陶冶過程における時間調整能力の形成
― リ テ ラ シ ー と の 関 連 で ―
小 川 史
アブス トラク ト
時間は、あらゆる時代、社会、文化において本質的に重要な問題である。それぞれ の時代や社会において特有の時間が生 きられている。成長する個体は、その時代 ・社 会の標準化された時間へ と自分自身の身体的なリズムを同調させていかなければなら ないが、他方で、標準化されてはいないが現実的なものとして把握 される複数の時間 を調整 していかなければならない。とくに、現代は各個人に特有な仕方での未来への 投企を不可避的なものとして強いてお り、その構想を可能にもするリテラシーを生の 条件として強いているようにみえる。だからこそ、標準化された時間への同調 とリテ ラシーの獲得を可能にする学校制度からの脱落は、重大な困杜をもたらすことにもな るのである。だが、学校から脱落する生徒の多 くは、家庭などの第一次集団において、
文字文化に触れあっていなかった り、未来を志向させて くれるような関わりをもたな かった りしている。本論文では、現代において時間意識、リテラシー、オーラリティ あるいは相互行為が どのように関連しあっているのかを検討する。
1.問題設定
本論文はリテラシーやオーラリティが主体の時間意識 とどう関係 しているのかを考 察する。だが本論文は言語学や哲学の論文ではな く、教育学の論文である。したがって、
その観点も教育にかかわるものであるべ きであろう. とくに本論文は出発点を成長す る人間に置 く。つまり、教育者ではな く、育ちつつある者が、そ してその過程で起 こっ ている出来事が出発点である。成長する人間にとってリテラシーの獲得はどのように 起 こるのか、また、それは時間意識をどう変化させるのか。問題は二重である。 もち ろん、両者を別々に議論することはできるし、むしろ別個に試論すべ きであるという 立場 もあるだろう‑ おそらくそのほうが普通であるかもしれない。だが両者は密接 にかかわってお り、その絡み合いをとらえなければ、成長する人間の主体形成、ある いは社会化を十分に理解できないのである。そしてそれが、本論文が強調 したい とこ
ろで もある。
とはいえ、その関連の仕方は単純ではない。両者は原理的な結びつ きをもつ と同時 に、社会的な結びつ きをもっている。原理的に、文字言語の習得は主体 に時間意識の ドラスティックな変草をもた らす。文字言語の習得以前は、主体は現在 に、また具体 的な状況 に縛 られてお り、そ こか ら超越 した形式 を獲得で きない。文字言語 の獲得 で、主体は過去 と未来へのパースペクテ イヴを得る。文字が保存する過去 を捉 え、 ま た未来を構造的に見通す ことができるようになる。要するに、文字 は主体の時間意識 を構造化するといえる。そ してその一連の経過は、近代以降は学校 とい う社会的制度 によって形成 される。学校で生徒 はリテラシーを獲得するが、そのことで同時に時間 意識の構造化 を図るといえる。ただ し、時間意識の構造化 といって も、学校において それはリテラシーの獲得だけに依存 しているわけではない。そ もそ も学校 に通 うとい う行動、一定の時間に区切 られた時間割 を日々こな してい くという身体的作業が、総 合的に主体の時間意識を形成するといえるだろう.だが一方で、この点 を考えてい く
と、学校以前のいわゆる口承的な社会関係における話 し言葉の重要性 という問題に突 き当たることになる。近年の研究においてリテラシーの重要性 を説 く研究者が同時に 口承性 (オーラリテ ィ)の重要性 を主張 している。 このことは、人間の成長 を考 える上 で きわめて重要な点であると考えられる。これは問題の重層性 を示 しているが、その 点は議論 を展開するなかで徐 々に明 らかになるだろう。
リテラシーの意義を人間形成全体 を視野に入れなが ら議論 したバ リー ・サンダース は、かつて、文字文化か ら疎外 ・排除された若者が暴力的な行為に走るというアメリ カでの一般的傾向について指摘 した。このことは、若者の暴力的な行為 と非識字との かかわ りが大 きい ということ、そ して、人間形成にとって リテラシーの投書はミ大 きい ことを意味 している。サ ンダースは文字言語の機能について次のように述べている。
「言語は私たちが現実 を知覚する媒体であるか ら、文章が複雑 になればなるほ ど、私 たちの経験 はより複雑になる。口承世界で形成 される文は、典型的に主語/動詞/ 目 的語 という形をとる。その種の文は現実をす っきりと、順序 よく予測可能な形に保つ。
