書写教育における個性指導への視座Ⅱ
吉 田 悟
目次
1 「個性」へのアプローチ
2 書写教育における「個性」の二つのアプローチ 3 児童・生徒に見る意識の変化
4 書写教育における個性指導の課題と方策 おわりに
はじめに
前稿において筆者は,中学校の書写教育が高等学校の「現代の国語」「言 語文化」の「書くこと」に延伸したことや,現在の手書き文字を取り巻く社 会環境の変化を踏まえ,先行研究を集約しつつ書写教育における個性指導へ の視座を整理した1。
その中で,小学校書写から一貫して取り組まれる「文字を正しく整えて書 く」といういわゆる楷書の指導において,特に小学校高学年から個性が発生 しやすい特性を,菅野智明氏の論考を参考に図工からの援用を主として2,「規 範性」の習得の延長上に自然発生する「自分らしい文字」への「肯定」,ま た国語科内での循環を前提に,「自分らしい文字」を作り出すことの「喜び」
として書写教育に位置付けていくことの可能性を提示した。
もっともこの論として援用した図工における個性の捉え方とは異なり,書 写教育における個性は,前稿でも確認した通り対象とする素材が「文字」と いうコミュニケーションの認識の正誤に大きく関わる事柄であるため,当然 規範性の習得を強く意識した,その延長線上に見出していくものとならざる を得ないことは言うまでもない。さらにこの観点は,菅野氏の論調と同じく 現状の書写教育の領域の変更を意図するものではなく,この「自分らしい文 字」への「肯定」と「自分らしい文字」を作り上げていく「喜び」をどのよ うに現在の書写教育の中に位置付けて捉えていくか,詳しい検証が必要とな る。
ところで,こうした書写教育における「個性」の位置づけを検証する際,
考慮すべき今日まで議論されてきた書写教育の課題として,①規範性(点画・
結構法など)や書写教育における基礎・基本,②指導法・学習法や評価,③ 書写と国語科・科目間の運用(言語活動との関連)などが挙げられるであろう。
①の規範性については,書写教育の個性について論究した松本仁志氏が規 範性の整理の必要性を掲げているが3,これまでの規範性の内容自体でさら なる体系化と簡略化を図る方向性で行うのか,全く違うアプローチで再構築 を図っていくのか,様々な可能性が模索される内容と言えよう。
具体的には,前者の内容はいわゆる古来の間架結構法をより整理する方向 で検討する,後者については例えば「なぜそうなるのか」といった,合理的・
科学的な体系や,より児童・生徒に接近した視点で出発して再構築するなど が挙げられるであろう。こうした方向性として平形精一氏の一連の論考があ り4,また押木秀樹氏によるもの5,さらに平田光彦氏によるものがある6。 さらに,平成 10 年の指導要領改訂を前後に活発となった書写における基礎・
基本の整理の議論を中心として,書写教育を現代的な教科・学力観において 捉え直していく動きもある。例えば早くは平形氏による論考7,また押木氏 によるもの8,松本氏によるもの9,豊口和士氏によるものなどが挙げられる であろう10。
②については,書写教育における「個性」をどのように位置づけるのかと
いう問題意識が実践レベルで最も結びつく内容と言えよう。
まずは松本氏が「手本絶対主義」と表現した書写教育における過去の指導 法の弊害が指摘できるであろう11。この弊害は単に過去の指導法に限ったも のではなく,作品主義と併せて今日に至るまでの書写教育の指導法における 根強い批判として存在し続けていると捉えるべきであろう。
特に書写教育においては,児童や生徒の習得のしやすさを考慮した平易な 手本を志向しており,その素材の平易さゆえに,手本をまねて学ぶという千 篇一律な指導法に終始しやすいという問題を本来的に内在している可能性も 指摘できる。
さらに今日においては,前稿でも前提として述べた手書き文字の著しい減 退に伴う,社会全体の手書き能力の衰退や審美眼の低下によって,却ってこ うした「手本絶対主義」への回帰を容易にする可能性も指摘し得るであろう。
書写教育の研究においては,こうした「手本絶対主義」の指導法や,経験 や勘のみに頼る旧来の指導法からの脱却を図るために,近年では子供に気づ きを行わせる学習や学習の個性化の必要性が提示されている12。
このような指導法の改善への議論は,新しい指導要領で示されている「何 を学ぶのか」「何ができるようになるのか」という学習観への転換や,児童 や生徒の「深い学び」にいかに結びつけるのかという点でも重要なものと言 えよう。なお,この指導法の観点では,どのように児童・生徒に「声がけ」
をしていくのかという実践的な面での議論も必要とされよう。
また,これと密接に関わっているのが評価法の開発である。この分野につ いては杉﨑哲子氏の一連の論考があり13,実際の現場においても例えば評価 カードの活用が散見されるなど14,指導法の改善と併せてより主体的な児童・
生徒の学習の獲得に向けた取り組みになると言えよう。
③については,特にPISAによる読解力の低下の結果を踏まえて議論が活 発になったものであり,国語科としての書写教育における喫緊の課題として 挙げられるであろう15。このPISAに関しては 2018 年度の結果が昨年発表さ れ,更なる読解力の低下が話題を呼んでおり16,今後この国語科内での循環
に関して議論が広がることが予想される。
前稿においては,特にこの国語科や他教科全般へ押し出す書写教育の主体 者たる児童・生徒からのベクトルの必要性から論を導き出した。この③の内 容は指導法・評価法とも密接に関わりながら,国語科内における書写教育の 意義に直結する問題を内在しているだけに,教材の改善や多様化,教科内・
教科間での弾力的な運用も含めて,理論・実践両面にわたる活発な議論が望 まれる分野と言えよう。
前置きが長くなってしまったが,こうした今日まで積み上げられてきた書 写教育に関する論議の内容は,前稿で整理した手書き文字に関する論考も含 めて,書写教育における個性への視座を検討する際には当然前提とすべきも のと言えよう。
そこで前稿では主に図工からの援用を起点として書写教育の個性指導の可 能性を探ったが,本稿においては個性そのものに対するアプローチの視野を 広げつつ,上記の先行研究を踏まえた書写教育内からの再確認によって前稿 で触れた内容を再検証し,具体的な書写教育の個性指導の方向性を掘り下げ ていきたい。
1 個性へのアプローチ
