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ー武蔵国多摩郡柴崎村を事例に

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(1)

幕末期名主家の系図作成と由緒

小稿は︑幕末期において名主家の当主が自家の系図を作成し︑合わせて自家や村の由緒を語ったことの意味を考

察するものである︒近世社会において︑武士階級や百姓層等身分を問わず︑自らの家の系譜を辿り系図を作成し︑

由緒を語る材料としていたことはよく知られる

(l

)

の由緒や村・集団の由緒を語り出す状況が活発化することも近年の研究から周知のこととなった

(2

︒そうしたい)

わゆる﹁由緒の時代﹂

(3

と指摘されるまでになった一九世紀の村落社会であるが︑当該期の村社会を考える上で)

は︑依然として由緒論的アプローチから検討する意味はあると考える

(4

︒その理由の一っには︑個別家ないし村)

の由緒をめぐる地域ごとの個別事例の蓄積が未だ充分とはいえないこと

(5

︒二つ目として︑自家の由緒を語ると)

いう行為がこれまでの研究は︑他家や他村︑領主階級といった﹁外﹂にのみ向けられており︑自家の構成員に向け

られるいわば﹁内﹂に対して向けた由緒について検討する視点が弱いこと

(6

︒三つ目として︑名主家の一っとし)

て村運営上の秩序維持のために由緒を作り出すことが必要になるという︑村落秩序維持機能の一っとして由緒を検 はじめに

一九世紀に入ると村落内の村役人層を中心に自家

ー武蔵国多摩郡柴崎村を事例に1

29 

(2)

なお︑小稿で分析の対象とした家は︑武蔵国多摩郡柴崎村︵現東京都立川市︶

柴崎村と名主鈴木家

柴崎村は︑多摩郡西部多摩川縁の低地部と︑村の東西を貫くハケを境目とする武蔵野台地上の部分で構成される

村である︒集落は台地の縁を沿うように東西に軒を連ね︑軒数は近世期を通じておよそ二四〇\五0軒前後あっ

(8

︒村の東端には甲州道中が通り︑柴崎村は江戸に近い府中宿と︑多摩川をはさんで対岸にある日野本郷宿の)

間に位置する中継地として存在し︑村内の集落の一部は小規模ながら町場化していた

(9

︒村高は一︱三七石余で︑)

領主別に幕領(︱

10

七石余︶と普済寺領︵二0石︶︑旗本中川氏領

(1

石余︶が設定された0

( 10 )

︒また︑柴崎

村は尾張藩の鷹場村の一っに設定されており︑遅くとも一八世紀半ばには立川陣屋が設定され

( 11 )

︑同藩における

鷹場支配の拠点となるなど︑尾張藩の影響が及ぶ村柄でもあった︒

村内は︑享保期には八つの﹁組﹂で編成され

( 12 )

︑それぞれの組毎に年貢諸役を徴収するシステムが敷かれ︑各

組の頭八人が組頭となり︑その中から名主が選ばれ村政を主導した︒

( 13 )

︑寺社

( 14 )

で催される各種講や祭礼︑建て替え普請の際の人足負担などについて︑百姓らは字単位でまと

る ︒ 述べてきたように分析を加えていくことには︑ 稿は︑由緒研究上取り上げられることの多い時期を扱い且つ︑

一方で村内は︑小字単位での結びつきも強固 一定の意味はあると考える︒では︑以下分析をすすめていきたい︒

で名主を長年務めた鈴木家であ 一村における名王家の個別事例紹介になるが︑以上 討する意味があること

(7

︑以上の問題意識から︑検討を加えていく意義は依然として残されていると考える︒小)

30 

(3)

幕末期名主家の系図作成と由緒 一武蔵国多摩郡柴崎村を事例に一

まって行動した︒

をとって﹁九郎左衛門組﹂や﹁平九郎組﹂と呼称され︑同組の組頭として近世期を通して村政に携わった︒史料上

確認できる限り︑鈴木家は享保十年には名主役を勤めている

( 16 )

︒それ以降幕末まで︑

( 17 )

年番名主の一人とし

( 18 )

柴崎村政の秩序維持に努めた家柄であった︒このように柴崎村において旧家の一っであった鈴木家だが︑

近世後期に活動した鈴木家十代と十一代の当主の時代に︑系図が相次いで作成されることになる︒次章でみていこ

鈴木家の系図作成と先祖供養

二つの系図

鈴木家文書

( 1 9

には︑﹁鈴木/中嶋系図草稿入﹂と墨書きされた包紙があり)

( 20 )

︑その中には同家の系図や系譜︑

しげのぶ﹁聞書﹂など︑鈴木家の家系に関する資料が残る

( 21 )

︒その内︑本節では鈴木家十代重信と十一代重固の手によっ

て作成された二つの系図を比較検討することで︑鈴木家の系譜認識について考えていきたい︒

表は︑中央の二重線を境に左半分が十代重信作成の系図

( 22 )

︑右半分が十一代重固作成の系図

( 23 )

を基に作成

したものである

いこう︒まず一見すると︑鈴木家の初代が十代系図には掲載されておらず︑十一代系図には記載のあることがわか

( 2 4

︒加えて︑当主の﹁重﹂から続く名前がニ・三ー六・八代当主に関して異なっている点がある)

( 25 )

︒また全体

柴崎村において鈴木家

( 15 )

は ︑

一七世紀段階から組頭の一人として史料上確認することができ︑同家の通り名

︵以下︑十代系図・十一代系図と呼ぶ︶︒では︑表の左右を見比べながらその特徴について述べて

31 

(4)

I/  十 代 重 信 作 成 「 藤 原 姓 鈴 木 氏 系 図 」 十 一 代 重 固 作 成 「 穂 積 姓 鈴 木 氏 系 図 」

歴 代 名前 通称 法名 没年月日 事績等 名前 通 称 法名 没年月日 事績等

繁宗 兵庫允→ 龍山道雲 冗和5年 本文中の史料2「聞書」が全文挿入され 勘ヶ出 6月11日 ている(略)。

(54

梅 野 秋月浄l!ll寛永冗年 7月23 (61

重連 鈴木因幡 香林宗楽 艇安3年 大織冠鎌足長男淡海不比等文忠公 重連 熊丸 香林宗楽 慶安3年 初代繁宗土培之後、当郷好地と考水田壱 居士 11月13日 の苗裔。葬柴崎村臨済宗普済寺。 (シケッラ) →平吾 11月13日 町五反歩を開キ我有となす、治世間もな

