論 説
潜環
浅 」 ° 郎
1。
序 ―T問題 の処 在恐慌・産業循環の理論的研究は『 資本論』における資本蓄積〒再生産論体系 を基礎にすえながらも,何より恐慌に先行する好況期の資本蓄積・拡大再生産 の動態・構造の把握 と恐慌によリニ時的・暴力的に「解決」される諸矛盾の措 定,およびその累積過程を明らかにしなければならない。このことは,恐慌・
産業循環論の不可欠の要件であり,また,最近の恐慌論研究にかなり共通した 問題設定である。われわれは,こ うした問題設定をここでは「循環的蓄積過程 分析」とい うことにしよう。
さて,循環1的蓄積過程分析 とい う問題設定においてはただちに次の2つの問 題が生じる。すなわち,第■に,いわゆる「 プラン問題」理解においてどのよ うな見解にたつにせよぅ「 資本主義的生産様式の内的編成をいわば理想的平均 においてしめす」
(『
資本論』第3部,Dietz tt S.839。
以下『 資本論』からの 引用は,DoK.B4Ⅲ ,S.839。
としめす)とされる『 資本論』体系と循環的蓄 積過程 との理論的関連をどのように把えるかとい う問題である。換言すれば,『 資本論』の論理段階で循環的蓄積過得分析の課題を
F基
本的」│に
で あ れ 解 明・達成できるとするのか否かとい うことでぁる。この問題は久留1間―宇野論 争1)で
問われて以来,最近の諸研究の循環的蓄積過程め分析においても避けて 通るわけにはいかない問題 となっ.ている2)も
:ち なみに,i近
年もっとも注目をあ つめた論争の1つ である久留間―富塚論争わをとりあげ,第1の 問題の処在を 簡単にみておくことにしよう。この論争における直接的論点は,(i}。 再生産論′
碑
II U
禾
法経研究
30巻2号
(1981年)と恐慌論の連関について
,は)。均衡蓄積率概念について
,繊.恐慌の必然性 と い う項 目を設けることの是非について
,とい うことになっているが 4), むしろ 両者の根本的な相異は個 々の概念や用語をめ ぐるそれではな く
,恐慌論 の体系 構成における対立にある。両者はともに『 資本論』体系
=「資本一般」説にた ちなが らも
,富塚氏は「 たしかに
,現行『 資本論』体系は
,当初 のプランにお ける『 資本一般』の項に想定されてよりは
,はるかに完備 した内容
(『競 争』
お よび『 信用』の基礎理論 ,『 三大階級の経済的基礎』
=三所得範疇の再生産の 解明を も含めての
),資本制経済機構 の全面的・体系的把握の 完成を ふ くなで あろ うが一―それによってまた
,恐慌の必然性の論定 も『 資本論』の論理の内
部で展開しうるものとなった」(富
塚〔3〕pp.23〜
24)と されて,『
資本論』第 2部 第 3篇 の論理段階で,「均衡蓄積軌道」を理論的基準として過剰蓄積=生 産と消費の矛盾の累積をしめし,それとの対応で第3部第3篇 の論理段階で「資本の絶対的過剰生産」と実現「問題Jの 二律背反的把握を基軸論理とする
「恐慌の必然性」把握をしめされ る。こうして
,「資本一般」の方法論的抽象 性 のもとではあれ「われわれは ,、 事実上 《 産業循環》の過程における最 も決定 的契機たる好況期から恐慌期への移行の必然性を規定する論理を解明し把握 し ているといえる
J(富塚 〔 3〕
pp。176〜
177,傍点は引用者
)と主張されること になる。それに対 し
,久留間氏の恐慌論体系構想は従来の 所説一一す な わ ち
「 『 資本論』についてみるもまた
,その うちには恐慌への種 々 の 関説が見い出 され ることは事実であるが
,それ らはいわば資本一般 の一― もしくは『 理想的 平均における資本家的生産様式の内的構造』の論理的叙述の諸階程におけるこ の問題への言及に とどま り固有の恐慌論 とみなされるべ きものはそのいず こに も見い出されない。 」 (久 留 FF5〔
1〕pp.69〜 70)一一 とそれにもとづいて編集され た と考え られ る『 マル クス経済学 レキシヨン』恐慌
I〜Ⅳ (1972〜 1976年 )に
よれば
",少 な くとも『 資本論』第
2部第
3篇の段階では ,資 本の過剰蓄積や 生産 と消費の矛盾
"の累積過程
,あるいは恐慌に先行する好況期の資本蓄積 の動態・構造を把握す るとい う問題設定は成 りたたず 6),『 資本論』体系 =「 資 本一般」の論理段階で「《産業循環》の過程における最 も決定的契機たる好況期 か ら恐慌期への移行の必然性」は問題にされることはない。このように富塚氏 が『 資本論』体系のもとで恐慌の必然性 =「 《 産業循環》の過程における最 も決 定的契機たる好況期か ら恐慌期への移行の必然性」を把握できる 7)と す るのに 対 し
,久留間氏は『 資本論』体系には「固有の恐慌論」 とみなされるべ きもの
/
r ノ
はない とされているのである。
第
2の問題は
,第1の問題 とも関連 して
,『資本論』第
2部第
3篇のいわゆ る再生産表式論 と循環的蓄積過程分析の理論的関連を どのように把えるのか と い うことである。第
2部第
3篇の課題は「生産中に消費される資本は どのよう にしてその価値を年間生産物によって補填 されるのか
,また この補填の運動は 資本家による剰余価値の消費お よび労働者による労賃の消費 とどのようにかみ 合 っているのか」
CDoK.Bd.Ⅱ,S.392)を明らかにす ることにあ り
,その意味 で産業循環を とおしてつ らぬかれる再生産の諸条件「法員
1を明らかにしている のであって
,好況期の資本蓄積・ 拡大再生産の動態や構造を直接考察の対象 と しているわけではない。第
2の問題は
,この点をふまえた上で
,好況期の資本 蓄積・拡大再生産 の動態・構造を再生産表式を理論的枠組み として部門間の関 係や生産 と消費の関係において把握す るとい う方法論上の問題である。すなわ ち