単純な文法的構文が言語に対 して もっているこの拘束力 を破 ることは、古 びた もの一 1 一 日常の経験 や常識的考 え‑ に、根本的に新 しい しかたで新鮮な洞察 を与 える」。
一方で「ギャング団の子 どもたちは基本的に、流れに身を委ねて漂 っていることしか 2
で きない」。流れに身を委ねて漂っている若者 は、時間を構想する力 をもたない。そ してその力 は、リテラシーに由来する。 これが本論文の主張である。以下、議論の進
‑2‑‑
展において何度もこの論点に立ち戻ってい くことになるだろう。
2.社会化と時間の調整
成長の過程で人間は当該社会で制度化 された時間概念 を習得する。通例「社会化」と 呼ばれる過程において、社会で標準化 された時間を習得することはきわめて重要な意 味をもつ。
そのことを社会学的に明確に述べたのはノルベル ト・ユリアスである。エ リアスに よれば、人間は幼少期から時間概念および時間と密接な結びつ きを持った社会制度を 学んでい く。成人になる頃には、そうした時間にかかわる制度の強制力 もすでに感 じ るようになっている。だが、「もし人生の最初の一〇年間にそういう制度に合致 した強 制装置を自己のなかに形成できなかったら、言い換えれば、発達 した社会において成 人近 くなって も自己の行動 と感情を時間という社会制度に合敦 させるすべ を習得で き ていなかった ら、社会のなかで成人 としての位置を満たすことは、不可能ではないま
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で も、非常に難 しいことになるだろう」。ここでいう社会制度の典型的な例が学校で あるが、ここでは一義的に学校が示唆されているわけではない。そうした明示的な制 度だけではな く、 E=二は見えないものの、社会関係を規制する制度 もそこには含 まれ ていると考えてよい。社会制度からの脱落は、成人に逢 した時点での一定の社会的役
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割の遂行を不可能にする。同様の事柄について、バーガーとルックマンは古典的な著 作のなかで次のように述べているO「時間性は意識の本質的な属性をなしている。意識 の流れは常に時間的に整序づけられている。この時間性 は、それが主観の内部で意識 可能であるか ぎり、そのさまざまなレヴェルの間に区別 を設けることができる。 どの 個人もすべて時間の内的流れについての意識をもってお り、この流れはまた‑ それ とは同一のものではないにしろ‑ 身体の生理学的リズムにその基礎 をもっている。
〔・‑〕しかしながら、〔‑〕日常生活における問主観性 も、やは りまた時間という次元を もっている。 日常生活の世界は間主観的に通用するそれ自身の標準時間というものを もっている。 この標準時間は二つの時間の間の、つまり一方における自然の時間的継 起に支えられた宇宙的時間と社会的に確立 されたその暦、と、他方における先に述べ た区別 された ものとしての内的時間、という、この二つの間の交差点 として理解する
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ことができよう」。ユリアスと同様にバーガーとルックマンもまた、社会的に一定の ものとなった時間を個々の主体が調整 してい くことの必要性を主張 している。「日常生 活の時間的構造が極度に複雑なものであることは容易に理解することができようい と
いうのも、経験的に現前する時間性のさまざまなレヴェルはたえず相互に関係づけら れなければならないからである。/ 日常生活の時間的構造は、私が計算に入れておか ねばならない一つの事実性 として、つまり私が私 自身の計画 をそれと同時化すべ く努
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めねばならない一つの事実性 として、私にあらわれる」。ここで示 されているのは、
時間が一つの次元だけであたか も実体 としてあるのではない ということ、それは社会 関係のなかで複数現われること、一方で、社会的に標準化された時間というものがあ ること、成長する主体はそれら複数の時間を調整 しなければならず、そのことに失敗 すると‑ とりわけ標準化 された時間との接合に失敗すると‑ 成人期以降に大 きな 困牡が待ち受けている、 ということである。つまり、これは教育学が真剣に考えなけ ればならない問題 なのである。
3.教育的関わりと時間の調整