→因幡 (64 く新田開発之中至而稀なる故に是を美称 して里僕勘ヶ由待と唱ふ、子孫猶所替直

連者温厚篤実なる故に郷党信服し父の跡

を継て里長たらしむ

慈性妙鏡 正保冗年

4月7 (59

重教 勘解由 経雲是捷 寛文2年 柴崎村之内、向田卜云所ヲ支配ス 重隆 保太 経雲是捷 寛文2年 慶長14420日柴崎に生。初代繁宗

(シゲタカ) 居士 II月晦日 故二成地名而勘解由町卜唱。 (シゲタカ) →平馬 11月晦日 壱代重連里長を全ふし二代重隆に至る所

→九郎左 (53 天性文筆を好普済寺現住大年和尚二従し

衛門 広く経典にわたり家別九人之ますます委

し里民悉く服し家勢やうやく榮惜哉、中 老にして世を辞す故に芳名を広にせす、

当家祖繁宗ハ武門を旗民間に下る中を深

<恥とし通称を換え家景之外都而我名の

顕る事をいとふかわり故に初代を唱え、

重連を以て当家一代と定る事ハ重隆の撰

月隻妙空 慶 安5年 由木領之古主平左衛門直兼孫半十郎直定 3月18日 女。塵長十二丁未多摩郡向か丘二生。

(46

幽室妙源明暦3年 当郷加藤七兵衛系 五女。

5月18 (38

tc 

(5)

n

=4 驀如ヤ苓急幸器昏泌1回翠組ー 7

e

重詳 九郎左衛門 党謀道究延宝9 重泰 左介 党岩道究延宝9年 寛文7・8之間当村中検地御縄入之所菩

(シゲヨシ) 禅定門 7月 (シゲヨシ) →平兵衛 7月138提所普済寺御朱印領地亡所之所領外之地

→九郎左 (54 二而引替候事当家之内縁二もとつき中嶋

衛門 氏之才覚を以同寺之田跡無事越得たる故

其時二住持の自鉦之褒状中嶋氏二渡此一 事有二付而検地之節当村長立之もの案内

二不加其年当番之者共井田畑地名所地境

の農善案内二而設楽氏下検地相済雨宮氏 二御水帳相渡候是則菩提所永世之幸甚卜 檀家之吉事也

繁窓妙榮 貞享2 繁窓妙榮延宝3年 設楽氏。八王子代官設楽孫兵衛次女。

禅定尼 2月 3月20

(50

重章 四郎兵衛 幽山道喜 貞享2年 御代官雨宮勘兵衛為支配邑内空野 重知 四郎兵衛 幽山道喜 貞享2年 当郷加藤与兵衛四男四郎兵衛。貞享乙丑

(シゲノリ) 信士 10月2日 有之訴訟依述下命令新盤広野開丘 (シゲノリ) →九郎左 10月2日 之年ハ郷中疫漑引れ当家二おいて壱ヶ年 田官吏巡見而伝令肖四郎兵衛依為 衛門 (40 二三人之葬をなす、既二分家三十郎嫡平

邑里長先官吏導街道四郎兵衛下吏 兵衛を以急養子となすほとの異変二付、

市 左 衛 門 及 茂 右 衛 門 伊 兵 衛 倶 勤 次女瀧夫加藤勘助此方二而四代夫婦之霊

之、開拾六町八反歩余以為国益芙 を弔ふ此ころな家紋に下り藤を用ひしは

官吏之喜不余以為国益突。八年戌 藤原鈴木の紋にあやまり加藤の紋に混し

申秋八月事畢、開拾六町八反歩 たる也

少室妙印 貞享5 少室妙印 貞享2年 ニ代璽恭嫡女。寛永弐十癸未正月八日生、

信女 10月13 10月5日 貞享二乙丑十月五日夫と同病三日違二し

(43 て卒。璽恭二女瀧、当郷加藤勘助江嫁、

当時重縁と成を以て字勘ヶ由待田壱ヶ 所、字小岐林壱ヶ所、瀧衣足料二附ス 重昌 平兵衛 曹源知滴 早保6年 同姓二十郎の一男。重章娘を要り 重匡 源吾 曹源知滴 享保6年 分家二十郎嫡男。貞享3 27オにし

居士 528日 養子となる。 (シゲマサ) →平兵衛 5月28日 て当家を督。

(62

白室妙圭 正徳2年 重章娘。 白室妙圭 正徳2年 四代重知嫡女。貞享322オにして重

大姉 6月18 6月188 匡に嫁す。四代重知二女袖、当郷加藤伊

(48 兵衛二嫁す。

g~

(6)

ま~

重常 九郎左衛門 大渓性雲 寛保2年 葬は村内黄槃宗満願寺。重常妹は 重庸 平三郎 大渓性雲 寛保2年 嫡男松次郎正徳252日早世(2 上座 32日 名主加藤勘九郎要。早世の子あり (シゲツネ) →平九郎 32日 法名宗泡童子。

「宗泡童子」(正徳252日亡)。 →九郎左 (57

衛門

心月宗闘 早保18年 室は多摩郡宇津木村住人加田野伊 心月宗1ll1享保17年 当郡字津木村住人加田野伊兵衛娘。

大姉 211日 兵衛娘。葬は普済寺。 211 (45

重駕 九郎左衛門 俊峯元英 安永4年 葬は村内黄漿宗満願寺。元文元年 重篤 半六 俊峯元英 安永4年 市川氏、甲斐源氏。当郡四ッ谷村市川三 上座 829日 検地案内。実父は多摩郡四ッ谷村 (シゲアツ) →平九郎 829日 左 衛 門 次 男 。 正 徳3 23オにして当 (85 住人市川何某二子。早世の子あり (85 家を継。元文元年武蔵野新田御検地案内。

