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日韓における国家形成期の墳丘墓研究(本文)

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平成

平成 2525年度奈良大学博士学位論文年度奈良大学博士学位論文

日韓における国家形成期の墳丘墓研究

日韓における国家形成期の墳丘墓研究

(2)

目 次

日韓における国家形成期の墳丘墓研究

第1章 序論

第1節 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 第2節 首長墓研究のあゆみ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5 第2章 研究史の検討

第1節 首長墓の研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11 第2節 研究対象と研究方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 第3章 墳丘墓の定義と分布

第1節 墳丘墓の定義 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 第2節 遺跡の分布 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40 1. 遺跡の分布 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41 2. 地域別現況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42

日本

1) 九州地域 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43 2) 中国地域 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46 3) 近畿地域 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51 韓国

1) 京畿道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53 2) 忠清南道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53 3) 全羅北道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54 4) 忠清内陸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55 第4章 墳丘墓の分類

第1節 平面形態 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57 第2節 墳丘の築造方式と拡張 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67 1. 築造方式 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67 2. 拡張 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72 第3節 墳丘の盛土方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73 第5章 墳丘墓の分析

第1節 立地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75 第2節 墳丘 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・78 1. 台状部の規模 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・78

1) 韓国:盛土系墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・79 2) 韓国:周溝土壙墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84 3) 日本:盛土系墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86 4) 日本:貼石系墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89 2. 平面形態 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・90 1) 平面形態と立地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91 2) 平面形態と築造方式 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94 3) 平面形態と長短類型 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95 築造方式 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・97

(3)

第6章 まとめ-日韓墳丘墓の比較と変遷

第 1 節 日韓墳丘墓の比較 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119 第 2 節 日韓墳丘墓の変遷 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・123 第 3 節 おわりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・135 註 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・138 参考文献

(4)

第1章 序論

第1節 はじめに

地球上に存在する動物の中で、人間のみが身内に死者が生じたとき、それを悲しみ、

死者のための眠り場を作る文化を持っている。この眠り場を我々は‘墓’と呼ぶ。墓を

作り、死者の死を哀悼し、黄泉の国で永遠に平安なることを祈り、その人が使用した物

や死者のために作成した物を墓や棺の中に入れる風習は、遠い昔から今なお引き継ぎ行

われている。だが、墓の形態は時代の変遷や文明の発展と共に国、地域、社会別の特徴

を持ち様々な変化を経て、多様な形で今に至る。しかし、まだ国と言う概念が生じる以

前、地域間の移動がより自由であった時期には、集団と集団間(あるいは部族と部族間)

で、互いに良い文化を学び、それを共有しながら共に発展をしたであろう。このような

交流の中には葬送文化も含まれている。

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韓国において墓が本格的に造られるのは、石を使い、墓を造る支石墓が登場する青銅

器時代である。青銅器時代とは、韓国で水田稲作が始まり安定した食糧の確保ができた

時期である。それを背景に余剰生産物が蓄積され、その中で権力を持つ人物が登場、そ

れとほぼ同時期に支石墓という墓が現れる。日本においても葬送の方法は時代を追って

変化していくが、日本も水田稲作を背景に、一般民衆との区別化が図られたのが弥生時

代であると考えられる。

このように、集団が大きくなると共に集団内に権力を保持していた死者の墓(いわゆ

る首長墓)ができ、徐々に巨大化する現象が現れる。この従来とは全く違ったイデオロ

ギーをもって築造されたのが首長墓という政治的な記念物である(青木 2003)。弥生時

代の後期になると、‘ここに死者が眠っていることを、地上に高く際立たせるようにつ

くられた(平野 1982)’盛土をもつ首長墓が、日韓の広い範囲から発見されている。権

力を持っていた首長墓は、長い時間、広い範囲で造られたため、地域によってその形態

や規模、埋葬施設、副葬品などが尐し異なるが、基本的な形態、築造方式、遺物などか

ら見ると、概ね墓の共通性、系統性がみえる。広い範囲で造られた首長墓から見られる

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共通性や個別的に持っている特徴などは、その地域にいた人々の生活や集団の性格を反

映し、それは古代国家形成期の社会を考察するためには、最も重要な要素である。

墓制は他の考古資料に比べ、伝統性と保守性が強いため時空間的な特性が最もよく反

映される代表的な遺構である。墓を築造する当時の意図的で構造的・精神的な属性が推

論できる墓制に関する研究はひとつの社会を把握する手掛かりになり、人為的な副葬行

為により墓の内部あるいは外部に多数の遺物が副葬又は埋納されるため、その当時の生

活文化がうかがえる総合的資料になる。

私は日本では西日本を、韓国では韓半島西部を中心にして各地から発掘、発見された

国家形成期の首長墓の中、墳丘の形態と埋葬施設を連携し、新しい視点から首長墓の発

展過程を分析しようとした。また、首長墓の発展過程を卖純に小国連合体(日本は弥生

時代、韓国は原三国時代)の中だけではなく、それぞれの絶対王権(日本は倭国、韓国は

百済)との間に生まれた力関係からの研究、分析も重要である。また、このような研究

の進歩のためには地域と時期によって異なる首長墓の多様性に対する説明が必要であり、

首長墓の連続的な変化過程には当時の築造手段の多様な意図などを見逃してはいけない。

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更に、築造手段の性格を把握するには首長墓の外形的な属性だけではなく、埋葬施設内

部から出土した遺物に対する相互分析は必ず述べておかなくてはいけない。

したがって本研究の目的は、日韓の首長勢力が築造したと判断される首長墓の時空間

的な展開様相を探ることである。そのため本論文では、まず今までの首長墓の研究史を

検討し、首長墓の定義を行い、分類・分析し、日本、韓国ともに発見される首長墓の変

化過程と特徴を調べてみる。そこで、関係が深いであろう日本と韓国の限定した地域を

それぞれ研究し比較する。日本は九州地方(佐賀県、福岡県、大分県、熊本県、宮崎県、

長崎県)、中国地方(山口県、島根県、鳥取県、広島県、岡山県)、近畿地方(兵庫県、京

都府)の韓国に近い日本海岸の地域を、韓国は周溝をもった首長墓が分布している

京畿道キ ョ ン ギ ド

、 忠 清 单チュンチョンナム・北道ブ ッ ド、全羅北道ジ ョ ン ラ ブ ッ ド

を中心として研究を行う。首長墓の中の埋葬施設に

関しては、両国ともに発見されている土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓、木槨墓、石棺墓な

どを中心として日韓の関連性を研究する。

この研究目的と方法、地域限定によって、同時期の築造であり、その为勢力は首長勢

力と推測されるが、日本ではその事例が小数である支石墓は日韓相互分析には合わない

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ため論外にする。また九州地域を中心に限定的に発見される甕棺を使用した墳丘墓も論

議から除外する。同理由で、全羅单道地域だけから発見される甕棺墳丘墓も除外する。

第2節 首長墓研究のあゆみ

日韓から発見される国家形成期の首長墓について調査した結果、以下の通りである。

日本の首長墓の種類は、墳丘墓・方形台状墓・周溝墓・方形周溝墓・四隅突出型墳丘墓・

方形貼石墓などがある。まず、日本では 1964 年、東京都八王子市宇津木向原遺跡から

弥生時代の方形周溝墓が発見されて以来、ほぼ全国各地から古い時期の墳墓が発見され

ている。方形周溝墓は弥生時代前期中頃に登場した‘木棺埋葬地の周囲を一辺 6~25m

ほどの方形に区画するように幅 1~2m の溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓’で

ある。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落の近くに営まれることが多く、

複数の被葬者が見られることから家族の墓だったと考えられる。

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弥生時代前期に現れた方形周溝墓に続き、弥生時代中期には周囲の土を掘り出し、山