さて、社会学において人間の成長の過程で時間を社会的に調整することの重要性が 示 されてきたわけであるが、教育行為において事態はさらに複雑になる。言い換 えれ ば、成長する主体 (子 ども)に教育をする者 (成人)が関わるとき、事態はより複雑な様 相 を皇する。たとえばある人類学者は次のように述べているが、これは教育と時間と
7 が実践的な次元で大きな問題 となることを端的に示 しているといえよう。
我々にとって、個人の主体性 という原理をどの程度適用するかを決めることは、
しばしば困艶である。我々はこんなことを自問自答する。 どの程度まで、子供たち が自分で決定し、自分のために話 し行動することを許すことができるだろうか。そ していつの時点で子供たちがそうすることを許すことがで きるだろうか。たとえば 母親が初めて小児科に小 さな子供を連れてい く時、彼女は子供にかわって話 さなけ ればならない。子供が医者の質問を理解 した上で返事をし、また自分の好みや意見 や結論を自分で も表現できるのを待って、母親が、子供のために静かにできるのは いつだろうか。そして母親は予約時間を使い、忙 しい医者の貴重な時間を使い、子 供に発言させるという大挙をどの程度まで実行できるだろうか。
ここでは(1)子 ども(被教育者)、(2)母親(教育者)、(3)医者(第三者)の、三者の関 係が取 り上げられている。子 どもには、自分 自身の行動 を決定 し実行する時期がある。
これは子どもにとってはすでに時間の制御である。母親はさらに、子 どもが自分の時
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間を医者の時間に合わせて行動する(つまり診療時間に自分で通院する)ことができる ように、別の次元から関わっていかなければならない。その とき母親は少な くとも、
子 どもの発達段階についての一般的観念、その子 どもの発達状況、子 どもの自主的な 行動を待つこと、医者 との面会時間の調整、子 どもと医者との関わ りの調整、につい て関わらなければならない。このように、時間の観点から見ると、教育行為 はじつに 複雑な調整行為を行っていることがわかる。他方でこうした調整行為がうまくいかな い と、教育そのものの失敗 に陥る。そうした例についてフランスの精神科医の報告か
8 ら見てみよう。
エチエンヌ(十歳)は四人 きょうだいの長男である。
「あの子は弟の顔に切 りつけた り、妹の脱を折った り、他の子 を危険なめにあわ すのです。盗みもするし、人前でも自慰をするのですよ」。
知能は平均 より上。 もの憂げな態度で話す。彼は小屋に動物がた くさんつめ込ま れた夢を見る。海や太陽の夢 も見る。彼は家庭の陰気な雰囲気から逃げ出そうとし ているのだ。〔‑〕完全主義者の母親は長男の行手に立ちふ さが り、息子の欲望 を自 分自身の欲望に従わせようとする。エチエンヌが自転車で出かけようとすると、そ んな時にか ぎって母親は彼に畑仕事を言いつける。エチエンヌが一人で静かに過 ご
したい時に、母親は子どもを何人 も呼び集めて くる。
どんな企ても機が熟さないうちにだめになってしまい、エチエンヌは、 自分は何 もや りとげることができないのではないか と感ずるようになった。
エチエンヌのいたずらは、男性 として成長してい く可能性を根こそ ぎだめにして しまうと彼が感 じている母親のイメージへの、防衛の現われに他ならない。〔傍点引 用者〕
この例の母親は、自分が行っていることを知らず、なぜ息子がいたず らをするのか が理解できない。だが行動の次元で母親は息子の自主性が成長することを妨げている。
「どんな企て も機が熟 さないうちにだめに」なる.ここには、先に挙げた例にあったよ うな子 どもの自主性への配慮は兄いだせない。引用文中にある「完全主義者」について、
原著者は注を撮って次のように記 している。「完全癖の母親 とは、子 どもが自分の行動 の細部にわたって、これ以上うまくできないと感 じるまで完全 さを要求する母親のこ とである。そうして子 どもは、自らを自分の行動の主体 と感ずることができず、r知 り
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つ くしているはずの」(他者)に、自分の進路をまか して しまうのである」。ここでは母 親は子 どもに自分 との同一性 を強制 してお り、子 どもはその強制を受け入れてしまっ ている。おそ らく母親には強い教育者 としての自覚があるのだろう。 しかしその教育 はほとんど支配と呼ばざるをえないようなものとなっている。
