過疎地域の形成
一 三河山間地域を事例として一
中 藤
康 俊
は じ め に 1 過疎と過疎地域
皿 人口の動態 1 概 観
2 三河山間地域の人口動態 皿 農林業の衰退と農家経済 1 農林業の衰退 2 農家経済 IV 工業の発展と労働力 1 概 観
2 トヨタ自動車の発展と関連企業 3 労働力の需給関係
V 過疎問題の発生とその深刻化 1 概 観
2 足助町の場合 む す び は じ め に
1960年代における日本経済の高度成長は重化学工業を基軸とした資本と労働 力の集中・集積の過程であり,その結果,東京・大阪・名古屋などの大都市で は過度に人口が集中し,過密にともなう都市問題が発生したが,その反面東 北,山陰,四国,九州などの農山村では,人口減少にともなう過疎問題が生じ た。今日の農山村地域にみられる「過疎」は,都市における「過密」と表裏一 体の関係としてあらわれている。
昭和45年4月に公布された「過疎地域対策緊急措置法」 (以下「過疎法」と いう)にもとずいて,過疎地域として指定をうけた市町村は,その後の昭和45
2
年の国勢調査の結果によつて,46年4月に追加指定されたものをも含めて,総 数1,047市町村あり,全国市町村3,231の32.4%に達する。これらの過疎地 域が大阪と神奈川両府県を除く全ての都道府県にひろく分布していることから
も過疎問題は,もはや一部の限られた地域の問題ではなく,全国的な問題であ るといえようo
過疎法の対象となる市町村の最も多いのは,鹿児島の74.0%であり以下大 分=72.4%,島根=66.1%,高知=66.0%とつづく。愛知県では,昭和45年
5月に西加茂郡小原村,東加茂郡足助町・下山村・旭町,北設楽郡設楽町・東 栄町・津具村・稲武町,南設楽郡作手村の9町村がまず過疎地域と指定され,
同46年南設楽郡鳳来町がこれに追加指定された。愛知県の過疎地域は全市町村 の11.4%にあたり,入口減少率も前述した鹿児島や大分・島根などとくらべ ると小さい。しかし,これによって過疎問題が深刻でないとはいえないであろ う。何らかの基準を設けない限り法の適用ができないことはいうまでもない が,この法律は後述するようにいくつか不備な点があり,そのため過疎地域の 指定も必ずしも過疎の実態を反映したものとはなっていない。筆者の乏しい実 態調査のかぎりであるが,現実には過疎問題はもっと普遍的に広がりつつあ
り,しかも深刻な社会問題となっている。このような情勢を反映してか,今日 では過疎問題をとりあげた書物や論文も多い。しかしそれらの多くは過疎法が いうところの過疎地域における諸問題をとりあげたものでq),実態調査にもと ずくとはいえ全く問題がないわけではない。大貫俊氏が「人口面・経済面・社 会面の『過疎』現象の深化が相互にどう関連し地域により,階層によりその現 象形態にどのようなちがいがあるかを把握することが必要ではないかと考え る(2)」というように,さまざまな過疎現象の相互関連を明らかにしなければな らない。さらに過疎が後述するように,経済の高度成長過程にともなう国民経 済の再編成の一環であるかぎり,過疎問題の生ずる過程が明らかにされなけれ ばならない。経済地理学の課題が経済地域の生成・発展・消滅の法則性を明ら かにするものであるとすれば③,当然われわれがとりあつかう過疎問題もそれ が特定の地域に生ずるメカニズムが主題となる。本稿は過疎地域形成のメカニ
(1)一例をあげると,吉沢四郎3過疎問題,商学論纂(中央大学商学研究会)第14巻 第5号,昭和48年
(2)大貫 俊3「過疎」考,法政大学地理学集報1,昭和47年,P3
(3)川島哲郎t経済地域について一経済地理学の方法論的反省との関連において 一経済地理学年報,第2巻,昭和30年,P9
ズムを解明せんとするものであり,対象地域として三河山間地域をえらんだ。
その理由は先ず第①にこの地域が経済の高度成長期以降人口減少が著しいこと である。第②に過疎地域が日本経済の高度成長過程で形成されたものとすれ ば,重化学工業の発展との関連でとらえなければならないが,この地域に隣接 する愛知県豊田市にはトヨタ自動車工業KKとその下請関連企業が数多く集中
しており,高度経済成長の一一翼を担ったからである。なお本稿の資料の多くは 筆者が昭和42年に山村振興調査会の調査団の一メンバーとして参加した際収集
したものであり,その後あらたに数回の現地調査を行った結果である。
1 過疎と過疎地域
「過疎」という用語がはじめて公式に用いられるようになったのは,多くの 人々が指摘するように昭和41年経済審議会地域部会の中間報告においてであ る。そこでは「人口減少における問題を過密問題に対する意味で過疎問題と呼 び,過疎を人口減少のために一一定の生活水準を維持することが困難になった状 態,たとえば防災・医療・教育・活動などの地域社会の基礎的条件の維持が困 難になること,あるいは外部経済の利益を享受することが極度に少なくなるこ とと理解すれば,人口が減少し年令構成の老令化が急速に進み,従来の生活パ ターンが破壊されつつある地域では『過疎問題」が生じつつあると思われる」
と述べている。人口減少ということだけでは過疎ではなく「地域社会の基礎的 条件の維持が困難になる」ことと規定したのは評価してよかろう。安達生恒氏 は「農村人口と農家戸数の流出が大量かつ急激に発生した結果,その地域に残 った人びとの生産と社会生活の諸機能が麻痺し,地域の生産の縮少とむら社会 自体の崩壊がおこること。そしてまた住民意識の面では資本からの疎外という 農民のもつ一般的疎外の上に普通農村からの疎外がもう一つつけ加わる形でい わば二重の疎外にさいなまれるという意識の疎外状況がおき,これが生産や生 活機能の麻痺と相互作用的にからみ合いながら,地域の生産縮少とむら社会の 崩壊に向って作用していく悪循環過程である④」と定義している。彼は住民意 識の面を重視しているが,同じく内藤正中氏もまた「急激な人口減少を結果す る環境条件のなかで,農山村でくらす住民の意識が消沈衰退し,地域の基礎単 位である部落を中軸にする地域社会において,生産と生活の基礎条件が崩壊す ることにより,地域住民の生産と生活の継続が困難になった状態を過疎と定義
