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(1)

への一視点

i l

本稿は︑必ずしも﹃春の

の作品論それ自体を目的とするものではない︒﹃春の

i

き﹁稜雅﹂の概念に着目し︑﹁優雅﹂をめぐるな一車両由純夫の詩説を確認︑跡づける作業を通じて︑

C の内包する問題点を析出してみようというのが︑本稿の主たる賎自でみる︒

作者告ら﹁王朝風の恋愛小説﹂と呼ぶ

の品一三において︑﹁獲雅﹂という︑或る意味で抽象的な概念が︑作品世

界の具体的な動冒として重要な機能を果たしていることは︑格別分析的を読解を挨つまでもなく︑作中に明示的に 記されていである︒この作品をめぐっては︑

( l

)  

たと︑えば既に坊域後畏氏によって﹁優雅論﹂なる文章が記され

の雪﹄そのものが

めであろう︒そして

そのように

などというおよそ浮世離れした抽象概念を︑現代小説(作中の時代は大

(2)

正初期に設定されているとはい︑三の基本的モティ

i

この作品の特異な個性が梨まれて

いるわけであるがそれは何もの雪﹄という一作品の内部に限った問題ではなく︑三島文学総体の中で捉え返

されるべき問題であるに違いない︒なぜなら﹁優雑﹂とは︑﹁都︑末﹂やとともに

ことのないオブセッションのひとつだったからである︿したがって︑一吉田うまでもないことながら︑現代小説として

一一島文学の中にあってはいささかも特異性を主張するものではない︒そ

l

々 ノ 介 品

のそチィi

うしたモ司ナイーブに対する読者の選和感は︑作者の名前によって予め敢り払われている)︒

﹁優雅﹂の課念との結びつきを︑作品以前のレヴェルから問題にしようとすれば︑たとえば︑﹁おば

あさん子﹂であった三患に対する祖母夏子(永井玄蕃顕高志の孫という武門の出であり︑立つは少女期有舗川家に

預けられることによって公家の世界をも壇間見ている﹀め影響や︑学習院嘗ちという一一一島の経歴などが︑

に問題とさ北るべきであるかもしれないが︑そのような点辻︑既にこれまでの評伝的研究によって繰号返し論じら

れていることでもあり︑作品以前の事実に関してはここではひとまずそうした事実の存在を薙認しておくにとど

きて︑生い立ちにまつわる特殊事摺としては︑右のような事柄の位にも母親の影響やら本人の農弱な体質やら︑

考慮すべきこと拭いくらでもあろうが︑ともあれここで問題とすべきは︑そうした生い立ちを通じて︑結果的に三

島が文学者としての生き方を選び取ったこと︑

その作家的出発点において彼の選ぴ取ったものが︑王朝的

﹁優雅﹂の世界だったことである︒

三島が戦争中に発表した十議余つの短編小説の中に︑王朝物語の世界と相通じる作品は多いが︑

処女

(3)

作品集めタイトルιも選ばれ︑作者時身によって文学的経歴の始発を画する作品としての意味を与えられていたと

目される﹁花ぎかりの議﹂の中には︑次めような文章が見える︒

珍らしいことにわたし誌武家と公家の祖先をもってゐる︒そのどちらのふるさとへ赴くときも︑わたしたちの

列車じそうてい荷がみえかくれする︑わたしたちの旅をこの上もなく雅ぴに︑守りつづけてくれるや

ι︒ああ︑あの川︒わたしに誌それが解る︒祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契︒その壊れは

い離の蕃畿が︑けふ尚生きてゐだが死んでゐるのではない︑あるところでひそみ或るところで擦れてゐる︑

るやうに︒祖母と母において︑川は地下をながれた︒父むおいて︑それはせせらぎになった︒わたしにおいて︑

( 2

)

li

ああそれが活々とした大川にならないでなににならう︑綾識るもののやうに︑神の祝慣のやうに︒

( 3

この引用部分に限ったことではないが︑J佑ざかっの森いには長島健の識﹄を連想させる表現が多い(既にタイト

んからしてそうだとさえ言︑えるかもしれないがゴことに吋夫人五衰恥巻末の描写と﹁花管かりの議﹂の末尾との類

それを全くの錆然とみなすことには無理があり︑おそらくは始発の亦説と最後の小説とを響き合わ

せることによって︑自身の作家的営為めいっさいをひとつの円環境遣の中に封じ込めようとする作者の

ていたことに間違いはあるまい(その意志の内実までは今は開わないが︑﹁自分が生れたときの光景を見たことがみ

る﹂と主張し︑且つはきわめて意士心的にその生渡を結んでみせた突入生にわおける態震と︑・自身の作品系列に対する

あくまでも意識的な統括の仕方とが相即的関係にあることもまた酪違いないであろう)︒

ふるさとへの旅を﹁雅ぴに﹂守り続けた一筋の川は︑やがて速い歳月を稿てて︿墜鏡の海﹀へと読れ込むことに

なるわけである︒そして︑その﹁権﹂において︑﹁公家の祖先﹂は

グ ラ

の世界に︑﹁武家の祖先﹂はよ汁馬恥

それぞれ転生を果たすことになるのだと言うこともできるかもしれない︒もちろん︑武家の出身であり

(4)