もう一つ、別のパターンを見てお く必要があるだろう。それは、教育が放棄されて いるケースである。このケースについては現在、多 くの研究所や報告書が出されてい る。その内から一般的な傾向を示 した文章を引用 してお きたい。ある著者は、現在の 日本で貧富の二極分化が進むなかで、「家庭の教育力がほとんど機能していない」と述
10 べつつ、次のようにいっている。
〔‑〕確かに今は努力が必ず しも報われない時代だし、多 くの人にとって将来像も見 えない時代ではある。そんな毎日の中で親たちは子 どもの将来のことは考えず、家庭 で教育を行なおうとしない。代わ りに、 自分自身の「今」の欲望を満たすことに懸命に なっているようだ。〔‑〕 〔そうして育った子どもたちは‑ 引用者注〕日常生活の基本 となる挨拶、姿勢、食事作法その他諸々の技術やルールが何 もしつけられていない。
オフィシャルな言葉使いは全 くで きない。社会生活を営む人間として最 も基本である 時間に合わせて起 きること、予定に合わせて体調を整えることも天候や気温に合わせ て服装を整えることなどもで きない。
ここでもやはり、時間の調整が根本的に重要な問題 となっている。こうした子ども にとっては、成長の過程で時間の調整を手助けして くれる大人が存在 しない。そもそ も親 自身が自分の欲望の実現 を最優先に考えてお り、その行動パターンが再生産され ているともいえる。
いま、3つの典型例を挙げて説明を進めてきた。ここで、すべての例に共通 してい る事柄についてまとめてみたい。それは以下の3点に要約で きる。
1)行動の調整 適切な場所で適切な行動を行 うこと。これは他方では欲望を制御す ることでもある。今ここで何かを行いたいという欲望を抑え、行動の流れを未来‑ と 構想することが要請される。
2)
自主的な制御 しか もそれは、行動の主体が自主的に行 えるようにならなければ ならない。他者からの強制は、子 どもの自主性を損なう。この強制は、敦育者の欲望 を被教育者に押 し付けることで成 り立つ場合がある。‑6‑
3)
他者の存在 他者は自分 自身の行動 を不可避的に、場合によっては省察的に制御 するよう差 し向ける存在である。他者は自分の欲望で意のままにで きる存在ではない。だがそのことが、時間の調整を行 うことを不可避にし、そうした力を身に付 けさせる のである。
以上の点 は、教育的関係 に内在する時間の問題をさらに詳細に示 したものである。
これらの点を学校制度が形成させることは容易に想像がつ く。だがより重要な点 とし て、就学以前の家庭の存在がある。家庭は文化的な要素を色濃 く反映 してお り、その 文化的要素の存在 ・不在によって時間の調整能力 も大 きく変わって くるだろう。
では、この間題はリテラシーとどのように関わって くるのだろうか。おそ らくここ で、次のような仮説を立てられる。文字の読み書 きを習得することで培われる構想的 な認識力が、時間の構造化を主体にもたらす.そのことで、主体は時間的な見通 しが 立てられるようになる。そのことは、 とくに近代的な学校制度を大 きな軸の一つに据 える社会にあっては、 きわめて重要な能力になる。かつてニール ・ポス トマンは、読 み書 き能力が子 どもと大人とを区分すると主張 した。ポス トマンは、「印刷機は、識字 能力を根拠 にした大人の新 しい定義を、 したがって識字能力のなさを根拠にした子 ど
ll
も期の新 しい定義をつ くりだ した」といっている。このことは、おそ らく‑ ポス ト 12
マンはそういっているわけではないが‑ 時間の問題 とも関わっているのではないだ ろうかC
少なくとも、問題は二つの次元で考えられる。一つは、社会的に標準化された時間 と成長する個人の身体的リズムの調整の問題である。これは、単にフィジカルな問題 ではな く、むしろ自己規制の問題でもあ り、その意味で当該個人の構想の問題である。
もう一つは、標準化された時間とは別にある、社会関係における時間である。この間 題は第一次集団(クーリー)、あるいはオーラリティの問題とも関わってお り、複雑で ある。まずはここでの問題が学校制度とどう開通するのかを見ておこう。
4.学校制度と時間
学校へ通 うことは、規律 ・訓練の側面 をもっている.遅刻 しないように時間通 りに 学校 という場へ行 く。時間割 という独特なかたちで分割 ・配分された教育内容を学ぶ ためにその時間は身体 を拘束する。家へ帰っても、復習 ・予習を行い、すでに学んだ 内容 とこれから学ぶ内容 とを想起する。こうした過程が、個体を社会的なものにする。
これは、単に学校に行 くことが社会的に剛度化された時間を身体化することだ、 とい
