山 野 河 海 と 救 荒
誌乙めに
弘前議の元禄八︿六九五)年の鉱鰻についての記録である﹁耳目心
通記﹂のなか記︑著者添罷議在衛門が寸前代未聞﹂と欝傍せざるを得な
かった︑中黒村という所の家一一一一人全員が痛ましくも餓死じたという
話が出てくる︒餓死った経緯は次のようなものであった︒秋半ばの
噴から米粒もなくなり︑山野に服部が積もらない関は︑﹁木の葉を拾ひて
食物とし︑或は草の根をほりて︑朝夕のかで﹂とした︒神無口付に者り︑
山や
谷に
回一
塁が
鋒っ
てお
てか
らは
︑
回蕗に出て根芹を擦み︑あるいは問の
刈ハノ取った後の轄の根を掘っベた︒しかし︑雪深くなると︑そうし
た採集もできなくなって︑食物が範えてしまっ
家族
皆が
柱を
並一
べて
打ち故し︑爺・繋がまず落命したのち次々餓死していく︒最後記残され
た十代の娘・男子も親・兄弟の死骸を食べたものの︑長くは生きられな
かったのだという︒
この一家は︑物悲して歩くとか︑藩の擁行小屋に入るとか︑思いあま
って
盗み
を働
くと
か︑
さらには舘器
ι
地逃げするといった道を選ぶことなく
︑
ひたすら自力によって飢えを乗り切ろうとしたかにみえる︒結果
菊 池
勇 夫
的には餓死してしまったが︑ここておきたいのは︑﹁木の葉L
の根﹂といった山野の恵みが︑常の食である米ないし雑穀が尽きてしま
ったとき︑自活のささやかな希望であった点である︒これは︑右の一家
のような鏑別例ιとどまるものではなく︑飢えを凌ぐため近笠の村民に
共通するごく当然な行動様式であったといってよいだろう︒海の難物も
また︑山の産物と問機非常食の役割を控っていたかと推察される︒そこ
で︑本稿では︑救荒という健一惑において︑山野潤海が民衆生活史のうえ
でどのような意義をもっていたのか︑関心を寄せてみたいと思う︒
山野に出る
凱鐘史料をみことのひとつは︑鼠人たちが戸山野に出る﹂と
か﹁山に登るLといった記述がよく出てくることである︒
(??﹀
ω
︿一一一月)わらびの摂ところ堀方々の山々へ男女大勢登り諜穣事︑何様ニもしらベがたし︒村ニB五六拾入︑又ハ三田拾入︑又誌弐百人
位 ︑
ヘ上ル︒しかし穀類給不申嬢捨へ︑身体よわり︑漸少発棋
ところ︑草木の灘脅取嵐構・なり︒給物持参せざる者法山々にて︑鍬
木観等杖や枇にいたし︑死活候者数々在り︑誠に昌の当らぬ仕合意︒
︿﹁由期大不熟諸人飢渇覚書L仙台藩・宝鰐六日付一七五六年)
(2)
主方地散せぬハ八月廿ニ︑五百より蕨の援を穿子供を負
て山
へ
いつれも九月下旬結山活し又穀は不喰さ殺の摂ばかり
ノ¥
(3) 死 物 狂 ひ
々日
山 野 出
こhにおいて田知横になし︑取物とれノあへす︑
‑醸の根へとりか﹀る︒此時子廼り不
残出る︒風雨を事ともせす︑勢力を尽し土を穿ち鶴きし事九月・
丹・十一丹・十二月︑此四笛月一司も無額︑唯喰仕事にて自を送り
ぬ。
提十二月迄すでに五箇月︑ひたもの・葛・わらび・丸子葉の根
茅の根'其外いも・百合︑河にても見当次第にはたらき取り︑身
を養ふといへとも一一日に一度も穀物を喰はきれは︑身も疲れ︑色
髪は禿と成り︑韓乱し︑歯あらはにして︑さなから蝕鬼にし
て人間とは思はれす︑(﹁飢歳凌鑑L
盛岡
議︑
(4)
稗
みつの類︑取方︑
線
げ札
か村
︑粉
にし
て︑
つな
ぎ拡
入︑
︿ 雛 ﹀
糠杯を粉にし
段結能欝産候︒初︑
て ︑
餅ι
致候
倒神
ハ
J¥
取方相閤申候︒又野に出て色々の草をつミ︑粥に煮て金し申候︒
誠に正丹七草の粥のことくに御鹿候︒
療の根を掘方に︑市野々︑達古袋︑野山へ︑爵村ハ不及申︑一二黒 沢︑赤荻︑山ノ自主︑山え愛り候者︑一一一巨人己上宛︑登申候︒山え小屋懸ケ︑泊り居︑握方致録者︑数人観座候︒雪降り申候而も︑払除︑掘方いたし候︒大雪に相成︑議方体ミ¥春に相成︑又々山え登
り︑雪二尺以上も有之候を額払︑議方致申候︒蕨相出そたち綾得ハ︑
粉も出不申︑掘方相拒申俣(﹁鈍穫記L盛岡藩︑天保四H一
三年
﹀
右の引用は︑そうした一端を示すにすぎないが︑
ちは
︑
田畑の
いとき誌は﹁毘結構にないして収穫を放擁してしまい︑設
