• 検索結果がありません。

言葉と政策  五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "言葉と政策  五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

書評

言葉と政策  五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む

相 原 耕 作︑

 目次 はじめに

一、

ュ策とは何か

二︑混迷する政策

三︑政策と組織との分裂

四︑言葉の力

おわりに

言葉と政策−五百旗頭薫︑﹃大隈重信と政党政治﹄を読む       ︵都法四十五ー二︶ 四七七︑

(2)

四七八

       目  次 はじめに      序論︵−︶

       第一章 国会開設前の政党︵7︶

 本稿は・五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治 複数政党制の起   第一節立憲改進党の結党︵9︶

源明治+四年−大正三年﹄︵東京大学出版会・一δ〇三年︶  明治+四年の政変︵︐︶/自由党結党︵︒︶/﹃郵便報知新        聞﹄の買収︵15︶/改進党結党宣言の起草︵20︶/結党期の の書評である︒評者は専ら江戸時代の政治思想史を研究してい        迷走︵22︶ るため︑専門的な観点から本書の書評を行うには二重に不適格   第二節松方デフレ下の財政政策︵31︶

である︒政治史や明治時代史の竣研究の文脈から本書の新し  政策志向の回復︵13︶/偽党征伐︵誕︶/民力休養と税権回

さや誤りを指摘することは出来ない︒しかし︑本書の射程は明       復︵41︶/法権回復と自由民権︵47︶/大隈脱党︵55︶/改

治時代の政治史という狭い範囲に止まるものではなく︑政治思       進党の前途︵57︶

想史研究者にとっても十分に知的刺激に満ちており︑広く政治   第三節国会開設前夜の政局︵69︶

学的な観点からも検討されるべきものと考える︒そこで︑本稿       地租軽減論の斜陽︵69︶/大隈重信の入閣︵74︶/大同団結

では・狭義の専門的な観点からの評価は二切行わず︑本書を一      運動−ー朝野派の成立︵77︶/大同団結運動21後藤象二郎

つの思想的構築物と聾て分析し・政治を考えるうえでのビン   の政策志向︵38︶/大同団結運動ー後蒙二郎の入閣       ︵89︶/大隈条約改正案をめぐる対立︵91︶/朝野派の党再 トを獲得したいと考︑える︒         藁︵59︶/進歩主讃党合同問題︵皿︶

 まず最初に本書の内容を要約すべきところであるが︑歴史研        第二章初期議会期の政党︵121︶ 究というのは本質的に要約には馴染まないうえ︑評者には本書   第一節民党の形成︵221︶

を適切に要約する能力もないため︑参考に目次を掲げ︑内容は       初期議会史をめぐる既存研究と本章の分析視角︵221︶/第︼        ︵2︶ ごく簡単に紹介するに止めることとしたい︒      議会−改進党の諸潮流︵521︶/大隈・板垣会談−民党の形成

      ︵731︶/第二議会ー民党連合︵幽︶/民党と政党内閣︵珊︶

      第二節銀本位制下の財政政策︵851︶

      第三議会−積極主義の台頭︵851︶/改進党における積極化の

(3)

      へ     模索︵261︶/第四議会の政治経済学ー減税論の結集︵瑚︶/   本書は︑政策能力に着目して日本における複数政党制の起源

    第四議会の政治過程1民党の諸相︵471︶/民党連合の解体  を追求する試みである︒その際︑板垣系の政党ではなく大隈系

     ︵081︶/和協の詔勅後の改進党︵鵬︶/公人としての大隈  の政党に着且し・その経済政策︑特に歳入増加構想に注意を払

     ︵681︶      °      いつつ︑明治一四年政変から第二次大隈内閣成立までを追いか

 第三節−対外硬への転換︵691︶     銀本位制の擁護︵691︶/民力休蓬合の崩壊︵㎜︶/対外硬 ける︒方法的には︑大隈系機関紙の社説を主な資料とすると︑﹂

     ︵102︶      うに特徴がある︒

第三章 日清戦争後の政党︵512︶      ︑      本書のキーワードの一つは﹁政策﹂である︒また︑大隈系機  第一節進歩党の結成︵612︶      関紙の社説を使用するところに窺われるように︑本書の隠れた

    報知派の終焉︵612︶/大政党への脇路︵㎜︶/政策政党の混  もう一つのキーワードは﹁言葉﹂である︒著者は︑﹁政治は力

     迷︵222︶/進歩党結成︵獅︶/大隈における戦後経営と銀本  なり﹂というテーゼに対し︑﹁力の一部は言葉からくる﹂とい

     位制︵332︶       .      うテーゼを補うことで対抗する︵三一四頁︶︒本稿が﹁言葉と政

 第二節金本位制下の金融政策︵242︶ ︑      策﹂ピ題する所以である︒

     松隈内閣の成立︵242︶/貨幣法の成立︵祖︶/貨幣法実施準   言葉が政治においてどのような役割を果たすのかという問題

     備期の銀価暴落︵052︶        は︑政治そのものの成立にも関わる政治学上の一大テーマであ  第三節 民党の凋落と野党の再生︵262︶       ︵3︶      地租減税論の呪縛11松隈提携の破綻︵262︶/地租減税論  ろう︒しかしながら︑無邪気に言葉︵ないしは言葉によって形

     の呪縛2ー隈板内閣の成立︵562︶/地租減税論の呪縛31民  作られる思想︶の力を信じる思想史研究者を除けば︑過去ので     

     党の凋落︵962︶/地租減税論の呪縛4ー大隈の政党指導とそ  あれ現在のであれ︑何らかの形で現実政治の分析に携わる者に

     の挫折︵672︶/地租減税論の呪縛51民党再建の試み︵捌︶  とって︑言葉の力に対する評価は両義的なものとならざるを得

     /間接税減税論への移行−ー日露戦後︵2︶/間接税減税論  ない︒政治における言葉の力として一般的に想定されるのは説

     への移行・1外債の蒔的容認︵882︶/消極主義の確立 得の技術としての力であろ︑挺・そのような言葉の力は・万

     ︵492︶/複数政党制の起源と大隈重信の意義︵鵬︶      ではカネや組織︑物理的な力に押さえつけられて無力であり︑ 結論︵113︶ .         また他方では・嘘や煽動・言葉の暴力として・不適切な形で過

言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む       ︐     ︵都法四十五ー二︶ 四七九

(4)