「個性」をどのように捉えるのかというテーマについては,各学問分野に おいてそれぞれの捉え方が今日まで積み上げられてきているであろう。例え ば,哲学(国や地域による差異も含まれる)や心理学,教育学,各芸術分野 など書写教育が参照すべきと思われる領域も多岐にわたり,仮に「自我」の 奥に,それを作り出す「無意識」の領域を想定した心理学の深みにおいて「個 性」を捉えなおす作業を行うとなると,膨大な作業となるであろう。
赤ちゃん期を超えて「意識」が発達し始めるとともに明確に生成され始め る「個性」については17,一生その特性を追究し続けていくものではあるが,
特に小学校・中学校と書写教育が対象とする時期においては大きくゆらぎ発
達を遂げていく。これは心身にわたる発達とともに家庭環境や周囲の環境と も大きく影響し合いながら,学校における学習活動や諸活動,それに伴う経 験や知性の広がり・深まりに応じた新しい展開をしていくであろう。こうし た観点は当然発達学や思春期学などといった領域で深められている内容と言 える。
「個性」は「人格」とも通じ合う内容であると言えるが,『新教育学大事典』
では「個人を目立たせ,他人との違いをきわだたせる,パーソナリティの固 有な性質」とし18,『現代教育目標事典』の「身体を基礎に性格を中核として,
智的な能力や技能,運動能力,行動様式などが関連的・総合的に作用すると いう構造をもつ,かけがえのない個人の全体的唯一性であり,独自性である」
を引用しつつ,人格を個人の独自性を形式面から捉えたもの,個性は内容面 を強調して捉えた動的概念と整理している19。
この中で個性を教育的価値としたデューイの理論に触れ,「個性は,状況 に対する一種特有の感受性,選択,選り抜き,反応,利用である。したがっ て個性は容易に打ち破られるものではない」,「明確な個性の表現は,むしろ 変化する具体的状況や多様な形態のなかに見出されるのである」と個性を固 定的な側面と成長の可能態・潜在能力という二つの側面から捉え,現実の社 会状況との相互作用を通してはじめて実体が鮮明に表現されるとした点を個 性教育の基礎理論への示唆としている。
また「個性教育」においては,「現実に個性を生かし育てる教育は,他者 との協同関係や交わりといった人間関係の中でしか成立しない」とし,「自 己信頼や独立自尊の信念」の要請と同時に「他者との協調や協同の感覚」の 要請を指摘し,自己省察力の育成を促している。
この「個性教育」に関しては,引用されている通りデューイが著名である。
ただ,デューイの哲学は広範囲に及び,専門外の筆者にとっては極めて難解 な内容であったが,ここでは一つの示唆として谷口忠顕氏の論考を基に整理 しておきたい20。
谷口氏によれば,デューイにとっての「個性」とは,「学校教育の枠にそ
の成立の基盤を限定するのではなく,広く社会全般と時代の流れをも含めて,
個人と社会,個人と自然との総合的視点から究明されている点が特徴」であ り21,その特性から,児童期・青年期など成長期の一定期間を指したもので はなく,「本来,自己の長い人生の歩みの中で自然に獲得される自己自身の 潜在的且つ総合的な態度」であることが大きな特徴である22。
この「個性は,初期の段階に於いては無意識的であり形は定まっていない。
それは寧ろ一つの潜在能力であり,生長の可能性を秘めたものと見なされる べきであろう(デューイ)」としながら23,その可能性を児童の「インタレス ト」(興味・関心)を中心に,経験の連続性である「習慣」,それを支える「探 究」の精神によって,「児童自らによって自己のインスタントの束を培い,
興味や関心の枠を広げ且つ深めながら,自ら構想化した『理想目的』の実現 に向けて不断に『探究』する」ことを教育の目的として掲げるものである24。 ただ,当然「『個性教育』は児童のインタレストの発見と伸長と実現にかかっ ているが,…一般的,客観的な知識の習得を積み重ねる過程で実現していか ねばならない人間性の教育」であると示されていることは看過されてはなら ないであろう25。
この学習の過程においては,その学習者自身が置かれている社会的状況を 踏まえ生活との結びつきを重視しつつも,「進歩的な社会では,児童の経験 が単に現在の慣習を再現するものではなく,むしろ一層善い習慣を養成させ,
彼らが生長した後の社会は現在の社会よりも一層善いものであらしめようと する(デューイ)」ことを志向していることは今日においても刮目すべき内 容と言えよう26。
また,デューイはこの「個性」の主体を「感性」という表現で捉えること が多いとし,「従来の『理性』や『知性』の働きに相当する『感性』の統合 的判断能力をデューイは『統合的個性』の一側面として包括」している27。 このデューイの「感性」は,「感覚―知覚―思考の統一的サイクルの機能全 体を『感性』と見るところの,広義の『自然的知性』ないし『熟慮』の活動 を指すものであった」し28,この「デューイにおける『感性』概念の特徴は,
感覚され知覚されたものと知的認識とが分離せず連続してり,且つ美的性質 を帯びることを求めている点」があることから29,必然的に芸術教育の重視 に繋がっている。
これは芸術のための芸術というニュアンスを否定し,日常生活の中におけ る「美的リズムの感得」という側面を強く持ち,「生命の実相を『リズム』
として捉え,芸術と日常生活との連続性を力説する点に特徴を持っている」
ことが大きい特徴といえる30。
デューイの教育思想は,戦後日本の新教育運動にも大きな影響を与えたが,
戦後の日本教育においては「はいまわる経験主義」として批判を浴び教科主 義に道を譲ることとなった。ただ,その後も繰り返されたいくつかの教育の 変遷の過程において児童の主体性や個性を重視する思潮は出現し,教科主義 と「ら線」を描くように上昇を描いていると言える31。
今日においては,「アクティブ・ラーニング」(主体的で深い学び)を教育 の効果的な手法として重視しているのは周知の通りであるが,この手法をよ り効果的なものとするためには,こうしたデューイの教育哲学にも今日的に 光を当て直し,その本来的な意図から解釈し継承発展させていくことの有用 性はあるのではないか。ただ,この問題提起については,書写教育との関係 性も含め自身の今後の課題としたい。
一方,心理学の分野における現代の認知発達理論の領域に大きく視野を移 してみると,才能の三輪概念,多重知能(MI)理論,知能の三部理論などの 成果が挙げられるであろう。
才能の三輪概念は,レンズリーにより提唱されたものであるが,才能を知 能より広く捉えようという試みで,「創造性」「課題への傾倒」「普通より優 れた能力」から成る。これは本来的には才能教育の視点で展開されたもので あるが,「異なる領域の能力をまんべんなく伸ばそうとしてその補償だけに 腐心するのではなく,個人内の弱点や苦手な面も把握しながら,長所や特異 な面を把握してそれを伸ばすことをまず目標と」することによって32,通常 学級の授業でも適用できる可能性が示唆されている。
