阿 部
弘・大野一 ・村上武
同文書院記念報
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「孫文・辛亥革命と山田兄弟関係資料受け入れ経緯」
司会今日は、阿部弘さん、大野一石さん、村上武さんの お三方にお出いただいてお話をうかがうのですが、
1991
年、孫文・山田兄弟関係資料が愛知大学に寄託され、そ の資料の保存・整理・公開をすべて愛知大学に任せられて きたので、これに簡単にふれておきたいと思います。
1992年の5
月に、東亜同文書院記念センターという のを学内につくりまして、
9月には寄託を受けましたこの 資料の基本部分を整理・分類して、報告書を出したのであ
りますロ報告書と申しますのは、国際問題研究所紀要に、今泉と 藤田の名前で出しましたもので、大学院の院生諸君の協力 で内容が整理されたものであります。それから名古屋国際
センターホl
ルで、盲点ほどですが、資料のうちの整理さ れたものの資料展をいたしました。部分的ではありますが、 公開をいたしました。 昨年は、資料のうちの書簡類をフィルムにしまして印刷 の上、閲覧に供しました。現在は、愛知大学の豊橋図書館
石
でこの閲覧が可能になりました。 いま、資料ファイル、これは主として山田順造さんご自 身がファイルにして資料を作っておられますが、これを分 類・整理をして、記念センター報の第
4号に予定しており ますが、発表できるようになりました。この準備を現在進 めております。 今日は、この資料が愛知大学に寄託される上で、ご尽力 くださった阿部弘、大野一石、村上武のお三方に、この間 の経緯をお話いただいて、後の記録としてとどめたいとい うことで、座談会を開催することになったのです。 はじめに、阿部さんからお願いいたします。
阿部山田純三郎さんの息子さんの順造くんは、同文書院 の同級生であり、児期生であります。私は、遅れて却期の 卒業生になりましたけれど、一応同級生でありました。 私自身は自分の「思い付きの店」という鮫子屋をずっと やっておりましたので、実は、靖亜神社が村上さんのとこ
ろでお祭り下さっているのを知っていながら、店をやって いるので出られないでいて、結局、店をやめてから出られ るようになったのです。はっきりとは覚えていませんが、 山田順造君などとも靖 E 神社を介して会うようになったの です。順造君とは同期生ですから、もちろんお互いに知り 合いで、顔を見ればいつでも挨拶したり話をしたりするの ですが、私は特に柔道部でありましたから、ほとんど柔道 部以外の人とは親しい付き合いはしないという状態でした。 山田君と靖 E 神社で会っても、「ょう」とか「こんにちは」 といってすましていたのでありますが、ある時、靖 E
神社で山田さんに会ったときに、「いったい今何をしてんの」と 聞いたところ、「実は、お父さんと叔父さんの良政さんの伝 記づくりと、その資料を永遠に残すための資料館または博 物館のようなものをつくりたいんだ。ひとりでやっていて はそう進まないんだ。」ということを聞いて、私も山田さん の家からそんなに遠くない所に住んでいて、商売の鮫子屋 もやめたし、自転車で通えるところだから、お手伝いさせ てもらいたいといったら、是非それなら頼むとおっしゃっ て、それから山田さんの資料に関する縁が始まったといっ ていいと思います。 しばらくして、僕も山田さんに、「委員会みたいなものを 作って、皆の意見と力を出しあいながらどんどん進めない と、もう年だから大病になってしまったらだめになってし まうからよといったのです。山田さんも、「そうだな、つ くろう。」といって、我々の大先輩で朝日新聞を定年になっ て辞めておられました蔵居良造先輩に顧問をやってもらっ て、委員会を創ろうと言うことになりました。その当時と しては、山田さん、蔵居さん、僕、同じ同級生の鈴木隆康、 結束博治さんらわずか
4、5人でした。この結束さんは、 山田さんの上海小学校時代の友だちで、家も近くて非常に 親しく行き来していた、結束さんも、お父さんの純三郎さ んのことは、非常に印象に残っている。そして、結束さん も、お父さんのそういうものを作ることは、気持ちの上で 大賛成であるということと、山田さんにも会うとそういう ことを進言していた程度だったのですが、これを機会に結 束さんにも一緒になってもらって委員会を作って進めよう と。蔵居先生はちょうど奥さんが具合が悪いので、熊本の 田舎に帰るということで、蔵居先生に顧問だけをお願いし て、相談のある時には遠いけれども相談にのっていただく
ことにしました。皆の意見では、お
Eい年だから、
2年を目途にして考え ようと言うことになり、委員会をつくったわけです。しか し、委員会といっても、予算があるわけではなく、給料と いうものはない委員会ですが、私の場合はなにしろ家が近 いということと、自分も何かできることがあれば手伝いた いという気持ちがあったので、それから山田さんの所へ、 頻繁に暇があるごとに自転車で通うというような、そんな 手伝い方でした。 そして、委員会で決まったことのなかには、時々委員会 を山田さんの家で開催する、または、昼飯などを食べなが らやろうということで、はっきりと定期的ではなかったと 思います。しかし、月に
l、2回はやろうということで、それには殆ど全員が出ていましたけれど、鈴木隆康さんは、 自分が大きな台湾の小説の翻訳をすることを引き受けたと
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孫文辛亥革命・山 m 兄弟関係資科受け入れ経緯いうことで、だんだんそっちの方が忙しくなって、実際に は出られなくなってしまいました。それで、結束さんと山 田さんと私で、委員会に出て、委員でなくても山田さんの 所へいろんな関係で来た人たち、その若い人たちが一緒に
なるということもありました。その中には、辛亥革命研究会の仲里さんという、広州中 山大学をでた若い優秀な方がおりまして、現在はシンガポ ールのアタッシェとして行っており、僅かな期間ではあり ましたけれどいろんな意見を聞いたりしておりました。辛 亥革命研究会の諸先生も、仲里さんとおなじ頃に、山田さ んもお付き合いで時々会うようになりました。藤井先生、 大久保先生、学芸大の中村先生の
3人でした。順ちゃんを 励ます会といいますか。機能的に委員会が動いているとい うよりも、やっぱり山田さんが一番、お父さんと叔父さん のことをよく知っていて、自分の持っている純三郎さんが 残された資料に関しては、山田さんしか知らないというこ とがあったため、我々は、必要があれば、「おい、山田、資 料をちゃんと見せろよ」といって、見て、意見をいうこと もあったが、委員会に出ても、ほとんど山田さんが、こう いうことを手伝ってくれといったことしか、僕は最初のう ちは手伝っておりません。 したがって、例えば、同文書院の M 期の岡田尚先輩とい う方は、お父様が大倉組と関係があり、軍部とも強い関係 があって、岡田さんも、中国で非常に革命と深く関わって 活躍された方です。岡田さんのテ
lプを一つ取ってきてく れということで、お訪ねして、テ
