◎論説小特集◎東亜同文書院百年
中 国 保 全 論 の " オ リ エ ン タ リ ズ ム " と 中 国 イ メ ー ジ
東亜同文会の"まなざし"と義和団事件久保田善丈
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はじめに
﹁中国を保全する﹂という言説︑あるいはそれを意味する
言説が成り立つためには︑語り手の中国に対する何らかの
優越意識が不可欠なはずである︒そして︑その優越意識は
語り手のいかなる﹁まなざし﹂に由来するのかと考えると
き︑中国保全論はその主体における自己イメージ︑中国イ
メージ︑すなわち﹁オリエンタリズム﹂の問題として分析
ロ の姐上に上がるのである︒本稿はこのような観点から一九
ム ○○年前後の中国保全論︑特に東亜同文会にみられる中国
保全論に着目することになる︒ 世紀転換期︑﹁領土的保全﹂﹁行政的保全﹂という発想そ
のものがあからさまな侵略に対するアンチテーゼとして広
く国際的に容認︑展開されていた︒以下に見るように︑こ
の時期中国保全もまた︑それが実現しているか否かにかか
わらず︑少なくとも﹁本来あるべき﹂対中政策の原則とい
う側面を有したのである︒いいかえれぼ︑中国保全は誰も
が口にでき︑誰もが受け入れやすい議論のひとつであった︒
この事情は当時の中国においても変わらない︒そして︑こ
の点において︑例えば東亜同文会と中国の変革論者が日中
の連携を構想しうることにもなるのである︒こういった状
況をふまえない場合︑個々の保全論の﹁反﹂帝国主義性が
過大評価されたり︑あるいは逆に︑平和的経済的﹁侵略﹂
の側面がいたずらに強調されることになるのである︒
20g‑一 中 国 保 全 論 の"オ リエ ン タ リズ ム"と 中 国 イ メ ー ジ
本稿は︑保全論が侵略的であるか否かにかかわらず︑そ
れが広く展開していたこと自体を重視する︒そこでは︑﹁保
全の対象としての中国﹂というイメージが当の中国を含め
広く共有されることになると同時に︑保全論と文明化の使
ヨ 命論とのリンクによってそのイメージが常に求められるこ
とにもなるのである︒文明化の使命︑保全の使命はその対
象が﹁後進﹂的であったり︑危機的状況であることによっ
て崇高なものになるからだ︒
保全論は︑その主体を﹁文明﹂の高みに︑そして︑客体
を下位に位置付けることによって初めて成り立ち︑そうで
あれば︑我々は次のような可能性を視野に収めるべきなの
である︒保全論の展開と受容はすなわち︑西洋的な︑ある
いはそれを内在化させた日本的な﹁オリエンタリズム﹂の
もと﹁保全の対象﹂とされた中国イメージが無批判に展開
し受容されたことを意味する︒
こうして我々は︑東亜同文会の言説に着目することにな
る︒彼らは中国保全を決議し︑その実現のためには中国の
文明化が不可欠と考え︑そして︑それを自らの使命とする
からである︒また︑このような意味で当該時期中国の変革
論者たちが展開した中国保全論を取り上げることも可能と
考える︒この点についてもこの稿のおわりにそのアウトラ
インを示したい︒ 中国保全論のとらえ方
6研究史のなかの中国保全論
中国保全論に﹁オリエンタリズム﹂を見出した論考は管
見の限り見られない︒しかしながら︑中国保全論自体につ
いてはこれまで様々な角度から議論が展開されてきた︒例
えば︑中国近代史研究においては義和団運動評価との関連
で保全論が注目を集める︒そこでは︑義和団運動が一九世
紀末のいわゆる利権獲得競争に象徴される中国﹁分割﹂の
流れを中国﹁保全﹂へ転換させた要因のひとつであるとさ
れる︒そして︑中国保全論そのものについては﹁平和的侵
略﹂﹁間接支配﹂とその性格が規定される︒つまり﹁保全﹂
は﹁分割﹂よりはましな帝国主義的侵略の一形態とされて
ら きたのである︒そして︑これらの議論が義和団運動を保全
実現の契機とする以上︑義和団運動以前の︑たとえば利権
獲得競争期の保全論はたんなる口実として切り捨てられる
他ないのであった︒
日本近代史研究の文脈では︑﹁対外硬﹂におけるアジア認
識のあり方を論じる過程で中国保全論がしばしば取り上げ
られてきた︒そこでは保全論は︑中国を日本の防壁に想定
するところの潜在的な侵略であり︑中国分割論︑日清同盟
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す 論を同時に包括する論理とされている︒また︑外交史研究
の文脈では東アジア地域における勢力均衡の︑あるいは経
済的機会均等の一手段として中国保全が論じられてきた︒
つまり中国保全論は︑それによって列国間の衝突を避ける
ための論理であり︑侵略行為あるいは意図を正当化するた
めの言説に過ぎないと理解されるのみで︑それがそういっ