う意味ではない。そこでは文字を媒体 とした知識を読み、書 くことが求められる。つ まり、ここでは時間の構造化 と文字知識の習得が構造的な結びつきをもっている。知 識の習得には一定の時間がかかるが、その時間を学校が配分 し、それに依拠すること で、「卒業」という社会的認知が得 られる。
このように、学校で子 どもは文字言語を軸 とした知識や技能を習得するだけでな く、
制度化 された時間を身体化 してい く。学校は複数の知識 ・技能を系統的に習得するこ とを可能にするだけでな く、同時に一定の時間の構造化をも生徒に習得 させる。この 両者はかならずLも折 り合いがいいとは言えない。知識 ・技能によっては、短期間で
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集中的に学んだ方がよい もの もある。だが、同時に複数の知識 ・技能を学ばなければ ならないため、習得にかかる時間が異なる内容のものを、うまく分割 ・配分 し、カリ キュラムとして総合化 しなければならないO こうした制度に適応するためには、学習
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者 自身が時間を自分のなかで配分できるようになっていなければならない。先に述べ たように、ユ リアスは成長の過程での時間概念の習得することを社会学的に説明 した。
ユ リアスの文脈を重ね合わせれば、学校 に制度化 されている時間を習得できなければ、
成人 としての位置につ くことは「不可能ではないまでも、非常に粍 しい」。これはまさ に、先に挙げた若者の状況である。
そ もそも学校 という制度が前提 としている時間は、 きわめて抽象的な時間である。
それは均質・線的であ り、時間割という特有の時間配分の方法をもっている。そこでは、
知識を系統的に獲得することが、学校 を卒業する段階で どのような状態に至るかを想 定 している。 しか し、それは将来に対する構想であ り、一定の構想力を要求する。だ が通常人びとは学校の制度に体現 されている時間を信 じているのであり、個々人がそ うした構想力 を発揮する必要はない。けれども、学校への信頼がなくなったとき、そ うした構想力の行方はどうなるだろうか ? おそらく、学校からの脱落 と、社会が制 度化 している一般的 ・抽象的な時間からの脱落は同時に起こる。したがって、学校か らの ドロップアウ トは、その人の時間構想に対 して決定的な要請を為 して くるといえ よう。だが冒頭で示 したように、学校 を中退する生徒のほとんどはそうした時間構想
15 がそもそもできないのである。
学校は、授業で扱 う内容の編成が生徒の年齢の発達 とうまく合っている、という発 達心理学的な前提をもっているが、それは実際にそこに入学する者誰にでもふさわし い ものであるとは限らない。おそらく、この事態をより精確に見ようとすれば、学校 以前の、成長の過程で個人が形成 してい く時間を、制度化 された時間とは別の次元で
ー8‑
検討してみる必要があるだろう。
いずれの文化 ・社会 も、人間が産まれ成長 し、死を迎えるまでのライフサイクル像 をもっている。学校はそれを明示的な形で制度化 していると言える。 リテラシーは通 常、まずは学校教育を通 して培われる。だがそのことは同時に、学校教育か らの ドロッ プアウ トは‑ 学校以外にオルタナテイヴがない社会では多 くの場合‑ リテラシー からの ドロップアウ トを意味 し、さらにリテラシーによって構造化 される時間意識か らも疎外されることを意味する。逆にいえば、学校の機能は、ひとつは系統的な文字 の読み書き(リテラシー)の学習であ り、 もうひとつは社会的な「標準時間」(バーガー
‑ルックマ ン)を身体の時間と調整 し、社会化を図ることであるという言い方 もで き る。では、一見別々の問題に見えるこの両者の点はお互いにどう関連 しあっているの だろうか。
5.オーラリティと未来への投企
子どもは、社会化 される前は欲望をまさに今充足 しようとする存在であ り、その意 味で現在を生 きている。教育が通常果たしている役割の一つは、この欲望充足 を制止 したり先送 りした りすることにある。子 どもに何 らかの目標を与え、行動 を未来に向
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けて投げこむように促 してい くのである。このことに大 きな意味をもっているのが文 字の読み書 きなのである。ただしそれはリテラシーとオーラリティの双方に関わる問 題であ り、それぞれの時間との関わ り方は同じではない。
