はじめに
延暦一二年︵七九三︶正月一五日、桓武天皇は大納言藤原小 黒麻呂・左大弁紀古佐美らを山背国葛野郡宇太へと派遣してい る ︵ 1︶ 。これは遷都のためであり、平城京より長岡京へと遷都した のが延暦三年︵七八四 ︵ 2︶ ︶であることを考えると、僅か一〇年後 のことであった。そしてその後、 新京への遷都は順調に行われ、 翌延暦一三年 ︵七九四︶ 一〇月二八日には ﹁遷都詔曰。 ︿云々﹀ 。 葛野 ︿乃﹀大宮地者 、山川 ︿ 毛﹀麗 ︿ 久﹀四方国 ︿乃﹀百姓 ︿毛﹀ 参出来事 ︿毛﹀ 便 ︿之氐﹀ ︿云々﹀ ﹂ という遷都の詔が出さ れ ︵ 3︶ 、更に翌月の一一月八日には ﹁山背﹂の国名表記が新たに ﹁山城﹂と改められ、新京の名も﹁平安京﹂と定められている ︵ 4︶ 。 この桓武天皇によって新たに造られた都については 、﹃ 延喜 式﹄巻四十二左右京職式京程条に規模が規定されており、 ﹁南北 一千七百五十三丈﹂ ﹁東西一千五百八丈﹂という規模であった。 そして、京内は碁盤の目状に縦横に大路・小路で区画されてお り、中央を﹁廣廿八丈﹂の朱雀大路が南北に走り、朱雀大路の 東半分が左京 、西半分が右京であった 。朱雀大路に沿っては 、 七条通と七条坊門の間に東西の鴻臚館が設けられて外国使節の 迎接が行われていた。さらに、羅城門を挟んで東西に東寺と西 寺が建立されている。また、東西の堀川に接して東市と西市が 置かれるなど、例外的な施設は存在するが平面的には左右対称 に都市設計がなされていた。 このように左右対称に造営された平安京ではあるが、右京と 左京ではその後の発展については大きな差が生じて、左京が隆 盛を極めるのに対して右京は衰退していくことになる。その結 果、 中世以降になると同じ平安京内に位置するにもかかわらず、 洛中と洛外というように区分されるようになってしまう。その 右京が衰退していく要因が何であるのかについて考察を加えた い。平安京の変質
牧
伸
行
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 六
一
﹁池亭記﹂にみえる右京の衰退
平安京の左右両京については、古くから左京に比べて右京の 衰退が早かったことが指摘されているが、それについては慶滋 保胤の﹁池亭記﹂による記述が有名である。 慶滋保胤は平安時代中期の文人貴族として有名な人物であ る。賀茂氏出身であり、父は陰陽家として有名な賀茂忠行であ るが、家業である陰陽道を継ぐことなく、文章生として大学寮 に学び、 菅原文時に師事して官人として出身をしている。また、 仏教についても造詣が深かったようであり、 康保元年︵九六四︶ に創始された勧学会ではその中心人物となっており、さらに寛 和二年︵九八六︶には出家し法名を心覚、さらに寂心と名乗っ た。浄土信仰に傾倒しており、著作には﹃日本往生極楽記﹄な どがある。 さて、 ﹁池亭記﹂はこの慶滋保胤が天元五年︵九八二︶一〇月 に著したものである。そこには自らの邸宅と平安京に関する内 容が記されているが、あくまでも文学作品であるという前提を 必要とする。その内容については全体を六段に分けて考えるこ とができ、それぞれ段ごとに原文と読み下しを以下に記し ︵ 5︶ 、簡 単に解説を加えたい ︵ 6︶ 。 ︿第一段﹀ 予二十余年以来 、歴 二 見東西二京 一 、西京人家漸稀 、殆幾 二 幽墟 一 矣。人者有 レ 去無 レ 来、 屋者有 レ 壊無 レ 造。其無 レ 処 二 移 徙 一 、 無 レ 憚 二 賤貧 一 者是居。或楽 二 幽隠亡命 一 、 当 二 入 レ 山帰 一 レ 田者不 レ 去。 若 下 自蓄 二 財貨 一 、有 上レ 心 二 奔営 一 者、 雖 二 一日 一 不 レ 得 レ 住之。往年有 二 一東閣 一 。華堂朱戸、竹樹泉石、誠 是象外之勝地也。主人有 レ 事左転、 屋舎有 レ 火自焼。其門客 之居 二 近地 一 者数十家、 相率而去。其後主人雖 レ 帰、 而不 二 重 修 一 。子孫雖 レ 多、 而不 二 永住 一 。荊棘鎖 レ 門、 狐狸安 レ 穴。夫 如 レ 此者、天之亡 二 西京 一 、非 二 人之罪 一 明也。 予 二十余年以 来 、 東 西 二 京 を歴 見 するに、 西 京 は人家 漸 く稀 にして、 殆 幽 墟 に幾 し。人は去ること有りて来 るこ となし、屋 は壊 るること有りて造 ることなし。その移 徙 するに処 なく、賤 貧 を憚 ることなき者 はこれ居 り。ある いは幽 隠 亡 命 を楽しみ、まさに山に入り田に帰るべき者 は去らず 。自 ら財 貨 を蓄 へ、 奔 営 に心有るが若 き者は 、 一 日 といへども住むことを得ず 。往 年 一つの東 閣 有り 。 華 堂 朱 戸 、竹 樹 泉 石 、誠にこれ象 外 の勝 地 なり。主人事 有りて左 転 せられ、屋 舎 火有りて自 づから焼けぬ。その 門 客 の近 地 に居る者数 十 家 、相 率 ゐて去りぬ。その後 主 人帰るといへども、 重ねて修 はず。子孫多しといへども、平安京の変質 牧 伸行 七 永く住 まはず。荊 棘 門 を鎖 し、 狐 狸 穴に安 んず。それか くの如きは、天の西 京 を亡ぼすなり、人の罪に非 ざるこ と明らかなり。 ︿第二段﹀ 東京四条以北 、乾艮二方 、人人無 二 貴賤 一 、多所 二 群聚 一 也。 高家比 レ 門連 レ 堂、 小屋隔 レ 壁接 レ 簷。東隣有 二 火災 一 、 西隣不 レ 免 二 余炎 一 、 南宅有 二 盗賊 一 、 北宅難 レ 避 二 流矢 一 。南阮貧、 北 阮富、 富者未 二 必有 一レ 徳、 貧者亦猶有 レ 恥。又近 二 勢家 一 容 二 微身 一 者、 屋雖 レ 破不 レ 得 レ 葺、 垣雖 レ 壊不 レ 得 レ 築。