四八〇

      ︵5︶ 剰な力を発揮する︒つまり︑﹁現実政治﹂の前では言葉による  うか︒

説得などきれいごとに過ぎず︑もし言葉が力を発揮するとすれ   著者は︑経済政策として歳出削減ではなく歳入増加構想に着

ば︑人間のいかがわしさの現れとしてであり︑政治を堕落させ  目する意義を︑三点にわたって指摘する︒第一に﹁当時の政党

かねないのである︒      の実情﹂に即した政治史理解が可能になる︵二頁︶︒第二に﹁複

 このように︑政治における言葉の役割は︑いずれにせよ否定  数政党による政権交代が実現していった起源を明らかにでき

的な方向での過小評価と過大評価との狭間で︑正当な位置づけ  る︒﹂︵三頁︶︒問題は第三である︒著者は﹁明治の国家と政党

を与えられていないように思われる︒しかし︑評者の見るとこ  を深く規定した諸与件を浮き彫りにすることができる︒﹂と言

ろ︑本書はこのような不毛な﹁言葉と政治﹂をめぐる議論に与  う︒なぜなら︑歳出削減に着目すると経済政策の選択肢が限ら

せず︑ある意味では﹁古典的﹂な︑しかし︑現実政治の分析に  れてしまい︑﹁政策対立の意義を過少評価することになる﹂か

携わるものが見落としがちな角度から︑言葉に接近しようと試  らである︵四頁︶︒しかし︑膀に落ちないのは︑歳入増加の試

みている︒﹁政策﹂への注目の根底には︑このような﹁言葉﹂  みは﹁実現困難であるばかりか︑しばしば大隈等がこれを主張

への志向があるのだと考えられる︒本書は︑明治日本において  することすら憧る事情があった﹂とされることである︵四頁︶︒

言葉と政策との関係が辿った紆余曲折を克明に描き出すことに  そうであるとすれば︑﹁明治の国家と政党を深く規定した諸与

よって︑﹁言葉と政治﹂についての重要な示唆を与えてくれる  件﹂とは︑歳入増加構想の枠組を限定し︑ひいては政策対立の

であろう︒以下︑このような観点から本書を読みといてゆくこ  幅を狭めたものと考えられる︒政策の選択肢が少なく︑当の大

とにしよう︒      隈もそれに縛られていたとすれば︑大隈系の政策能力に着目す

      ることは不適切である可能性はないのだろうか︒

一︑政策とは何か      この問題は︑戦前日本の﹁複数政党による政権交代﹂が孕ん

       ︑でいた﹁様々な特殊性や限界﹂︵三頁︶とも関わってこよう︒

 まず序論を読んで次のような疑問を抱いた︒︿政策能力に着  この﹁特殊性や限界﹂とは何か︒この内容如何によっては︑問

目した複数政党制の起源の追求﹀が本書の課題だとすれば︑こ  題設定が二重に不適切になる可能性がある︒以上のような点に

れを大隈系を中心に追うことが果たしてどこまで妥当なのだろ  注意しながら︑第一章以下を読んでいく︒

(5)

 最初に問われなければならないのは︑﹁政策とは何か﹂とい  富に持ち合わせていた結果︑政策を創る能力や政権を担当する

うことであろう︒仮に著者の言うように板垣系の政党が組織政  能力が相対的に優れていた﹂とし︑﹁政策能力が冷厳に現れ︑

党であったとしても︑凡そあらゆる意味で政策がなかっだとは  しかもその政策が希望を持って主張され続ける基盤を示す﹂も

考えにくい︒とはいえ︑政治に関する意見がそのまま政策にな ゜ のとして︑﹁経済政策の正当化の論理よりも財源の捻出の方法

るわけではないし︑どんな政策でもとにかく言えばいいとも考  に注目﹂するという序論のトーンからは︵二頁︶︑主に前者が

えられない︒したがって︑本書のような問題設定を行う場合︑  想定されていると予想される︒

﹁政策と呼ぶに相応しい政策﹂とは何かが問題となるであろ   しかし︑第一章以下の叙述を見る限り︑後者も相当の重みを

う︒ところが︑著者は政策の定義付けのようなことは行ってい  持っている︒例えば報知派と小野梓との対比を見よう︒明治一

ない︒そこで︑評者なりにいくつかの可能性を考えつつ︑本書  六年末に報知派の提示した地租軽減論は︑﹁政策的な裏付けを

の叙述の中からそれを探ってみたい︒      欠いたまま人心収撹のために﹂なされる要求と異なり︑﹁極め︑

 ﹁政策と呼ぶに相応しい政策﹂として第一に考えられるの  て豊富に統計資料を用いて︑地租軽減の必要性を証明し︑具体

は︑﹁正しい政策﹂である︒﹁経済政策﹂という﹁実利的﹂な問  的方法と財源を詳細に論じて﹂おり︵四二頁︶︑前者の意味での

題に着目する場合︑ある政策が正しかったかどうかは︑ある程   ﹁実現可能性﹂を備えていた︒それと同時に︑後者の意味での

度は説明可能かもしれ麓・しかし・本書の叙述を見る限り・ ﹁実現可能性﹂にも配慮していた︒条約改正交渉において︑困       の ある政策が政策として正しかったかどうかを問う意図はないよ  難な法権回復と見込みのある税権回復とを切り離し︑後者に

うに思われる︒      絞った交渉によって関税増収による減税が可能であるとした

 次に考えられるのは︑﹁実現可能な政策﹂である︒ここでは   ︵四三ー四四頁︶︒﹁欧米を説得する方法も具体性を増﹂し︑﹁個

﹁実現可能性﹂について二つの方向から考えてみたい︒即ち︑  別政策の議論を妨げる民権論の障壁を周到に克服ないし迂回

第一に︑何らかの意味での合理性︑特に経済的合理性のある  し﹂︑﹁比類のない完成度で体系化﹂されており︵四四ー四五

︵例えば﹁財源の裏付けがある﹂︶政策︑第二に︑現実政治の  頁︶︑﹁藩閥政府も原則として共有し得る観点から屈強な減税要

中でめ実現可能性に配慮した政策である︒大隈等を﹁行政経験  求を導き出す﹂ものであった︵五三頁︶︒これに対して︑小野も

が長く︑そこで要求される具体的事柄に対する関心・知識を豊  政策としては同じような構想をもっていた︒両者を分けたの

言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む       ︵都法四十五ー二︶ 四八一

(6)

四八二

は︑説得の手段となるメディアの有無である︒小野には自らの  た﹂︵一〇八頁︶︒片桐且元は豊臣秀吉の武将︑賎ヶ岳の戦の七

主張を世に問うための有力な機関紙がなく︑﹁政府との親密な  本槍の一人︒秀頼の後見役を果たし︑徳川家康の信任も厚かっ

直接対話と﹁悲憤慷慨﹂の間を彷復した﹂という︵四六頁︶︒﹁政  たが︑方広寺鐘銘問題で豊臣と徳川との板挟みとなった︒その

策提言と組織の育成という︑自らに厳しく課したジレンマを緩  後の大坂の陣における豊臣氏の運命については言うまでもな        ︵7︶ 和する術を持たなかった﹂︵四六頁︶小野は︑現実政治の中で折   い︒

り合いをつけながら︑経済的合理性のある政策を実現可能な形   さらに︑﹁政策の名に値する政策﹂は︑抽象的なお題目では

に鍛え上げるという能力に欠けていたということになるだろう  なく︑個別的・具体的であることが求められるであろう︒著者

か︒報知派と毎日派が地租軽減論でまとまろうとしたときにご  は﹁個別政策﹂と﹁体制変革﹂︵四頁︶︑﹁個別の政策論争﹂と

れに反対した小野は︑↓政策上の合理性と団結による圧力の両   ﹁政治体制上の要求﹂︵三頁︶を区別する︒国会開設前の自由

極端で完全主義に陥っていた︒折衷を排するこうした傾向は政  党は後者を優先させて﹁国会がなければ良い政策も行えない﹂

党指導者として必ずしも適当なものとはいえないであろう︒﹂︑  という立場から﹁強固な組織による急進的な闘争を試みた﹂︒

﹁完全主義はかえって何の成果も生まないことがある︒﹂︵五五  そして﹁国会開設後はその組織力を活かして立法府の多数を占

ー五六頁︶とも評されている︒      め︑一定の見返りを前提に行政府が﹁良い政策﹂を行うのに協

 あるいは第一回総選挙後の進歩主義政党合同に失敗した島田  ・力﹂したのである︵三頁︶︒

三郎評︒﹁島田三郎は誠実であり︑能力もあったが︑その能力   議会の開設を要求するのも﹁政策﹂には違いない︒しかし︑

は混濁した情勢を乗り切るものというよりは︑筋の通った立論  このような抽象的な主張だけで要求実現後の具体的なビジョン

で論敵を追い詰める知的なそれであった︒こうした論争的な能  を欠けば︑いざというときに容易に政府の政策にとりこまれる

力においても︑尾崎が持っていたような相手の急所を突く動物  であろう︒この点を著者は次のように定式化している︒

的嗅覚を欠いており︑開設された国会において島田も尾崎も藩    これまで疎かった実際問題へと関心を急旋回させ︑抽象的

閥の手強い敵だったが︑どちらかといえば尾崎の方が恐れられ    な原理原則からの脱皮を余りに急ぐ政党や政治家は︑得た

ていたという﹂︒島田は合同問題でも誠実に行動したが︑﹁片桐    知識を体系化するための基準を見失い︑独自の政策論を構

が何も止められなかったように︑島田は何も達成できなかっ    築し得ないまま現状追随の傾向が強まる︒二〇一頁︶

(7)

