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〔報文〕装飾古墳のおかれた「環境」と保存の歴史

著者 朽津 信明

雑誌名 保存科学

号 53

ページ 19‑31

発行年 2014‑03‑26

URL http://doi.org/10.18953/00003867

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

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〔報文〕

装飾古墳のおかれた「環境」と保存の歴史

朽津 信明

1 . はじめに

明日香村の国宝及び特別史跡・高松塚古墳の壁画が劣化したことがマスコミによって大きく 報じられ ,国民的関心事となったことなどを受け,類似した文化財として「装飾古墳の保存」

についても関心が高まっている 。筆者は,これからの保存科学のあり方を考えるためには,保 存科学のこれまでの歴史を理解することが必要だとして,保存科学史学の重要性を提唱してき ている が,装飾古墳の保存について議論するためには,これまでの装飾古墳の保存の歴史 を網羅的に理解する必要があると考える。こうした観点から本稿では,特に保存科学の視点か ら,装飾古墳の保存の歴史について考えてみる。

装飾古墳そのものについては,既に考古学の分野で百年以上の研究の蓄積があり,その研究 史についても既に纏められて報告されてきている 。しかしながら,装飾古墳の保存の歴史を考 えるためには,装飾古墳が歴史的に人々にどのように捉えられ,どのように解明されてきたか という文化史的な視点ばかりでなく,装飾古墳がこれまで経験してきた環境の履歴ということ をも理解しておく必要がある。もちろん装飾古墳と一口に言っても,現在知られているだけで も600基以上あり,その一つ一つの履歴を網羅的に捉えることは容易ではない。それでも,それ ぞれの古墳が歴史的に経験してきた環境は,巨視的に見れば相互に類似している場合が多々あ り,それらは系統的に分類して理解することが可能だろうと考えられる。こうした理由から本 研究では,保存という観点から,装飾古墳が経験してきたであろう環境の履歴について順を追っ て検討していき,それに基づいて装飾古墳の保存のあり方を考えることとする。

なお,この場合の「環境」とは,温度や湿度のような自然環境という意味を示すだけに留ま らず,例えば古墳という存在が後世の人々にとって呪術的な存在として祀られるような人文環 境や,高度経済成長時代(及びその直後)に土地開発に伴って古墳が次々と破壊されていくよ うな社会環境 などについても,装飾古墳の保存環境に重大な影響を及ぼす要因と捉え,あわせ て考察を試みる。

2 . 装飾古墳とは何か

装飾古墳とは,石棺や石室などの埋葬施設に,彩色や線刻などで装飾が施されている古墳の ことを示す 。例えば古墳から出土する埴輪に,彩色で文様表現が施されている事例は数多く知 られるが,それらだけでは埋葬施設への装飾とは見なされないため,装飾古墳からは外れて理 解される。また,石棺や石室全体が赤色顔料で塗られているような古墳も非常に数が多いが,

それだけでは装飾古墳とは呼ばれず,あくまでも何らかの意図的な文様表現が認められて初め て,装飾古墳と呼ばれることになる。装飾古墳は,先述のように全国で600基以上知られている が,これは古墳の総数が10万基と言われる中では,ごく少数と言うことができる。

上記の定義では,高松塚古墳も,そして同じ明日香村の特別史跡・キトラ古墳も,横口式石

(新聞報道では「石室」)という古墳の埋葬施設に対して,意図的な文様表現が彩色で認めら れることから,装飾古墳の一種として見なすことも可能であり,実際に一部文献ではこれらが 19  

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装飾古墳に含めて議論されるケースもある 。しかしながら一般には,高松塚古墳とキトラ古墳 は,装飾古墳とは区別されて議論される場合が多い。その理由には様々なものがあるが,第一 に,横口式石 に人為的な文様表現が認められる古墳というものが,高松塚古墳とキトラ古墳 以外には今のところ知られておらず,考古学的に埋葬形態に明確な差異がある点。次に,モチー フが異なり,高松塚古墳とキトラ古墳以外では抽象的な幾何学文か,あるいは具象文であって もデザイン化されて写実性に著しく乏しい文様に限定される点。(例えば人物や動物が表現され る場合にも,装飾古墳ではシルエット状であり(図1),技法が明確に異なる。)さらに,使用 顔料に共通点が乏しく,高松塚古墳やキトラ古墳では認められる水銀朱や緑青,群青といった 彩度の高い顔料の使用が,通常の装飾古墳では全く認められない点 。そしてそれらと密接に関 連するが,想定される築造年代が異なり,高松塚古墳やキトラ古墳は7世紀末〜8世紀初頭頃 の築造と考えられているのに対し,通常の装飾古墳は4世紀頃〜7世紀前半頃までと考えられ ており,文化的な連続性が認められない点,などがある。

