていたこと(同24、25章)、さらに、ヨーロッパ諸国に発達した伝 統的な中等教育観を取らずにアメリカで発達した近代的な中等教育観に基づ いて中学校を小学校の上に直結して位置付けたこと(同29章)などであ る16)

ところが、学制の起草に携わった「学制取調掛」は、次の12名であって、

米国研究の専門家が一人もいないのである17)

箕作麟祥(フランス法制権威、起草委員長格、開成学校・南校系統)

岩作 純(医学校・東校系統)

内田正雄(オランダ留学経験者、開成学校・南校系統)

長 三州(国漢学者)

瓜生 寅(英学者、開成学校・南校系統)

木村正辞(国漢学者)

杉山孝敏(行政事務担当者)

辻 新次(フランス学者、開成学校・南校系統)

長谷川康(医学校・東校系統)

西潟 訥(行政事務担当者)

織田尚種(行政事務担当者)

河津祐之(フランス学者、開成学校・南校系統)

したがって、「学制」における小学教育や中学との連結に関してアメリカ の影響があるということは、「学制取調掛」のメンバーに対して、アメリカ の教育制度に関する情報を提供し、それを日本の普通教育に関して参考にす べきであるとの提言を行った人物が存在するはずである。

その人物とは、新島襄の可能性が高い。

新島は、岩倉使節団がサンフランシスコを立ってソルトレークシティーに 滞在中の1872年2月16日、Ephraim Flint宛てに書簡を認めた。その書簡で 新島は、自分はワシントン駐在の少弁務士森有礼から岩倉使節団に対してア メリカの教育制度について説明をするように依頼されて、先週からそのこと

(11)

について勉強していると述べている18)。そして、2月29日に岩倉使節団が ワシントンに到着すると、新島はさっそく使節団に協力するように森から召 喚されて同地へ向かい、途中ボストンのハーディー家に宿泊してマサチュー セッツ州議会の教育局長官ホワイトに面会した19)。もちろん、アメリカの教 育制度調査のヒアリングを目的としたものであろう。

ところが、3月上旬にワシントンの岩倉使節団に合流した新島の主なミッ ションは、田中理事官を支援することと日本の普通教育に関する論考(an essay on The Universal Education of Japan )をまとめることになった20)

これは、彼のミッションがアメリカの教育制度についての説明から日本の 普通教育に対する論考に変更された、というよりも、前者が完了したために 新しく後者がミッションになった、と考えるべきであろう。なぜなら、真面 目な新島のことであるから、ホワイトに面会までして行ったアメリカの教育 制度の調査に関しては、何らかのレポートにまとめて森に提出したと考える のが妥当だし、当時の森は、自ら「日本の教育問題を研究する特別な任務を 帯びてい」21)ると述べていることから、森は新政府の教育制度構築の為にア メリカの教育制度の調査とその知見から日本の普通教育に関して提言する任 務があり、そのために新島にアメリカの教育制度の調査と日本の普通教育に 関する論考をまとめるように依頼したと思われるからである。そして、その ような課題に対して新島が対応を怠っていたなら、彼は森や使節団から信頼 を得られなかっただろうが、実際には強い信頼を得ていることから、新島は 課題について誠実に履行したと結論付けられるのである。

また、新島は、自分が課せられた日本の普通教育に関する論考のことを国 民教育に関する論考(an essay on the National Education of Japan)とも呼ん でいる22)。普通教育とは専門教育前に行う教育のことであるが、必ずしも国 民全般に対して行う教育を指すものではない。一方、国民教育とは国民全般 に対して行う教育のことである。すなわち、新島において普通教育は国民全 般に施すものであるという認識を持っており、このことは極めて重要であ る。

ところで、我々の理解では、「恙ナク国ニ帰ルヲ得バ、必ズ一ノ大学ヲ設 立シ」(同志社英学校設立始末)と訴えたラットランドでの彼のスピーチを

(12)

想起するとおり、新島の関心は専ら高等教育、大学教育にあったように思わ れる。その彼がアメリカの普通教育について研究して、それを元に日本の普 通教育についても提言した、ということはにわかに信じ難い。新島が森から 依頼されたと自ら語ったそれら2つのミッションに対する彼の回答レポート も『全集』1には収録されていない。はたして本当だろうか。

しかし実際には、新島は普通教育についても大きな関心を持っていた。

1872年3月10日付けのハーディー夫妻への書簡において、岩倉使節団にお ける自分の最初の仕事が日本の普通教育についてエッセイをまとめることで あることを報告した際に、それは最も重要な仕事であり、それは使節団に提 出され、恐らくは日本を真理と生命の光に向かって開くのに役立つことにな る、と興奮気味に伝えているからである23)