,循環的蓄積過程分析では
,恐慌史研究などにより明らかにされる生産手段 生産部門の急速な拡大 とか好況期の価格騰貴 とか企業収益率の増大だ とかを個 々に再述すれば済む とい うものではな く ,資 本の無制限的蓄積衝動 を 内 的 本 性 とし諸資本間の競争を外的強制 としてすすむ好況期の資本蓄積・拡大再生産 と推のもとでの生産諸部門間の関係
,利潤 と賃金の分配関係
,諸価格や利潤率 の動向
,生産 と消費の関係などを相互に有機的な体系 として理論的に把握する ことが必要であ り
,ただ単に第
I部門の蓄積率の累積的増大などを想定 して再 生産表式で第
I部門の不均等な拡大を描 き出せばよい とするものではない。再 生産表式 自体は
,価値価格次元の限られたタームで構成 される抽象的理論であ り
,この点で循環的蓄積過程を全面的に把握・解明できないにしても
,こうし た好況期の資本蓄積・ 拡大再生産の理論的・体系的把握の基礎にな りうるか否 か とい うことは
,もう
1度,再生産表式の方法にたちもどって検討されなけれ ばならない。
ところで
,再生産表式論 と恐慌論研究の関連 とい う問題か ら研究史をかえ り
なれば ,〈 再生産の均衡条件〉をめ ぐる「条件論」的解釈 と「法則論」的解釈の
対立を統一的に止揚することによってはじめて
,再生産表式分析による資本蓄
積の動態・構造把握 とい う問題設定が確立される。すなわち
,こうした方向で
の研究の出発点の
1つをなす富塚氏は
,「ともか くも再生産が進行 してゆ くも
の とすれば
,それ らの『 条件
=法則』は結果 としては充足されてゆ くであろ う
が
,しかし過程を『 前から』 (す なわち 駆
mteに)みた場合
,それ らの『 条
法経研究
30巻2号
(1981年)件 』 の充足が あ らか じめ保証 され てい るわけではない 。だか らこそマル クス も また
,再生産 の正常的な進行 の『 諸条件 はまた
,それ と同数 の
,異常 な経過 の 諸条件 に
,すなわ ち恐慌 の可能性 に転変す る』 もの として把握 しているのであ る。」(富 塚 〔
3〕,p.305)として
,再生産過程 を事前的にみ る視角 を強調 し再 生産表式分析 に よる好況期 の資本蓄積 の動態・ 構造把握 の理論的根拠をそ こに も とめてい る。 とす るな らば
,この こ とは再生産表式を単 に「前か ら
Jみる ,
「 後 か ら」み る とい うことだけではな く
,当然
,再生産表式 を構 成 す る 諸契 機・ 諸 関係が
ex mteな関係 として再規定 され なけれ ばな らず
,ここに再生産 表式 の方法論的省察 の必要性がでて くる ことになる。
以上 の
2つの問題 は互いに関係を もつが
,小論 では第
2の問題 を申心 に循環 的蓄積過程分析 の問題意識 か ら再生産表式 の方法論 的省察をお こない
,もって 最近 の再 生産表式 に基礎 の
1つをお く恐慌・ 産業循環論研究 の 到 達 点 をふ ま え
,今後 の研究方 向を模索す ることを 目的 とす る。
註 1)久 留間鮫造「 マルクスの恐慌論の確認の ために」1930年
,同「 『 マルクスの恐 慌論の確認のために』への付論
J1953年,以上 , 久留間 〔
1〕所収
o宇野弘蔵
「 『 資本論』における恐慌論の難点」
1953年,宇野 〔
2〕所収。
2)最 近の恐慌 0産業循環論研究をめぐる議論の特徴の 1つ は
,久留間鮫造編『 マ ルクス経済学レキシヨン』恐慌 I〜 IV,1972年 〜
1976年,の 出版を 1つ の契機に して
,ふたたび「 プラン問題」とのかかわ りで議論が活発化してい る こ とであ る。次にふれるように久留間―富塚論争もその一環 として理解するこ とが で き る。こうした最近の議論については次の文献を参照
o馬場尚憲「 『 資本論』 と恐慌論」 『経済志林』第
41巻第 3・ 4号 ,1973年 o
高須賀義博「システムとしての資本主義と経済理論」 『経済系』第
100集,1974 年 o
高須賀義博「 プラン問題の方法論的考察」『経済評論』増刊号,1978年 10月 。 高木
彰「恐慌論の体系構成における問題点――久留間鮫造氏の所説の検討を 中心に一―」
(1),(2),(3)『岡山大学経済学雑誌』第 8巻 第 304号 ,1977年
,第9 巻第 1号
,第9巻 第 3号
1978年o松石勝彦 町資本論』と資本一般説」『経済学研究』
(一橋大学
)第22号,1979 年
o長島誠―「恐慌論の方法論的考察」 『 関東学院大学 三十周年 記念論文集』
1979年 o
3)稿
末文献 〔
7〕〜〔 11〕 参照 o
4)以 上
,富塚 〔
7〕。
5)こ
こでは一応
,久留間氏の『 増補新版
恐慌論研究』
1965年で把えられ る恐慌 論体系構想は
,『レキシヨン』恐慌 I〜 Ⅳの編集方針になっているもの と考えて お くが ,こ の点は必 らず しも確認 されていることではない。高木彰
,前掲論文 で は
,それ らのあいだの くい違いが指摘 されてい る。また
,松田氏は
,『レキシヨ ン』恐慌の編集順序 とは ことなった久留間説理解をしめしている。松 田弘三『 独 占と 1恐 慌 の理論』新評論 ,1980年 ,pp.230〜 231参 照 。
6)久 留間氏は富塚氏を批判 されて次のようにいわれてい る。 「 ところがあなたは
,第 2部 第 3篇 で
,どのような場合に資本の過剰蓄積が生 じるかが明らかにされ る べ きだとい う発想から出発 して
,それを明らかにす るためにいわゆ る『 均衡蓄積 率の概念を定立』されてい るらしいのですが ,こ れはマル クスの考え方 とは全 く 無縁なもののよ うです。マル クスは右に も述べた ように