こうした装飾古墳が造られた直後の状況を考えてみると,石室であれ石棺であれ,殆どの装 飾部位は地中に埋められた状態で密閉されたと考えられる。これはもちろん,科学的な保存が 意図されたものとは考えにくいが,結果的に見れば保存にとって有利な,温度や湿度が安定し た環境が暫くは与えられていただろうことが推定される。例外として,横穴墓の外部壁に施さ れた装飾(図2)も存在し,これらについては密閉されず,状況次第では容易に風雨に曝され る状態が築造直後から継続した可能性が考えられる。もちろんこうしたものについても,崖面 が崩落するなどして後天的に細かい保存環境が変わることは十分起こり得るが,基本的に現存 する装飾部位の科学的な意味での保存環境について言えば,これらは「容易に風雨に曝され得 る」という状況が現在に至るまで継続してきたと考えられる。

3 . 再利用と改変

上記のようにして一旦は埋納されて密閉された状態の装飾部位が,現時点で装飾古墳として 認知されるためには,それが何らかの形で後に人目に触れて記載される必要がある。その人目 に触れるに至る経緯には,侵蝕や地震などの自然による作用や,土地開発や学術調査などの人 為的な要因が考えられるが,現代に至るより前の段階で既に装飾古墳が再利用されることに よって,保存環境が大きく変えられたような事例も数多く存在する。例えば玉名市の国指定史

図 1. 清戸迫横穴の人物像 図 2. 横穴外部壁の装飾(玉名市・石貫ナギノ横穴 群)

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跡・石貫穴観音横穴の内部奥壁には,千手観音像が浮き彫りにされている。これを横穴墓築造 時の装飾と見る意見も存在する が,例えば平安時代頃の追刻という見方も存在する 。仮に追 刻説に立つとすれば,横穴墓が築造され,閉塞された後に,後世の人間が横穴内に出入りした ことになり,その保存環境はその時点(あるいはそれよりも以前)で大きく変えられたことに なる。(もちろん,古墳の追葬事例はごく普通に指摘されているため,厳密には装飾が施されて 以降に古墳時代の中でも装飾部位の保存環境が大きく変えられたことは十分考えられるが,一 応ここでは古墳時代の最終埋葬が終了した後の状況を考えてみる。)

中世以降にも再利用の事例は存在し,例えば古墳に納められていた石棺が地表に掘り出され,

そこに新たに石仏が刻み込まれた事例が多数あり,そのうちの少なからぬものが現在「石棺仏」

として認識されている 。こうした事例は,埋蔵されていた 石棺石材が,中世以後は屋外で継続して風雨に曝され得る 状態に至ったことを意味し,保存環境が後天的に著しく変 えられた事例と言える。装飾古墳でこれと類似した状況に あるものが,例えば宇土市の高濱武蔵守逆修碑(三拾町板 碑)と呼ばれる板碑である 。これは,西暦1582年を意味す る銘が刻まれている板碑だが,その下部には直弧文や赤色 顔料の付着が認められ,この板碑は,もともと線刻や彩色 で装飾された状態だった装飾古墳の石障石材が,戦国時代 に板碑に再利用されたものであることがわかる(図3)。

また,氷川町の国指定史跡・大野窟古墳の羨道部には,

1497年に大野城主・木野但馬守相直がこの古墳を修め,阿 弥陀如来を祀った願文が残されている 。さらに,大牟田市 の国指定史跡・萩ノ尾古墳の玄室には,台座に1692年を示 す銘を持つ石造観音像がかつて安置されていたことが知ら れる 。他にも,装飾古墳の内部に後世の落書きのようなも

のが認められる事例は少なからず存在し,これらは,遅くともそれぞれが書かれた時には石室 が開口していたことを意味している。それは先述のような装飾部位が継続的に風雨に曝される 状態に至った再利用とはやや異なるものの,やはり古墳内部の保存環境が大きく変化した履歴 を確認することができる事例と言えるだろう。この他にも,開口された経緯や年代が明確な装 飾古墳の事例は豊富に存在する。それらの保存が議論される際には,今日に至るまでの人文的 な歴史を理解するだけでなく,自然環境の変化という視点に対しても十分な認識を持つ必要が あるだろう。

一方,古墳自体が別の目的に再利用されるわけではなく,その後の歴史の中で保存環境が改 変されるケースも少なくない。代表的な行為は盗掘であり,例えば高松塚古墳に鎌倉時代頃の ものと見られる盗掘孔が存在することはよく知られている 。これが掘られた時には(恐らくは 一次的に),古墳内部の保存環境は大きく変化したであろうが,その後再び埋没することとなっ て,どこかの時点では古墳が造られた当時の環境にかなり近い状態まで復帰しただろうことが 考えられる。実際に天皇陵などの文献記録が豊富な古墳については,盗掘の歴史についてもか なり明らかにされている 。そのように文献記録には残されていない盗掘も含めれば,装飾古墳 に限定しても盗掘された事例はかなり多かっただろうと考えられ,そうした行為に伴う環境変 化の履歴は,十分に意識されておく必要があるだろう。