ながら公鄭のられるという

の主人公め出自が︑右の引用と響き合うものであること

きて︑個別の作品のいちいちについて立ち入って眺めている余裕誌ないが︑﹁花ざかりの森﹂以外にも︑

平家の公達を︑主人公とする﹁世々に残きん﹂(これは文体のレヴェルからも擬古物語と呼んだ方がふさわしいような

代物である)や︑﹃更級日記恥のの手に成ると伝︑えられる散逸物語の復元を試みた﹁浅会﹂などといった作品の

存荘は

王朝世界に対する異様なまでの熱中ぷ

の作家的出発は

王朝物語(乃至は王朝的﹁みやび﹂﹀めまねびを通じて来たされたと一一一一口うことが可龍であっ︑﹃春の雪﹄における﹁擾

雅﹂の問題にしてもその源泉はい所まで辿られるものだったのである︒催し︑﹁寵雅いという一舗の抽象模念

をめぐってその具体的作品化の様相をの全般にわたって検証するような作業には︑それ泣どの意味があ

るとも思わ札ない︒﹁優種いといの内実が関われている点ではの雪﹄はむしろ例外的な苓在であ号︑組

の作品においては﹁護雅﹂や﹁みやび﹂といっ無能提に闘明のもののようじ用いられていることが多い

のである︒そこで︑本稿では︑以下︑吋豊鏡の海﹄執筆時期において﹁護雅﹂のがどのような形での心を領

していたかという点に的を絞って考察を進めることとしたい︒そして︑

評論的文章を取り上げてみたい︒ひとつは昭和三十八年七月にコ風景恥に発表された﹁変質した榎雅いと題する文

であり︑もうひとつは吋群像﹄の昭和四十五年六月号に発表さ札た﹃日本文学小史﹄の第五章﹁古今和歌集﹂で

ある︒これらはいずれも﹁護雅﹂について触れたであり︑これに昭和田十三年七月︑﹃中央公論﹄に発表された

﹁文化防緒論﹂を加えればこの時期の三島にとっての﹁優雅﹂の意味(少なくとも表立って彼が言明する掠り

はほぼ明らかである︒

(5)

﹁変質した穫雅﹂はを観劇して

その中で三島はに対して︑﹁さいっ

ろ或る人の申せしは︑女院は六道の有議正に御覧じけるとか仏菩護の位ならでは見給ふ事なきに不審にこそ議

の﹁いたく残酷会﹂舞台効果その残酷きはつめ最高め文化の護雅の化身が

人間の車と死の実相に藍酷したいことによったものであり︑﹁能がはじまるとき︑そこに存在するの

は︑地獄を見たことによって変饗した優雅である﹂と説く︒しかも︑その﹁変質した饗務﹂は︑表現の臨難にも藍

嘉することになる︒な女院の﹁体験は屍体公一不一敗の体験であり︑彼女の知ってゐる表現は優雅の表現だけ

だから﹂である︒そして

め菌難に対しての言葉のは︑宗教的立場から表現能力後

の可龍性を暗示していると三島は解釈する︒

血みどろな入閣の実相と︑

によっての究極のド一フ?態態﹂を形づくることになるというわけである︒そして︑

}

そのような﹁大原御事いの世界と現代とを対比することによって結ばれている︒一二島によれば︑現代と泣次

のような時代ということになる︒

いかなる時代かといふのには影も形もない︒それから血みどろな入閉め

時たま起る酸鼻な事件を除いては

は︑病読や葬犠屋の手で

片附けられる︒宗教にいたっては︑息もたえだえである︒:::議講のドラマは︑⁝一め完全な欠如によって

のやうに消えてしまふ︒

こうした謀術の成立の菌難は︑が味はったやうな菌難とはちが(中略)むしろ︑現代の問題は

の成立の

そのふし︑ぎな容易きにあることは︑男知のとはりである

(6)