lプを取ってきましたが、 たぶん今は愛大にいっていると思います。 また、資料館を造るということに関しては、山田さんは 非常に頑固で、僕自身はむろん難しいと思っていても、山 田さんがやっていることですから、いや、一緒についてい こうということで、埼玉県庁の学務課とか、そういうとこ ろへ行って意見を聞いたり、埼玉県の中で、良い土地はな いかとか。あるいは山田さん自身が将来のことを思って買 って持っていた土地がありますが、そういうものを生かし て、計画を、どのような物を建てるかとか、いろいろな事 でずいぶん足も運びました。けれども、資料館をつくると いうことに関しては、財団法人のようなものをつくらなけ ればならないし、将来、本当にその資料館を維持していく ためには、創っただけではどうしょうもないということで す。学務課の人たちの考えもそうです。財産の問題等を考 えて、山田さんのあの資料だけで資料館をつくるというこ とには、非常に難しいという考えを持っていたようでした。 でも、場合によれば、既に埼玉県にできている、どなた かの資料が入っているところの一部を、山田さんも一緒に 使ったらどうかという話もありました。たぶん、村上さん も知っているかと思いますが、山田さんは、やはり他人と 一緒じゃあいやだというような事でした。また横浜の開港 資料館ですかね。あそこへも行って、横浜市長の知り合い の紹介を受けて行ったのですが、それも、山田さんの資料 を常時展示しておくことはとてもできない。資料館は今、 建て増しすることはできないために、たまたま資料展をす るとすれば、
1年のうちの春とか秋とかの区切った期間だ け、山田さんの展示をする可能性は十分あるということで
した。6
同文曾院記念報山田さんは、やはりそれはいやだということで、どうし ても山田資料というものだけにこだわるというと語弊があ るが、山田さんの気持ち、中国人とその場所が、また将来 の日中友好のためには、単なる資料館だけではなく、でき れば宿舎みたいなものが資料館の上にあって、学生たちも 収容できるというようなものをつくりたいということでし た。パプルの時代には、山田さんが持っていたお金もある 程度のものになっていたのですが、しばらくたってパプル が崩壊して、山田さんの家の土地もどんどん下がってしま うし、持っていた土地も値段が下がるし、これではとても できないと、山田さんも正直思われたようです。これは、 村上さんから後で言っていただいた方がいいと思っていま すが、靖 E 神社の敷地の一部に資料館を建てるというよう なことも、山田さんが直接村上さんと相談したと思います。 山田さんは、ちょっと無理に近いと思ったらしくて、一応 断念したと思いますが。 結局は、そのうちに自分の身体が初めのうちは随分節制 もしていたんですが、糖尿がありまして、やはり仕事が思 うように進まないということで、状態がちょっと悪くなっ てきたと思いますね。他人にいちいち言わないけれど、逆 に諦めたというか、飲まなかった酒を、何かの機会に飲ん で、倒れるぐらい飲むということが、何度かあったようで す。それで、病気がますます進んだような気がします。 そこで、自分の命がどうも長くないと自分で実感された ようで、資料の保存は然るべきところに頼むとして、山田 良政・純三郎兄弟の伝記だけは、なんとかして残したいと して随分一所懸命に書き出したのです。山田さんは先祖の 郷土の津軽藩というものに、異常な執着をやはり持ってい まして、それと孫文の辛亥革命と似た面があるということ で、資料を生かした本当の兄弟伝の核心に行かぬ前に、津 軽藩と辛亥革命の類似点というようなことについて非常に ページ数を使いすぎて、余りの大部分をそれに使ってしま った面があると思います。ただ、亡くなった年の春頃から 非常に病が進んで、一回、荻窪の病院に入院しまして、帰 ってきたときに、医者に逆に宣告されたんじゃないかと思
うのです。それからは、ほとんど応接間の長椅子、ソファーで寝て いました。ほとんど横になっていましたが、執筆は若干続 けていたのですが、自分のこの状況の進み方からすると、 自分の生きているうちにまとめるというのは、とても無理 だという感じもあって、それで、保坂正康さん、あの方は、 自分の仕事のために山田さんのところに来たのですが、保 坂さんに山田さんの方が逆に、何かよい方法はないかと相 談して、それに私も何回か同席したのですが、保坂さんは、 山田さんがこれだけ悪くなったのだから、生存中に出版す るということはちょっと無理だろうという気持ちを持って いただろうし、本人には言わないけれど、そう思ったと思 います。まず、山田さんの今の進行状況では、ちゃんとし た出版社が売れる本を出すためには、手をつけられないと いう感じを持ったから、自費出版ならどうかと。もし、自 費出版ならいくらお金がいるかとか。保坂さんはいろいろ 経験があるから、そういうことを山田さんに言いました。 それから間もなく、山田さんは入院ということになりまし て、その時には保坂さんに「俺も入院になるのだけど、い
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孫文字亥箪命 ·Ill 悶兄弟関係資料受け入れ経緯い方法はないかな」といいまして。「あなたは、入院した以 上は、もう先のことは考えないで、とにかく今自分の頭に ある事を、入院中テ
lプにできるだけ吹き込む以外はない でしょう。あとはだれかがやりますよ。」そういっていまし たね。山田さんも、その気になったのだけれど、そのテー プに吹き込むことも最後にはできなかった状態だったと思
います。7月末に入院する時には、ほとんど何もできない 状態だったと思います。 戻りまして、実際に、山田兄弟伝を書き上げた結束博治 さんが、山田さんが入院する直前くらいだと思いますが、 電話したときに、「いやあ、天命でダメだ」と、何か「ダメ だ」というようなことを言ったようです。それを結束さん からは、何か細かいことは聞いていないので、細かい言葉 は違うかもしれません。結束さんが、「そこまでになったの じゃ、俺が書こうか」とか、なんとか言ったようです。そ れを山田さんは一つの希望としてしがみついたといいます か、「やってくれ」といった。結束さんはそこで覚悟して、 山田さんは入院して幾許もなくして亡くなったわけですか ら、結束さんは本気になって書き出したわけです。 結束さん自身は、共同通信の幹部で、既に引退していた んですね。だから、著述に関して豊富な知識はあるのです が、自分で本を書いたというのは、何か前に一冊くらい書 いたというほどで、たいへんな苦労をなされた。山田さん は資料を、各委員全部に対して、自分が整理したものを、 あるいは自分の意見とか全部プリントして送っていました ので、結束さんもその程度では、知っていますけど、書く となればそれだけでは足りないので、本物の資料をやっぱ り知らないといけない。それで、私にも相談して、結束さ んがとにかく書くから協力して下さいということで、私は、 正直いって学者でもないし、落第生で、強い協力はできな いけれども、山田さんのところへは通った率からは多かっ たものですから、結束さんがこういう資料がないかと言っ たときには、できるだけ調べて、結束さんに渡すというよ うな、私と結束・さんとの関係ができて、正直言って私は、 結束さんが急にできるとは思わなかったけれど、本当によ くやられたと思います。簡単に言ってしまえば、一年後に チャンと本ができあがって、山田さんの命日に、まだ書店 には並びませんけれども、プレジデントという出版社から 取ってきて、お墓に供えて報告することが出来た次第でし
た。8
同文書院記念鰍ここまでの所で村上さん、大野さんの方で補足していただ