や山稜、尾根の上に築造された方形台状墓が登場し、中部地方・関東地方へ伝播される。

この時点で見られる首長墓も弥生時代前期と同様、‘集団墓・共同墓地’であった。し

かし、埋葬品の有無や赤色顔料の有無などで被葬者の序列が生まれている。そして、弥

生時代後期から古墳時代にかけてそれまでの規模を上回る大型の首長墓が登場し、特定

の人物または特定の集団の墓域が区画されている。岡山県倉敷市楯築弥生墳丘墓や島根

県出雲市西谷 3 号墓などがその体表例として挙げられる。それと共に山陰から北陸地方

に見られる四隅突出型墳丘墓や、吉備の特殊器台形土器や特殊壺形土器を持つ墳丘墓、

四国の割石小口積の長大な横穴式石室や前方後円形墳丘墓などが各地に造成される。す

なわち、日本海沿岸地域や瀬戸内海沿岸地域、近畿や関東·東海地域別に特徴をもつ墳

丘墓が造成され、それぞれ四隅突出型墳丘墓、前方後円形墳丘墓、前方後方形墳丘墓と

呼ばれている。このような墓の形は弥生時代、首長連合体だった当時から始まり、同じ

意識や理解関係を持っている連合体内の連帯を確認、あるいは表すためのシンボル的な

形で造られ、その後、規模が拡大し古墳へと変化していくと考えられる。

(10)

次に韓半島では北朝鮮の場合、事例がほとんど報告されてないため、古朝鮮あるいは

高句麗の遺跡については未だ詳しくは分からない状態である。ただ中国の東北地方や韓

国にある遺跡から見ると、高句麗では四角形の積石塚が造られたと考えられる。それに

対し、韓国の真ん中に存在し、韓半島を東西に両分する白頭ベッドウ山脈の西側から、さまざま

な首長墓が発見されている。この地域は韓国の原三国時代、馬韓と言う国の領域にあた

り、馬韓はいわゆる小国連合体であったと推定されている。

2000 年代になり韓半島、特に西部では馬韓に対する関心が高まり、馬韓の領域から

発見される墓制に対する研究も活発にされている。例えば、墳丘墓、周溝墓、周溝土壙

墓、大型甕棺古墳などに関する研究である。だが、これらの墳墓に対する研究は各用語

と定義が研究者によって様々であり、各墓が違う墓制として認識し特定地域を代表する

墓として限定させる傾向がある。

そんな中、京畿・忠清・湖单ホ ナ ム地方では近年、周溝墓をはじめ様々な墳墓形態が確認さ

れ馬韓の墳墓を新しい観点から研究しようとする努力が進んでいる。既にこの地域から

確認された墳丘墓らは、卖純に平面的な概念に基づき、台状部の周りに周溝を囲んだ

(11)

‘周溝墓’として認識されていた。しかし、近年では周溝墓を周溝と墳丘を造成し、墓

としての象徴と領域を表示し、墳丘に埋葬施設を安置したが、後代の削平あるいは破壊

により現在には残っていない遺構として見られ、広義的な範囲の‘墳丘墓’に含めよう

とする新しい認識が含まれている。すなわち、墳丘墓を‘先墳丘、後埋葬’の築造方式

に基づき墳丘内に 1 基あるいは複数基の埋蔵施設を安置し、墳丘の周りを周溝で囲む遺

構で、京畿・忠清・湖单地方から現れる馬韓の特徴的な墓制として理解し、さらに全单

の榮ヨン山江サンガン流域から確認される大型甕棺古墳は時期と地域が変わりながら、为埋葬施設が

変形された同一の墓制として連結しようとする研究が進んでいる(崔完奎 1997・2000・

2002:崔秉鉉 2002:林永珍 2002a・2002b:李澤求 2006・2008)。また‘先埋葬 後墳丘’の

築造方式を元にし、墳丘内に1基あるいは 2 基の埋葬施設を安置し、墳丘の周りを周溝

で囲む遺構で、京畿・忠清地方から現れる周溝土壙墓も築造方式は墳丘墓と異なるが、

馬韓の首長墓の一つとして理解され研究が進んでいる。それは、周溝土壙墓は現在、ほ

とんど盛土が残っていない墓だが、これらは元々共通的に地上に低い墳丘を盛土した首

長墓段階の墓であろうという認識が基底にあるからである。それとともに京畿・忠单・全

北地域から発見された低い墳丘の墓制らは、榮山江流域に至り高大な墳丘をもつ古墳

(12)

(あるいは高塚)に移行されるという墳丘墓の段階的な発展過程まで念頭に持っていると

考えられる。

このような墳丘墓の新しい認識は、既存資料の限界を越え馬韓首長墓の特徴と発展過

程を新しく照らし出せる契機になっている。この点で、墳丘墓遺跡が従来の榮山江流域

だけではなく、馬韓の故地である韓半島西部の海岸沿いを中心にその調査例が増えてい

るため、より広い視野で墳丘墓の地域的な様子を調べてみる必要性が提起されている。

馬韓の東北内陸地方から発見される周溝土壙墓(木槨墳丘墓)、西部の平野地域から発

見され、为埋葬施設が木棺墓(あるいは大型甕棺墓)である木棺墳丘墓(あるいは甕棺墳

丘墓)は、時代の変化と高句麗から来た百済勢力の单下に従い変化を経て、最後には百

済の横穴式石室墳に変わる。一方、その時期に白頭山脈の東側と单側には辰韓∙弁韓と

いう国があったが、特徴的なことに墳丘は確認されておらず、木槨墳(墓)だけが確認さ

れている。そのため、 辰韓∙弁韓では墳丘を造る文化や習慣がなく、共通的に墳丘をも

たない木槨墳が首長墓として造られたと考えられている。墳丘がないため、辰韓と弁韓

の事を除くと、韓半島の西部から発見される馬韓の墓が、韓半島から確認できる墳丘を

(13)

もつ首長墓のすべての種類である。いずれにしても、全てが同じ時期、地域別の特徴を

もって造られた馬韓の首長墓であるのは明らかである。韓国墳丘墓の築造時期について

は地域的に尐し異なるが、およそ紀元前 2 世紀頃から 5 世紀末頃まで各地で造られたと

考えられている。それは韓国の時期区分によれば、青銅器時代末期から三国時代にあた

る時期で、韓半島に鉄器が流入され各地に広がった時期である。このような認識を基に

した馬韓首長墓の研究は、韓半島西部地域で生活した馬韓勢力の発展と変化の文化像を

復元するのに重要な役割を果たすであろうと期待する。

(14)

第2章 研究史の検討

第1節 首長墓の研究

一般的に古墳という意味は、歴史的あるいは考古学的資料になる古い墓で、古代人ら

の埋葬儀礼が物質的な証拠として残っている遺構を示す(金元龍 1974:国立文化財研究

所 2001)。

国家形成期である弥生時代の墳墓は、地域や時代により極めて多様な姿をみせる。ゆ

えに弥生時代の墳墓の名称については、 研究者の問題意識や地域ごとのこれまでの研

究状況の違いにより、様々な呼称があり、必ずしも統一されているわけではない。また、

それらの弥生墳墓の種類についても集団墓、特定集団墓、家族墓、有力個人墓、首長墓、

王墓など様々な位置付けがある。

弥生時代の墳墓を見渡した場合、まず埋葬施設を広く囲う施設をもった区画墓と特別

な区画施設をもたない墓の二種類に大別できる。区画墓は溝や墳丘を造ることで遺体を

(15)

