長者の山 : 近世的経営の日欧比較
著者 ガーンス バルト
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名: 日文研フォーラム, 開催地: 国際交流基金 京都支部, 会期: 2001年2月6日, 主催者: 国際日本 文化研究センター
ページ 1‑23
発行年 2002‑09‑30
その他の言語のタイ トル
Millionaire's mountain : a comparative view on Early Modern business organization in Japan and Europe
シリーズ 日文研フォーラム ; 136
URL http://doi.org/10.15055/00005679
第136回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
■
長 者の 山
近 世 的 経 営 の 日 欧 比 較 一
Millionaire'sMountain
‑AComparativeViewonEarlyModernBusinessOrganization
inJapanandEurope
■
バ ル ト ・ ガ ー ン ス BartGaens
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海
外の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにありま
す︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立ってい
るわけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議
論や情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒こ
のフォーラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究
者が自由なテーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマル
な﹁広場﹂を提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォー
ラムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長山折哲雄
● テ ー マ ●
長者 の 山
一近世的経営の 日欧比較一
Millionaire'sMountain
‑AComparativeViewonEarlyModernBusinessOrganization inJapanandEurope一
●以s
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国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 中 核 的 研 究 機 関 研 究 員 Lecturer,Int'lResearchCenterforJapaneseStudies
2001年2月6日(火)
発表者紹介
バ ル ト ・ ガ ー ン ス BartGaens
国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 中 核 的 研 究 機 関 研 究 員 Lecturer,InternationalResearchCenterforJapaneseStudies
平 成11年3月 平 成11年3月 平 成11年5月
略 歴
総合 研究 大学 院大 学文 化科 学研 究科博 士 後期 課程 修 了 総合 研究 大学 院大 学 博 士(学 術)
国 際 日本 文化研 究 セ ンター 中核 的研 究 機関研 究 員就 任
主 な著書 ・論 文
「近世 ・近 代 にお け る住友 家 の家 訓 と家法 」 『日本語 ・日本文 化研 究 』(大 阪外 国語.
大 学)第4号 平成6年
"TheRelationbetweenFamilyandEnterpriseinEarlyModernJapan ‑The
HouseofSumitomoasaCaseStudy一"0万eη 亡a左a五 〇vanfeηsfaPerlod/ca29,1998.
"TheOrganizationofMerchantHousesinTokugawaJapan ‑aComparisonwith theLowCountries一"(博 士 論 文)TheGraduateUniversityforAdvancedStudies,
1999.
"Family