,資本の過剰蓄積の概念 規定を第 2部 第 3篇 で与えようとはしていないのに
,あなたは
,それがそ こで与 え られ るべ きだ と考 えられ る。そ してそ の た め に『 均衡蓄積率の概念』を『 定 立』 し
,それを基準に過剰蓄積の概念規定を与えよ うとされ るらしいが ,こ の過 剰蓄積の概念規定はマル クスのそれ とはまるでちが った もののよ うです。
J(久留 間 〔 10〕 pp.23〜
24)。7)高 須賀氏は この点をして 次の ように いわれ る。 「 富塚氏の『 資本一般』の論理 次元における恐慌 の 必然性 の 論証は
,資本主義の『 内的構造』論に『 循環的構 造』論を密輸入す ることに よってのみ可能であ り
,その ことに よって『 理想的平 均はおける資本主義的生産様式の内的構造』は産業循環を貫いて成立す る資本主 義の長期 1的 構造であることが論理的にあいまいにされてしまった点に
,富塚恐慌 論の最大の難点をみ る。」 (高 須賀 ‐ 「 プラン
FH5題の方法論的考察」前掲,p.30)
2.再生 産表 式 の方法 論 的 省察
再生産表式は価値 どお りの交換・需要 と供給の一致を理論的前提 と し て お り
,過
程を「前から」みるといっても均衡条件の破壊 とか需要と供給の不一致 とかが直接1的にとりあげられるわけではない。循環的蓄積過程分析とい う問題 意識からすれば,過程を「前から」みるとい うことは,総資本の運動の第2幕 たる社会的総資本の流通過程において過程を主導する要因・契機を明示的に措 定し,と りあげることに他ならず,この点ではまず再生産表式における「貨幣 資本の役割」が注目される。ところが,再生産表式における貨幣は,商品資本循環
777‑α一″
α … 階 における貨幣
0としつ ま闘 手段の端 は いてあらわれ
,必らず しも貨幣資本独 自の役割は直接的に明らかになっている わけではない。そ こで
,われわれは再生産表式におけ る貨幣資本の独 自の役割 を考察することからはじめる。
2・ 1。 再生産表式 と貨幣資本
『 資本論』第
2部第
3篇の第 18章 「 緒論」に F貨 幣資本の役割」 と題する節
(同第
2節)があ り
,そこでは次のようにはじめられている。
「 以下 の記述はこの篇のあ との方の部分では じめて取 りいれられ るべ きもの であるが
,われわれは今す ぐこれを研究 したい と思 う。すなわち社会的総資本 の構成部分 としてみた貨幣資本がそれである」
CD.K.BdⅡ ,s.354,傍点は 引用者
)。そしてそ こでは
,社会的総資本の流通過程に おけ る 貨幣資本の役割 を次の
2点で指摘 している。第
1に「 資本主義的商品生産は一一社会的に見て も個別的に見ても一一貨幣形態にある資本すなわち貨幣資本を
,すべての新た に始まる事業の起動力 として
,また連続的動
1カとして前提する。」
(D.K.Bd夏s.354)。 第
2に,「 回転期
FHlの長さにしたが って
,生産資本を動かすために必 要な貨幣資本の量は大 きい ことも小さい こともある。やは りすでに 見 た よ う に
,回転期間が労働期
1間と流通期間 とに分かれ ることは
,貨幣形態で潜伏また は遊休 している資本の増加を必然的にす るのである。」
(Do K.BdⅡ,S.357)。
以上のマル クスからの引用において
,まず 明らかにされなければならない こ とは 「 社会的総資本の構成部分 として見た貨幣資本」の把握である。社会的総資 本の再生産を考察す るときの総資本把握の視点は商品資本循環範式 ″ ′ 一
G′一
″ ぐ
%…P…″′ であ り
,通常 ここに資本循環論 佛
2部第
1篇)と再生産表 式論 (第
2部第
3篇)の連係が指摘 され る。マル クスは商品資本循 環 範 式 に おいて
,社会的総資本の運動把握への要求 1)を みて
,「″′ ・ ・ ・″′とい う運動で は
,まさに この総生産 ″′の各部分が どうなるのかが示 されなければならない か らこそ
,それに よって社会的再生産の諸条件が認識できるのである。」(D.K.
コ d=,S.392)と いい
,商品資本循環を基本的な視角 として再生産表式を構成
す る。 ところが
,すでにのべた ように商品資本循環視点に よる社会的総資本の
把握においては
,貨幣は流通手段 としてあらわれる。したがって
1問題は
,商品
資本循環視点に よる社会的総資本の把握 と「 社会的総資本の構成部分 として見
た貨幣資本」の把握が どのように関連 しているのか とい うことでなければなら
ない。資本循環論 (第
2部第
1篇)と再生産表式論 (第
2部第
3篇)の連係に ついては
,従来商品資本循環範式を申心に理解 されてきたが
,「社会的総資本 の構成部分 として見た貨幣資本
Jの問題は
,社会的総資本把握におけ る資本循 環論 と再生産表式論の関係をあらためて問いなおす ことになるのである
i。『 資本論』第
2部第
1篇F資 本の諸変態 とその循環」では
,「貨幣資本の循 環」
(同第
1章),「 生産資本の循環」
(同第
2章),「商品資本の循環」
(同第 3 章
)の 3つの循環の相異が
,「単に形式上の相異 として
,あるいはまた単に主観 的な
,ただ考察者に とって存在するだけの相異
J CD.K.BdⅡs.105)と して考 察され
,続いて同第
4章「循環過程の三つの図式」では資本の運動が
3つの循 環の統一 として把えられている。すなわち「現実には
,どの個別産業資本 も 3 つの循環のすべてを同時におこなっているのである。この
3つの循環
,資本の
3つ
の姿の再生産形態は
,連続的に相並んで行 こなわれる。 」 (D.K.BdI,S.