④ 安達生恒3過疎とは何か一その概念,問題構造,農業の変化について一,農 村開発(島根大学農学部農山村地域開発研究調査室),第1号,昭和43年,P81
4
するものである⑥。」とのべている。二人が強調する住民意識の疎外状況や消 沈・衰退現象も農山村における生産と生活条件の劣悪さが基本的要因であるこ とはいうまでもないであろう。さらに,森井淳吉氏は「これまで農民の生産と 生活の条件であった集落社会において,それ自体の存続が困難となるほどまで にその構成員(個人や家族)が激減し,生産・生活の集団的単位としての集落 そのものが解体に陥る状況を『過疎』現象ということができる⑥」とされてい る。以上いくつかの過疎についての概念を記述したが,これらに共通するこど は急激な人口減少により,生産と生活の基礎的単位としての部落の機能が失わ れていくことといえよう。今井幸彦氏もいうように人口減少=過疎ではない 7 かぎり,このような概念規定は適切といえる。渡辺兵力氏は,過疎を人口論的 過疎と地域論的過疎に区分しておりゆ,米山俊直氏は渡辺兵力氏がいうところ の地域論的過疎を社会的過疎と経済的過疎の二つに分けている⑨。だが,過疎 を人口減少のみでとらえることはできないし,また過疎が社会経済現象である かぎり,はたしてどこまで地域論的過疎を二分することができるであろうか。
島泰彦氏が「過疎といわれる現象は,ただ高度成長にひっぱられて人口が特 定地域から大量に流出することではなくて,ある地域の産業が崩壊することに
よってそこに相対的過剰人口が生まれ,それが流出する現象であるq°)」と指摘 するように,人口減少を高蓄積のメカニズムの必然の結果として生じた相対的 過剰人口の流出ととらえねばならない。だとすれば,やはり人口減少の背景に ある生産と生活の崩壊過程が明らかにされないかぎり,過疎の本質は明らかに ならなし・であろう。このように過疎を資本の高蓄積の結果生じた相対的過疎人 口が流出し,生産と生活の基礎的単位である部落の機能を維持できなくなった 状態と考えるならば,そういった状況が発生し深化しつつある地域を過疎地域
と呼ぷことができよう。
(5)内藤正中3過疎と新産都,今井書店,昭和43年,P49
(6)森井淳吉;過疎と農民,梅川勉ほか「総合農政下の農業と農民」,汐文社,昭和 46年,所収,P96
(7)今井幸彦3日本の過疎地帯,岩波新書,昭和43年,P9
(8)渡辺兵力;過疎概念と過疎問題,山村振興調査会,昭和43年,P25
(9)米山俊直;過疎社会,NHKブックス,昭和44年, P20
⑩ 島泰彦3「過疎」と「過密」の意味するもの,住民と自治,昭和44年1月号,
P18 同氏はまた「戦後民主主義の検証」(筑摩書房,昭和45年)P90で「過密,過疎 というのは蓄高積によって生み出された過剰人口の堆積と流動とのさまざまな状 態,労働力不足と過剰とのさまざまな組み合せ,貧困のさまざまな形態(住宅の貧 困,多就業家族,出稼ぎなど)をその中にふくんでいる」と述べている。
さて,つぎに問題になるのは過疎地域の設定であるがそれには過疎をいかに 認識し,いかなる指標にもとずいて,過疎地域とするかである。一般に過疎地 域として利用されているものに,前述した過疎地域対策緊急措置法にもとつく 過疎地域がある。この法は人口減少率(昭和35年から40年までの5年間の減少 率10%以上)と財政力指数(昭和41〜43年度の3年度平均0.4未満)の二つを 指標として過疎地域をその区域とする市町村と規定しているqD。ところが,こ の法にもとずく過疎地域はつぎのような問題があり必ずしも妥当であるとはい えない。先ず第①に何らかの基準を設けないかぎり,法の適用ができないこと はいうまでもないが,過疎を人減少率と財政力指数のみで把握できるかどう か。第②にはこの法律では人口減少率と財政力指数の二つの条件を満さないか ぎり,過疎地域とはならない。しかし実際にはダム建設されたような村では人 口減少率が大きいにもかかわらず,ダムからの固定資産税が多いため財政力指 数が大となり過疎地域に指定されていないことがある。第⑧に過疎は現在の市 町村を単位としてではなく,生産と生活の基礎的単位としての集落レベルでと
らえないかぎり不十分ではないだろうか。市町村レベルでは人口減少率は小さ いとしても,集落レベルでみると減少率の大きい場合がある。第④に1年のう ち数日しか帰郷しないような長期にわたる出稼者が人口統計の上では在住人口 とみなされるということである。出稼ぎ地域の過疎問題も深刻なのではないだ ろうか。したがって,本稿では先ず人口減少地域を明らかにし,そこにはその 背景としての産業の崩壊が進行しつつあることを実証する。しかる後にはたし て過疎がいかに進行しつつあるかを検討することとする。いかなる形で人口が 流出していかに過疎化が進行するかは,地域の生産・生活の諸条件と労働力市 場のあり方,つまり両者の相互規定(力関係)によって決まるはずである。
五 人ロの動態 1 概 観
愛知県の人[]は昭和35年の国勢調査では4,206,313人であったが,10年後の 45年には5,386,163人となった。昭和35年以前の人口増加率は戦争の影響によ
る一時的なものを除いて,国勢調査の度毎に毎回11%前後の伸び率であった が,昭和35〜40年,同40〜45年の増加率はそれぞれ14.1%,12.2%となり従 前の伸び率を上回っており,同35〜45年の10年間の伸び率は28.0%となる。こ ⑪ 自治省3過疎白書(昭和48年版),昭和48年,P155