自由党は︑﹁国会開設までは﹁主義﹂に終始して﹁実際﹂の政  策論を展開する一方で︑改進党全体は公式の政策内容を未確定・

策を作ら﹂ず︑﹁国会開設後の﹁実際﹂の時代に過剰適応して︑  にして他派との交渉を柔軟に行う態勢を整えようとしてい

﹁主義﹂を内在させた﹁実際﹂政策を編み出すことに失敗し  た︒﹂二〇〇頁︶といった記述が見られる︒果たして隠される

た﹂のである二八三頁︶︒       ような政策は政策と呼ぶに相応しいのだろうか︒政策を明示し

       ない政党は政策政党と言えるのだろうか︒

二︑混迷する政策       この点︑著者の評価は両義的である︒朝野派の態度は﹁エ

       リートによる煽動であって︑世論を操作対象にするという危険

 以上から︑本書における﹁政策﹂についての大凡のイメージ  な所業にほかならない︒﹂と︑否定的評価が下される一方︑﹁政

はつかめたであろう︒しかし︑本書の叙述は多くの屈折を含ん  事家﹂としての朝野派のスタイルを総括して︑﹁政策能力を有

でおり︑政策政党としての大隈系政党が政策能力を発揮し続  し﹂﹁組織化への強い意欲を持ち﹂﹁政策論を政治戦術に従属さ

け︑やがて複数政党制を産み出した︑というような単線的なス  せるもの﹂とし︑﹁これは良くも悪くも有能な政党政治家の典

トーリーを持たない︒そのため︑著者の想定する﹁政策﹂が像  型﹂であり︑﹁朝野派の形成は︑その意味での政党政治家の誕

を結びにくい面があることは否めない︒       生を物語る歴史的瞬間﹂であったと︑肯定的にも評価する︵八

 まず︑政策は実際に示さなくてもいいらしく︑しばしば隠さ   一頁︶︒改進党全体のあり方としても︑彼らの﹁政策の轄晦﹂

れる︒例えば︑大同団結運動を推進した﹁朝野派の態度は︑政  は︑﹁詳細で網羅的な政策論を羅列した場合︑それを政府が適

策能力の顕示と政策論争の抑制を二大特徴とする屈折したもの  宜に採用することで政治対立は収縮してしまう﹂と︑一面では

であった︒﹂︵八一頁︶とされる︒また︑第一回総選挙を控えた  正当化されている︒しかし他方では︑﹁人気のある政策︵地租

改進党の動きについて︑﹁政策能力を誇っていた改進党は︑今  減税︶の背後に人気のない政策があったこと︵歳入増加策︶︑

やそれを半ば示し︑半ば隠匿することで組織の弱体を補おうと  後者を示さなかったこと︑そのために国会開設後の政治的言説

していた︒﹂︵九九頁︶︑﹁尾崎は朝野派としては政策能力を誇示  空間を空洞化させたことについての大隈の責任は重い︒これは

しつつ︑改進党そのものが他党と政策論争に入ることは極力抑  デモクラシーにおいて起こり得る弊害の一つであり︑この問題

えようとしたようである︒﹂︑﹁﹃朝野新聞﹄が非公式に詳細な政 ︐に先駆的に直面したのが大隈であった︒﹂と︑否定的評価も下

言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む      ︵都法四十五ー二︶ 四八三

(8)

四八四

されている︵一五〇頁︶︒このように︑著者の叙述は屈折に富  代表する評議会の関心が個別政策にも流入し︑議員集会所だけ

み︑単純明快な評価を拒否するかのようである︒     °   で政策立案作業を独占することができなくなった﹂からである

 また︑大隈系政党と大隈自身との乖離がしばしば語られる︒   ︵二二二頁︶︒﹁党員から高度の自立性を誇った政策集団の面影

例えば明治一七年︑改進党解党問題が発生する︒大隈は脱党し  はない︒﹂︵二二一二頁︶︒しかし︑政策能力に欠けるというだけな

改進党は存続した︒この際の大隈の判断は尾崎行雄によって評  らまだしも︑党員が政策を論じると政策立案が進まなくなるよ

価されているようだが︑大隈は改進党の政策と距離を置くため  うな政党を政策政党と呼ぶことは妥当なのだろうか︒しかも︑

に脱党したのであり︑大隈系政党の大隈系たる所以が疑わしく  著者は︑隈板内閣で政権を担ったことで﹁民党に統治能力が欠

思われる︵五五−五七頁︶︒加えて評者を困惑させるのは︑﹁結  けていることは明らかになった︒﹂︵二七五頁︶とまで言うの

党期の迷走﹂︵二二頁︶に始まって︑大隈系政党の政策能力を疑  だ︒大隈系政党を政策政党と呼ぶことへの疑念は膨らむばかり

わせるような叙述が続くことである︒﹁民力休養論・地租軽減  である︒

論﹂に立脚する﹁報知派の政策政党路線﹂︵六〇頁︶は⁝機能した   しかしながら︑このような政策の混迷︑政策政党の実態を前

が︑これは大隈脱党期の話である︒議会開設後には﹁地租軽減   に浮かび上がってくるものこそ︑先に疑問を呈した戦前日本の

論は民党全体の主張とな﹂り二二一頁︶︑﹁輻晦﹂が必要とは  ﹁複数政党による政権交代﹂が孕んでいた﹁様々な特殊性や限

いえ︑大隈の歳入増加構想が存在したことは︑﹁政策的現実性  界﹂であり︑その集中的表現としての政策と組織との分裂なの

のない圧力や集票手段﹂とは異なる﹁希望﹂を改進党に与えた  である︒この分裂が︑政策を政策として明快に論じることを困

(一

黶%ー=西頁︶︒しかし︑これがかえって改進党を民力休  難にする条件を作り出していた︒この点について︑次に考えて

養論へ固執させ︑急進化を招いた︒﹁民党路線﹂によって﹁政  みよう︒

策論﹂が﹁後退﹂したのである二五〇頁︶︒著者は︑﹁野党化

し個別政策に疎くな﹂り︑﹁統治政党のイメージと能力から次  三︑政策と組織との分裂

第に遠ざかっていった﹂二五〇頁︶改進党・進歩党の姿を描き        ︵8︶ 出す︒とりわけ日清戦争後は︑﹁構造的な原因﹂によって改進   政策と組織との分裂というテーマは特に隠されている訳では

党の政策立案が進まなくなる︒一つには﹁党員︑または党員を  ない︒板垣系の組織ではなく大隈系の政策を追求するという本

(9)