者』毒今TVO
村上山田さんが亡くなったのが、平成
3年の7月引日で、 通夜が
8月2日、告別式は
3日と暑い最中でしたが、実際 のところは、山田さんがそんなに悪いとは知らずにおりま して、その前の
3月1日に陳其美の息子さんにあたります 陳揮禎さんの出版記念会がありまして、そのときに随分や せられたな、との認識はありましたが、まだまだ元気のご 様子で来ておられ、
4月幻日にも靖亜神社の明徳祭があり まして、その時にも元気においでいただいて、確か大野先 生方ともお話いただいたのではなかったかと思います。山 田さんが亡くなったという事を知ったのは、突然だったの
でびっくりしたのですけど。 ただ、私と山田さんとの関係というのは、そんなに古く はなかったと思います。うちの父、村上徳太郎が死にまし たのは、昭和幻年なんですが、その父の代わりに、できる 限り沼友会にも顔を出したいと。できる限り顔を出したそ の場で、山田さんの方からいろいろ声をかけてくださった。 山田さんというお名前を知らなかったわけではないので すが、非常に縁が深かったのは、同文書院に森槍浪先生と いう方がおられまして、その方の奥さんが、勝子さんとい う方で、うちの父が東光書院をつくった時に、まだ結婚前 でしたが、父の結婚前に森勝子夫人が塾生の世話や何かを してくださった。夫人と息子さんの明さんともう一人弟さ んがおられたのでが、そのあたりが山田さんと兄弟のよう に暮らしていて、勝子さんと森槍浪先生とのお仲人を山田 純三郎先生が確かおやりになったということがあって、非 常に関係は深いんだよと言う話をあとから山田さんから聞
かされました。ただ、山田さんという方は非常に人をみる場合の癖があ りまして、その時のちょっとした
Lぐさでもって、この人 はこのような人だと思い込んでしまうような所があったの ではないか。と云うのは、荒尾東方斎先生の全生庵での法 要の時に、山田さんがうちの父に挨拶をしたら、うちの父 がそれを全然振り向こうともしないでいた。ということで、 この人は先輩なのに随分威張っているのだなということで 非常に気を悪くしたということを、後から話をされたので すが。それはうちの父は耳が聞こえないので、人と話をし ているときには、話をされても聞こえないのですよ、とい うふうなことを私は弁解したのです。 ただ、森勝子さんのお葬式のときでしたか、これに行っ たら、山田さんのお姉さんでしたか、あるいは親戚の方で したか、うちの父と親しげに話をしているので、「ああこの 人は、そんなに自分たちを悪く思っているわけではないん だな」というふうな認識を持ったと聞いたことがありまし た。その後、私の父が死んだ後で、私にもいろいろと話を してくれて、靖亜神社の経営については、同文書院卒業生 というのはこう云う性格のものだから、こうしたほうが良 いよ、ああしたほうが良いというような意見を非常に事細 かに、細部にわたって話もしてくださったし、また、手紙 もくださった。というのは、ちょうどその頃、山田さんが、 自分で資料館なり、あるいは福友会で資料を何とかしても らいたいという気持ちがあって、それを橿友の皆さんに手 紙で出したり、お願いしたり、あるいは、霞山会の方へも 行ったりしていたかも知れません。それが、なかなか反応 が悪いということで、同病相哀れむというのか、靖亜神社 も自分の持っているその資料も、結局、温友会との関係で は、実現するのは非常に難しくなるよというような話をし
てくださいました。その後になってからですね、山田さんとは親しくしてい たのですが、山田さんのお宅に行ったというのは。たぶん、
昭和ω 年位になってからだと思うのです。と言うのは、そ の当時、うちの父の同級生であった岩井英一さんという方、 柴田敬十さんという方が、私が祭把を預っている靖 E 神社 を早く橿友会公認のものにしたいというようなことで、皆 に認めてもらうようなことで何とかしなくてはいけないじ
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孫文辛亥市命・ lillll 兄弟関係資料受け入れ経線ゃないかと、やって下さっていたときに、それが昭和 ω
年代位か、なるかならない時だったか。岩井英一さんが臼年 頃になって、病気になられまして、それをお見舞いに行こ うという事になって、岩井さんの家が西荻窪にあり、行く 途中に山田さんの家があるというふうな関係があったんで、 時々山田さんのお宅へもお寄りするようになった。行って みてびっくりしたのは、自分には資料があるから、まとめ てみようという話を聞いていたのですが、行ってみたら、 資料があるどころではなく、資料のなかに埋まってしまっ ているという状態で、しかも、お姉さまを抱えて、そのお 世話もされている。奥様は病身であるというふうな、非常 なハンディを負われながら、自分でやっているんだとその 時に聞かされました。 その当時ではなかったかと思いますが、阿部さんの話と 辻棲がどうあってくるか知りませんが、山田さんは、東松 山市と滑川町に土地を
2か所持っておられまして、片方の 東松山市に入っている土地というのは、駅から歩いて十五、 六分から二十分位の所で、ここだったら、ここへ寮を建て て、あるいは資料を展示してやれば、東京に通えるのでは ないか、というふうなことで案内されて行ったんですけど、 それは、出口のない三角地であって、利用は非常に難しい。 もう一方の土地は、これは駅からとんでもなく遠く離れた 所で、実際問題として、ものを建てたり何かすることが可 能かどうか、ここではちょっと無理なんではないですかと 言いました。 それならばということで、今の靖亜神社の敷地の中に建 てさせてもらえるかと。私もできるかぎり協力したいとご 返事はしたのですが、ただ、いざ具体的な話になってくる と、山田さんの希望というのは、単なる資料館だけではな いのと同時に、そこに塾生を置きたいのだと。自分がそこ へ住み込んでその資料館を監督し、そこにいる学生も監督 し、一緒の生活をしたい。 それから、病気のお姉さんも一緒に生活し、病気の奥さ んも一緒に生活する。しかも、建てる建物というのは、現 在、靖亜神社の敷地面積は
2千坪ちょっとあるのですが、 それくらいで納まるかどうかというような、非常に膨大な 計画を建てておられたのですね白私の家族の問題、経営の 実態、それから果たして管理ができるのかどうかというよ うなことを考えた場合、これはとても靖亜神社の中では無 理ではないか。そういうことを私自身はその時感じたので すが、だめですよと直接山田さんに言ったのではないです が、山田さんもそのように無理
eたろうと感じられたようで あります。 埼玉県庁とも話をされたようでしたが、無理だったよう です。ただその後、どこか一箇所、随分具体的な話で、ど こか土地を買って、建物を建てるのだという話をしておら れるのを、私自身聞いていました。その話を聞いて、山田 さん自身はあせっているのだなと感じておりましたが、私 自身、無理だと感じたのは、現実問題として資金問題なの
ですね。それで、たまたま、平成
2年の
4月の靖亜神社の祭典の 時に山田さんが来てくださいまして、・これは、亡くなる前 年の明徳祭という靖亜神社の春の祭典ですけど、その時に 大野先生とご一緒になりまして、式典の後、例年どおりや
同文書院記念総 IO
なおらい