有 レ 楽不 レ 能 二 大開 レ 口而咲 一 、 有 レ 哀不 レ 能 二 高揚 レ 声而哭 一 。 進退有 レ 懼、 心神不 レ 安。譬猶 三 鳥雀之近 二 鷹 䍍 一 矣。何況転広 二 門戸 一 、 初 置 二 第宅 一 。小屋相 䮒 、 小人相訴者多矣。宛如 下 子孫去 二 父母 之国 一 、 仙官謫 中 人世之塵 上 。其尤甚者、 或至 下 以 二 狭土 一 滅 中 一家愚民 上 。或卜 二 東河之畔 一 、若遇 二 大水 一 、与 二 魚鼈 一 為 レ 伍、 或住 二 北野之中 一 、若 有 二 苦旱 一 、雖 二 渇乏 一 無 レ 水。彼両 京之中、無 二 空閑之地 一 歟。何其人心之強甚乎。 東 京 の四 条 以 北 、 乾 艮 の二 方 は、 人人貴 賤 となく、 多く 群 聚 する所なり。高 家 は門 を比 べ堂を連 ね、小 屋 は壁を 隔 て簷 を接 ふ。東 隣 に火災有れば、 西 隣 は余 炎 を免 れず、 南宅に盗 賊 有れば、北宅は流 矢 を避 り難 し。南 阮 は貧し く、 北阮は富めり、 富める者はいまだ必ずしも徳 有らず、 貧しき者はまたなほ恥 有り。また勢 家 に近くして微 身 を 容 るる者は、屋 破 れたりといへども葺 くことを得ず、垣 壊 れたりといへども築 くことを得ず。楽 しみ有れども大 きに口を開 きて咲 ふこと能 はず、哀 しみ有れども高く声 を揚 げて哭 くこと能はず。進 退 懼 有り、心 神 安からず。 譬 へばなほ鳥 雀 の鷹 䍍 に近づくがごとし。何ぞいはんや 転 門戸を広くして初めて第 宅 を置くをや。小 屋 相 䮒 せ、 小 人 相 訴 ふる者多し。宛 も子孫の父母の国を去り、 仙 官 の人 世 の塵 に謫 せらるるが如し 。その尤 も甚 だしきは 、 あるいは狭き土 を以て一家の愚 民 を滅 ぼすに至る。ある いは東 河 の畔 に卜 して、若 し大水に遇 へば、魚 鼈 と伍 た り、あるいは北 野 の中に住 して、若し苦 旱 有れば、渇 乏 すといへども水なし 。かの両 京 の中 、空 閑 の地なきか 。 何ぞその人心の強 きこと甚だしきや。 ︿第三段﹀ 且夫河辺野外、 非 二 啻比 レ 屋比 一レ 戸、 兼復為 レ 田為 レ 畠。老圃 永得 レ 地以開 レ 畝、老農便堰 レ 河以漑 レ 田。比年有 レ 水、流溢 隄絶 。防河之官 、昨日称 二 其功 一 、今日任 二 其破 一 。洛陽城 人、 殆可 レ 為 レ 魚歟。竊見 二 格文 一 、 鴨河西、 唯免 レ 耕 二 崇親院
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 八 田 一 、 自余皆悉禁断。以 レ 有 二 水害 一 也。加以東河北野、 四郊 之二也 。天子迎 レ 時之場 、遊幸之地也 。有 レ 人縦欲 レ 耕、 有 司何不 レ 禁不 レ 制乎 。若謂 二 庶人之遊戯 一 者 、 夏天納涼之客 、 已無 下 漁 二 小鮎 一 之涯 上 、 秋風遊猟之士、 又無 下 臂 二 小鷹 一 之野 上 。夫京外時争住、 京内日陵遅。彼坊城南面、 荒蕪眇〃、 秀 麦離〃。去 二 膏腴 一 就 二 䐳 埆 一 、是天之令 レ 然歟、将人之自狂 歟。 またそれ河辺野外、たた屋 を比 べ戸 を比べたるのみに非 ず、兼 ねてまた田と為 し畠 と為す。老 圃 は永く地を得て 以て畝 を開き、老農は便 ち河を堰 きて以て田に漑 す。比 年 水有り、流 溢 れて隄 絶えぬ。防 河 の官 、昨日その功 を 称され、 今日はその破 に任 す。洛 陽 城 の人、殆 魚 と為る べきか。竊 かに格 文 を見るに、鴨 河 の西は、ただ崇 親 院 の田を耕 すことのみを免 し、 自 余 は皆 悉 く禁 断 す。水害 有るを以てなり。しかのみならず、東 河 北 野 は四 郊 の二 つなり。天子の時を迎へたまふ場 、遊 幸 の地なり。人有 りて縦 ひ居 らんと欲 ひ耕さんと欲ふとも、有 司 何ぞ禁ぜ ず制せざらんや。若 し庶 人 の遊 戯 を謂 はば、夏天納 涼 の 客 、 已 に小 鮎 を漁 る涯 なく、 、 秋風遊 猟 の士 、 また小 鷹 を 臂 にする野 なし。それ京 外 は時 に争ひ住み、京内は日 に 陵 遅 す。かの坊 城 の南 面 は、 荒 蕪 眇 〃 として、 秀 麦 離 〃 たり。膏 腴 を去りて 䐳 埆 に就 く、 これ天の然 らしむるか、 はた人の自 ら狂へるか。 ︿第四段﹀ 予本無 二 居処 一 、寄 二 居上東門之人家 一 。常思 二 損益 一 、不 レ 要 二 永住 一 。 縦求不 レ 可 レ 得之。 其価直二三畝千万銭乎。 予六条 以北、 初卜 二 荒地 一 、築 二 四垣 一 開 二 一門 一 。上択 二 蕭相国窮僻 之地 一 、 下 慕 二 仲長統清曠之居 一 。地方都廬十有余畝。就 レ 隆 為 二 小山 一 、 遇 レ 窪穿 二 小池 一 。池西置 二 小堂 一 安 二 弥陀 一 。池東 開 二 小閣 一 納 二 書籍 一 。池北起 二 低屋 一 着 二 妻子 一 。凡屋舎十之 四 、池水九之三 、菜園八之二 、芹田七之一 。其外緑松島 、 白沙汀、 紅鯉白鷺、 小橋小船、 平生所 レ 好、 尽在 二 於中 一 。況 乎春有 二 東岸之柳 一 、細煙嫋娜 。夏有 二 北戸之竹 一 、清風颯 然。秋有 二 西窓之月 一 、可 二 以披 一レ 書。冬有 二 南簷之日 一 、可 二 以炙 一レ 背。 予 本 より居 処 なく、上 東 門 の人家に寄 居 す。常に損 益 を 思ひ、永住を要 めず。縦 ひ求むとも得 べからず。その価 直 二 三 畝 千 万 銭 ならんか。予 六 条 以 北 に初めて荒 地 を卜 し、 四つの垣を築 きて一つの門を開く。上 は蕭 相 国 の窮 僻 の地を択 び、 下 は仲 長 統 の清 曠 の居 を慕 ふ。地方都 廬 十 有 余 畝 。隆 に就 きては小 山 を為 り、窪 に遇 ひては小 池