サンダースは、リテラシーを、口承文化を包括する観点で考えているが‑ つまり、
こうした若者に文字の読み書 きを教 え込めばよいというわけではない‑ リテラシー から排除され暴力的行為に走る若者は文字文化以前の口承文化‑ 家庭はその母体だ
‑ で自己形成が うまくいかなかったことが多 く、そうした場合、文字の読み昏 きも 17
十全なもの とはな らない と述べている。似たようなケースはアメリカばか りではな 18
く、日本でも、たとえば高校 を中途退学 した若者の調査からい くらで も例 を挙げるこ とができる。そこで共通 している問題は、学校から脱落 した若者の多 くが、時間構造 を主体化する機会 を持てていないことである。彼 らは、「生まれてから、r頑張ったから こんなに素晴 らしいことがあるんだJという体験や、r良 くやったねJという子 どもたち にとって、何 より大切な『励 まされた りjrほめられた りJr次の目標 を提示 された りjそ んな体験がほとんどないのである。そういう喜びや感動 を味わったことがないような 若者たちに、rお前たちは根気がない。自分の人生に責任を持て』と責めて どうなると
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いうのだろう」。ある調査者は彼 らの生のあ り方の特徴 を、「将来の人生や夢 などを度
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外視」した「アイデ ンティティーな き依存」と呼んでいる。ここで注意を向けられてい る若者たちは、学校 とい う文字文化の場か ら疎外 されているばか りでな く、未来への 投企 を可能にする人間的な関わ りか らも疎外 されている。まさに、ここに問題がある。
彼 らはリテラシーか ら疎外 されると同時に、未来を志向する時間感覚か らも疎外 され ている。つまり、彼 らは成長する過程で適切な形で時間を構造化で きていないのであ る。同時に、文字の読み書 きが もた らす時間の構造化から社会的に排除される。さき に引用 した、文字言語の機能に関するサンダースの主張を思い起こしてみよう。「言語 は私たちが現実を知覚する媒体であるから、文章が複雑 になればなるほど、私たちの 経験 はより複雑になる」。だが、そこから疎外 された子 どもたちは「流れに身を委ねて 漂 っていることしかできない」。文字が もたらす時間のパースペクテイヴの違いがこ こでは鮮明に現われているわけだが、これは、また別の問題、すなわち、教育の目標 をどのように設定するか という大 きな問題 と関わって くる。 リテラシーのある子 ども にとって把握可能な未来にある日標 も、そ うでない子 ども、現実の「流れに身を委ね
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て漂 っている」子 どもにとっては、ユー トピア的であるか もしれない。後者の子 ども にとっては、教育 を受けることが将来 もた らす結果を構想で きないかもしれない。彼 らにとってはそうした将来は<非現実的>であ り、実感を伴 う<現実>はまさに現在 的で、す ぐに手に入るもの、アルバイ ト代、剃那的な関係、などであるか もしれない。
そ うなるとこれは悪循環 に陥る可能性が極めて高 くなる。教育が設定する未来の目標 か ら疎外 され、同時に別の現実性に引 きず られるならば、ます ます 目標からは遠ざか るだろう。 このことは、ポール ・ウイリスがかつて述べていたことでもある。 ウイリ スは<野郎 ども>と呼ばれる若者の実体 を分析 した研究のなかで次のようにいってい
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る。
もし<野郎 ども>の所在 を知 りたいのな ら、彼 ら自身の時間感覚 と行動の型 を 知 っているほうが より確実だろう。時間割が明記 している学習日程 も、時間害はミ暗 黙のうちに前提 している時間観念 も、<野郎 ども>の時間感覚 とは無縁のものであ るか らだ。〔‑〕<野郎 ども>にとって時間 とは、はるか将来の希望を実現するため に細か く節約 し、用心深 く使 うものではない。時間は、この現在 の自己確認のため に、いま彼 らの掌中になければならないのだ。時間は、<野郎 ども>が仲間同士で この今 をす ごすためにあるのであって、成績資格 という目的を成就する過程 として
Ilo‑
あるのではない。
2)
そ して彼 らにとっては学校外の自分たちの時間はそれ自体が価値を持っている。