納める埋葬施設よりもはるかに大きな墓域を形作っている。区画のない墓には支石墓や

石蓋土壙墓、石棺墓、木棺墓、甕棺墓があり、しばしば列状に並ぶ墓群を形成する。そ

れらは時に溝などで集落域と区分され、墓域を形成しているが、当然これは区画のない

墓に分類される。本論文では区画を持っている首長墓の研究が中心であるので、区画の

無い墓の研究史については省略する。

区画墓は区画のない墓よりやや遅れて、おもに瀬戸内・近畿以東に現れる。瀬戸内以

東の初期の区画墓では基本的に木棺墓か土壙墓である。どちらもその初現段階から一定

の地域差をもって登場している。初期区画墓には、周囲を溝で囲う周溝墓と周囲を一段

低く削って相対的に高い区画を造り出すいわゆる台状墓、土を盛り上げて墳丘を築く盛

土の墓がある。これに山陰を中心に分布する方形区画の「貼石」墓や四隅突出型墳丘な

どを加えた分類が、弥生時代の区画をもつ墓の形態分類として、地域色と重ねて論じら

れてきた。区画墓の研究では、この分類に加えて「古墳」との質の違いを示す概念とし

て用いられた「墳丘墓」が区画墓分類の指標として扱われる。

(16)

日本では方形周溝墓の出現後、弥生時代後期に墳丘墓が現れることに注目し、墳丘墓

に対する概念を成立させた。まず、近藤義郎氏は弥生時代の方形周溝墓を外的な形態と

ともに歴史的脈絡と社会関係まで念頭に置き、古墳出現前段階の墳丘をもつ墓として認

識し、古墳時代の前方後円墳と区別した上で墳丘墓という用語を使用し、1977 年に多

尐の盛土という点では多くの場合同じであるが、周溝墓が为に溝によって、台状墓が为

に周囲の削り出しによって墓域を画そうとしているのに対し、岡山県倉敷市楯築遺跡な

どを为に盛土によって墓域を画し形成しようとするものとして、これを暫定的に墳丘墓

の概念で把握しようとした(近藤 1977)。一方、都出比呂志氏は方形周溝墓にも盛土が

あることや周溝墓と台状墓に質の差がないことをもとに、近藤氏が提起した‘おもに盛

土による’墳丘墓の用語では方形周溝墓や台状墓との差を明確にした用法にならないと

して、これらを総称して墳丘墓と呼んだ。その後、何らかの墳丘をもつすべての墓を墳

丘墓と呼び、墳丘の高低によって二大別 7 分類した呼称案をまとめている。さらに東ア

ジアの墳丘墓を検討し、弥生時代の方形低墳丘墓と韓半島の西部から発見される墳丘墓

(17)

が密接な関係にあること、中国の燕下都にある小型化した墳丘墓が、日韓墳丘墓に何ら

かの影響を与えた可能性があることを指摘した(都出 1979・2005・1999)。

和田晴吾氏は弥生墳丘墓を墳形と墳丘の構築法、立地、墓壙の構築方法などから再整

理して、弥生墳丘墓の基本形式を方形周溝墓、円形周溝墓、方形台状墓、円形台状墓に

分け、さらに台状墓の地域的変容として方形貼石台状墓(おもに島根県域の貼石区画墓)

と四隅突出型方形台状墓(おもに京都府北部の貼石区画墓)、四隅突出型方形周溝墓に分

類している(和田 2003)。和田氏の分類は各地の区画墓の特徴をそれぞれ系統づけたも

ので、円形周溝墓や貼石区画墓、四隅突出型墳丘墓の地域色がよく表されている。

島根県では 1969 年 順庵原 1 号墓が発見され、当時は山間部にある変異形態の古墳と

認識されていた。しかし、1970 年に松江市来美、安来市仲山寺において同様な墳墓が

相次いで発見され、出雲地域の平野部にも同類型の墳墓が存在することが明確になり、

さらに 1970 年代後半までには富山県や広島県の山間部でも確認された。分布域は概ね

中国地方山間部、山陰地域、北陸地域に及ぶことが分かった。発見当時は古墳時代の初

現期ものと理解され、‘四隅突出型方墳’と呼ばれていたが、その後の土器研究により、

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弥生時代中期後半から後期末にかけて造営された墳墓であると認識されるようになった。

順庵原1号墓が発見されて以来、四隅突出型墳丘墓と弥生墓制の研究が着々と進み(岩

橋 2007)1、四隅突出型墳丘墓の出現とその背景、系譜、展開、特性などについて様々

な研究が行われている(島根県古代文化センター2007)。

これに対し藤田憲司氏は、四隅突出型墳丘墓の成立系譜を弥生前期まで遡り、山陰弥

生社会の個性を表示し、方形貼石墓から四隅突出型墳丘墓の成立過程の展開および終焉

の経緯を、列島の墳墓史の中に的確に位置付けた。そして、出雲地域周辺の墳丘墓の在

り方をその様相からみて、次のような 4~6 の小地域に分けた。それは、大型の四隅突

出型墳丘墓が集まる西谷墳丘墓群を中心とする出雲平野部、神原神社古墳や松本 1・3 号

前方後円墳がある斐伊川中流域、出雲と安来の中間地域にある意宇平野部、宍道湖单岸

および島根半島側中海側の一部、宍道湖北岸の島根半島中部域、安養寺・仲仙寺・宮山

の四隅突出型墳丘墓群や大成古墳・造山 1・3 号墳が連続的に築かれた安来平野部、その

他、出雲ではないが安来平野の隣接地としての伯耆西部地域と分類し、山陰墳丘墓の分

布と発展を示そうと試みた(藤田 2010)。

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白石太一郎氏は、日本で弥生時代から古墳時代に移行する最も大きい転換点は、長軸

の長さが 200mを超える前方後円墳という巨大な封墳をもつ古墳の出現であると指摘し

た。この巨大な前方後円墳が築造される 3 世紀中半を起点とし、日本では邪馬台国が中

央集権体制をもった絶対王権(倭国)を成立したと推定、そして首長連合体社会だった弥

生時代が終わり、古墳時代が始まると述べている(白石 1999)。

韓国の場合、近年、発掘調査と研究結果が増え、古墳と高塚を分離してみないといけ

ないという見解とともに、古墳の発達過程により墓・墳・塚などで区分しようとする動き

がある(李熙濬 1997:崔秉鉉 2002)。また、地上に封墳や墳丘のような施設がある墓を墳

丘墓ということもある(林永珍 2002a・b)。韓国で墳丘墓という用語を使い始めたのは姜

仁求氏である(姜仁求 1984)。姜氏は鴨綠江流域の積石塚、漢江流域と榮山江流域の土

築墓、新羅積石封土墳など三国時代の墳墓を通称して使用したが、これは当時日本で使

用されていた用語を借用したものである。1990 年代になり湖单西海岸から周溝墓が大

規模で確認され、この成果に基づき崔秉鉉氏は、墳丘と埋葬施設の築造方法により周溝

土壙墓は封土墳、周溝墓は墳丘墓として区分しようとする意見を出した。これは韓半島

(20)

