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カンドゥ問題をめぐる清朝とダライラマ政権の対応

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カンドゥ問題をめぐる清朝とダライラマ政権の対応

17 世紀後半(康熙朝初頭)の清チベット関係

山 田 勅 之

The Treatment of Kandu by the Qing Dynasty and the Dalai Lama Government

The Relationship between the Qing Dynasty and Tibet in the Latter Half of 17th Century

—the Beginning of the Kangxi Period

Y

AMADA

, Noriyuki

Qinghai Güshi Khan’s fifth son, Ildüči’s eldest son, Kandu was send to govern Kham. At first Kandu took action as dge-lugs-pa sect’s patron, in the same way as other Güshi Khan families. But later he changed to protect karma pa sect, and conflicted with the Dalai Lama government. This article clarifies the rela-tionship between the Qing dynasty and the Dalai Lama government through an examination of their treatment of Kandu.

At first, the Kangxi Emperor had a passive attitude, but later he actively took part in the issue because he had less military power than Kandu had in Yunnan. It is believed that he was forced to accept all of the Dalai Lama’s requests, and he expected the Dalai’s Khong Tayiji and the Dasi Baatur Thayiji to exterminate Kandu’s powers.

On the other hand, the Kandu issue meant that an area was created where the 5th Dalai Lama could not politically and religiously govern. In order to address this issue, initially the 5th Dalai Lama requested the Kangxi Emperor to let the incarnated lamas of the Karma-pa sect return to Lhasa. As a result, they were put under the control of the 5th Dalai Lama, and he retook the rgyal

thamg area through attacks by Dasi Baatur Thayiji.

This was seen as compliance from Kangxi’s, and from the view of the Dalai Lama, it actually meant the final solution to the Kandu issue. Some 'jang powers and karma pa’s temples during Kandu’s rule were exterminated, and the dominant dge lugs pa sect was established in the area.

Considering the circumstances mentioned above, the 5th Dalai Lama was led the initiative in solving the Kandu issue, and thus his sphere of influence expanded south. I think that Kandu issue should not be recognized as a small issue in not only Tibetan studies, but also East and Inner studies.

Keywords: Kandu, Qing Dynasty, Dalai Lama Government, Karma pa sect,

Wu Sangui

(2)

はじめに

1637 年,青海ホシュート(qosiGud)のグ シハン(gUSi qan)は,バートル・ホンタイジ (baGtur qong tayiji)を青海に派遣して,カル マ派(karma pa)を擁護するチョクト(coGtu) を破った。これに対しダライラマ 5 世は彼に 護教王(bstan 'dzing chos kyi rgyal po)の称号 を贈った。さらにグシハンは,1642 年,カ ルマ派の施主であるツァン王カルマテンキョ ン(karma bstan skyong)を破り,チベット を平定すると,ダライラマ 5 世をシガツェ (gzhis ka tse)に呼んで,チベット 13 万戸を 寄進した。ここにグシハンを最大の施主と するダライラマ政権が成立する(石濱 2001: 115,山口 2004: 99-100)。他方,カルマ黒 帽派をはじめとするカルマ派の主要な転生ラ マたちは,居住地であるウー(dbus)からカ ム(khams)への逃避を余儀なくされる。 このグシハンには 10 人の子供がおり,こ のうち第 5 子のイルドゥチ(ildUci)の長子

カンドゥ(Mon. kandu, Tib. mkha' 'gro),―漢 文史料では干都,罕都,康東などと音写され る―,はカムへ派遣され,当地の統治を任さ れることになる1)

カムのうち,南部のボンボルワ(sbo 'bor ba)と呼ばれる地域は 1640∼50 年ごろまで, 麗江のジャン王2)('jang rgyal po,木氏土司)

の支配下にあった。金沙江の東から雅龍江の 西までの一帯,現在の行政区分で言えば,雲 南省西北部と四川省西南部にあたるこの地域 において,カルマ派の施主であったジャン王 はその保護振興を図っていた(山田 2011)。 これに対し,カンドゥはこの地域を占領して から,寺院のゲルク派(dge lugs pa)への改 宗や整備を行い,ジャン版カンギュル('jang bar bka' 'gyur)3)の版木を接収してリタン(li

thang)寺へ移すなど,他のグシハン一族同様, ゲルク派施主としての行動を取っていた4) すなわち,青海ホシュートによる支配とダラ イラマ政権の影響力が相互に重なり合う状況 が出現した(小林 2010: 56)。 ところが,後年カンドゥはカルマ派擁護の はじめに 1. カンドゥ問題発生前史  (1)カンドゥの行動  (2)カルマ派転生ラマたちの動き 2. カンドゥ問題処理に向けた動き  (1)問題の表面化  (2)行動に移す清朝 3. 康熙 11(1672)年の中甸(ギェルタン) の状況 4. カルマ派転生ラマの帰還とカンドゥ問題 5. 呉三桂の反乱とカンドゥ問題 おわりに

1) 「カンドゥ・ロサンテンキョン(mkha' 'gro blo bzang bstan skyong)は大変勇敢な方で,マカム(smra khams)地区へ軍官を連れて行き,ドカム(mdo khams),ガンドゥック(sgang drug)全てと,東 はダルツェンド(dar rtse mdo)までを征服した。(mkha' 'gro blo bzang bstan skyong dpa' rtsal shin tu che bas / smra khams phyogs su dmag dpung btegs mdo khams sgang drug thams cad dang / shar dar rtse mdo tshun chad dbang du bsdus / GBSH: 71)

2) ジャン('jang)はナシ族を,サタム(sa tham)は麗江を意味する。史料中には 'jang rgyal po 又は sa tham rgyal po,'jang sa tham rgyal po など様々な表記がなされているが,本稿ではチベット語史料に よる場合は全てジャン王に統一する。

3) ジャン王('jang rgyal po)・カルマ・ミパムツェワンソナムラプテン(karma mi pham tshe dbang bsod nams rab brtan)こと麗江土司木増が施主となり,カルマ派赤帽ラマ 6 世ガルワン・チューキワンチュ ク(gar dbang chos kyi dbang phyug)が編纂し,1621 年に完成した(山田 2011: 120)。

