東アジアの文化をいかに理解するか
佐久間 正
本稿は、2010年10月7日、長崎大学環境科学部で開かれた、長崎大学環境科学部と台湾大学共催の「日中文化 交流広領域国際学術会議−歴史・文学・言語の視点から−」における基調報告である。なお、会議に際して、本 稿の中国語訳にたずさわった呉鵬君(長崎大学大学院生産科学研究科博士後期課程学生)に感謝する。
私は徳川思想を中心とした日本思想史の研究をしています。近年は主として新しい思想史の領 域であるとともに環境学environmental studiesの一領域でもある環境思想史の研究に取り組んで います。私にとって最も身近な学会である日本思想史学会では評議員を長く務めていますが、こ こ数年は大会シンポジウムの企画等を担当する大会委員を担当し、この2年間は委員長を務めて います。10月中旬に岡山大学で開催される日本思想史学会2010年度大会のシンポジウムは、「近 代日本の宗教−仏教を中心に−」というテーマを掲げ、今なおその学問的水準が評価される徳川 日本の宗学研究と西欧から新たに受容された宗教学との交錯の中で、近代的な宗教的学知として の仏教学がいかに形成されたか、また大日本帝国の社会体制の中で仏教がどのような役割を果た したのかを主題とする二つの報告を中心として、上述のテーマに迫ろうと準備しています。
「近代日本の宗教−仏教を中心に−」というテーマを決定するまでの大会委員会の議論におい て、また8月末に行われた報告者とコメンテーターの出席したプレ・シンポにおいても、論点の 一つとなったものは、近代日本という場合、帝国日本が併合した朝鮮、その内部に傀儡国家を作 るとともに侵略していった中国、植民地的な軍政支配を展開した東南アジア等をどのように考察 の射程に収めるのかということでした。そのような問題意識を日本思想史学のあり方をめぐる問 題として受け止めるならば、次のように言うことができると思います。意識するとしないとにか かわらず、従来多くの研究がそうであった〈日本〉に自閉した〈一国思想史〉の立場を克服し、
日本思想史を東アジアに開かれた日本列島の思想史としていかに再構成していくのか。そのこと はまた、大和国家から徳川国家に至る〈本土国家〉、私は本土に生起した国家をこのように呼ん でいますが、その〈本土国家〉の領域を研究対象とし、琉球王国や併合後の沖縄県、さらにはア イヌの人々、在日のコリアンにはさしたる関心を向けてこなかったこれまでの日本思想史学のあ り方を反省することなしにはありえません。私は近年琉球王国の卓越した政治家でありまた代表 的思想家である蔡温(1682〜1762)について研究していますが、それは以上の反省が一つの理由 です。思想史を記述する対象としての地域をいかに設定すべきかが問われていると言ってよいで しょう。
本国際学術会議は、主として言語・文学・思想等の言語文化に焦点を当て、またそれを歴史的 に把握することにより、日中文化交流の生き生きとした実態を捉え、そこから将来の展望を得る ことを目的として開催されました。会議の名称にあるようにさしあたり日本と中国の2国間に限
定していますが、私たちの狙いは2国間に限られたものではありません。また、東アジアにおけ る文化形成を、現存する国民国家の視点から遡及的に理解しようとする立場もとりません。むし ろ現存する国民国家も一つの歴史的選択肢として存在した文化形成の可能的あり方を常に念頭に 置きながら、それぞれの地域における文化形成を具体的に把握しようと考えています。
ここで、無用な混乱を避けるため、あらかじめ私自身の文化理解について一、二述べておきた いと思います。文化概念をめぐっては様々な議論がありますが、最も広く捉えるなら文化とは自 然に対する人間による作為の産物と言ってよいでしょう。また最も狭く捉えるなら、言語によっ て表現されたものと言えましょう。私自身は思想史研究者として自らの研究対象を、狭義の文化 の理解をさらに狭く限定し、世界や社会等(一般に他者)、人間やそのあり方等(一般に自己)