,Enterprise,andCorporation‑TheOrganizationofIzumiya‑Sumitomoin theTokugawaPeriod一"ノ 勿anRevfew;VoL12,2000.
一﹁長者の山﹂
私の出身はベルギーですが︑ベルギーという国は平地で︑南部には丘のようなものが
ありますが︑山がありません︒そのため日本にやってきた頃から︑京都の山が大好きに
なりまして︑よくハイキングに行って山に登ることがあります︒しかし︑今まで一度も
登ったことがなく︑そしてこの先も︑登ることのできない山があります︒それが﹁長者
の山﹂であり︑今日の話の題名にもなっています︒なぜそれを題名として選んだかとい
うと︑理由は二つあります︒まず︑山は長者︑つまり金持ちになる苦労という︑万国共
通の課題をよく表しているからです︒﹁長者教﹂(一六二七年)という︑日本の近世にお
いて町人の教訓を記した本のなかで︑金持ちになる苦労は比叡山の二十倍の高さである
山に登り︑大河を渡ることに譬えられています︒
﹁さるほどに︑長者の山とてあり︒たとへば︑ひゑの山を︑二十︑かさねあげたるほ
どにて︑なりはふくべのごとし︒ふもとに大河あり︒うちがわを︑百ばかりあはせて︑
せのはやき事︑たきのおつるがごとし︒これをわたりて︑かの山をあがる人すくなし︒
それ︑かねをもち︑かねをまうくるは︑つねのせいなり︒﹂
そして︑もう一つの理由は︑今日は︑日本の商人の典型としてもともと京都にそのル
ーツをもっている住友家について話すことを選んだからです︒戦前には財閥として︑現
代では系列として有名な住友は︑泉屋という商家として始まり︑後に大阪の代表的な豪
商にまで発展しました︒江戸時代初期の創業から︑当時﹁赤金﹂と呼ばれていた銅の精
錬と銅山業を家業としましたが︑銅山がまさに住友家の﹁長者の山﹂となったわけです︒
では︑今日は︑近世ヨーロッパと日本の商人はどのようにこの山に登ろうとしたかを
比較するという観点から見ていきたいと思います︒商売をやるにはどうしても利益追求
が大切で︑その目的達成のために他の人と協力する必要があります︒つまり︑継続的・
計画的に事業を営み︑合理的な経営組織を作る必要があると言えます︒どのように商売
をするのか︑どのような経営組織が使われているか︑そしてどのような問題が現れるか︑
を検討するなかで︑その国の文化も見えてくるのではないでしょうか︒つまり︑今日の
発表では近世ヨーロッパと日本の商人の比較を試みたいと思いますが︑ヨーロッパのケ
ーススタディとして︑現在ベルギーの一部であるフランダース地区に焦点を当ててみた
いと思います︒御存じのように︑ベルギーは一八三〇年に独立した︑比較的新しい国で
す︒近世初期には現在のベルギー︑オランダとルックセンブルグの地域がネーデルラン
ドとして統治されていた領域でした︒南部のフランダースは近世初期︑つまり一六世紀
には繁栄していましたが︑一七世紀は独立を宣言したオランダの黄金時代となりました︒
日本でフランダースと言えば﹁フランダースの犬﹂を連想する方が多いようですが︑フ
ランダースが中世から近世初期にかけてヨーロッパで一番繁栄していた地域だったこと
はあまり知られていません︒当時ブルージュ(ブリュッへ)とアントワープ(アントウ
ェルペン)というような商業都市では各国の商人達が集まって︑経済的に︑そして経営
組織の面でも︑大変進んでいた地域でした︒とくにアントウェルペンは国際的商業都市
となって︑ヨーロッパの商業の中心地にまで発展しました︒印刷業︑生糸︑ダイヤモン
ドのみがき︑じゅうたんの制作︑いわゆる贅沢品の産業・商業がその経済的繁栄の基盤
でした︒そして経営の面では︑会社の初期的形態も発達し︑商法も制定されました︒こ
の[アントウェルペン慣習法集成﹂という商法が︑一七世紀の始めにオランダの東イン
ド会社の設立に大きな影響を与えたことも事実です︒東インド会社は世界初の株式会社
と呼ばれていることは周知のとおりです︒しかし︑一六世紀の終わり頃からフランダー
スが政治的・経済的に不安定な状態におちいり︑大勢の商人および多くの資本がアムス
テルダムを始め︑ヨーロッパ各地へと移動してしまいます︒このため︑フランダースの
商人は︑密接な血縁的関係のネットワークを作って︑国際的な商業活動を続けることが
できました︒したがって︑フランダースを比較研究の対象として選んだ理由は︑私自身
がその地域の出身だから︑というだけではなく︑経営組織が早い時期から非常に進んで
いたことに加え︑ヨーロッパ各地で活躍していたフランダース出身の商人達が西欧の代
表的な経営組織を作っていたからです︒
ニフランダースの場合
では︑フランダースの商人はどのように﹁長者﹂になろうとしていたのでしょうか︒
近世初期のフランダースの代表的な商人︑∪巴9国9巳①(デラ・ファイェ)家の場合を例