た機能を有することが何を意味するのかということに関し
ては議論されてこなかったのである︒
これらとは異なるもう一つの潮流としては︑東亜同文会︑
あるいはその会長近衛篤麿の中国保全論に日本と中国︑日
本とアジアが﹁連帯﹂する契機を見出そうとする一連の研
ム 究を挙げることができる︒この領域の議論は先に挙げたい
くつかのとらえ方に対するアンチテーゼとして近年展開さ
れているものである︒
これらに対して本稿では︑中国保全論が広く展開し︑受
容されたこと自体を重視し︑その主体と受容者の意図如何
に関わりなくそこで前提とされる中国イメージの在り方を
い 問題とするのである︒
口一九〇〇年前後の中国保全論
冒頭に述べたように︑中国をめぐる保全論に限らず︑保
全論は一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて世界各地で提 ユ唱され︑そして︑受け入れられている︒この時期すでにあ からさまな領土的暴力的拡張政策はバランス・オブ・パワー
の観点はもとより︑罪悪感や恐怖感からも批判されはじめ
ムむ ていた︒つまり︑行政的領土的保全を語ること︑あるいは
それを受容することをさまたげるならば︑そのことこそ非
難されるような環境が形成されていたと考えられるので
ハほ ある︒例えば一八九八年︑軍事力を背景に中国各地を領土
的に侵犯した各国政府すら﹁その目的は中国保全にある﹂
と言い切るのであった︒
一八九八年三月︑ドイツの膠州租借が決定するとロシア
政府は中国政府に対して旅順・大連租借を要求する︒そし
てこの両地は五月にはロシアの租借地となるのである︒ロ
シア外相ムラビヨフは中国政府の旅順・大連に対する自主
の権利がこの租借にあたって侵害され︑廃されることは決ムちしてないとし︑そして︑ロシア政府の望みは中国の保全で
あると明言する︒さらに彼は︑中国保全の原則が旅順の租
借要求によって無視され︑この行為が中国分割をすすめるムまものだとみなされることを決して認めないのである︒ロシ
ア外相のこの態度は︑中国保全を妨げる行為が国際的非難
の対象になるという環境の存在を示している︒理念として
の保全をないがしろにすることはこのときすでにはぼから
ムあ れたのである︒
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以上のようであれば︑我々は次のように考えることがで
きるだろう︒この時期の保全論についてはそれを正当化の
論理に過ぎないととらえるよりも︑正当化の論理としての
機能を備えていたと理解すべきであり︑したがって︑その
実現可能性の程度が議論されることはあっても︑その発想
自体非難されることのない論理であったことに留意しなけ
れぼならない︒
例えぼ︑東亜同文会臨時大会(一九〇〇年八月)では︑﹁支那保全の説は独り我国民の輿論なるのみならず列国も亦
敢て分割の野心を声言し能はざる今日﹂という認識が示さ
れるし︑近衛篤麿は次のように述べるのである︒﹁外交の方
針を明にするに於て︑若し分割説にても明にするならば大
に外交に害あらんも︑保全を唱ふるに於て些の害あらんや︒
ムレ 況や各国皆保全を唱ふる今日に於てをや﹂︒ではどうすれば
中国を保全に導くことができるのか︒東亜同文会会員たち
はそのためには中国が文明化しなければならず︑さらに︑
中国を文明化するのは日本の︑そして東亜同文会の使命で
あると考える︒ここに我々は︑中国が﹁文明化の主体﹂の
使命を崇高にすべく﹁文明化の対象﹂というイメージのな
かに閉じ込められる可能性を視野に入れることになるので
ある︒ 二﹁オリエンタリズム﹂としての中国保全論蹴
世紀転換期︑特に列国による利権獲得競争以降日露戦争
に至る時期︑中国保全論はさまざまな立場から︑多様な経路
を通じて日本中に展開されることになる︒ここでは東亜同
文会の中国保全論を取り上げ︑それが文明化の使命論を内
包する﹁オリエンタリズム﹂に立脚していることを確認し
たい︒
e近衛篤麿の中国保全論と﹁文明﹂
保全論者には一定の傾向がみられる︒日清戦争後︑中国
を侮る傾向が日本中に蔓延することになるが︑彼らはこの
ような風潮に眉をひそめる︒例えば近衛篤麿は次のように
述べるのである︒﹁夫れ文明の制度を布き︑文明の教育を施
したるに於ては︑日本実に支那の先進たり︒故に支那を開
導し之を扶植するに文明を以てするは大に善し︒独り其先
進国たるを以て⁝⁝自ら負い︑支那人を軽侮し鐵辱して反っ
て其悪感を買ふは︑蕾に先進国の襟度に戻るのみならず︑
む 対清政略の運為を妨ぐること極めて大︑其禍を後来に残す﹂︒
近衛に対する研究者の評価はしばしばこのような言説を
めぐって展開してきたといえよう︒すなわち︑それを﹁侵
略﹂的と見るか︑そこに﹁連帯﹂の契機を見るか︒冒頭述