それでは、新島の日本の普通教育に関する意見とはどのようなものであっ たか。

その一部が当時、新島が田中に語った言葉の中に読み取れる。新島は、次 のように、田中に知性だけでなく道徳上の主義についても教えるべきであ る、と述べるのである。

よい市民であるためには、国家も個人も知的であることが必要である。

〔略〕しかし道徳的に自己を治めるためには知性だけでは十分といえな い。知性だけあって道徳上の主義がなければ、その個人は隣人や社会に 対して益をなすよりは一層害をなすであろう。とぎすまされた知性はよ く切れるナイフに似ている。彼は仲間をそこない、自分自身をほろぼす ことになるかもしれない。〔略〕それ故、そのような破壊的な知性を統 御するための道徳上の主義がなくてはならない。つまり道徳上の主義が あればその人は知性を正しく用いることができるからである。それ故日 本政府は国民に道徳上の主義を教えるように何らかの手段を講じ、だれ かにそれをやらすべきである。24)

一方、「学制」の内容がほぼまとまった時期とはいったい何時なのであろ うか。文部省がまとめた『学制百年史』によれば、「学制取調掛が〔明治〕4

(13)

年12月に任命されたが、その後学制の起草は急速に進められ、翌5年1月 には学制の大綱がまとめられ、さらに細目について立案検討を重ねて、約2 カ月後〔同年3月〕には早くも学制原案が成立したようである」とある25)。 ここで注意を要することは、日本政府は、この年の12月2日までは旧暦 を用いていたため、岩倉使節団や留守政府と新島の関係性を見る場合はすべ て陽暦に換算し直さなければならないということである。

そこで「学制」成立事情を陽暦で見ると、「学制」の原案が成立したのは、

旧暦3月上旬頃であったが、新暦に直すとそれは4月中旬であった。しか も、小中学校にどのような課程を置くか、その立案が容易ではなく、学制原 案には小中学校の科目を記載しなかった26)。小学校の科目が明確にされたの は、1872年9月に公布された「学制」においてであった。したがって、新 島が書いたと思われるレポートの内容を反映されるには十分な期日があった のである。

そして、その「学制」に明記された小学教科は次の通りであった。

〈下等小学教科〉

1.綴字(読并盤上習字) 2.習字(字形ヲ主トス)

3.単語(読) 4.会話(読)

5.読本(解意) 6.修身(解意)

7.書牘(解意読并盤上習字) 8.文法(解意)

9.算術(九九、数付加減乗除但洋法ヲ用フ)

10.養生法(講義) 11.地学大意

12.窮理学大意 13.体術

14.唱歌(当分之ヲ欠ク)

〈上等小学教科(下等小学教科ノ上ニ加フ)〉

1.史学大意 2.幾何学大意 3.罫畫大意 4.博物学大意 5.化学大意 6.生理学大意

(14)

其他ノ形情ニ因テハ学科ノ拡張スル為ニ左ノ4科ヲ斟酌シテ教フルコトアル ベシ

1.外国語学ノ一、二 2.記簿法 3.図書 4.政体大意27)

これを下記に列挙した『仏国学制』(文部省、1873年刊)における小学校 の科目と比較すると、日本の「学制」の小学科目はフランスの学制の影響は あまり受けていないことが分かる。

〈仏国学制〉

下等小学の科目

修身及奉教、読法、書法、仏国語学ノ大意、数学階梯、仏国通用ノ度量 上等小学ノ科目ハ下等小学ノ科ニ加フル左ノ件々ヲ以テス

幾何学ノ大意、実用幾何学ノ大意(就中罫画及測地述)、理学(日用ノ事 ニ関セル部、博物学、唱歌、史学ノ大意(就中仏国史ノ大意)、地理学ノ 大意(就中仏国地理ノ大意)28)

その一方で、「学制」における小学の教科はアメリカの科目の影響を受け ているように思われる。特に、6.修身、10.養生法(講義)、12.窮理学大 意、13.体術〔体操〕については、新島がアメリカの高校や大学で学んだ科 目と科目名が類似している一方で当時の日本では未だ導入されていない科目 であって、新島の影響があったと考えても不思議ではない。

以上をまとめると、新島は森からアメリカの普通教育の調査と日本の普通 教育・国民教育に関する論考という二つの課題を与えられ、それらに対して 誠実に履行した。それらのレポートは新政府の「学制」制定に何等かの影響 を与えた、特に小学科目については、新島の影響があった可能性が高い。