平安京の変質 牧 伸行 九 を穿 る。池の西に小 堂 を置きて弥 陀 を安 す。池の東に小 閣 を開きて書籍を納 む。池の北に低 屋 を起 てて妻子を着 けり。凡 そ屋 舎 は十の四、 池水は九の三、 菜園は八の二、 芹 田 は七の一なり。その外 緑 松 の島、 白 沙 の汀 、 紅 鯉 白 鷺 、小橋小船、平 生 好む所、尽 く中に在り。いはんや春 は東岸の柳有り、細煙嫋 娜 たり。夏は北戸の竹有り、清 風颯 然 たり。秋は西窓の月有り、以て書を披 くべし。冬 は南 簷 の日有り、以て背 を炙 るべし。 ︿第五段﹀ 予行年漸垂 二 五旬 一 、適 有 二 小宅 一 。蝸安 二 其舎 一 、虱 楽 二 其縫 一 。鷃住 二 小枝 一 、不 レ 望 二 鄧林之大 一 、蛙在 二 曲井 一 、不 レ 知 二 滄海之寛 一 。家主、 職雖 レ 在 二 柱下 一 、心 如 レ 住 二 山中 一 。官爵 者任 二 運命 一 、天之工均矣 。寿夭者付 二 乾坤 一 、丘之禱久焉 。 不 レ 楽 三 人之為 二 風鵬 一 、 不 レ 楽 三 人之為 二 霧豹 一 、 不 レ 要 三 屈 レ 膝 折 レ 腰、 而求 二 媚於王侯将相 一 、又 不 レ 要 三 避 レ 言避 レ 色、 而刊 二 蹤於深山幽谷 一 。在 レ 朝身暫随 二 王事 一 、在 レ 家心永帰 二 仏那 一 。予出有 二 青草之袍 一 、位雖 レ 卑職尚貴、入有 二 白紵之被 一 、 暄 二 於春 一 潔 二 於雪 一 。盥漱之初、 参 二 西堂 一 、念 二 弥陀 一 、読 二 法華 一 。飯 䨇 之後、 入 二 東閣 一 、開 二 書巻 一 、逢 二 古賢 一 。夫漢 文皇帝為 二 累代之主 一 、以 下 好 二 倹約 一 安 中 人民 上 也。唐白楽天 為 二 異代之師 一 、以 下 長 二 詩句 一 帰 中 仏法 上 也 。 晋朝七賢為 二 異 代之友 一 、以 二 身在 レ 朝志在 一レ 隠也 。予遇 二 賢主 一 、遇 二 賢師 一 、遇 二 賢友 一 。一日有 二 三遇 一 、 一生為 二 三楽 一 。近代人世之 事、 無 二 一可 一レ 恋 。人之為 レ 師者 、先 レ 貴先 レ 富、 不 二 以 レ 文 次 一 。不 レ 如 レ 無 レ 師。人之為 レ 友者、 先 レ 勢以 レ 利、 不 二 以 レ 淡 交 一 。不 レ 如 レ 無 レ 友。予杜 レ 門閉 レ 戸、 独吟独詠。若有 二 余興 一 者、 与 二 児童 一 乗 二 小船 一 、叩 レ 舷鼓 レ 棹。若有 二 余假 一 者、 呼 二 僮僕 一 入 二 後園 一 、以糞以灌。我愛 二 吾宅 一 、不 レ 知 二 其他 一 。 予 行 年 漸 く五 旬 に垂 として、 適 小宅有り。 蝸 はその舎 に安んじ、虱 はその縫 に楽しむ。鷃 は小枝に住みて、鄧 林 の大きなるを望まず、蛙 は曲 井 に在りて、滄 海 の寛 き ことを知らず。家 主 、職は柱 下 に在りといへども、心は 山中に住むが如し。官 爵 は運命に任 す、天の工 均 し。寿 夭 は乾 坤 に付く、丘 の禱 ること久し。人の風 鵬 たるを楽 はず、人の霧 豹 たるを楽はず、膝 を屈 し腰を折りて、媚 を王 侯 将 相 に求めんことを要 はず、 また言を避 り色を避 りて、蹤 を深 山 幽 谷 に刊 まんことを要 はず。朝 に在りて は身暫 く王 事 に随 ひ 、 家に在りては心永く仏 那 に帰 す。 予 出でては青 草 の袍 有り、 位 卑 しといへども職 なほ貴 し、 入 りては白 紵 の被 有り、春よりも暄 く雪よりも潔 し。盥 漱 の初、西 堂 に参 り、弥 陀 を念じ、法 華 を読む。飯 䨇 の
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一〇 後 、東 閣 に入り、書 巻 を開き、古 賢 に逢 ふ。それ漢 の文 皇 帝 は累 代 の主 たり、 倹 約 を好みて人民を安 んずるを以 てなり。唐の白 楽 天 は異代の師 たり、詩 句 に長じて仏 法 に帰 するを以てなり。晋 朝 の七 賢 は異代の友たり、身は 朝 に在りて 志 は隠 に在るを以てなり。予 賢 主 に遇 ひ、 賢 師に遇ひ、賢友に遇ふ。一日に三 遇 有り、一生三 楽 を為 す。近代人 の世の事、一つとして恋ふべきことなし。人 の師たるは、貴きを先にし富めるを先にして、文を以て 次 とせず。師なきに如 かず。人の友たるは、勢 を以てし 利 を以てし、淡 を以て交 らず。友なきに如かず。予 門を 杜 し戸 を閉 ぢて、独 り吟 じ独 り詠 ず。若 し余 興 有れば、 児童と小船に乗り、 舷 を叩 き棹 を鼓 す。若 し余 假 有れば、 僮 僕 を呼びて後 園 に入り、以 は糞 し以 は灌 く。我 吾 が宅 を愛し、その他 を知らず。 ︿第六段﹀ 応和以来、 世人好起 二 豊屋峻宇 一 、 殆 至 二 山 レ 節藻 一レ 梲。其費 且 二 巨千万 一 、其住纔二三年 。古人云 、造者不 レ 居 。誠哉斯 言 。予及 二 暮歯 一 、開 二 起小宅 一 。取 二 諸身 一 量 二 于分 一 、誠奢 盛也 。上畏 二 于天 一 、下愧 二 于人 一 。亦猶 下 行人之造 二 旅宿 一 、 老蚕之成 中 独繭 上 矣。其住幾時乎。嗟乎、 聖賢之造 レ 家也、 不 レ 費 レ 民、 不 レ 労 レ 鬼。