に対するまとまった考えである思想、意識論的に述べるなら直接的な行動によっては直ちに解決 できない課題そしてその連鎖である問題状況を間接的に、すなわち意識のレベルで解決しようと するもの(それらを言語によって表現したもの)と考えています。
私は思想史研究において自己認識と他者認識はパラレルであると考えています。他者存在の深 い洞察なしに自己認識の深化はあり得ない。その意味で、認識論レベルでは自己−他者、主体−
客体は一つの関係性に他なりません。このことは文化を理解する上でも大切ではないかと考えて います。他者の存在なくしては自己があり得ないように、他文化の存在なくして自らの属する文 化の理解はないのです。さらに言うなら、程度の差こそあれ文化は相互浸透的なものであると言 えましょう。文化はハイブリッドなものであると評されることがありますが、その意味はこのよ うな文化のあり方を示しているのです。
このような文化理解は、差別化の論理を基軸とした、文化の静態的な本質主義的な理解とは異 なるものです。確かに文化は否応なしに差別化の論理を含んでいます。文化を理解する際には普 遍と特殊という視点が有効である場合が少なくありません。ある文化の特質を理解するためには、
多くの文化に共通する普遍的なものとは異なるその文化固有の特殊的なものを的確に把握するこ とが不可欠です。文化の個性を際だたせるものは多くの場合この特殊性に他ならない。しかし、
特殊性を固定化して捉え永遠に持続するものとして捉えることはできないのです。特殊性を自覚 し、さらには対象化し、それを変容させたり持続させようとする意思は、多くの場合他文化との 接触が契機となるでしょう。その意味で文化は動態的なものであると私は考えています。
ところで、この地域は、ユーラシア大陸の東端、太平洋の西端に位置し、大陸、半島、島嶼か ら成る複雑な自然から成り、内陸性気候と海洋性気候、モンスーン気候さらには亜熱帯気候とい うように気候も多様です。とは言え、人々の生活を支える生産と文化のあり方が大きな共通性を 有していることも事実です。地域により程度の差はありますが、集約的労働を必要とする水稲農 耕が卓越していること、また大陸に極めて高度な文明が早くから存在し、半島や列島の文明化は その優位な影響の下に進行し、中華帝国とその周辺という構図でこの地域を捉えることができる 点です。この構図は、言語的には帝国言語(漢文)の周辺への浸透いわば漢字文化圏の形成であ り、文化的には帝国文化の周辺への拡大(例えば儒教文化圏)、周辺から見れば帝国文化の受容
を意味します。勿論受容といっても、丸ごとの受容から拒否・排斥に至る多様な段階があります。
この場合留意しなければならないことは、帝国の政治文化の周辺への拡大・浸透の具体的様態、
別の視点から言えば、帝国文化の受容を踏まえたそれぞれの地域特有の文化の形成は、帝国の周 辺という共通性はあっても、東南アジア、朝鮮半島、日本列島等では少なからぬ差異があったこ とです。どうしてそのような差異が生じたのかを明らかにすることは重要な研究課題ですが、こ こでは指摘するにとどめ、日本列島を中心に帝国の政治文化の影響と新たな地域文化の形成をめ ぐって重要と思われるものにいくつかふれておきます。
! 漢字の受容。
文化のあり方を考える上で言語の考察は不可欠です。近年大きく注目されている訓読すなわち 漢文の地域語による読みは、日本で大きく発展し、漢文は特に思想言語と文学言語において大き な役割を果たしました。さらに、古代日本において表意文字である漢字から新たな表記言語とし て表音文字である仮名及び片仮名が案出され、日本語は3種の表記言語を持つようになります。
表意文字と表音文字の両方を有する言語は世界の言語においても稀と言ってよいでしょう。
" 仏教の受容とその展開。