後あたりから山野拡出て隷・
いだ
こ
てい
る︒
と か
る﹂とあるように︑家族総がかりで野に出︑山ったのであった︒し
かも︑山へ小罷懸けして治込みで蕨を掘る﹁山居﹂の者もあったし︑山
野に入ったのはよいがそのまま飢死記する者も少なくなかった︒大警が
降れば不可能な作業であったが︑春先ともなると雪をかきわりてでも根
を掘った︒農民ばかりでなく︑﹁天保田五年気候書Lによれば︑盛田の﹁近
ム仕は勿論︑暫々五も言々出え出懸ケ︑醸の根︑ふき︑とごろ︑したミ︑
向れ食に宜しき草の実︑木の実︑設も
f k
とひろL
ぃ︑
﹁近
在山
々 め ん
人斗L
であ
い 加 つ
︒
い食料獲得への執念というほかない︒山出
でも食されたが︑には比較できまい︒
につ
いて
は︑
ふかく結びついた︑発数肥料eまぐさ・薪炭・木材など多様な用途が注
目され︑用益権や入会雷管︑あるいはそれをめぐる紛争などに関やが寄
せられてきた︒それ誌総じて農業を基本軸に揖えた山野の位置づ甘とい
うことになるだろうが︑鋲鐘史の観点から山野をみると︑やや異なった
イメ
iジが作れるように思われる︒そもそも農業生産の壊滅的な損毛に
よって生命の維持ができなくなるところに凱躍の本賓があるのでるり︑
そうした危機の回避︑緊急避難の場としての山野がクローズアップされ
てよ
いだ
ろう
︒
による救済の手や︑村の備荒貯蓄が充分でなく︑他
者からの施しもさほど期待できないなかでは︑山野は誰にも頼らずに告
カで食物を獲得できる唯の共援の場であった︒自然採集の︑いわば﹁原
始いの世界に回帰し︑大地のふところに抱かれることによって餓死者免
れようとしたのである︒
﹁常﹂の出畑に対する寸非常﹂の山野とでも対比させることができる
が︑近世の村社会にして飢鐘時に山野への依容が少なくなかったことを
みるならば︑中設以前にあっては尚更であったとみるべきだろう︒たと
えば
︑鎌
倉幕
荷は
︑
年 ︑
4諸国飢麓いのもとで︑飢え
に窮する﹁浪人Lが﹁山野紅海Lに入るのを締め出そうとする﹁在所の
そうした法令の背景には︑﹁晴雄近住俸の地頭いの行為を禁じているが︑
H J
浪人﹂が︑﹁或は山野に入りて馨義・野老を取り︑或は江海に臨
みて魚鱗・海部を求Lめて﹁括計を支﹂えているという認識があったか
らである吋追加法L︒飢鱗が譲り返されるごとに︑7山野に入
る﹂
民衆
の一
国政
い生
活史
のあ
った
こと
を忘
却で
きま
い︒
ところで︑能鱒非常時の山野に入る行為が︑日常の山野をめぐる権議
の範関内にとどまったのか︑それともそういった縦約を踏み超えていた
ものであるかは吟味してみる︑必要があろう︒盛関藩額の現矢巾町の﹁問
村家記録L拡よれば︑天保四年の凱俸のさい︑村民たちは﹁此節(九月)
山物取ι在々より山方へ議の根︑ところ掘り夫れ夫れ禁法し
(S
)
てたべ﹂たという︒ここで逗刑法﹂してというのは︑おそらくは藩の留
山に無断で入って採取したことを意味しているの寸あろう︒そして︑翌
十月には
d h
節山物堀又は︑炊料山下し震かれ傑事︑有難き事に候Lと
いう鎮主の特揺の許可が出されている︒ここから読み取るべきは︑飢鍾
にあっては禁を犯してもかまわないという農民側の意識と︑勺十月始めよ
り御年賓の御費付厳敷事に候﹂であった領主額も山野については︑むし
ろ櫛救として放告もしく域開放する姿勢記あったことだろうか︒領︑支の
飢鐘対策のなかで山野がどういう位欝づけにあったか︑鮪を改めて検討
することにしよう︒
御救出
天暁の飢鰹のさいの盛岡藩の場合をおも広みていくことにしよう︒
同藩は天明三年九丹︑盛関城下および近在の﹁謹土在町﹂を救済するた
めに︑﹁近山﹂の松山を﹁焚料いとして与えた︒上田了二一一戸丁以下には
川又村江戸ケ沢御山(松出了間所足ケ沢郵山(松山﹀︑本町・油町以下
北は正ケ畑村笹目平解山(松出了胃姥子沢鯨山(松山
γ
間三吉沢御山(松山)などといったJ凶割﹂を決め︑自由に山記入らせて新を取らせ
た︒しかし︑この﹁欝救山﹂の外に勝手に入ち込んで︑J前々御用木﹂に