6
のように愛知県では昭和35年以降,人口増加が著しいのは,軽工業から重工業 への転換に伴う工業化・都市化の進展によるところが大である。しかし,人口 の分布とか増減といった現象は地域的にみると必ずしも一様ではない。表1を 表1 地域別人口の変化
総人口
(千人)
増加人口
(千人)
人口増加率
(%)
昭和35年
40年 45年
昭和35〜40年
40〜45年
昭和35〜40年
40〜45年
名古屋大都市地域
馴尾剰知多1西三河己
1,697 1,935 2,036
Ω01
?∨O
りムー▲944
1,137 1,383
315
360426
193 45 246 666∧∪−占
∠440∨678
94
151
3,602 4,172 4,736
570 564域
河 間
∋山地
河
市
域東都地 三
0ウ自 4に﹂
1 ;1:1已:1
1
1▲りム
40
(0﹂4489 527
561
115
10089
38 △ 15 △ 11 3415.817.81△13.0
13.56.61△11.2 |合計
4,206 4,799 5,386
つ
0
7.
90055
14.1 12.2
(資料)国勢調査
図1 愛知県の人口増減率 (昭和35〜45年)
みると,昭和45年の愛知県の入口5,386,163人のうち87.9%までが名古屋市 とその周辺地域を含む名古屋大都市地域に集中しており,東三河都市地域は 10.4%,三河山間地域が総人口に占める割合はわずかに1.6%にしかすぎな い。そのうえ,名古屋大都市地域や東三河都市地域では昭和35年以降人口が増 加しているにもかかわらず,三河山間地域は昭和35〜40年に13・0%,昭和40
〜45年に11.2%減少している。図1をみると昭和35〜45年の10年間に人口減 少した市町村は県全体の28.4%に当たる25市町村である《12)が,このうち人口 減少の著しい町村(10%以上)は渥美郡赤羽根町を除いては何れも山村地帯で 東加茂郡と北設楽郡の全域とその周辺の一部町村を加えた13力町村である。
これに藤岡村を加えた14力町村の地域を本稿では三河山間地域と呼ぶことにす
る。
2 三河山間地域の人口動態
三河山間地域の人口は昭和35年には114,679人であったが,それ以降年々減 少した結果,45年には89,208人となった。表2によって町村別の人口増減率 をみると,藤岡村と豊根村が昭和40〜45年に人口増加がみられるのみで他は全 て減少である。藤岡村では,豊田市の人口増加に伴う宅地化が進んでいるこ とから,また,豊根村では新豊根ダムの建設による労働者の増加によって人口 増加となったもので,特殊な事例といえよう。一方,人口減少率の高いのは下 山村・富山村で,いずれもダム建設に伴う水没家屋の移住,ダム建設労務者の 完成後の流出などによるもので,これも前述の人口増加と共通して山村地帯の ダム建設地における事例の一つといえよう。一般的にこの地域の人口減少率は 昭和35〜40年には地域差は明瞭ではないが,同40〜45年になると,同じく三河 山間地域にあっても自然的・経済的条件のめぐまれない,設楽町・東栄町・稲 武町および津具村などが大きい。したがって昭和35年〜45年までの10年間の入
口減少率はこうした地域において大きいこととなる。
こうした人口減少は地域住民の量的減少ばかりでなく青壮年令者の流出によ り生産年令人口の著しい変化をもたらしつつある。昭和35〜40年の年令別人口
⑫小池秀夫氏は愛知県の人口減少地域をつぎの3つのパターンに分けている。
囚 過疎的地域一山村的性格が強く(林野率80%以上),人口が急減している (5年間で10%以上)町村からなる。
{β)過密的地域一大都市(名古屋市)の中心部における人口減少区からなる。
{C}微減地域一県の縁辺部にあり,人口減少率が低い市町村からなる。
(愛知県における人口減少地域,愛知学院大学商学研究,第19巻第2号,昭和47年,
PP 6〜7)
表2 人口と世帯数の推移
藤岡村 小原村
旭 町
足助町 下山村 額田町 作手村 設楽町
町 町
村栄武貝東稲津 村村町根山来
豊富鳳
計
人
口
人
口
昭和35年「4・年145年
増減率(%)
35−4⇒4・−45年135−45年
世 帯 数
5,467 6,507 7,452 15,704 6,402 10,278 5,449 11,378
5,214 5,511 6,482 13,621 4,867 9,397 4,710 9,892
5,460 4,974 5,753 12,171
4,264、8,577 4,138
世 帯 数
35年14・年145年
10,843 5,571 3,597
9,519 4,918 3,043
△ 4.7
△ 15.4
△ 13.1
△ 13.3
△ 25.0
△ 8.6
△ 14.6
8,1941△14.17,706 4,263 2,536
△ 12.3
△ 11.8
△ 15.5
4.7△ 0.2 ・△ 23.6△ 9.7
△11.21△22.8
△10.61△22.5
△ 12.4 △ 32・4
△8.7{ムユ6.6
△12.11△24.1
△12.21△28.。
△19.。1△2肌。
△13.31△23.5
△ 16.7△ 29.5
1,165 1,367 1,530 3,171 1,290 2,012 1,050 2,403 2,179 1,134
7411,155 1,282 1,465 3,018 1,073 1,964
9812,324 2,094 1,080
6911,239 1,261 1,400 2,812
増減率(%)
35−4・年14・−45年135−45年
3,956
654
21,420 114,679
3,302
520
19,421 100,417
3,516
349
17,307 89,208
会;1:1△
△9.4{△
△