書のテーマ自体が︑政策と組織との分裂を前提として構想さ︑れ    渡期には︑希少な政策能力が︑組織の規模や強さから独立

たものである︒しかし︑本書の叙述を︑結党当初は﹁政策政党・    した政治的資源たり得るのであって︑異なる二つの資源を

組織政党双方への可能性﹂をもっていた自由党と改進党が︑﹁次    めぐって多次元的に展開される競争を念頭に置かなければ

第に自由党は組織政党に︑改進党は政策政党に概ね特化してい    当時の政治のダイナミクスも理解できないのである︒︵二

く﹂︵八頁︶成長物語と見誤ってはならない︒本書は複数政党    −三頁︶

制の起源神話を物語るものではないのである︒         とまとめている︒政府の政策に︑組織ではなく政策で対抗する

 本書の描き出す政策と組織との分裂は︑自由党と改進党との  能力を持っていた点にこそ︑大隈系の存在意義があるのであっ

間にだけあるわけではない︒この分裂はいくつもの入れ子構造  て︑これを﹁非主流派﹂政党・第二党と捉えるだけでは不十分

をなして当時の政治を条件付けでいる・最大の分裂は政府と政でゑジ・これは組織力の観占⁝からの評価であって︑政策能力

党との間にある︒福澤諭吉が﹁学者職分論﹂で嘆いたように︑  の点からは主流派であり第一党だったとも言い得るのだ︒位置

政策能力をもった知的エリートの多くが政府に参集していた以  づけは座標軸次第である︒だからこそ︑著者は﹁政策に強いが

上︑民間の政策能力が限られたものとなるのは避けられない︒  組織の小さい改進党﹂と﹁組織は大きいが政策に弱い自由党﹂

その一方で︑政治参加によって国民が政府を支えるという体制  との関係を﹁分業構造﹂と捉えるのであろう︵一〇九頁︶︒この

は成立せず︑国民を組織化して力を得たのは政党であり在野の  ような複眼的な見方こそ︑本書が提起する﹁次世代の批判的な

政治家であった︒つまり︑政府の政策と政党の組織という分裂  政治史研究﹂︵六〇頁︶の一つの要件と考えられる︒

が大前提としてあったのであり︑・自由党と改進党との﹁分業構   次に︑上引の﹁異なる二つの資源をめぐって多次元的に展開

造﹂は︑この大きな文脈の中で理解しなければならない︒この  される競争﹂という表現に注意するならば︑政策と組織との分  . ・  ⁚

点を著者は︑       .       裂は︑政府と政党︑板垣系と大隈系との分裂に止まらないこと

  政党において政策能力が乏しかったこと︑あるいは偏って  −が分かる︒著者は﹁政党におけるリーダーシップと組織との相︑

  分布していたことは︑行政能力を有する人材のほとんどが  克﹂について︑

  藩閥政府に独占されていた一方で︑日本の政党が民権運動    明治の政党は︑在野の元老を指導者として戴くことで政治

  から統治政党に脱皮していなかったことを示す︒かかる過    的・社会的な認知を求めつつ︑しばしばその輯束を逃れて

言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む      . .    ︵都法四十五ー二︶ 四八五

(10)

四八六

   独自の動きを示そうとした︒逆に在野の元老は︑政党を自  重視する﹁報知派﹂︑党の拡大と現実的な政策論を主張する﹁毎

   らの権力基盤とすることで︑ある程度言動を規定されざる  日派﹂︑両派の中間的な位置をとる﹁朝野派﹂と平面的に捉え        ︵11︶    を得なかった︒しかもこの政党組織は︑個別政策よりも体  てはならない︒これでは政策と組織との分裂がもたらす複雑な

︑  制変革を重視する自由民権運動を母体としていたのであ  政治過程は分析できない︒そもそも派閥内部にすら政策と組織

   る︒︵四頁︶      との葛藤はあるのであって︑こうした重層的な構造を念頭に置

 と説明する︒政策と組織との分裂・分業構造は政党内部にも及  かなければ︑政策と組織とを架橋しようとした朝野派の形成を

 んでいるということである︒そして﹁大隈は個別政策︵特に経  もって﹁政党政治家の誕生﹂とし︵八一頁︶︑﹁朝野派はむしろ

 済政策︶に自負があるからこそ︑板垣以上にこのジレンマに直   政策のプロフェッショナルから政治のプロフェッショナルに脱

 面した﹂のであって︵四頁︶︑評者に﹁混迷する政策﹂と見え  皮しようとして︑分派を遂げた﹂とする︵八二頁︶︑政策と組織

 た状況は︑このような大隈系内部の分裂・分業によるところが  との微妙な関係を周到に捉えた絶妙な表現は︑理解され得ない

 大きいのである︒       であろう︒

  大隈系内部の分岐として抽出されるのは︑﹁派閥間の水平的   後者の﹁垂直的な摩擦﹂は︑国会開設後︑特に第二議会前夜

耐ゴ﹂と﹁大隈.幹部.党員の垂直的な摩擦﹂である︵亘一から前面に出てきたものであり︑変化の背景には︑﹁大隈の政  頁︶︒まず前者が現れる︒明治一七年に大隈が改進党を脱党し  策構想と党組織強化との間の矛盾﹂があったとされる︵一四三

 た後︑﹁政策の立案.宣伝における報知派の優位︑党組織にお  頁︶︒やはり政党内部の政策と組織との分裂である︒国会が開

 ける毎日派の貢献︑という二元構造﹂が姿を見せる︵五九頁︶︒  設されたからといって政策能力を有する人間が続々と登場する

 政党内部の政策と組織との分裂である︒報知派から分派した朝   わけではなかろう︒その一方で選挙はある︒﹁議場での駆け引

 野派に対する如上の屈折した評価もここに根ざす︒だからこ  きや政党内閣の実現のため﹂の﹁政策能力﹂と﹁選挙で勝利す

 そ︑著者は﹁日本の政党においては政策志向と組織志向との疎  るため﹂の﹁組織化の課題﹂とを同時に引き受けなければなら

 隔は根が深く︑両者を架橋しようとする彼等の軌跡は屈折荊棘  ない二四三頁︶︒このような状況が︑﹁政策政党﹂に相応しか

 に富んだものとなった︒﹂︵八一頁︶と述べるのである︒このよ  らぬ大隈系政党の屈折をもたらすことになる︒

 うな二派乃至三派の関係が作り出す構造を︑民権よりも政策を    党の組織を拡大・強化すると共に︑そこから大隈・議員団

(11)

   を解放して政策論や議場での進退に関する自由を確保する    治史研究の出発点であると考える︒︵六〇頁︶°    という︑二つの要請に改進党は応えなければならなかっ  このアポリアを正面から引き受け︑複雑な過程を丹念に追った   ︑    た︒二四八ー一四九頁︶ ㎡       証が︑本書のある意味での﹁分かりにくさ﹂なのである︒  これはまさに﹁綱渡り﹂二五〇・=二三頁︶である︒後者の要 . このような複雑な経路の中では︑大隈個人に負わされるもの      請を満たす条件が確保できなくなれば﹁政策政党の混迷﹂︵二  が極めて大きくなる︒政策と組織との分裂の一方の極にあるの  二二頁︶となる︒そして︑隈板内閣の大隈は︑党組織に根強い  が大隈と大隈系政党との分裂であり︑この矛盾・相克の究極の  地租減税論に呪縛されて自らの消極主義を貫けずに政策が破綻   要は大隈個人ということにならざるを得ないからである︒著者  し︑﹁民党の凋落﹂︵二六九頁︶へとつながってゆくことにな   は︑国民の政治参加の拡大と政党の地位の上昇という﹁歴史の  る︒       趨勢﹂にあっても︑﹁政党が複数存在し︑政権交代のダイナミ   このように︑本書の叙述する複数政党制の起源は︑端的なタ  ズムが実現することは自明ではな﹂く︑﹁社会・経済のより微  イトルが期待させ︑明晰な序章から予想されるような︑見通し  妙な作用や個々の政治エリートの資質・言動に多く依存す  のよいものではない︒多次元的に絡まり合う政策と組織との分  る︒﹂とする︒そして︑このような複雑な歴史を大隈個人にも     .  裂・相克が織りなす政治過程が︑起伏に富んだ長く曲がりく  投影する︒  ねった道となることは避けられない︒このような過程を︑組織    大隈の素志は行政官として日本における近代化め偉業を達   一辺倒で記述すればもっと単純明快な見取り図が示せたであろ    成するところにあった︒その大隈が政権中枢から排除さ