新島の「学制」に関するこれ以上の検討は今後の研究課題としたい。

3)新島の文部省『理事功程』に対する貢献

前述の通り、新島は、岩倉使節団の教育調査チームの報告書である文部省

(15)

『理事功程』全15巻すべての草稿を執筆したわけではない。しかし、彼が草 稿を執筆した部分もある。

筆者の過去の研究29)では、田中と同行したメンバーの分析から、全15巻 で記述されている全9カ国(アメリカ、イギリス、フランス、スイス、ロシ ア、オランダ、デンマーク、ドイツ、ベルギー)の草稿執筆者を検討した。

そしてその結論として、新島が草稿執筆者であるとほぼ断定できる国はアメ リカ、ロシア、デンマーク、ドイツ、執筆した可能性が高い国はイギリス、

スイス、執筆した可能性はあるが疑問も多い国はオランダ、ベルギーであ り、フランスについては、新島は草案執筆にはかかわっていないとした30)。 しかし、既述のとおり、内容論から言えば、2つの文章のみで構成されて いるデンマークについては、新島の書いた草稿と、『理事功程』の記述とは 異なっており、実際にはデンマークは新島が書いたものではなかった。

『理事功程』の各巻には、様々な文章が収められているために、草稿執筆 者を明らかにするには、このように文章一つ一つの分析が不可欠である。

本来は、研究グループを立ち上げて参加者の英知を集結してこれらの分析 を行う必要があるが、私の立場ではそれが行えないため、先行研究を参照し ながら、新島の書き残した書簡や日記類に関する分析によって、『理事功程』

全15巻に収録されている文章に対して、新島がその草稿を執筆したと思わ れるものとそうでないものを仕分けした。文字数の関係でその結論だけを示 せば、次の通りとなる(アンダーラインの文章が新島の執筆と考えられ る)。なお、フランスとベルギーに関してはフランス語の原典からの翻訳で あってフランス語の出来ない新島が関与していないことは明らかなので省略 する。

『理事功程』

巻之一(合衆国1)(1873年12月刊)

合衆国教育略記 其二

麻沙朱色(マサチューセッツ)州教育規則(教育局ノ事/教官集會規則 ノ事/教育元金ノ事/公学校ノ事/学區ノ事/聯區ノ事/教育調理簿ノ

(16)

事/童幼教育ノ事/師範学校/唖院/書庫)

麻沙朱色州学制略記(教育局ノ事/都邑教育局務ノ事/教育金ノ事/都 邑教育費用ノ事)

新約克州学制略記

新約克府大学校〔ニューヨーク市立大学〕略記 新約克州学校統計表

巻之二(合衆国2)(1873年12月刊)

華盛頓(ワシントン)府学校略記 華盛頓府公学規則

華盛頓府公学ニ関渉セル国會ノ布例 可倫比(コロンビア)部立法局新令抜粋 収税ノ新令

加利福尼(カリフォルニア)州学制略記 三方済各(サンフランシスコ)府学事略記 加利福尼州学校統計表 1870年

賓夕尾尼(ペンシルバニア)州学制略記 烏達(ユタ)部学制略記

ソールトレーキ府学事略記

合衆国学事雑記(合衆国教育事務局官員/教育調査表 千8百6十年/

各州部学校統計表/大都府学税異同表/各州府学督俸金/大学校綜説/

堪比日哈発的(ケンブリッジ〔ハーヴァード〕)大学校(尋常学制課業 順序/神学校/法学校/医学校))

巻之三(英国)(1873年12月刊)

英国学事沿革

小学新令并教育部新則略〔小学校教育法〕1870年 英国質問略

(巻之四〜巻之七は省略31)

(17)

巻之八(独乙(ドイツ)国1)(1875年1月刊)

学校ノ景況

第1篇 教育事務(第1 寺院/第2 政廰/第3 地方ノ督学/第4 小區ノ督学/第5 学校保存ノ積金/第6 小區学校事務局/第7 強 迫法)

巻之九(独乙国2)(1875年1月刊〔※8巻と合本〕)

〔第1篇続き〕第8 私力ヲ以テ教育ヲ進ムル事 第2篇

第3篇 (イ)小学教員ノ試験/(ロ)教員養成ノ方法/(ハ)師範学校 ニ進ムヘキ預備/孛漏生(プロシア)国ニ於ケル師範学校近年ノ改革/

(ホ)附属師範学校/(へ)教員ノ学力ヲ進歩セシムル方法

巻之十(独乙国3)(1875年5月刊)