6世紀後半に本格的に始まる列島における仏教受容は、仏教国家と言ってよい古代国家を形成 し、そこでは個人の救済よりも鎮護国家が標榜されました。その後、個人の救済が自覚化された 平安仏教を経て、古代国家の没落とともに仏教の新たな革新が見られました。いわゆる鎌倉仏教 です。この時期における仏教の革新については重厚な研究の蓄積がありますが、仏教の受容とそ の展開をめぐり、近年、人々の生活世界を包摂するコスモロジーの表象に視点を据え、例えば神 仏習合等について従来とは異なった新たな見解が提出されています。
# 儒教の受容とその展開。
文献的には列島における儒教の受容は仏教とほぼ同じ6世紀中頃に始まりますが、その思想的 展開は仏教の場合よりかなり遅れます。朝鮮、日本とも仏教が政治的にも大きな役割を果たした 後に、朝鮮半島では14世紀末に儒教国家である李朝が成立し、列島においては17世紀初頭に形成 される徳川国家において儒教が広く社会に浸透していきました。このいずれの国家においても朱 子学が大きな役割を果たしたことが注目されます。ただし、より中華帝国の儒教体制に近かった 朝鮮と徳川日本との相違は、科挙の有無に典型的に示されているように十分な注意が必要です。
徳川儒教は、テクストの読みの深化を踏まえ、儒教の人倫的性格に重きを置く伊藤仁斎、その政 治性に着目する荻生徂徠など豊かな展開を示しますが、そのイデオロギー性を鋭く衝く本居宣長 の思想も射程に入れながら、思想的可能性という視点からの考察が求められているように思われ ます。
$ 律令の受容と変容。
長期にわたる中華帝国の統治技術の結晶である律令が列島に受容されたのは7世紀後半ですが、
勿論帝国の統治技術の精髄が帝国とは異なる政治的・文化的水準にあった列島にそのまま受容さ れるはずはありませんでした。はやくも8世紀に入ると律令の修正が図られ、のち格・式として まとめられます。また神祇官の設置や天皇家に関わる規定など当初から帝国の律令とは大きく異
なっていましたが、独自の律令を持ち得なかった朝鮮半島に比すれば、その政治姿勢は留意すべ きでしょう。10世紀に入ると律令制の財政的基盤である班田収授法は実施できなくなり、律令制 は実質的には空洞化していきます。しかし、律令制の国制的枠組みはその後も長く残存し、徳川 国家の官位名や遠く明治維新の太政官にまでなごりを残しています。供の二人の青年武士を連れ、
諸国を漫遊し、勧善懲悪する天下の副将軍・水戸黄門はテレビや小説等を通じて今なお人々に膾 炙していますが、黄門が律令制の官職に由来する中納言の別称であること、そもそも黄門が中華 帝国の政治制度に由来する名称であることを知っている人は多くはないでしょう。
% 琉球王国の成立とその展開。
列島においては、7世紀末に確立する古代国家(対外的国家名称は倭から日本へ、国王名称は 大王から天皇へと変化します)から徳川国家に至る〈本土国家〉は、程度の差こそあれいずれも 国家的正統性の淵源を神々の世界(高天原)の主宰者アマテラスの子孫である天皇に求めました。
14世紀後半に国家形成が始まり15世紀前半に琉球列島を統一する琉球王国は、〈本土国家〉とは 異なり、国家的正統性を中華帝国に求め、帝国の冊封朝貢体制の中に入ります。17世紀初頭にお ける鹿児島藩による琉球征服(琉球史では以後「近世琉球」と区分され、「幕藩体制の中の異国」、
「疑似国家=半植民地」等と評されます)を経て、19世紀後半〈本土国家〉(明治国家)に併合 されます。国民国家としての日本の問題を考えるためには、琉球王国と併合後の沖縄県(「琉球 県」でないことに留意してください)について〈本土史〉とともに理解することは不可欠と言え ましょう。このことは、松前藩の置かれた北海道南部等を除き19世紀後半に明治国家の版図に入 れられた北海道の理解にも言えることです。私は列島の歴史を理解しようとする場合、何よりも、
列島に住む人々が〈本土国家〉と琉球王国という二つの国家体験を有したこと、そして国家を形 成するまでには至らなかったけれども、上記の二者とは異なった北方性の文化を伝来したアイヌ の歴史に注意を払わなければならないと強く思います。〈天皇制の呪縛〉という歴史認識は、〈本 土国家〉の領域においては一定の説得性を有しているように思われますが、琉球王国−沖縄県を 視野に入れて考えれば、それがもはや何らの説得性を持たないことは明白です。