それは軽っぽいエロティシズムが優雅にとって代はり︑入関わ死と腐敗の実相は︑い血のりをふん

だんに鑑ったインチキの残酷きでごまかされ︑さらに宗教の代はりに似非論理の未来信仰が£り︑といふ具合

め代理の獲物が︑対立し激突するどころか︑伸好く手をつなぞにいたる状況である︒

そこではこの襲物ののうち︑少くとも二者の野合によっていとも容易に︑表現らしきもの︑芸術ら

文学らしきものが生み出される︒かくてわれわれは︑かくも多くのまがひものの・氾濯に︑協まされ

ることになったのである︒

現代議舗の﹁礎物L

そのまま三島文学の内告する憲一要な問題ではないのかという議論も当黙予想される

が︑そのお⁝についてはひとまず措くとして︑古典との対比による現杭︿近代)批判という側面について言えば︑そ

うした立場は︑右の文章より七年後に‑記された吋日本文学小史恥中の文章においても︑金一く閉じような形で賞かれ

﹃日本文学小史﹄は︑文学仲品を文化意志の顕現と捉える視座に立つてなされた︑作家による文学史の試みで

その第一章﹁方法論﹂にはこの﹁小史いにおいて取り上げる予定の作家・作品として︑から馬響

に至る十二の項目が挙げられている︒しかし︑実際には︑最初め意が昭和田十四年八月に︑続いて第五章までが

翌四十五年六丹に︑それぞれ﹃群議恥に発表された後︑第六章﹁源氏物一他聞いの龍一服部分まで書き進められたところ

で︑この文学史は中絶している︒第五章﹁古今和歌集いの発表から一一の死までには︑半年近い時間が存在してい

るわけであるがその間三島はの連載を捺け出殆どまとまった文章を発表していないから(対談は盛

っているが)この﹁古今和歌集﹂は︑事実上絶筆としての性格を有していることができるかもしれな

それは何も執筆時期の問題というばかりではない︒人五衰弘元結の日付を自身の死の日付と章一ね

(7)

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なければ済まなかったように︑﹃豊能のは一一一島にとって﹁最後の小説﹂として強く意識されていた作品である

が︑﹃吾本文学小史﹄の中絶の仕方もまた︑作品の内実に顛らしてみれば︑何やら予め計算演みの事柄のよう

えてくるのである︒

﹃日本文学小史恥において﹃古今和歌集﹄を﹁古典主義原理形成のの顕現とし島は︑その

論挺を主として復名序の分析を通じて提示し︑いて作品の昌一ハ鉢的様相を審の歌を中心として検証している︒そし

て︑この一章の捧尾には︑次のような一種パセティックなまでに高揚し

われわれの文学史は︑古今和歌集にいたっていふもめの宛熟を成就した︒文化の時計はその

にして︑あきらかのだ︒ここにあるのは︑すべ

(中轄)そして古今集の歌は︑人々の心を容易く動かすことはない︒これらの歌人と等しく︑カを内に感 未熟も類麓も知らぬ完全な均衡め勝利で

己︑制御の意味を知った入の心にしか想へない︒これらの歌辻︑決しで︑衰へた末精神経や疲れた官能や弱者

もののなたとへば﹁物名﹂のの嘆きをくすぐるやうにはできてゐないからだ︒古今集の︑のやうな純粋な離乳は︑深

刻ぶった近代詩人の貧しい生活からははるかはるか彼方にあった︒書今集金巻を通して︑われわれは︑いたま

かられることもなければ

文化の自畳を への感情移入を満足させられることもないのである︒

民族は︑その後荷百年︑いや千年にもわたって︑自分の艶りつつある文化はタ嬢

けにすぎないのではないかといふ蝶念に謡まされる︒明治維薪ののち︑自本文学史はこの水い疑念から自らを

解放するために︑顎も真向性一も夕方もない︑競る無時間の世界へひ出た︒この無時聞の抽象世界こそ︑i

ッパ文学の誤解に充ちた移入によって作り出されたものでみる︒かくて明治以降の近代文学史は︑一度として

その﹁総体としての燭熟いい卒4F

宇 品

一つとして様式らしい様式を生まぬまま︑貧英︑な書生流儀の部の

(8)