孛(プロシア)国教育事務定則(1794年2月5日ノ布告)

孛国小学校ノ定則 1867年12月17日ノ布令 孛国学則 1850年1月31日ノ布令

同上 1860年3月24日ノ布令

孛国憲法ノ抄訳 1868年11月12日ノ布令 第2国憲抜粋第25章

第3国憲抜粋○孛国中平民学校教師及ヒ女教師ノ仕料

第4国憲抜粋○小学校教師ノ寡婦孤子ノ為ニ設ケタル養育金増資并ニ其 変革及ヒ新法施設

巻之十一(独乙国4)(1875年1月刊)

孛国教育雑記

伯霊(ベルリン)府学校事務局直轄ノ平民学校寺院附属ノ学校及ヒ私学 校普通ノ学科表

附録 聖教書中、学校ノ等級ニ由リテ学フヘキ條款(上等ニ於テ/中等 ニ於テ/上等ニ於テ)

(18)

独乙聯邦小学生数(1872年5月5日伯霊府新聞紙ニ見ユ)

巻之十二(和蘭)(1875年1月刊)

和蘭(オランダ)国教育略則1872年(南和蘭州内学務監督リンドー氏 述)

和蘭学則 1857年8月第十3日発行

巻之十三(瑞士1)(1875年9月刊)

蘇黎(チューリッヒ)州教育全則ノ一 第1 事務官員篇

第2 学校篇

巻之十四(瑞士2)((1875年9月刊)

上等諸学校(大学校)

州学

巻之十五 瑞士国/嗹国/魯国)(1875年9月刊)

第3 教員篇

蘇黎州内学校統計表 1870年 学校建築規則

嗹(デンマーク)国首府哥本哈干(コペンハーゲン)公学校略規 公学校生徒規則

魯(ロシア)国教育ノ景況

(諸省附属ノ学校/中学ノ景況/地方学校/初等学校/学校新法則/人 民私力ヲ以テ教育ヲ助クル事/書籍院ノ事/波羅的諸州及ヒ波蘭ニ於テ 務テ魯語ヲ教フル事)

『理事功程』全15巻のボリューム順による国別構成は表1の通りである。

(19)

そして、草稿の執筆者については、イメージ的に言えば、

①新島は各国で実際に会って話を聞いた教育関係者の説明を中心とする各 国の「略記」の執筆、および英文による米国・英国・ドイツ国の当時最 新(1870〜)の教育法規・学則の翻訳を行ったというイメージであり、

②新島以外のチームメンバーと文部省関係者は、比較的古い1860年代以 前の教育法規/学則の翻訳を行った、という印象が残る。

また、『全集』6、7巻を辿ると、彼が米国や英国で各国の教育に関する資 料を収集・購入したり、書籍リストを入手したり、ヒアリング先を発掘した りしており、それらの行動が草稿の糧となった。

例えば、次のような行動である。

A)1872年4月18日(米国)ボストンで教科書購入 B)1872年4月20日(米国)一日中書籍購入に費やす C)1872年4月22日(米国)再び書店に行く

D)1872年5月2日(米国)YaleのPortor総長が書籍リストを作成、英 国のキーパーソンへの紹介状を作成

1 『理事功程』ボリューム順の国別構成

国 巻の分量 概要

1 ドイツ 4巻(8-11巻) 内教育法規/学則が約3巻分 2 フランス 3.9巻(4-7巻) ほぼ教育法規/学則 3 スイス 2.6巻(13-15巻) ほぼ教育法規/学則

4 アメリカ 2巻(1-2巻) 概略記+約半分が教育法規/学則 5 イギリス 1巻(3巻) ほぼ教育法規/学則

6 オランダ 1巻(12巻) ほぼ教育法規/学則 7 デンマーク 0.3巻 ほぼ教育法規/学則

8 ロシア 0.2巻 概略記

9 ベルギー 0.1巻 ほぼ教育法規/学則

(20)

E)1872年5月28日(英国)イギリスの幼稚園に関するガイドブック購 入

F)1872年6月18日(英国)書店2店訪問 G)1872年6月29日(英国)書籍購入

一方、『理事功程』は、表2のように田中が帰国した1873年3月以降、整 理・清書されて続々と上申され、その後刊行された。

これを見ると、新島が草稿に関与した合衆国巻、イギリス巻、ドイツ巻が 始めに上申・刊行され、それにつづいて他の国に関する巻も発行されるよう になったことが分かる。これは、新島の草稿執筆によって他のチームメンバ ーや文部省関係者が触発されて他国についての執筆も進み、その結果、文部 省『理事功程』が全9カ国全15巻という大著にまとめられていったことを 推定させる。