4) 「〔カンドゥは〕赤帽 6 世が善住法会をなさったカンギュルの版木を接収してリタン〔寺〕に安置 したのだった」(zhwa dmar drug pas rab gnas mdzad pa'i bka' 'gyur gyi bar shing blangs nas li thang du bzhugs pa sogs / GBHS: 71)

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姿勢に転じるとともに支配地の拡大を図り, ダライラマ政権と対立することになる。雲南 省と接するこの地域をめぐる対立に,少なか らず清朝も巻き込まれていく。さらに三藩の 乱勃発に伴い,この地域の戦略的重要性が増 していく中,1674(康熙 13)年にグシハン の第 10 子タシバートルタイジ(Tib. bkra shis baa thur tha’i jis,ウルジェイトゥ・バートゥ ルタイジ Mon. OljeitU baGatur tayiji)がギェル タン(rgyal thang)5)に進軍しカンドゥ勢力を 完全に駆逐する6)。本稿ではこのようなカン ドゥの行動及びダライラマ政権との対立をカ ンドゥ問題と呼ぶことにする7) 従来,このカンドゥ問題について,単なる 政権内の対立というだけではなく,グシハン 一族の 1 人がカルマ派擁護に転じるという特 異な事象であるにも関わらず,チベット史や 内陸アジア史において検討されることが少な かった。また,カンドゥ問題発生の要因の一 つはカルマ派転生ラマたちの行動にあるにも 関わらず,それについても十分に検討がなさ れていない8)。その最大の原因は編纂史料中 にカンドゥに関する記録が少ないことにあろ う。漢文史料で言えば『大清聖祖仁皇帝実録』 (以降『聖祖実録』と略記)や『庭聞録』,及 び康熙『剣川州志』や康熙『鶴慶府志』,康 熙『雲南通志』といった地方志に僅かに記述 が見られるのみである。またチベット語史料 においても,『ダライラマ 5 世自伝』や『漢 蔵蒙史略』,『メボシェルン』9),『ムリ政教史』 などに散見されるのみで,カルマ派側の史料 である『カルマ・カギュ派高僧伝』や『カル マ派黒帽伝』などにはカンドゥの名すら出て こない。さらにカンドゥ側の史料となると管 見の限り皆無である。従ってこれらの史料を 中心に用いた研究は,カンドゥ問題の最終的 処理によって雲南におけるカルマ派勢力が消 滅し,これが青海ホシュートによるチベット 地区の完全統一に繋がったという歴史的事 実を述べるにとどまっている(隋 1996,王 1995)。 これらに対し,青格力(2014)は前述の 史料のほかに,『清内秘書院蒙古文檔案匯編』 第七輯(以降,『内秘書院檔案』と略記),『清 内閣蒙古堂檔』第 1 冊(以降,『蒙古堂檔』 と略記)10)に収載されている康熙帝とダライ ラマの間を往復した書簡群(モンゴル語)を も利用して,これまで知られることがなかっ 5) 漢文史料では中甸と記載される。現在香格里拉県と称されているが,チベット語史料による場合は ギェルタンと記し,漢文史料による場合は中甸と記す。また,後述するようにモンゴル語史料では rgyal thang の音写と考えられる jaltang,あるいは漢語の中甸の音写と考えられる jong diyan の 2 通 りの記載が見られる。 6) 後述するようにカンドゥの死亡時期は明確ではないが,本稿ではダライラマ政権によるギェルタン 占領をもって,カンドゥの政治勢力消滅とする。 7) 隋や青格力はカンドゥ事件と呼んでいる(隋 1996,青格力 2014)。 8) Richardson(1958)や Douglas,White(1976),Kunsang,Pema(2012)などのカルマ派に関する専 門論文においても,1642 年から彼らがラサに戻るまでの期間に関しては概説的説明に終始してい る。また,カルマ派転生ラマたちの帰還について,ダライラマ 5 世と和解した(Richardson 1958: 159, Kunsang, Pema 2012: 147),あるいはダライラマ 5 世の深い憐み(Douglas, White 1976: 88)か らであったとされている。 9) 『メボシェルン』に関する書誌情報は青格力(2001)を参照のこと。 10) 『内秘書院檔案』(全 7 輯)と『蒙古堂檔』(全 22 冊)は,清朝とモンゴル・青海・チベットなど の王侯やラマとの間でやりとりされた書簡群を内秘書院,あるいは蒙古堂で翻訳抄写された檔冊の 影印版史料集である。書簡作成の年代は『内秘書院檔案』が崇徳元(1636)年∼康熙 9(1670)年で, 『蒙古堂檔』は康煕 10(1671)年から雍正,乾隆年間にまたがる(康煕 13(1674)年と康煕 19(1680) 年は欠落)。抄写された言語は『内秘書院檔案』がモンゴル語,『蒙古堂檔』がモンゴル語・満洲語 の合壁がほとんどであるが,本稿が扱う康熙朝初頭はモンゴル語である。藩部行政において,満洲文, 蒙文が主たる言語である点,檔冊とはいえ作為の入る余地がない点を踏まえると,両史料集は第一 級史料である(岡 2007,渋谷 2007)。なお,清朝とダライラマ 5 世との間でやりとりされた書簡は, 一部中国語訳されている(中国第一歴史檔案館・中国蔵学研究中心 2000)。