罷る事態が発生する︒﹁替万致候身分之者も主立﹂になって禁を犯したと
い︿列︒そこで︑御山の取り締りを厳戒にするとともに︑さらに
呂 川︑
東根通箆渡村蜂ケ森御山など雑木山・松山を薪山記追加指定している︒
こうした長料﹂山は︑金額約範障に及び︑勺篤署長前んによれば︑薮岡
通二ケ出︑徳田伝法寺通七ケ山︑日詰長爵還一一一一ケ出︑雫石通九ケ山︑
大迫通二O
ケ山
︑沼
宮内
通二
三ケ
山︑
一彊
爵通
一一
九ケ
山︑
五戸
通一
五ケ
山︑
野辺
地通
一
ケ山
︑花
輪通
一一
一八
ケ山
︑城
下胃
蓮井
寺社
方陸
一ケ
山の
︑
︒九ケ出にも遣していた︒
iま
円札
よっ
て︑
‑給入・寺社よれソ出された立木の伐採︐
てみたものである︒問︒拐を数えるが︑給人からの
しミ
は給地百姓の救済という性格のものである︒これι
よれ
iま
一部不許可になった願いもみられるが︑渇ム叩・密窮・援窮の﹁御救L
を求める下され願いの多くは︑﹁御元〆制御勘定頭﹂の吟味により︑そのま
ま許可された︒地域的には田名部通や花輪還など林産地世帯が多いが︑そ
こでは自家罵というよりは︑伐採した桧・杉・松あるいは雑木を︑建築
罵材木︑薪(春木﹀︑橋木・木炭などとして加工・謁品生し︑それを販売
して換金することがおもな目的であった︒花輪代官所管内の鎮境の村々
の場合には︑錦山で使う炭・薪の御用費上げをつ
てい
る︒
つ
役など税がおおな訟免除・
のカま J、 つ
ていた︒このように︑藩が指定した薪
山とともに︑郵教顕いによる伐採がひろく許容され︑館協麓下の百姓救済
策として山野の利用を積極的に認める姿勢が藩にはるったことを示して
い 守 心 ︒
ところで︑表1中に出てくる蕨根や野老掘りに必要だという寸庭板﹂︑
あるい詰J
紋た
れ船
Lとは何であろうか︒ちなみに︑飛窮地方の薮根掘
りの
民経
鰐で
は︑
タレプネという搬粉を沈殿させる携がるって︑木を割
(ね
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J似たれ船﹂はおそらくこのタレプ
ネに該当しよう申﹁椴たれ船﹂用の大本が︑必要だというのは︑前述したよ
う見︑食料欠乏のなかで皆が急譲蕨担掘り
ι
取り懸かったからで︑澱粉取 り
,J;
かったとい
、で伊
広ついてはどういのかよくわかちない︒
いうませもなく︑この寸御救山Lは鋲簸持に特第
あった︒天明四年一O
月 ︑
その解除にあたって次のよう拡触れている︒
鍔額分中山林立林之儀︑先達て厳敷就被部付設︑語御山格別宜相成
縁︑然所去年不作ニて諸人及困窮候調︑近舞諸欝肉松本為御救数ケ
山被差出銭所︑年栴も相直候之問︑右調救出此度被差留韓条︑以後
心得違之者共有之候ハ¥捕押可申出鏡︑惣て欝百姓共え家材木被
下輩︑尤︑地頭依頼木数被下置候も脊之様︑鍔出守共吟味方自然と
棺強︑袈ケ関敷最も有之様相関得候︑甚心得違之致方狭間︑弥前々
護部待寵畿通︑懇度吟味可仕留被仰付候・;︿下略﹀
ったからには﹁御救山﹂おちに
It~
用
材につよい規制を加え排他的な独占を闘ったといわれ︑
産であった接持藩ももとよりその例外ではなかった︒ただ︑ここ
してよいの誌︑通常の領主規制にもかかわらず︑‑凱態という非常事態に
あって誌︑立木といえども民衆の利益に位わされるべきと考えられている
点であろう︒山野の公共的性格をみないわけにはいかない︒さらにいえ
ば︑﹁鍔救出﹂誌薪や材木の伐採を認めているのであって︑葛・蕨・野老
の根︑しだみ(どんぐり)類の木の実︑蕗やみずといった山草などを採
取すること自体については︑‑許可のいずれにせよ︑とくに関心を
示していないことである︒立林℃あってもそれらの採取誌放託・黙認さ
れていたと読み取るべきであろうか︒
天保の凱穫のときも︑盛関藩では﹁御山Lは﹁制御救出ふとして開放さ
一一
一)
年九
月一
O日
︑﹁
当
おれている︒﹁飢鰹考しによれば︑天保四(一八
都不作しにより﹁問題窮ししているので︑諸士謹震籍組付の者︑
およ
び盛関城下・近在の住民に対して︑﹁梅山﹂を特定し︑﹁僻救薪銅山﹂と