またこれと対照的に,天皇陵については古代から脈々と(江戸時代以降特に顕著に),「修陵」

装飾古墳のおかれた「環境」と保存の歴史  21 2014

図 3. 装飾古墳が戦国時代に再利用 された例(宇土市・高濱武蔵守逆 修碑)

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と呼ばれる修繕が繰り返し行われてきたことが知られている 。これに伴って,古墳の外観が改 変されるなど,その時点で古墳の保存環境が変えられたことが確認できる場合がある。何をもっ て盗掘と呼び何をもって発掘と呼ぶか,また何をもって破壊と捉え何をもって修繕と捉えるか,

という点は見方によって変わり得るため,ここで言葉の問題を細かく議論することは控えるが,

目的はどうあれ,古墳の保存環境が歴史的に改変されるケースはごく普通に起こり得るという 認識は持っておく必要があるだろう。

なおこの他,その土地を別の目的に活用するために古墳自体が消滅するケースは古墳時代の 中でも既に確認されており ,現代の土地開発に伴う古墳の破壊に至るまで,歴史の中で消滅し ていった装飾古墳は数限りなくあっただろうと想像される。それらの中で,石室を構成してい た石材や石棺石材だけがたまたま現在に至るまで伝えられている事例は多数あり,そこに装飾 が認められる場合には,一般にその部材が現在装飾古墳と認識されている。こうした場合には 当然のことながら,その装飾古墳の保存環境は,歴史上のどこかの時点で当初の状態から大き く変わっていることになる。

4 . 人文学的記載

前章で見たような再利用の記録と明確に区別することは困難だが,江戸時代以降になると宗 教的な目的ではなく,学術的な目的で装飾古墳が記載される事例が増えてくる。装飾古墳の網 羅的な研究史については先行研究 に委ねることとし,ここでは特に保存環境に影響を与える ような記載を中心に見ていくことにする。

現存する装飾古墳で,学術目的のために記載された古い事例として,広川町の国指定史跡・

石人山古墳が知られている。例えば1751年に緒方惟臣・杉山正仲によって書かれた『筑後國石 人圖考』には,同古墳に存在する石人だけでなく,蓋に直弧文の装飾が存在することで知られ る石棺についても写実的なスケッチが掲載されている(図4) 。これにより,18世紀中頃の段 階で既に同古墳の石室は一部開口しており,妻入り横口式家形石棺の開口部がある側,すなわ ち西側面が外気に触れる状態で観察可能であったことが確認される。石人山古墳についてはこ の後も江戸時代の中でも度々学術的文献で紹介されており ,それぞれの段階で墳丘や石室,石 棺,石人などがどのような環境条件にあったかの変遷を実感することが可能である。

また,うきは市の国指定史跡・重定古墳に関しても,江戸時代からの文献記録が豊富に存在 する。例えば平田篤胤は1819年に『神字日文傳附録』において,筑後國石窟文字と題し,この 古墳に神代の文字が書かれているとの説を紹介している。この点について矢野一貞は1853年に,

『筑後将士軍談』の中で「圖像を以て文字にあらず」と明確に否定し,その時点で観察された

図 4. 1751年に描かれた石人山古墳石棺のスケッチ(広川町教育委員会 より転載)

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図像を詳細に図面として残している 。これにより,江戸時代の時点でこの古墳が開口していた という保存環境ばかりでなく,この時点で(著者の主観が加わってはいるものの)認識可能だっ た図像を知ることができ,現状と比較することによりその後の損傷や褪色を考察することに寄 与できる。この『筑後将士軍談』では他にも,例えば山鹿市の国指定史跡・鍋田横穴などにつ いてもスケッチが残されており,現状との違いから保存状態の違いを認識することに大きく貢 献している 。

この他にも,例えば熊本市の国指定史跡・釜尾古墳が1769年に発見され,「石壁朱ニテ塗リ桔 梗ノ紋アリ」との記載が森本一瑞の『肥後國志』(1772)に紹介されている 。また嘉島町の国 指定史跡・井寺古墳は,1857年の地震によって開口した記録が残されている 。このように,装 飾古墳の過去の保存環境を理解するために有用な記録は,江戸時代から珍しくなく見つけるこ とができ,明治以降になるとその数は飛躍的に増えることになる。個々の研究史にこれ以上細 かく立ち入ることは控えるが,装飾古墳の保存を考える際には,過去の装飾古墳研究による記 載が極めて重要となる点をここに確認したい。学術研究においては,もちろんどんな分野であ れ先行研究を網羅することは必要不可欠であるが,文化財保存科学の分野では,その文化財自 身に関する先行研究の理解は,特に当該文化財の過去の存在状態や環境履歴,そして修復履歴 などについての理解を助ける上で大いに貢献が期待できる。