って歩く羽自になった︒

の古典的秩序の英との対比によってなされた﹂れは近代文学(乃五以近代の文化﹀に対する殆

ど全面的な否定のである︒もちろん︑近代に対するこうした物言いが︑観念的︑概括的にすぎることは見ての

通つであるがこのような形で表出さ札なければならないほど︑近代に対する一一の苛立ちは募っていたのだとも

その論旨においてはほぼ出工の展開を示しつつ︑文体の切迫感からも明ら

かなように︑近代批判への傾きは一段と急である︒

紙幅の都合上詳細にわたって内容に触れている余裕はないが︑昭和由十三年七月に発表された﹁文化訪籍

そこに示された近代批判の舌鋒の鋭きや︑右に見たふたつの文章との論旨展開の捧造的類縁性といっ

た点で見逃せないものである(もちろんこの評論は︑政治論的であると同時に文化論的でもあるとい

説として組み立てられた特異な論述ではあるが)︒その中で一二島は︑たとえば次めようを形で近代文学をあげつらつ

::日本の近代文化人の肉体鍛練の不足と︑講気と薬品のみを通じて肉体に関心を持つ績向は︑日本文学を捜

その題材と視野を限定した︒(中略﹀いかに多くの蒼ざめた不健全な肉体の登場人物が︑あたかも餓鬼

草紙のやうに︑近代文学に設陪相してみることであらう︒締結核の登場人物は減少したが︑依然として︑そこは

ノイロiゼ患者︑不能者︑長下臆肪の沈積したぶざまな肉体︑搭患者︑爵弱体質︑感傷家︑半狂

入︑などの群がり集まった天聞なのである︒

この文章は︑評論全体の議旨からすれば逸説的であることによって︑かえって目をひく部分である︒それと同時

に︑ここに列挙されている脊在が︑一一一島作品の中でおなじみの人物違であることにも醤意の必要があろう︒これに

(9)

犯罪者や性的倒錯者を加︑えればの主要な登場人物勢播いの観がある︒すなわちの海﹄執筆前後か

ら激しきを増す︑近代文学の批判には︑戦後の世相と密精して生きることを或る程度昌賞的に灘び取

‑? 

の文学的営為に対する内省が︑明らかに彰を落としているので為る︒そして︑この﹁文化訪衛論﹂に

おいても︑不毛な近代と対比されるのは王朝的﹁みやび﹂である︒な

の優雅のほかに

は︑真に典礼的な護雅の文北の全体性は︑自由と寅任といふ平面的な対立概念の護にではなく︑自

いふ立体的構造の謹にしかない﹂からである︒そして︑﹁みやびいの最も端的な発現を和歌に認める一一

は︑{呂廷詩の﹁みやび﹂か

みやびのまねび﹂へと展開される和歌的伝統の意味を殊更に強調してみせ

る︒叫日本文学小史﹄中のZ

一章が︑こうした論述の延長上に控置することは明らかであり︑

の存・一仕を前提として考︑えるとき︑﹃古今集主主制じた文章が絶筆として残されたことは︑

い ト

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なる慎然とは思われず︑むしろそれは必祭の婦結であり︑意図的な中断ではなかったかと疑われてならない

α

そし

て︑そうした自で援り返ってみればの本格的な評論活動が︑2白今集﹄を論じることによって始められている

た話と

かりの森恥のの中で︑﹁戦後の世界に於て︑世界各国人が詩歌をいふとき︑の足度な

しには語りえぬ時弐がくること︑それらを私は評論としてでなく文学としってゆきたいと述べているが

このとき既に被はごロ今集﹄に関する評論を公にしていたのである︒吋文芸文化﹄の昭和十七年七月号に発表さ此た

と題する文離は︑一二島のの鳴矢をなすものとして位置づ吋ることが可能である︒そして

の少年の

ι

成るその文章は︑吋日本文学小史恥中の文章と見事なまでに相時誌しているのである︒こと

今歌人のつ姿勢﹂中っちに︑﹁来る日以そなへる無為な今自いで誌なくひあげら札た至

(10)

1 0  

Lであったとする論点は︑﹃古今集恥の

まひる

﹁ 文

J H

本文学小史恥の読座を準かに先取りしているものことができよう︒司豊震の海﹄と吋花

の小説と最初の小説として対志関係を示していたように︑評論活動においてまでそうした

( 4

)  

対忘が意閉されていたのだとすれば︑自己の ぎかちの森﹄とが

の完結性に対する三島のこだわり方は︑尋常ならざるものを

せるほどであるが︑先にも触れたように︑たとえば﹃袈面の告自恥が生れたときの光景を見たことが

に示されるような大意識家としての三島の姿を患い合わせれば︑それもさほど不思議ではないのかも

しれない︒﹁近代性﹂とは﹁献身的契機を含まぬ文化の︑不毛の自己完結性﹂(﹁文化防衛議

b

のことであると激し

く批判した三島ではあるが︑過剰な自意識︑過嘱な感受性︑そして論理的苦尾に対する鍾愛などじょって

被告身︑誰よりもすぐれて﹁近代人いであったこともまた間違いのないことである︒

さて︑﹁近弐﹂に対するの態震の詞義性の問題については民に考︑えることとして︑これまで検討してきた評議

における発言から明らかなようにことに﹃豊畿の執筆の前後において三畠が王朝的﹁優雅﹂に言及するとき︑

﹁品下れる近代んを批判するための対立項として位置づけられているのであった︒﹃日本文学小史﹄持尾

の﹃諜氏物語恥に関する軒章が︑次のように蓄さ始められていることなども象額的で島る︒

私は物語のめ例証として︑糠氏物語について語らうと患ふ︒

諜語の

たちがその哀愁を喜ぶ﹁撰麓﹂﹁現在﹂のやうな巻についてではない︒中略)私はただ︑源氏物一掛から︑文化

a

' .  