「可讚童子」(享保95月21B  延享5・享保18右同断案内。名主勤役中、

明和元申年朝鮮使来朝に付品川東海寺中

正光坊宿御賄。伊奈半左衛門内篠原惣太

夫下役相勤。組合加用水秋川堰入願に付 7ヶ村惣代勤之明和6年名主退役。嫡男 半介早世 (11オ)、法名「可讃童子」(享 9521日亡)。

綺才要俊 安永8年 妻 は 日 野 本 郷 千 人 同 心 井 上 新 七 井上氏 日野本郷千人同心井上新七娘。重篤二女

大姉 71日 娘 増、日野本郷千人同心井上新七宰。

重香 平九郎 積斐善慶 文化7年 享保18・延早5年検地案内。 重季 六太郎 積斐普慶 文化10年 重季、名主退役後日野宿助郷惣代役文化

→九郎左衛 上座 516 (シゲトシ) →平九郎 516日 十酉年迄勤之。重季弟の重篤四男五郎市

(83 (83 が十代目。

冗貞妙亨 天明7年 要は多摩郡平山村八幡宮神主大澤 政 冗貞妙予 天明7年 大澤姓。多摩郡平山村八幡宮神主大澤隼

大姉 24日 隼人正の娘。 23日 人正娘。

(55

重興 五郎市 消節素廉 享和2年 寛政6年検地案内。早世の子あり 重 輿 五郎市 清節素廉 早和2年 生得二核を能し多病也、寛政6年御検地

(シゲフサ) →九郎左衛 上座 61日 「良圭童子」(寛政11129日 (シゲフサ) →平九郎 →追号 61日 案内。次男谷蔵、寛政11129日亡

, 

(42 総倹院 (42 (7オ)法名「良圭童子」。

妻は本山修験真言宗立川院法印の 直 法輪了機 文政3年 本山修験真言宗立川院法印の娘。

→追号 12月11

転授院 (58

(7)

70

重 信 五 市 天 明 冗 年715日生。享和4年 重 信 五 市 曇瑞法春 文化12年 重信幼少より父多病仕るに子の道を尽し

→平九郎 129日 名 主 役 。 文 化58月 (シゲノプ) →平九郎 →追号現 正月2日 父没後母を主とする事、又至而孝也、朋 18日 「 御 菜 鮎 世 話 役 」 被 仰 付 勤 祥院 (35 友に信を尽し世を交るによくその人に応

役中御扶持方二人扶持被下置。同 す故に郷党信服して同療中嶋敬成と骨肉

10月 に 万 石 以 下 知 行 所 村 々 取 のことし、愛におゐて拾七年来諸厭を好

締役被仰付。 ひ郷風忽ちー変して孫竹謡曲の遊ひを習

ひ始而村中泰平の時を得たり、謂つへし

重信は後世里正の鑑たる人とかたらう、

稽オたる琴碁書画□□等を能し美声干八

二勝れもの音曲を聞入数年の後二至て猶

10  讃称す、諸稽世を交る事廣みて経済二も

又かしこし謂つへし重信は万能二達し一 心を保つ人と真を以て没後逢迄美讃して 不止、この人世を栄せす家名を興隆し郷 里村中二も定て益二入からんものを惜哉 三十四才秋七月より病に伏し命期遁れさ る中を覚り中嶋敬成次子八オの童子を病 床二養て子となし辞世歌井短句等を顕し 翌年正盆二降るに亡たり

妻は多摩郡府中領分倍の小川俄右 仲 元離貞合 多摩那府中領分倍の小)II儀右衛門娘。

衛門娘。 →追号

松壽院

重固 倉次郎 中嶋9代敬成次男。重固八才之冬机上二

(シゲカタ) →平九郎 養子と成養父没後年寄役を勤、十四才冬 祖母世を去り其前養母ハ家にあらす獨と 成し養家は祖叔母二留守居を頼、実家中 嶋氏ハ偶居、廿五才天保二辛卯三月名主

11  役入、同五甲午夏実家二妻を姿り同六未

嫡子出生、同年冬始而養家二帰る、廿弐 才之時養家の宅相を占考し子孫不繁事を 案し向屋敷を合て門を辰巳二開き旧宅を 毀ち同方二新宅を移し井蔵其外一つとし て転せさるのものなく

嘉 代 平姓。平村太左衛門弟太吉娘。

I)本表は、文化10年「藤原姓鈴木氏系図」(『鈴木家文書J6221)及び、「穂積姓鈴木氏系図」(『鈴木家文書』626. 629)より作成。

2)表内の歴代当主欄の上段部分は当主名を、下段綿分は当主室の名を示す。

gC 

(8)

2十一代重固による先祖供養と石塔建立 的に十代系図に比べて︑十一代系図の方が事績等の記載が多いことが特徴として挙げられよう

( 26 )

︒十一代系図の

記載の充実ぶりについては︑重固による古過去帳からの鈴木家当主夫妻の没年月日の調査や

( 27 )

︑現地調査による

歴代当主の出自の確認作業に加えて

( 28 )

︑初代1二代の事績等で確認できる﹁聞書﹂の作成

( 29 )

が原因と考えら

れる︒初代1二代当主の事績に関しては後述するので︑ここでは加藤家

( 3 0

とのつながりについて表から確認し)

ておきたい︒加藤家とは︑二代重隆の後室に貞を迎え入れて以来︑四代重知は加藤家当主与兵衛四男の四郎兵衛を

鈴木嫡女の沢と要らせ当主におき︑また沢の妹瀧は加藤家へ嫁ぎ︑重知の二女袖が加藤家に嫁いだことなど︑深い

つながりを有していたことが確認できる︒とりわけ沢の妹瀧の加藤家嫁入りに際しては︑﹁当時重縁と成を以て字

勘ヶ由打田壱ヶ所︑字小岐林壱ヶ所︑瀧衣足料二附ス﹂とあるように︑重縁を承知で更に衣足料を渡してまで嫁入

りを実現させたように︑鈴木家にとって加藤家は婚姻関係を何度も結ぶ必要のあった重要な家であったことがわか

る︒重知の事績等には︑﹁此ころな家紋に下り藤を用ひしは藤原鈴木の紋にあやまり加藤の紋に混したる也﹂とあ

り︑鈴木家で用いた下り藤の家紋が︑元々加藤家の紋が混じったものと記されるほど︑加藤家とは五代当主の時代

まで︑何重もの婚姻関係があったことを指摘しておきたい

(3 1) 0

以上︑表を比較する中で鈴木家による系図の作成が︑十代と十一代の時に行われたこと︒また両系図の冒頭に挙

げられる人物が一代と初代と異なっていた点︑十一代系図の事績等での記述が重固による調査や由緒の作成によっ

て大幅に増した点などを指摘した︒では︑重固は具体的にどのように系図を作成させるまで︑鈴木家の先祖を供養

し︑系図を改訂するに至ったのであろうか︑次節で確認しておこう︒

36 

(9)