5 . 保存対策の始まり

前章で述べたとおり明治以降は装飾古墳の研究が飛躍的に盛んになるが,そうした関心の高 まりに伴って,装飾古墳を保存しようという動きも出てくるようになる。

まず,古墳の保存ということで考えると,呪術的な存在として例えば墳丘上に神社が建てら れることにより,歴史的に破壊を免れてきた古墳は数多く存在する。装飾古墳で言えば,うき は市の国指定史跡・日岡古墳の後円部頂上(つまり装飾を持つ石室上)には1842年を示す銘を 持つ石鳥居と1845年を示す銘を持つ狛犬とが現存し,古くからこの場所が祀られていたことが 確認される。こうした宗教的な観点からの保存との厳密な区別は難しいが,日岡古墳では後に 学術的観点から1888年に坪井正五郎によって発掘調査がなされた後に,石室の上に覆屋が設け られて保存が図られている 。なお,同古墳には現在は1964年に建て替えられた鉄筋コンクリー ト製の覆屋が存在するが,建替の時に先代の覆屋は近傍に移築され,現在でも日岡古墳墳丘上 に存在する(図5)。

古墳の保存に関わる国としての初期の文化財保護施策としては,1874年の「御陵墓調査上発 見ノ古墳届出方」,そして1880年の「御陵墓所在未定ノ分取調ニ付人民私有地内古墳等発見ノ節 届出方」を経て,1919年には「史蹟名勝天然紀念物保存法」が出されたことはよく知られてい 23  

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図 5. 今も日岡古墳上に残る,明治時代の覆屋

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る 。装飾古墳としても,1921年に釜尾古墳など熊本県下の8基が史蹟として指定を受けて以 後,次々と指定が図られ保護が試みられている。これは戦後になって1950年の文化財保護法に 引き継がれ,国指定史跡ばかりでなく,都道府県指定文化財,そして市町村指定文化財として 現在保護が図られている装飾古墳は数百基にも達する。

こうした保護の機運を受け,装飾古墳に対して柵や扉などが設けられるケースが現れるよう になる。例えば1933年に発見された泉崎村の国指定史跡・泉崎横穴には翌年に柵が設けられて おり,また1934年に発見された桂川町の特別史跡・王塚古墳には翌年に扉が設けられている 。 また戦後で見れば,1950年に発見されたうきは市の国指定史跡・珍敷塚古墳には1953年に簡素 な覆屋が設けられており,1956年に発見された宮若市の国指定史跡・竹原古墳にも,翌年には 簡易的な覆屋が設けられている 。また,前章で紹介した石人山古墳,釜尾古墳,井寺古墳など,

それまでに知られていた装飾古墳に対しても,1960年代までには扉や柵など,簡易的な保存施 設が次々と造られるに至っている 。

その一方で,1章で述べたように「保存環境」という言葉は自然環境に限定されるものでは なく,人文的な意味での環境という側面も同時に認識される必要がある。例えば石炭の採掘に より破壊の危機にあった先述の王塚古墳について,西村二馬が私財を投げ出してまで保存に尽 力したことが語られる ように,装飾古墳を大切に思う人々がその保存を望んで起こした様々 な運動も,「保存環境の履歴」として決して見落とすことはできない。こうした努力は,例えば 装飾古墳白書 という形にまとめられて報告されてきている。

6 . 科学的な保存

前章で見たような柵とか扉のような,どちらかと言えば簡素な造りの保存施設が,例えばガ ラス密閉式保存施設のような本格的保存施設へと変化する契機として,一つには遺跡保存が保 存科学の研究対象として取り上げられるようになってきた学問的背景 が考えられる。

まず,装飾古墳が自然科学的に調査された事例としては,大正年間まで遡ることが可能であ る。1916年に始まる法隆寺壁画保存方法調査委員会において,化学的な顔料調査が試みられた ことが保存科学の先駆けとして紹介されることが多い が,この顔料分析を担当した京都帝國 大學の近重真澄は,同時に装飾古墳の顔料分析にも関わっている。具体的には釜尾古墳に使用 されている顔料に関する分析結果が,1919年の京都帝國大學による『九州に於ける装飾ある古 墳』 の中で紹介されている。また,それ以前の1918年には,知徳古墳(久留米市の中原狐塚古 墳のことかと思われる)の壁画顔料に関する化学分析結果が発表されており ,これが装飾古墳 の自然科学的調査の先駆的事例となるだろう。