なお、『理事功程』では、アメリカの大学の概略(巻2、「大学校綜説」)

2 『理事功程』の上申と刊行(判明分)

西暦 和暦 月 『理事功程』上申 『理事功程』刊行

1873 6 9 1、2(合衆国1、2)

10 3(英国)

12 1、2(合衆国1-2)、3(英国):手書版

1874 9 9 独乙国4冊

1875 8 1 4-5(仏国1-2、合本)、7(仏国4、白耳

義国)、8-9(独乙国1-2、合本)、11(独

乙国4)、12(和蘭):手書版

5 6(仏国3)、10(独乙国3):手書版

9 13-14(瑞 士1-2)、15(瑞 士3、魯 国):

手書版 11 全15巻和装本

1877 10 一冊の活版本として再販

(21)

やハーヴァード大学の神・法・医学校とハーヴァード・カレッジについても 論じている(同、「堪比日哈発的大学校」)。また、ドイツの学校で等級別に 教えるべき聖書の項目についても触れている(巻11、「附録 聖教書中、学 校ノ等級ニ由リテ学フヘキ條款」)。これらの記述こそ新島の関心を表したも のであるといえよう。

4)岩倉使節団へ新島が参加したことによる、そして彼が『理事

功程』の草稿に関わったことによる明治初期の日本の教育に 対する影響

田中不二磨は新島より2歳年下、いわゆる「藩閥政府」の中では珍しく尾 張藩出身であり、かつ、岩倉使節団の理事官に最年少で就任した。その彼が

1873(明治6)年の岩倉使節団からの帰国から1880(明治13)年に司法卿

に「栄転」するまでの7年間に渡って、事実上明治政府の教育行政のトップ であり続けたのは、彼が岩倉使節団の教育調査チームのリーダーを務めて調 査を成功させ、帰国後は米国人マレー(D. Murray)を学監として用いて教 育行政に遺漏なきを期したからにほかならない。

その田中は、岩倉使節団に参加した当初は、米国は「教方何れも行届實に 盛旺之勢ニ候得共、其規則各州自立にて素より立君国郡縣之體歳にハ適當せ ず、就中理化二學よりハ法教〔キリスト教〕之學夥多にして、學士も大抵其 派之人に候得ば、留學生其餘を汲ミ弊害も或ハ不少」(田中の大木文部卿へ の1872年3月20日付書簡)32)と米国の教育に対して否定的だったが、新島 の影響を受けて、「嚴ヲ以テ迫ランヨリハ寧ロ寛ニシテ各自ラ奮起セシムル」

(『理事功程』第一巻)米国の教育の礼賛者となった。文部省の後輩の久保田 譲(のちに文部大臣を務める)は帰国後の彼について「田中さんは餘程亜米 利加かぶれのした人で、何でも米国のように自由にしなければならない、米 國では中央政府には僅かに内務省の中に教育の一局があるばかりで、學事は 主として各地方の自由に任せて居るが、其れでなくてはいけない。我が国の 學制は如何にも干渉に過ぎるという意見だった」33)とまで言うほどの米国教 育の礼賛者となった。

晩年の田中は、岩倉使節団ではドイツの教育制度に対して最も強い印象を

(22)

受けたと語っているが34)、それは、アメリカの教育制度を参考にした教育令 の公布とそれに対する役人からの反発によって文部省から「追放」されたた めに、アメリカに対してアンビバレントな感情を持つようになったためであ ろう。実際には、岩倉使節団から帰国した後の田中はアメリカの教育制度に ぞっこんであって、それだからこそ、帰国後の新島を文部省に招こうと、三 日二晩に渡って自ら入洛して新島を口説いたのである。

その田中は1876(明治9)年に米国独立百周年記念博覧会へ出張して再び 同国の自由主義教育制度を調査し、帰国後の1878(明治11)年5月に「学 制」の改正法案として「日本教育令」をまとめて政府に上申した。それは、

前年にマレーがまとめた「学監考案 日本教育法」に形式こそ倣ったもの の、内容はマレーの草案とは異なる、アメリカの自由主義教育の影響を受け たものであった。マレーは米国人ではあるが、彼の思想は漸進主義であり、