幕末期名主家の系図作成と由緒 一武蔵国多摩郡柴崎村を事例に一

重固は︑十代重信が文化十二年正月に亡くなった後︑鈴木家と年番名主を務めた中嶋家から養子に入り︑十一代

当主となった人物である︒自身が養子という背景があったのだろうか︑重固は鈴木家代々の先祖供養を怠ることな

く行っている︒少なくとも重固が作成した﹁公私日記﹂から確認できる天保十\十五年の間に限ってみても︑天保

十年十月十三日には﹁先祖忌日二付満願寺比丘尼時斎相雇﹂を

( 32 )

︑同十一年六月一日には﹁去ル廿八日な今日迄

H之間先祖井家属先亡霊正当に付︱︱︱朝之間満願尼時斎相頼﹂

( 33 )

︑同十二年十月七Hには﹁普済寺江先祖菩提之

ため金剛経拾巻寄附之代金弐分也相渡候事﹂を

( 3 4

︑同十三年二月十日は﹁先祖年回供養二付昼八ツ時普門品修行)

講中一同相招夜二入講中女人雇念仏修行﹂を

( 35 )

︑同十五年十一月十二日には﹁月並普門品今夜此方二而修行先祖

宗楽居士正当逮夜二付取越相営﹂

( 36 )

というように︑毎年先祖の忌日や年回供養を行っていたことがわかる︒また︑

天保十二年には﹁先祖年回操出し﹂を作成し

( 37 )

︑初代から十代の当主とその室︑夭死した子女らを宗族として加

えた計三十人の戒名と没年月を書き上げ︑その中から五人を年回として書き上げるなど︑現当主として鈴木家の先

祖を供養する役目を果たしている︒なお︑﹁先祖年回操出し﹂には︑その冒頭に﹁初香林宗楽居士慶安三十一月﹂

しげつらと書かれており︑この法名をもつ人物は︑先の表でみるところの一代重連にあたる︒すなわち十一代重固は︑天保

十二年の段階まで鈴木家の初代を重連と認識していたことがわかる︒では︑どの段階で重連を初代ではな<‑代と

重固は︑天保期以降嘉永期に至っても引き続き先祖供養は継続して行っている︒﹁公私日記﹂で確認するだけで

も︑①嘉永四年三月二十九日

( 38 )

︑②同年六月二十九日

( 39 )

︑③嘉永七年五月十三日

( 40 )

︑④同年同月十四日

( 41 )

⑤同年閏七月二日

( 42 )

︑⑥同年八月十一日

( 43 )

と六回にわたって先祖供養に関する記述が確認できる︒①\⑤に

記載された内容は︑大きく分けて先祖代々の内︑信士や信女号がある者は居士・大姉に改めることを認めさせたこ 認識するに至ったのであろうか︑続けてみていこう︒

37 

(10)

を鈴木家の先祖と位置付け︑それらを石塔の建立という形で実現させた画期となる時期であったといえる︒ 嘉永四年から七年にかけての時期は︑重固にとって自身に近い先祖の法名格上げを願い出てそれを獲得し︑大先祖 七月の時点で︑重固は繁宗を大先祖として鈴木家の先祖に位置付け︑その上で五輪塔を建立し供養したのである︒ に︑その内の一基が﹁大先祖勘ヶ由繁宗両霊追尊居士大姉号五輪塔﹂であったことがわかる︒すなわち嘉永七年閏 形でも実現させた︒なお︑⑤の記載からは︑石塔五基が石エから引き取って墓所に建立した事実がわかるととも ある︒重固は嘉永期に先祖法名の格上げを企図し実現させ︑墓所に新たに石塔を建てるなど先祖供養を目に見える 院号の許可が下りた後︑近隣の石工に依頼し院号の彫附を行い︑結果として計五基の石塔を墓所に建立させたので と︑九代重輿とその室︑十代重信の三霊の院号付与を普済寺に願い出て許可が下りたこと︑などである︒重固は︑

重固は︑五輪塔を建立するに際し︑鈴木家の遠祖を記した碑文を作成している︒次節で碑文の中身を紹介し︑大

先祖繁宗に繋がる鈴木家の系譜について見ていく︒

先述したように重固は︑嘉永七年閏七月に鈴木家の墓所内に五輪塔一基を建立したが︑その際碑文を作成してい

たことが残された史料から確認できる︒碑文の内容は鈴木家の遠祖と︑大先祖の繁宗が柴崎村に土着することに

なった経緯が記されている︒碑文の作成にあたって︑重固は普済寺末寺の南禅寺

( 44 )

に旅寓中の秋葉良銀

( 45 )

る人物に依頼して﹁先祖考﹂の作成に着手した︒先祖考に関する史料の内

( 46 )

︑和文体で書かれた史料を紹介しよ

史料

l( 47 )

3重固による﹁先祖考﹂作成

38 

(11)