一方,化学以外の自然科学の専門家も含めて,装飾古墳の保存が総合的に議論されたのは,

恐らくは1969年に始まる,主として王塚古墳の保存を目的として設置された「装飾古墳保存対 策研究会」が先駆的な存在だろう。この研究会は最終的に1975年に装飾古墳保存対策研究報告 書として,『特別史跡王塚古墳の保存』を出版している 。そしてこの成果を受ける形で,1975 年には,史跡指定されている装飾古墳がある11府県教育委員会,及び史跡指定されていない装 飾古墳がある14県教育委員会宛に,「装飾古墳保護管理の当面の取扱いについて」という文化庁 文化財保護部長通知が出されている 。この中には,「装飾古墳は,原則として,本来の状況に 復元できるよう遮蔽するものとすること。」と謳われており,装飾古墳に対して何らかの保存施 設が設けられることが促されており,また「施設等が整備できるまでは,とりあえず仮遮蔽す ること。」と,施設を造れない場合には暗に埋戻しが推奨されている。

これにより,1970年代以降は,装飾古墳に対してガラス密閉式保存施設が設けられるケース

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が多くなり,その一方で,発見後に埋め戻される装飾古墳の事例も増えることになる。前者の 例としては,1966年に発見され,1971年にガラス密閉式保存施設が設けられた双葉町の清戸迫 横穴 が先駆的であり(図6),この時期に相次いで東北地方で発見された装飾横穴には,次々 と類似した保存施設が設けられている。また装飾古墳には通常含まれないとしたものの,1972 年に発見されて密閉式保存施設が設けられ,その後長期にわたって一般公開がなされてこな かった高松塚古墳も,この事例に含めて捉えられるだろう。後者としては,1971年に発見され てその後埋め戻された宗像市の桜京古墳 が挙げられ,また1983年に発見されて後に一旦埋め 戻されていたキトラ古墳も,この類例と言えよう。そして,既に知られていた装飾古墳でも,

例えばこれまでに紹介してきた,重定古墳,珍敷塚古墳,王塚古墳,竹原古墳などでは,いず れもこの昭和時代末期に密閉式保存施設が新しく設けられている 。こうした保存施設は,後に 保存科学の発展に伴って個々でさらなる工夫が積み重ねられるようになっており,例えば広川 町の国指定史跡・弘化谷古墳のように見学者用スペースに空調が取り入れられたり ,玉名市の 国指定史跡・永安寺東古墳のように結露防止のために電熱線入りガラスが採用される例 など が現れてくることになる。また,先述の文化庁文化財保護部長通知には,装飾古墳の公開に関 して「一定期間を除いて非公開とすること」との内容が示されており,これにより,例えば年 に一度とか二度とかの限られたタイミングだけ公開が行われ,それ以外の時期は非公開となる ような装飾古墳が増えていくことになった。上記の古墳の中では,王塚古墳や重定古墳などが これに該当する。

なお,遮蔽や埋戻しなどにより,装飾古墳を間近に観察することが容易ではなくなっていく 状況の中で,1976年に開館した熊本県立美術館の中に装飾古墳室が設けられた 点に,ここで特 に注目しておきたい。これは,3章でも見たような,既に発掘されて装飾古墳の外に持ち出さ れた状態だった石棺石材などの装飾部材が,管理された博物館内環境で展示公開されるに至っ たものである。このように,石棺石材や石室石材の一部が博物館内で展示公開されるケースは 他にも普通に見られるが,同館では同時に,見学が容易ではない装飾古墳については同室内に レプリカを展示することで,装飾古墳の理解を深める試みがなされている。これは次章で述べ る装飾古墳の活用にも関わる先駆的な試みと見ることが可能だろう。また,これに先立つ1954 年から,当時東京藝術大学にいた日下八光による装飾古墳の模写 が継続して行われており,そ れが様々な機会に公開されるという形によっても,見学が困難となった装飾古墳の情報公開は 図られてきている。例えば東京国立博物館における1969年の装飾古墳壁画模写展 ,佐賀県立博 物館で1973年に行われた装飾古墳壁画展 ,そして国立歴史民俗博物館で1993年に行われた装 飾古墳の世界展 などがそれに当たる。

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図 6. 清戸迫横穴のガラス密閉式保存施設

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7 . 装飾古墳の活用

1991年をピークに日本の地価が下落した,いわゆるバブル崩壊と呼ばれる日本の経済事情が,

遺跡の保存環境にも大きな影響を及ぼしたことを過去に論じてきた 。これは,バブル崩壊を機 に,遺跡を破壊してその土地を別の目的に利用するよりも,遺跡を残して活用する方が経済効 果が見込めると判断されるケースが増えてくることなどが影響して,短絡的な遺跡破壊が減り,

遺跡の活用事例が増えることを指摘したものである。この活用の方向性は装飾古墳の保存環境 にも多分に影響を与えており,前章で見たような遮蔽の方向性にあった装飾古墳に対しても,

必然のように活用という側面が要求されるようになってくるのである。

例えば前章で発見後に埋め戻されたと紹介した,桜京古墳では2007年から ,そしてキトラ古 墳では1997年から それぞれ再調査が行われて,それぞれ新たな情報が公表されるに至ってい る。この他,1972年の調査後に埋戻しが行われていた水戸市の国指定史跡・吉田古墳でも,2005 年から再調査が行われており ,さらに装飾古墳以外でも,埋め戻された状態だった遺跡が再調 査される事例は,平成になって各地で頻繁に見られるようになってきている。