多重知能理論はガードナーが提唱したもので,「知能」を「文化的に価値 のある問題解決や創造の能力」とし,8 つの知能の組み合わせにより説明し たものである33。この 8 つの知能とは,「言語的知能」「論理数学的知能」「音 楽的知能」「身体運動的知能」「空間的知能」「対人的知能」「内省的知能」「博 物的知能」であるが,これも才能教育という観点だけではなく,各教科での 児童・生徒の特性を生かす視点としては有効なものと言えよう34。
さらに知能の三部理論を提唱したスタンバーグにこの理論と結びつけ体系 化された「思考スタイル」がある。この「思考スタイル」は知能と性格の接 点として位置づけられ,「機能」「形態」「水準」「範囲」「傾向」のグループ から 13 個の思考の型に分けられている。個人はいずれかの型に属するので はなく,全部の型をいくからかずつプロフィールとしてもつというスタンス であり35,この思考スタイルの掌握は,学習活動だけではなく学校における 諸活動においても児童・生徒の個性を捉える視点として有用であろう。
もっとも,こうした児童・生徒の「認知的個性」にすべて対応しながら36, 今日の学校教育における系統的な教科指導を行うことは困難であり,あくま で教科としての目標を「人類がこれまでに文化遺産として積み上げてきた科 学や技術の体系に即して教育目標を設定することが重要」であるとし37,そ の上で内容の選択や構造化を行い,児童・生徒の実態を踏まえた上で,個別 の教育目標を設定していく必要性が示されている。
主体者たる児童・生徒の学習へのプロセスに対して,こうした複眼的な視 点を持つことは,書写のみならず各教科においても有用であり,今後の積み 重ねが望まれる領域と言えよう。
最後に,こうした個性を主体者である児童や生徒の眼から捉えた場合,ど のような視点になるかという点で総括しておきたい。ここでは重松鷹泰氏の
「人間の生きるいとなみは,まわりのもの(自然・人・事物)に体当たりを しながら,自分とまわりのものとの心の通う生活を創り続けていこうとする ことである」という表現が注目される38。これは教育の主体者たる「個」の 源泉まで視野を広げた見方であり,哲学的な要素を含んではいるものの,児
童・生徒の個性を内観的に捉えたものとして注目すべきであろう。
また,教材との関係については,「『生き抜く力の強い子どもたちがその方 法を逆用して自分を成長させた』のであり,『教師の提出する教材によって,
自分のなかにある問題を自覚し,その問題の解決にむかって努力することを 通じて,自分の実力を高めたのである』」と表現している39。こうした観点 はいわゆる経験主義に軸を置いた見方とも言えようが,系統的な教科の学習 に取り組む児童・生徒への眼差しとして,このような冷静な観点を失わない 事は必要であろう。
これらの表現に集約されるような主体者たる児童・生徒への内観的な眼差 しは,「認知的個性」や思考スタイルの多様性といった,個性を外観的に捉 える視点と併せて,両面としての掌握を行うことが望ましく,書写教育にお ける個性への視座としても,この両面の掌握に注意を払う必要性を示唆して いよう。
以上,書写教育の「個性」の前提たるべき,「個性」そのものの把握に視 野を広げてきたが,次章では書写教育における「個性」への論点を整理し,
書写教育への「個性」へのアプローチを考察していきたい。
2 書写教育における「個性」への二つのアプローチ
松本氏は書写教育における「個性」の扱い方の可能性として,「書き手が 書いた結果としての文字の個性」,「書き手の個性」の両面による掌握を示し た40。このうち「書き手が書いた結果としての文字の個性」については,「書 き文字の個性を洗練させていくという積極的な学びのイメージ」と「書き文 字の個性の存在とそのよさに気づかせていくという間接的な学びのイメー ジ」の二つのパターンを提示しつつ,後者による追究が現実的であると結論 付け,前稿においては筆者もそれを踏まえて論考した。
前稿では,この「書き手の個性」の主体へ目を向けた時,国語科内におけ る循環や各教科へ循環していく「知識・技能」の書写教育の本来的な役割を
鑑み,その押し出すベクトルの一つとして「書き手が書いた結果としての文 字の個性」を扱うことの有用性を指摘し,規範性の学習を通じた「自分らし い字」の「肯定」,「自分らしい字」を作り上げていく「喜び」を書写教育に 位置付けていくことを示した。
なお「書き手の個性」については,松本氏は「子ども理解」の視点を提示し,
個性へ寄り添った指導の必要性を示すが41,この観点はいわゆる「規範性へ 向かうプロセス」への観点とも言い換えられ,「書き手が書いた結果として の文字の個性」はこの「規範性を通過した個性」への観点と言うことができ るであろう。ここでは便宜上,前者の観点を「第一の視座」と呼び換え,後 者の観点を「第二の視座」と呼び換えておく。
書写教育における規範性とは,先に触れた書写教育の基本・基礎とも通ず る内容ではあるが,今日までの書写・書道の歴史的淘汰を経て,教育的な配 慮を踏まえた文字や文字群を整えて書くための諸要素を指しており,具体的 にはいわゆる書写の手本に集約されているものであるが,松本氏が表現する 通り「実現性の幅をもったもの」であることを前提の理解として示しておく
42。
平形氏は「元来書写文字に共通性と個別性が備わっているとすれば,今日 の書写指導は共通性だけを価値あるものとしてとらえ,共通性の秘める法則 性や秩序性を発見し解決を図っていく中に個性の発揚を期待しているもので ある」とし43,書写教育における「個性」の視点としてあくまでこの「第一 の視座」の必要性を示し,押木氏も当該箇所を引用して「適切であると考える」
と述べる44。
また前述の菅野氏は押木氏が援用した手書き文字に対する「パラランゲー ジ的要素」や平形氏が援用した「プレグナンツ性」を根拠として書写教育に おける個性の扱いを論考しているが45,おおよそ書写教育における個性への
「第二の視座」を目配せしながらも「第一の視座」にウエイトを置いて論じ たものとして整理されよう。
ここで援用されている「プレグナンツ性」とは,視野に与えられる字形や