西部から確認される周溝墓が、もともと埋葬施設を安置する前に低墳丘を造成した墓で

ある可能性が高く、この周溝墓が発展・单下しながら徐々に大型甕棺古墳に変化したと

いう認識から起因する。それとは異なり、忠清内陸を中心として分布する周溝土壙墓は

木棺の墓壙を深く掘った点から墳丘が埋葬施設より後に造られた可能性が高い。

1997 年、高麗大学博物館が発掘した寛倉里遺跡をきっかけに周溝墓に対する様々な

研究結果が現れ始めた。まず、発掘者である尹世英氏と李弘鍾氏は、遺跡から確認され

た数多い遺構資料を基に分析を実施した。周溝墓は、周溝と周辺の土を利用し周溝内側

に墳丘を造ったが、以後長年に渡り墳丘はほとんど流失され、墳丘に造られた埋葬施設

が残っていないか、床面の一部だけが残存していると見ていた。そして、墓の造成時、

祭祀用で使われた周溝内の出土土器を基に時期や集団の性格を推論しなければならない

ことを指摘し、周溝の平面形態や陸橋部の位置を基に分類し、その形態を A~X 形の 7

個の類型に細分し分析した(尹世英・李弘鍾 1997)。

崔完奎氏は、全羅道を中心に分布する同種の周溝墓の形状を 4 種類に分類し、溝の途

切れ部を解放部と呼んだ。寛倉里遺跡よりもやや時期が下る堂丁里遺跡では周溝の形状

(21)

が卖純化し、さらに益山市永登洞遺跡では解放部が 1 カ所になることを指摘し、解放部

の減尐傾向に時期差と地域差を見ようとしている(崔完奎 1999)。崔完奎氏が、日本で

区画内への道と考えている溝の途切れ部の機能を否定していることについて容易に同意

はできないが、開放部と呼ぶことについては周溝の途切れ、すなわち陸橋の意味を鮮明

にする表現といえるかもしれない。大きな流れでいえば、開放部の数の減尐は溝で画さ

れた聖域内へ入る道を限定し、同時に聖域内に立ち入ることのできる人々を限定するこ

とになる。

崔完奎氏の全羅道地域の周溝の分類を参考にしながら、寛倉里遺跡の周溝墓の特徴と

変遷を見ると、1つの溝を共有する周溝墓がなく、埋葬は1つの区画に対して基本的に

1つであること、L字形に曲がる溝ないし、直線の溝の組み合わせにより、隅の開放部

が複数造られているものが多く、四隅開放型が古いこと、一辺から三辺にしか溝が認め

られないものが非常に多くあり、元々溝が全周していなかった‘周溝墓’が当初からあ

った可能性がある。崔完奎分類の‘一隅一辺開放型’、‘二隅一辺開放型’がこれに含

まれるとおおまかに推測した。

(22)

私は、崔完奎氏と異なった分類を試み、周溝墓を大きく方形系(Ⅰ~Ⅲ)、梯形系(Ⅳ)、

円形系(Ⅴ)に分け、これを時間軸の型式差とし、さらに溝の途切れ方(開放部の位置)に

よって 3~5 のタイプに分類して地域差を示した(李澤求 2006・2008)。この分類では、

より古いⅠ段階の方形区画の基本形は周溝の一辺に開放部をもち、その変化形は開放部

の対辺側の一隅または二隅に溝の途切れがあるもの、Ⅱ段階は方形区画の周溝が全周し、

その変化形は二隅または四隅に周溝の途切れ部をもつ。Ⅲ段階の方形区画は一辺の溝が

なくなり、Ⅳ段階はⅢ段階の方形区画が梯形に変わり、Ⅴ段階に円形の区画が現れる。

これらの周溝墓は 1~2 世紀以降の墳丘墓で基本的には何らかの墳丘を伴っていたと考

えている。

寛倉里遺跡の方形周溝墓群は、時期幅をもつとされている割には伴出遺物が尐なく、

個々の時期認定が容易ではないが、KM402 と KM437 から中期および後期無文土器が出土

していることから、列島の周溝墓の系譜を考える手掛かりにされていた。しかし、崔完

奎氏は寛倉里遺跡を含め全羅道に分布する同種の周溝墓の全体相から、この種の周溝墓

(23)

で紀元前まで遡るものはないという。ただし、崔寛奎氏は、霊光郡郡洞遺跡は紀元前 1

世紀に遡ると述べた(崔完奎 2003)。郡洞遺跡では先述した A 区 18 号周溝墓のほかに、

原三国時代以降の周溝墓群が発見されている。それらの周溝墓は、私が梯形と呼ぶ、や

や丸みを帯びた平面形で、A 区 18 号周溝墓の平面形と明らかに異なっている。

一方、林永珍氏は全单地域の墳丘墓が、紀元前後頃から 6 世紀初まで盛行したと考え、

墳丘の平面形態と为埋葬施設の関係により方形木棺墳丘墓、梯形木槨墳丘墓、(長)方台

形甕棺墳丘墓、円形石室墳丘墓に発展したと述べている(林永珍 2002a)。このような墳

丘墓の変化過程を基に、全单地域政治体の発展様相を提示し、変化の背景に百済との関

係があることを示した。特に、この地域の馬韓を 6 世紀中葉頃、石室墳をもった百済が

介入する前まで独自的に成長した勢力と考えた。これとは異なり、忠清内陸地域の周溝

土壙墓は、立地、埋葬施設、出土遺物などが墳丘墓とは異なるもので、西北朝鮮系統の

土壙木棺墓に周溝が加えられた墓の可能性があり、系統上の区分をしようとした。さら

に墳丘墓の周溝形態が様々な形として細分されることに疑問を持ち、周溝形態は後代に

墳丘を含め周溝の上部が削平され色々な形で発見されている可能性が高いことを指摘し

(24)

た。このような为張は本研究の観点と通じるもので、現在までの墳丘墓調査研究結果を

見ると、墳丘墓が丘陵頂上部の平坦面ではなく斜面部に立地している場合、多様な形態

の周溝の形が見え、これは斜面部の遺構が後代の耕作と撹乱などにより変化された形の

可能性が高いと考える。

成正鏞氏は錦江クムガン流域の 3〜5 世紀代の墓制を研究し、概ね周溝墓系統、土壙墓、石槨

墓、石室墳に区分し、この墓制の変遷様相を総Ⅴ期に分けた(成正鏞 1998)。Ⅰ期(2〜3

世紀中後葉)は为な墓制を周溝土壙墓と見て、これは馬韓固有の墓制でこの期間が馬韓

の独自性が維持される時期と設定した。Ⅱ期(3 世紀後葉〜4 世紀前葉)は、土壙墓移行

期で周溝土壙墓が徐々に縮小されるのに代わり、土壙墓が増加し百済系遺物が現れると

为張した。しかし、円底短頸壺と硬質無紋様深鉢土器の副葬伝統が継続され、規模が大

きい土壙墓が現れ、地域的な変化と成長も一緒に成るものと推定した。Ⅲ期(4 世紀中

葉〜5 世紀中葉)には土壙墓と石槨墓と石室墳など首長層の墓制が急激に変わることに

注目し、以降の時期は各々横穴式石室墳の定着期(Ⅳ期)と拡散期Ⅴ期に分離してみた。

(25)

一方、錦江流域の墓制から発見された鉄器類を分析した李单奎氏は、この地域の 3 世

紀の武器が環頭大刀を为として直基形鉄矛と無莖式鉄鏃が为流で 4、5 世紀には環頭大

刀と無環頭大刀が増加し、鋒部が退化された燕尾形矛がみえ、甲冑などが現れる様子が

伽耶地域と類似するものと考え、これらが同時期のものだったと考えている(李单奎

1998)。

このように墳丘墓に対する研究は、墳丘の形態と埋葬施設を連携し、新しい視点で国

家形成期の墳墓の発展過程に接近しようとし、それに加え首長墓の発展過程を卖純に小

国連盟体だけでなく、後の絶対王権(日本は倭国、韓国は百済)との関係の中で分析しよ

うとしている。しかし、このような研究の進展のためには国、地域、時期によって異な

る首長墓の多様性に対する説明が必要であり、墳丘墓の連続的な変化過程を理解するに

は、当時の築造集団の意図などを見逃すことはできない。さらに、築造集団の性格を把

握するには首長墓の外形的な属性だけでなく、埋葬施設内部の出土遺物に対する分析も

必ず併せてしなければならない。

(26)