こうした再調査の後に保存施設が新たに設けられる場合には,どちらかと言えば保存が主目 的というよりは活用の方が考慮され,保存施設は公開のための施設という位置づけが与えられ るケースが多くなっている。例えば1960年に扉が設けられていた筑紫野市の国指定史跡・五郎 山古墳は再調査 を経て,2001年には密閉式保存施設が新たに設けられたが,同時期に五郎山古 墳館という展示施設が古墳の隣接地に開館している。これにより,新保存施設の下で公開が限 定的となった五郎山古墳について,常設で情報発信が試みられるようになったのである。この ように,装飾古墳の情報を常設で発信するための展示施設としては,1992年に既に熊本県立装 飾古墳館が開館しているが,他に例えば1994年には王塚古墳に隣接して王塚装飾古墳館が開館 するなど,平成になって特に古墳に隣接する形で造られる例が出てきている。

また,職員の常駐する展示館までは併設されなくても,2001年に整備の図られた鞍手町の国 指定史跡・古月横穴や,2004年に整備の図られた人吉市の国指定史跡・大村横穴(図7)のよ うに,詳細な説明で見学者が誘導されるように遺跡公園化される事例も増えている。こうした 動きは装飾古墳だけではなく,各地の遺跡で共通して見られる傾向である。また2005年に開館 した九州国立博物館に,常設で装飾古墳バーチャルシアターが設けられている のも装飾古墳 の活用の一環であり,こうした方向性は,公開に伴う装飾古墳自体の保存環境への影響を軽減 するものとして注目される。

その一方で,公開時期が限定的な装飾古墳について,相互に近接する複数の装飾古墳で時期

図 7. 遺跡公園化が図られた大村横穴

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を合わせて公開する,「一斉公開」という試みが,1998年から行われるようになってきている 。 先駆的なのは福岡県で,遠賀川流域(1998年から)や筑後川流域(2001年から)として,同一 地域内にある複数の装飾古墳の公開を同日に行うことにより,公開時期の限定される装飾古墳 を効率的に見学することが可能になるような配慮がなされている。こうした試みは2008年に福 島県で,そして2009年からは熊本県でも行われている。これを保存環境という側面から考える と,一斉公開により,密閉された保存施設内に多人数が一時期に立ち入る機会が促進されてい る可能性も想起される。ならば時期を限定して一度に多人数に公開するのと,時期を限定せず に一回当たりの公開人数を制御するのとでは,最終的にどちらが古墳への負担を軽減できるの だろうか。もちろん個々に状況は異なるため,単純な結論を得ることは容易ではないだろうが,

古くから議論が続けられてきた「保存と活用の両立」という問題に加え,「公開手法」という,

どちらかと言えばこれまでは博物館学の範疇と思われていた部分について,保存科学の観点か らも議論される必要が生じてきたことになる。このように今日では,保存科学に対して,装飾 古墳の保存を前提としながら有効に活用が行われる方向性が要求されるとともに,逆に装飾古 墳の活用を前提として,そのことによって装飾古墳の保存環境になるべく悪い影響が与えられ ないという方向の議論も,求められるようになってきていると言える。

最後にもう一つの問題点として,これは装飾古墳に限った話ではないが,一たび何らかの大 きな事業が終了すると,その後暫くの間はその対象が顧みられなくなる傾向が指摘される。す なわち,これまで紹介してきたような装飾古墳の保存施設の進化は,決して全ての装飾古墳に 対して一律に起きた現象ではなく,それぞれの古墳を個々に見ていけば,各古墳の現状はその 古墳に対して過去のどこかの時点で施された対策がそのままの状態で留まっている例が多い。

例えば発見が早く,柵や扉などの簡易的な保存対策が施されていたものに先んじて,昭和時代 後半に発見された東北地方太平洋側の装飾横穴には次々とガラス密閉式保存施設が設けられて いる。しかし,それらの施設はその後の保存科学の進歩に伴う改良が加えられることはなく,

また公開施設も近傍には存在していない。こうした点は文化財保存全般に関わる大きな問題を 含むため,一朝一夕に解決できるものではないが,装飾古墳の現状にはこのような傾向がある 点を十分認識した上で,個々の事例について今後の保存を考えていく必要がある点を最後に指 摘しておく。

8 . おわりに

装飾古墳は,鑑賞することが目的で描かれた絵画が伝世品として伝えられてきたものとは異 なり,その大半は完成した直後に装飾箇所は埋められて密閉されたことが考えられる。それが 今日に至るまでの間に様々な過程を経て,最終的に現在は我々がそれを目にできる状態に至っ たものである(表1)。だとすれば,その保存は,たまたま現在観察することができる一部の装 飾だけに注目し,あたかも美術館に存在する絵画管理のような感覚で議論されるのではなく,