念品
いれ
川︑
して下されるというものであ六日には﹁凶作に付
御寄生共へ御救山薪料に被下請嘗被仰出﹂ており︑天明の飢鍾の慨にな
月晦日には﹁年柄も相蓋L
った
として﹁諸山立林しへの立ち入りを厳禁しており︑欝救出の時限的性格 らっていたことが知られる︒
年にも間諜の薪山開放がみがここでも読み取れる︒天保七二八一一
られるが︑内容に大差がないので説明は省こう︒
ところで︑盛岡藩における多様な階麗による天保期の諸関争を分析し
た保坂智氏が︑﹁藩有林不法捜入闘争しと命名した闘争静態がある︒氏が
作成した﹁天保期高部藩諸闘争年表しによれば︑
告天保3年
6R 4g
②天保4年
Qd
月7自 上回通東中野村藩有林不法罷入
飯開通猪去村・上箆妻村・上飯岡村・太由村
吉入︑藩有称不法侵入︑数日つづく
数
③
厨開通下厨川村審有林不法侵入︑高札を打ち9月日日
やぷ号︑山奉行へ関山を訴う
な
号 @
伝法寺瀦小室敷村数十人︑蕃有林不法侵入5月訪日
12 月
長岡通赤沢村
務有林不法捜入︑数十人出肝
‑山守の響講を破る
舎天保S年1丹四日
五一
円通
七崎
村・
志一
戸山
邦村
・浅
水村
御救山入山
{} 詑日
数百人代官所まで強訴︑村役人
指 導
⑦
上田溜江柄村地数十入︑藩有林不法侵入
月
の七件(ゆを除けば六件)が知られる︒これらの記録に欝き留められ
るような事件化した﹁不法﹂入山は︑おそらく氷山の一角にすぎず︑鼠
護下の窮民たちによる小規模の禁法破りは観調できないぽど
ι
広範に及んだのでは設いかと推嬢される︒前述のようじ︑天明の飢鰹下にあって
も︑同様の事態であった︒非常時誌は領民のために開放されるべしとい
う︑山野の公私共益的な民衆的正当性の観念が入山行為の悲流にあった
というべきで︑これを毘ばもうとする領主権力の力が強く働いてくると︑
トラブル化するという関祭に中めるといえるだろう︒
以上︑盛岡藩の銑鰹下の窮民政策をみるなかで︑﹁櫛救山﹂の問題が浮
かぴ上がってきたわけであるが︑つぎ広︑﹁街救出﹂は盛岡藩における特
殊な飢謹対策でるるのか︑あるいはそうではなく︑もっと広範にみられ
る一般的な現象であったのか検討してみたい︒
詳しく分析できるだけの準備誌ないが︑結論的にいえば︑盛悶藩の﹁欝
教山いのごとき事侠は珍しくない︒気づいた範留で東北詰穣の事例を挙
げて
みよ
う︒
まず
︑八
一円
議で
ある
が︑
﹁侮
勘定
所日
記﹂
天明
⁝一
一年
八月
一一
八
︿名 久)
日条に︑﹁久名井通御宮姓共当年一品阜市不作ニ付︑五一戸・三戸・諮問侮代宮
所ニ市葛蕨等塘取申度頼出候ニ村︑御田地支不相成様︑先年之通被御承
知霞
震盤
︑制
御代
官一
所δ一一一ケ所へ文通申達ス﹂とみえる︒藩境で接する盛
商議額の五戸・‑福閥解代官所管内に︑‑譲の棋を採取するため
に越境したいという名久井通百姓の顕いである︒代官の欝け合いにより︑
福開運搬野平および三への入り込みが代宮の掛付合いで認めら
れている日条︑九月日条)︒八一円蕃でも︑盛爵藩でみられた
﹁ね
たれ
船
L記相当するものであろうか︑苫米地・剣官・上下名久井通
の百姓が肩掛船Lを
ている{九月一 一つずつの下付を顕い︑五七九軒分が許され
弘前
藩で
は︑
J大明卯民日記
L ι
よると︑天明三年八月の下旬であろう
か︑﹁桧杉之外雑木井所々村々蔭山森林之分迄︑在方為御救関山被仰付
候︑桧山も不苦分ハ御子山号被抑付傑Lと︑桧山の伐採までも事構によ
つては認めるという思い切った関山政策が取ちれている︒この間関山につ
いては︑他の詑鍛でも︑たとえば
J wγ
山日記いに﹁御建林︑御雄山関山
被仰付為僻救ヒ当十月より来一⁝一月迄︑柏敢願被出次第被部付候ヘまたη佐
藤家記L
にも
J大明三年九月期日︑此度杉桧之外雑木山井譲奉行預舘山︑
村館山林之分︑在方為御教関山被荷札拠いとみえ︑確か草案といって
よい
だろ
う︒
宝暦飢鎮のさいの仙台藩でも︑寸かねてわらび根ところ壌候山所ハ勿
輪︑党なき山所︑外心付之所々巌之上︑御林等迄被明下︑いせ船とも大