叫一6.5△ 11・2
32.gl△46.7
10.9△ 19・3
△ 22.3
819 1344,168 23,163
771 108
4,109 22,115
△ 0.9 7.2
△ 6.3△ 1.7
△4.31△4.5
△4.gl△6.9 △
1,010
1,925
△ △
954
△
2,134
△
1,915 1,0351△
6421△
△
757
△ 94 △
3,977 21,155
△
16.9
△
2.4
△6.6
△3.3
△
△
△
OO◎844ρ0
19.51△ 5.9△
1.5△
5.9 2.0 2.8 8.2 8.6 4.2 7.1 1.9 12.3 3.3
△ 4.6△ 4.4
1
6.3
△ 7.8
△ 8.5
△ 11.4
△ 21.8
△ 4.4
△ 9.2
△ 11.2
△ 12.2
△ 8.8
△ 13.4
△ 7.8
△ 29.9
△ 4.6
△ 8.7
(資料)国勢調査
◎o
動態をみると20〜29才の減少は愛 知県では20.2%であるのに対し,
この地域では35.0%の減少である。
このことは,出生率の低下をまねい ており,0〜4才層は同時期に28.9
%も減少した。昭和40年における年 令別の人口構成は図2のとおりであ
る。このように人口減少は単に量的 な問題ばかりでなく,質的にも青壮 年人口と幼令人口の減少をもたらし つつあり,その結果,老令人口が相 対的に多くなりつつある。このよう
〜
89 85
現 79 74
ト ト
←
8 7 7
69
弱 図 49
防㌫乎牛
44 39 誕
〜
〜 〜
40 語 30
←29
2
〜
︐〜
20 15 10
〜 〜
に人口減少は著しいにもかかわら図2 年令別の人口構成(昭和40年国勢調査)
ず,世帯数の減少率は下山村と富山村を除けばあまり大きくない。というのは,
通勤兼業が可能なため,挙家離村が少ないからである。下山村と富山村の世帯 数減少率が大きいのは前述したようにダム建設という特殊な事情によるもので
ある。
以上,三河山間地域の人口減少について述べたが,その背景にはこの地域の 農林業の衰退とそれに伴う農家経済の貧困化が存在するのではなかろうか。こ の点をつぎに検討しよう。
皿 農林業の衰退と農家経済 1 農林業の衰退
三河山間地域は林野面積の比率が80%をこえ高原上の盆地をのぞいては平 地に乏しいし,土壌はせき薄である。また農家の経営規模は零細でいわゆる
「五反百姓」ということばがよく当てはまるような農家が多い。このような農 業立地の自然的要因の他に経済的要因の劣悪性が加わって,この地域の農業粗 生産額が県全体に占める割合は昭和35年にわずかに4.4%にしかすぎない。表
3からこの地域の粗生産額構成をみると,米が48%をしめ,野菜7%,果樹1
%,養蚕10%,畜産16%となっており,一方愛知県の構成は米36%,野菜16%,
果樹3%,養蚕2%,畜産23%であって,山間地域では米への依存度が高いこ とがわかる。表4をみると水田がわずかに0.2加しかない富山村,畜産のさか んな東栄町・鳳来町を除くと,他の町村は全て米への依存度は40%をこえる。
10
表3 三河山間地域の農業粗生産額
農業粗生産額
耕
養畜
米
野 果種 菜物蚕産
昭和35年 塁麟割書ぱ諭轟
ガ
2,463 1,684 1,202 170
27
253 400
生産農業所得ωo万円)
農家1戸当り農業所得 (10C万円)当︶当︶
り り
a四人胴脇 討
地︵従︵
耕 専
生
産
性28
84100%(b4
11 88710CU
100万円
59,111 43,675 21,826 9,763 1,974 1,258 13,809
41
159
100%
73
16 3 2 23
昭和45年 塁鷲割農債諭轟
ユ ガ
5,513 3,403 2,133
654106
3781,688 2,821
205 54 218100%
631 「⊥只︾19匂60
3
エ オ
156,732 98,050 34,484 42,753 6,706
957
57,259 80,271
463
65 408
100%
63 22 27
4
037
(資料)農業所得統計
表4 農業の概況(昭和40年)
藤岡村 小原村 旭 町 足助町 下山村 額田町 作手村 設楽町 東栄町 稲武町 津貝村 豊根村 富山村 鳳来町
家経地積
1当営面 農り耕
a
46 55 62 6279
61 8556
41 5151
5226
42兼業 化率
農業生産額構成比 総数 耕種計
総数1(内)米
%㊨035000000メ253 6335511708905066678786554645 %OOOOO乃O﹄O泊OOOO
oo oo oo oo oo oo oo oo oo oo oo oo oo oo
−占−占司⊥−占ームー▲−占−占−占−▲−占−▲−▲−占
%5&30遍2503β27﹂46464465396068799999999899999
養蚕 畜産
土地
生産性
円
千5554田39鵠57鵠46514754353157%﹂03&4768β追﹄03β3釦 30
18 19 13
2216
2737 32
41361850514108984012
%3﹂﹄﹂&&22﹂β3渇0229
637労働
生産性
(資料)1965年中間農業センサス 第13次愛知農林水産統計年報
水稲の反収は,昭和38年を例にとると,県内の都市近郊や平地農村が363kgで あるのに対して,三河山間地域は340kgである。この地域で最も高いのは津具 村と稲武町の367kg,最低は農根村の287 kgである。このように山間地域にあ
っても平地農村以上の反収をあげているところもあるが,そういった町村はご く僅かで一般には反収の低いことが指摘できる。水稲反収の低さは,いうまで もなく一つには耕地基盤の劣悪性にあるが,いま一つは稲作技術水準の低さか らきている。いまそれを,10a当りの稲作労働時間に代表させてみると,昭和 43年に都市近郊では125.3時間であるのに対し山村は159.5時間で34,2時間 も多いq3 。これを作業別にみると,春の耕転・整地・田植作業と秋の稲刈り・