− うし︑政策一辺倒で記述すればもっと美しい物語が紡ぎ出せた    れ︑にもかかわらずその素志を抱きつづけたことで︑結果  であ舞・しかし・著者はそのどちらの仕方も選ばなかった・ ・として野党の成立や二大政党制の起源を準備することに

   本書は政治参加の拡大よりも政策の対立が重要であると主    なった︒これは歴史の狡知であって︑この狡知を担う者の

   張するものではない︒両者が調和する条件を探るが︑調和    人格が少々複雑であるのもやむを得ない︒︵一八九頁︶

   が予定されていると主張するものでもない︒両者の間に緊  著者の描き出す歴史過程はあまりに複雑であり︑分裂する政策

   張関係があることを認め︑近代日本の政党政治をめぐるア  と組織とをつなぎ止めるために︑大隈への傾斜が次第に大きく

   ポリアとして凝視し続ける態度こそ︑次世代の批判的な政  なる︒恰も大隈個人の存在という極めて偶然的な要素に依存し

−言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む       ︵都法四十五ー二︶ 四八七

(12)

四八八

▽て初めて日本の複数政党制の起源が成立し得たかのような印象  頁︶︑﹁政治参加拡大の提唱者﹂︵二九七頁︶として立ち現れるこ

すら受ける︒あるいは著者の真意もそこにあるのかもしれず︑  とになる︒

 ﹁歴史の狡知﹂を持ち出すのもこの偶然の必然を打ち出すため    金本位制導入と二つの戦後経営を経た大隈は︑明治十四年

のレトリックなのかもしれない︒しかしながら︑大隈に多くを    の政治参加問題に回帰したといえる︒政友会の積極主義と

負わせすぎた結果︑実証とストーリーとのバランスが崩れてし    明確に対置される消極主義を提示する点は︑明治十五年以

まっているように思われる︒      降に進展した野党形成の集大成でもあった︒政党指導者と

 大隈の政権復帰の描き方にも同じような問題が見られる︒政    しての大隈の三〇年以上にわたるジレンマー政治参加と政

友会の結成に刺激されて憲政本党の総理に就任した大隈であっ    治対立との間のーが︑一つの解に到達しつつあった︒︵二

たが︑﹁民党の凋落﹂の中︑政党指導はままならず︑党と大隈    九八頁︶

の方針が疎隔して総理を辞任する︒政策と組織との分裂のもた  大隈個人を軸とした複数政党制の起源にまつわる物語の終わり

らした破綻とも見えるが︑この辞任を︑著者は﹁憲政本党への  としては十分に美しい︒しかし︑経過の複雑さに比して些か美

非公式な影響力を保つ一方で︑党総理の立場を離れて自由に政  しすぎる︒ここでも実証とストーリーとのバランスが崩れてい

策論を展開し得ることになった︒﹂︑﹁大隈自身に別天地を開く   るように思われる︒

ためでもあった︒﹂︵二八六頁Yと意義づける︒民党に引きずら   しかし︑実は物語はまだ終わらない︒美しいエンディングを

れて動揺していた大隈の消極主義が︑﹁別天地﹂の中で確立し  構想したとたんに︑著者は茨の道に回帰する︒﹁以上のことは

てゆく︒日露戦後経営の積極財政は︑金本位制導入後の大隈に  しかし︑一九二〇年代の二大政党制に直結するわけではない︒

とっては維持できないものであった︒諸悪の根源たる外債依存   二〇年代を担った憲政会や︵その後身の︶立憲民政党にも直結

から脱却し︑国民の税負担のもとに経済を健全化させる必要が   しない︒﹂︵二九九頁︶というのである︒そして︑その二〇年代        へ あった︒そして︑このような政策の実現のため︑税負担と引き   においてもなお﹁複数政党制への道は遠かった︒﹂︑﹁国民の政

替えに国民の政治参加が要請された︒明治一四年政変前夜の論  治参加要求と政党組織の間には越えがたい断絶が残った︒﹂︑       へ 理と同じである︒こうして大隈は︑﹁国民の政治的覚醒・政治   ﹁複数政党政﹂は﹁制度化され得なかった﹂︵二九九−三〇〇頁︑

参加に自らの政権復帰の可能性を見出すように﹂なり︵二九八  傍点は原文︶︒さらに著者の目は戦前の政党の末路を越えて戦後

(13)

に及ぶ︒そして﹁複数政党制はなお未完の課題﹂なのである︵三  要すると考えられる︒

       ヘ       へ ○○頁︶︒将来︑﹁複数政党政﹂が﹁複数政党制﹂となったとき︑   言葉は説得のためにも力を発揮する︒著者は次のように述べ

本書も﹁複数政党制の起源﹂論として充足するのであろう︒   る︒

       政策を重視するというのは︑政治から権力の要素を捨象す

四︑言葉の力      ・ることとは違う︒政党は︑組織を固めて権力を追求する場

・     ︑      合もあれば︑政策論によっで政府に圧力をかけ︑政権を開

  ここまでの議論では︑本書における言葉の問題について検討    放させようとする場合もある︒ただし︑後者が権力追求の

してこなかった︒しかし︑言葉と政策とは密接不可分なので    手段として機能するためには︑野党の言葉︑少なくとも野

あって︑政策の背後には言葉があるものと考えなければならな    党のリーダーの言葉が︑藩閥指導者にある程度耳を傾けさ

 い︒利益や暴力に訴える政治なら言葉は必ずしも必要ではな    せるだけの親密さと説得力を備えていなければならない︒

 い○札束を見せたりナイフをちらつかせたりすればよい︒しか     ︵三頁︶

し︑政策はそうはいかない︒政策は言葉によって構想され︑言  もちろん︑野党の言葉や野党のリーダーの言葉は︑時には何の

葉によって表現され︑言葉によって説得される︒政策論争は言︐ 有効性も持たなかったかもしれない︒こちらが言葉で訴えて

葉の戦いである︒言葉なしでは政策は成り立たない︒      も︑相手は利益や暴力で応えるかもしれない︒﹁話せば分か

 また︑既に政策の個別性や具体性に触れたが︑著者は︑しば  る﹂は﹁問答無用﹂に勝てない︒

しば体系性にも言及する︒例えば︑明治一四年政変前夜の大隈   しかしより深刻なのは﹁話しても分からない﹂場合である︒

は﹁積極財政・紙幣鋪却・立憲政体という明治政府の三大課題  政策と組織との分裂は言葉にも表れる︒例えば自由党が改進党

全てについてイニシアティブを取り得る︑体系的な主張を提示  に仕掛けた﹁偽党征伐﹂は︑﹁組織化を重視する政党による︑

していた﹂とされ︵二頁︶︑報知派の地租軽減論は﹁比類のな  政策重視の政党に対する批判﹂である︒自由党には﹁政策論の

 い完成度で体系化された﹂とされる︵四四ー四五頁︶︒体系化す ︑重要性を認め﹂る側面もあったが︵三六頁︶︑自由党は自らの政

るのは言葉の力である︒政策能力とは︑個別性と体系性とを兼  策能力を証明出来ないのであって︑両党の論争は政策論争たり .ね備えた政策を作り出す知的な能力であり︑高度な言語能力を  えず︑﹁泥仕合の様相を呈し︑世間に政党の弊害を印象づけ﹂