木被下置︑町場在々群集して︑毎日山野へ入込摺取ル事︑大山も赤はね
と成
ん﹂
︿﹁
荒議
録
L岩谷設近辺)︑またはJ附々欝林も被明下︑野糠井松
皮取︑渇命凌候様被伸一札慨し(﹁年代記L加納家の記録︑真野村)といわ
れ︑やや意味不分明のところもるるが︑守的僻林いが開放されていた︒た
だ︑この仙台落の場合には︑盛階藩や弘前議と違って︑樹木の伐採を認 めるまでには至っていない︒その能︑椙馬藩でも︑
(天
明間
年)
二
月景迄御家中薪山として︑山上披木鐸林間秋迄御明被置候灘︑自身取の
為︑愛岩山桧の沢昭山若林半分鍔明被成按L
︿﹁
天明
救荒
銭し
)と
るる
よう
に︑この場合には武士に限つての明き山であるが︑﹁梅山Lの開放がやは
りみ
られ
る︒
やや不十分な論証で︑今後記精査が必要であるが︑纏救山の積習はひ
ろく存・在していたことは認めてよいだろうと思われる︒非常のきいの山
野の救主的役割は︑藩によってぷ岬救出Lの実態は様ではないにして
も︑民衆および領︑主がともは共有する天下の大法でるったと評しても過
一一
一口
では
ある
まい
︒
救荒食の製法と商品化
1
野老の襲法
山野の葱みをどのように料理して食べるかというのは︑民衆の大きな
関心事であったに違いない︒常の食でないものの食べζく惑を克服する
ための努力がみられ︑たとえば第一節の引用
ω
に︑牛努の葉は稗や蕎麦などの粉に混ぜて餅にすると金ぺょいとみえるのも︑そうした知恵であ
った︒ここで誌︑いわゆる救荒植物の主要をもののむとつである野老(と
、~
丸四
を携に取れノ上げ︑近世紀給付る出野草の製法・食べ方の工夫とい
ったものの展開を組問見てみようと思う︒
野老
は︑
ヤマノイモ科の蔓性多年草オニドコロで︑山野に自生し︑
欝わ
ゆど
とも
記し
た︒
よ相
名抄
Lに﹁味北口少甘無毒焼蒸充糎﹂とみえ︑また
や
などにも出てくることから︑すでに古い時代か
(幻
}
ら根を食爵ないし薬用としてきたことが知られるが︑苦味という難があ
って︑鋲餓のきいの非常食として利期されても︑常の食にはなちがたか
った
表2は︑奥現地方の凱鱒関孫史料を中心に︑自に熟れたかぎりでの野 ︒
者の食べ方を列挙してみたものである︒これからわかるように︑野老の
製法でもっとも関心しているのは︑苦味‑しぶ)をどうやって除去
するかであった︒苦味を抜くには︑結く切り刻むか揚き幹いた野老を︑
ω
涜水につけておく︑ω
よく煮て水(流水﹀に浸す︑ω
茄でで水に渡すとしても︑一次(あく)ホで煮る︑加問じく出水で煮る︑
ω
関じく米糠を瀧ぜて煮る︑といった方法があり︑このうち︑灰水を用いるやり方がひ
ろく普及していたように思われる︒また︑製法としては︑銀のかてや餅
にするために苦味を去ればよいというものと︑j‑K‑S記みられるよ
うに︑澱粉︿はな﹀を取ることに主目的があったものとの︑ニ様があっ
たといえよう︒いずれにしても︑手間ひまのかかる仲業で為った︒
野老の食べ方としては︑飯のかてとしてもよかったが︑欝麦粉・麦粉・
米のしいななどと混ぜて揚き︑餅にして食べることが多かったように窺
われる︒救荒食で欝にするのは野老に眠られたことではをく︑たとえば
cの﹁天保四五年気候書﹂は︑ところ餅の他に︑蕨の桜餅︑大一豆餅︑松
にんぢん餅︑小ぬか餅︑きらじ餅を凶作
のときの飯料の思しになる餅としてあげている︒山野草ではないが︑藁 皮餅︑したみ餅︑キンぴら餅︑
だんご・藁餅というのも奨励された食べ物であった︒餅にすると食べや すいというだけでなく︑商品として売りやすいといった側面もあったといえよう︒尤も︑飢餓が進狩すると︑製法どころでなくなり︑掘った﹁其場にて焚火して変り︑直ちに食ひたり
Lq
入首
嵐土
記﹂
)と
いう
のが
︑
に迫
って
いよ
う︒
ところで︑表2
の設
かで
︑
f‑ m
・o
‑P
は若干表現が
るも
のの
︑
野者の製法ー老人・病人などの食の禁止︑便秘の処方(ただしpに記載
なし
)と
もに
︑
ほほ間内容の記載で島る︒このうち︑もっとも時類的に
はや
い
f﹁民間備荒録﹂は︑周知のよう記一一関藤監建部清庵の著になる