第2節 研究対象と研究方法

日本列島と韓半島は、昔から地理的・歴史的に密接な関係をもち、ともに発展の道を

歩んできた。特に、国家形成期に造られたと思われる方形の築造企画をもち、周囲を溝

で囲んだ墳丘墓(一部は除く)は、国と地域が異なることに関係せず、両国から発見され

ている。日韓における首長墓としての墳丘墓に対する本研究は、墳丘墓の築造方法と台

状部の平面形態、为埋葬施設及び追加埋葬施設の形式、副葬遺物の様子などによる首長

墓の時期的・地域的・国家的な変化相を比較研究し、それに基づき、日韓における首長勢

力の文化相の一面を復元することを目的とする。そのために、国別に地域圏を設定し、

日本では九州・中国・近畿地方、韓国では京畿・忠清・全北地方から確認される首長墓遺

跡を調査し、それを分析しようとする。これを地図に表すと<図 1>のようになる。

このような地域的な限定は、韓国で周溝を持っている首長墓(墳丘墓)が为に韓半島の

西部地域から発見されていることと、日本では 西日本海側が韓半島に比較的近く、古

代からの交流が頻繁にされたと考えられるためである。これらの首長墓を研究し、日韓

(27)

から発見される墳丘墓の関連性を確認する。それには、もちろん、両国から国家形成期

に造られたと思われている支石墓も首長墓の範疇に入れ、分析しないといけないが、私

が为に分析しようとしている墳丘墓とは台状部(あるいは盛土部)の築造方式が大きく異

なるし、日本では分布地域が限定され事例も尐ないため、分析対象からは除外した。さ

らに、九州と全单地方で確認されている甕棺墳丘墓も首長墓の研究として必要であるが、

他の地域からは発見されておらず地域色も強く、日韓両国の国家形成期における全体的

な交流関係を語るには尐々困難である。したがって、甕棺墳丘墓は首長墓の範疇には含

めるが、地域的な特性による埋葬施設の型式差があるとみて、分析対象からは除外する

が、比較検討の為の資料として後に若干の考察を入れた。

本論文の 3 章では、本研究で取り扱おうとしている日韓国家形成期に造られた首長墓

に対する定義をまず行った。首長墓には支石墓を除外し、まず日本と韓国ともに発見さ

れ、その平面形が方形である盛土系墳墓(埋葬施設が削平され周溝だけ残っている墳墓

を含めた、墳丘墓・方形台状墓・周溝墓・方形周溝墓・周溝土壙墓など)と盛土部の側面を

貼石で張り巡らせて造った貼石系墳墓(四隅突出型墳丘墓・方形貼石墓)を定義の対象に

(28)

した。ただ、韓国と日本の墳丘墓を比較・研究するのが目的であるため、日本では墳丘

墓の範囲に入るが、韓国ではその例が確認できない宮山墳丘墓(前方後円形)や楯築墳丘

墓(双方中円形)、ホケノ山古墳(纏向型前方後円墳)、高部 30 号墳(前方後方形)は分析

対象から外しておく。さらに、墳丘墓には円形の墳丘をもつ墓もあるが、その例も多く

なく、分析の基準になる台状部の規模を測る場合、どこを基準にするかによって値が大

幅に変わるため、ここでは除外する。すなわち、日韓ともに発生、発展、変化、衰退の

過程が比較分析できる方形をもつ墳丘墓だけに焦点を当てる。埋葬施設に関しても同様

の理由で、日韓ともに墳丘内部から確認される石棺墓、土壙墓(石蓋土壙墓)、木棺墓な

どを定義し、分類する。

4 章と 5 章では 3 章で行なった首長墓の定義を基準にし、国家形成期の日韓首長墓は

どのような共通点と類似点、そして相違点をもっているのか、形態を分類し分析を行う。

そのため、墳丘の立地と形態から見られる特徴に基づき、台状部の平面形態、規模(長

辺、短辺などの分類・分析など)、埋葬施設の規模、追加埋葬施設の有無など、構造的な

側面を中心に分析を行う。加えて、墳丘の断面を観察し、地山の上に残されている盛土

(29)

部を分類、分析し、そこから見える日韓首長墓の築造企画と技術、過程などについて追

究する。特に日本の場合、断面から見える築造過程に関する既存の研究成果が多いが、

それに基づくと、西日本と東日本の墳丘墓の築造過程が異なるのが注目されている(和

田 1989)。私はそれに着目し、韓国から発見される墳丘墓とほぼ同じ築造企画を持って

いる、西日本の墳丘墓を中心に分析を実施する。そして、埋葬施設および周溝などから

確認された遺物を分析し、時期あるいは地域により、それぞれどのような特徴があるの

かを確認する。立地は海抜高度の測定ではなく、各遺跡別に周辺の地形を考慮し、平地

(微低地)と丘陵の陵線上(あるいは頂上部平坦面)、斜面部のどこに立地するのかを調べ

てみた。平面形態は、周溝を基準に分類する既存の研究方法論から抜け出し、現在完全

に残ってはいないが、築造当時には重要な築造基準になったと思われる台状部を基準に

分類を行った。そのため、報告者が周溝を基準に円形として分類、報告した事例も、台

状部が方形を示している場合、方形として研究対象に入れ、研究を行った。このような

形態上の分類に準じて、埋葬施設の有無と規模を調べ、墳丘内の为埋葬施設と追加埋葬

施設の規模の分析を行い、日韓の墳丘墓から、どのような差が見られるのかを確認する。

(30)

遺物の分析では、国家形成において重要な要素の一つである鉄器を为な研究比較対象と

して分析、検討したい。

ただし、本研究は日韓墳丘墓の類似性や系統性などを探るのが为な目的であるため、

全ての要因を細く分類するよりは、大別して両国の類似性・系統性などを検討する。本

論ではこうした墳丘墓がもつ特性から、日韓における古代国家形成以前、首長連合期に

造られた墳墓のあり方や変遷、地域性をもつ特殊墳丘墓の出現と変化などを明らかにし、

その背景にある地域、あるいは集団(部族)社会から国家への発展には、何があったのか

について考察する。

(31)

第3章 墳丘墓の定義と分布

第1節 墳丘墓の定義

日本と韓国に存在する国家形成期の首長墓には、大きく盛土系と貼石系に大別できる

2。盛土系には、区画墓としての墳丘墓、周溝墓(方形と円形)、方形台状墓、周溝土壙

墓などが、貼石系には四隅突出型墳丘墓と方形貼石墓がある。ここでは、日韓から発見

され名付けられた様々な首長墓について確認し、それに従って墳丘墓の定義を行い、本

研究での分析基準を定める。

方形周溝墓という名称を初めて使用したのは大場磐雄氏である。大場氏は、方形周溝

墓を決定づける条件として、まず溝による隔絶性、中央方台部の墓壙らしき痕跡(埋葬

痕跡)、墓壙内またはその近辺に副葬品らしき特殊遺物(土器も含む)を伴うこと、方台

部、溝内部などに穿孔、破砕といった特殊な所作を施した土器が出土すること、集落と

はある程度至近な距離内にあることの 5 箇条をあげた(大場 1965)。調査報告例が増加

(32)