    言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む       ︵都法四十五ー二︶ 四八九

(14)

四九〇

ることになった︵三八頁︶︒政策の言葉と組織の言葉との溝は深    て︑それ故に重要かつ不可欠な武器であった︒好ましい助

い︒      言者としてであれ︑屈強な論敵としてであれ︑政府に政策

 また︑組織の言葉は政策の言葉より暴力的になりやすいらし    論が評価されることは︑政策政党が実質的な政権参画を果

い︒民党と政府が激突し︑﹁和協の詔勅﹂によってけりがつい    たすための重要な布石であった︒︵一四九頁∀

た第四議会を例にとれば︑﹁改進党が相対的に穏健であったの  この議論は︑政策を言葉によって構⁝想し表現し説得するという

は︑自由党よりも民党として正統性の高い政策を打ち出してい  に止まらない︑言葉と政策の更なる力を示唆している︒言葉と

たことが背景にあったと思われる︒大幅な歳出削減が実現する  政策こそ︑政治の中に対立軸を作り出す源泉であり︑それに

のであれば︑議事の進行を妨げる対決的な戦術は有害無益とな  よって政治参加ももたらされるということである︒著者が大隈

るからである︒自由党の側は︑政治参加の拡大を主たる目的と  系の政策能力を重視するのは︑政治においては政策が大事だと

して激しい闘争を演じるが︑削減額自体には改進党ほどこだわ   いうありきたりのお題目を唱えるためではない︒

らない︒そこで良い結果が出ても︑政策的な成果を主張できる    言葉による対立が政治の不可欠の契機であり︑さらに社

のは改進党だからであろう︒﹂︵一七六頁︶とされている︒政府    会・経済的利害に関わる活発な政治対立が近代民主政の重

の政策の言葉と改進党の政策の言葉との間には﹁話せば分か    要な要件であるならば︑藩閥とこれに接近していく板垣と

る﹂余地があるが︑政策の言葉に組織の言葉で対抗する自由党    いう視点に劣らず︑藩閥対大隈の視点で政治史を描く作業

は﹁話しても分からない﹂し︑分からないから相手の政策を丸    が必要なのではないだろうか︒︵三八頁︶

飲みすることにもなるのだろう︒      という確固たる理論的要請に基づいているのである︒改進党が

 このように︑言葉は時に無力であり︑時に暴力的である︒政  産み出した﹁民力休養論・地租軽減論の系譜﹂の意義も︑政府

策の言葉と組織の言葉とを架橋するのは難しい︒しかしなが  に反対する論拠を作り出したというに止まらない︒﹁政府の経

ら︑大隈系政党に関する次のような著者の議論に耳を傾けない  済政策に対抗する議論を提示し続けることで政治対立の定着に

訳にはいかない︒       貢献し︑間接的には政治参加を促した﹂︵六〇頁︶ことが重要な

  国会開設前には政権担当能力を示すために︑機関紙に長大   のだ︒裏を返せば︑政治の中の対立軸・対抗軸を隠蔽するよう

  な政策論を連載していた︒議論がほぼ唯一の武器であっ  な言葉の使用は政治を堕落させるということになろう︒既に述

(15)

べたように︑政策と組織との分裂の中で生じた﹁政策の韻晦﹂  し︑政治においてなぜ対立軸が必要なのだろうか︒政治対立と

が﹁国会開設後の政治的言説空間を空洞化させたことについて  いうのは奨励されるようなものではなく︑克服すべき課題なの

の大隈の責任は重い﹂︵一五〇頁︶のである︒      ではないだろうか︒

 この意味で︑﹁和協の詔勅﹂の政治的効果は興味深い︒一画   この疑問に答えるうえで重要なのは︑本書が重視するのは政

では民党の攻勢を頓挫させ︑﹁自由党が改進党を疎外して政府  治対立一般ではなく政策対立であり︑政策の背後にある言葉に

に接近する契機となった﹂のであり︵一入○頁︶バ政策対立を隠  よる対立であることである︒上述のように︑言葉と政策が作り

蔽するとともに︑自由党が﹁進歩政党としては脱落し﹂︑﹁長州  出す対立軸は︑政治参加の拡大に貢献する︒著者は﹁日本にお

閥の指導がなければ保守政党にすらなり得な﹂いという政治の  いて政治参加の停滞は政治対立の弱体に起因することが多

堕落を招いた二八三頁︶︒しかし他面では︑﹁第四議会を通じ  い︒﹂と主張する︒そして︑×隈は﹁政治対立の最も恒常的な

て︑藩閥政府は議会から身を守る憲法上の保証の多くを手放﹂  演出者﹂となり︑﹁政治の活況は国民の関心を喚起し︑間接的

すことにもなった︒﹁憲法第六七条費目の範囲の確定を迫ら  には政治参加を促した︒﹂︵三一三頁︶︑﹁野党による明晰な対立

れ﹂︑﹇議会の上奏に対しても黙殺はできないという暗黙律がで  軸の析出が︑間接的に国民の関心と参加を促すという意義も

き﹂︑政府は﹁予算の事後承諾規定﹂や﹁原案執行権﹂の﹁規  あった︒﹂︵二九七頁︶としている︒

定の形骸化﹂を認めた︵一八三ー一入四頁︶︒いわば﹁問答無用﹂   確かにこの指摘は重要である︒大隈の﹁政策の稻晦﹂.は﹁政

が成り立たなくなったのであり︑政治参加と政策対立の条件を  治的言説空間を空洞化させた﹂が︑これは﹁デモグラシーにお

産み出すことにつながった︒政治における言葉と政策の意義を  いて起こり得る弊害の一つ﹂であるという二五〇頁︶︒思う

多方向から照らし出す事例と言えるだろう︒      に︑デモクラシーは政策と組織との分裂の究極形態なのかもし

       れない︒政治参加が極大化する一方︑政策能力はエリートと大 おわりに      衆との間で極端に偏って存在するからである︒ここで政策の言

       葉よりも集票のための組織の言葉が幅を利かせれば︑政治的無.