(11)

と物語の正午を跡づければよいので為る︒

がら三島は︑﹃源氏物語﹄め中で﹁入があまり喜ばず︑又︑敬重もしない﹂﹁花の宴いと﹁胡蝶﹂

︑そこにの鵠みも罪の

みもない純粋な快楽﹂が搭かれているからという理

という脈絡め中で

を設いながら

と﹁胡嫌﹂のいという強

引な載り込み方は︑逆心

によってこそ﹁文化の正午﹂が跡づけられ

という大前

提に︑一一一島が知何に強く拘泥していたかということを物語っている︒そして︑

そのような形で王朝世界の﹁文化の 正午﹂を拡揚しながら︑同時に彼は︑当時連載中の最後の小説﹃天人五衰﹄において︑表代社会の空無を暴きたて

て止まないのである︒王朝文化によって近代を斬るという構図は︑

それだけ強い力で三島晩年の作家活動を規制し

ていたと言えるわけだが︑この構図は︑やがては表現の領域を超えて︑一二島の最後の行動の場面において︑彼の死

に寸大義﹂︿日本の文化伝統に殉じるという)を与︑えるための支えのひとつともなっているのである(もとより三島

知計合じこだわるってみれば

にとっての王朝的﹁みやび﹂

のようなものことは︑それほど難しいことではない︒

むしろそれは︑殆どあからさま

ていると笥ってよい

しかし︑それでは

のようなものと

して理解されていたのかと問︑えばの対立墳としての﹁みやびいの

が明らかであるほど心は

'

な答︑えは得られないようである︒既に触れたように︑﹁みやび﹂(あるいは﹁護雅﹂)とい

三島は多くの場

11 

合昌明のものとして無前提に費用している︒確かに﹁みやび﹂という言葉は︑詩書的なレヴェルでは誰にでもその

(12)

1 2  

意味は類推可能でありの摺語法に取り立てて問題があるわけではないが︑改めて語史を潜ってその本質を関

おうとするとき︑﹁みやび﹂といの内実は︑必ずしも透明なものとは醤えないのである︒

やぴとことと題する論考のに﹁美意識としての﹁みやび﹂の

と書き記す菊田茂男氏は︑従来の

( 5 )  

の﹁難渋﹂である所以を明らか刊かしている︒ ねばならないやび﹂論の検証を通じて︑その﹁難渋な作業﹂

ここではその精鍛な論証の過砲を改めて辿り寵している余硲はないの

で︑議的な物言いをさせてもらうしかないが︑﹁みやび﹂のの難しさは︑﹁みやび﹂といの内包する多義

性に穀因すると言ってよさそうである︒たとえば﹃万葉集﹄や﹃伊勢物語﹄における﹁みやび﹂の培法を具鋒的に

律的報念規定など不可能と思bれるほどに︑対極的なまでの両義性が浮かび上がってくるのであ

るのそうした点につい菊田氏は︑﹁気風・遺風・余沢﹂

と︑﹁豪健にして︑自由奔放

な精神﹂による﹁余裕をもっに﹁みやの基調をなす両義性を認めつつ︑の﹁制変的技巧性﹂と

の﹁祝祭的構動性いの﹁関数原理を﹁なさけみる﹂精神に求め︑その関数運動の具体的な発現を﹁みやび﹂の

みりようとして捉︑えることはできないものなの

っている︒傾轄すべき発言である︒但し

そのような結論的考察に到号つくまでの論証過程そのものが︑やび﹂払織の臨難さを去すものとなっている

ことの方に留意しておきたい︒そうした器難さについては︑さらにたと︑えば︑ミみやび﹂のと題する論にお

き い る(て が~ 鹿

会 f

(菊田説を援用しつつ)の勺難渋な作業いを繰り返していることなどを患いこともで

いずれにしても﹁みやという概念の平安文学や主我文化の研究史においても

られるようなものではなかったのである︒銀号に﹁みやびいとか﹁王朝的優雅いといった一一一一口業を振り回す三島が︑

までは余り立ち入ろうとしないのも︑一一回故のないことでもなかったわけであるがただ﹁みや

(13)