稲干し作業及び夏季の除草作業などに多くの時間を要しているが,これらの作 業はいわば稲作の基幹的作業であって,これらの多くの時間を要していること は技術的な遅れと立地条件の劣悪さを反映す 表5 水稲の生産費(10a当り)
るものである。しかし,稲作の投下労働時間 昭和43年
は年械少しており,その多くは,耕繍・ 1都市近部1山村
防除機および田植機の普及や除草剤の使用な どによる省力化によるものであるが,労働力,
特に若年労働力の流出が強ければ,自ずと省 力化が必要となり,機械化を進めなくてはな らない。田植機が愛知県でも平坦部よりも山 間地域に多く導入されていることはこのこと を示すものであるq4)。しかしながら,機械化 は生産費の増大をもたらせており,表5のよ うに山間地域における10a当りの生産費は都 市近郊に比べて,2,849円高い。これは農具 費が都市近郊より3,429円高いことが大きな 要素となっている。そのため,機械購入代支 払に必要な現金収入を求めて域外への流出を 強める結果となり,労働力の流出→機械化に よる省力化→現金収入の獲得→労働力の流出 という悪循環をくり返すこととなっている。
種 苗 費 肥 料 費
諸材料費水防建農畜労 利除物具力働 費費費費費費
賃料料金
副産物価額 第1次生産費
資本利子
地 代 第2次生産費
円
525
4,328 1,368 1,097
820 go6
5,424
22,818 1,167 2,558 35,895 1,566 5,008 42,469
円
389
5,750 1,566
192 944 834
8,853
805
20,426
422
3,014 37,167 2,078 6,073 45,318
(資舅!6次愛膿林水産統計年報
⑬ 第16次愛知県農林水産統計年報による。
04 1970年農林業センサスによると,三河山間地域には田植機が213台導入されてお り,これは農家64戸に1台の割合にあたる。
12
兼業化が広く各家庭に浸透し,農外所得への依存度を強め農業所得の地位は 相対的に低下したとしても,稲作収入の地位は依然として高い。しかし昭和 45年にはじまった米の生産調整が与えた影響は大きく,水田の耕作放棄や転作 が多くみられるようになった。その結果,この地域の水田面積は昭和35年約 5,556んαであったが,昭和40年=5,376んα,昭和45年=5,038肋と減少した。米 が全体の農業粗生産額全体にしめる割合は高いが,農家の多くが飯米確保の域 をたいして出るものではなく,現金収入源として他に求めねばならなかった。
表6に示した愛知県の薪炭生産量の推移によれば,木炭は昭和44年には35年 表6 薪炭生産量の推移
(愛知県)
1木司薪
昭和35年 40年 41年 42年 43年 44年
t
6,030 2,293 1,918 1,423 1,146
771m8
98,778 22,056 26,059 21,619 18,359 16,418
(資料)
愛知県 林業の動き (昭和46年)
表7 木炭の生産量
(昭和38年)
の約托oに,薪も同期間に同じく托o余りに減 少した。昭和38年の木炭生産量を表7でみると 本稿で対象としている三河山間地域が愛知県の ほとんど全量に近い生産をあげているから,上 述した傾向はこの地域のものとみてよかろう。
表8 養蚕の変化
巨産⇒割合
額田郡
西加茂郡 東加茂郡 北設楽郡 南設楽郡
新城市 豊川市 宝飯郡 豊橋市 渥美郡
計
㎏1 55,221 98,970
1,623.327 1,146,942 854,590 39,525 3,000 15,000 4,500 4,500 3,869,000
%
1.4 2.5 41.9 29.6 22.0 1.0 0.0 0.3 0.1 0.1 100.0
村村町町村町村町町町村村村町岡原 助山田手楽栄武貝根山来藤小旭足下額作設東稲津豊富鳳
計
養蚕戸数 塁翠1盟翠
663−56788582270 18461768320021 1253 2 23221 6
掃立卵量(箱)
盟舞1盟翠
58568959813295 2272 836345912 121 1 1211 4
3,361 2,023
174 90 464 577
879 1,144
526 472 14 18 217 707 41 83 444 625
431 1,244
351 394 321 614 129 332 23 76
744 2,187 4,758 8,563
(資料)
第11次愛知農林水産統計年報
(資料)世界農林業センサス,但し昭 和35年の掃立卵量は第8次愛 知農林水産統計年報
このように昭和35年以降急速に減少したのは燃料革命にもとずくものである。
つぎに養蚕であるが,表8のように養衆農家は減少したものの掃立卵量は2 倍近くに増加している。つまり,養蚕農家の分解がすすみ,小規模な養蚕農家 が減少し,少数の大規模な農家が大量生産をすすめているものと考えられる。
つぎに畜産をみると昭和35年に乳牛618頭,豚6,407頭,にわとり82,614 羽であったが45年にはそれぞれ1,578頭,5,158頭,453,441羽となり,乳牛
とにわとりの増加したことがわかる。畜産農家は減少したにもかかわらず,飼 育頭羽数が増加したのは一部畜産農家の多頭羽飼育がすすんだことによる。し たがって,採草地をもたない経営規模の小さい農家は経営維持が困難iとなり,
飼料代の高騰はますます経営を困黙にしてきた。したがって,階層分解がすす み,農外への労働力流出が増加したわけである。