群を「そのときの条件の許す限りにおいて,最も簡潔で,よい形にまとまろ うとする傾向をもつ」と捉える知覚のゲシュタルト理論であり46,平形氏は これについて,個性の発揚された自由な形式の筆跡を除外しつつ,「書写教 育の規範として求められる字形は,当然このプレグナンツ性を備えた形態」
であるとする47。
この「プレグナンツ性」を前提として菅野氏は,松本氏が整った字形におけ る規範性を「普遍的要素」と「慣習的要素」として分けたことに結びつけ48, この「普遍的要素」に「プレグナンツ性」が近似していることを指摘し,「感 覚上,そして技能上の優劣に一定の差はあっても,個々相応に普遍的要素の具 備・具現が見込まれ,子どもにあっては無意識のうちにも,そうした普遍的要 素を一定程度追究する中で,個別の『型』が形成される過程にあるととらえ得 よう」とする49。
そして,図工の鑑賞を援用の視野に入れつつ,「書きぶりの違いが実は書 き手なりに普遍的『よさ』を追究した結果であることを知らしめるのが,個 性を扱うひとつの方途ではないか」と示している50。この論点は,松本氏が 提示した「間接的な学びのイメージ」と重なり,筆者が「第二の視座」に目 配せをした内容としている理由であり,注目される。
以上,代表的な論考を確認したが,「第一の視座」で書写教育における個 性のあり方を見出していくということでほぼスタンスが一致していると考え られよう。この観点を掘り下げていくと,主体者たる児童や生徒に前章で触 れたような「認知的個性」や多様な思考スタイルが存在し,こうした個性差 に国や地域による相違も含めると,かなり広範なプロセスが存在すること,
さらにこの個性差に応じた達成度の違い(三輪理論からすると,その達成度 も多方面からの評価が必要であろう)にも配慮する必要があることが分かり,
こうした多様性を包含し,書写の系統を教えることの重要性が浮き彫りにさ れよう。
もっとも,前章で触れた通り,こうした全ての多様性に対応しながら系統 の指導をすることには困難が伴うことが予想されるが,国語科や他教科と比
較しても,書写自体の指導内容やその系統は比較的緩やかであると言え,こ うした「学習の個別性」は比較的担保しやすいと言い得るであろう。
こうしたいわゆる「学習の個別性」への視点は,児童・生徒の学習効果を 図る上では今日的に重要なテーマと言え,書写としての系統は見据えつつ,
その主体者たる児童・生徒の多様性を生かす指導法を深化させていくことが
「第一の視座」から見える書写教育の一つの課題とも言えよう51。
次に「第二の視座」についてはどうであろうか。平形氏は「21 世紀におけ る書写書道教育の基礎・基本の内容を考える場合,書写された文字の個別性 をどのようにとらえるかが争点のひとつとなるであろう」と指摘しているが52, 今日この問題意識はITやデジタル化の波によって,いわゆる手書き文字の意 義自体の課題となって,喫緊のものとして迫っていると認識してよいであろう。
ただ,前提として先に松本氏の引用を通して述べた通り,この「第二の視座」
の結果としての「手書き文字の個性」自体を洗練させていく積極的な学びの スタイルには無理があり,書写教育の本質からもそれることとなろう。よっ て必然的に間接的な学びのイメージに方向性を見いだしていくこととなろう が,もう一度その方向性へ向けた観点を整理したい。
松本氏は手書き文字の個性について,規範性の教育を否定・排除するもの ではないという大前提に基づき,「手書き文字の個性の教育の目的・目標は,
規範に関する教育目的の延長上に発展的な位置づけとして考えていくべき」
とした上で53,「手書き文字の個性の価値をどこに認めるのかという価値種 の問題も含めて,規範性と個性の関係を明確にしつつ,目的論を展開してい く方向性が必要になろう」としている54。
豊口氏は,この価値について,「今日,『手書き文字』なる用語を用い,手 書きされた文字そのものに書写教育の存在意義を見出そうとする動きを目に することがある。そうした模索の方向性は十分に理解できる。しかし,そこ ではあたかも手書きされた『文字』そのものが特定の独立した価値を有して いるかのような誤解が生じかねない」と指摘しているが55,先の松本氏の引 用にもある通り,どこに「第二の視座」の中の価値を見出していくのかとい
う点での考察が必要であろう。
ここで,もう一度平形氏が援用したプレグナンツ性とそれを根拠とした菅 野氏の論を確認したい。そこでは,書写の規範性の学習の過程を,普遍的な「よ さ」を追究する中で児童・生徒の個別の「型」が形成される過程と捉えてい たが,こうした過程は主体者の児童・生徒の観点から捉えれば,具備・具現 の程度は異なるものの,規範性の普遍的「よさ」がそれ相応の個別の「型」
としての「よさ」として内実化し形成されている過程と見ることが可能であ り,当然その個別の「型」としての「よさ」には,プロセスとしての「認知 的個性」や多様な思考スタイルといった個性の反映もされた「よさ」が具現 化されていると見るべきであろう56。
こうした個別の「型」の「よさ」は,ここから発展的に国語科や学習活動 全般の筆記活動に向かうという書写本来の意図を前提とした時に,主体者た る児童・生徒の「自分らしい」学習プロセス(言語活動も含めた)の「よさ」
の獲得につながることは予想されるし,そう捉えていくことが書写教育にお ける次なる視点として用意されねばならないであろう。
このように考えると,「第二の視座」における価値をどこに見出していく のかという点については,普遍的「よさ」の追究を通して個別的な「型」の「よ さ」が獲得されていくという書写の技能的な実現の価値とともに,二次的に はその結果として児童・生徒の「自分らしい」学習プロセスの「よさ」の獲 得という応用的な価値が生み出されていくという二層性を見出していくこと が望ましいのではないかと考えられる。それは当然であるが,規範性の普遍 的「よさ」の獲得ということを前提としているがために,「第一の視座」で 浮き彫りにされた,よりよき「学習の個別性」が担保されるという両輪で深 まっていく「価値」と言えよう。
一方,児童・生徒からの視点で見ると,先の重松氏の表現を借りれば,書 写教育とは,書写の学習を通じて出会う規範性に「体当たり」をして,それ を通じて自身と周囲とのよりよき「生」を実現しようというプロセスである と言える。その点から見れば,関心の厚薄や達成度の相違も包含しつつ,そ
こで形成されていく個別的な「型」の「よさ」に価値を見出し,それを通じ た学習プロセスの「よさ」の獲得に価値を置いていくことは,書写教育から 国語科,全教科へと波及し,総体的に児童・生徒のよりよき「生」の実現へ の可能性を射程として収めていくこととなり,国語科の目標観からも望まし い位置づけではないかと考える。