幕末期名主家の系図作成と由緒 一武蔵国多摩郡柴崎村を事例に一

中嶋次郎兵衛二男 此作文凡三百字ほとに縮め申度候処︑縮しかね候ハ︑朱引之通御除なられ候て宜敷御座候鈴木の姓は遠く穂積に出て天徳のころ従五位下盛基より諸枝分流し左近将監重豊の後は︑熊野別当に補せられ従四位下光任の後ハ紀伊権守に任せられ︑出羽大撒従五位下鈴木重盈より支流︑尾上に散し平治合戦に忠死する所の荘司重倫の子三郎重家︑亀井璽清兄弟ともに源義経の臣たり︑重家の子重宗は武州鈴木の祖にして︵な州高橋矢矧弐ヶ所に住し︑今九十八九家悉く此流たり︑同弟︱︱一郎太夫光重より五代二郎重行建武年中紀州熊野に乗船して豆州江梨に移り︑その子三郎太夫繁家ハ鎌倉満氏朝臣に仕え相豆両国の船大将にてその子大学介繁用︑其子兵庫允繁宗に至る迄北条氏に仕え︑天正十八年小田原開城の後︑同藩の類族中嶋兵次右衛門政経ハ兄荘左衛門直勝と倶に武州八王子に戦死の硼一男二女の孤を託す︑政経の叔母ハ立川式部丞の室たるを以て縁を引て柴崎に至り︑二氏ひとしく民間に下るの後︑繁宗通称勘ヶ由と改︑十余代この所に住す最に︑菩提所普済寺は開山示寂貞治二年より今嘉永甲寅に至て四百九十二年の古禅刹たりといえとも︑天正の末伽藍焼亡︑寛永中住持隠れ田不快の故有てこれを焼鬼簿を失す故に︑家景にしたかって法誼をのす︑其子因幡に至て遠祖の一字に復し重連と称されより代々重を通す︑今時梵塔一基を建計て先祖代々の冥恩を供養し以て子孫の報恩となさんと云

十一代祭主 長子三郎繁長より四代左京亮繁郷ハ江梨村船浦院開巷たり五代次郎兵衛繁 之より二流に分れ︑末子小十郎繁俊ハ武州多摩郡向岡砦の陣代たり︑

6り一ハ代源八郎照呉ハ天

L J 名邦一へ原の領三となり一八原を称とて重倫弟左衛門尉重善の子重春・重友弐人は

39 

(12)

本史料は︑史料末尾の﹁今嘉永甲寅に至て﹂の記述から︑嘉永七年に作成されたものである︒また︑史料の冒頭

﹁此作文凡三百字ほとに縮め申度候処︑縮しかね候ハ︑朱引之通御除なられ候て宜敷御座候﹂とあるように︑推敲

段階の文章でこの指示を受けて先述の秋葉良銀が文章を完成させたものと思われる

( 48 )

︒では︑内容についてみて

まず鈴木姓については︑﹁鈴木の姓は遠く穂積に出て天徳のころ従五位下盛基より諸枝分流し﹂とあり︑元は穂

積姓から分流した家であることが語られる︒そしてその後平治の乱や幾多の時代を経て︑建武年間に紀州の熊野か

ら船で伊豆国江梨に移ったことが語られる︒江梨に移住後は︑鎌倉満氏朝臣に仕え相模・伊豆国の船大将を務めた

一代を経て二流に分かれ︑その内の一家が更に四代を挟んで治郎兵衛繁用とその子兵庫允繁宗が登場する時代

に至る︒重固は︑碑文作成に際し鈴木家の遠祖を穂積姓に求め系譜をつなぎ大先祖の繁宗を登場させるに至った︒

史料l後半部は︑後北条氏に仕えた繁宗が天正一八年の小田原開城後︑柴崎村に土着した経緯が語られる︒そこ

には︑繁宗が類族の中嶋政経と同直勝から八王子城で戦死する前︑

式部丞の室である縁を頼って繁宗は政経の子一男二女を連れ︑柴崎村に土着するに至ったとある︒土着後繁宗は通

称勘ヶ由と改め︑以後十余代︑柴崎の地に住むとある︒このように重固が五輪塔建立の際に作成した碑文には︑鈴

木家の遠祖からの系譜と︑繁宗が柴崎村に土着することになった経緯が書かれた内容となった︒重固の手によっ

て︑初めて鈴木家ははるか穂積姓まで遡る遠祖から︑柴崎村に土着した繁宗まで連なる系譜を所有するに至ったの

である

(5 0) 0

中嶋家から養子に入り鈴木家十一代当主となった重固は︑先代重信が作成した系図に初代当主とその室名を加え 後 ︑

鈴木平九郎穂積重固拝誌

一男二女を託されたとある

( 49 )

︒政経の叔母が

40 

(13)

幕末期名主家の系図作成と由緒 ー武蔵国多摩郡柴崎村を事例に一

るなど大幅な改訂を行った︒当主に就いてからは︑先祖の年回供養を行いながら先祖法名の格上げを成功させ︑そ

の結果五基の石塔を建立するなど︑幅広い先祖供養活動を展開した︒五輪塔建立に際しては︑鈴木家が藤原姓では

なく穂積姓に遠祖が遡れることを碑文等に明記し

( 51 )

︑古代以来連綿と家脈を維持した鈴木家としての系図を完成

するに至った︒十七世紀以来柴崎村の旧家としてまた村役人家の一っとして君臨した鈴木家は︑幕末の重固の代に

なってはじめて穂積姓鈴木家としての系図を持つに至ったのである︒次章では︑繁宗が土着するまでの詳細な経緯

と中嶋家との関係が描かれる史料をみながら︑他の旧家層の存在についてもふれてみたい︒

鈴木家聞書

鈴木家文書の中には︑﹁︹鈴木家聞書︺﹂なる史料

( 52 )

が存在する︒長文になるがここに全文紹介しよう︒

史料2

兵庫允穂積繁宗土着之後︑平常之口実日︑永禄九丙寅年五月五日豆州江梨二生︑天正九年十六オニ而父之亡跡

を継北条家二仕え︑相豆州之船鑑たり︑同藩中嶋弥太郎経友四女永禄七年甲子正月に相州小田原二生れ︑我二

弐才之長たりといえとも旧縁も有之︑父没後二付家二嫁る︑同十八年繁宗弐拾五オ諸臣とひとしく小田原二籠

城︑中嶋経友の嫡直経も同所籠︑舎弟直勝政経は主家連枝氏輝卿之居城武州八王子二籠︑兄弟四人弐所二分れ

時互二約して日︑君もしも二伏す時ハ倶二戦死︑降る時ハ如何ほとの滅地たり共旧主二随へし︑万一城を開く

の比興二至二は是非不及銘々の人賃を請取浪人して民間二隠れ再ひ仕官之思ひを止メ︑唯両家の子孫を全にす 繁宗土着の経緯と旧家層

41 

(14)