105D。 こうした
3循環の統一 としての資本の運動把握においては次のことが留 意されなければならない。第
1に,「連続的にお こなわれ る産業資本の現実の 循環はただ単に流通過程 と生産過程 との統一であるだけでな く
,その
3つの循 環全部 の統一
J CDoK.BdⅡ,S。
106)であ り「 資本は全体 としては同じときに 空間的に相並んで別 々の段階」に存在 し 「 どの形態 も他の形態のあとに続 き ,ま
た他の形態に先行す るのであって
,ある一つの資本部分が一つの形態に帰るこ とは ,別 の資本部分が別 の形態に帰ることを条件 としている
J(以上
,D.K.BdⅡ ,S,108)と い うことである。第
2に,3循環の統‐ としての資本の運動把 握は
,マル クスにおいては資本循環論 (第
2部第
1篇)の段階ですでに
,個別 資本だけでな く社会的総資本の運動についても確立されているとい うことであ る。す なわち「
3つの循環のなかにはじめて総過程の連続性―一前述 のような 中断ではない一一は実現されている。社会的総資本はつねにこの連続性をもっ ているのであ り
,社会的総資本の過程はいつで もこの三つの循環の統一をもっ ているのである。」
(D「Ko BdⅡ,S.108)。 以上の
2点をもって「
3循環 の統∵
としての社会的総資本
Jの把握 とい うならば
,(第1図)にしめされる ように
「
3環循の統一 としての社会的総資本
Jは ,時間的
0空間的に
3つの資本形態 に分割されて存在し
,かつ互いにそれぞれの形態から次の形態へ と機能転換 し つつ運動 している姿が とらえられて くる。
こうした
3循環 の統一 としての社会的総資本の把握は
,第1に,個別資本の
再生産 の連続性 とい う現実の過程を基礎 とし 2), 第
2に,個別諸資本の全体が
(第 l図
)3循環の統一 としての社会的総資本 法経研究
30巻2号
(1981年)t+1
社会的総資本をなす とい う総計把握 3)に より
,個月 1資 本の運動が
3循環の統一 であるかぎ りその総計たる社会的総資本 もまた
3循環の統一 と し て 指定 され る。この意味では一方で
3循環の統一は社会的総資本の現実 の過程そのもので あるが
,他方でその把握は形式
1的なものでしかない。
3循環 の統一 としての社 会的総資本の把握の基礎 となる個別資本の再生産の連続性は
,『資本論』第 2 部第
2篇のいわゆる資本回転論におけ る固定資本の回転の特殊性
,回転期間の 全 き分析によってはじめて
,生産過程におけ る資本の存在形態 と流通過程にお け る資本の存在形態 の機能的な転換 として明らかにされるのであ り
,そこには
じめて
3循環の統一 としての個別資本の連続性の実体的基礎が与え られる。し たが って
,3循環の統一 として社会的総資本を把えることは社会的総資本の現 実の過程をそのまま反映 しているにしても
,資本諸部分の価値的・素材的補償 の運動や所得流通 とのからみ合いが問題になるわけではない。「 個別資本を自 分のただ独立に機能 しているだけの構成部分 として含んでいる社会的総資本の いろいろな構成部分が一一資本についても剰余価値についても一一 どのように して流通過程で互いに補填 され るのかは ,資 本の流通の諸事情にも他のすべて の商品流通にも共通な
,商品流通上の単なる諸変態のからみ合いからは明らか にならないのであって別の研究方法を必要 とするものである
J CD.K.BdⅡ ,sl18)。 い うまで もな くここでい う「別の研究方法」 とは
,商品資本循環視点か ら社会的総資本の運動を把える『 資本論』第
2部第
3篇の 再生産表式論 で あ る。
t+2
社 会 的 総 資 本
社会的総資本の構成部分 として貨幣資本を見 るためには
3循環の統一 として 社会的総資本を把握 し
,時間的・空間的に総資本が
3つの形態に分割され存在 す る現実の過程をみなければならず
,その ときは じめて資本循環論 (第
2部第
1篇)で把握された
3循環の統一 としての社会的総資本の
,その構成部分たる 貨幣資本が
,資本回転論 (第
2部第
2篇)の 考察をふまえて再生産表式論 (第
21部第
3篇)で 独 自の役割をもつ ものとして登場 して くることになる。商品資本 循環視点に より社会的総資本を把握することは
, 3循環の統一 としての社会的 総資本の現実の過程を「社会的資本の一年間の機能をその結果において考察す る
Jこと
,あるいは「 社会が一年間に供給する商品生産物を考察する」
(以上
,DoK.BdI,S.391,傍
点は引用者
)ことであ り
,現実の社会的総資本の再生 産過程を一定の視点から抽象することにはかならない。たしかに
,商品資本循 環視点から
3循環の統一 としての社会的総資本の再生産過程を抽象すれば
,貨幣は商品 と商品の交換を媒介する流通手段の機能においてあらわれるが
,貨幣 が流通手段 としてあらわれること自体は
,社会的総資本の構成部分 として見た 貨幣資本の独 自の役割を否定するものではない。この場合
,社会的総資本の構 成部分 として
,商品資本 と同時に相並んで貨幣形態にある資本部分 が 存 在 し て
,捨れが全過程を
,したが ってまた商品 と商品の交換を主導す るのである。
再生産表式における貨幣資本の役割は
,全過程を主導す る起動力・連続的動力 である。マル クスは第
2部第
3篇の単純再生産・」