もので︑江戸後期に薮行されてくる救荒欝のさきがけとなった︒明和八
(一七七ご年刊持のあと︑たびたび裁を重ね︑後につづく教荒需に大
きな影響を与えたが︑m・
o‑
Pの野老の記述も寸民間備荒緑﹂から採
ったものとみ
いあ
るま
い︒
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て物
Lは米沢藩主上杉治癒撰になり︑事和
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一一
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板行
し︑
各
村に配車したものとして脊名なものであるし︑またm
﹁か
ても
の﹂
も︑
天保五年正月︑能鱒広あえぐ村々の﹁制御救いとして︑﹁上山役所﹂(上山
が﹁かてもの﹀調書いを桜摺むして各村に与えたものである︒0
・ ﹁ か
て物考﹂は中村藩持医の手になり︑天部四ご八年の鼠鱒のさい︑
﹁欝用人﹂から﹁翻お筆役所﹂に心得のため渡されたものという奥書が
あるから︑議の求め拡よって書かれた可能性がつよい︒﹁民間備荒銭い自
体が待医による藩主への献策であり︑その写本が家者によって村々に下
付されたというから︑その相通ずる性格が︑m・
o‑
Pにそのままに取
り入れられやすかったといえるだろう︒
k﹁天保田葵巴年記録Lもまた︑﹁民間備荒録Lの︑野老の性質につい
ての
性平︑無毒﹂という記述を引用しており︑領主権力に連な
る人士だけでなく︑民間の老農・篤農的な人びとにまで読まれ︑ひろく
流布したことが窺われる︒ただ︑ここておきたいのは︑野老の
製法に関しては﹁民間備荒録いの文章をそのままに書き移すというので
はな
く︑
一弁科いの法とか︑今は流行らないといった記述にみられる
よう
に︑
その土地の経験知に基づいて書かれているとみてよい︒k
はニ
井田村(現大館市)一関市五郎が︑十二処町底的煎吹谷和右衛門が後世の
ために書き遺した記録を借りて写したもので︑まさに良聞の警であった︒
﹁民
間備
荒録
Lの野老の記述は︑あるいは土地の知識によったといえる
かも
しれ
・な
いが
︑
J巴長・保正に教へ︑飢民を救ハしめいようと︑上から
の民衆教化を強く意識した本書は︑﹁救荒本草﹂など和漢の本首都奮の知識
に多くを故存していた︒確かにその取捨選択において経験主義的態度が
表れていたとしても︑民間の経験知との簡には︑引かれる線があった
とい
うべ
きか
︒
野者の製法だけから︑あまり多くのことを諮り過ぎてはいけないが︑
そもそも飢鐘時に山野に入って木の葉や革の摂を採取するのは︑民衆生
活ぞれ自体に錨わっていた知惑であった︒能ム口藩医佐々城幹安が﹁救荒
本草﹂﹁救荒野譜﹂の中から︑奥羽で得やすく惑のない草木を撰んだとい
う︑訟の﹁救荒略﹂(天保四年)もまた︑先の﹁かて物いなどと閉じく︑
飢欝時に領主拡よって各村
ι
配付されたもので︑村肝熊の手になる閤荒記録に綴じ込められて後世に残された︒その表紙に︑肝煎は﹁従錦上︑
被抑出︑此難問物被渡下根付︑制も心見給候ニ︑誠ニ結構成事︑凱鱗凌見
と記していた︒﹁凌見事無之いを︑まったく役にたたないもの だと解しうるとすれば︑そこに民衆知とのギャップをみないわげにはいかない︒各地の資重な生きた経験知が文字を媒介にして交流されていくのであれば︑その役割きわめて大というべきであるが︑文献に頼るだけの簡略にすぎるのではほとんどその用をなさなかったとみてよいだろう︒
いわゆる救荒曹の刊行が天保の鋲鱒から僚に増えだし︑明治期になっ
てさらに陸盛の観がある︒これらが民衆知との関わりでどのような位梧
にあるかは︑たとえば環本学氏の社事に一不戦を受けながちもっと子績に
検討すべきかと患うが︑今後の課題としておきたい︒
2
野老の輔品化
ところで︑江戸期︑野老の有期性に着目してもっとも詳しく述べたの
は︑おそらくsの大蔵永常﹁法益国憲考いであった︒表2に示した製法
のほ
か︑