徳川日本と近世琉球の相違について二、三ふれておきます。!近世琉球の身分制度は17世紀後 半に確立しますが、支配層たる「士」は、武人としての性格を色濃く残す徳川日本の武士とは全 く異なります。"支配身分である「士」は琉球名とともに唐名を有します(二重呼称制)。例え ば、先にふれた18世紀前半王国政治を領導した蔡温(唐名)は、琉球名を具志頭親方文若と言い
ぶんじゃく ぐ し ちゃん うぇーかた
ます。「文若」が字。「具志頭」は領地名であり、領地の変更により替わります。「親方」は位階 の呼称、これも替わります。王国内の公文書(和文)では琉球名を用いますが、中華帝国との公 文書(漢文)には唐名を記します。#徳川日本において中国船との実務的折衝を担当したのは中 国から渡来した人々(の子孫)である長崎の唐通事ですが、彼らは王国の久米村(外交等を担う、
中国から渡来した人々の子孫が集住した)のような地域共同体は形成せず、また中国名を和名に 換えるなど〈日本化〉していきます。$風水は王国において重要な役割を果たしますが(前述の 蔡温は儒教とともに風水にも深い理解を有していました)、徳川国家のみならず〈本土国家〉に おける風水受容の痕跡は定かではありません。
! 西欧諸国の登場と東アジア。
15世紀に始まるポルトガルとスペインの二つのカトリック帝国による交易海路の開拓とキリス ト教布教はこの東アジアの地でグローバルな円環を閉じます(これを〈世界史〉の成立と評する ことがあります)。この地域を長く規定してきた中華帝国とその周辺という地政学的関係は、こ の2国及びそれに続くイギリスとオランダという二つの反カトリックのキリスト教国の登場に よって大きな変化を被ります。この地域において中華帝国に由来する思想文化はなお重要な役割 を担い続けたとはいえ、特に〈本土国家〉においては鎖国体制の確立以前は勿論、確立以後にお いてもポルトガルとスペインがもたらした南蛮文化、さらにはオランダ語を媒介とした西欧文化 である蘭学、そして西欧におけるオランダの没落とともに浮上するオランダ語以外の西欧語への 関心を媒介とした洋学の形成は看過できません。徳川日本に一貫するのは、鎖国という国家シス テムとは裏腹の西欧への旺盛な関心なのです。
徳川日本における中華帝国の文化さらには西欧文化の受容を考える上で重要な位置を占める幕 府の直轄地(天領)である長崎についてふれておきます。都市長崎の形成とその転回そのものが、
東アジアにおける文化の歴史的有り様を考える上で格好の事例を提供してくれるように思われる からです。
都市長崎は徳川幕府の置かれた江戸と同じように、古代都市に端を発する奈良や京都とは比較 にならないほど新しい町です。長崎造成の一端となった列島へのキリスト教の布教は、イエズス 会の創設者の1人であるザビエルが16世紀中頃鹿児島に上陸したことに始まり、また同じ頃交易 を求めたポルトガル船が列島に来航します。列島において、キリスト教布教と西欧諸国との交易 は前述したように一体のものとして出発しました。このことはその後の列島の歴史に複雑な陰翳 を与えたように思われます。この西欧からの衝撃は南蛮文化と総称されるカトリック系の西欧文 化を伴っていました。それらは、当時、好奇の眼を持って受け止められ、特にその中の技術的要 素の強いものや嗜好品の類は社会に浸透していきました。しかし、キリスト教が当時の人々にど のように受け止められていったのかは、支配層を中心とする少数の例を除き、必ずしも明らかに なっていません。言うまでもなくキリスト教は、布教の過程において、当時の人々の生を規整し ていたものと対決せざるをえなかった。その対決の内実がどのようなものであったのかを示す史 料は限られており、実態を正確に描くことは困難ですが、ともかくキリスト教は極めて短期間に 教線を拡大していきました。