っている大覚堂で根津先生のお位牌の前での直会といいま すか、一緒に酒を飲みながらの話ですが、その時に、後で 大野先生からお話があると思いますが、本間喜一先生から お酒をことづかつて届けられたいきさつを山田さんに話を された。その翌日、大野先生は、その時は確か川越の佐久 間旅館に泊まられていて、愛大の卒業生である東松山にい る小高さんと私と
2人で大野先生をお誘いして、山田さん の家に行って、確か、大野さんも小高さんも初めてうかが ったのですが、いろいろお話をして、それから、山田さん の愛知大学に対するものの考え方が一変したと思うのです。 それまでの山田さんは、蒋介石総統や国民党との関係に 深く関わっていたようで、それに、台湾に長く住んでいた こともあって、台湾には非常に親近感を持っておられたよ うであるが、大陸の方はどうもそうでもない。愛知大学と いうのは、どうも赤いのじゃないかというふうな認識を持 っておられて、愛大というものには、若干敵視というほど ではないが、あまり良くは思っていなかった様子があった のではなかったかな、と私は感じるのです。それが、大野 先生との出会いによって一掃された。私に対しても、山田 さんはなにもかもを今後どうしても頼んでお願いするとし たら、愛犬に頼む以外にないんじゃないか、と言われるよ うになったし、これは山田さん随分考え方が変わったんだ なあと思ったのですけど。 とにかく、いってみれば、本問先生が大野先生に託され
た2本のお酒が取り持った縁と申しましょうか、それが思 い出されて、それが復活して山田さんの考え方が変わり、 それから後、
7月引日に亡くなった後、それを整理してお られるという、たいへん苦心された阿部さんのお話なんか を除ながらうかがったのですけど、阿部さんから電話をい ただきまして、それだったらもう愛知大学以外にはないじ ゃあないですか、愛知大学が良いでしょうと。相談される なら、愛知大学の大野さんに電話をかけて、そういうこと を相談されてはいかがかと申し上げ、阿部さんから話をし ていただいて、それからは話がトントン拍子に進んだとい うことなんです。 だいたい私が関係したところは、そういう所なんですけ れども、いずれにしましでも、私がうちの父から靖 E 神社 を引き受けて、お祭りしている気持ちと、山田さんが山田 純三郎先生のあるいは孫文関係の資料というものをかかえ て、それをなんとか世に出そうとやられたそういう気持ち とは、どこか相共通するものがあると思います。しかし、 これはなかなか難しいし、しかも非常に金もかかりますし、 なかなかそう簡単にできるものではないと思いますね。山 田さんの場合、非常に良かったなあと思うのは、阿部さん 始め、まあ山田さんが黄泉の国で満足されているのか何か わからないけど、結束さんに書いていただいて本がひとま ずまとまった。資料も愛知大学によって、整理もされ、展 示もされ、皆さんのお役に立つように活用されている。 こういったことは、本当に山田さんの人柄にもよるし、 それから、あれほどにも真剣になっておられることを感じ まして、私はこれは大変なことだ、特に後から聞いたこと なんですけれど、陳其美のあのときのお姉さん、それを一 番末っ子だった山田さんが面倒を見られるようになったい
I I
孫文字亥革命・山 III 兄弟関係資将受け入れ経鈍きさつというのは、皆さんは同文書院系の方が多いという ことで知っておられるはずなんでしょうけど、私はわかり ませんけども。私も、病人の父親、母親を抱えて何年か苦 労した経験があるのでわかりますが、よくあれだけの生活 に耐えられたと。本当に山田さんの精神状態には、非常に 強靭なものがあるし、しかも、それを一つのものに成し遂 げていこうということで、頑張り遇されたということが、 皆さんの共感を生むし、また、愛知大学の皆様方のご協力 も受けられるという要素というものが、何かこう、単なる 民族を超えて、日中関係というものにのめりこんでいくと いうような血筋というか、一番山田さんご兄弟のことを良 くわからずにこういうことをいうのは失礼でありますけれ ど、とにかく、山田順造さんに、そういった血筋が一番濃 く流れているのではないかという感じが、強くします。今、 一つの物ができつつあるということは、大変素晴らしいこ とだと思います。これは、ひとえに山田順造さんの、気概 と意気込みがなせる業であろうと、私自身感じ取るわけで あります。 私の話は、この程度のことでありますので、次は、その 問、その後のことについて大野先生にお願いいたします。
それでは、大野さんの方から、
ます。お話をうか
eかいたいと思い
大野私が書院のことを考え直すきっかけとなったのは、 笹林達夫さんが「濯友」に論文を書かれたのを読んだこと です。「濯友」の幻号
1988年間月号です。欧米の古い大 学は、その大学のル
lツを大事にしている、愛知大学もそ ういうことをされたらどうですかという趣旨でした。その 後たまたま、私立大学連盟の研修で、東洋大学の理事長の 話を聞きました。そこで、ユニパ
lシティ・アイデンティ ティーという考えを聞いて、愛知大学も考えなければと思 いました。同じころにまったく別なことで、東洋大学に井 上円了のことを聞きにいったら、たまたま井上円了会館の 動きがあることを知っておどろきました。今までは私自身 が同文書院の卒業生という意識もあまり持っていませんで したが、考えを改めようと思いました。同じころのベルリ ンの壁の崩壊と同じくらいのショックでした。それまでは、 池上先生がいても同文書院と愛知大学の関係、本当によく ありませんでした。愛知大学の中の世代交代もあります。 イデオロギーや偏見なしで古いことを率直に見ょうとする 若い人もふえました。今考えれば、当時平行していろいろ な事がありました。 愛知大学の藤田佳久教授の「東亜同文書院学生の中国調 査旅行コ
lスについて」もあり、栗田尚弥さんの『歴史読 本」の「東亜同文書院の群像」もあり、ハルピン学院の同 窓生が
5000万円集めて上智大学に寄付したことがあり、 それに刺激されて掘友の有志が独自にはじめ、ー億円集め たこともありました。藤田先生の論文の発表は
1989年ですが、藤田先生から直接話を聞いたのは
1991年でした。立命館大学の西国寺公の再評価もありました。ユニパ
lシティl・アイデンティティーの問題を考えれば、愛知 大学の場合は、同文書院が原点にあるのではないかと考え るようになって、平成
2年に靖亜神社に行きました。孫文
M 文符院記念線 12
と同文書院の関係に山田さんがいらっしゃることはおぼろ げながら気がついておりましたので、靖亜神社の祭典の翌 日、川越の佐久間旅館に泊まったのです。 私が山田さんの所へ行きたいといって、山田さんの所で 夕方まで過ごしたのです。そこで、いろいろお話をうかが って、特にその資料については、横浜で展示会をやり、新 宿で展示会をやったその資料を見て、これが愛大にあれば なぁと思いました。大学のアイデンティティーを考える場 合の資料になるのではないかと思ったのです。そうした関 係で、山田さんとは気心があったような感じがしたのです。 亡くなる寸前に、私が中央大学へ行ったとき、山田さんに 来てもらって閲分長く話したのです。とにかく、辛亥革命 の資料は、中国にもないような貴重な資料であると思いま
す。当時、村上さんからも、阿部さんからもお話があり、今 泉先生の努力と牧野学長の積極的な愛大への受け入れがあ ったのです。これが、将来的にどうなるのか。最近、学術 審議会で、ユニパ!シティ・ミュ