ところで,実際に獲得された個別的な「型」の「よさ」については,厳密 には普遍性と個別性とを切り分けることが難しく,過去の書の歴史に照らし ても,それらは混然一体となって滲み出ているという表現が妥当であろう。
また,そこまでの峻別を書写教育に求めること自体も本質からそれるであろ うし57,強いて言えば,それは高校以降の書道教育の観点で掘り下げていく 内容と言えよう。
このことを踏まえて,上記の価値を実践的な観点で捉えれば,いわば経験 的個性ともいうべき個別の型の「よさ」を「認めていく」という姿勢が望ま しく,前稿で提示した,「自分らしい文字」の「肯定」,そしてこの肯定を自 己肯定の実感として「自分らしい文字」を作り上げていく「喜び」を生み出 していくという視点に集約されるのではないか。
なお,こうした型の「よさ」はデューイ的に言えば,「連続性」で見るべ きであり,固定的なものとして評価することは逆効果であろう。また,これ を人間性と結び付けることも副次的な結果をもたらすことが予想され,避け るべき指導法と言えよう58。
3 児童・生徒に見る意識の変化
では,こうした書写教育の「個性」の内容を,実際の書写教育の活動に具 現化していく際の課題と方策はどのようなものになるか。この点を絞るために,
筆者が主宰している書道教室で児童・生徒に行った簡易なアンケートを示した い。学年による被験者数に粗密があり,被験者数自体も少ないため,参考にし 得るデータか否かという難点はあるが,ひとまずの参考として提示する。
対象学年は小学校 3 年生から中学生(1 〜 3 年生で包括)としたが,上記 の通り学年によって被験者数にばらつきがあり,かつ中学生は対象者が少な く 1 年生から 3 年生を包括して被験者としたため,パーセンテージは示さず 数字で実際の回答者数を示すのみとした。
各被験者は書道教室に通っている児童・生徒であり,文字を書く技能の個 人差は当然あるものの,総体的には意識・技能とも比較的高い水準を維持し ている被験者であること,特に中学生においては経験年数も長く,行書も学 習を深めている被験者であることを念頭に置いて頂きたい。
なお,問いは「書写や書道教室で学んだことを思い出して(生かして)字 を書いているか」,「書写や書道教室で学んだことは字を書くときに生かされ ているか」という内容で,選択肢は 2 つとも四択とし,「思い出す・少し思 い出す・あまり思い出さない・思い出さない」,「思う・少し思う・あまり思 わない・思わない」とした。中間を作らなかったのは,回答に困った際にそ の中間の選択肢に回答が集中することが予想されたためである。結果は表の 通りである。
Q 書写で学んだことを思い出して書くか 小学校 3 年生 被験者数 9 人
書く場面 思い出す 少し思い
出す あまり思い
出さない 思い出さ
ない 書かない
ノート(自学含む)・連絡帳 4 4 1
漢字練習 5 3 1
名前書き 3 3 2 1
テスト 3 1 1 4
原稿用紙 7 2
メモ(自分のため) 1 1 5 2
日記(交換や学校課題も含む) 2 3 4
手紙(葉書・年賀状) 3 3 1 2
Q 書写で学んだことは字を書くときに生きていると思うか
思う 少し思う あまり思わない 思わない
7 2
Q 書写で学んだことを思い出して書くか 小学校 4 年生 被験者数 10 人
書く場面 思い出す 少し思い
出す あまり思い
出さない 思い出さ
ない 書かない
ノート(自学含む)・連絡帳 4 4 2
漢字練習 5 2 3
名前書き 4 4 2
テスト 1 1 3 6
原稿用紙 4 3 1 2
メモ(自分のため) 2 8
日記(交換や学校課題も含む) 1 9
手紙(葉書・年賀状) 8 2
Q 書写で学んだことは字を書くときに生きていると思うか
思う 少し思う あまり思わない 思わない
4 6
Q 書写で学んだことを思い出して書くか 小学校 5 年生 被験者数 5 人
書く場面 思い出す 少し思い
出す あまり思い
出さない 思い出さ
ない 書かない
ノート(自学含む)・連絡帳 4 1
漢字練習 3 2
名前書き 3 1 1
テスト 1 2 2
原稿用紙 3 1 1
自由研究や掲示物 1 1 3
メモ(自分のため) 3 2
日記(交換や学校課題も含む) 3 2
手紙(葉書・年賀状) 3 1 1
Q 書写で学んだことは字を書くときに生きていると思うか
思う 少し思う あまり思わない 思わない
4 1
Q 書写で学んだことを思い出して書くか 小学校6年生 被験者数 5 人
書く場面 思い出す 少し思い
出す あまり思い
出さない 思い出さ
ない 書かない
ノート(自学含む)・連絡帳 1 3 1
漢字練習 5
名前書き 1 3 1
テスト 2 2 1
原稿用紙 3 2 1
自由研究や掲示物 1 1 1 1 1
メモ(自分のため) 1 4
日記(交換や学校課題も含む) 5
手紙(葉書・年賀状) 1 1 1 2
Q 書写で学んだことは字を書くときに生きていると思うか
思う 少し思う あまり思わない 思わない
1 3 1
Q 書写で学んだことを思い出して書くか 中学生 被験者数6人
書く場面 思い出す 少し思い
出す あまり思い
出さない 思い出さ
ない 書かない
ノート(自学含む)・連絡帳 1 1 4
漢字練習 1 2 3
名前書き 1 2 1 2
テスト 1 2 3
原稿用紙 2 1 1 2
自由研究や掲示物 1 2 1 1 1
メモ(自分のため) 1 3 2
日記(交換や学校課題も含む) 2 4
手紙(葉書・年賀状) 5 1 1
Q 書写で学んだことは字を書くときに生きていると思うか
思う 少し思う あまり思わない 思わない
3 1 2
表から分析をしてみると,まず小学生では原稿用紙や漢字練習,名前書き や手紙などは,「思い出す」「少し思い出す」に大きなウエイトが各学年とも 置かれていることが分かる。各学年ともメモが低いことを考え合わせると,
丁寧に書くべき場面を全学年とも意識的に書き分けていることが言えよう。
学習活動の根幹であるノートを見てみると,概ね「思い出す」「少し思い 出す」を中心とした回答が多いものの,細かく見てみると,中学年から高学 年に移るにつれて,「思い出す」から「少し思い出す」へのシフトが着実に 行われ,「あまり思い出さない」が 4 年生より現れ始めている。アンケート を行った各被験者について,文字を書く姿勢を定期的に見ている中で,回答 を選んでいる姿を見た感触からすると,このシフトは表に現れている以上の 意識の差を現していると感じた。