した現在では、実情に見合わないものもあるが、大筋においては認められる。しかし、

当時は方形周溝墓が低いマウンドを伴うとの認識は強くなかった。ほぼその頃、西日本

や北陸の弥生時代後期の墓に丘陵地形を削り出したものが認められ、方形台状墓という

名称が登場し、方形周溝墓と古墳との橋渡しをする墓制と考える人もあった。

ところが、1971 年に大阪府東大阪市の瓜生堂遺跡から弥生中期の方形周溝墓が、洪

水堆積の下から発見され、その形が方形台状墓の墳丘とそれ程変わらない事が判明した。

また、1982 年には京都府峰山町の七尾遺跡から、弥生前期末に遡る方形台状墓が丘陵

上から発見され、それまで通常考えられていた周溝墓から台状墓への進化に対して疑問

が生まれた。一方、近藤義郎氏は、多尐の盛土という点で広義上同じであるが、周溝墓

は为に溝によって、台状墓は为に周囲の削り出しによって墓域を画そうとしているのに

対し、岡山県倉敷市楯築遺跡などを、为に盛土によって墓域を画し形成しようとしたも

のとして暫定的に墳丘墓の概念で把握しようとした(近藤 1977)。これに対し、都出比

呂志氏は、方形周溝墓にも盛土があることや周溝墓と台状墓に質の差がないことをもと

に、近藤氏が提起した‘おもに盛土による’墳丘墓の用語では、方形周溝墓や台状墓と

(33)

の差を明確にした用法にならないとして、これらを総称して墳丘墓と呼んだ。その後、

なんらかの墳丘をもつ全ての墓を墳丘墓と呼び、墳丘の高低によって二大別 7 分類した

呼称案をまとめている。また、大阪府大阪市加美遺跡の長辺 26m、溝底からの高さ約 3

mを有する沖積低地に立地した弥生中期の方形周溝墓が、方形台状墓と方形周溝墓に差

がないことを示すが、岡山県楯築墓など弥生後期の首長墓は、規模の点において周溝墓、

台状墓を凌駕するのみならず、列石、貼石、中心埋葬の卓越性の点、共同墓地から独立

する点などからみて、むしろ後の古墳との共同性を多くもつ。また、古墳時代の円形や

方形の周溝墓は、墳頂部と周溝内を含めた埋葬数が 1~2 体に限定される点で、弥生時

代のものと区別されるとはいえ、形態、規模、築造技術では質的な差はないと述べた

(都出 1986)。 春成秀爾氏も方形周溝墓一般を墳丘墓と呼称した(春成 1985)。私もこの

意見に同意し、この基準に沿って日本の首長墓、つまり墳丘墓を研究する。

韓国の場合、未だに用語の統一がされておらず、埋葬施設の方向、墳丘及び周溝の形

態などから見える様々な特性、あるいは系統により周溝墓、周溝土壙墓、墳丘墓など研

究者により異なった用語が使用されている。墳墓の周囲に周溝が設置された墓制に対す

(34)

る関心は、清堂洞遺跡の調査が行われてからである。報告者は墓の平面形態により、墓

壙の周りに周溝が設置されたものと設置されていないものに分けたが、明確な説明はな

い。報告者は周溝が設置された墓に対し、周溝をもつ墳墓という用語を使用した(徐亓

善・咸舜燮 1992:韓永熙・ 咸舜燮 1993)。

咸舜燮氏は、卖純に土壙だけを土壙墓と呼び、为埋葬施設の構造が把握できる場合、

その構造により分類を試み、周溝が設置された墳墓を周溝墓と呼称し、埋葬为体部によ

り周溝木棺墓と周溝木槨墓に分け、この遺構が三国(原三国)時代に造られたものと把握

した(咸舜燮・金在弘 1993)。

尹世英氏・李弘鍾氏は、周溝から掘り出した土と周辺の土を中央部に集め墳丘を造っ

た後、その中心からまた土壙を掘り为埋葬施設を造ったものや、先に为埋葬施設を地上

あるいは半地上に造り、それを中心に墳丘を盛り上げたものを周溝墓と呼称し、埋葬施

設には土壙をはじめ木棺、あるいは石棺などが安置されると考えた。しかし、これを埋

葬施設の類似性だけで周溝と関連付けると、地下化した土壙墓や土壙木棺墓、または石

棺墓も周溝墓の範疇に含まないといけないことを指摘し、4辺に方形の周溝を造成し、

(35)

地上あるいは半地上形の埋葬施設を造営した遺構だけを周溝墓と考えた(尹世英・李弘鍾

1997)。

崔完奎氏は、寛倉里・堂丁里・永登洞遺跡では埋葬施設が確認されない遺構が発見され

ていることを指摘し、周溝土壙墓という用語を使用することに問題があるのを指摘した。

したがって、清堂洞・松節同・下鳳里などの墓制は、既存の土壙墓と区分する意味で周溝

土壙墓と呼び、寛倉里・堂丁里・永登洞などの墓制は、平面形態から長方形、円形、隅丸

方形などが見えるので包括的に周溝墓と呼称した。また、西海岸一帯に分布する周溝墓

は、榮山江流域の墳丘墓に移行するため、周溝墓を墳丘墓の祖形と認識した。さらに、

忠清内陸の周溝土壙墓内の出土遺物が、中国の秦国と深い関連性があるのを提起し、墳

丘墓とは系統的な差があると考えた(崔完奎 1996)。

林永珍氏は、概ね崔氏の分類と類似するが、清堂洞・松節同などの遺跡の周溝は、土

壙墓へ部分的に付加された形式だと考え、霊光郡洞 18 号墓とこれらを周溝土壙墓であ

ると見た。以降、全单地域の墳丘墓を検討し、用語について概念整理を実施し、周溝墓

を墳丘墓の範疇に入れ、埋葬施設とともに細分した(林永珍 2002b)。

(36)

崔盛洛氏は、崔完奎氏が区分した形態の周溝墓系列の墓制が、西海岸に沿って全单の

羅州地域まで分布し、榮山江流域では周溝の形態に梯形が現れることを指摘した。これ

らの埋葬施設は土壙墓と甕棺墓が確認されているが、甕棺の場合、全体の遺構から見る

と時期的に最も遅く、3 世紀末から 4 世紀初頭に該当するため、忠清内陸の墓と同じく

周溝土壙墓と呼ぶのが妥当だとみた(崔盛洛 2000)。

私は、統一されていない馬韓首長墓の墓制について、遺跡の分布と立地の差、墳丘の

形態と築造方法、墳丘内の埋葬施設の形態や形式、副葬遺物などを検討し、西海岸に沿

って分布する首長墓は、墳丘墓と呼び、忠清内陸に为に分布する首長墓は、包括的には

墳丘墓であるが、西海岸の墓制とは築造方法が異なるため、それを区分させる意味で既

存の用語をそのまま借用し、周溝土壙墓とした(李澤求 2008)。韓国の研究者らは概ね

この分類案に同意し、馬韓小国内の墓制を分け、研究・分析などを行っている(李ボラム

2009:金承玉 2011:呉昇烈 2011)。

最後に、韓国では見られない貼石系の首長墓についての定義である。まず、四隅突出

型墳丘墓は、1968 年島根県瑞穂町で発見された順庵原 1 号墓からはじまる。以降、そ

(37)