lジアムの設置について というのが、
3回ほど新聞に出ているのです。この資料こ そユニパ
lシティ・ミユ!ジアムの資料になるのではない かと感じたのです。知年たったら、孫文革命がどうであっ たか知らない人が多くなると思うのです。それを知らしめ るための資料として、愛知大学が世に問える、また、世間 の評価を得られる問題ではないかというような感じがして なりません。だから、ユニパ
lシティ・ミュ!ジアムの設置を、いかに愛知大学がやれるかということが、大学だけ の問題ではなく、金がかかることですから、豊橋市とか愛 知県とかそういうところの支持を得てやれたらいいなあと 感じています。 一升ピン
2本の話をして下さい。
村上平成
2年の4月n 日の靖亜神社の祭典の時、戦後す ぐに大野先生から山田順造さんに、本問先生から酒を
2本 依頼されて、わざわざ東京まで届けたという話が出たので す。本によりますと、確か「桜正宗」でしたか、
2本持っ て山田純三郎先生のお宅を訪ねたというのです。これが、 どういう意味で自分が本間学長から依頼されたか自分はよ くわからないという話が出たのが、山田さんと大野先生と の話のきっかけではなかったかと私は思うのです。 大野あの当時、なかなか勇ましい人が世の中にいるなぁ と思いました。山田さんがね、ちょっと文句を言ってね。 玄関で門前払いされてしまって、酒持っていったのに追い 返されてしまいました。それで、あなたがあの時の息子さ んですかということになったのです。
純三郎先生は、受け取らなかったのですか。
大野いや順造さんは受け取ったよ。その時は、純三郎さ んは青森へ行っていなかったのですが、順造さんは確かい
たのです。阿部純三郎さんはその時生きておられたんですね。
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孫文辛亥革命・ Ill 岡兄必関係資料受け入れ耗縛大野ご存命でした。終戦直後ですからね。純三郎さんが 愛知大学で講演したのを、この間見せてもらいました。講 演内容は、なかなかよかったですね。
大野さんはお聞きになったのですか。
大野直接は聞いていないです。
講演したという話だけで、詳しい資料はないですね。
大野愛知大学の卸年史編纂事務室にありますよ。つなが りますよ。愛知大学で講演した要旨を地元の新聞がのせた ものですロ
関係がこのような形で、あったということは確かですね。 この講演の内容も、記念センター報に掲載する予定でおり ますので、皆さんに見ていただけるようになるかもしれま
せん。村上愛知大学と靖 E 神社の関係ができるというのも、偶 然といえば偶然なのですが、今、東松山市に住んでおられ る小高圭治さんという方が、家へぶらつと来られまして、 「ここに靖亜神社というのがある。しかし、靖 E 神社と言う のは、東 E 同文書院にあった神社のはずだ。」という話をし て、自分も愛知大学の卒業生であると。今では、家族同然 のようなお付き合いをさせていただいているわけですが、 その当時は、何でこの人はわざわざ来られたんだろうとい うか。しかし、東 E 同文書院というものに関心があるから ということで来てくださって、まず、同窓会の埼玉支部に 呼び掛けて、最初に高井さん、井柳さん、そして吉川さん と愛知大学の卒業生の方が、祭典ごとに徐々に来てくださ るようになって、今では、小高さん家族や阿部さんにも手 伝ってもらって、祭典前の掃除だとかの準備をするという ふうな形になっています。 今や、同文書院の関係の根津先生の年忌法要、ご命日自 体は昭和
2年の2月日日なのですが、
2月だと雪が降った り鶴見の総持寺までお年寄りが来るのが大変なので、
4月にしようということで4月になっています。 それから、荒尾東方斎先生の方がゆ月の却日にお亡くな りになっていますので、それは
ω月却日に法要をやってい
ます。山田岳陽先生は、同文書院関係の方以外は、あまりご存 じないと思いますが、息子さんの山田厚先生というのが、 同文書院の先生もなさいましたが、終戦後、
GHQが漢文 を教育のカリキュラムから外そうといい始めた時、熱海の 錦ケ浦から、抗議のための投身自殺をされたというふうな ことがありました。うちの父などからも、厚先生、岳陽先 生は立派な方であったと聞かされておりましたロその山田 岳陽先生の法要をやるということ、千葉の山内さんが本問 先生の年忌法要をやろうと、特に、東 E 同文書院と愛知大 学を結びつけた精神的な基軸になっている方の法要を続け ていこうという空気になってきていて、それに、愛大の関 東の同窓会の方が非常に一生懸命やってくださっていて、 京都の月橋院に根津先生のお墓があるのですが、これも、
同文書院記念総 14
愛大の関係の方がご参列くださっているのではないかと思 います。今では、愛大の卒業生の関係の方のほうが、同文 書院の関係の方よりも、多いくらいになっております。 大野村上さんは、本問先生のお墓にしょっちゅう行って いたね。彼ら東京支部の連中といろいろ話したよね。
今までのお話で、この叩年のことは大体わかったのですが、 本問先生の時代には、鏑亜神社なり山田さんの資料のこと なり、大学側からは何もなかったのですか。
大野大学としてはね。
村上靖 E 神社のことについてお話させていただきますと、 靖亜神社が創建されたのが昭和叩年なんです。これは、上 海で大内暢三先生の時に創建されました。うちの父は同期 で、その前に卒業していますから、卒業後もしばらく
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年は、助教授として中華学生部の助教授兼寮監として残 っていたと思うのですが、出てから大正末年には東京に出 てきているので、靖亜神社のことについては、うちの父は 全く知識はありませんでした。ところが、昭和却年に、う ちの父は東光書院という私塾をやっていまして、それを再 興するからと、今の東松山市に土地を買って、同窓の方た ち、宇治田直義さんという外務省をやめていた方なんです が、この方は外交協会の理事長で、この外交協会が今の福 友会とどういう関係になっていたのかが、私にはよくわか らないのですが。濯友会理事長があって、福友会の会長は 内藤熊喜さんだったと思いますが、その方たちが、靖亜神 社を時期の村上の所へお願いしようということでした。あ ちこち走り回って、了解を得てくださったのは、宇治田さ んであったと思うのですが、うちで靖亜神社をお祭りする ことになった。その記事を見た京都の伏見桃山の山洲庵の 留守居をしていた藤居末乃さんという人、この方は根津先 生の奥さんの従姉妹かなにかにあたる方なのですが、その 人の実家の持ち物としてその当時はもう移っていたような のですね。そこに藤居末乃さんがずっといたのだけれど、 その山洲庵が人手に渡ることになったので、お預かりして いる資料・お位牌等をどこに持っていったらいいかという 話でした。 私は高校生時代でしたから、また聞きではっきりしたこ とは覚えていませんが、確か京都の同窓やその他の方たち には、愛知大学にお願いすべきではなかろうかという意見 があったそうです。ただし、その時に、藤居末乃さんは、 「愛知大学にお願いすると、自分が朝晩おまいりしていたお 位牌が、単なる資料になってしまう、それでは自分として は納得できない」。だから、東光書院という私の父の所で、 「靖亜神社と一緒にやってくれないか」というお話でした。 父も、同窓の方のご意見もあちこち聞いて回ったし、根 津家には、養子にされた真さんという方がいて、若死にさ れているのですが、根津先生が亡くなる前に、工兵大佐か なにかをされていた方を、夫婦養子にされているのです。 ですから、名目的には養子の方がおられるわけです。その 方は、仙台の方におられるからと捜した。わざわざ仙台ま で行って、こういう話があるがどうかと言うと、自分の所 ではお位牌を維持する力はないと。