こうした中、都市長崎は1571年に産声を上げ、良港を求めてポルトガル船も入港します。長崎 誕生の産婆役は最初のキリシタン大名である大村純忠であり、彼によってその後の発展の礎が築 かれます。既に数年前からこの地域ではイエズス会により布教が行われており、1569年には最初 の教会が設けられました。こうして長崎は外国貿易とキリシタンの町として急速に発展し、1581 年には日本イエズス会はインド管区の副管区に昇格し(日本管区として独立するのは皮肉なこと に禁教が始まる1613年です)、本部が長崎に置かれました。1580年代の一時期には長崎とその周 辺地域は大村純忠及び同じくキリシタン大名である有馬晴信からイエズス会に寄進されました。
またこの時期、キリシタン大名大村純忠・有馬晴信・大友義鎮により、4人の少年がローマに派
遣されました(天正遣欧使節)。彼らの記録は当時の人々の知的関心を示す貴重な史料となって います。当時長崎は目眩く珍奇な文物が集まり、様々な言葉が飛び交う国際色豊かな都市であっ たのです。
しかし列島におけるキリスト教の布教は、ザビエルが既に見通していたように、厳しいもので した。1587年、全国的な覇権を掌中にした豊臣秀吉は外国人宣教師の追放を命じ(バテレン追放 令)、イエズス会領を接収し直轄地としました。これが徳川氏に受け継がれます。しかし長崎は なお外国貿易とキリシタの町として発展を続けます。大村純忠の居城の置かれた城下町大村、キ リシタン大名有馬氏の拠点島原半島の有馬、そして長崎を結ぶ三角形とその周辺地域(十数万の 人口のほとんどはキリシタンと言ってよいでしょう)を、私は〈キリシタン・トライアングル〉
と呼ぶのですが、この三角形はキリシタン時代の中心地帯であり、さらにその中心が都市長崎だっ たのです。
しかし、1613年の禁教令を境に長崎をめぐる状況は暗転し、以降、長崎は反キリシタンの徳川 都市としての道を歩み始めます。そこでは、殉教と転び、そして潜伏が、かつてはキリシタンで あった住民の共同性を寸断していきました。禁教令が出された直接の理由はカトリック国家によ る権力奪取に対する懼れ(キリシタン奪国論)でしたが、そこには、後に新井白石(1657〜1725)
が明確に指摘する現世の支配秩序を無化しかねない超越的唯一神の信仰と、キリシタンが信仰を 紐帯として徳川国家を越境し海外と繋がっていることへの危惧がありました。キリシタンの町か ら反キリシタンの町へという長崎の転変を考える場合、私は人民支配の要諦とされる「パンとサー カス」という言葉を想起します。徳川都市長崎の場合、「パン」は貿易利潤を町人に分配する箇 所銀・竈銀であり、「サーカス」は禁教の象徴である絵踏みの開始後しばらくして長崎奉行の援 助により始まったとされる「諏訪神事」、今に至る長崎の秋の風物詩である「くんち」です。「く んち」に奉納される演し物はオランダ・中国・東南アジアの風物に題材を取ったものもあり多様 ですが、キリシタンをうかがわせるものは何一つありません。
かつて日本イエズス会の本部が置かれた壮麗な被昇天のマリア教会は他の教会とともに破壊さ れ(この地には後、長崎奉行所が2役所体制となった時、西役所が置かれました。現在の長崎県 庁所在地です)、徳川幕府の対外交渉を担当した長崎奉行所は、長崎の人々を氏子とする諏訪神 社近くの立山に置かれ(立山役所)、奉行所の東隣には、徳川将軍の菩提寺の一つである江戸の 寛永寺の末寺である安禅寺(明治初年の廃仏毀釈により破壊され現存しません)が開基され、安 禅寺の後の高台には今も徳川家康を祀る東照宮が鎮座しています。すなわちこの地は、都市長崎 の中心たる政治−宗教コンプレックス(複合体)の所在地であったのであり、さらにこれに加え て、近くには長崎奉行の援助によって長崎聖堂が設立されました。聖堂初代祭酒の向井元升は、