へしと誓ひ候処︑八王子落城して直勝・政経戦死せり︑小田原開城の硼り彦太郎直経ハ主人二随ひ高野山二お

もむく︑しかも実子なし︑荘左衛門直勝一=オの男子ハ母諸共実家武州柚木領主鈴木平左衛門直寛の家二帰る︑

兵次右衛門政経五才之男子兵太井女子弐人残り︑偲ハ去年極月世を去りぬるに付︑孤三人ハ我妻子と同しく誘

引して武州多摩郡立川郷柴崎二至るのゆえんハ︑中嶋弥太郎経友の妹ハ立川宮内輝重の舎弟式部之丞重章之室

なり︑夫二巳ならす経友の父弥太郎経久弟次郎経重ハ天文年中ゆえ有て北条家を浪人せし所︑立川重能そのオ

智を愛し我所領を分裁してとめ柴崎に居らしめ其子猶此所栄ふ︑かのニツの所縁を引て来り隠る︑然るに中嶋

経重息兵庫重宗ハ当郷の祠官宮崎主計之女を嫁りて既二中老を過たる若しも実子なきを以て次女ハ我家二養ひ

嫡兵太と三女とを兵庫に託す宗重養て子となし︑兵太ハ後二三郎左衛門宗則と号しかの家を継︑三女ハ分家四

郎右衛門尉嫁せしむ︑我子熊丸四オ︑中嶋次女五オの時︑此所に土着し倶に養育して後二夫婦となすなり︑妥

に当郷の主立川氏ハ鎌倉頼朝氏合連綿たる旧家たりといえとも宗運の数既に窮りたるや︑天正十八年の役にハ

氏輝卿の頼に随ひ兄弟共八王子二籠り式部丞重章ハかの城中既戦死︑宮内輝重ハからから戦場を遁れ犬目・楢

原迄引取れオ覚所へ前田家の手に囲まれ終に討死をとけられ︑家臣五十嵐市左衛門政能息政直両人心を合せ立

川氏の主家氏族二至迄北条家の旗下ハ残党の中にかられ心す無事ならせる事を諭し多分の衣食を添とえ所縁あ

るまかせ多西の石川大谷の辺へ移し立川氏の没跡を横領せんと謀る所︑里民等その旧主を捨て私欲に走るを悪

んて是をは︑む︑然りといえとも五十嵐の氏族多くして勢ひ盛んなるか故に終に退る事能わす因蕊中嶋兵庫と

我等両人ハ当郷の長ならん事を頻に希ふ︑是ヲ以甲州之浪人二而七八年前合此所に土着する所の加藤淡路︑小

川玄蕃等と謀りて政能父子か権威を削り︑かの氏族之中両人を加え︑外に当郷の旧家石川某井篤実第一の井上

某をかたらひ都合八人里民を治む︑翌十八年関東八ヶ国之内ハあらまし徳川家所領となし︑終に夫より已来

42 

(15)

幕末期名主家の系図作成と由緒 ー武蔵国多摩郡柴崎村を事例に一

弟式部丞重章の妻であったことである︒そして二つ目の縁は︑繁宗妻方の大叔父にあたる経重が主家である後北条 る﹂とあり︑縁が二つあったことがわかる︒

この史料は︑史料冒頭と末尾に記されているように︑繁宗が柴崎村土着後にその経緯を語ったことを子の重連が

さらに語り︑孫の重隆が︑筆記して残したものである︒では︑内容についてみていこう︒

鈴木家聞書は︑大きく史料の前半と後半で記載内容が異なる︒史料前半部では︑中嶋家

( 53 )

が主家である後北

条氏の没落に際し兄弟が戦死ないし氏直につき従い高野山に行く中で︑政経の遺児一男二女が残ったことが語ら

れ︑残された遺児らが繁宗と共にいかなる縁で柴崎村に辿り着くことになったかが詳細に説明される︒史料後半部

では︑中嶋家と鈴木家が柴崎村に土着後︑他の旧家層らと如何なる関係を結び︑村政を治めるに至ったのかが語ら

まず︑やや複雑な中嶋家と柴崎村の縁について史料から要約しておくと︑史料には﹁ニツの所縁を引て来り隠

︱つ目の縁とは︑繁宗の妻方︵経友四女︶の叔母が立川宮内輝重の舎

当郷の禅刹普済寺現住大年和尚文字従保太重隆謹而誌 前件の一事ハ︑父重連平日の物語を聞分して筆記せしめ辛 なれハ︑今亦我家敷鎮守二勧請し奉る︑因て後代二至る迄九月末の九日の祭礼怠るへからす する事なく家景の外ハ我旧名を記す事なかれ︑就中熊野権現ハ我姓の氏神二而先祖たり紀州合守り移されし虞 所にあらす︑依而彼の悦ひを不妨氏族のよしみを設す子孫たらんもの能我赤心を推考して必す先祖の家名を称 を埋む︑我同姓由木領の源八照輿ハ氏輝の一字を受なから御当家に挙欺再ひ武門に復すといえとも更々美たむ もなく討死の期を失ひ先祖の家名を遺んかため民間に隠る事︑武士の遺懐此上なしかるかゆえに通称も換え跡 御当家の法制に順ふ鳴子歎哉たまたま生を武門に受なから主家の衰廃に逢ひ日本過半の大閑を引受一度の合戦

43 

(16)

家を浪人した後︑立川重能の求めに応じ柴崎村に居住し︑その子の時代になっても依然として柴崎村内で勢力を保

持していたという事情があった︒繁宗が中嶋家との旧縁もあり︑同家から経友四女を妻に姿った縁で︑妻の伯父に

あたる政経遺児三人を連れて柴崎村に向かった経緯が語られる︒遣児三人の内︑嫡男の兵太と三女は経重の子であ

る重宗に託され︑兵太は後に重宗の後を継ぐことになる︒次女は繁宗の所で養育し︑後に繁宗の子熊丸︵後の重

連︶の妻となった︒繁宗と妻は︑妻の実家である中嶋家の縁を頼りに柴崎村に土着することになったのであ

(5 4) 0

統いて史料後半部をみていこう︒史料の後半は︑天正十八年の役で後北条氏に付き従った立川式部丞重章と宮内

輝重が共に戦死を遂げた後のことが書かれている︒そして輝重の討死後︑家臣の五十嵐市左衛門政能

( 55 )