一方,書写が字を書くことに役立っていることへの意識は「思う」「少し 思う」での変化はありつつも,中学年・高学年といったまとまりの変化では なく,あくまで個別的な学年差と捉えるべきであろうか。6 年生で「あまり 思わない」の回答が出始めたのは,中学生で表れる意識への萌芽として留意 しておく。
次に中学生を見てみると,あらゆる場面で「あまり思い出さない」「思い 出さない」という方向に回答がシフトしていることが分かる。肝心のノート は「思い出さない」が圧倒的で回答に迷いも無かった。さらに,書写が字を 書くことに役立っているという意識も,「あまり思わない」が少し増えており,
これは学校での書写の取り組みの減少が要因にあったり,根本的な意識の変 化があったりすることを伺わせている。ただ,依然として「思う」「少し思う」
のウエイトが多いことは,上記の結果と考え合わせると,日頃の筆記活動に おいては意識しないものの,書写や書道教室の学習が文字を書くことに役 立っているという漠然とした感覚を持っているということを示しており,興 味深い結果と言えよう。
また,手紙が依然として意識が高いことを鑑みると,中学生においては人 との関係性,社会的な意識を重視しだしている証左とも言える。中学生での
学習活動が,学校生活から社会生活へと意識を高めていく必要性は,この内 容からも裏付けがされるし,書写教育においてもこの点をより生かしていく 必要性も示唆されていよう。
上記の分析を総合して,筆者が被験者の反応やコメントを聞いた感想を踏 まえると,書写や書道教室の学習は小学生や中学生においては一定の成果と して認識されていることがありつつも,学習活動の根幹を担っているノート の筆記活動では,中学年から高学年を境に次第にその規範性の意識から離れ ていき,この方向性は中学生において決定的になる。
これは書写や書道教室で書く字と日常で書く字との無意識的な乖離を示 し,例えば実態として女子児童や女子生徒が書き始める丸字のようなくせ字 がこの頃から顕著になるのと歩を合わせていると言えよう。試みに中学生の 女子生徒の被験者のノートを見せてもらったが,板書や自学などケースに よって字を書き分けているものの,日常で書いていると想定される文字の姿 は普段の教室で書くペン字や毛筆の字からは想定できないものであった。
さらに,アンケート中にこの生徒がノートや連絡帳など日頃の筆記活動に ついて,「書写なようなきれいな字では書かない」という発言をしたことに 驚きを禁じ得なかった。この生徒の技能水準は比較的高いと評価され,アン ケートにおいても,書写や書道教室が文字を書くことに役立っているかとい う問いについて「思う」とためらわずに回答をしていたからである。
必ずしも日常的に書く文字が書写の規範性に則ったものや,そうした意識 に基づいたものでなければならないという訳ではなく,こうした分離が起こ ることは筆跡の原理からしても必然性があると言えよう。ただ,こうした意 識の乖離と実態を踏まえた時に,書写教育の学習が主体者たる児童・生徒の 何に働きかけて何をどのように成果として定着させていくのかという部分に ついては,学年を考慮して再考する必要があることを示唆しているであろう。
4 書写教育における個性指導の課題と方策
前章では簡易ではあるが,筆者の主宰する書道教室で行ったアンケートの 結果とその分析を筆者の実際の児童・生徒との会話での感触を交えながら整 理した。被験者数が少数であり誤差の域を出ない可能性もあるが,一応の仮 定としてこの結果を踏まえて論じてみたい。
豊口氏は書くことに対する発達段階での動機づけをスイスの心理学者ピア ジェの理論を援用して分類したうえで,その動機づけの変化を指摘して,「子 どもたちが書写の学習領域を超えた自己目的を持つこと,つまり『美しく書 きたい』『かっこよく書きたい』といった欲求・感情が芽生え始める可能性 が多分にあり,文字を書くことに関して思考を発達させていく中で自然に生 じうる思考の分化と言える」とし59,「子どもたちの発達およびそれに伴う思 考の分化に書写の学習が十分に対応できない場合,動機づけの喪失という取 り返しのつかない重大な結果を招くことになりかねない」と警鐘を鳴らす60。 豊口氏の指摘した変化は,その根拠としたピアジェの「具体的操作期」か ら「形式的操作期」の移行期としての 10 〜 12 才あたり,また筆者の前章に おけるアンケートの結果と総括を踏まえると,やはり小学校高学年以降で捉 えるべき内容と言えるのではないだろうか。
一方,書写の系統自体で見た際も,大まかに捉えて,小学校低学年におい ては「正しく」書くことの学習,中学年では「整えて」書くことの学習,高 学年ではそれらを踏まえて書く速さの習得や全体の効果を考えて書く学習と 分けられ,低学年・中学年で「正しく整えて書く」という規範性の主たる学 習はひと段落しており,高学年ではそれらを応用していく系統になっている と言え,ひとまずの区切りとして小学校高学年以降で一つの変化を入れてい くことが望ましいことが予想されよう。
特に小学校高学年以降では能力の分化が際立ち,得手不得手に対する児童・
生徒の意識も分化していくことが想定される。そうした中で,書写教育は一 部の得手な児童・生徒の興味・関心を充足させるための指導であってはなら ず,全体を享受者とするための方策が必要となろう。
以下では,こうした前提に基づき書写教育の個性指導に対する課題及び具
体的な方策について言及したい。
(1)小学校高学年以降における規範性へのアプローチ
小学校高学年の指導要領では,「(ア)用紙全体との関係に注意して,文字 の大きさや配列などを決めるとともに,書く速さを意識して書くこと」,「(イ)
毛筆を使用して,穂先の動きと点画のつながりを意識して書くこと」,「(ウ)
目的に応じて使用する筆記具を選び,その特徴を生かして書くこと」と示さ れているが61,あくまでこうした応用的な書写の学習内容は,中学年までの 文字や文字群を「整える」という規範性の習得を前提とした学習内容となっ ている。
実際の教材の学習においては,例えば穂先の動きに注目する学習や用紙全 体への配列の学習でも,基礎としての中学年までの規範性の学習へ目配せを しつつ,さらに新しい規範性に対する学習を積み重ね,深めていくことを行 いながら学習する内容となっており,これが系統指導に沿った効果的で多層 的な教材の在り方とも言える。