 本稿に掲げたテーマ﹁言葉と政策﹂にようやく辿り着いた︒  関心が増大し︑投票率が低下す.るかもしれない︒選挙権の拡大

言葉と政策は︑政治における対立軸を形成するのである︒しか  は実質的な政治参加の拡大に直結しない︒政治への関心を喚起

言葉と政策ー五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む      ︵都法四十五ー二︶ 四九一﹂

(16)

四九二

するために︑対立軸を作り出す政策の言葉が必要なのである︒  出せず︑打倒をやめて妥協すると︑政策的には相手に吸収され

 しかし︑言葉と政策が産み出す対立軸の効用は︑それだけに  てしまう︒これに対し︑対話の相手として政策の言葉で対抗す

止まらないのではないだろうか︒著者は︑大隈には﹁専制的な  れば︑地租減税の認否をめぐる対決から歳入増加をめぐる個別

工業化の推進者﹂﹁野党指導者﹂﹁政治参加拡大の提唱者﹂とい  政策の対決へと論争のレベルが上がる︒さらに︑田口卯吉らの

う三つの顔があるという︒そして︑﹁後二者はもともと大隈が  都市ブルジョアが果たした役割にも注目したい︒田口は﹁経済

誠心誠意望んでいたものではなかった︒﹂とする︒それにもか  的自由主義の立場から政府主導の殖産興業を批判し︑政費節減

かわらず大隈がこのように﹁成長﹂しえたのはなぜか︒著者  にも熱心で︑その点で民党勢力の一翼を担って﹂おり︵一六八

は︑﹁大隈のその時々の政治戦術が複合した結果であり︑さら  頁︶︑改進党と田口等が﹁租税負担の軽減による経済発展を志

にはその戦術に沿って大隈が振りまいた言説が大隈自身を制約  向する勢力﹂︵一七三頁︶として藩閥政府と対抗軸を形成しえ

する既成事実を構成した結果であった︒﹂という︵三〇〇頁︶︒   た︒しかし︑田口は﹁都市ブルジョアジーを代表して地租軽減

 これに対し︑評者は︑ここに言葉と政策が作り出す対立軸の  論に批判的﹂であり︑﹁減税の内容として優先的に考えていた

効用を見たい︒言葉と政策は一回的・固定的なものとして対立  のは︑輸出税全廃﹂であった︵一六八頁︶︒こうして改進党と田

軸を形成するのではない︒一つの対立軸が形成されれば︑それ  口等との間にも別の政策上の対抗軸が形成されることになる

に対して新たな対立軸が対抗して打ち出される︒このような対   二七一頁︶︒このように︑対抗軸が重層することによって︑論

抗関係が重層的に積み重ねられる中で︑対抗する個人は﹁成  争のレベルは更に上がるであろう︒著者によれば︑大隈の周囲

長﹂し︑﹁政治共同体﹂も総体としての﹁成長﹂を遂げていく  には上述の三つの顔に応じて多様な知識人が集まっていた︵三

のではないだろうか︒       ○○頁︶︒しかも︑板垣が知識人との間に﹁狭義の非政治的紐

 例えば︑大隈が韻晦せざるをえなかった歳入増加構想につ  帯﹂を求めたのと違って︑大隈は﹁狭義の政治的交際﹂によっ

き︑著者は﹁政党が関税の増収や外債募集を論じられるかどう  て知識人の独立性を保証した︵三〇一頁︶︒ここに大隈系知識人

かは︑藩閥政府を打倒の対象と見るか︑対話の相手と見るかに  の間に様々な政策上の対抗軸が形成されることが想定できるの

かかっている︒﹂︵=一五頁︶とする︒自由党が駆使した︑相手  であり︑﹁成長﹂の芽も認められるのではないだろうか︒

を打倒するための組織の言葉は︑政策上の有効な対抗軸は作り   そうであるとすれば︑政治家は対抗軸を形成するべく言葉と

(17)

政策を磨かなければならないし︑政治学者は言葉と政策が対抗   ︿注> r

軸を形成するような条件を探らなければならないであろう︒し   ︵1︶ より専門的な立場からの書評には︑清水唯一朗氏の書

かし︑このようなある種﹁古典的﹂な政治イメージは︑あるい     評がある︒﹃選挙研究﹄第一九号︵二〇〇四年︶一五五

は時代錯誤の識りを免れないかもしれない︒それに︑これはた     頁○

やすいことではない︒政策と組織とを言葉によって架橋するこ   ︵2︶ ﹃史学雑誌﹄︵二〇〇三年の歴史学界−回顧と展望

と︑政策の言葉と組織の言葉とを架橋することが求められるか     ー︶第一二二編第五号︵二〇〇四年︶一六七頁に大庭邦

らである︒例えば改進党結党時に︑小野梓は﹁﹁大主義﹂から     彦氏による簡潔で要を得た紹介がある︒前掲清水書評に

財政・外交等の個別政策に枝分かれした体系的な主張を有する   ︐ はより詳しい要約がある︒

政党﹂を構想した︒﹁主義と政策論の矛盾に直面しつつも︑そ  . ︵3︶ このような問題を扱った研究に︑木庭顕﹃政治の成

のジレンマを凝視し︑双方を追い求めて止まなかった﹂点に︑     立﹄︵東京大学出版会︑一九九七年︶がある︒残念なが

著者は小野の﹁理論家としての偉大さ﹂を認める︵二〇頁︶︒し    ら評者には理解不能の議論であるが︑なにがしかの示唆

かし︑如上の厳しい評価を念頭に置けば︑このような﹁﹁大主     は得られたように思う︒川出良枝氏の書評・﹁自由な討議

義﹂に基づく組織化と﹁近切﹂な個別政策論の二兎を追う小     と権力の不在﹂︵﹃政治思想学会会報﹄第九号︑一九九九

・野﹂︵二一頁︶は︑最終的には一兎をも得なかったのかもしれな     年︶︑木庭顕﹁歴史学の認識手続と法学的思考﹂︵﹃法制

い︒あるいはまた︑大隈の辿った紆余曲折そのものが︑政策と     史研究﹄第五一号︑二〇〇一年︶が理解の一助となる︒ 

組織との調和に至る困難を象徴していると言える︒      −  ° 木庭顕﹁政治的・法的観念体系成立の諸前提﹂︵﹃岩波講

 しかし︑本書によれば︑﹁大隈達の言葉は力をしばしば持っ     座社会科学の方法W 社会変動のなかの法﹄岩波書店︑

た︒﹂のである︒たしかに﹁力を持たない場合もあったが︑そ     一九九三年︶も参照︒

の時の彼等の挫折は明治日本の政党のアポリアを指し示してい  ︐ ︵4︶ 政治における言葉の力については認識面から論じるこ

た﹂のであって︵三一四頁︶︑このアポリアと向き合うことこ     ともできる︒茅野修﹃﹁見立て﹂の政治学状況を読み

そ︑対抗軸形成の条件を探る方策であろう︒﹁政治は力なり﹂     解く知性の﹁技﹂﹄︵東洋経済新報社︑一九九六年︶参    ︑

しかし﹁力の一部は言葉からくる﹂のであるから︒     ︑    照︒

言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む      −      ︵都法四十五−︐二︶ 四九三

(18)