とその

子政直が︑立川氏の没跡を横領することを企んだが︑村民がこれを阻んだことが語られる︒だが︑依然五十嵐一族

の勢力は大きく︑そうした事態を憂いた兵庫重宗と繁宗の二人は︑﹁当郷の長ならん事を頻に希ふ﹂に至り︑そこ

で甲斐の浪人で七\八年前より土着していた加藤淡路

( 56 )

︑小川玄蕃

( 57 )

と謀って五十嵐親子の権威を削った上

で︑五十嵐家の氏族から両人を加え︑更に旧家である石川某

( 58 )

︑篤実第一の井上某

( 5 9

を﹁かたらひ﹂︑都合八)

人で村を治めた︑とある︒史料後半部は︑五十嵐親子の権威に対して鈴木家と中嶋家が共闘し︑その対応策として

五十嵐家を含む他の旧家層を取り込んだ八人で村政を治めたことが記してある︒八人で村を治めたという言説は︑

後年柴崎村で年貢徴収単位として機能した八組の組頭体制の原型を見るようではあるが

( 60 )

︑ここでは指摘のみに

止めたい︒いずれにしても鈴木家聞書は︑初代繁宗と一代重連が語ったように中嶋家との強い縁が存在したこと︑

柴崎村土着直後の村政が不安定な時期に︑五十嵐家を対立軸とし︑鈴木家と中嶋家がそれに対抗する形で他の旧家

層と連携を取り︑最終的には五十嵐家を含み込んだ八人体制を構築するまでに至ったことを語っていよう︒鈴木家

44 

(17)

幕末期名主家の系図作成と由緒 一武蔵国多摩郡柴崎村を事例に一

聞書は︑鈴木家の家内に向けて中嶋家との強固な繋がりを再確認するためのものであるとともに︑村運営︵八人組

の構築に鈴木・中嶋両家が主導的立場にいたことを主張するものでもあったといえる︒次節では︑他史料

一七世紀に作成された資料がほとんど残されておらず

( 61 )

︑当該期における村政の実態解明が進ん

でいないのが現状である︒本節では︑残されたわずかな史料から一七世紀段階に組頭に就任していた家々を明らか

にしつつ︑旧家層間の関係性の一端を探ってみることにする︒

ここでは︑三つの史料からみていこう︒初めは︑慶安三年︵一六五

0)

に作成された﹁永高帳﹂

( 62 )

なる史料で

ある︒本史料には︑鈴木家が属する﹁勘解由組﹂のほかに︑︵五十嵐︶善左衛門組︑︵小川︶与五左衛門組︑︵加藤︶

与兵衛組︑︵鈴木︶弥次郎衛門組︑︵井上︶惣左衛門組︑︵五十嵐︶茂兵衛組︑︵西村︶太左衛門組︑︵五十嵐︶太郎

右衛門組︑理右衛門組︑宇兵衛組の計十一組が確認できる

( 63 )

︒続いて︑寛文一0年︵一六七

0)

作成の﹁諏訪神

社神殿造立名簿﹂

( 64 )

なる史料には︑神殿造立に際し祠官である宮崎式部の名に続けて︑組頭として五十嵐半左衛

門︑西村太左衛門︑中嶋次郎兵衛︑水野喜兵衛︑五十嵐茂兵衛︑加藤与兵衛︑鈴木弥次右衛門︑五十嵐善左衛門︑

井上惣左衛門︑鈴木九郎左衛門の十人の名がみえる︒最後は︑元禄十一年︵一六九八︶に作成された﹁御水帳御

証文箱﹂なる箱

( 6 5

がある︒箱には︑墨書きで中嶋源内︑宮崎和泉︑石川八兵衛︑五十嵐八兵衛︑五十嵐重兵衛︑)

鈴木九郎左衛門︑井上宇右衛門︑加藤勘助︑小川弥五左衛門の九人の名がみえる︒このようにわずか三点の史料で

一七世紀段階未だ八人による組頭体制が確立しておらず︑九\十一人で組頭を務めていたことがわか

2柴崎村の旧家層 から柴崎村の旧家層について確認していこう︒

45 

(18)

因の一っにあったのではないだろうか︒ していたことはわかる

(6 7) 0

( 66 )

︒組頭に就任する家をみても︑前節で確認した︑鈴木家や中嶋家︑五十嵐両家︑小川家︑加藤家︑石川家︑

井上家の他に︑宮崎家や水野家︑西村家などの家がある︒こうした旧家層個々の家については史料的制約もあり判

然としないが︑享保期以降八人の組頭体制が確立する以前は︑八家の他に旧家と位置付き組頭を務める家々が存在

さて︑こうした旧家層と︑前章でみた系図や︑鈴木家聞書などから確認してきた旧家と旧家同士の関係が一八世

紀に入りどのように変容を遂げたのか︑享保期の史料を一部紹介しながら︑最後に探っていく︒

まず︑前章の系図でみてきたように加藤家とは︑鈴木家の二代から五代当主の間に︑いくつもの婚姻関係や養子

縁組を結んでいるが︑五代目以降は縁がなくなる︒加藤家はその後どこの家と縁を構築していたのであろうか︒鈴

木家文書には享保十五年七月に組頭の平九郎と次郎兵衛両人から代官役所に宛てて差し出された﹁乍恐以口上書を

奉申上候﹂なる史料

( 68 )

がある︒本史料は︑柴崎村の田畑川欠砂入地立ち返り分の年貢賦課をめぐって︑開発地

主である小川家と名主であった加藤家を︑組頭の鈴木・中鴫両家が役所に対して吟味願いを訴え出たものであ

( 6 9

︒訴状の中で︑訴訟方の平九郎と次郎兵衛は﹁弥五兵衛与兵衛兄弟之儀二有之間申合﹂をしており︑名主の)