もちろん、さし迫った時間の流れを気にする時期がないではない。学年末がいよ いよ目前に迫 り、いずれ就職口を決めねばならないという焦 りはどの生徒 にも訪れ る。 しか し、たとえそうだとしても、<野郎 ども>の文化にあっては、彼 らの時間 が制度化 された時間か ら自由であるというその一点が重要なのである。彼 らにとっ て時間は、どの時点をとっても同 じようにたいせつな時間として経過する。それは、
計画 された時間でもな く、損失 として積算 される時間でもなく、何 らかの見返 りを あてにする時間でもない。
ウイリスが述べた<野郎 ども>は、サ ンダースが述べたくギャング団>の若者 と同 じだろうか。「制度化された時間」か ら自分たちを差異化することは、それ自体が意識 的な行為である。そこには多かれ少なかれ意志がある。だが、「制度化 された時間」へ の主体の統合に失敗 して しまった場合は、おそ らく事態が異なる。ここでは、欲望 を 意志 と結びつけることの問題を示唆 していないか。
教育者が達成される未来の点をどこに設定するか という点で、それは無限の将来の 点を一方の極、限 りなく現在の瞬間に近い点を他方の極 とするベク トルが想定できる。
そこに、達成意志の強度を示す軸を重ねることがで きるかもしれないOつまり、そこ で欲望を意志 と結びつけることが大 きな課題 となる。この間題について更なる検討を するにはまた別の機会を待たなければならない。
注釈
1.バ リー ・サンダース著、杉本卓訳r本が死ぬ ところ暴力が生まれる 電子 メデ ィ ア時代における人間性の崩壊J新曜社、1998年、pp.82‑830
2.同前、p.850
3.ノルベル ト ユ リアス著、井本的二 ・青木誠之訳 r時間についてj法政大学出版局、
1996年、p.ll
4.「個人は成長するにつれて、社会で使われる時間シグナルを理解 し、行動 をそれ に合わせ られるようになる。つまり、時間に関する記憶像、個人が所有する時
間の観念は、時間を表示 して伝達する社会的制度の発達段階と、個人が子供のこ ろからその制度で もってつちかってきた経験 によって決まるのである。」(同前、
p
. 1 4 )
5.P.Lバ ーガー‑T.ルックマン著、山口節郎訳丁目常世界の構成 アイデンティティ と社会の弁証法J新曜社、1977年、pp.44‑45.
6.同前、p.45。ただ し、ユ リアス的な観点からすれば、バーガー‑ルックマンは「客 観的に存在する事実的な時間」(p.46)の実在性 を信用 しす ぎている。そうした「客 観的な」時間の実在性の歴史的性格 を暴 き出す ことがユ リアスの主要なモチーフ になっている.「社会的関連における(時間)は、く社会)、く文化)、く資本)、く貨幣)、(言 語)などの名詞、厳密には規定できないが、人間の外部に切 り放されて存在する ようにみえる何かと関係する名詞が示す社会的所与 と同 じ存在形式をもつ.仔細 にみれば、く時間)もそのひとつであるこのタイプの名詞は、相互に依存 しあう多 数の人間を前提とし、だからこそ相対的自律性を有 し、たぶんそのような人間一 人ひとりに強制力 さえもふるう所与 と関係 していることがわかる。 したがって個 としての人間は、その種の社会的所与は個人には依存 しないのだから人間一般に も依存 しない という幻想をいだきがちである」(前掲 r時間についてj、p.125). 7.ドロシー ・リー著、宮嶋瑛子訳r文化 と自由J思索社、1985年、p.160
8.モー ド・マノーニ著、山口俊郎訳 r子 どもの精神分析]人文書院、1978年、pp.94
‑95。 9.同前、p.950
10.朝比奈なをr見捨てられた高校生たち 知 られざる「教育困妊枚」の現実]学事出 版、2011年、pp.41‑430
ll.ニール ・ポス トマン著、小柴‑訳r子 どもはもういないJ新樹杜、2001年、p.36。 12.ポス トマンによれば人類の歴史の中で印刷術の普及はきわめて重大な意味をもつ
ものであった。「読書は、観察されない抽象的な知識の領域にはい りこむのを可能 にすることによって、読むことができない人間と読むことがで きる人間を分維す る。読書は、子ども期の悩みの種である。なぜなら、ある意味でそれは成年期を つ くりだすか ら。あらゆる印刷物‑ 地図や海図、契約書、証書をふ くめて‑ は、
大事な秘密を集め保有する。こうして読み書 きの世界で大人になるということは、
自然ではない記号に鰐成された文化的秘密にあずかることを意味する。読み書 き の世界では、子 どもたちは大人にならなければならない」。このことは、読み書