の特異な形状から、特にその起源論を中心に議論されてきた(渡辺 2000)。‘四隅突出

型墳丘墓’という表現は、近年多用されるようになってきたが、実はその名称すら定ま

ったものではなく、他にも‘四隅突出型方墳’、‘四隅突出墓’などの表現がある。

定義について、川原和人氏は、墳丘の四隅が突出すること、墳丘に石列が存在するこ

と、墳丘斜面に石を貼ること、突出部を除く墳形が長方形を呈すること、古墳や墳墓が

集中する場所に所在することとした(川原 1978)。また、前期古墳として理解する前島

巳基氏は、‘丘陵を方形台状に造成し、その四隅の対角線状に細長く張り出した突出部

を伴う特異な形状をなす方墳で墳丘の斜面に、貼石列その裾を縁どる列石をぐるりとめ

ぐらす一種独特の要素を備えた墓制’としている(前島 1985)。桑原義隆氏は、一部に

拡大解釈もあるとした上で、形態的に四隅が突出すること、列石が存在いることの2点

を必要条件とした(桑原 1986)。

若干定義から離れるが、同年、渡辺貞幸氏は四隅突出型墳丘墓の展開に対する整理を

行い、この墳丘墓を築造する集団のつながりを‘山陰地方連合体’と呼び、地域ごとの

部族ないし部族連合が互いの利益を超えてルーズに結びついた関係であり、同祖同族と

(38)

いう共通した認識が根底にあったとして、意義付けている(渡辺 1986)。さらに東森市

良氏は、四隅が意識され段階的に発達し、地山削り出しで四隅を含めて整形し、いくら

かの盛り土をもち、見事な貼石を斜面に巡らして列石をもつと定義している (東森

1989)。

石列については各氏の判断が異なる可能性があるものの、‘四隅が突出する墳丘墓で

あり、貼石・石列を有する’という形態・施設の定義については、概ね一致しているもの

と考えられる。この定義に照らすと、その系譜上の位置付けは別として、備後山間部で

四隅突出型と認定されている宗祐池西 1・2 号墓・陣山墳墓群・殿山 38 号墓などは、妹尾

周三氏が‘これらは四隅が突出しているとはいえないが(妹尾 1995)’と記すように、

再度検証の必要があると考えられる。

形態の起源については、概して 3 つの説が展開されてきた。‘墓道’起源説を最初に

記したのは小野山節氏で、方形周溝墓の隅部の発達と理解し(小野山 1975)、春成秀爾

氏・都出比呂志氏・近藤義郎氏ほか各氏も同様の視点で理解している。渡辺貞幸氏は、

‘墓道’を起源としながらも、方形周溝墓とは結び付けず、長方形台状の貼石墳丘の稜

(39)

線上に石を並べ、そこを墳丘外と埋葬施設である墳頂部とを結ぶ道としたのが起源とし

て説明した(渡辺 1992)。さらに、西谷 3 号墓などの調査結果から、墳丘の巨大化に伴

い、墓道の傾斜を緩くするため突出が拡大するものと理解した。

妹尾氏は、備北の弥生中期の塩町式土器の段階に、この周辺で築かれていた貼石をも

つ墳丘墓の中から隅を意識するものが出現するとし、その事例としては宗佑池西 1・2

号墓・殿山 38 号墓などがある。これらは四隅が突出しているとはいえないが、各辺に

貼石を持ち、隅の部分だけは対角方向に並べている。これは隅の部分をどのように処理

し保護するかということであり、このように石を並べたことが、四隅突出型墳丘墓の契

機となったものと考えていると述べている(妹尾 1994)。

また、加藤光臣氏は、隅の保護目的にしては小さく、むしろ墓域区画の起点、あるい

は石を置いた隅が発展したのではないかと想定している(加藤 1996)。吉川正氏もこの

考え方に近いが、‘中国山地型’と‘山陰型’とし、中国山地型の起源について、墳丘

を 2 段に築造すること、その際に隅を強く意識し、ここに基準となる石を置き、これを

起点として列石を立て並べたことから始まったと述べている。やがて四隅突出型墳丘墓

(40)

は、隅の基準となる石と貼石の間の平坦面に石を置いたこと、さらにはこの隅の置石が

特殊な石組となり隅に突出することから、この地域で成立すると説明した。

四隅突出型墳丘墓が山陰地方(石見・出雲・伯耆・因幡)で広く展開する弥生時代後期

前葉以前には、方形貼石墓が丹後・丹波地方を加えたほぼ同様の範囲、特に日本海沿岸

部に認められている。この方形貼石墓は、方形を呈する墳丘に貼石や縁石を施した墓制

である。

方形貼石墓は、弥生時代中期中葉~後期前葉を中心に中国地方山間部から丹後地方以

西の本州日本海沿岸で認識されている。方形貼石墓は‘方形貼(り)石墓’、‘貼(り)石

墳丘墓’、‘方形貼石台状墓’、‘方形貼石周溝墓’、‘方形貼石区画墓’などの名称

がある。中国地方山間部を除く日本海沿岸部で確認されており、中期後葉~後期前葉の

方形貼石墓が確認されている。日本海沿岸部における方形貼石墓は、規模や周溝の有無、

立地、存続期間などのあり方が地域によって若干異なる。弥生時代中期に限れば、大き

くは石見・出雲・伯耆・因幡などの山陰西部と丹後・但馬の山陰東部の地域性が存在する。

(41)

貼石墓は周溝の有無に関わらず、方形の墳丘に貼石・縁石などの配石構造が施されてい

る点が目立った特徴である。

現在のところ、方形貼石墓に関しては、次の分類案が提示されている。野島永氏は、

配石をもつ墳墓は台状墓や周溝墓として捉えられる点を指摘し、配石をもつ属性を重要

視した場合には、これらの名称を‘方形貼り石墓’とした。しかし、四隅突出型墳丘墓

とその墳丘規模に明確な差が無いことを挙げ、貼り石をもつ墳丘墓(台状墓・周溝墓)を

‘貼り石方形墳丘墓’と呼称する立場をとっている(野島 1991)。和田晴吾氏は、弥生

墳丘墓の基本形を周溝墓と台状墓に分類し、方形貼石墓を台状墓の地域的変容と捉えて

‘方形貼石台状墓’の名称を与えている。また、方形貼石墓の中には周溝を伴うものも

あるため、これを周溝墓と台状墓の複合として‘方形貼石周溝墓’の名称を与えている。

方形貼石墓の大半は弥生時代後期後半以降、大幅に減尐する傾向にあり、それと代わり

登場するかの様に丹後・但波地方を除く北陸地方までの日本海沿岸部では、四隅突出型

墳丘墓という墓制が盛行する。方形貼石墓と初現期の四隅突出型墳丘墓の違いは、隅部

(42)

の微妙なあり方にある。この微妙なあり方は、隅部の稜線上を意識した貼石の配置にあ

る。

まず、方形貼石墓は、隅部の稜線上を強調する墳丘斜面とは異なる配石の仕方が指摘

されている。すなわち、‘路石状石列’のように整然と貼石が列をなしてはいないもの

の、志高 2 号墓や奈具岡 1 号墓のように貼石の長辺を墳丘に対して、直行させるように

施したり、洞ノ原 2 号墓のように墳丘斜面の貼石よりやや大きめの石を使用したりする

場合、中野美保 2 号墓のように 2 条並列の貼石を列状に並べたりするなど、何らかの意

識が配石構造に反映されている。仁木聡氏は、これを四隅突出型墳丘墓の‘路石状石列’

とは区別して、陵線上の‘配石列’と表現している(仁木 2007)。また、方形貼石墓か

ら四隅突出型墓への変化・発展という系譜を辿る上で、方形貼石墓の隅部陵線上に認め

られる配石列は、四隅突出型墳丘墓の路石状石列と同じく墳丘の対角線状に並んでいる

という点で、重要な要素だと考えている。そして、墳丘に造り出し状の張り出し部(埋

葬施設)が付加されるものがある。方形貼石墓では波来浜墳墓群、四隅突出型墳丘墓で

は陣山墳墓群が例として挙げられる。これらの方形貼石墓のほとんどが、共伴する土器

(43)