に考えてみようと思います︒∪Φ 鋤﹁①旨①家は織物の商業を中心に富をなし︑現在でもベ
ルギーの貴族の一つとして知られていますが︑かれらのサクセス・ストーリーは一六世
紀の冨昌U①夛﹁鋤巳Φ(ヤン・デラ・ファイェ)から始まりました︒∪Φ鼠守筥Φ家のその
後の発展を四つの段階にわけ︑お話ししたいと思います︒
a.弟子入り
多くの商人の間では︑富裕な知人や︑商人をしている身柄のもとで︑若い時から弟子
として働き始めることが通例となっていました︒冒口∪Φ量国9︒崑Φも例外ではありません
でした︒冒5は一五一五年にアントウェルペンで生まれ︑イタリアのヴェニスに渡った
時は一五歳でした︒ヴェニスに本部をもつ同じフランダース出身のζき畧①コαΦ国磐Φ
(マールテン・デ・ハーネ)の企業に弟子として入るわけですが︑そこで会計と文書の
写しに加え︑主人のビジネス旅行に同伴したりして︑商人としての訓練を受けました︒
結局一五三九年にアントワープ支店に∪Φ団p澪企業の支配人として送られますが︑そこ
で感謝しなければならない主人に対し︑恩を返すどころか︑会社で不正を働き始めます︒
アントワープとヴェニスは離れていたため︑本部の目が届くことなく︑比較的簡単に会
社の信用を使って︑ひそかに個人取引︑個人商いを行うことができたのです︒会計を偽
造し︑自分の財産を増やした結果︑主人の直接の競争相手になって︑最終的には親会社
が倒産してしまうという結末に至りました︒ここには近世における商人の非常に特徴的
な問題点を見い出すことができると思います︒それは信用の問題です︒近世のいわゆる
個人中心主義の現れとも関連していると思いますが︑[詐欺﹂や﹁騙し﹂の要素が非常
に強く出ています︒企業は信用のおける人間を︑代理人や代表者として選ぶ必要がある
ことは言うまでもありません︒その忠義を高め︑信用を確保するためにさまざまな方法
が使われました︒代理人を親戚から選んだり︑代理人を自分の親戚と結婚させたり︑そ
して︑会社に出資させるなどの方法がとられました︒しかしどの方法をとっても︑保障
はなく︑支配人が雇い主を﹁裏切った﹂ケースが非常に多かったようです︒﹂琶∪巴①
閏9皀①はヴェニスのα①=き①の企業に出資し︑主人の娘と結婚しましたが︑その戦略は
失敗に終わりました︒ドイツ語の日鋤ロωoげ①⇒(交換する)と↓ぎω︒げ①昌(騙す)という
二つの単語の語源が同じであることも︑単なる偶然ではないのです︒
一六・一七世紀頃から経済が国際的に拡大・分散し始めたので︑遠隔地に支配人など
を派遣するのではなく︑当地に住んでいるエージェント︑つまり委託代理人を採用する
システムが徐々に増えます︒彼等は雇用経営者ではなく︑取引きの一定率の手数料を取
る臨時代理人(OObPbP一ωω一〇口ゆ一同ω)で︑必要に応じて採用されていました︒たとえば︑A
はBに依頼されて︑外国で商品を買ったり売ったりしたとしましょう︒そこで︑Aも自
分の会社を所有しているので︑Aは自分の商品を売るために︑BあるいはBの会社を仲
買として使う︑というわけです︒
b.個人企業
とにかく︑﹄穹∪巴p﹁鋤皀①はこのように雇用主の信用を裏切って︑自分の財産を集め
ることに成功しました︒それを資本に︑個人企業として織物︑香辛料などをスペイン︑
ポルトガル︑イギリスを相手に輸出入をする遠隔地商業を行いました︒
しかし︑個人企業としての活動だけではなく︑一六世紀の商法に明文化された﹁加入﹂
が商人にとって大きなビジネス・チャンスを提供しました︒﹁加入﹂(b鋤﹃口oも餌口①)とい
うシステムが確立したため︑個人の商人も有限責任で他の企業に出資することができる
ようになりました︒資本家が他の企業に投資し︑経営に参加せずに利益配分を受け取る
わけですが︑責任は出資金額を限度とすることを可能にしたやり方です︒つまり︑有限
責任で︑匿名の出資が企業に一般に行われ始めたことが︑株式会社への発展に大変重要
な要素だったといわれています︒﹄きU⑦ 鋤守 δは個人企業としての取引きと︑他の企
業への有限責任的投資によって︑一六世紀終わり頃までにヨーロッパの他の豪商の中で︑
最も富裕な企業の一つになりました︒
俺共同企業(コンパニー︑ooヨでoOコ一ρ0Φω彑ω070でく9コ70コΩΦ■)
冒口∪巴鋤守巳①は一五入二年に亡くなりました︒事業は共同企業として続けられまし
た︒相続は会社財産が分散してしまうという危険性をもっていました︒西欧における相
続は単独相続︑平等分配などさまざまな形でありましたが︑それは会社の存続にも大き
な影響を及ぼしたことは言うまでもありません︒当時フランダースでは平等分配が一般
的でした︒しかし︑例えば︑複数の息子がいた場合︑その中で企業人としての資質をも
つ子供に対し︑他の子供よりも多くの財産を受け渡すという傾向が当時の遺言に多く見