以 二 仁義 一 為 二 棟梁 一 、 以 二 礼法 一 為 二 柱礎 一 、以 二 道徳 一 為 二 門戸 一 、以 二 慈愛 一 為 二 垣墻 一 、以 二 好倹 一 為 二 家事 一 、以 二 積善 一 為 二 家資 一 。居 二 其中 一 者、 火不 レ 能 レ 焼、 風 不 レ 能 レ 倒、 妖 不 レ 得 レ 呈、 災 不 レ 得 レ 来 、 鬼神不 レ 可 レ 窺、 盗 賊不 レ 可 レ 犯 。其家自富 、其主是寿 。官位永保 、子孫相承 。 可 レ 不 レ 慎乎。天元五載孟冬十月、家主保胤、自作自書。 応 和 より以 来 、世 人 好みて豊 屋 峻 宇 を起 て 殆 節 を山に し梲 に藻 くに至る。その費 は巨 千 万 に且 とし、その住む こと纔 かに二三年なり。古人云く、 ﹁造 れる者は居 らず﹂ といへり。誠 なるかなこの言 。予 暮 歯 に及びて、小宅を 開き起 つ 。これを身に取り分に量 るに 、誠に奢 盛 なり 。 上 は天を畏 れ、下 は人に愧 づ。またなほ行 人 の旅 宿 を造 り、 老 蚕 の独 繭 を成すがごとし。その住まふこと幾 時 ぞ。 ああ、聖 賢 の家を造る、民 を費 さず、鬼 を労せず。仁 義 を以て棟 梁 と為し、礼 法 を以て柱 礎 と為し、道 徳 を以て 門 戸 と為し、慈 愛 を以て垣 墻 と為し、好 倹 を以て家 事 と 為し、積 善 を以て家 資 と為す。その中に居る者は、火も 焼くこと能 はず、風も倒すこと能はず、妖 も呈 るること を得ず、災 も来 ることを得ず、鬼 神 も窺 ふべからず、盗 賊 も犯 すべからず。その家自 づから富み、その主 はこれ 寿 し。官位永く保 ち、 子孫相 承 く。慎 まざるべけんや。
平安京の変質 牧 伸行 一一 天 元 五 載 孟 冬 十月、家主保 胤 、自 ら作り自ら書けり。 先ず第一段では 、西京 ︵右京︶の荒廃について述べている 。 保胤自身が約二〇年間にわたり東西両京の様子を見続けてきた 結果、西京においては人家は稀になって、ほんとど幽墟のよう になっていて、人が去ることはあっても、移住してくることは なく、家屋も壊れるままで放置されている。世間を逃れ避けて ひっそりと隠れ住んだり、官職を辞めて農業に従事する者は居 続けているが、財貨を蓄えて、仕事熱心な者は一日といえども 住むことはない。さらに、往年には一つの東閣があったが、主 人の失脚により、屋舎が焼けても修理されることはなく、その 子孫でさえ住むことはなく、荒廃に任せた結果、狐狸の住居と なってしまっている、と述べる。最後に、これは天によって西 京が滅ぼされようとしてるのであり 、人の罪ではないと締め 括っている。 次に第二段においては、第一段を受け、西京の衰退に対する 東京︵左京︶の殷賑を述べる。特に四条以北の乾︵北西︶と艮 ︵東北︶の二つの方角に人家が集中している様子が述べられ、 権 勢のある家が広大な邸宅を構えるのに対して、貧者は軒を接し て集住していることを様々な例を挙げて述べている 。そして 、 富者が貧者の土地を脅かしていることが記されている。 そして第三段で、鴨川べりや北野など、住民の都の東北部へ の移住に関する状況を概観しており、特に鴨川の西地域におけ る田畑の耕作について格文、すなわち﹃類聚三代格﹄所収の太 政官符を参考として、本来崇親院にのみ耕作が許されているの みであるにもかかわらず 、耕作が行われており水害の原因と なっていることを嘆いている。 第四段で自らの池亭の構造と景観を述べる。地価の高騰によ り四条辺りではなく、 六条以北に方一〇余畝の荒れ地を購入し、 築山を造り池を掘り 、池の西に阿弥陀堂を造り 、 東に書庫を 、 北に住居をそれぞれ配置している様子を記している。 また、第五段で作者自身の生活態度を自ら語り、最後に第六 段では理想の住居論が書かれて締め括られている。特に第六段 で﹁応和より以来、世人好みて豊屋峻宇を起て殆節を山にし梲 に藻くに至る﹂として、応和年間︵九六一∼九六四年︶を一つ の画期とみている。 この中で平安京の右京に付いて重要な変化が記されているの が第一段であるが、作者である保胤が﹁二十余年以来、東西二 京を歴見﹂した総論的な内容として記している。そこには、 ﹁ 西 京は人家漸く稀にして、殆幽墟に幾し。人は去ること有りて来 ることなし、屋は壊るること有りて造ることなし﹂と左京の衰 亡の様子が述べられている。そしてその要因の一つとして、 ﹁往 年一つの東閣有り。華堂朱戸、竹樹泉石、誠にこれ象外の勝地
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一二 なり。主人事有りて左転せられ、 屋舎火有りて自づから焼けぬ。 その門客の近地に居る者数十家、相率ゐて去りぬ。その後主人 帰るといへども、重ねて修はず。子孫多しといへども、永く住 まはず。荊棘門を鎖し、狐狸穴に安んず﹂と、敢えて名を記さ ないままに﹁主人﹂とある人物の没落による例が挙げられてい る。 ここにみえる﹁主人﹂とは源高明のことであり、 ﹃日本紀略﹄ 後篇五安和二年︵九六九︶三月二五日条に、 廿五日壬寅 。以 二 左大臣兼左近衛大将源高明 一 。為 二 大宰員 外帥 一 。 以 二 右大臣藤原師尹 一 為 二 左大臣 一 。 以 二 大納言同在衡 一 為 二 右大臣 一 。左馬助源満仲 。前武蔵介藤原善時等 。密告 二 中務少輔源連。 橘繁延等謀反由 一 。 仍右大臣以下諸卿忽以 参入。 被 レ 行 二 諸陣三寮警固々関等事 一 。 令 下二 参議文範 一 。 遣 中 密告文於太政大臣職曹司 上 。諸門禁 二 出入 一 。検非違使捕 㿌二進前相模介藤原千晴。男久頼。及随兵等 一 禁獄。又召 二 内 記 一 有 二 勅符木契等事 一 。禁中騒動。