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4義文字亥 •'fi. 命· llJ 川兄弟関係資糾受け人れ経緯そういうことで、京都の山洲庵から全部うちのほうへ来 て、今、今泉先生や迫田先生も来ていただいた大覚堂とい うのは、お位牌が来るということになって、それじゃあと いうことで地元の人が材木を出してくださり、浅見覚堂と いうお坊さんが、荒尾東方斎先生に私淑しておられた方で、 「巨人荒尾精」を一冊読んでこれは立派な方だと感じてい たのです。その方のお位牌が来るのだったら自分が勧進元 になって材木を集めましょうと云って下さいました。大工 の手間賃などは父が集めたのですが、そうして出来たのが 大覚堂です。鶴見の総持寺にあります根津先生のお墓の隣 に、水野梅暁さんのお墓がありますが、梅暁さんとうちの 父の二人は、根津先生がお亡くなりになるときに、先生の 枕頭に侍していたといいます。そういうことで、父と根津 先生との縁は深かったのです。しかし、靖車神社について はそのとき始めて聞きました。 その後は、靖亜神社をお祭りして、その後ごたごたあり まして、掘友会の方たちが遠くまで参列に来てくれないと いうことがあり、もう一つには、うちの父が靖亜神社とい うのは、戦後になったら同文書院の同窓だけの神社ではな いんだ、いろんな人がお参りしなければならないし、それ が根津精神だといって、大勢の方々に呼び掛けました。一 時は、根津先生の教え子である掘友会の人たちから、いく らか遠ざかったこともあるのです。 しかし、うちの父が死ぬ前から、昭和必年から私が靖亜 神社の方をやれといわれてやるようになりましたが、あく までも同文書院によって造られた神社だから、同文書院が 中心でなければいけないと、同文書院の会合には父の代わ りに私が顔を出すというような形で、徐々に同文書院の方 たちも、参列して下さるようになりました。今のところは、 同文書院の方が中心となって靖亜神社の祭典は行なわれて います。 靖車神社というのは、前の沼友会の会長をやっていた大 石さんあたりの時代に、靖車神社ができたのではないかと いう感じがします。昭和ゆ年ですから。靖亜神社の上海時 代を知っている同窓というのは、非常に少ないと思うので す。すぐに
l年か
2年で焼けてしまいましたし。しかし、 荒尾先生、根津先生、近衛公という三先覚の精神、同窓の 方たちの精神というのは受け継がれております。 今、大野先生がおっしゃったように、これからの時代は、 孫文革命を超えたところにあるのではないかという気がし ています。こういう話を聞いています。うちの父が書いて いるのですが、当時、大正末年、孫文一本槍の山田純三郎 と、清朝の徳はまだ衰えていないから、清朝の復砕を図る べきだと主張した西本白川という方が根津先生の弟子にお られて、この二人が上海の二大奇人であると言われていた ことがあります。だから、その当時、山田純三郎先生とい うのは、孫文一本槍でいかれたので、同文書院の関係者の 中でも奇人という見方をされていたこともあったのです。 しかし、歴史的に見た場合、それが日本と中国の結びつき の中での中心であったのです。 先ほど出てきました頭山満と犬養毅の二人の方々が孫文 革命を応援されたのですが、これは、遠山統一さんのかか れた本におもしろい箇所があって、犬養さんと頭山満さん が二人で孫文の宿舎へ行った。何かの機会で中国に渡られ
同文嘗院記念総 16
た時に、孫文の周辺にいた日本人のいわゆる大陸浪人すべ てを玄洋杜の猛者がすべて追い払ったという話が書いであ ったのです。孫文革命ということで、自分たちは応援して いるつもりであったのだけれど、孫文にとっては迷惑だっ た人たちがいただろうし、そういった人たちを追い払って、 本当の意味での孫文革命をやらせるためには、玄洋社の頭 山満という名前は非常にきいたのではなかろうかと思いま す。そのことを頭山統一さんは書いていますロ 根津先生は孫文を超えていたし、ましてや、中国共産革 命も超えている。永遠の生命というものを、日本と中国の 聞に築くだけの根津先生の思想、あるいは荒尾先生が実際 に行動で示されたものは、そこにあるのではないかと私は 思うのです。そして、このことこそ伝えていかなければい けないと、靖 E 神社をお祭りしているのですが、そこのと ころを、大野先生が、愛大のアイデンティティーとして何 か一つ発揮させなくてはいけないと言われましたが、そこ らあたりにあるのではないかと思います。ですから、孫文 というのはあくまでも一つの時代の形であって、それを超 えたものがある。その証拠物件とじては、孫文資料という ものは大陸・台湾ともに共通する素晴らしい資料だと思う し、それが忘れられない時代というのが、これからの日本 と中国・アジアの中に来るのではないかと思うのですロ
山田順造さんがお父さん、叔父さんの資料を伝えたいとい うお話だったのですが、その人柄なども含めてお話くださ
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阿部先程は、結局順造君が亡くなるまでにやろうとして いたことについて、私が関わったことを述べました。順造 君が亡くなったという現実の後、実際に愛犬にこの資料が 行くまでのことはまだ述べていなかったので、それを順造 君がお姉さん二人を一緒に面倒見ながら、やっていたとい う話がでました。私が見た限りでどんな人だったかという ことを、資料が愛大に行くまでのことを述べてみたいと思
います。私が山田家に通い出してからの事ですが、山田さんは亡 くなる前、お姉さん二人の面倒を見ていたのですが、民子 さんという下のお姉さんが、陳其美が衰世凱の刺客に上海 の山田邸でピストルで撃たれたときに、その一弾が赤ちゃ んだった民子さんを抱いていた阿婿の耳をかすったので、 驚いて民子さんを落としてしまったために、それ以来完全 に知能の発達が止まってしまった。それについては、山田 純三郎さんも奥さんの喜代子さんも、本当に革命の犠牲者 だということで、民子さんも、脳がそれ以上育たなかった ために、大声をだしたり、ア
iア!といって、ただ体だけ は大人になっていったのです。その変化に応じて着物をち ゃんときれいに着せて、家中が民子さんを大事にされてい
たのですロそういう経過があって、純三郎さんが亡くなってしまっ た時に、長男であった順造君のお兄さんが見るのが至当と いうことでもないのですが、お兄さんも身体の具合が悪か ったものですから、順造君がみるように自分で引き受けら れたのだと思います。奥さんもそれに賛成されて、結局二 人のお姉さんの面倒を見ながら、やりたいことをやろうと
17 孫文字亥本命・ llllll 兄弟関係資れ受け入れ経緯