Z A ち

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!:

一 毛

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11il

び﹂といの苧む多義性については︑一一一島なつの理解はなさ札ているようでもあるので︑以下︑

的に確認しておくことにしたい︒

の仮名浮の解説︑紹介に鑑を割いているが︑その中で彼

は︑﹁色好みの

匂にこだわ号この場合のを﹁みやび﹂と結びつけるという穂特の解釈を提示し

ている︒吋日本文学小史﹄の論述は︑話提となる方法論をはじめとして全体に作者の摺性を生濃く反映したものとな

っているが︑具体的な表現に却して独自の解釈を示しているという点では︑これはむしろ例外的な場酷である︒

問題の筒所は︑仮名車の原文で泣次の部分である︒

いまの世中︑色につき︑人のこころ︑花になりにけるより︑あだなるうた︑はかなきことのみ︑いでくれば

いろごのみのいへに︑

人しれぬこととなりて︑まめなる所には︑花すすき︑はにいだすべき事に

もあらずなりにたり︒そのはヒめをおもへば︑かかるべくなむあらぬ︒

この部分に一一一島は次のような大意を付している︒

今の世の中は︑人心事英に流れ︑軽龍浮薄な歌ばか号にL出められてゐるから︑﹁色好みの家﹂に人知れず潜行す

るものとなって︑まじめな場所で泣口に出せるものではなくなった︒しかしその始糠を患へば︑歌はかうあっ

てはなら

1 3  

この大意自棒には格別の問題はない︒従来の註釈と抵触するようなところもない︒しかし︑このままで辻この

(14)

1 4  

節に論理的矛臆が存在することになると三島は主張する︒すなわち︑﹁量関が浮華で人心が軽徒なら︑辻世

にもてはやされこそすれ︑﹁壊れ木の人知れぬこといとなるべき筈はない

消するために︑設は以下のような新しい解釈を提示する︒ というのである︒そしてその矛請を解

しかし︑読み方を変へれば︑次のやうにもなる︒期ち︑﹁色好みの家に︑

人知れぬこととなりて﹂と

いふ一行を︑前後と切り離して読むのである︒﹃世相人心が浮華になっ︑歌も軽薄になったから︑

(

は )

理れ木のやうに色好みの家に諒札伝へられて︑公式の滞上では表明すべから官︑るものになった﹄と解する

の﹁色につき﹂の﹁色﹂と︑とに︑次元の

︿ ?

)

である︒試みじ叫古今和歌集全部釈恥に当たってみても︑ぷ︺につき﹂の の家﹂のひを読み取るのである︒

これは︑おそらくは前例のない

も﹁色好み﹂の﹁色いも︑諸注みな︑﹁あだ﹂と毘列に扱っている︒めような読み方が︑論理的に絶対ι

成号立ち得ないというわけではないがの﹁次元のちがもさることながら︑﹁歌﹂との歌﹂という

三五 ロロ

l

いささか強弁に似るようである︒しかし︑おそらくは従来の解釈と抵数する

ことを承知のよで持ち出されているに違いない以上︑こうした解釈は︑それが強弁に聞こえれば聞こえるほど︑﹁色

の独替な患い入れの強さを明らかにするもので占めることも間違いない︒

の発言はさら記次のように統く︒

の表面上のとは関は号めない︑由緒正しいひそかに伝へられた勺色﹂のはうに︑貫之が正統

みたとすれば︑摸詩全盛の時代に抑圧されてゐた正統性とは︑秘し諒されては﹁色﹂となっ︑あらは

れてはごのやび﹂となる︑関一物を斥していたことにならう︒の膏念が私的な﹁色妊み﹂にかつかつ保た

れてきた時代は︑すでの時代にはとまってゐた︒

(15)