A 大再生産の諸条件を解明す るにあたってこ うした貨幣資本の全過程の起動力・連続的動力 としての役割を 必 らず しも明示的にのべ ているわけではなかったが
,固定資本部分の補填の条 件や蓄積部分の転態 の条件を解明す るときには
,一方的販売 (商 品資本形態で 存在する
)と一方的購買 (貨 幣資本形態で登場する
)の一致の条件 として
,一方で商晶資本が存在すると同時に他方には貨幣資本 として登場 して くる社会的
総資本の構成部分の存在を明らかにしているのである。再生産表式は価値どお りの交換0需
要 と供給の一致を理論的前提にしているとしても,恐1院論研究の 問題意識からみるときには,再生産表式における貨幣は単に流通手段の機能に おいてみるだけでなく,全過程の起動力・連続動力として,貨幣資本の役割に おいて位置づけられねばならない。すなわち「 商品生産が資本主義的形態の一 般的形態だとい う事実は,すでに貨幣が単に流通手段 としてだけではなく,貨 幣資本としてもそこで演ずる役割を含んでいるのであ り,また,正常な転態の ためのしたがって単純な規模なり拡大された規模なりでの再生産の正常な進行法経研究
30巻2号
(1981年)のための
,この生産様式に特有ない くつかの条件を うみ出すのであるが
,これ らの条件はまたそれ と同じだけ多 くの正常でな tヽ 進行の条件に
,すなわち恐慌
の可能性に転化するのである。なぜなら均衡は一一この生産の自然発生的な形 態のもとでは一一それ自身一つの偶然なのだか ら で あ る」CD.K.BdⅡ,ss.
490‑491)。
それで │は
,価値 どお りの交換・需 要 と供給 の一致 を理論的前提 とす る再生産 表 式 におけ る貨幣を全過程 の起動力・ 連続 的動 力 として位置づけ るとい うこと は
,再生産表式 の理解に とって どの よ うな意味を もつのであろ うか 。それを以 下
,再生産表式 のい くつかの契機 について検討 しよう。
註
1)マルクスは「 商品資本の循環」の考察のなかで
,次のようにいっている。「 こ の循環をっただっ 循環の一般的な形態 として
,すなわち各個の産業資本を (そ れが 最初に投下される場合を ,除 き
)そのもとで考察するだけでなく ,ま た同時にいろ いろな個
711資本の総計すなわち資本家階級の総資本の運動形態 として考察するこ とを要求するのであって ,こ の運動では各個の産業資本の運動はただ一つの部分 運動 として現われるだけで ,こ の部分運動はまた他の部分運動とからみ合い他の 部分運動によって制約されるのである。
J(DoK.BdⅡ,S.101。 傍点は引用者
)o2)個 別資本の再生産過程の連続性の根拠の 1つ として「 連続性は
,資本主義的生 産の特徴であって
,その技術的基礎によって必然的にされている。」 (D.K.BdⅡ
,S.106)
3) 「社会的資本は個別資本の総計 (株 式資本も含めて ,ま た政府が生産的賃労働 を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能するかざりでは国家資本も含 めて
)に等しいとい うこと ,ま た
,社会的資本の総運動は個別資本の代数的総計 に等しいとい うこと
,……」 (DoK.Bd■
,S。101)2・
2.再生産表式 におけ る貨幣流通
個別資 本 の循環 の考 察においては
,商品資 本は売れ て貨幣資本に転化 で きる こ と
,および
,貨幣資本はいつで も存在す る生産諸手段 と労働力にたい し
,生産資本に転化 で きることが前提 されてい るのであ るが
,社会 的総資本の再生産 を問題 にす る再生産表式 では
,商品資本 の貨幣資本への転化 (″ ′ 一 G′
)および そ の対極 た る貨幣資本 の生産資本へ の転化 (G― の
,モしてそれ らと所得流通 とのか らみ合しヽの運動 を可能 ならしめる貨幣流通が解明 され る。モの際 マル ク スは ,第
I部門 または第 Ⅱ部門 の資本家が まず 貨幣 を投入 しなければ ならない
10 (177)
としたが
,この貨幣は全過程の起動力・連続的動力 としての貨幣資本 ,社 会的総 資本の構成部分 としての貨幣資本である
.。「い くらかの貨幣準備は一一資本前 貸のためであろ うと収入支出のためであろ うと一―すでに第
1篇と第
2篇で明 らかにした ように
,どんな事情のもとでも生産資本 と並んで資本家の手 もとに あるもの として前提 されなければならない」
CD.K.BdH,S.399。傍点は引用 者
)。すなわち ,資 本循環論 (第
1篇)と資本回転論 (第
2篇)で 明ら かにさ れた よ夕に
,貨幣資本は生産資本・ 商品資本 と時間的・空間的に相並んで存在 するのであ り
,資本家がまず投入する貨幣 も社会的総資本の構成部分 としての 貨幣資本でなければならない。また
,この貨幣の投入は「貨幣流通のための前 貸」
(D.K.BdΠ ,S.400)ともいわれるが
,それは価値 どお りの交換 わ需要 と 供給の一致を理論的前提 として
,貨幣が出発点たる資本家の手 もとに還流する ことによってはじめて「前貸」 とみえて くるにす ぎない。このことは
,再生産 表式におけ る貨幣流通の重要な一環をなす固定資本の補填の条件や蓄積部分の 転態の条件における一方
1的購買 (G一 ″
)と,方 的販売 (″ 一
G)の対応を考察
すれば
,ただちに明 らかになる。固定資本の補填にしろ資本蓄積にしろ
,この 過程を主導す るのは一方
1的購買 として登場す る貨幣資本の側であ り