その古墳がどのような履歴を経て現在に至ったかまでを含めて,次の世代に伝えていくことと して認識されなければならない。装飾古墳の保存活用を考える際には,個々の歴史を正しく理 解した上で尊重し,今後のあり方が慎重に検討された後に初めて,そのための適切な保存環境 が議論されていくべきであろう。

謝辞

本稿を構成するに当たり,以下の方々及び組織から有益な情報をご教示いただいた。記して 御礼申し上げます。(情報が本文内で使用されている順に)熊本県立装飾古墳館の木﨑康弘氏,

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坂口圭太郎氏,池田朋生氏,氷川町教育委員会の今田治代氏,広川町教育委員会の尾崎源太郎 氏,うきは市の寺嶋克史氏,石井孝幸氏,石井茉依氏,宗像市教育委員会の沖田正大氏,双葉 町教育委員会の吉野高光氏,福岡県教育庁の吉田東明氏,王塚装飾古墳館の尾園晃氏。また,

図の転載をご許可いただいた,広川町教育委員会に謝意を表します。

参考文献

1) 毛利和雄:高松塚古墳は守れるか―保存科学の挑戦,日本放送出版協会(2007)

2) 柳沢伊佐男:時論公論「“装飾古墳”を守れ」,NHK総合2012年09月25日(火)放送,http://www.

nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/132560.html(2012)

3) 朽津信明:日本における覆屋の歴史について,保存科学,50,43‑57(2011)

表 1 .装飾古墳の保存環境履歴に関わる年表(本文で紹介したものから抜粋) 4〜7世紀前半頃 装飾古墳造られる

7世紀末〜8世紀初頭頃 キトラ古墳,高松塚古墳造られる

平安時代頃 石貫穴観音横穴に追刻

1497年 大野窟古墳に願文

1582年 高濱武蔵守逆修碑に装飾古墳石材転用

1692年 萩ノ尾古墳内に銘あり

1751年 『筑後國石人圖考』に石人山古墳記載

1769年 『肥後國史』によれば,釜尾古墳発見との記載

1819年 『神字日文傳附録』にて重定古墳を筑後國石窟文字と紹介 1842年 日岡古墳上に石鳥居 後に狛犬も

1853年 『筑後将士軍談』で石人山古墳,重定古墳,鍋田横穴等記載

1857年 井寺古墳発見の記録

1888年 日岡古墳発掘 後に覆屋建設

1918年 知徳古墳の顔料分析 後に釜尾古墳でも

1921年 史蹟名勝天然紀念物保存法下で釜尾古墳等史蹟指定 1933年 泉崎横穴発見 翌年に柵設置

1934年 王塚古墳発見 翌年に扉設置 (保存運動あり)

1950年 文化財保護法施行, 珍敷塚古墳発見 後に覆屋

1954年 日下八光による模写始まる

1956年 竹原古墳発見 後に覆屋

1969年 装飾古墳保存対策研究会,『装飾古墳壁画模写展』(後にも)

1971年 清戸迫横穴に密閉式保存施設, 桜京古墳発見 後に埋戻し 1972年 高松塚古墳発見 後に密閉式保存施設(原則非公開)

1974年 『装飾古墳白書』(福岡県編) 後に熊本県編も

1975年 『特別史跡王塚古墳の保存』, 文化庁文化財保護部長通知 この後昭和時代末期に竹原古墳等密閉式保存施設多数設置 1976年 熊本県立美術館に装飾古墳室

1983年 キトラ古墳発見 後に埋戻し 1992年 熊本県立装飾古墳館開館

1994年 王塚装飾古墳館開館

1997年 キトラ古墳再調査

1998年 遠賀川流域装飾古墳一斉公開開始 後に他地域も追随 2001年 五郎山古墳館開館, 古月横穴史跡整備

2004年 大村横穴史跡整備

2005年 九州国立博物館にバーチャルシアター, 吉田古墳再調査

2007年 桜京古墳再調査

(12)

4) 朽津信明:日本における近世以前の修理・修復の歴史について,保存科学,51,111‑120(2012)

5) 朽津信明:日本の「遺跡保存」の歴史と「保存科学」の役割,保存科学,52,261‑273(2013)

6) 斎藤忠:装飾古墳の研究,吉川弘文館(1952)

7) 小林行雄:装飾古墳,平凡社(1964)

8) 水尾比呂志:日本の美術 45> 装飾古墳,小学館(1977)

9) 朽津信明:装飾古墳の顔料, 月刊文化財,547,38‑41(2009)

10) 松本雅明・乙益重隆:肥後における平安・藤原時代の佛像,熊本史学,2,38‑43(1952)

11) 高木正文:肥後における装飾古墳の展開,97‑150(1999)

12) 里見文明(1971)石仏行3.播磨の石棺仏,三彩,272,63‑72

13) 宇土市史編纂委員会編:「新宇土市史」資料編第二巻考古資料・金石文・建造物・民俗(2002)