しかし男性的な感壊はのちに武士階級の勃興にいたるまで︑日本文学史のうちに︑正統性の根拠として呼

ら万葉集にかけて︑あれほど奔逸していた荒魂は︑紀貫之の吉代後活の

文化意志からかへりみられることなく底流しつひに後年︑﹁優雅の敵﹂としてみやびの長措定として姿をあ

らはすことになる︒荒魂誌辺境の精神になった︒荒魂が仮りに描ワを定めた漢文学も永住の楼家ではなかった︒

古今和歌集はこれを排除して︑洗練と美と優雅の中央集権を金てたが︑文学史における都都の却は︑この後

さまざまな形で千年にわたって文配的になるのである︒

﹁色﹂が﹁あだ﹂な浮薄きと結びつくばかりではなく︑﹁みやびいとの関性をも内包する概念であるw

とえば吋伊勢物語﹄などを思い浮かべれば直ちに了解されることであ号︑大津皇子の名も︑ここでは

Lの源泉としての意味において引き合いに出されていることは明らかである︒その点じついては特に問題はな

い︒ただ︑右の引引用文がいささ取りにくい印象を与︑えるのは︑前段と後段との間に論理の飛躍が感じられる

﹁住好みの家﹂に関する独自の解釈を詳しく農関した上で︑その前提を踏まえつつ︑が見ていた﹁正統性﹂

は﹁色﹂と﹁みやび﹂の需一物でみると説く論述は︑前提となる解釈の当否は措くとしても︑の展開そのもの

に摂理はない︒しかし︑それに比べて︑後段において﹁武士轄級の勃興にいたるまで︑日本文学史のうちに︑

の根拠として時び蔑されること﹂のなかった﹁男性的な感懐いなるもの何の説明もなしに持ち出されるのは

余号である︒しかもご白今和歌集﹄は︑そうした﹁荒魂﹂を﹁排諒して︑洗練と美と護雅の中央集権を企て

た﹂とまT結論づけるのであれば︑このにはもう少し具体的な説明が必要である︒﹁街︺好みの家﹂に対する

1 5  

(16)

1 6  

おかげで︑三島がみやび﹂を高義的なものとして提えていたことは︑類推が一月詫となる︒なぜなら︑﹁正統性の根

拠として呼ぴ一決されることはなかっ

それが本来は﹁正統性の根拠﹂であった

いるからである︒そしてが﹁みやび﹂との間一性においてたり得るという欝段の論理を踏まえれ

I:f 

それが﹁正統性の根拠いでみる限りにおいては︑﹁みやびLと無縁ではないということになる

だろう︒もっとも︑説明不足で霊急な一の論述に即したこのような議論のの仕方は︑そ札自鉢論理の飛躍を

避け難い苗も為るのここでもうひとつ︑﹁みやび﹂と

いておく

とにする︒﹁文化路構論﹂の中の

﹁みやびいは︑宮廷の文北的精華であり︑そ仇へのあこがれであったが︑非常の時じは︑﹁みやび﹂はテロリズ

の鵠へも手をさしのべてゐたのである︒

(

国家権力と殺序の測だけにあるのみではなく︑

の大御心に応へて匙った桜田門の変の義士たち ムの形態をきへとった︒すなはち︑文化概念としての

は︑二篇のみやび﹂を実行したので為って︑天皇のための綴起は︑文化様式に背震せぬ探り︑容認きれるべき

であったが︑西欧的立憲君主政体に国執した昭和の天皇制は︑二・の﹁みやを理解する力を犠つ

﹁文化防衛論﹂もまた論理的議寵の自につく文章であり︑ここでも﹁みやび﹂とJ撚秩序﹂を結びつける桜拠に

ついて︑これ以上の具体的な説明がなされているわけではない︿前後め文脈においては︑たとえばコ菊と万﹂をの

二号なく内包する詩形いが和歌である﹁文化上のいかなる震逆もいかなる卑俗も︑

HV

ι

﹁みやび﹂の中に

'

れているが︑それとて説得的論理構築によっ

)

ずれにしても︑

においていささか唐突に

(17)