中央集権的教育行政を望むものであって35)、田中の教育理念とは異なるもの だった。

その田中の「日本教育令」に次のような規定がある。

第1章 全国ノ教育事務ヲ統理センカ為ニ文部省ヲ置キ文部卿ヲ任ス 第2章 国家ノ福祉ハ人民ノ才識ト徳行トニ根セリ故ニ教育ノ普及ヲ謀リ

文運ノ上進ヲ翼クルハ文部卿ノ職務タルヘシ36)

この第2章の「国家ノ福祉ハ人民ノ才識ト徳行トニ根セリ」という言葉 は、岩倉使節団に参加した当時の新島が田中に語った国民教育のあるべき姿 そのものの印象がある。

この田中がまとめた「日本教育令」の文部省原案は、伊藤博文が長官を務 める法制局で審理されることになったが、上申直後の同年7月に地方制度の 改革がなされ、いわゆる三新法(郡区町村編制法、地方税規則、府県会規 則)が公布されたために「日本教育令」の学区の考え方も合わなくなった。

同原案は、学区以外の点も大幅に修正されて法令名も「教育令」と変更さ れ、第2章も削除される。さらに勃興する自由民権運動に対応するために、

「日本教育令」に盛り込まれていた教育国会、教育府県会、教員講究会など

(23)

の自由民権運動に利用されかねない集会規定を削除した上で、自由化政策を 積極的に拡大した37)。さらにそれが元老院でさんざんに議論されて、田中の 考えた「日本教育令」が換骨奪胎されて「教育令」となってようやく公布さ れたのは1879(明治12)年9月であった。

田中の「日本教育令」(原案)には教育国会、教育府県会、教員講究会等、

国民や地域住民が「自ラ奮起セシムル」仕組みがあったが、それを欠いた上 に自由主義を増長させた「教育令」の命運は公布と同時に最早尽きたのも同 然であり、公布直後から教育関係の官吏達の厳しい批判にさらされる。

そして、公布から半年も経たない1880(明治13)年2月には、文部卿が 寺島宗則から河野敏鎌に変わり、翌月には田中が司法卿へ昇格、これは事実 上の更迭であった。

それから、河野は直ちに「教育令」の改正に着手し、同年12月には「改 正教育令」が公布された。「改正教育令」は、国家の強制的干渉を当然とし て、公立学校中心主義、教則大綱の文部省選定権、学務委員の任命制などを 採用し38)、それまでの「自由主義的教育行政」を「干渉主義的教育行政」39)

に変貌させた。

「教育令」については、現代でも「全国の教育を一挙衰退させた」40)等の厳 しい批判があるが、以上述べた経緯から分かるように、それは、実際に公 布・施行された「教育令」が、田中の構想した「日本教育令」の法理が大き く損なわれ、骨子を欠いた「軟体動物化」した法令となったためであり、責 任を田中に帰させるのは全くの的外れである。

そして、田中が、新島の影響を受けて「各自ラ奮起セシム」アメリカの教 育に倣って構想した「日本教育令」こそは、敗戦後の日本の教育改革で掲げ られた国家主義教育から民主主義教育のモットーを先取りしたものであった ともいえよう。

ここでまとめれば、岩倉使節団に新島が参加し、また、彼が『理事功程』

草案に係わったことによる明治初期の日本の教育に対する影響は次の通りで ある。

(24)

①新島は、田中不二麿の教育視察を成功させた。

本論では字数の関係で述べる余裕がなかったが、私の過去の研究によれ ば41)、新島が岩倉使節団に参加したことで田中自身が新島と共にアメリ カ東海岸の各都市はもとより、ヨーロッパまで能動的に調査できたので あって、新島が参加しなければそれはできず、彼の教育視察は実際程の 成功を収められなかったであろう。

②新島は、文部省『理事功程』の内容を充実させ、同書の刊行を成功させ た。

岩倉使節団の各理事官の報告書である『理事功程』は、そのほかの調査 チームも帰国後に上申しているが、ほとんどが貧弱なものであった。文 部省『理事功程』については、新島が草稿を執筆したためにアメリカの 巻やドイツの巻が早期に上申され得たのであって、それらが早期に上申 されなかったのなら、他の国々の調査報告書も貧弱なものになったり、

まとめられなかったりした可能性もある。

③新島は、①、②の成功により田中を明治初期の文部行政の実質的なトッ プとしての地位に押し上げた。

④知性と共に道徳上の主義が必要であるという国民教育の理念、そして、

「各自ラ奮起セシム」アメリカの教育制度の日本における適用への試み を新島と文部行政トップの田中が共有でき、そのことが敗戦後の教育改 革の先取りともいえる田中の「日本教育令」構想に影響を与えた(ただ し、前述の通り、「日本教育令」草案は、明治政府の法制局や元老院の 審議の中で換骨奪胎され、国民教育に対する新島や田中の理念を失った