そうした中で,先のアンケート結果で見た通り,小学校高学年以降,そし て中学生と次第に日常の筆記活動の意識から書写の規範性が無意識的に離れ ていく傾向を鑑みた際,この無意識の領域に規範性の要素をどう働きかけて 定着させていくのかという点で変化を考慮する必要性は指摘できるであろ う。
豊口氏は「書写の学習が段階的に展開され,知識・技能の習得・習熟のみ ならず学習者の価値観や感性にまで及んだ時,そこでの学習の成果としての
『美』の存在を認知できなければ,それまでの学習過程で意識化されてきた『正 しさ』には何らの価値も見いだせなくなってしまうであろう。それは言語を 記述するツールである文字にとって,言語活動におけるその機能と効果にお いて,『美しさ』をもってのみ『活字』を超えて『手で書かれた文字』の価 値が認知されうるからである」としているが62,先に取り上げたデューイの 理論として,感覚―知覚―思考という一連の判断主体を「感性」と表現し,
生活におけるリズムに通ずる「美的リズム」を芸術に見出していた点は,芸 術科書道の領域とは峻別する必要はあるものの,一つの示唆として考慮すべ きであろう。
その意味においては,豊口氏が「『手で書かれた文字』『手で文字を書く』
ことへの視点としてそこにある『美』への意識が表面化し,さらに『文字を 書く』ことの中での『表現』領域についても再検証の必要があるとすれば,
これまである意味で放置されてきた書道及び書道教育についても言及してい く必要があると考えられる」と指摘する通り63,あるいは芸術科書道への発 展へ視野を広げつつ書写教育への援用を図る方向も示唆されるし,そのため には,書写の高校延伸が企図された今日,いわば書道教育における研究の深 化と書写教育への接続に関するアプローチの模索が求められているとも言え よう。
2 章でも確認した通り,書写教育における個性の価値は,よりよき規範性 の習得に裏付けられたものであり,その習得に向かう「学習の個別性」をよ り有効的なものにするためにも,小学校高学年以降での新しい視点による規 範性の効果的な指導法の探索は,検討する必要性を指摘し得るであろう。
(2)教材の多様化
その上で,二つ目は書写教育における規範性の学習を通した「自分らしい 文字」の「よさ」や,「自分らしい文字」を作り上げていく「喜び」を実感 できる実践的な機会の提供であり,そのための「教材の多様化」の必要性で ある。
「自分らしい文字」の「肯定」や,そこから生まれる「自分らしい文字」
を作り出す「喜び」と言っても,その学習自体を深めていくことは書写本来 の指導事項とはなり得ず,教材を通し学習活動を行っていく過程の中で,児 童・生徒がそれを実感できる機会として提供していくという形が望ましいで あろう。
そのためには,より規範性の習得を通した成果を目に見えて実感したり,
応用したりする多様な形態の教材が必要と考えられる。こうした教材の多様 化については,諸氏が必要性を訴えている点で一致しており,例えば豊口氏 は「書写教育について言えば,文字を学習対象としつつも,既成の学習内容,
学習形態では文字の機能性や道具的価値を意識・実感するための実践的活用 の場の幅が極めて狭いものであることが指摘できよう」とし64,杉﨑氏は「基 礎・基本の確かな定着や発展をねらって筆記具や書式に幅をもたせた楽しい 活動を提供することである。日常生活に生かすという観点から,今以上に学 校生活で活用できるポスターや係,時間割等の掲示物作成を実践に取り入れ て,国語教育として重要な『伝え合う力』を高めたい。その際,パーソナリティ を意識し,自己肯定感に根差して個の文字の特徴を生かす,個の課題解決に 直結した具体的指導が求められる」としている65。後者は個性を視野に入れ た論点としても注目される。
重ねて杉﨑氏は個性の伸長をはかる「毛筆作品制作」を提案し,「より高い
『動機づけ』となる『作品制作』」,「自己肯定感に支えられた作品制作」,「日 常への発展性がある『作品制作』」,「国語力に寄与する書写学習としての自覚 に基づく『作品制作』」など今後の毛筆作品制作の方向性を示唆している66。 そうした中で興味深いのは,先述の菅野氏が図工において「つくりだす喜 びを味わう」ことが重視されていることに注目しつつ,「書写にあっても,
日常の書き文字を扱いながら,臨場感・切実感・成就感をもって『つくりだ す喜びを味わう』場面が今以上に増えて然るべきであろう」とし67,「(書写 教育で表現している用紙全体という意味での:筆者注)紙面は,大なり小な り文字と周辺諸要素(図・表・絵・写真なども含む)とが有機的に絡み合う『複 合的な視覚メディア』という側面をもつのであり,文字については相対的に その一極を担っているとの認識が,情報化時代の現下なればこそ,さらに求 められているように思われる」と指摘している点である68。
実は,筆者はこの内容に示唆を受け,本学で開講している教育学部の小学 校教員を目指す学生を主たる対象者とした「書写」の授業において,小学校 高学年の国語の活動で行う俳句の創作と,橘曙覧の「楽しみは」ではじまる
短歌の創作の教材を取り入れた作品制作を行った。
俳句の創作においては,季語を決めて国語の教科書に記載の俳句のルール を確認し,次週までに俳句を創作してくることを約した。当日の作品制作で は,半紙に小筆を使用してその各自の俳句を書くこととしたが,その際に色 鉛筆・クレパス・クレヨン・顔彩・水彩絵の具・色紙・千代紙・折り紙など を自由に使い織り交ぜて,自分がその俳句の雰囲気に合うように小筆で書く 字のレイアウトや大きさも自由に決めることができるようにした。
短歌の創作においては,橘曙覧の「楽しみは」で始まる一連の歌群を紹介し,
実際の創作の具体例や指導を国語の教科書で確認し,同じく次週までに創作 することを約した。ここでもう一つの課題を提示し,その歌をイメージでき る写真をデジカメやスマートフォンなどで撮影しプリントアウトしてくるこ ととした。作品制作においては,半紙に小筆を使用して短歌を書くのである が,上記のプリントアウトした写真を配置して,俳句の場合と同じく色鉛筆 などの道具を使って装飾し,文字の配置を自由に行っていくという活動を 行った。
作品制作の次の週では筆者が撮影したこれらの作品を,一作一作スクリー ンで見ていくという鑑賞の作業を行い,評価はせずに,各々の作り出した俳 句や短歌の世界を楽しみ,その描き出された文字と装飾の世界を味わう活動 をメインとした。
実際に行った感想として,学生たちは楽しく創作活動に取り組んでおり,