の様相により中期中葉から末葉に否定されることからも、後期前葉以降に盛行する四隅

突出型墳丘墓とは区別できる。

以上、各研究者の研究成果をまとめると日韓ともに国家形成期の首長墓は、墳丘墓と

名付けるには異見がないと考えられる。すなわち、この墳丘墓は方形の築造企画をもち

盛土部(あるいは削り出しによる台状部)を造り、盛土部に埋葬施設を施し、徐々に巨大

化する墓である。ただ、築造方式に関して日本には盛土系と貼石系があり、韓国では先

墳丘・後埋葬方式の墳丘墓と先埋葬・後墳丘方式の周溝土壙墓がある。しかし、これは国

あるいは地域の個性として生まれたもので、地域差はなく各地域別の首長墓として存在

したことに違いはない。

次節では、このような墳丘墓の定義と分類を土台に各国、地域別に存在する墳丘墓の

分布を確認し、どのような様子と特徴をもっているのかを調べてみる。

第2節 遺跡の分布

(44)

1.遺跡の分布

墳丘墓遺跡の分布様相は、墳丘墓築造集団の生活領域と関連した重要な要素の一つで

ある。墳丘墓遺跡は、水(川、海)と密接な関連をもち、小数例を除くとほとんどが丘陵

に位置する特徴をもっている。墳丘墓が築造される時期は、水田稲作が大陸から伝播さ

れた時期で、平野地帯は为に当時の人々の生活基盤を築く場として使用され、丘陵や山

は住居地と墳丘墓を造る場所として使用されたと考える。現在、大半の墳丘墓遺跡は海

の沿岸部、または川沿いの丘陵(一部は微低地)から発見、調査されている。このような

海との関連性と古代の海の重要性から考えてみると、墳丘墓の築造集団はある程度の海

上権力をもち、海を通じて交易・征服行為などをした勢力だと推定される。

次に、地域別分布および群集現象について調べてみる。群集に対する基準や観点は研

究者によってそれぞれ違った見解をもっており、現在まで調査された遺跡が限られてい

るため、それを論じるには若干の無理がある。ただ、概ね同じ地域、同じ範囲にも関わ

らず、地域によって密集度の差が存在するため、この論議も必要であろう。このような

(45)

墳丘墓の分布に関連して、日本は大きく 3 つの地域に韓国は 4 つの地域に分けてみた<

表1>。

この遺跡による分類は、次に論ずる立地と関連し特徴的な現象が確認される。韓国の

場合、京畿地域の遺跡は、丘陵の頂上部と斜面部に存在し、存続期間が長かったものと

見られ遺構間の密集があまり確認されず、ある程度の距離をもち分布している。それに

対し、全北地域の遺跡の多くは丘陵の斜面部に立地し、密集分布する特徴がある。忠清

地域の遺跡は頂上部と斜面部のものが共存し、同じ遺跡内では一定な距離をもち分布す

る様子が見られる。密集現象に関しては、墳丘墓遺跡の大半が重複・混在せず、おのお

の一定な独立領域内に分布する特徴をもっているが、一部時期的に遅い段階の遺跡では

周溝の重複あるいは共有現象が確認されている。また、一部遺跡からは墳丘の拡張現象

も確認されるが、これについては次章で詳しく調べてみる。

2.地域別現況

(46)

日本<図 2>

1)九州地域

佐賀県は、北西部は日本海(玄海灘)に面し、单東部は有明海と二つの海に接している。

九州地方北部を東から西に流れ、有明海に注ぐ筑後川沿いには広大な佐賀平野が広がる。

玄海灘から佐賀平野西部までは丘陵地帯である。この丘陵地帯を挟んで北東部と单西部

に 1000m級の山地がある。

佐賀県域で 25 カ所の遺跡、132 基の墳丘墓を調査した<図 3、表 2>。遺構は弥生時

代中期~古墳時代にかけて造られている。規模は長さ 1.7m(上九郎遺跡 9 区 SR9017)~

39m(吉野ヶ里 ST1001)までの大きさをもっている。貼石系墳丘墓は 1 基を確認した(姫

方遺跡 2 号)。

埋葬施設は約 31 基を確認し、その中、土壙 6 基、石蓋土壙 2 基、木棺 3 基、石棺 14

基を調査した。

(47)

福岡県は、北部は日本海(響灘、玄海灘)、東部は瀬戸内海、单部は有明海と三つの海

に接している。県の中心には、筑紫山地(福岡県、佐賀県、長崎県にまたがる山地)が連

なり、筑後川、福岡県单部を流れる矢部川、同県中央の内陸部を流れる遠賀川流域には

平野が広がっている。

福岡県域で 52 カ所の遺跡、168 基の墳丘墓を調査した<図 4、表 3>。遺構は弥生時

代中期~古墳時代中期にかけて造られている。規模は長さ 2.5m(下唐原西方遺跡 1 号)

~26.9m(吉武遺跡 1 号)までの大きさをもっている。貼石系墳丘墓は 1 基を確認した

(山崎八ヶ尻遺跡 1 号)。

埋葬施設は約 150 基を確認し、その中、土壙 10 基、石蓋土壙 10 基、木棺 30 基、石

棺 39 基、木槨 2 基を調査した。

長崎県は、東に佐賀県と隣接する他は周囲を海に囲まれた地域である。対馬・壱岐・亓

島列島などの島々を所有する。

(48)

長崎県域で 2 か所の遺跡、3 基の墳丘墓を調査した<表 4>。事例が尐ないため、図

は省略した。遺構は弥生時代後期に造られている。規模は長さ 6.4m(竹辺 CD-ST1)~

19.3m(経隇遺跡 1 号)までの大きさをもっている。その中、埋葬施設は、木棺 1 基を調

査した。

熊本県は、九州本島の中央部に位置し福岡県・大分県・宮崎県・鹿児島県と接する。西

部の熊本平野は有明海に接し、東部は九州山地の山々がそびえる。

熊本県域で 10 ケ所の遺跡、38 基の墳丘墓を調査した<図 5、表 5>。遺構は古墳時

代初頭~5 世紀前半にかけて造られている。規模は長さ 5.8(用七遺跡 1 号)~20.0m(上

松山遺跡 2 号)までの大きさをもっている。埋葬施設は約 22 基を確認し、その中、土壙

7 基、木棺 9 基 石棺 5 基を調査した。

大分県は、山地の閉める割合が大きく、西部と单部に山地が広がっている。北東部に

面する豊予海峡を挟んで愛媛県(四国地方)と接している。

(49)

大分県域で 10 ケ所の遺跡、32 基の墳丘墓を調査した<図 6、表 6>。遺構は弥生終

末期~5 世紀前半にかけて造られている。規模は長さ 3.8m(中安遺跡 SX002)~15.5m

(楠野 4 号)までの大きさをもっている。埋葬施設は約 26 基を確認し、その中、土壙 6

基、石蓋土壙 2 基、木棺 3 基、石棺 15 基を調査した。

宮崎県は、東单部の広い範囲が太平洋に面しており、黒潮の影響もあり温暖な気候に

恵まれた土地である。県内中央部には单北 60km に広がる宮崎平野があり、その北西部

には九州山地がある。

宮崎県域で 8 カ所の遺跡、21 基の墳丘墓を調査した<図 7、表 7>。遺構は弥生時代

中期~後期にかけて造られている。規模は長さ 2.5m(今房遺跡 2-ST01)~11.1m(東平

下遺跡 2 号)までの大きさをもっている。その中、埋葬施設は木棺 3 基を調査した。

2)中国地域

参照

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