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き能力が社会から失われることは必然的に主体の変容を伴うことを意味する。「だ が、読み書 きのない世界では、子 どもと大人をはっきり区別する必要はない。な ぜなら、秘密はほとんどないし、文化が自らをどう理解 させるかについて訓練 を ほどこす必要はないからである」(同前、pp.29‑30)。
13.この点は、イヴァン・イリイチが学校を批判する際のひとつの論拠 となっている。
14.学校で学ぶ知識 ・技術の問題と、学校が制度化 している時間の問題は、同一の問 題ではないが、複雑かつ密接に絡み合っている問題である。
15.この間題を、近代批判的な観点で、抽象的に処理することは容易である。たとえ ば、学校が体現 している時間は抽象的 ・均質的 ・線的であ り、それは近代特有の ものである、と。そうした ものとは別に、複数の、個別の時間を重視 し、オルタ ナテイヴとして捷起 しなければならない、と。だがそうしたや り方は、学校 とし て現に確固として存在する制度が具体的に改変されない限 り、あまり意味をなさ ない。高校を中退 し、生活の破綻に追い込まれている生徒にとって、そうしたオ ルタナテイヴがひょっとしたら救いになるか もしれないが、問題の根本的な解決 になるのだろうか。
16.この点を教育学的観点から議論 した人物に、ゲシュタル トト理学で著名なクル ト レヴインがいる。 レヴインは次のようにいっている。「児童の世界が瞬間的な現在 をこえて未来に伸長することは、確かに部分的には世界 を現前 させている知覚全 体が しだいにひろがることおよび知的な見通 しがいっそう包括的になることにも とづいている。たとえば、児童は稲妻の後で雷鳴が くること、茶碗 をひっくりか えすと叱 られることなどを経験する。 しか しなが ら、多 くの点でもっと基本的な のは動作全体の発達である。児童はもはや単に現在の事物を獲 ようとするのでは ない.ただちに実現されることを欲するばか りでな く、彼の目的は未来にかかっ ている。幾 らか年長になると、数カ月前の事象のみならず数カ月後の事象が現在 の行動に無視 しえない役割 を演ずる。児童の行動を決定する目標は連続的に未来 に投げこまれる。児童の心理学的現在の生活空間を決定する伸長は、 目標のこの 時間的転移にもとづいている」(タル ト・レヴイン著、相良守次 ・小川隆訳 rパー ソナリティの力学削 岩波書店、1957年、p.183).
17.前掲r本が死ぬ ところ暴力が生まれる」参照。
18.ジ ョナサ ン ・コゾル著、脇浜義明訳r非識字社会アメリカJ明石書店、1997年。 コ ゾルによれば、学校か ら脱落 した子どもの多 くは「三歳、四歳の頃、父母か らも
祖父母か らも、本を読んで もらえなかった子 どもである」(p.126)。 また、ユルク・
イェッゲ著、小川真一訳 rむずか しい時期の子供たち 学習障害児たちとの経験」
みすず書房、1988年。
19.青砥恭 rドキュメン ト高校 中退J筑摩書房、2009年、pp.92‑93. 20.同前、p.1190
21. もちろん、目標設定の<時機>の問題は、別個 に論 じなければならないほど大 き い問題である。 ここではすでに引用 したクル ト・レヴインが述べていることを引 用 してお くにとどめてお きたい。 レヴインは次のように述べている。「児童の知覚 空間はその小 さな寝台か ら部屋や街まで、数時間か ら数 日、数 カ月に伸びている が、まだ主として空間的(社会的)あるいは時間的伸長は現実性の同 じ水準内にと どまっている。 しか し、未来に至って到達すべ き行動の 目標は、同時に幾分か非 現実的なものである。願望や夢の領域からくるものは通例観念的目標であ り、現 在 の事象 ほどに十分 な現実性をまだもっていない ものである。はるかに伸 びてい る願望の 目標 は、同時に生活空間の伸長を他の次元 にもた らして くるoそれは他 の次元への関係、すなわち心理学的環境の非現実の水準 との関係を意味するもの で、そ してまさしくこの関係は、一般に目標が遠 ざかるほど顕著になる.大人で も奔放な、はるか遠い先 をみている計画は、ユー トピアや幻想に接近 しているし、
非現実に転ずる危険 もある」(前掲 rパーソナリティの力学説」、p.183)0
22.ポール ・ウイリス著、熊沢誠 ・山田潤訳 rハマー タウンの野郎 どもJ筑摩書房、
1996年、pp.75‑76。 23.同前、p.760
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