していたわけですから、もう普通の人ではできないことな のですが、お父さんの純三郎さんが、「民子は、革命の犠牲 者であり、人類のための犠牲者だ」というようなつもりで 育ててきたのを、お父さんの死後は、身体の悪いお兄さん に代って、自分が面倒を見なくてはいけないと覚悟された ようです。 私が委員会ができて山田さんのうちへ行きだしてからも、 そのお姉さんにはお会いしていません。山田さんは、「姉さ んに会ってみるか」ということは一言も言わないために、 私はあんなに通いつめていたのに、ついにお姉さんには会 わずじまいでした。民子さんは、ときどき大きい声を出し たり、「あ
l」というと、山田さんは話をしていても、「ち ょっと、失礼」といってすぐに民子さんの世話をしに行っ たりして、落ち着くとすっと戻ってくるといったふうでし た。そして、上のお姉さんの方が体が非常に弱ってしまっ たので、二人の世話はできないというので、先に八王子の 施設に預けざるを得なくなって、それからまもなくそのお 姉さんは亡くなったようです。 そして、今度は、自分が弱ってきた段階で、自分の奥さ んも体が弱いのに自分の死後、奥さん一人に民子さんを任 せて死ぬわけにはいかないと、いよいよ具合が悪くなって から、自分が生きているうちにと涙を飲んで、民子さんを 施設に入れたのです。順造さんが亡くなったときには、奥 さんはもうひどく身体が悪くなっていて、ほとんど自分が 生きているだけでやっとという状態でしたから、順造さん のお葬式が終わるとほとんど同時に家のなかの若干の後始 末を、三菱時代の親友二人と私とに相談されて、荻窪の同 じ病院に入院されたのです。奥さんもそんな具合ですし、 お兄さんも具合悪くて寝ているもんですから、結局、三菱 時代の親友二人が、お葬式のことについて全部やってくだ
さった。順造君には子供がいないので山田さんが残された資料以 外の財産については、私と三菱の人たちと話して、私自身 は資料以外の財産については不得意であるし、お二人と奥 様でやってください。資料については、私がずっとやって いた関係上私がやりますと、仕事の区分けをしたのです。 他人が区分けするのはおかしいのですが、こういう区分け でやりますと、同文書院の先輩である長男の山田忠さんと 奥さんの両方にお話したら、それでお願いしますというこ とでした。大分長い時聞かかって遺産相続の方も一応解決 したということを、奥さんから聞きました。奥さんは、現 在、船橋市がやっている養老施設に入っておられて、山田 さんが亡くなった宣後、ご自分が入院しているときに、交 通事故で足を大怪我しまして、車椅子になり、まずは、武 蔵境の日赤に入って、それから所沢の病院に行き今は船橋 市の施設に行かれたので寸。今は非常に精神的に落ち着か れて、そこで一生を過ごそうと考えられているようです。 資料の事ですが、お兄さんと奥さんの了解が得られまし たので、まず、順造君が自分で作った資料のインデックス と、現実の物があっているかどうかをどうしてもつきあわ せないといけないのです。私はそういった整理の能力がゼ ロに近いので、中山優先生(同文書院卒業生)の関係で知 り合った、たしか中央大学と亜細亜大学の哲学と中国語の 先生をしていた中下正治さんと非常に親しくなっていたの
同文書院記念鰍 18
で、この先生なら資料のこともよくわかるし、頼んだらい いよということなので、自分のゼミの中国人の留学生
3人を含む
718人の学生を連れてきてくださって、確か
2日くらいかけて虫干しがてら全部チェックしていただきまし
寸~。すると、山田さんの資料に載っているのにないものも出 てきたし、載っていないのに資料としであったものもでて きました。一応、新しい資料のリストを作りあげたので、 後は、たくさんの人ではなく、本気になってやってくれる 人が必要になったので、やはり中下先生のゼミ出身で西尾 君という人で、現在上智大の大学院で「外国における日本 の新聞」をテ
lマにしている人がいるのですが、その人に 頼みました。そして、非常に気持ち良く、ほとんど毎日の ように通ってもらいました。私も有り難いので自分でお弁 当を作っていって、
2人で僕の作った弁当を食べながら、 とりあえず愛大に出したリストを作りました。 そして、このリストでどう愛大と交渉したかは、先ほど 村上さんや大野さんの話に出てきておりますので、細かく 言うことはありませんが、ただ、私としては、全然の他人 が許可を得たとはいいながらやるのですから、ちゃんとし た文書を愛大との間で交換しておかなければいけないと思 って、大野さんを通じて愛大の学長さんと相談していただ き、覚え書きに基づいてこれらの資科を愛大に寄贈すると 言うのを作りました。もちろん、お兄さんの忠さんにもお 見せして、了解していただき、奥さんは資料には全然関心 がございませんが、大体了解していただき、愛大も了解し ました。寄贈者は山田忠さんと順造君の奥さん、そして、 愛大の学長の印もいただいて愛大に送ることになりました。 ただ、愛大に送る時に、愛大に持っていく際の費用は、全 部愛大で出していただきたいということで許可を得て、愛 大のトラックに乗せて、大野さんをはじめ、責任ある方に 来ていただいて、段ボール箱に相何個でした。その際、整 理しながら入れることはできないので、これを全部持って いってくださいということで、向こうにいってから整理す ることにして、持っていっていただきました。 順造君は趣味として盆栽をやっていましたから、盆栽の 本もいいものが交ざっているかもしれないと、一応全部持 っていっていただきました。その後は、愛大の方に多大な るご努力によって、覚え書き以上のことをしていただいた と思って、順造君は喜んでいると思います。 司会これに関連しますと、届いた段ボールを開けて、整 理を始めるわけですが、今、阿部さんがおっしゃったよう に、盆栽関係の雑誌とか、若干のコインなども入っていま して、そのコインや印鑑は後で山田家へお返しいたしまし た。趣味の盆栽等の本は、資料としてもらうということに しました。記念センターの運営委員で、この整理のために 助言してくださった古文書を扱っている教授の指示で、反 古紙に至るまで捨てずに、全部保存しろということなので。 資料というものはそういうもので、将来は山田順造さんに まで研究が及ばなくてはいけない。その時には、順造さん がどのような本を見ていたのかは、非常に重大であると。 今度、山田順造さんがやっていたファイルの整理が一応終 わり、この中には、そういった園芸とかいうようなものも
19 孫文辛亥革命・ 111m 兄弟関係資料受け入れ経緯
あるわけです。純三郎さんのことや、青森の津軽家のこと とかでなくて、山田順造研究に直接関わるような資料もあ ります。いただいたものは、すべて整理するということに なっていますので、一言付け加えておきます。
山田順造さんの経歴をうかがいたいのですが。三菱商事に 入られたのですか。
阿部私は、会社の事は全然知らなくて、順造君について のことを小耳にはさんでいるだけで、はっきりしたことは 言えないのですが、確か、三菱商事におられて、台湾に長 くおられて、子会社をつくられた時に一緒にやった人が先 程の二人の方ですが、本聞きんと横須賀さんという方です。
村上梅の焼酎だとか、梅のピンが並んでいたりというこ とも、随分ありましたね。