「教育令」として施行されている)。

⑤帰国後の田中は、「学制」を推進する立場に立ったが、実地の教育関係 者に「学制」を推進するための教則を準備する余裕はなかった42)。その

代わりに1877(明治10)年に大著の『理事功程』が刊行されたことよ

り、同書が米欧教育制度を参考にした「学制」下の教育関係者に米欧の 教育制度に対する知見を養わせ、啓発を行う資料となった。

(25)

2.新島の岩倉使節団への参加と米欧教育制度視察、そし て『理事功程』草稿執筆が、新島の志と実践にどのよ うな影響を与えたのか

新島が岩倉使節団に参加し、そして『理事功程』の草案を部分的に執筆し たことより、彼の境遇と運命は大きく変わった。

ここでは結論だけを述べる。

①まず、新島は、米欧の教育制度、教育機関に関して田中と共に当時最新 の知識を得た。

②日本における「学制」の成立時点すなわち、明治政府が全国にどのよう な普通教育を行うか(小学校を作るか)について試行錯誤している時 点、当然、政府に中学や大学に関する具体的な設立計画がほとんどない 時点で新島はアメリカやドイツの大学の詳細を研究し、ドイツに関して は、学校の等級別にどのようなキリスト教の科目を教えているかも調べ ている。それは、彼が大学設立と学校におけるキリスト教教育をすでに 念頭に置いていたためであったはずで、これは、岩倉使節団参加中に日 本におけるキリスト教主義の私立大学設立という宿志を彼が抱くように なった証左である。岩倉使節団の参加約1年前に書いた「請願帰朝之書 稿」では、新島は、帰国後は自分がアメリカで学んだ学科とキリスト教 を教えることを考えていたが、使節団参加によって、彼の志願が大学設 立に発展したのである。

③新島は、岩倉使節団に参加することで、田中や木戸や伊藤と知己とな り、森と共にその人的ネットワークが、彼の帰国後の教育事業の展開に 大きな力となった。

④それは、新島が欲(=For Me)の人でなく、志(=For Others)の人で あったために岩倉使節団の重要メンバーに感動を与え、それゆえに彼が 運命を切り開くことに進んで支援してくれたのであろう。

(26)

おわりに

同志社における新島の同僚のJ・D・ディヴィスは、新島が逝去した直後 にA SKETCH OF THE LIFE OF REV. JOSEPH HARDY NEESIMA LL. D.

PRESIDENT OF DOSHISHA UNIVERSITY, KYOTO(1894)を執筆したが、同 書で彼は次のように書いている。

すなわち、新島は教育に大変興味を持ち、アメリカの公立小学校について 慎重に調査し、その調査が岩倉使節団と日本政府に対してかけがえのない奉 仕の準備となった。また、彼が注意深くまとめた調査レポートは修正されて

『理事功程』として日本に導入され、それは今日の日本の教育システムの基 盤になった、と43)

ディヴィスの言う「今日の日本の教育システム」が、新島の影響を受けて 田中が起案した「日本教育令」を源泉とする「(再)改正教育令」下の日本 の教育行政であれば、彼は概ね正しいことを述べていたといえよう。

新島は同志社の設立者としてのみ理解されるべきではない。彼は実際に明 治初期の日本の教育に大きな貢献をした人物なのであった。

1)拙稿「『理事功程』と新島襄」『新島研究』第94号、pp.3-52、同志社大学人文科 学研究所・同志社社史資料室第一部門研究、2003年。

2)To Orilla Flint, Andover, March 21, 1871,『新島襄全集』6、p.82、同朋舎出版、

1985年刊。

3)「請願帰朝之書稿」『新島先生書簡集』(続)附録pp.267-268。学校法人同志社/

同志社校友会、昭和35年刊。

4)同書p.268。

5)同書pp.268-269。なお、この書稿にはキリスト教のことが記載されているが、そ

の当時、新島はハーディー夫妻にキリスト教については書かないことにしたとの 書簡を送っていることから(『新島襄全集』6、pp.84-85)、この書稿の中のキリス ト教関係の部分を省いた「請願帰朝之書」を政府に提出した可能性もある。しか し、その場合でも新島の帰朝を請願するための行論自体は本書稿と同一であった

(27)