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たカンドゥの行動を明らかにした。その上で, カンドゥ問題の根本,あるいは内在的原因は モンゴル遊牧集団の分散・集合の循環といっ た遊牧社会の本質にあると述べている(青格 力 2014: 312-313)11)。 青 格 力(2014) は 隋 (1996)や王(1995)の研究から大きな前進 をみせた点,当該研究への貢献度は高いとい えるが,カンドゥ問題におけるカルマ派転生 ラマたちの行動の意義やカンドゥ勢力の支配 地域への浸透度,あるいはカンドゥの処遇に 対するダライラマ政権と清朝の行動,さらに は両者の政治的関係についてまでは十分な検 討がなされていない。 そこで本稿では,まずカンドゥ問題発生前 の状況を概観し,次いでカンドゥ問題の表面 化を,カルマ派転生ラマたちの行動を踏まえ ながら,『内秘書院檔案』,『蒙古堂檔』を中 心に分析し,カンドゥの行動から彼の統治の 実情,狙いを検討する。また,これまで十分 に分析されてこなかった『中央研究院歴史 言語研究所現存清代内閣大庫原蔵明清檔案』 (以降,『明清檔案』と略記)中の奏摺を用い て,清朝の雲南駐屯軍から見た,三藩の乱勃 発直前でカンドゥ問題処理方針が固まった康 熙 11(1672)年のギェルタン地域の勢力諸 相とカンドゥ支配の浸透度を分析する。最後 に,ダライラマ政権によるギェルタンへの出 兵を三藩の乱勃発を踏まえて検討する。 清朝とチベットはダライラマ 5 世が順治 9 (1652)年,北京を訪れ順治帝と会見して以 来,施主福田の関係にあり,「仏教の興隆と 有情の利益」を共有するチベット仏教世界の 一員ではある(石濱 2001)。それゆえ両者の 外交形式上の表現は仏教的価値観を反映した ものであるが,政治的懸案事項の協議では, 当時の政治状況に応じた,両者の異なる思惑 が激突していたであろうことは想像に難くな い。カンドゥ問題処理を巡る両者の対応を検 討することは,17 世紀後半,康熙朝初頭の 清朝とチベットとの政治的関係を描出するこ とにつながると考えられる。 なお,上述の通り,本稿では漢文・モンゴ ル語・チベット語史料を使用する。史料を引 用する際は原文を注に記す。但し,モンゴル 語とチベット語の場合,ローマ字転写とする。 また,引用史料中の〔 〕は筆者が補った語 句を示し,( )は筆者による注記を表す。 1. カンドゥ問題発生前史 (1)カンドゥの行動 カンドゥがカムに来た時期を明確に記した 史料はないが,『ダライラマ 5 世自伝』には, 1647 年,カンドゥが青海からダライラマ 5 世に供物を捧げに来ており12),また 1652 年 6 月,ダライラマ 5 世が北京へ向かう途上の チュ・マ(chu dmar)13)にカンドゥが見送り に来て,その後「カムへ戻った」という記述 がある14)。ここから,恐らく 1650 年前後に はカンドゥはカム地方へ入っていたと考えら 11) 手塚(1999)はグシハン勢力のカム統治を検討しているが,カンドゥ問題を対象に挙げてはいない。 Ahmad(1970),Rock(1947)も同時期のギェルタンの状況を検討しているが,同様にカンドゥ問 題は取り上げていない。馮(2007),蘇郎甲楚(2007)は歴史的概説にとどまっている。 12) 「〔青海〕湖畔からカンドゥはやって来て,白馬 10 頭分の銀の鞍を献上するとともに,(ダライラマ 5 世と)会見し,……」(mtsho kha nas mkha' 'gro 'byor ba'i rta dkar po bcu la dngul sga gtad pa'i phyag rten dang bcas phrad cing ... / DL5, Vol. 1: 281)

13) 金沙江上流を指す(佐藤 1978: 64)。

14) 「チュマの渡渉〔地点〕の上手で,カンドゥをはじめとする非常に多くのカムの僧俗,チベットの 遊牧民が各地の風俗に応じて,馬,鎧,茶,獣皮など様々な品を並べ置いた。人が多く集まってい るところで,〔ダライラマ 5 世は〕六字真言の随許……を行った」(chu dmar brgyud kyi phur mkha' 'gros gtsos par khams kyi skya ser bod 'brog gtos che bas so so'i yul lugs dang bstun pa'i rta khrab / ja pags rigs sogs bdog pa rnam grangs mang ba bstar / khrom la yi ge drug pa'i rjes gnang dang ...byas /(DL 5, Vol. 1: 360)「カンドゥはバルカムへ戻った」(mkha' 'gro bar khams su phyir bteg / DL 5, Vol. 1: 361)

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れる。 カムに入ってからのカンドゥの動きについ ても,断片的な記載しか見られないものの, チベット語史料にはゲルク派施主としての事 績を中心とした記述が見られる。たとえば, リタン寺を 1654 年に拡張修建し15),また, かつてジャン王の支配下にあったボンボルワ の一部であるムリ(mu li)においても,カ ンドゥが在地勢力と協同してゲルク派への改 宗を押し進めている16) 他方,漢文史料には,順治 16(1659)年 以降,中甸におけるモンゴル勢力の様子が記 録されている。まず, (順治十六年巳亥四月)高啓隆17)は蘭州よ り浪滄に進み尼那,中甸に至るに蒙古之れ を拒む18) と記されている。尼那とは中甸の西で,現在 の維西を指す(方 1987: 842)。モンゴルが南 明の残党高啓隆が入域するのを拒否したとあ る。順治 16(1659)年は呉三桂が南明政権 を駆逐し,雲南全体が清朝の支配下に入った 年である。清朝の領域とモンゴル人勢力の統 治区域が接することになった結果,これ以降, 両者の接触,衝突の記録が散見されるように なる 翌々年の順治 18(1661)年,ダライラマ 5 世とカンドゥが使者を派遣して,呉三桂に 北勝での茶馬交易を求めてきた。これに対し 清朝はこの地に茶馬司設置を新たに認めてい る19)。カンドゥが 1650 年前後にカムに入っ た点と彼の使者が北勝に来た点を踏まえる と,上述の「蒙古」とはカンドゥの勢力であ ろう。また,この時期のギェルタンの帰属に ついて『ダライラマ 5 世自伝』をはじめとす るチベット語史料では言及は見られないが, ここからすでにジャン王からカンドゥにその 帰属が移っていたことがわかる。その一方で カンドゥは南方への軍事進出を図っている。 〔康熙五(1666)年〕八月,蒙古の開れた る六台吉,烏斯蔵の達頼喇嘛,麗江,永寧, 北勝の辺境を犯す20) 蒙古の六台吉の詳細は記されていないが,こ れまでのカンドゥの行動を踏まえると,こち らも彼の勢力が主体であろう。また,ダライ ラマの名が併記されていることから,清朝側 はカンドゥとダライラマ 5 世が協同して辺境 を犯しているものと認識していることがわか る。さらに,翌康熙 6(1667)年 3 月,呉三 桂はカンドゥが麗江,北勝方面に兵を集めて いることに対し,防禦体制の強化を求める奏 摺を送っている21)。さらにその 2 ヶ月後の 5 月にカンドゥは再度茶馬交易を要求する使者 を派遣している22)。ここまでのカンドゥの行 動を踏まえると,カンドゥの南方への進出の 15) 「施主であるプン・カンドゥが実施して,〔リタン寺の〕釈迦牟尼の内殿と集会堂を拡張する〔ため〕, 柱 64 本〔を建てるため〕の新しい土地を整えた」(sbyin bdag dpon mkha' 'gros byas te thub chen gyi dri gtsang khang dang 'du khang bskyed pa'i ka ba drug cu re bzhi'i sa rnams gsar rgyag / DL 5, Vol. 1: 573-574)