「一つの集大成としてこうした活動ができて楽しかった」,「他の人たちの作 品を鑑賞することが楽しかった」などという声が聞かれ,筆者も一人一人の 作品を確認した時に,いわゆる規範性の実現がどれほど出来ているのかとい う技能的な達成度よりも,それまでの規範性の学習を通して作られた各々の 文字の「よさ」を発見することができたという実感があった。こうしたことは,
一面から捉えれば周辺の情報によって文字のイメージが中和されることとな り,規範性の習得の実感を薄くしているという指摘も考えられるが,それよ りも,こうした声で象徴される「楽しさ」が生み出している価値であろう。
詳しい実践報告は別稿としたいが,こうした弾力的な作品制作のバリエー ションは,菅野氏が提示した図工の鑑賞の援用の可能性も含めて,児童・生 徒が主体性をもちつつ規範性の習得の手ごたえを実感し,かつその「自分ら しい文字」に対する「よさ」を見出していける活動の一つとして,小学校高 学年の応用的な内容の視野にいれてもよいのではないか。
ここで取り上げたような国語科の言語活動の中に書写の学習を入れて単元 内での一貫性を持たせていくという弾力的な授業展開については,その必要 性と具体例を提示する先行例が多くあり69,これらを踏まえた多彩な教材に よって書写教育の成果を実感できる機会を作り出していくことが望ましいと 言えよう。
一方,国語科の「書くこと」の活動の領域に目を移してみると,例えば清 道亜都子氏が,「書くこと」に対する認知心理学からのアプローチによって,
いわゆる作文指導において方略指導が量的にも効果が実証されているにも関 わらず,実践例が少ないという理論と実践の乖離を指摘し,具体例として平 成 23 年度の各教科書教材における,「推敲」の過程の改善を訴えている点が 注目される70。
この推敲の過程は,下書き,推敲,書き直しといった「手書き文字」を使っ た「書くこと」の作業となるが,こうした過程の中で,書写教育が有効な観 点を持ち得るのであれば,どのような方向性となろうか。
ここでは一つの試みとして,この思考の過程で書写の要素をコミットして いくという点にフォーカスしてみたい。具体的には見やすい文字群や配置,
図式化,まとめ方など,いわゆる思考の整理に役立つ方向での運用の可能性 を広げることであり,これは実は 2 章で論じた「第二の視座」における応用 的な価値により接合しやすい観点になると言える。
例えば学習活動における筆記活動のメインであるノートがより効果的に使 われるためには,具体的には「まとまりで書く」や「そろえて書く」などといっ た構造的な手法が効果的であり71,こうした点は上述の推敲の過程での筆記 活動においても通ずる要素と言えよう。書写教育がこうした実際的な応用の
面に大胆に踏み込んでいくことも一つの選択肢として考えてよいのではない であろうか72。
当然,こうした日常活動へ転化するための個々の様式に応じた硬筆の学習 は各教材ですでに取り上げられているものであるが73,本稿で指摘したいの はもっと本格的に踏み込んでいくという点である。例えば,こうした「書く こと」の作業のや各教科でも簡易に書写の観点が生きやすいように,「見や すさ」を中心としたテーマで精選を行って応用しやすいように提示すること や,具体的なメモ・ノートや作文の過程を用いて,実践的な教材化を行うこ とである。
また,2 章で触れたプレグナンツ性はUI設定にも活用されており,こうし た知覚的な成果を取り入れて,書写教育での用紙全体への配置の学習のアッ プデートを図ることも一つの手段として視野に入れるべきであろう。
こうした内容は先に確認した小学校高学年の指導要領の応用的な展開とし て位置付けていくことが可能であり,また中学校の第一学年で行う楷書の学 習も,小学校までの書写の体系を復習していく学習であるから74,同じくこ の延長上で捉えていくことができるであろう。
以上,書写教育における個性指導の課題と具体的な方策について論じたが,
これらは,児童・生徒が「よりよき」書写の学習を通し,いかに「楽しさ」
や「喜び」を実感できる機会を増やしていくのかという視点が根底となって いる。こうした点については,まだ視座を多角化することによって深めるこ とが可能であろうし,自身の研究や実践を通してもさらに深めていきたい。
おわりに
これまで書写教育における個性指導への視座を,前稿を再検証する形で整 理し,具体的な方策を検討してきた。この内容についての改めての確認は省 くが,IT・デジタル化の波が進行している今日,書写教育における個性の視 座を持つことは,単に書写教育の個性を扱う上での問題点を浮き彫りにする
だけではなく,今日的な書写教育の意義や課題を深めていく観点にもつなが ることを本稿の整理を通して実感した。
なぜここまで書写教育における個性を取り扱うことの可能性についてこだ わるのかというという点については,筆者が実際にこの 2 年間,大学での授 業を担当させて頂き,それを通して聞かれた感想の中で,小中学校で取り組 んできた書写が堅苦しく苦手意識を持っていたという声の大きかったことが 問題意識として挙げられる。また,本稿で触れた規範性の習得の方向性につ いて,小学校高学年以降で目に見えて動機としての位置が減退していくとい う,日頃からの筆者の実感も本稿を書く動機になっている。こうした動機の 減退は,IT・デジタル化の波を受けて,全体的な低下としての現象になりつ つあり,ここに対する焦燥感を持っているのは筆者だけではあるまい。
日常の学習活動や人間的な深まりを通しながら,その書かれる字からその 子らしい字のよさ,その子のよさ自体が見えるという理想を,長い書道の歴 史で伝統的に受け継がれてきた命脈とともに今日的な書写教育で受け継いで いくという願望を持ちつつ,よりよい形で書写教育が学習の根幹として位置 づけられ続けることを念願したい。そのためには今後もさらなる研究と実践 の深化を目指していきたい。
参考文献(注で取り上げたもの以外)
無藤隆『自ら学ぶ子を育てる』金子書房 1998 年 1 月 30 日 魚津郁夫編『世界の思想家 20 デューイ』平凡社 1978 年 1 月 13 日
『世界の名著 59 パース・ジェイムズ・デューイ』中央公論社 1980 年 10 月 20 日 田浦武雄『デューイとその時代』玉川大学出版部 1984 年 6 月 20 日
道又爾ほか『認知心理学―知のアーキテクチャを探る』有斐閣 2003 年 1 月 20 日 子安増生・田中俊也・南風原朝和・伊東裕司 『教育心理学 [ 新版 ]』有斐閣 1992 年
1 月 30 日
今井康雄編著『教育思想史』有斐閣 2009 年 6 月 30 日
外山紀子・外山美樹『やさしい発達と学習』有斐閣 2010 年 3 月 15 日
注)