,貨幣資本 としてのその機能は生産資本諸要素に転化することである。それに対 しず方的 販売に よ り獲得され る貨幣は
,蓄蔵貨幣の機能において流通過程から脱落し社 会的総資本の構成部分 として貨幣資本の一部分をなし 1), 出発点の資本家のも とに還流す るわけではない。商品資本の貨幣資本への転化は貨幣が出発点に還 流す るか否かにかかわ らず
,消費支出をのぞけば貨幣資本の生産資本への転化 によぅてその過程は主導されているのである。こうした資本の流通過程におけ る貨幣資本の役割は
,蓄積部分の転態の条件の理解においては決定的に重要で ある。すなわち
,剰余価値を担 った ものとして商品形態で存在す る y部 分は
,
とりあえず商品そのもの として流通過程にはいるのであって
,資本蓄積に素材 的に関連をもつ商品も
,そのもの としては一方的販売をなすだけである。それ にたいし
,今期生産された剰余価値を担 う商品資本 とは直接の関係なしに
,現実的蓄積
=蓄積需要 として一方的購買が貨幣資本の機能においてあらわれねば ならない。当該期の意 1図 される蓄積需要は
,決して実現 し貨幣化 した剰余価値 が (″ ι
+νの十νんに分割 されて決まるのではな く
,その源泉は何であれ 2)全 過程の起動 力として貨幣形態で登場するのである。一― (第 21図)参 照。それゆ え
,はじめから″を
y=0々+νυ
)+M々に分割 し部門間 0部 門内の諸転態を
(176) 11
法縫研究
m巻2号
(1981年)
購員
購買
1鰯
2図
)再生産表式と鎌
.資本
(貨 幣 1資 本
) (消費支 1出 )
□ 十□ 十
脳ぬ 十 μ
a+④
yt .+
721 +
脳
1・ ・ ・… ・ ・ (商 品資杏
)ン
2お
‐・…
(商1晶 資本 )
[垂∃■□ 十 十②l
(貨 幣 資本 )
(消費支 1出 )
誰 ・
│□,国写 煮 諄殴象 貶
[をにな震霜諄鷺
はないが購買として登場するときに
l■
,そ の過程を主導する貨幣資 本としてあら│われる9
貨幣流通によって説明するならば
│,そ
れは再生産表式における貨幣を流通手段 一般に解消し│,事
実上,物々交換に還元する俗流1的な貨1幣流通の理解であり,
マルクス
1の
3循環の統一としての社会1的総資1本把握と商融資本循環視点におけ る社会的総資本把握の1関連│,し
たがつてまた資本の流通過程における貨幣資本 あ独自の役割にたいする誤まった理解といわざるをえない。ところで周知のように
;『
資1本論│』第 3部第 5篇第1勢章「信用制度のもとで の流通手段Jにおける.マルタスの叙述をめ ぐらて│,銀
行が産業資1本に貸しだす 貨幣が「通貸の前貸JなのかF資
本の前貸」なのか区‐rlJする1問題で従来から論 争が,あ
る3)。
この諭争は「流通手段への支出と資本の貸出との区Flllは現実の再 生産離 では最もよく1現わ│れている(。 わ│れわ,れは前に佛 2部第 3篇で),生産 のいろいろな成分がどのように交換されるかをみたJ CD̀Kl団璽‐,S褥 )と いうマルクスあ指摘にした│がって│,『資本論│』 第2部第 3篇に もどり1再生産表一 の
十 ″
一﹄.
式における貨幣流通の問題 としても議論 されている。われわれの問題関心はさ しあた り第
3部第
5篇の段
1階で
1問題 となる「流通手段の支‐ 出と資本の貸出」の 区別ではないが
,この論争が第
2部第
3篇にかかわるかぎりで
,この論争にお け る議論のい くつかを検討す ることも必要である。
久留間健 〔
12〕氏は
,先のマル クスの指摘にしたが って『 資本論』第
2部全 体 の考察をふまえて「流通手段の前貸」 と F資 本の前貸」の厳密な区別を与え ようとされている。久留
1間説の要点はその結論部分に かぎって い え ば
,第1ぃ
G一欧
び
%…″ に α
"還
流運動をおこな う貨幣卸 ま生産理程へ の資本の前貸であ り
,それにたいし再生産表式であらわれる「 貨幣 の出発点へ の還流」すなわち
G二″一
Gとい う還流運動をおこな う貨幣
Gは流通過程への 流通手段の前貸であるとい うこと
,第2に ,この「 資本の前貸」と「 流通手段 の前貸」は対立的に区別 され
,資本の前貸は流通手段の供給ではあ りえず
,また流通手段の前貸は資本の前貸ではあ りえない とい うことである。こうした久 留間説にたいしい くつかの批判がなされたが 4), 前畑雪彦 〔
13〕氏はこうした 論争をふまえた上で
,久留
IFH5説にたいする批判
1的検討をおこない
,われわれの 問題関心からしても極めて興味深い議論を展開されている。
前畑氏は久留間説にたいしては
,①「 問題にされている区別は貸 し付けられ る貨幣の還流運動の区別なのだ
,とい う久留間健氏の所説の正当な側面」 (前 畑 〔
13〕 p.255)を評価 されるとす るが
,0「久留間健氏が流通手段の前貸 と 流通手段の供給 とを全 く同一視 され
,資本の前貸は流通手段の供給ではない」
といわれるとき
,それは「流通手段の前貸 と流通手段の供給の混 1同 」 (以 上
,前畑 〔
13〕 p.257)であると批判される。そして前畑氏 自身は
,い第
2部第 3 篇におけ る固定資本の現物補填 と貨幣的補填
,現実的蓄積 と貨幣的蓄積の社会 的一致の条件を詳細に考察されるなかで一方的購買 (G一″ )と しての貨幣の投 下は生産過程への資本の前貸であ り
,かつ この F資 本の前貸が流通過程に対 し ては 1同 時にその額だけの必要流通手段の供給である