という一一言葉が持ち出された理由も吾ずと明らかで為ろう︒おそらくこのとき︑三島の脳裏には︑︿みやび││急i

ーたわやめぷり﹀︑︿みやび

i j

ll

lますらをぶり﹀といった︑ごのやびいの

いあるまい︒そして

において

具体的に検証されている従来の

やび﹂論と比べても︑基本的な逸説が認められるものではない︒その意味で︑

一一一島は︑語本来の多義性を詰ま︑えた上で﹁みやび﹂や﹁覆雅﹂といった言葉を使用していたことが知られるのであ

るが︑包しここではむしろ︑﹁色いと﹁荒魂﹂とを対比するような思考法が︑﹃豊能の海﹄の作品構成とも響き合

うものであることのておくべきかもしれない︒

みやびいの

わやめ

ぷりいとい

ておいたのも実はこの点と関わっているのだが︑認租四十四年一一晃一日付刀惜日新聞恥に発表した

鏡の海Lについて﹂という文章の中で︑三島は次のようなことを述べている︒

私は﹁豊麓の海﹂を四巻に構成し︑第一巻﹁春の雪﹂は王朝風の恋愛小説で︑

にぎみたま

は﹁和魂いの小説︑第二巻

いはば﹁たわやめぶり﹂あるひ

あらみたまは激越な行動小説で︑﹁ますらをぷ号んあるひは﹁荒魂んの小説︑第一一

キゾティッは︑それれるべ

ふんだんに取込んだ追跡小説で

へみちびかれかくものといふ風に記列し︑

ニ・島の一吉田うように︑﹃春の一室﹄と﹃奔馬﹄とは︑まったく雰菌気の異なる作品として書き上げられているわけであ

f

これまでの考察を踏まえるならば︑そうした対極的性格も︑

三島にとっては︑同じ﹁みやび﹂の二様の現れ

として理解きれていたと捉えることができるはずである︒そして︑﹃春のの﹁みやびいが誰にも見易いのに比べ

1 7  

ぴいがいとすれば︑それ

(18)

1 8  

ぴ﹂が理解されないこ我が震の﹁正統性の根拠いとしてのを久しく見失っていたことと罰

=

で︑﹃奔罵﹄における飯沼勲の行動は︑作品内部の人々からも作品

外部の読者からも理解を得難いに誕独なものとして在ると言えそうである︒但し︑今は論が自的で

問題は

作者自ら﹁王朝風の﹂﹁たわやめぷり﹂の﹁恋愛小説﹂と呼ぶ

ii

そこにおいて頻りに問題にされる﹁護

雅﹂とはそれでは彼が平安文学を論じ︑就中や﹃源氏物語恥から読み敢ろうとしていた﹁みやび﹂の

糖髄といったいどのように関わっているのであろうか︒

は︑﹁優雅﹂な小説であるシ詰時に︑﹁護雅﹂についての小説でもある︒そして︑作品のそのような特

そのまま主人公松枝請顕の性格の特性によって支えられていると雷うことができる︒の祖父は薩輩出身

の維新の功臣であるが︑その家柄を駐じた父侯爵によって︑設は幼時︑公卿の家(綾会信爵家﹀へ預けられる︒そ

の結果︑彼は﹁護雅﹂を身につけると同時記の﹁嚢雅﹂が﹁学ばれた﹂﹁優雅いであり︑所詮は腰物にすぎな

いというコンプレックスをも抱え持ってしまうのである︒そして︑そのような﹁擾稚

L

U対するこだわりが︑

では本物のJ凌雅﹂を体現している(と彼には思われる﹀恋人綾倉詮子への認訴した対応として作品世界の動閣と

もなり︑また一方では︑﹁優雅﹂に関する彼の内省を通じて︑作品に﹁優雅議﹂的性格を付与することにもなるので

(19)

a zz a

z az a

・ 霊

Z

22

2

Z a‑ ‑

4252

5 9j t

z ag e

‑ Ei ‑

それにしても︑この作品の醸し出す雰囲気は︑

たとえば三島が時古今集恥に見たような完盟な古典的秩序美とは︑

およそかけ離れたものである︒ここに描かれた﹁懐雅いは︑やはり﹁変質した優雅﹂と呼ぶしかないものであろう︒

それも三島が﹁大原御率﹂について語ったような︑﹁一つの

の文化の蜜稚の北身が

人間の患と死と腐敗の実相 に直麗した﹂ことによって金じた﹁変質﹂などではなく︑這かに顛落した形撃における

作品の冒頭近く︑・自身を﹁稜雅の線﹂と惑じる松枝請顕の思いを通じて︑以後の物語展開の動国となる﹁震雅﹂

の意味は︑既に予京的な形で明らかにされている︒

被はすでに自分を︑

一族の岩乗な指に剃った︑毒のある小さな練のやうなものだと感じてゐた︒ぞれといふ のも︑彼は債務を学んでしまったからだ

αつひ五十年前までは棄朴で糊穫で貧しかった地方武士の家が︑わず

かの関に大をなし︑清顕の

ひ立ちと共にはじめてその家系記儀雅の一片がしのび込まうとすると︑もともと 護雅に免疫になってゐる堂上家とはちがつ

たちまち迅速な没落の兆を一不しはじめるだらうことを︑彼は蟻

が洪水を予知するやうに惑じてゐた︒

︿

し 白

の存在理由を一輔の精妙な毒だと感じることは︑十八哉の低散としっかり結びついてゐた︒設は自分の

生涯汚すまい︑肉朝

つ作るまいと決心してみた︒旗のやうに患のためだけに生きる︒自分

にとってただつ真実だと患はれるもの︑とめどない︑無意味な︑

死ぬと思へば活き返り︑衰へると見れば蟻

り︑方向もなければ帰結もない﹁感構﹂のためだけに生さること︒

1 9  

そして

がそのために生きようとしている﹁感情﹂とはいったい如何なるものかと言えば︑

たとえばそれは︑

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