四九四

︵5︶ 例えば都築勉﹃政治家の日本語 ずらす・ぼかす・か     表記を適宜改めた︶︒したがって︑島田を片桐に擬すこと

  わす﹄︵平凡社新書︑二〇〇四年︶は﹁言葉の選択や使     を︑責任倫理的な観点から﹁これは適評であって︑⁝︵以

  用が政治そのものである﹂︵九頁︶と主張し︑﹁言葉が政     下︑本文所引部分へ続く︶﹂とする著者の議論は︑この

  治を動かす﹂︵二二〇頁︶と︑言葉の力について積極的な     記事のパロディーである︒なお︑片桐且元は︑徳川方か

  テーゼを打ち出すが︑副題に端的に示されているよう     らは無理難題をふっかけられ︑豊臣方からは忠誠を疑わ

  に︑言葉のもつ﹁いかがわしさ﹂を想起させる内容が大     れ︑右往左往した人物であって︑この記事の片桐の誠実

  半である︒      さに対する高い評価は︑あるいは現代の読者のイメージ

︵6︶ あくまでも程度問題である︒立場が異なれば実利が異     とはズレがあるかもしれない︒この記事と比較的近い時

  なるし︑実利的な問題に非実利的な価値が侵入してくる     期に発表された坪内適遙の戯曲︑﹃桐一葉﹄︵明治二七ー

  可能性も大いにある︒五百旗頭薫﹁関税自主権の回復を     二八年初出︶と﹃沓手鳥孤城落月﹄︵明治三〇年初出︶

  めぐる外交と財政−明治初年の寺島宗則と大隈重信1﹂     は︑片桐且元を豊臣に忠義を尽くした悲劇のヒーローと

  ︵﹃日本政治研究﹄第一巻第一号︑二〇〇四年︶四五頁     して描き出しており︑この記事の片桐観と合致する面が

  参照︒       ある︵両作品とも﹃適遙選集第一巻︵復刻版︶﹄﹇第一書房︑一

︵7︶ 本書が言及する﹃国民新聞﹄明治二三年九月一日の雑     九七七年﹈所収︒以下の引用はこれによる︒表記は適宜改め

  報は︑島田三郎につき︑﹁同氏が今度合同の事に全心を     た︶︒但し︑適遙が描く片桐は︑﹁此の且元がすること為

  捧げて尽力せられたるは⁝﹂︑﹁某氏の如きはその誠心実     すこと︑いすかの嘱と食ひちが﹂った責任を﹁不肖且

  意に感じて殆んど落涙せりと云へり﹂︑﹁縦し今日に於て     元︑愚昧にして先見無く︑姑息因循して大事を誤り︑空

  直に大合同の目的を達する能はずとするも島田氏等の公     しく関東の罠にかか﹂った自分に帰しており︵﹃桐一葉

  平坦懐にして紳士風ある挙動は永く各派人士の感荷する      ︵読み本体ご一七三頁︶︑﹁償ひがたき不臣の罪﹂︵同上︶︑

  所ならん﹂とするなど︑心情倫理的な観点から島田を高     ﹁お家の滅亡を速うせしは︑この市.正且元﹂︵﹃沓手鳥孤

  く評価した上で︑﹁人或は島田氏を以て片桐且元に比す     城落月﹄四六七頁︶とまで述べている︒もっとも︑これは

  吾人転たその適評なるを信ず﹂とする︵引用にあたっては     責任倫理の表現というよりは︑不条理な境遇の中で悲劇

(19)

   的なまでに突き詰められた忠誠心の表現であろう︒遣遙    ︵11︶ 前掲清水書評の捉え方である︒

   自身はこれを﹁境遇悲劇﹂としている︵﹃桐一葉︵実演   ︵12︶ 本書の叙述が組織一辺倒でないことは明らかである

   用ご﹁序﹂及び﹁﹃沓手鳥孤城落月﹄と史実との関係﹂参照︒い   が︑政策一辺倒と誤解する向きはあるかもしれない︒木

   ずれも前掲選集所収︶︒遣遙による片桐イメヨジの形成に     下恵太﹁政友会成立期における大隈重信と憲政本党﹂

    ついては︑高橋圭一﹁片桐且元と大筒﹂︵﹃江戸文学﹄第      ︵﹃早稲田大学史記要﹄第三五巻︑二〇〇三年︶と比較

   三一号︑二〇〇四年︶参照︒また︑︑最近の小説では︑鈴     して︑﹁国民に訴える力﹂をもった﹁国民政治家大隈﹂

   木輝一郎﹃片桐且元﹄︵小学館文庫︑二〇〇四年︶が︐     とは﹁対照的﹂な︑﹁行政的な政策力﹂をもった大隈像

   片桐の誠実さと︑それ故の政治的無力とを︑余すところ     を提示するものとして本書を解するらしい前掲﹁回顧と

   なく描き出している︒なお︑野口武彦﹃江戸の兵学思    展望﹂︑﹁党内政治が政策論争にのみ帰着して叙述されて

   想﹄︵中公文庫︑一九九九年︶六ニー六三頁・六七ー七     いる感ぱ否めない︒﹂とする前掲清水書評は︑ともにご

   六頁参照︒       . の誤解を含んでいるように思われる︒なお︑木下論文に

 ︵8︶ このテーマは︑﹁政策の対立・政治対立と政治参加の  ・  ついて言えば︑本書と﹁対照的﹂な大隈像を提示する意

   拡大﹂と言い換えてもよい︒当面の議論では﹁政策と組     図があるようには見受けられず︑﹁大隈の在野時代十六

   織﹂という方が便宜的なのでこの表現を採るが︑もう一     年﹂︵一八一頁︶の位置づけどしては︑本書第三章と︑む

   方の定式化も念頭に置かれたい︒ダールのポリアーキー     しろ方向性を同じくするものと考えられる︒

   に言及する七頁・二六頁注︵2︶も参照︒

 ︵9︶ 前掲清水書評の捉え方である︒      ﹇付記﹈

 ︵10︶ 他にも中央と地方との関係や党員と非党員シムパとの   本稿は︑二〇〇四年五月六日に東京都立大学の政治学院生会

   関係の問題がある︒非党員シムパをめぐるジレンマにつ  が開いた勉強会のために用意したコメントが元になっている︒

   いては五八頁参照︒また︑院外団の役割につき︑一八〇  当日は︑稲吉晃氏が本書の内容について要約・紹介し︑村上浩 ︑ 1一八一頁参照︒いずれも政策ど組織との分裂に関わる  昭氏と相原がコメントをつけ︑参加者とともに討論を行った︒

   問題であると考えられvる︒       討論に参加したのは︑山崎裕美・山辺春彦・稲垣浩・山田徹・

    言葉と政策−五百旗頭薫﹃大隈重信と政党政治﹄を読む       − ︵都法四十五ー二︶ 四九五

(20)

四九六

小畑嘉丈の各氏である︒七氏にこの場を借りて感謝したい︒

 また︑紀要論文には些か大仰ではあるが︑間もなく消滅する

東京都立大学にも感謝したい︒学問共同体は具体的な個人の単

なる集積物ではなく︑共同体が形成してきた伝統や蓄積された

記憶︑知的雰囲気が大きく作用する抽象的な構造体であって︑

何名かの学者が集まりさえすれば形成されるというものではな

い︒私は都立大政治学という学問共同体で育った︒本書の著者

も︑そして勉強会の参加者も︑この共同体の構成員である︒﹁都

立大学は教官・院生・学生共にまさに少数精鋭の学問共同体﹂

であるとする著者の見立て︵三一八頁︶に適うかどうかは心許

ないが︑本稿が都立大に学問共同体が存在したことの︵たとえ

ささやかなものであれ︶証になれば幸いである︒

 痛恨なのは︑この恩義ある共同体の崩壊を目の当たりにしな

がら︑それを防ぐことができなかったことである︒私自身間も

なくこの大学を去ることになるゆえ︑新たな共同体の立ち上げ

に参画することもできない︒本稿を都立大に捧げるオマージュ

とし︑レクイエムとすることをお許しいただきたい︒

参照

関連したドキュメント

いう仮説を立てる。ここでとくに著者が注目するの

権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア 経済研究所 / Institute of Developing.

Ⅲ期はいずれも従来の政治体制や経済政策を大きく転

 過去の民主党系の政権と比較すれば,アルタンホヤグ政権は国民からの支持も

たかもしれない」とジョークでかわし,結果的 りこめたシーンである。 ゴアは,答えに窮する

「権力は腐敗する傾向がある。絶対権力は必ず腐敗する。」という言葉は,絶対権力,独裁権力に対

変容過程と変化の要因を分析すべく、二つの事例を取り上げた。クリントン政 権時代 (1993年~2001年) と、W・ブッシュ政権

社会システムの変革 ……… P56 政策11 区市町村との連携強化 ……… P57 政策12 都庁の率先行動 ……… P57 政策13 世界諸都市等との連携強化 ……… P58