16) 「〔ラマ・サムテンサンポ(bla ma bsam gtan bzang po)は〕王(カンドゥ)の軍とともに,アデー (a 'phrad)の寺などを接収して黄教の教えを浸透させたので……」(rgyal po'i dmag dang mnyam du a

'phrad dgon sder bcas blangs nas zhwa ser gyi bstan par bcug pas / MC: 42)

17) 高啓隆は後に呉三桂の軍門に降り,清朝側の総兵官の職に就いた(『世祖実録』巻一百三十八,順 治十七年七月乙卯の条)。 18) 高啓隆由蘭州進浪滄至尼那,中甸,蒙古拒之(康熙『剣川州志』巻三,沿革)。 19) 達頼喇嘛及干都台吉請於北勝州互市,以馬易茶。允之(『聖祖実録』巻四,順治十八年八月甲寅の条)。 20) 〔康熙五年〕八月,蒙古開六台吉,烏斯蔵達頼喇嘛犯麗江,永寧,北勝辺境(康熙『雲南通志』巻三, 沿革大事考)。 21) 〔康熙〕六年三月,奏蒙古干都台吉聚兵麗江,北勝,請移兵捏御(『庭聞録』巻四)。 22) 五月,奏蒙古干都台吉遣人至北勝州乞赴滇通商(『庭聞録』巻四)。

(6)

要因の一つに,茶馬交易の不振,あるいは清 朝側の不履行があると推測される23) これに対して,呉三桂は同年 9 月,カンドゥ の脅威を再度康熙帝に報告24)するとともに, 翌康熙 7(1668)年 9 月,懸案であった軍制 改革を実施して防衛力の強化に努める25) 以上から,当初カンドゥは施主としてゲル ク派の発展に尽くす一方,清朝側から見ると, 辺境を脅かす存在として認識されていたこと がわかる。 その他,漢文史料中には,カルマ派転生ラ マたちが雲南に来奔したと記録されている。 では,次にカルマ派転生ラマたちがウーを離 れてからの動きを見ていきたい。 (2)カルマ派転生ラマたちの動き 1642 年,ゲルク派との抗争に敗れたカル マ派は一旦コンポ(kong po)地方へ逃走し, 2 年後の 1644 年にはさらにカムへ逃げるこ とになる26)。この時,ギェルツァプ(rgyal tshab)27)を除く,カルマ派のほとんどの主要 転生ラマたちが当地での亡命生活を余儀なく されるのである。 亡命後の彼らを保護した者としてジャン 王の名前がよく出てくる。『カルマ派黒帽 伝』によれば,1647 年,カルマ派黒帽ラマ・ チ ュ ー イ ン ド ル ジ ェ(chos dbyings rdo rje) はジャン王の招待を受けて,翌 1648 年ジャ ンに到着し,当時のジャン王カルマ・チメー ラワン(karma 'chi med lha dbang,木懿)の父, カルマ・ミパムツェワンソナムラプテン(木 増)の法要を実施している28)。その後,彼は ジャン王の要請を断ってギェルタンに向かっ たという29)。また,1655 年,場所の明記は ないが,ジャンの僧(grwa pa)1000 名に具 足戒を与えたとある30) ジャン王とカルマ派は以前から施主福田の 関係にあり,中央チベットを追放されたカル マ派転生ラマたちを保護するのは当然のこと と言える。ところが,ギェルタンも含めたボ ンボルワ地方の支配がジャン王からカンドゥ に移ったと考えられる 1660 年前後以降にお いても,カルマ派たちはこの地方で自由に行 動している。 たとえば,1660 年の新年には場所の明記 はないが,以下のような記載が見られる。 23) 管見の限り,北勝茶馬司での交易実態を記す記録は見当たらず,実際に交易が実施されていたのか 疑問である。 24) 九月,巡辺疏称蒙古移兵奪的離麗江,北勝不遠。另自中甸出麗江,或由永寧走北勝偪我門戸。一挙 足而入堂廉,我兵既少万難捍御。若待蒙番壓境方議発兵,相去一千四五百里,安能救危疆於一旦乎 (『庭聞録』巻四)。 25) 七年戊申四月,改鶴麗永北鎮為永北協,併義勇前左二営為鶴麗鎮以防蒙古(康熙『雲南通志』巻三, 沿革大事考)。 26) 「〔カルマの〕施主福田はロダク(lho brag)地方へお行きになる前に,タクルン・シャプドゥン(stag lung zhabs drung)のところで交渉したが,カルマの師徒は留まることができず,逃げなければなら ない状況であったので,カムへお行きになった」(mchod yun lho brag phyogs su phebs pa'i gdong du stag lung zhabs drung bar chings la thegs gyang sgar ba dpon slob bzhugs ma nus par bros thabs kyis khams la phebs / DL 5, Vol. 1: 251-252)

27) ギェルツァプはチべット語で摂政を意味し,代々ツルプ寺でカルマ黒帽派の摂政としての役割を 果たしてきた転生ラマである。なお,初代ギェルツァプはカルマ黒帽派 6 世・トンワドゥンデン (mthong ba don ldan)の弟子である(Kunsang, Pema 2012: 265)。

28) 「〔カルマ・チメーラワンはチューインドルジェに〕父王カルマ・ミパムツェワンが逝去し大悲摂持 をお願いした」(yab rgyal po karma mi pham tshe dbang gshegs pa thugs rjes bzud zhus / KM: 444) 29) 「王は永遠に留まるようお願いしたが,〔人が〕集まり雑然としているところはお好きではないため,

ギェルタンに向かわれた」(rgyal pos yun du bzhugs par zhus kyang 'du rji la mi dgyes pas rgyal thang phyogs su byon / KM: 447)

30) 「その年,ジャンの国の僧 1000 人ばかりに具足戒を与えになられた」(lo der 'jang yul gyi gra pa stong tsam la rab byung bsnyen rdzogs gnang / KM: 451)