J(前畑 〔
13〕 p.261)と主 張される。そして
,それ と対応的に
,0「流通手段の前貸 ―還流は前貸社会的 総資本の うち
,流動資本部分の流通 と必然的な関連をもっている。前貸資本部 分ばか りでな く所得の流通を も含めて言い な お せ ば
,流通手段の前貸 ―還流 は
,前貸流動資本の諸要素 どおしの社会的交換
,並でに流動資本の諸要素 と所 得 との交換
,所得 と所得 との交換 と必然的な関連を もっている」 (前 畑 〔
13〕, p.270)として
,いわゆる「 貨幣の出発点への還流」において 流通手段の前貸
(174)13
法経研究
30巻2号
(1981年)を とらえ てお られ る。
、
われわれの問題
1関心からすれば
,以上の前畑説 の積極的側面は
,第1に,久留間説が もっていた「資本の前貸」 と「流通手段の前貸」の対立的・ 排他的区 ガ
Jを克服され よ うとして
,資本の前貸が同時に流通過程に とっては流通手段 の 供給 であるこ とを強調 していること
,第2に,F銀 行を主体 として見るならば
,銀行が貸し付け る貨幣は ,G一 ″一Gを 描 く貨幣か ,G一 ″…
P・・ ・″′ 一
G′を描 く 貨幣かの本質的 に区
Jllされ る
2つの貨幣貸 し付けがある」 (前 畑〔
13〕,pp.254‑255。
傍点は引用者
)とされていることである。この第
2点は「 銀行を主体 とし て見 るならば」 とい う所にわれわれの評価の基準があ り
,銀行が産業資本に設 備投資 な どのために貸 し付けをおこな うのか
,投資資金 としてではな く経常的 な運転資金の貸し付けをおこな うのかとい う現実の区別をのべていると理解す るか らである。ところが「銀行を主体 として見 る
Jことと社会的総資本の再生 産 の間
1題視角から貨幣流通をみることは同 じではない。ここにわれわれの前畑 氏 の見解にたいする最大の疑間がある。
前畑氏は
,久留間説におけ る貨幣の前貸の対立的区別を批半
Jされて「資本の 前貸」は 1同 時に流通過程に とっての流通手段の供給であるとい う正 しい見解に たちなが らも
,なお ,G一 ″…
P…″′ 一
G′とは区別 され るべ きものとしての貨 幣の還流運動
G一″一 Gに 独 1自 の意義を見い出され
,ここに流通手段の前貸を 主張 される。前畑氏は『 剰余価値学説史』第
6章「余論。ケネーに よ る経 済 表」から ,「 私が第
1冊『 経済学批判』〕で 〔
,形態
G一″一
Gは,ど ぅしても
G一″一
G′でなければならない といったのは
,まちがいであった」ぐ 『 剰余価値学説 史』全集版
,大月書店
,第1分冊 p.401)と い うマル クスの文章を引用されて ,
Fこ
れは
G一″一
G′にたいする
0す″一
Gの独 自の意義を自己批判によって認 めた もの と解される
J(前畑〔
13〕,pp.253‑254)・ といゎれるが
,マル クスは こ
の文章に続いて
:「この形態が貨幣還流の単なる形態を表現 しうるのは
,私がそ こで もすでに示唆 しておいた ように
,貨幣のその同 じ出発点への回流は
,買い 手があらためて売 り手 となる
│ことに よって説明されるからである」 (『 剰余価値 学説史』 1同
,p。401。傍点は引用者
)とい ってお り ,G― ″一
Gとい う形態 自体 は :単 に一般的な商品流通における購買(G一″)と 販買 (″ 一
G)が1同 じ主体に より続けてお こなわれることをあ らわ しているに す ぎ な い。したがらて問題 は
,単なる 0‑″ ―
Gとい う形態で │は な く
,資本の流通過程にあらわれる
G一″一 Gで あ り
,その実体的内容でなければならない。マル クスは │こ うした指摘
を したのちに
,資本の流通過程にお
│けるこの形態
G一″一
Gの実体的 1内 容を考 察す る。
すなわち
,第1は,G一″一
Gにおける 商品 ″ が同一商品で ある場合であ るも 「すべての買い手たちが相互に売 るために買い,買 うために売るいっさいの 商業資本の場合には
,この還流の形態
G一″一Gが 見られる。買い手一 一一 が商品た とえば米を
,買った よ りも高 く売ることができない とい うことも
,ありうる。ことに よると彼は
,それをその価格 よりも安 く売らなければならない か も知れない。こうして
,この場合には
,貨幣の単純な回帰が生ず るだけであ ろ う。なぜなら
Gが増殖する価値 として
,すなわち資本 として
,自分を実証す ることなしに
,購買が販売に変わ るのだからである」
(『剰余価値学説史』同
,p.402)。 こ :の 場合には
G一″一
Cは ,資本の流通過程 におけ る資本の機能の独 立化 した もの としての商業資本の運動をあらわ し
,本来
G一″―
G′を意図した ものが
G一″一
Gとなるのは
,商業資本の思惑が失敗に帰 した ことをあらわす だけである。
第2に,購買(G‑71)する商‐品と
,販
売(″
2 G)する商品が別個の商品,す
なわち G一 ″.0″2‑G‐
の場合である。マルクスはこの場合を不変資本と不変 資本の交換(機
械製造業者 と製鉄業者のあいだの交換)を
例 として考察している が,この場合には購買する商品71と販売する商品 ″2は ことなった商品であ るから,購
買(C―
″.)と
販売(″
2 C)はそれぞれことなった目1的を持つ行為でなければならない。資本の流通過程のもとでは交換行為の目的は価値増殖の ためか使用価値の消費 目的のためかの