14) 竜北村教育委員会編:竜北村史(1973)

15) 大牟田市役所:大牟田市史 復刻版(1974)

16) 高松塚古墳総合学術調査会編:高松塚古墳壁画,高松塚古墳総合学術調査会(1973)

17) 安本美典:盗掘でわかった天皇陵古墳の謎,宝島社(2011)

18) 高木博志・山田邦和(編):歴史のなかの天皇陵,思文閣(2010)

19) 広川町教育委員会:石人山古墳資料集(文献編)(2013)

20) 嘉島町誌編纂委員会編:嘉島町誌(1989)

21) 福岡縣(編):福岡縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書第1輯,福岡県文化財資料集刊行会(1924)

22) 古墳壁画の保存活用に関する検討会 装飾古墳ワーキンググループ:装飾古墳の保存・管理状況 の実態調査の回答一覧(2013)

http://www.bunka.go.jp/takamatsu kitora/kentokaito/kofun wg/03/pdf/sanko.pdf 23) 玉利勲:装飾古墳紀行,新潮社(1984)

24) 装飾古墳を守る会:装飾古墳白書―福岡県下における保存の現状(1974)

25) 装飾古墳を守る会:装飾古墳白書(熊本県)(1978)

26) 沢田正昭:文化財保存科学ノート,近未来社(1997)

27) 濱田耕作・梅原末治・島田貞彦:九州に於ける 飾ある古墳(1919)

28) 小松利三郎:筑後國 知徳古墳石 文 赤色顔料の成分に就て,考古学雑誌,9,47‑48(1918)

29) 福岡県教育委員会:特別史跡王塚古墳の保存:装飾古墳保存対策研究報告書(1975)

30) 文化庁文化財保護部長通知:装飾古墳保護管理の当面の取り扱いについて(1975)

31) 双葉町教育委員会:標葉における横穴墓群の研究(1984)

32) 白木英敏:『桜京古墳』宗像市文化財調査報告書第58集 宗像市教育委員会(2007)

33) 広川町教育委員会:弘化谷古墳 国指定史跡・八女古墳群発掘調査及び保存整備報告書(1991)

34) 玉名市教育委員会:史跡永安寺東古墳・永安寺西古墳保存整備事業報告書(2006)

35) 熊本県立美術館:熊本県立美術館20年のあゆみ(1996)

36) 小川紘一:日下八光画伯⎜装飾古墳の模写に半生を捧げた人,東京図書出版会(2004)

37) 東京国立博物館:装飾古墳壁画模写展(1969)

38) 佐賀県立博物館:装飾古墳の壁画(1973)

39) 国立歴史民俗博物館:装飾古墳の世界,朝日新聞社(1993)

40) 宗像市教育委員会:『桜京古墳』〜平成21・22年度の調査報告〜 宗像市教育委員会(2012)

41) 明日香村教育委員会文化財課:キトラ古墳学術調査報告書(1999)

42) 水戸市教育委員会編:『吉田古墳Ⅰ―史跡整備計画に伴う吉田古墳群第1号墳の第1次・第2次 発掘調査報告書―』(水戸市埋蔵文化財調査報告書第10集)(2006)

29  

2014 装飾古墳のおかれた「環境」と保存の歴史

(13)

43) 福岡大学考古学研究室編:国史跡 五郎山古墳 保存整備事業に伴う発掘調査,筑紫野市文化 財調査報告書第57集(1998)

44) 朽津信明:蘇る古墳壁画の世界 装飾古墳のデジタルコンテンツ化,情報知識学会誌,17 207‑215

45) 嶋田光一・丸林禎彦:展望 福岡県内市町村による装飾古墳の同時公開,考古学研究,52 1‑5(2005)

キーワード:壁画(mural paintings);環境(environment);覆屋(shelter);活用(utilization);埋 戻し(backfill

(14)

History of Conservation of Decorated Tumuli

‑From  the Viewpoint of Conservation Science‑

Nobuaki KUCHITSU  

History of conservation of decorated tumuli is reviewed as a part of the history of conservation science in Japan. Decorated tumuli were filled and sealed immediately after  being built. However,during subsequent history,they were sometimes reused for various  other purposes and,in such cases,their conservation environment was changed. After the  Edo period,academic studies have been carried out on decorated tumuli,and it is possible  to obtain information about the past environment or state of the decorations through  descriptions or sketches in such old documents. Following the Meiji Restoration,decorat-  ed tumuli came to be protected by law. Then, after Ozuka Tomb was investigated by various scientists in 1969,decorated tumuli began to be sealed with glass door. After the  1990s, public presentations of decorated tumuli have become more common. An under-  standing of such history is a prerequisite for the conservation of decorated tumuli.

31  

2014 装飾古墳のおかれた「環境」と保存の歴史

参照

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