(7)

法主カルマパ,赤帽(zhwa dmar),シトゥ(si tu),パウォ(dpa' bo),パクモ(phag mo), シャプドゥン(zhwabs drung),シャゴム (zhwa sgom)化身などにリムドパ(rim gro

pa)31)が新年の宴の用意をなさった。サタ ム王もまた新年の供養をした。皇帝・順治 (shun rtsis)の親書と〔それを携えた〕使 者が到着した32) カルマ派の主要な転生ラマたちの新年の宴に ジャン王も出資し,またその後に清朝からの 使者が来たと記されている。この 1660 年の カルマ派勢力と清朝との接触については漢文 史料にも記録がある。 〔順治十七年〕二月,西番大宝法王33),搆 争により逐われ麗江,中甸に移居し,喇嘛 を遣わして,雲南より通路入貢を求む34) 『カルマ派黒帽伝』では,チューインドルジュ がこの後,清朝からの入貢要請を断ったと記 載されており35),漢文史料とは異なるが,こ の件についても,カンドゥをはじめ他者から 制限を受けていない。さらに,リタンやパタ ンで実施されたカルマ派寺院のゲルク派への 改宗が,ギェルタンでは見当たらない。 また,1658 年,ツルプ寺に残っていたギェ ルツァプが亡くなると,チューインドルジェ が中心となり,ギェルタンの施主の家にその 転生者が生まれたとして,その者を次のギェ ルツァプに認定している。この時期,ギェル タンでカルマ派の名跡の一つを引き継ぐ化身 が生まれたとされるのは,カンドゥに何らか の意図があるように思われる36) このように,積極的であれ消極的であれ, カンドゥがある時期からカルマ派の行動に制 限を加えていないということは,カルマ派に 改宗したとは言い切れないにしても,少なく ともカルマ派の存在を容認する態度に転じた ことは間違いないであろう。そして,このこ とは宗教的にダライラマ政権の影響が強くは 及ばない地域が出現したことを意味すると考 えられる。 一方,この間ダライラマ 5 世は亡命後の彼 らの動きに対し,どのような態度を取ってい ただろうか。『ダライラマ 5 世自伝』の 1659 年 10 月の条に,ダライラマが記したある書 簡の文中として, カルマ派の師徒がジャン地方に滞在なさっ ているが,東方の王は変わることのない信 念を持っている方で,懸念すべきではない ゆえ,安寧の乱れが続くようなことになる 状況ではない,と返信した37) 31) リムドパはカルマ派高僧の一人である(GB, Vol. 2: 349)。

32) chos rje karma pa/ zhwa dmar / si tu / dpa' bo / phag mo / zhabs drung / zhwa sgom sku skye sogs la rim gro pas lo gsar stan mo zhus / sa tham rgyal pos kyang lo gsar phul / gong ma shun rtsis zhu yig dang bang mi 'byor / (KM: 452)

33) 永楽 5(1407)年,カルマ黒帽派 5 世テシンシェクパ(de bzhin gshegs pa)は永楽帝より大宝法王 の称号を賜与された(『明太宗実録』永楽五年三月丁巳の条)。

34) 〔順治十七年〕二月,西番大宝法王因搆争被逐移居麗江,中甸,遣喇嘛由雲南通路求入貢(康熙『雲 南通志』巻三,沿革大事考)

35) 「皇帝から印章を交換して,大明の皇帝(hu dbang)の時のように賞賜を有する形式をお願いされ たが,〔チューインドルジュは〕『新しい印章を持つという世俗の要請を何ら欲していない』と述べ た。gong ma nas tham ka rje ba dang taa ming hu dbang gi dus ltar bdag rkyen yod tsul zhus kyang / tham ka gsar pa len pa'i 'jig rten phyogs kyi zhu 'dong ci yang med gsungs /(KM: 452-453)

36) 『カルマ派黒帽伝』では,「〔ギェルツァプは〕偉大なるラマ・カルマパが住するジャンの国で施主 の子としてお生まれになったが,……」(bla ma karma pa chen po bzhugs pa'i 'jang yul du kyim bdag zhig gi sras su 'khrungs kyang / KM: 456-457)とある通り,ギェルツァプ 6 世の誕生の地をジャンと 記されているが,この場合のジャンとはギェルタンを含む地域であろう。後に引用する『明清檔案』 からギェルタンであることがわかる。なお,Douglas, White(1976)もギェルタンとしている(Douglas, White 1976, 164)。

(8)

と記されている。この東方の王とは,前述の 通り,以前からカルマ派の施主で,亡命後の 彼らを保護していたジャン王を指すかもしれ ない。しかし,この当時のジャン地方の勢力 状況や 1659 年が呉三桂の遠征により雲南が 清朝の領域に入った年であることを踏まえる と,呉三桂を指すかもしれない。あるいはジャ ン地方と言う場合,ギェルタンも含むことが ある点に留意するなら,当時ギェルタン地域 を支配下に置いていたカンドゥの可能性も高 いだろう。いずれにせよダライラマ 5 世はこ の時点ではカルマ派転生ラマたちの存在に危 機感を持っておらず,また彼らの存在を容認 するカンドゥに対しても警戒感を持っていな かったのは確かなようだ。 その後,康熙 6(1667)年,今度は赤帽ラマ・ イェシェーニンポ(ye shes snying po)が雲 南府の呉三桂のもとに行く38)。これをきっか けに康熙帝とダライラマ 5 世の間でカンドゥ 問題が懸案事項として浮上して来る。 2. カンドゥ問題処理に向けた動き (1)問題の表面化 ダライラマ 5 世と康熙帝の間で,カンドゥ 問題が協議の対象として初めて現れたのは, 管見の限り,康熙 8(1669)年 3 月のダライ ラマ 5 世の奏摺からである。 彼(カンドゥ)が属する地域でカルマはさ らに悪戯をしている。カンドゥの家畜をも 掠奪し,それだけではなく協議するために 派遣した使者を狡猾な方法で殺害した。こ れ対して,カンドゥは出兵し,カルマらと 和議を協議し,〔それ〕以後は騒擾を起す ことなく駐留している。赤帽(Mon. ulaGan malaG-a, Tib. zhwa dmar pa) と パ グ モ ワ (Mon.paGmuwa, Tib. phag mo)2 派の者たち は,平西王(pingsi wang)の下に行ったよ うだ。このように属民を混乱させており, 漢人とモンゴル人の良き政治を悪化させな いよう,彼らをカルマの下に合流させる命 令を賜り下さい39) カルマ,つまりチューインドルジェは,かつ てカンドゥと敵対関係にあったが,現在では 両者の関係は良好であるという。他方,赤帽, つまりイェシェーニンポとパグモ40)が,平 西王,つまり呉三桂の下に行ったとある。こ れは前述の康熙 6(1667)年のイェシェーニ ンポの雲南訪問を指すと考えられる。そうす ると,彼らは約 2 年呉三桂の下にいたことに なるが,長期間滞在しなければならない事情 があったのだろうか。また,パグモは前述の ジャン王が出資したカルマ派の新年の宴に名 を連ねていたパクモを指すと考えられる。彼 は中国で亡くなったと記録されていることか ら41),イェシェーニンポに同行した後,当地 37) karma pa yab sras ljang phyogs su bzhugs kyang shar rgyal po mi 'gyur ba'i gdeng tshad yod pas re dogs ma