効能などに説き及ぶ︒永常記ついて多くを語る必
要はないが︑﹁農家の補﹂を究めるため︑諾留を遊歴して農業の実襟を学
ん
いた体験の学は︑民衆の経験知に根ぎした農学の展開を恭すもの
であった︒そうした永常の学関の特色が︑野老の製法にも生かされ︑e自
分で実襟に試したところが記述され︑読者も製法を遺体験守きる具体的
な内容になっていた︒
野者に永常が関心を寄せたのは︑それが﹁掴産となるべき物ふと認識
した
から
で︑
‑蕨・車解の三穣辻︑﹁鼠餓のとき撮りて凱をたすくLと
いうだけでなく︑﹁擦りて粉となしうれば農家にてはよき稼となる物んで
( お﹀
るっ
た︒
の製法で︑﹁大自の粉Lづくりを示しているのは︑商品とし
ことを明らかため人びとていたから
かち敬遠されている
開口
間経
済の
撰関
のも
とで
︑
教荒檀物から徳用作物に転換できると考えられたのであった︒
もとより︑蕨や野老といった救荒食の高品化を考えたのは︑永常の強
創というわけではなかった︒それより早く︑天明六年のこと︑江戸浅草
心月院門前の家主与市なるものが︑野老の苦味を抜き︑﹁醤麦の如く製し
し︑又葛の如く製して︑食物にも糖にも用ふ
をお
こな
い︑
を公許されるところとなeり ︑
ら
ひろめようとしたことがあ
を以夫食等ニ救荒対策として野老の襲法の念AF
普及︑商品化に期待していた︒
諸冨の野老製品の一手質上げ︑販売独占をねらった与市の全てがうま
く成功したとは思むれないが︑幕府の力を後ろ盾とするまでもなく︑能
鍾時には地域市場︿経話題)のなかで︑たとえば︑﹁其外松皮耕︑藁餅色々
の食物︑市日には山の如く売出し銭L
︿﹁
天保
田奨
巴年
記録
い)
とい
われ
る
ように︑救荒食がひれていたことは般かなことである︒能額
との関わりかにみていきたいが︑根花やメノコなどとなら
んで
︑﹁
穀物
値段
﹂
のなか記加えられて記載された救荒食のひ
とつ
であ
った
が︑
ぞれだげ野老がたくさん売られたことの証左でも島る︒
野老の相場が分かる事例をあげてみると︑
盛岡
宝暦六年春・一芳二八文余(白米一升九二1一O
西文
)﹁
乙亥
飢鰹之年書留之写L
八議畑村滝田村︿現五島谷町﹀
天明
四年
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五文
︿米
一駄
九貫
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O文﹀﹁八重畑村
︿お
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ヨリ気張苓L
土沢町
角懸村︿現江頼市﹀
月
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文︑
四 月
間四丹⁝日
一日
七O文﹁田畑大不熟諸人凱渇覚書﹂
人 首 村
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相川村(環蔀沢町)
天明
三年
一
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︿米
五芳
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文 ﹀
﹁寛永議中ヨリ不作歳描永代記﹂
上衣川嘉懸(現前沢町)
{ 出
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天明四年一ロヲ五升九五文(米五升五三O
文)﹁天明三突卯大飢鍾之前後有増書震銀事し
一・
文﹁
天明
観鑑
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年
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四年
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月
相馬
天 明 一 一
文一 i剖年・四O