と思われる。

6)『新島襄全集』8、p.77、同朋舎出版、1992年刊。

7)同書p.72。

8)石附実『近代日本の海外留学史』p.70、中公文庫、1992年刊。

9)同書p.52。

10)高橋悠・畝村繁『改訂 国際法』p.61、青林書院新社、昭和56年刊。

11)尾形裕康『学制成立史の研究』pp.358-359、校倉書房、1973年刊。

12)『新島襄全集』1巻、pp.570-572、同朋舎出版、1983年刊。

13)文部省編『理事功程』pp.483-490、臨川書店、昭和49年刊。

14)たとえば、スタンダードな歴史書である井上清著『日本の歴史』(20 明治維新、

中公文庫版)にも「学制はフランスの制度にならったもの」とある(同書p.262、

昭和49年刊。

15)前掲『理事功程』pp.97-98.

16)中島太郎『近代日本教育制度史』pp.46-47、岩崎書店、昭和41年刊。

17)文部省『学制百年史』pp.120-121、帝国地方行政学会、昭和47年刊。

18)前掲『新島襄全集』6、p.95。

19)同書p.99。

20)同書p.98。

21)犬塚孝明『(人物叢書)森有礼』p.138、吉川弘文館、昭和61年刊。

22)前掲『新島襄全集』6、p.99。

23)『新島襄全集』10、p.138、同朋舎出版、1985年刊。

24)同書p.142.

25)前掲『学制百年史』p.122。

26)倉澤剛『学制の研究』pp.678-679、講談社、1973年刊。

27)文部省『学制』第27章、1872年刊。

28)前掲『学制の研究』p.351。

29)拙稿「『理事功程』と新島襄」

30)同稿p.48。

31)巻之四(仏 国1)(1875年1月 刊)、巻 之 五(仏 国2)(1875年1月 刊〔※4巻 と 合本〕)、巻之六(仏国2)(1875年5月刊)、巻之七(仏国4/附 白耳義(ベル ギー)国)(1875年1月刊)

32)前掲倉澤『学制の研究』pp.372-373。

33)土屋忠雄『明治前期教育政策史の研究』p.115、文京図書、昭和43年刊(再販)。

34)田中不二麿「教育瑣談」『明治百年史叢書 開国五十年史』(復刻版)上巻p.707、

(28)

原書房、1970年刊。

35)吉家定夫『日本国学監 ディビッド・マレー その生涯と業績』p.231、玉川大 学出版部、1998年刊。

36)倉澤剛『教育令の研究』p.27、講談社、昭和50年刊。

37)同書p.29-34。

38)森川輝紀『教育勅語への道』p.76、三元社、1990年刊。

39)前掲『近代日本教育制度史』p.98。

40)たとえば、前掲倉澤『教育令の研究』p.27。

41)拙稿「岩倉使節団員としての新島襄」『新島研究』第90号、pp.135-172、同志社 大学人文科学研究所・同志社社史資料室 第一部門研究、1999年。

42)「学制」を公布した1872(明治5)年以降、1878(明治11)年までの間に『理事 功程』以外に文部省が発行した主要図書は次の通り(本文執筆者調べ)。

1872年『小学教則』

1873年〜1876年、『仏国学制』(初編巻1、初編巻2、第2編、第3編巻1〜5、

附録上、下)

1874年『米国教育年表』

1878年『米国学校法』

43)J. D. Davis,A SKETCH OF THE LIFE OF REV. JOSEPH HARDY NEESIMA LL. D.

PRESIDENT OF DOSHISHA UNIVERSITY, KYOTO, New York : Fleming H. Revell Company, 1894. p.39.

なお、本論考では、引用した原典の漢数字は原則として 算用数字に直している。

参照

関連したドキュメント

3 ⻑は、内部統 制の目的を達成 するにあたり、適 切な人事管理及 び教育研修を行 っているか。. 3−1

・高濃度 PCB 廃棄物を処理する上記の JESCO (中間貯蔵・環境安全事業㈱)の事業所は、保管場所の所在

○池本委員 事業計画について教えていただきたいのですが、12 ページの表 4-3 を見ます と、破砕処理施設は既存施設が 1 時間当たり 60t に対して、新施設は

図表の記載にあたっては、調査票の選択肢の文言を一部省略している場合がある。省略して いない選択肢は、241 ページからの「第 3

受理担当部門は、届出がされた依頼票等について必要事項等の記載の有無等を確認

税務監督局の事務処理についても,細かく決められている。局務は総て局

その他諸税監査のような事務は常に実地に就き調査を精密にして収税の状況

集計方法 制度対象事業者が義務履行のために 行った取引のうち、価格記載のあった ものについて、取引量レンジごとの加