疏菜として昭和34年ごろまでは夏作かんらん,美濃早生大根,抑生きゅう り,トマト,菜頭豆などが多かったが農業改良普及所の指導により,35年以降 きゅうり・トマト・菜頭豆などが増加した。東加茂郡の疏菜栽培は最盛期には 作付面積70〜80妬,販売額1億円にも達したが,昭和42・43年以降次第に衰退 したq5)。この点をややくわしく,西加茂郡小原村についてみると,表9のと おりで,ここでは疏菜の作付面積・生産量ともに昭和38年を最高としてそれ以
表9 そ菜生産の変化(小原村)
1昭和35年}36年137年138年139年14・年141年}42年
ト
マ
ト
きゅうり at円t円︵︵千︵千積量︵量︵
面売金り価 額収額
付
売当り a当作販販10t at円t円︵︵千︵千積量︵量︵
a当 付売当り 面売金り価 額収額
作販販10t
600
75
3,051 1.2
40
650
99
3,022 1.5
30
−←7
つ一−⊥7.9臼
11,077
( )
−ふ
.
r O 3
1,526
679
35,206
4.451
2,635 1,061 36,480
4.034
1,397
322
11,643
2.305
36F ◎つ∨
OO−▲
4,727
45
・
惚∨
1 1,067
252
14,118
2.356
1,962
429
18,665
2.143
1,470
1143,369 0.7
29
60 7り0 8り白
9,581
CV−⊥
・
4 2
818
53
2,966 0.6
55
47●
35
(OQJ
10,074
(0ΩO
・
り白
5
582
158 2,518
7﹁5
●
−1一
2
543 2289,429
−⊥−⊥
●
4 4
475
56 2,368
−ふ9一
・
4 1
(資料)小原村役場
⑮ 松井貞雄3三河高原西部地域の園芸と近郊化,人文地理,第22巻第1号,昭和45 年,P6
14
降減少した《16)。昭和38年から39年にかけては,農外へ流出する者が増えた時 であり,特に豊田市への流出が増加した。疏菜の収量や単価が特に低下したわ けでもないのに,昭和39年以降衰退したのは工業からの影響が強く働いたもの
と考えられる。
2 農家経済
山村の農家1戸あたりの所得は昭和38年には504千円円で,愛知県平均農家 1戸あたりの所得677千円の74%にあたる。これは農外所得があまりかわら ないにもかかわらず農業所得が県平均268千円であるのに山村ではその約%の 894円と著しく低いことによるものである。したがって,農家所得にしめる農 業所得の割合はわずかに17%にすぎず,山村の農家は全く農外所得によってそ の経済を維持しているといえよう。農家経済を経営規模別にみたのが表10であ るが,農業所得の家計充足率は平均で50%,耕作面積2町歩以下では100%を 割り,5反歩以下となる。農業所得のみでは家計に大巾な不足を生ずるが家計 費は経営規模には関係なく,ほぼ513千円〜588千円必要であり,その上,家 計費は年々上昇するとすれば,現金収入を求めて農外へ流出せざるを得なくな
る。上述したように農林業の衰退,農工間の所得格差の拡大のもとでいっそう この地域の人々は,農外へ流出を強めることとなった。
表10 農家経済の概況(昭和38年)
鴎1蒜5鵠已町11編躍1平均
農業収入農外収入
剛 旬
◎
千
︵︵千千
円
益費徹収 営
薪
粗経農
収 入(千円)
支 出(千円)
農外所得(千円)
被贈・扶助等(千円)
租税公課(千円)
可処分所得(千円)
家計費(千円)②
余 剰(千円)
家計費充足率%①/②
486
0 0
QO4
661 44 616
42
54 650 513136
9192
96 96
53345
48759
43 599 541 5817
532 265
266431 36 395 38 49
651 520130 51
951 460 491 272
26 245
34 47 724551 173 89
1,043 1,321
501 581 542 739
399
282116 32
52 804 588215 92
0∨44
F ◎
5
1▲ −⊥
19
66847
581 266127
523 254 268
451 42 409 41 49
670537 132 50
(資料)第11次愛知農林水産統計年報
⑯ 東加茂郡の各町村よりも2,3年早い。
IV 工業の発展と労働力 1 概 観
昭和35年以降,経済の高度成長のもとで,愛知県の工業化はめざましく,35 年を100とすれば45年には事業所数128,出荷額449に達した。工業構成面で
も高度化がみられ,出荷額は35年の軽工業54.0%,重化学工業45.9%から,
45年には軽工業36.6%,重化学工業63.4%へと増大した。従来愛知県の工業 は繊維・木材・陶磁器といった地場産業的な性格が強いといわれていたが,昭 和35年東海製鉄(現新日本製鉄名古屋)の立地により,臨海工業地帯の形成が はじまり,豊田市を中心とする西三河地方の自動車・機械工業と結びついて,
中京工業地帯が形成された。中京工業地帯が形成されるには水・土地など有利 な自然条件を具備していたことにあったことはいうまでもないが,積極的に大 型の投資が行われたからであるq )。中京工業地帯の中核は,愛知県であること はいうまでもないが,県内の工業化は表11のように地域により不均等にある。
表11 地域別工業の変化
事業所数 出 荷額(億円)
昭和35年1昭和45年1伸び率昭和35年1昭和45年i伸び率 総 数141,87gl 53・7921・28114・157i 63・5751449
域 域域
馴
㌫
古張河 三
名尾西
都市地域名古屋大
東三河都市地域 三河 山間地域
15,110 13,752 7,399 5,001
61717,645 20,519 9,386 5,690
552116 149 126 113 89