殆如 二 天慶之大乱 一 。 とあり、いわゆる安和の変に連坐して大宰権帥に左遷されてい る。そして、同書安和二年四月一日条には﹁午刻。員外帥西宮 家焼亡 。所 レ 残雑舎両三也﹂とみえ 、左遷直後に高明邸が焼亡 している。その後、天禄三年︵九七二︶四月二〇日条には、 廿日己酉。 賀茂祭。 今日。 大宰権帥源朝臣高明自 二 大宰府 一 上洛。著 二 葛野別屋 一 。 と、高明は大宰府より都へ戻ったようであるが、西京の邸宅に は戻らず﹁葛野別屋﹂に入っている。この﹃日本紀略﹄にみえ る高明に関する一連の記事は、 ﹁池亭記﹂の内容と合致し、 保胤 は事実に基づいて記述していると思われる。なお、付け加える ならば同じように第三段の﹁崇親院﹂に関する記述についても ﹃類聚三代格﹄ 巻八所収の昌泰四年 ︵九〇一︶ 四月五日付太政官 符 ︵ 7︶ によるものであることが明らかであり 、﹁竊かに格文を見﹂ たという内容が事実であることがわかる。 このように﹁池亭記﹂には、事実に基づく内容が記されてお り、その内容に関しては信頼が置けるといえる。ただし、敢え て事実に基づく内容を記すことによって、自らの文章を真に迫 るものであるという修飾を加えている可能性が指摘できるので はないだろうか。また、 ﹁池亭記﹂に敢えて﹁東西二京﹂の盛衰 を記すのは、慶滋保胤が邸宅を左京すなわち東京に購入したと いうのもその理由の一つではないだろうか。四条以北の土地で はなく六条であったとしても、衰亡している西京ではなく東京 であるということを強調するために第一段が記されている可能 性もあるであろう。
平安京の変質 牧 伸行 一三
二
東市と西市
先に見たように慶滋保胤は右京︵西京︶の衰退について﹁天 の西京を亡ぼすなり、人の罪に非ざること明らかなり﹂と天意 であることを指摘しているが、果たして天意と言い切れるのだ ろうか。 平安京では 、左右両京のそれぞれ左京七条坊門南 ・七条北 ・ 大宮東・堀川西に東市が、右京七条坊門南・七条北・大宮西に 西市が設けられている 。この市は平安京に限らず平城京以来 、 左右京にはそれぞれ市、東市と西市が置かれていた。平城京の 場合も京域の南方に東市・西市がそれぞれ置かれていたが、こ れについて藤原不比等が、豪族たちの経済活動が活発になるの を喜ばず、中国的な律令体制のもとで、豪族を官僚制の枠組み の中に閉じこめたいと考え、そのために経済と政治・行政の分 離を形で示すために市の場所が設定されたという指摘がある ︵ 8︶ 。 しかしながら、これは物資を運搬する堀川、平城京の場合では 佐保川と秋篠川の流路が重要であり、京の左右対称という考え 方から、その二つの堀川が同じような場所を通る位置に設定さ れたことに起因すると考えられる。 ﹁池亭記﹂においては明確に述べられていないが、 東市と西市 との違いが左京と右京の盛衰にも大いに関係しているものと考 えられる。 東市と西市は同時に売買が行われていた訳ではなく、 ﹃延喜式﹄巻四十二東西市司式集東西市条に、 凡毎月十五日以前集 二 東市 一 。十六日以後集 二 西市 一 。 とあり、毎月の前半の一五日までは東市で、一六日以降の後半 には西市おいて交易が行われることになっていた。また、取り 扱う品物についてもやはり﹃延喜式﹄の東西市司式の東廛条 ︵ 9︶ と 西廛条 ︵ 10︶ に詳細が規定されており、廛数は異なるものの一応は公 平を期すように設定されていた。 しかし、平安京の東西の市について興味深い記事が﹃続日本 後紀﹄巻一二承和九年︵八四二︶一〇月庚辰︵二〇日︶条にみ える。 庚辰。 西市司言。 依 二 承和二年九月符旨 一 。 錦綾。 絹。 調布。 糸。 綿。 紵。 染物。 縫衣。 続麻。 針。 櫛。 染革。 帯幡。 油。 土器 。絹冠 。 牛厘等類興 㿌二販於西市 一 。而東市司論云 。検 二 承和七年四月符 一 。依 二 弘仁十一年四月式 一 。件等色物 。兩 市共可 二 興販 一 。不 レ 可 二 更度 一 。今百姓悉遷 二 於東 一 。交 㿌二易 件物 一 。市廛既空 。公事闕怠者 。去承和二年彼此中折 。 施 行既訖 。而承和七年四月班 レ 式之日 。遺漏不 レ 改。 勅。 宜 レ 依 二 前格 一 。不 レ 可 レ 據 レ 式。 この記事についてはすでに検討が加えられている ︵ 11︶ が、それを参 考に考察を加えてみると、内容的には西市司による訴えによっ佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一四 て式の無効が承認された内容となっている。その訴えとは、承 和二年 ︵八三五︶の太政官符によって ﹁錦綾 。絹 。調布 。 絲 。 綿。 紵。 染物。 縫衣。 続 麻。 針。 櫛。 染革。 帯幡。 油。 土器。 絹冠。牛厘等﹂といった種類の物品は本来西市において興販が 行われるべきものであるという主張である。これに対して東市 司は承和七年︵八四〇︶九月の太政官符をもとに、弘仁一一年 ︵八二〇︶ 四月の式によって西市司の訴えている物品について両 市で興販することになったことを主張している。ここで西市が 挙げている承和二年九月太政官符については残念ながら伝わっ ておらず内容は不明であるが、各市の専売品に関する内容が記 されていたのではないだろうか 。そして 、東市司のいう ﹁検 二 承和七年四月符 一 。依 二 弘仁十一年四月式 一 ﹂とある弘仁一一年 ︵八二〇︶四月の式とは ﹃ 弘仁式﹄のことであり 、承和七年 ︵八四〇︶ 四月符は ﹃類聚三代格﹄ 巻第一七 ﹁文書并印事﹂ 所収 承和七年︵八四〇︶四月二三日太政官符である。以下にその全 文を挙げると、 太政官符 頒 㿌下行改 㿌二正遺漏紕繆 一 格式 上 事 右検 二 案内 一 。