﹁天
明救
荒録
﹂
といったデータが得られる︒奥羽地方では︑とくに宝暦飢鍾や天明飢
穫のさいに蓋爵領や仙台領を中心に野老が売られ︑
一升
につ
き一
O文台
から
=一
O文までの額段がついていたことが知られる︒高騰した米値段と
比較すると詰るかに安いといえるが︑場合によっては平時の米値段に匹
敵する涼どの価格であったことになる︒
いえ
ども
︑
る天明
一年の畿鐘にも︑南部津軽信台辺餓死する者移しく︑
﹁と
ころ
Lと去物を買求て之を喰て命を助かれソLといわれたように︿﹁救 る族誌
荒孫之杖﹂)︑富諮な者が米の代用食として野老を讃えたのであ号︑飢え
に窮迫した下賜民衆が賢えたかはきわめて疑わしいといえるだろう︒
のなかに村の家族︒人の百姓が天明凱鍵
のさいに︑議死しないために食料をどう確探したか︑という興味深い史
料が要約的に結合されている︒それによれば︑﹁穀物︑あも︑野老の類い
づれも升勘定にして誤置不申侯得ハ揚死致候ニ候L
とい
い︑
この
︐家
族は
︑
貸付けていたほまち金を返却おせて︑手持ちでは不足する分の食料の購
ったという記事はみえないが︑救荒食で為るあ
入を
して
いる
︒
も(蕨根のでんぷん﹀は三石ている︒おかげで凱死せずに助
かったというのであるがこの百姓の場合︑‑下女の﹁家来﹂を抱
え︑また名子をもっぽどであったことが﹁升勘定﹂
していた︒しか一家を救うことはできず銭死させてしまったと
い﹀
つ︒
こ
らみると︑一商品化された救荒金は必ずしも下層民
衆のものではなく︑飢えた下器提衆がもしそれを必要とするなら︑自力
で榊燃や野老を握るしかなかったのである︒
関
灘議物と救荒
飢鱒時の食物として山野の恵みとともに註話すべきは︑
‑魚
とい
った海の産物であろう︒そこで︑滋産物が非常食としてどのような意味 をもっていたのか︑天明飢鐘における南部地方(盛岡藩・
を 伊j
に検討してみよう︒
救荒食として代表的な海産物は﹁めのこL
であ
った
︒﹁
めの
こ﹂というのは﹁昆布を結く切ったもの
Lq
日本国語大辞典b小学館)
で︑岩手県九戸郡では﹁刻んだ昆布と縛を議ぜて炊いた飯Lを﹁めのこ
めし﹂と言ったように(﹃日本方欝大辞典﹄小学鶴﹀︑飯を増量させるの
は用いた︒﹁和布之斡L
︿﹁
卯肢
築
L)
︑﹁
女の
子﹂
︿﹁
凱歳
凌鑑
﹂)
︑﹁
碍の
子
(﹁
航船
鑓考
L L)︑﹁昆有粉﹂(﹁篤鷲家訓﹂﹀などと当時は書いた︒﹁飢謹考
によれば﹁務識に漬てうるかし︑其後水西五日晒し能々操み洗ひ始終水
是に上中下の差別有︑野田通より出るを上品とす︑
{ 総﹀
升あれは煮て既に官官斗制仰と成﹂るものであった︒ただ︑﹁昆和寄っき粉に
して干したる事﹂︿宝襲五年乙亥銑鰻之年書留之写﹂)という説明や﹁和
布之騒い﹁昆布粉﹂という表記からすれば︑細かく刻んだものだけでなく
粉末状のものもあったかに想像される︒また︑﹁糠稗え︑ふのり︑若容な
ど刻み加えて鍍粥にして食も有﹂る句附作克詩集L)といわれているか
ら︑晃布だけでなく若布(わか吟)などの海草類が同じように食された
ことが知られよう︒
こうした﹁めのこ﹂は︑凱謹時に
‑若
布の
産地
であ
る一
一⁝
韓議
村
でたくさん製渚されたと患われ︑城下や在荷に販売された︒天明の飢餓臨
を倒
にと
ると
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八戸城下で究明四年一月三E
﹁地
和布
之粉
﹂一
升五
O文 ・
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卯辰
築﹂
﹀︑
久慈
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O文 ﹁久慈和布之斡L
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︑五
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