阿部ついでですから、山田さんの庭は初坪くらいあった のですね。北側に家が建っていて、南側が庭になっていま したね。その庭は山田くんが自分で盆栽を置いて、真ん中 に大きなコンクリートの水槽ができていて、一所懸命盆栽 をやっていたわけですが、今度は、庭のむこう側に住んで いた家との聞に垣根があって、垣根の隣に梅の木がずらっ と並んでいて、毎年 ω1m キロ梅が採れた。そして、山田 さんは自分でそれを梅酒にしたり、梅干しにしたりと全部 一人でやっていた。私自身は、通っている頃、随分梅干し やら梅酒やらいただきました。山田さんが亡くなった時、 全部自分で開けて出してみました。奥さんにも了解いただ いて、誰かに貰ってもらいますからということで、僕の関 係している青少年福祉センターというところに、それは、 自動車の整備士の訓練所もやっているものですから、そこ の方にほとんど引き取ってもらい、愛大が派遣した運送の 人にも、好きな方はどんどん持っていってくださいといっ て、梅酒の入ったピンをあげたりして整理しました。梅干 しなどは、いいのもあれば、ちょっと崩れて人にはあげら れないようなのもありました。 これは、資料以外の財産のことですので、必ずしも述べ なくてもいいとは思いますが、資料以外のもので、資料を 置くようなところに、一つの風景として、山田さんの持っ ているものでなにか参考になるようにと、彫刻したような 衝立てと、像みたいなものを、お兄さんと奥さんの許可を 得まして一緒に持っていってもらったと思います。後のこ とに関しては、私の範囲外のことで、今どうなったかは知 りません。
同文曾院記念総 20
司会愛知大学の本館は三階建でコの字型になっていて、 その両脇の所に、平屋で付随したような建物が延長してい たのですが、ここを壊しまして、新しい本館を造る。で、 現本館をそのまま記念建築物として保存するということも 決まっております。これを、かねがね我々記念センターの 関係者等が、展示館、先程の大野さんの言われた大学博物 館のようなものにしたいと考えてきた。大野さんの構想が 相当盛り込まれると思いますが。記念センター側としては、 このコレクションや、今度、村上さんの方からも、根津先
生の遺品などをいただきましたので、そういったものに加 えて、さらに同文書院の方々にも呼び掛けて、保存する場 所ができれば、いろいろな物を愛知大学にいただくという ことも考えたい。それらの物を整理・陳列する場所を是非 作りたいと考えております。そこには、衝立てなども適当 に展示できるのではないかと思っています。
大野日本の大陸への教育政策、それは、侵略政策かもし れないが、京城とか台北とか、そういうところの資料も集 めるといいと思います。
213日前に手紙をいただいたの ですが、
ω月7日は、日本寮歌祭がありますね。中島寛司 さんから連絡があったのには、来年くらい豊橋で外地にあ った大学の寮歌祭を豊橋でやるかもわからないということ を言っています。それができれば、やはり、いろんな資料 が、その当時の高等教育の、日本の政策の資料のメッカに 愛知大学がなる。そんな感じもしております。 さきほどの山田さんの資料の評価については、だいたい 今泉先生と話し合って、大学として受け入れるという方向 が出て、伊藤喜久蔵さんに電話したんです。そうしたら、 ハワイで辛亥革命の孫文の研究会をしたのには、確か伊藤 喜久蔵さんは出席され、愛大の卒業生の長谷川龍太郎君も 出席されて、池上先生も出席された。そして、私の話を聞 いて、それは重要だと。その後、
NHKがなにかやるらし
くて、NHKがやる前にぼーんと新聞に書いとけと。ちょ うど阿部さんの所に行ったところに、中日新聞から電話が かかってきて、東京新聞から、それで、東京駅で会って、 東京新聞へ載ったのです。たまたま今日調べたら、これが 最初なのです。伊藤喜久蔵さんは東京新聞ですが、もう辞 めたと思うのです。その中央大学を出た新人記者が駅で待 っていて、かなりゆっくり話をして、この書いている人は 何も知らないのです。伊藤喜久蔵さんが書いたのはわかる のですよ。内容は。たまたまこれが愛知県の出身で、新開 会の時に僕の友だちが、今、神奈川新聞の編集長だが、そ れの話をいろいろしながら、豊橋に帰ってからもしょっち ゅう電話があって、こういうところはどうしたらいいかと か。それが中日新聞に、東京だと東京新聞の記事です。 この山田資料についてですが、山田順造さんは自分で集め られた資料もあるのですか。 阿部勉強した資料はたくさんあるけれど、山田さんが集 めた資料は、図書館へ行って、お父さんが残された資料を 解釈するうえで、そのつながりですね。その資料がどうい う背景にあって、この資料があるかというような。そうい うことを調べるために、随分図書館に通って、特に東大の 東洋文庫にいって、そこの学芸員の方が非常に親切だとい うことで、随分そういうところからコピーを取ってきたと いうような資料はありますけれど、山田さんが中国へ行っ たり、孫文関係の中国人から集めてきた資料は、ほとんど なかったと思います。 繍浜の展示会はどういういきさつでやったのですか。
阿部あれは、有名な本屋さんの有隣堂の社長、あの方は、
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孫文字・亥革命・ 111m 兄弟関係資料受け入れ経緯孫文の頃の中国の近現代史に非常に興味がある方で、今ま でにも何かやったことがあると言っていました。そこで、 山田さんの所に、資料を借りる交渉に来たときに、一回は 私もいたことがあります。山田さんが、ある東京の有名な 大学の大きなイベントがあった時に、資料を貸したくない のだけれどお貸しすることになって、そのリストをきちん と作って出したのだけれど、返ってきたときにいちいち自 分がチェックできないので、後でチェックしたら足りない のが何点かあった、ということを聞いています。
村上その時の話ではないですか、台湾か何かに義理立て して、許可が出たら、大陸の方か何かの資料をそのまま写 真か何かに使ってもいいのとか、展覧会を担当した女性が 聞にたって交渉したりしているというのを聞いたことがあ ります。展覧会か何かに出す時に。ちょっと書いてありま したね。意外に神経質でしたね、山田さんという方は。台 湾の方には非常に神経を使って義理立てしていましたね。
阿部それは、台湾自身が非常に神経質であったことが一 つと、蒋介石と何か、外から見たら少なくとも仲たがいし ていた時期があったし。向こうへ行ったら、どんな状態で あっても、山田純三郎さんを常に温かく見ていたし、純三 郎さんが亡くなった後でも、確か盆暮れに台湾のおいしい 紹興酒が必ず来てまして、私も飲ませてもらいました。そ んなことで、山田さんには恩義があるから、ちょっと神経 質になりすぎていたところはありますね。 山田さんのお宅では、どういうふうに資料が保管されてい たのですか。
同文 jlJ院記念鰍 22
阿部山田さん宅の玄関から入ってすぐ右に、庭にむかつ て応接聞があって、そこに蒋介石の若いときと山田さんの 大きな写真があり、孫文の像があり、孫文の書いた額が掛 かっていたりして、その部屋にも資料が若干ありました。 奥に入ってっきあたりに、本棚がずらっとあって自分のフ ァイルと、山田さんが個人で整理したものが全部つまって いて、その部屋の脇に廊下を改造したような自分の勉強部 屋があって、机といっぱいの資料がありました。
村上隣の家との塀とのあいだに、軒を降ろすようにして、 そこにも本や何かがいっぱい詰まっているんだということ
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