転びバテレン沢野忠庵(日本イエズス会の中心人物であったクリストファン・フェレイラ)の天 文地理に関する陳述を紹介した『乾坤弁説』を著すとともに、キリスト教を激越に批判した『知 恥篇』の著者でもあります。聖堂を加えれば、この一帯はまさに徳川都市長崎の政治−宗教−学 問コンプレックスであったと言ってよいでしょう。こうして、殉教と転び、そして潜伏が複雑に 交錯する中で、キリシタンの町は破壊され意識的に忘却されていったのです。その一方、この政 治と宗教と学問の複合体を新たな中心として徳川都市長崎が形成されるとともに、今に続く〈伝
統〉が創造され、徳川日本にあって例外的な異国情緒豊かな町というイメージが再生産されてい きました。
同時に長崎は唯一の西欧への窓として、中華帝国の文物とともに西欧の文物が、そして新しい 知見が徳川国家にもたらされました。それらは泰平の御代と謳歌された〈徳川の平和〉の下、徳 川国家の新たな国民国家への変貌を醸成していくものでもありました。18世紀末以降の西欧の衝 撃抜きに明治維新はあり得なかったと言ってよいでしょう。一方で、〈徳川の平和〉は文化の水 平的普及を一層推し進めるとともに、垂直的展開を際だったものにしました。「町人の町人たる 理」を平易に述べた徳川日本のベストセラー『町人嚢』の著者、町人学者西川如見(1648〜1724)
は、また鎖国のもと海外の知見を提供した『増補華夷通商考』の著者であり、さらに後の日本論 の嚆矢と言ってよい『日本水土考』の著者でもありました。長崎に生まれ長崎で活躍した彼は、
周知の尾形光琳、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、伊藤仁斎らとともに、庶民の経済的・文 化的成長を背景として展開した元禄文化を代表する一人であったのです。
しかしその一方、政治権力によって邪教の烙印を押されたキリスト教は、鎖国禁教体制の下、
信仰主体の抹殺という極限的な暴力を背景として、その思想−信仰内容について、理論的誤謬や 反秩序性・反社会性が弾劾され、キリスト教の教義と信仰を貶める数多の言説がキリスト教排撃 の排耶論としてまき散らされました。〈徳川の平和〉が、キリスト教をはじめとする異宗異端の 暴力的排斥の上に成り立っていたことを看過することはできません。さらに敷衍すれば、そのこ とは、日本の思想文化の〈寛容さ〉や〈和〉といった、しばしば強調される〈日本の伝統〉の内 実とされるものが、いかなるものであるのかを問うことに繋がっています。〈寛容さ〉は他者を 受け止め理解するために不可欠ですが、他者を排除することなく真の他者理解への回路を有する、
鍛え抜かれた〈寛容さ〉を自らのものとするためには、〈徳川の平和〉、あるいは日本の思想の〈寛 容さ〉を対象化することは極めて大切であるように思われます。
私たちは東アジアの文化の歴史をどのように理解し、記述したらよいのか。これは依然として 私たちに突きつけられている課題です。私たちはそれに答えていくためにも、文化理解の方法的 概念を鍛えるとともに、文化記述のスタイルを彫琢していく必要があるでしょう。
今回の学術会議が実りある成果を上げることを期待して、基調報告を終えたいと思います。ご 静聴ありがとうございました。
参考文献
佐久間正「琉球王国と儒教−蔡温を中心に−」(2009、『総合環境研究』11巻2号)。
佐久間正「キリシタンをめぐる問題にいかにアプローチするか」(2008、『日本思想史学』40号)。 佐久間正『徳川日本の思想形成と儒教』(2007、ぺりかん社)。
酒井直樹『死産される日本語・日本人 「日本」の歴史−地政的配置』(1996、新曜社)。 佐藤弘夫『死者のゆくえ』(2008、岩田書店)。
佐藤弘夫『神・仏・王権の中世』(1998、法蔵館)。
西川長夫『国境の越え方 比較文化論序説』(1992、筑摩書房)。
中村春作・市来津由彦・田尻祐一郎・前田勉編『訓読 東アジア漢文世界と訓読』(2008、勉誠出版)。 若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』(2004、集英社)。