6,288 3,834 3,102
910 2318,473 18,941 21,607 4,365
189293 494 696 479 821
(資料)昭和35年 愛知県統計年鑑
昭和45年 愛知県工業統計調査結果報告 事業所は三河山間地域の他は全て増加しており,出荷額は三河山間地域が8.2 倍にも増加しておるのに対して,他地域は3〜7倍である。
このように,三河山間地域では事業所数は減少したものの,出荷額の増加が きわめて著しいことがわかる。また西三河衣浦地域も出荷額の増加が著しく,
⑰ 井閨弘太郎3中京工業地域の自然的基盤とその条件化(伊藤郷平編著2中京圏,
所収)昭和47年
伊藤喜栄3「中京」地域における工業立地の動向,地理,第14巻第5号,昭和44年
16
昭和45年には名古屋地域をぬいて第1位となったことがわかる。こうした変化 は豊田市を中心とする自動車工業の発展と大きなかかわりあいをもつと考えら れるが,つぎにこの点を検討しよう。
2 トヨタ自動車の発展と関連企業
「トヨタ自動車工業」が誕生したのは,昭和12年のことである。それ以来
「戦時中は軍用トラックに大きく傾斜せざるをえなかった。さらに戦後におい ても朝鮮動乱期の特需,その後のAPA特需では他の自動車メーカー以上にそ れに大きくかかったq8)」が,「トヨタはこのように特需に傾斜しながらも,そ
こで蓄積した資本をもって乗用車の夢をたえず追っていた。これが1955年の クラウンとなってあらわれた。その後は,コロナ・パプリカと乗用車市場に新 車を送り出す一方で,元町工場の建設によって乗用車の生産体制を確立してい ったq9)」。そしてトヨタは,昭和33年の元町工場第1期,35年の同第2期,40 年の上郷工場,41年の高岡工場,42年の同第2工場,43年の三好工場,そして 45年には堤工場と次々と巨大な工場を建設し,クラウン・コロナ・パプリカと 乗用車市場に新車を送り出した。その結果,自動車の生産台数は昭和27,8年 に月産1,000台にしかすぎなかったが,30年の2,000台,31年の6,000台,39 年の30,000台,42年80,000台,44年120,000台へと増大した。今日,「トヨ タは豊田工機,トヨタ自動車販売など11の子会社をもち,これらの子会社は原 材料の輸入から製鉄,部品の生産・販売,不動産業までに及び,一つのコンツェ ルンを形成している(20)」。そしてこのコンツェルンは関連大企業11社 2D,下請 企業119社再下請,再々下請企業は無数といってよいほどの多数の自動車関連 企業(22》をもち,トヨタを頂点としてピラミッドを構成している。昭和45年には 従業員は40,000人をこえる一大独占企業にまで成長した。その結果,かって 挙母と呼ばれていた古い城下町も今では入口20万入(昭和40年)をこえる大都ころも
市にまで成長した。トヨタ自工の関連企業は豊田市内だけでなく,刈谷市をは じめとする西三河地域一円にも広がっており,地域独占としての傾向が強い。
⑱ 奥村宏ほか3自動車工業,東洋経済新報社,昭和42年,P255
⑲ 前掲⑱ P256
⑳市川 深3トヨタ自動車一日本自動車独占の実態とその動向,経済評論,第17 巻第12号,昭和43年 P139
伽 トヨタ自動車工業,トヨタ自動車販売,日本電装,トヨタ車体,豊田紡織,アイ シン精機,豊田工業,関東自動車,愛知製鋼,豊田通商,豊田自動織機の11社であ る。これらは一般に「トヨタグループ」とよばれている。
幽 関連企業は協豊会(205社),精豊会(22社),栄豊会(32社)を組織し,トヨ タの量産体制をになっている。
3 労働力の需給関係
このように昭和30年代以降のトヨタ自動車工業の急激な発展が及ぼした影響 は,行政,農業,商業など多方面にわたることはすでに指摘されているとこ ろであるが(28), トヨタ自工の発展を左右するものは労働力であった。豊田公 共職業安定所が豊田市,西加茂・東加茂郡を対象として行った調査結果による と,表12のように昭和35年の充足率は57.8%であったが,年々減少して,同
表12 求人充足状況の推移
区分1劉36年137年138年139年14。年141年1僻 求人数
充足数
充足率
(%)
計男女計男女
計男女
10,411 8,422 1,989 6,022 5,266
75612,772 11,050 1,722
11,951 10,134 1,817 7,17314,663 6,446 3,938
727 725
57.8 62.5 38.0
56.2 58.3 42.2
39.0 38.9 39.9
14,306 12,004 2,302 6,892 5,968
92448.2 49.7 40.1
26,539 22,113 4,426 7,565 6,547 1,018 28.5 29.6 23.0
11,805 9,152 2,653 4,055 3,206
84931,616141,804 28,272136,974 3,344 4,830 8,27211,072 7,174 9,819 1,098 1,253 34.3
35.0 32.0
26.2 25.4 32.8
26.5 26.6 25.9
囲 1.資料は豊田市統計書 昭和43年版
2.豊田市・西加茂郡・東加茂郡内の事業所を対象とする。
42年には26.5%にしか達しなかった。これ 表13規模別求人充足状況 を規模別にみると表13のように従業員1,000
人以上の企業は充足率33.6%であるが,そ れより小規模の企業では10〜20%余である。
また,学卒者の充足率も低く中学校卒業者の 充足率は20%余で,高校卒業者の充足率も 40年前後までは60%に達していたが,最近 ではこれも次第に減少している。昭和38年に 隅谷三喜男氏らが行った調査報告書は「トヨ 囲
タ自工が31年頃から採用しはじめた臨時工募 2.