dgos gshis bde gzar bshol ba'i gag la ma thug 'dug tshul gyi yig lan bskur / (DL 5, Vol. 1: 559)

38) 〔康熙六年〕八月,蒙古侵拠麗江府属中甸地,西番二宝法王哈馬臨清格丁等挈家来奔(康熙『雲南 通志』巻三,沿革大事考)。なお『カルマ・カギュ派高僧伝』にも同様の記録がある(GB, Vol. 2: 338)。

39) tere qariy-a-tu ulus-un jaq-a kijaGar-a karma ulam SoGlaGad,, ka[n]du-yin mal-i cu degeremlen abcu tedUi kelelcen ilegegsen elcis-i arG-a meke-ber kidUgsen-dUr ka[n]du cerigelji oruGuluGad karma-tai jokildun kelegseger ni amur-iyar saGulGaji bayinam,, ulaGan malaGatu paGmuwa qoyar keseg kUmUn-tei pingsi wang-un bayiGci-du ecici genem,, teyimU irgen qudquji kitad mongGul-wang-un sayin tOrU-dUr gem kikU boluGujai,, teden-i mOn karma-yin oyira neyilegUlkUi jarliG soyurqaGdaqui,,(『内秘書院檔案』第七輯:214-215) 40) 後述する通り,モンゴル文史料ではパグモワよりもパグモと記載されることが多いので,史料引用

以外ではパグモと表記する。また,チベット語史料に依拠する場合はパクモと記す。

41) 「〔パクモは〕大賢者の下に住していたが,後に中国でお亡くなりになった」(mkhas pa chen por bzhugs kyang phyis rgya yul du sku thim // GB, Vol. 2: 347)

(9)

で亡くなったのであろう。 このようなイェシェーニンポらの行動に対 し,ダライラマ 5 世は康熙帝に,彼らをカン ドゥの保護下にあるチューインドルジェの下 に行く命令を出すよう要請している。その理 由として「漢人とモンゴル人の良き政治」が 悪化するのを防ぐためとしている。この時点 での雲南の状況から,ここでの漢人とは呉三 桂あるいは康熙帝を指し,モンゴル人とはカ ンドゥあるいはホシュート部全体を指すと考 えられる。彼らの雲南滞在が漢人とモンゴル 人の対立を惹起させるというのは,彼らが呉 三桂に対して何らかの行動を起こすことで, 呉三桂がカルマ派擁護の姿勢を執り,その結 果カンドゥとの争いが激化することを意味す ると考えられる。それは,カルマ派が大きな 政治勢力と結びつくことを意味し,過去のゲ ルク派とカルマ派の争いを踏まえると,ダラ イラマ 5 世にとって,極めて憂慮すべき事態 と言えよう。言い換えれば,ダライラマ 5 世 はそのような事態になるのなら,カンドゥに 彼らを引き続き管理させたほうが良いと判断 したと考えられる。 これに対し康熙帝は康熙 8(1669)年 12 月 15 日付けの勅書で,以下のように記して いる。 赤帽の 3(ママ)派の者は,カンドゥとの 関係が悪化し,〔カンドゥが〕圧迫を加え て生活の基盤を見出すことをさせなかった ので,〔赤帽 2 派が〕我が方に来奔したこ とに対して,我々は雲南の地で安居させ賞 賜し生活の基盤を授けた。今,汝が奏請す るに,「赤帽,パグモの 2 派の者を〔カル マの下に〕に合流させるのが妥当である」 と言う。さらにダライラマ,汝は赤帽とカ ルマたちに決して危害を加えず,苦しめな いことを保証すると上奏した。やはり,赤 帽とパグモが戻ることを欲するなら,その 時にまた言おう。このため,特に命じた42) まず康熙帝は,イェシェーニンポらが雲南に 来奔した原因はカンドゥから迫害を受けたこ とにあり,そのため彼らを保護しているとい う立場に立っている。これは先のダライラマ 5 世の奏摺には記されていない事情である。 一方で康熙帝は,彼らが雲南に滞在すること で属民が何らかの紛争に巻き込まれていると いったことには言及せず,ダライラマ 5 世の 要求に対しても,イェシェーニンポらが戻り たいのなら,また相談しようと返事するに止 めている。つまり,この文面から清朝側にカ ルマ派擁護の意図は見られない。 ところが,康熙帝はこの書簡に対するダラ イラマ 5 世の返事を待たずに,一転してその 要請に応える勅書(康熙 9(1670)年 2 月 27 日付け)を出す。 〔カンドゥに〕圧迫されてやって来たため, カルマたちと一緒にさせると良くないと考 えるならば,ダライラマ,汝は仏の教え通 り,一切を仲睦まじくさせるには,赤帽と パグモを〔カルマと〕一緒にすることであ る,と請うため,汝の願い通り合流させる ことにする43)