与兵衛は﹁一分之了簡を以御役所へ差上ヶ不申段我か侭成致方﹂をしていると非難している︒加藤家は︑鈴木家と

の縁が途切れた後に︑旧家で開発地主でもあった小川家と縁のあったことが訴状から確認できる︒鈴木家と加藤

家︑加藤家と小川家︑鈴木家と中嶋家というように︑旧家層の間で家同士の縁と村政をめぐる対立とが複雑にから

む様相がみてとれる︒前章でみた鈴木家と加藤家との重縁解消の理由には︑加藤家と小川家が結びついたことも要

46 

(19)

幕末期名主家の系図作成と由緒 一武蔵国多摩郡柴崎村を事例に一

文化十二年に中嶋家から養子に入り︑鈴木家十一代当主を継ぐことになった重固は︑先代の重信が作成した系図

を大幅に改訂することで︑遠祖から辿れる系譜を作成し︑大先祖を繁宗に定め︑重連を一代とすることとした︒重

固は︑墓所に改訂した先祖を含む石塔五基を建立し︑先祖供養の具現化にも努めた︒こうした活動は︑更に﹁鈴木

家聞書﹂という形になって表れ︑鈴木家が中嶋家の縁を頼って柴崎村に土着した経緯が語られ︑合わせて柴崎村の

旧家八家による八組の体制が鈴木・中嶋両家の主導によるものであったことを示してみせた︒重固は︑穂積姓鈴木

氏系図と聞書を作成することで︑鈴木家と中嶋家が古く近世初頭にまで遡る縁があったことを両家に再確認させる

とともに

( 70 )

︑村の百姓中に対しても村運営成立の端緒に両家が主導的な立場にいたことを示すことで村の中での

優位性を引き続き保持することを企固したのではないだろうか︒

以上︑幕末期に作成された系図や聞書などから︑史料が作成された意味と︑家と村運営の由緒創出の意義につい

て考察してきた︒小稿では︑鈴木家文書を中心にみてきたため︑鈴木家・中嶋家以外の旧家層が両家をどのように

みていたのか

( 71 )

︑また如何なる由緒意識を有していたのかを検討することができなかった︒加えて︑旧家層間の

婚姻関係以外の関係性とりわけ経済的︑文化的な関係性の有無についても捨象した︒村落運営の実態解明に向けて

は︑こうした諸課題についても検討する必要があろう︒

(l )

由緒に関する研究は︑一九八0年代以降︑現在に至るまで多くの蓄積がある︒研究史の流れについては︑山本英二氏が﹃歴史 おわりに

47 

(20)

学研究八四七号﹄︵二

0 0八年︶において︑﹁日本中近世史における由緒論の総括と展望﹂としてまとめられている︒同氏は︑

﹁由緒とはたとえていえば触媒のようなものであり︑さまざまな時代やジャンルの研究を媒介しながら︑相互の研究を活性化し

てきたところに︑由緒論の非拘束性と議論の断続性という特徴が表象されているのである﹂と述べる︒由緒論をめぐる研究が

長年にわたって検討対象とされてきた所以であろう︒ここに関係する成果の一部を挙げておく︒

大友一雄﹁日本近世国家の権威と儀礼﹂︵吉川弘文館・一九九九年︶︑井上攻﹁由緒書と近世の村社会﹂︵大河書房・二

00

年︶︑落合延孝﹁猫絵の殿様領主のフォークロア﹂︵吉川弘文館・一九九六年︶︑山本英二①﹁浪人・由緒・偽文書・苗字帯刀﹂

︵﹃関東近世史研究﹄二八号・一九九0年︶︑同②﹁近世の村と由緒﹂︵﹃歴史評論﹄六三五号・ニ

0 0三年︶︑岩橋清美①﹁近世

後期における歴史意識の形成過程﹂︵﹃関東近世史研究﹄三四号・一九九三年︶︑同②﹁近世社会における﹃旧記﹄の成立﹂︵﹃法

政史学﹄四八号・一九九六年︶︑同③﹁近世八王子石灰の展開に見る﹁由緒﹂の歴史的意義︵﹃東京都江戸東京博物館研究報告﹄

第六号・ニ

0 0

一年︶︑深谷克己﹁由緒地域の村役人家﹂︵﹃国立歴史民俗博物館研究報告﹄第六九集・一九九六年︶︑米家泰作

﹁近世大和国吉野川上流域における﹁由緒﹂と自立的中世山村像の展開﹂︵﹃地理学評論j

IA

7

﹁幕末期における結城氏由緒の復興﹂︵﹃日本史研究﹄四八九号・ニ

0 0三年︶︑吉岡拓﹁近世畿内村落における由緒・由緒者﹂

00

四年︶︑齋藤悦正﹁近世中期村社会における由緒の形成と寺院﹂︵﹃史観﹄一五二号・ニ

0

0

本覚﹁近世後期における大名家の由緒﹂︵﹃歴史学研究﹄八二0

00

なお︑近年の研究としては前嶋敏﹁米沢藩中条氏における系譜認識と文書管理﹂︵﹃国立歴史民俗博物館研究報告﹄第一八二

集・ニ0一四年︶︑菱沼一憲﹁桐生彦部家の足利将軍家旧臣活動﹂︵﹃国立歴史民俗博物館研究報告﹄第一八二集・二0

千葉一大﹁近世大名南部家における系譜認識の成立﹂︵﹃青山史学﹂三四号・ニ0一六年︶︑奈良勝司﹁人見・中川両苗の由緒意

識と近世1幕末社会﹂︵﹃立命館史資料センター紀要﹄一・ニ0一八年︶などがあるC

(2 )

(1 )

で挙げた吉岡拓論文や︑大友真一論文︑奈良勝司論文などからは︑一九世紀において由緒の復興や改変︑拡大・強化

の動きが確認できる︒しかし︑何れも村役人層に限定した動きではない︒領主層や郷士を含めた身分階層をこえて由緒が利用

されていたといえる︒なおこの点︑井上氏は﹁幕末期における﹁国﹂の主張と由緒秩序﹂︵﹃歴史学研究﹄八四七号・ニ

00

年︶において︑﹁一九世紀に由緒が大量に作られるのは︑外圧期以降の社会の均質化志向がその一要因と考えてもよかろう﹂と

48 

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