集および,関連工場の人員補給は,豊田市お
規模別漂人雛足数i充脾
総 数
29人以下
30〜 99人 100〜499人 500〜999人
1,000人以上
41,804
2,168 2,995 6,332 3,914 26,395
11.072
483 530 738 460
8,861
%26.5 22.3 17.7 11.7 11.8 33.6
1.資料は豊田市統計書 昭和 43年版
豊田市・西加茂郡・東加茂 郡内の事務所を対象とする。
㈱竹内淳彦3自動車工業都市の形成と構造上の性格一豊田市の場合一東北地理,
第23巻第4号,昭和46年
奥村栄8トヨタの発展と豊田市,都市問題研究,第18巻第6号,昭和41年
18
よび周辺農村地帯の過剰農業労働を吸収しつくし,豊田労働市場のみでなく,
労働市場を包摂している中京工業地帯一円の就業労働力に対してもトヨタ自工 に向っての求心的な労働移動をひきおこす結果となった⑭。」と述べている。
そのため,豊田市周辺地域の労働力の流出が顕著にみられるようになった。労 働力の流出には離村する場合と在村のまま兼業化していく場合が考えられる。
第2章で述べたように,世帯数の減少率が人口減少率より小さいのはこの地域 が近くに労働力市場が開けていて通勤兼業が可能だからである。しかし,離村 する者の多くは,新規学卒者か林業労務者,公務員などである。例えば足助町 北部中学校の卒業者の就職先をみると表14のように,男子は豊田市が多く,女 子では名古屋が最も多い。これは豊
田市の企業が自動車および関連企業 で,女子労働への需要が小さいこと にもよる。こうした若年労働力の流 出の結果,図2でみたような人口構 成となる。一方,学卒者以外で離村す
る者は,山林労務者,公務員あるい は,経営規模の小さい農家である。
しかし,三河山間地域では挙家離村 は概して少ないようである。挙家離 村するのは,表15のように,多くは 非農家で一時的滞留者にすぎなく,
本質的にはムラの構成戸でないもの
表14 北部中学校卒業者の就職地 (足助町)
就職地
助晶㌫計
町
市市市他外足 豊名岡県県
卒業年次
昭和37〜39年昭和40〜42年 男 女 男 女 %
58.8 8.8 11.8 11.8 8.8 100.0
3膓・
26.6[
23.4 12.8 33.0 1.0 100.0
%
3.8 54.7 13.2 15.1 9.4 3.8 100.0
%
1.5 16.7 19.7 9.1 47.0 6.0 100.0
(資料)山村振興調査会 西三河通勤 山村のすがたと進路 であるが,炭焼や運送業,山林労務者として労働力を商品化していた人たちで ある。いずれの場合も転出先は豊田市以外が多く,転出後の屋敷あとは空屋と な、り,耕地は荒地化している例が多い。通勤兼業の可能なこの地域では挙家離 村という形態をとっていない。そのため,人口減少率にくらべ世帯数の減少率 はかなり小さい。立地条件に恵まれず,通勤兼業の比較的困難な北設楽郡や南 設楽では人口減少率や世帯数の減少率が東加茂郡・西加茂郡・額田郡より大で ある。通勤兼業の可能な東加茂・西加茂郡では,表16のように昭和36年ごろか ら主として豊田市内に立地する企業がマイクロバスを走らせて,労働力の確保 に努めた。そして,38年には38台,39年には76台と増加し,交通の不便な部
⑳ 隅谷三喜男ほか3経済成長下の労働市場(1),日本労働協会調査研究部調査研究資 料,No・64,昭和38年
農 家 番 号 部 落
大
多賀
葛
沢
−←り●345︵b
78910
転出時の職業・規模 職 業
焼 送 き焼林者
農
軸 務
炭運 馬炭山労
農
日 雇
農 農
経営規模 山林 地 耕
町一
4
反一一
3
4 9白78
10
所有規模 耕地山林 反 町3 4
0.8
7
10
転出先
三好町
旧足助町
瀬戸市
旧足助町
碧南市
多治見市
足助町 豊田市 豊田市 名古屋
職業 転出年次 転出の 契機
昭和30年自動車1
運転手}
人夫
無
瓦屋 人夫
農
員員員
工 工店
37年 37年 39年 39年 41年 37年 39年 41年 41年
妻の入院 一身上
生活の便 経済的 経済的 経済的
屋敷あと
庫屋屋屋
畑
車空空空空屋
林 屋 屋 屋 植
空 空
空備
考
先代定着
猿投→大多賀→足助 田畑山林は本家管理 旭町→大多賀→足助 旭町→大多賀→碧南 設楽→大多賀→多治見 転出後も3反経営
耕地は荒地化
耕地は貸付,山村は管理
(資料)昭和42年11月実態調査