42) ulaGan malaG-a-yin Gurban ayimaG kUmUn, ka[n]du-luG-a maGulalduju siqamdaGad, aju tOrUkUi-ben UlU olqu-yin tula, namayi joriju iregsen-dUr, yUn nan-u Gajar-tur tegsilejU saGulGaGad, kesig kUrtegUl-un, Sangnaju, aqu tOrUkUi yabudal-i olGaGulba,, edUge ci Guyun ayiladqaju, ulaGan malaG-a, paGmu qoyar keseg kUmUn-i neykUmUn-ilegUlkU ajkUmUn-iyamu kemejUkUkUmUn-i,, dalakUmUn-i blam-a ckUmUn-i ber ulaGan malaG-a-tu karm-a tan-kUmUn-i kerkkUmUn-ibesU ber UlU kOnUgemU, UlU jobaGamu kemen batulaju, ayiladqaqu ba,,basa ulaGan malaG-a-tu paGmu odqu duratai bolbasu, tere caG-tur medesUgei,, teyimU-yin tula tuslaju baGulGaba,(『内秘書院檔案』第七輯:240-241) 43) siqamdaGad joriju iregsen-U tula, karm-a tan-dur neyilegUlbesU jokis Ugei bUlUge,, sedkibesU dalai blam-a

ci burqan-u sorGaGuli-yi erkilecU, qamuG-i nayiralduGul-un, ulaGan malaG-a-tu, paGmuwa-yi neyilegUlkU ajiyamu kemen GuyuGsan-u tula, cinu GuyuGsan-u yosuGar neyilegUlUmUi,,(『内 秘 書 院 檔 案』 第 七 輯: 268-269)。

(10)

ここにはイェシェーニンポが戻ることを希望 した旨は記されていないが,康熙帝は彼らを カンドゥへ引き渡さないという条件をダライ ラマ 5 世が了承するなら,その要請に従おう と態度を変えてきた。 これに対して,ダライラマ 5 世は康熙 10 (1671)年 3 月 15 日付けの奏摺で, 赤帽とパグモワの 2 人の件,上が知らせ てくれたのは有り難いことで,こちらにお 送りいただいた勅書を読んで大変うれしく 思った。この 2 人をカンドゥのそばに置 いておくと,〔彼らに〕害悪が及ぶ。苦痛 を受けることがないようにと〔あれこれ〕 思案するよりは,ここチベットの寺院にお いて,一切の善によって上の命令通り苦痛 を受けないように住まわせることにする, と 2 人の使者をはじめ,バルカム(Mon. barkam, Tib. bar khams)を経由して派遣す る44) と記している。冒頭の記述はイェシェーニン ポらの雲南来奔はカンドゥの迫害が原因であ る点をダライラマ 5 世は勅書の記述によって 初めて知ったかのように受け取れるが,その 後の記述で結局康熙帝と同じ認識を共有する ことになったことがわかる。その結果,ダラ イラマ 5 世は前回主張した,カンドゥにイェ シェーニンポらを保護させる策を放棄し,今 度は自らの責任で彼らをチベットの寺院に住 まわせ,身の安全を保証すると康熙帝に約束 している。この決断はダライラマ 5 世がイェ シェーニンポらの行動に危険な意図はなく, むしろカンドゥの行動を危険視するに至った ことを意味している。さらにこのカルマ派に 対する対応の変化は,これまでの両派の対立 を踏まえれば,極めて大きな歴史的方針転換 と言える。ただ,カンドゥとの関係が良好と されるチューインドルジェの処遇については 不明である。 (2)行動に移す清朝 康熙 10(1671)年 6 月 5 日付けのダライ ラマ 5 世宛ての勅書に,清朝側が取った行動 とその結果が記されている。 赤帽とパグモのため,汝が上奏した〔内 容を〕実施すべく,理藩院の理事官(Uile ilGaGaci tUsimel)ナンダガイ(nandaGai)ら を派遣して,赤帽とパグモを送還させよう とすると,モンゴルの首領のマンジン(man jin)とウンギャムタン(ung giya mu tan) は手段を講じて,カルマを教導して別の場 所へ移り住まわせ,さらに街道沿いの民を 遠方に移し,我が使者に食料を売りに来た 者を逃げるように仕向けて〔その購入を〕 阻んだ。モンゴルの首領のマンジンとウン ギャムタンは,使者の正使が何度来訪して 会見しようとしても,特にカンドゥの言と して偽りを述べ,これを口実にして〔会見 の〕日を遅らせた。後にカルマが何度訪ね ても首領は〔姿を〕現さなかったため,た だの一言も発することなく去った。また, カルマの下のリンブキ(lin bu ki)の話で は,「我々はカンドゥの地に住んでいる。 カンドゥが認めれば認めるし,認めないと 言えば認めない」〔と言う〕。かくの如く汝 の使者が到着する前に,我が使者が到着し, その後〔汝の使者は〕到着したに違いない と考えて,赤帽とパグモらをやはり引き渡 そうとしていたのである。辺境の官員の奏 摺によれば,……赤帽とパグモを〔カン ドゥが〕追放する際,カンドゥはカルマに 赤帽とパグモに会わないと保証する書を書

44) ulaGan malaG-a-tu paGmu-wa qoyar-un ucir deger-e medegUlUgsen yosuGar inaGsi GarGan soyurqaGsan jarliG bicig-i Ujiji masi bayasba,, ene qoyar-i kandu-yin oyir-a bayilGabasu qoor gem ba,, jobaqu boluGujai kemen sanaju baraGun tala ende tObed-tU keyid sUm-e-dU ali sayin-yiar deger-e ki jalraG metU UlU jobaqui-bar saGuqay-a geji qoyar sayin kUmUn ekilen barkamn-iyar ulamjilan ilegem,,(『蒙古堂檔』第 1 冊:18-19)

(11)