太政官去天長七年閏十二月七日下 二 諸司 一 符 䆑 。太政官去十一月十七日符 䆑 。被 二 左近衛大将従三位兼 守大納言清原真人夏野宣 一 䆑 。奉 レ 勅 。 律令之興 。盖始 二 大 宝 一 。懲粛既具 。勤誡亦甄 。然律令之典 。上挙 二 大綱 一 。至 二 於体履相須 一 事。 猶闕如。 論 二 之政術 一 。固 有 レ 未 レ 周。 因 レ 茲修 二 格式 一 以備 二 闕違 一 。宜 下 施 二 之内外 一 。尽使 中 遵行 上 者。 若有 下 与 二 格式 一 相紕繆及遺漏 上 者。 亦宜 二 具録申 一 者。 被 二 中 納言従三位兼行中務卿直世王宣 一 䆑 。奉 レ 勅。 修撰之後。 改 張諸事 。宜 三 来年二月以前悉令 二 申訖 一 。紕繆遺漏等亦准 レ 此。 如有 二 疎略及過 一レ 期者。 依 レ 法科処。 不 二 曾寛宥 一 者。 今 被 二 右大臣宣 一 䆑 。奉 レ 勅。 採 㿌二拾新修 一 。以補 二 闕漏 一 。討 㿌二 覈故実 一 。以 正 二 紕繆 一 。 筆削功成。 撰録周備。 宜 二 早速施行 一 。 承和七年四月廿三日 とある 。ここにみえる ﹁ 格式﹂は ﹃ 弘仁格式﹄のことであり 、 ﹃弘仁格式﹄には遺漏や紕繆が多く、 天長七年︵八三〇︶に改正 されたがそれでも不備があったため、更に承和七年に﹁遺漏紕 繆﹂を改正して頒行されたことを示している。すなわち、 ﹃弘仁 式﹄において定められた物品について、西市司が異議を申し立 てた結果 、その訴えが認められて改めて承和二年太政官符に 従って西市の専売品となったのである。 ただし 、 先に挙げた ﹃延喜式﹄の東廛条と西廛条をみると 、 承和九年︵八四二︶に西市の専売となった物のうち糸・紵・縫 衣・針・櫛・染革・油の七種が東市でも取り扱われており、東
平安京の変質 牧 伸行 一五 西両市の共通物品となっている。このことについてその詳細は 不明とするしかないが、西市の専売とはなったものの東市にお いても需要があったために済し崩し的に取り扱われるようにな り、その結果が﹃延喜式﹄の規定へと反映されているのではな いかと推測できる。 ところで、承和九年︵八四二︶一〇月庚辰︵二〇日︶条で注 目されるのは東市が主張していることの中の ﹁今百姓悉遷 二 於 東 一 。交 㿌二易件物 一 。市廛既空。公事闕怠者﹂ という部分である。 これは承和九年段階の九世紀中頃には既に西市すなわち右京の 住民が減少するという事態が生じていることを示しているとい えよう。 では、何故早い段階で右京の衰退という現象が生じたのかを 考えると、やはり地形的な要因が大きな影響を与えているとい える。
三
葛野川の治水と右京
平安京における自然災害等については、飢饉の発生や洪水対 策、疫病の流行、地震などについて研究が行われている ︵ 12︶ 。その 中でも、平安京は東西を鴨川と葛野川︵桂川︶に挟まれた地に 位置することから、その治水については遷都以来の一つの大き な懸案事項であった。そのため、遷都後比較的早い時期からそ の対策が行われていたようである。 平安京における洪水等に関する記録は六国史だけではなく 、 ﹃日本紀略﹄やあるいは貴族の日記によって伝えられており、 左 右京のいずれで被害が発生したかは明確でない場合が多いもの の 、 台風 ・洪水の記録は延暦一三年 ︵七九四︶から嘉応二年 ︵一一七〇︶までの間に一〇四例残されている ︵ 13︶ 。 朝廷による治水に関する例としては防鴨河所︵使︶と防葛野 河所︵使︶が挙げられる。これについては﹃類聚三代格﹄巻第 五﹁交替并解由事﹂所収天長八年︵八三一︶一二月九日付太政 官符に次のようにみえる。 太政官符 応 三 左右防城使并侍従厨防鴨河葛野河両所五位以下別当 四年遷替兼責 二 解由 一 事 右太政官去天長元年六月十九日下 二 民部省 一 符 䆑 。 参議左大 弁従四位上直世応奏状 䆑 。侍従厨并防鴨河葛野河両所五位 以下別当等 。永預 二 其事 一 曾無 二 交替 一 。縦有 二 欠損 一 何以拘 留。稽 二 之公途 一 理不 レ 可 レ 然。望請。自今以後、限 二 三箇年 一 更相遷替。 付 㿌二官物 一 即責 二 解由 一 。伏 聴 二 天裁 一 者。 右大臣 宣。 奉 レ 勅。 依 レ 奏者 。今被 二 大納言正三位兼行左近衛大将 民部卿清原真人夏野宣 一 䆑 。 奉 レ 勅。 三年之歴従 レ 事迫促。 宜佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一六 下自今以後以 二 四箇年 一 為中遷替期上。 左右防城使同准 レ 之。 天長八年十二月九日 これは、両所の長官である別当の任期を三年から四年へと改め た内容であるが、本文中に天長元年︵八二四︶段階でのことと して﹁防鴨河葛野両所﹂とあり、ともにその名称から明らかな ように鴨川と葛野川の管理を担当する官であり、創設時期は不 明ではあるものの遅くとも天長元年以前には両使が存在してい たことが明らかとなる。そして、両所は貞観三年︵八六一︶三 月には廃止され、山城国が鴨川と葛野川の管理に当たることに なる ︵ 14︶ が、 ﹁防鴨河所﹂はその後程なくして復活したようで、 ﹁防 鴨河使﹂として鴨川の管理にあたることとなった ︵ 15︶ 。 このことは、葛野川の治水に関しての朝廷の撤退を意味する ものといえる。しかし、葛野川に関しては防葛野河所が設置さ れる以前から治水に関する記録が五例残っている。初見は延暦 一九年︵八〇〇︶一〇月に山城・大和などの国に対して一万人 を徴発し、葛野川の堤を修理させたという記事である ︵ 16︶ 。