2つだけ しか存在しえないか ら
,資本家 が │は じめに流通過程に投げいれる貨幣は消費支出をのぞけば ,価 値増殖を規定 的動機 とす る生産諸手段の購入であ り ,G一 ″.は
G―″
α
"‐の一環でなけ ればならない。それにたいし
,資本家の販売行為 ″
2 Gは'すでに剰余価値 をはらんだ もの としての商品の「命がけの飛躍
J=貨幣資本への転化であ り
,販売行為 自体はた とえ購売
(G‑71)の後におこなわれた としても
,販売 (″ 2‑
G)す
るために購買
(G‑71)がお こなわれた とす るわけにはいかない。 「だから
ここでは (G一 ″
10″2 G 引用者
),貨幣の還流は
,ただ商品 とひきかえに
貨幣を支出し流通に投 じた人が
,別の商
1品を流通過程に投げ入れその販売を通
じて再び流通から取 りもどす とい うことをあらわ しているにすぎない」 (『 剰余
価値学説史』同 ,p.403ぅ 傍点は引用者
)のであって
,あらか じめ ″ 2を 販売す
るために貨幣
Gを前貸す るわけではない。不変資本 と不変資本の交換の場合
,法経研究
30巻2号
(1981年)2人
の資本家のどちらかがまず貨幣を流通過程に投入 し
,その結果貨幣が
G一″ .・ ″ 2‑Gと して出発点に還流 した とすれば
,この過程は同時に他方の資本 家に とっては ″
.―G一″
2でぁる。それゆえ「 もし
,資本家たちが現物で交換 した とすれば
,一文の貨幣 も流通することなしに
,それ らの商品は持ち手をか えたであろ う」 (『 剰余価値学説史』同 ,p.402)。 い うまでもな くこの過程にお いては
,貨幣は流通手段
(より厳密にいえば
,購買手段
)として機能 している のであるが
,貨幣が流通手段 として機能す ることと
,一方の資本家に とってそ れが資本の生産過程への投下
(これは同時に流通過程において流通手段 として 機能する貨幣の供給である
)であることとは理論的に矛盾す るものではな く
,それ どころか この交換過程を主導す るのが貨幣資本の起動力なのである。
「 貨幣状態にある資本価値は
,貨幣の機能を行 な うことができるだけで
,ほかの機能はなにも行 な うことができない。この貨幣の機能を資本機能にす るも のは資本の運動のなかでの貨幣機能の特定の役割であ り
,したが ってまた
,貨幣機能が現われ る段階 と資本の循環の他の段階 との関係であるJ CDoK.Bd平
,S.34)。 資本の流通過程では
,貨幣資本の機能は資本の運動の一段階 としての
写層鷹
[増
まを191y量
璽言fli象
:危貫島と│ま
鰍じ量ア[彎[fi:::ある。すなわち「流通速度やその他の事情をすべて不変と前提すれば,貨幣資 未 ユιそ流通tiみえ虐去らな
J、
費薦あ豊は,諸商品の価格総額(価
格に商品 量を掛けたもの)によって規定されており,または,諸商品の量 と価格が与え られていれば,貨幣そのものの価値によって規定されている」CDoK.BdH,S.116.傍
点は引用者)のである。以上のように,社会的総資本の構成部分としての貨幣資本の役割を理解でき るとすれば,再生産表式の貨幣流通において,いずれの部門からであれ資本家 により投入される貨幣は,消費支出をのぞいて,社会的総資本の構成部分とし ての貨幣資本であり,その起動力・連続的動力としての役割によって,商品資 本の実現すなわち,その貨幣資本への転化は主導されているのである。すでに のべたように,再生産表式による社会的総資本の把握は, 3循環の統一 として の社会的総資本の運動を「社会1的資本の一年間の機能をその結果に お い て考 察iすること,すなわち商品資本循環視点から把握することであり,その限 り で総資本の流通は商品対商品の交換 としてあらわれ,貨幣は流通手段の機能で 登場する。しかし,貨幣が流通手段 の機能で登場することと,この過程を貨幣
(第
3図
)3循環の統一 としての社会的総資本の運 1動
第
I部
門 労 働 者′
`
│
ス
第II部 門
メ
!≧
`ヽ
G′
ハ ″ ´ ダ ″
:
′ダメiジ ′
注
)――一――
は貨幣の流れ、
一一一一
は商品の流れ。なお、資本家の 個人的消費は簡単化のためにのぞいてある。
資本の起動力に よ り主導され
,したが ってまた
,G―″ くち ・ ・ P"・ ″′ 一 G′ を
描 くものとしての貨幣資本の投下に よりは じまることとは理論的に矛盾 しては いないのである。 (第
3図)は
, 3循環の統一 としての社会的総資本の運動を
,生産手段生産部
F](I)と消費手段生産部門
(H)に分割 し
,労働者に よる労働力 の販売 と消費財の購入を もふ くめて描いた ものである。そ こでは
,生産期間 と 流通期間が等 しいな ど特殊 な仮定がおかれているが
,どちらの部門においても 時間的・ 空間的に総資本が
3つの形態に分割 され存在 し
,かつ互いの形態が次
々とからみあって機能転換していく総資本の運動がえがかれている。モして, 貨印 ヽ 欝 資本 として G一″色 一 昨 αを描 く略 点としてあらわ れると同時に,流通過程では流通手段の機能において交換を媒介している。前畑氏は,再生産表式でとらえられる資本の流通過程が,ただ単に商品と商
︱︐ 7
I G
︲ ″︿
︲P ¨︱
﹁ ︲
″ ″
′ ′
′
G I I I
″ l 1 1
″
︿
¨
︲︲
G
⁚ ︱
︱
″ 1 11
7
・ 4
1 1 1
壬