残る四 例は平城朝に集中しているが、大同元年︵八〇六︶九月 ︵ 17︶ 、大同 二年 ︵八〇七︶一一月 ︵ 18︶ 、大同三年 ︵八〇八︶六月 ︵ 19︶ および七月 ︵ 20︶ である。 それに対して鴨川の治水に関する記事は同時期には みられず、平安時代初期には鴨川よりも葛野川に対する治水事 業に朝廷が力を尽くしている様子がうかがえる。そして、その 後は先述の防鴨河所・防葛野河所の設置に至るのである。 ただし、防鴨河使だけが復活するのに対して防葛野河所がそ のまま消滅してしまうという事実は否定できず、葛野川の治水 に対する朝廷の関心が稀薄になったといえる。これは、当時の 右京が衰退し始めている兆候であると考えられる。 それに加えて、地形的に右京は左京に比べて低湿地であった といわれているが、それ以外にも発掘調査によれば洪水の痕跡 が確認されている。例えば西市に近接していた西堀川小路の場 合、三条二坊では堀川は泥土層と砂礫層が交互に堆積し、上層 の砂礫層は路面にまで達するなど、洪水で一気に埋め尽くされ てしまった状況が確認でき、出土物から一〇世紀後半に埋もれ て廃絶している。さらに、五条二坊ではやはり一〇世紀後半以 後に西側に川が氾濫して川幅が拡がっており、一一世紀後半に は西堀川小路が墓地として利用されている。また、七条二坊に おける川の堆積は、幾層にも互層になって複雑に重なり合って おり、川幅は二二メートル以上で検出されるなど、度重なる氾 濫の結果が見出されている ︵ 21︶ 。さらに、西堀川について、平安中 期には土砂に埋まり、あふれ出た水が西堀川の二本西側の道祖 大路に流れ込み、 勘解由小路以南の道祖大路は道祖川に変貌し、 平安後期には西堀川小路と道祖大路の間の野寺小路にも流路を 形成し、野寺川になったことが確認されている ︵ 22︶ 。
平安京の変質 牧 伸行 一七 以上のように、西堀川に関しては文献上明確に確認すること はできなくとも、発掘調査によって一〇世紀後半以降のその氾 濫の様子が明らかとなってきている。このような京内の西堀川 の氾濫は、平安京の西郊を流れる葛野川の治水を行うことに対 して、朝廷に無力感を感じさせることになったのではないだろ うか。低湿地であることに加えての西堀川の氾濫は自然条件に 対する人間の無力感を一層に痛感させたものと考えられ、その ために防葛野川所が廃止後に、防鴨河使のように復活すること がなかった要因の一つであったと考えられる。これは右京が衰 退を始めたと推測できる九世紀中頃と時期はずれるものの、西 堀川の氾濫が右京の衰退に拍車を掛けたことが推測できる。
おわりに
以上、平安京の変質、特に右京の衰亡について概観した。 桓武天皇によって万代の宮として建設された平安京である が、その発展は都の西と東では大いに異なるものであった。つ まり、平安京における左京への人の移動は、比較的早い時期か らみられ、右京の衰亡には地理的条件が大いに関与していたと 考えられることである。そうすると、 やはり慶滋保胤のいう ﹁天 意﹂は大いに傾聴に値することである。 しかし、単に地理的条件であるとか﹁天意﹂という言葉で片 付けることが可能かどうかは少々疑問が残る。例えば、右京に あたる太秦地域などは、古くから秦氏によって開発されていた 地域であったと考えられることである。そうなると、単に地形 的に湿地であり開発が遅れたと言い切ることはできず、地理的 要因以外にも何らかの障害が存在した可能性があるが、現段階 では不明であり後考を期すべき問題である。 註 ︵ 1︶ ﹃日本紀略﹄前編一三延暦一二年 ︵七九三︶正月甲午 ︵一五 日︶条 甲午。 遣 下二 大納言藤原小黒麿。 左大弁紀古佐美等 一 。 相 中 山 背国葛野郡宇太村之地 上 。為 二 遷都 一 也。 ︵ 2︶ ﹃続日本紀﹄ 巻卅八延暦三年 ︵七八四︶ 五月丙戌 ︵一六日︶ 条 に ﹁丙戌 。勅遣 二 中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂 。 從三位藤原 朝臣種継。左大弁従三位佐伯宿祢今毛人。参議近衛中將正四位 上紀朝臣船守。参議神祇伯従四位上大中臣朝臣子老。右衛士督 正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。衛門督従四位上佐伯宿祢久良麻 呂。 陰陽助外従五位下船連田口等於山背国 一 。相 二 乙訓郡長岡村 之地 一 。爲 二 遷都 一 也﹂と遷都のための相地使が山背国の長岡村 へ派遣され、同延暦三年︵七八四︶一一月戊申︵一一日︶条に ﹁戊申 。 天皇移 㿌二幸長岡宮 一 ﹂と桓武天皇が天皇が移幸すること により長岡京遷都が行われている。佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一八 ︵ 3︶ ﹃日本紀略﹄ 前編一三延暦一三年 ︵七九四︶ 一〇月丁卯 ︵二八 日︶条 丁卯 。︵中略︶遷 レ 都 。 詔曰 。云々 。 葛野 ︿乃﹀大宮地者 。 山川 ︿毛﹀ 麗 ︿久﹀ 。四方国 ︿乃﹀ 百姓 ︿毛﹀ 参出来事 ︿毛﹀ 便︿之弖﹀云々。 ︵ 4︶ ﹃日本紀略﹄前篇一三延暦一三年 ︵七九四︶一一月丁丑 ︵八 日︶条 丁丑 。詔 。云々 。山勢実合 二 前聞 一 。云々 。 此国山河襟帯 。 自然作 レ 城。 因 二 斯形勝 一 。可 レ 制 二 新号 一 。宜 下 改 二 山背国 一 。 為 中 山城国 上 。又子来之民 。謳歌之輩 。異口同辞 。号曰 二 平 安京 一 。 又近江国滋賀郡古津者。 先帝旧都。 今接 二 輦下 一 。 可 下 追 二 昔号 一 改称 中 大津 上 。云々。 ︵ 5︶ ﹁池亭記﹂の本文及び読み下しについては大曾根章介 ・金原 理 ・ 後藤昭雄校注﹃本朝文粋﹄ ︵岩波新古典文学大系 27、岩波書 店、一九九二年︶による。 ︵ 6︶ 解釈に関しては前掲註︵ 5︶書と村井康彦﹁慶滋保胤﹃池亭 記﹄ ﹂︵村井康彦編 ﹃雅 王朝の原像﹄ ︿京の歴史と文化 1 長 岡・平安時代﹀ 、講談社、一九九四年︶を参考とした。 ︵ 7︶ ﹃類聚三代格﹄ 巻第八 ﹁農桑事﹂ 所収昌泰四年 ︵九〇一︶ 四月 五日太政官符 太政官符 応 レ 聴 レ 耕 㿌二作崇親院所領地五町 一 事 在 二 山城国愛宕郡 一 右得 二 彼院解 一 䆑 。 件地在 二 四條大路南。 六條坊門小路北。 鴨 河堤西 。京極大路東 一 。皆是依 二 省符并公験 一 売買人居之処 也。去貞観二年創建 二 件院 一 之日。遷 㿌二立彼屋舎 一 。以為 下 収 㿌二養氏女 一 之房室 上 也 。其中有 二 大泉 一 。宜 二 於漑灌 一 。仍加 二 墾闢 一 聊殖 二 粳稲 一 充 二 院中用 一 。而太政官同十三年閏八月 十四日下 二 山城国 一 符 䆑 。 鴨河堤東西除 二 公田 一 之外。 諸家所 二 耕作 一 水陸田皆尽禁遏無 二 復令 一レ 営。 縦雖 二 公田 一 為 レ 堤可 レ 成 レ 害者。 猶復莫 レ 令 二 耕作 一 者。 由 レ 是頃年不 レ 耕。 既成 二 荒 地 一 。今検 下 太政官去寛平八年四月十三日下 二 同国 一 符 上 䆑 。 可 レ 聴 レ 耕 二 作三條大路以北北辺以南水陸田廿二町百九十五 歩 一 者。 凡 所 㿌三以制 二 堤東西水陸田 一 者。 為 下 完 二 堤防 一 避 中 水 害 上 也。 而件院多在 二 堤西 一 。去 レ 堤五六段。 池水饒多。 地脈 卑湿。 不 レ 可 レ 成 二 堤防之害 一 也。 望請。 殊給 二 公使 一 先被 二 実 検 一 。若無 二 堤害 一 。准 二 諸家并百姓等 一 。復 レ 旧被 レ 聴 二 耕作 一 。謹請 二 処分 一 者。左大臣宣。奉 レ 勅。依 レ 請。 昌泰四年四月五日 ︵ 8︶ 中村修也﹃平安京の暮らしと行政﹄ ︵日本史リブレット 10、山 川出版社、二〇〇一年︶ 。 ︵ 9︶ ﹃延喜式﹄巻四十二東西市司式東廛条 東絁廛 羅廛 糸廛 錦廛 䇔 頭廛 巾子廛 縫衣廛 帶 廛 紵廛 布廛 苧廛 木綿廛 櫛廛 針廛 沓廛 菲廛 筆廛 墨廛 丹廛 珠廛 玉廛 藥廛 太刀廛 弓廛 箭 廛 兵具廛 香廛 鞍橋廛 鞍褥廛 䌨 廛 鐙廛 障泥廛 鞦廛 鉄并金器廛 漆廛 油廛 染草廛 米廛 木器廛 麥廛 塩廛 醤廛 索餅廛 心太廛 海藻廛 菓子廛 蒜 廛 干魚廛 馬廛 生魚廛 海菜廛 右五十一廛東市。 ︵ 10︶ ﹃延喜式﹄巻四十二東西市司式西廛条 絹廛 錦綾廛 糸廛 綿廛 紗廛橡 帛廛 䇔 頭廛 縫衣 廛 裙廛 帯幡廛 紵廛 調布廛 麻廛 続麻廛 櫛廛 針廛 菲廛 雑染廛 蓑笠廛 染草廛 土器廛 油廛 米
平安京の変質 牧 伸行 一九 廛 塩廛 未醤廛 索餅廛 糖廛 心太廛 海藻廛 菓子 廛 干魚廛 生魚廛 牛廛 右卅三廛西市。 ︵ 11︶ 中村修也前掲註︵ 8︶著書。 ︵ 12︶ 北村優季 ﹃平安京の災害史 都市の危機と再生﹄ ︵歴史文化ラ イブラリー 3 4 5 、吉川弘文館、二〇一二年︶ 。 ︵ 13︶ 北村優季前掲註︵ 12︶著書。 ︵ 14︶ ﹃類聚三代格﹄巻一六 ﹁山野藪沢江河池沼事﹂所収貞観三年 ︵八六一︶三月十三日付太政官符 太政官符 応 下 停 二 防鴨河葛野河両使 一 中 国司 上 事 右件等河頃年分 㿌二置使員 一 令 レ 加 二 修防 一 。而或数年積功一時 招 レ 損。 或今日成 レ 労明朝致 レ 破。 空費 二 公粮 一 。 動 申 二 流損 一 。 非常之因豈如 レ 此哉。 右大臣宣。 奉 レ 勅。 為 レ 政之道最随 二 権 宜 一 。今雖 レ 有 二 其使 一 。所 レ 成猶少 。用途更多 。自今以後 。 停 㿌二止件使 一 。永預 二 国司 一 令 レ 修 㿌二造之 一 者。 須 三 守従四位下 紀朝臣今守専一検校勤存 二 公平 一 。 既 被 二 委付 一 。 不 レ 得 二 怠慢 一 。 貞観三年三月十三日 ︵ 15︶ 渡辺直彦 ﹁防鴨河使の研究﹂ ︵同 ﹃日本古代官位制度の基礎的 考察﹄増補版所収、吉川 弘文館、一九七二年︶ 。 ︵ 16︶ ﹃日本紀略﹄前篇一三延暦十九年︵八〇〇︶十月己巳︵四日︶ 条 己巳 。発 二 山城 。大和 。 河内 。摂津 。 近江 。丹波等諸国民 一万人 一 。以修 二 葛野川隄 一 。 ︵ 17︶ ﹃日本後紀﹄巻十四大同元年︵八〇六︶九月癸巳︵四日︶条 九月癸巳。 勅。 水之浸損。 積 レ 微為 レ 害。 属 二 于小決 一 。功 在 二 一簣 一 。而无 二 人監修 一 。致 二 此多壊 一 。宜 下 衛門衛士府専 㿌二 当左右京堤溝 一 。勤加 中 修補 上 。 ︵ 18︶ ﹃日本紀略﹄前篇一三大同二年 ︵八〇七︶一一月庚子 ︵ 一七 日︶条 庚子。令 レ 修 㿌二造大井 一 。 ︵ 19︶ ﹃日本後紀﹄ 巻一七大同三年 ︵八〇八︶ 六月壬申 ︵二一日︶ 条 壬申。 ︵中略︶ 是日。令 下二 有品親王并諸司把笏者一進 中 役夫 上 。各有 レ 差。為 レ 防 二 葛野河 一 也。 ︵ 20︶ ﹃日本後紀﹄ 巻一七大同三年 ︵八〇八︶ 七月辛丑 ︵二一日︶ 条 辛丑。 ︵中略︶是日。令 下二 内親王及命婦 一 進 中 堀 二 葛野川 一 役 夫 上 。各有 レ 差。 ︵ 21︶ 永田信一 ﹁[検証] 地下の都千二百年 発掘調査が明かす平安 京の構造﹂ ︵村井康彦編 ﹃雅王朝の原像﹄ ︿京の歴史と文化 1 長 岡・平安時代﹀ 、講談社、一九九四年︶ ︵ 22︶ 中村修也前掲註︵ 8︶著書。 ︵マキ ノブユキ 嘱託研究員︶