かせて押印させて,〔カンドゥの〕手元に 置いたと述べている。かくの如く,あれこ れと口実を設けているのに,〔カンドゥが〕 了承して〔カルマを〕手放すわけがないで はないか。従って,赤帽とパグモを引き渡 さない45) 清朝は理藩院の理事官ナンダガイにイェ シェーニンポらを伴わせて現地へ派遣した が,モンゴルの首領マンジンとウンギャムタ ンによって,進行を妨害されたとある。この 両名はカンドゥが派遣した者である46)。彼ら はこのような妨害工作だけでなく,チューイ ンドルジェを隔離し,ナンダガイらが直接 チューインドルジェと接触できない状態に置 いている。ここから清朝側はまず,イェシェー ニンポをチューインドルジェに合流させよう していたことがわかる。さらにダライラマ 5 世派遣の使者と落ち合うことになっていたこ とを踏まえると,両転生ラマともダライラマ 5 世側に引き渡す手筈になっていたことも読 み取れる。一方,カンドゥにとってチューイ ンドルジェを手元に置いておきたい切迫した 事情があることが窺える。 さらに続いて, 以前,カンドゥが麗江府所属のジョンディ イェンの地を占領したと,辺境の官員が何 度も奏報してきた。康熙 10 年の辺境の官 員の奏摺を見ると,ダライラマの使者は命 令を遵守して,赤帽とパグモワらを迎えに 来たと言いながら,ジョンディイェンの大 道から来ずに,辺縁の小道から迂回して来 て,無人の地から筏を組んで渡河した。カ ンドゥもまた後からすぐに軍を率いてア ティンカ(a ting ka)の地を劫掠している という報告がある。常にかくの如く辺境 の地を侵すとは一体どういう考えなのか。 ……今,ダライラマ,汝は使者を派遣して, カンドゥを北に引かせ,原住の地に住まわ せ,自身の土地を守り,法を守らせるなら 宜しとする47)

45) ulaGan malaG-a, paGmu tan-u tula, cinu ayiladqaGsan-i yabuGulju, GadaGadu mongGul-un tOrU-yi jasaqu yabudal-un yamun-u Uile ilGaGci tUsimel nandaGai tan-i jaruju, ulaGan malaG-a paGmu-yi kUrgegUlbesU, mongGul-un terigUn man jing, ung giye mu tan arG-a-bar karm-a-dur surGaju Ober-e Gajar-tur jayilaGulju saGulGaGad, basa jam-un orcin saGuGsan kUmUn-i qola jayilaGulju, minu jaGuGsan tUsimed-tUr amun qudaldur-a irekU-yi caGajilaju bayilGajuqui,, mongGul-un terigUn man jing, ung giya mu tan, jaGuGsan tUsimed-Un dergede kedUi irejU jolGabasu ber,, onca kandu-yin Ugeber qaGurmaGlan OgUleju, egUn-dUr tegUn-dUr siltaGlaju edUr udaGuljuqui,, qoyin-a karma kedUi irebesU-ber terigUben UlU siragsen-u tula, nigeken be Uge OgUlegsen Ugei odjuqui,, basa karm-a-yin door-a lin bu ki-yin Uge,, bide kandu-yin Gajar-tur saGujuqui,, kandu kUliyecU ab-ki kUliyejU abumui,, bUU ab kemebesu UlU abumui kemen kUliyejU ese abjuqui,, teyin bolbacu ber, cinu jaruGsan kUmUn kUrkU-yin urida, minu jaruGsan tUsimed kUrUge qoyisi iregsen bui-j-a kemen, ulaGan malaG-a, paGmu tan-i mOn kU OgsUgei kemejU bOlUge,, jaq-a-yin tUsimed-Un ayiladqaGsan bicig-i UjebesU, ……tegUn-ece ber ulaGan malaG-a, paGmu tan-i kOgejU GarGaqu caG-tur kandu, karm-a-yi ulaGan malaG-a, paGmu tan-dur jolGaqu Ugei kemekU batulaqu bicig bicigUl-Un, temedeg tamaG-a daruGulju abusa kemejUkUi,, eyimU-yin tula, onca egUn-dUr tegUn-dUr siltaju kUliyejU ese abuGsan busuGu UU,, eyimU-yin tula, ulaGan malaG-a, paGmu tan-yi UlU OggUmU,,(『蒙古堂檔』1 冊:26-30)

46) 『ダライラマ 5 世自伝』に名前の明記はないが,カンドゥが使者を派遣したことが記載されている (rgya mtshams su mkha' 'gros don med kyi sog po dra btang bas ... DL 5, Vol. 2: 202)

47) urida kandu li giyang fu-yin qariy-a-tu jong diyan-u jerge Gajar-i ejelejUkUi kemen, jaq-a-yin tUsimed kedUn-ber Uy-e ayiladqaGsan bOlUge,, engke amuGulang-un arbaduGar-on, jaq-a-yin tUsimed-Un ayiladqaGsan bicig-i UjebesU dalai blam-a-yin jaruGsan kUmUn jarlaG-i daGaju, ulaGan malaG-a paGmu tan-i uGtur-a irebe kemen atala, jong diyan-u yeke jam-iyar UlU iren, buyida narin jam-iyar toGurin irejU, kUmUn Ugei Gajar-iyar sal uyaju mOren-i getUljUkUi kandu basa qoyin-a-aca inU daru cerig abju, a ting ka-yin-Gajar-a buliyan tataju yabumu kemekU jerge-yin Uges bui buyu,, UrgUlji eyin jaq-a-Gajar-i qalidcu yabuqu inU yambar sanaGan bUi,, ……edUge dalai blam-a ci kUmUn jaruju, kandu-yi qoyisi tataGad,, ijaGur-un saGuGsan Gajar-tur saGulGaju, Ober-Un Gajar usun sakin,, caGaja qauli-yi yabuGulbasu jokimu,,(『蒙古堂檔』 1 冊:30-32)

(12)

とある。ここで言う辺境の官員とは恐らく呉 三桂をはじめとする雲南の官員であろう48) ジョンディイェンとは音から判断して中甸を 指しているはずであり,アティンカの具体的 な場所はわからないが,やはり中甸周辺であ ろう。ダライラマ 5 世はイェシェーニンポの 送還を要求し,モンゴル人と漢人の安寧を図 りたいと言いながら,実は従来通りカンドゥ とともに辺境の安寧を乱しているのではない か,と康熙帝は疑念を抱いているのである。 その上でカンドゥを北に引かせよと命じて いる。 では,これに対しダライラマ 5 世はどのよ うに答えたのだろうか。康熙 11(1672)年 2 月の奏摺に以下のように記されている。

ミチャグバ(Mon. micaG ba, Tib. mi lcag pa) ら 2 人の大臣を迎えのために派遣した地域 は,ここから明らかに遠くて,〔皇帝の使 者と到着が〕前後することとなったのであ る。赤帽とパグモの 2 人をカンドゥが苦し めており,苦しめてはならないと,以前命 令したことを〔カンドゥは〕不快に感じて おり,カルマの禍福はカンドゥが握ってい るため,仮に〔赤帽とパグモを〕カルマと ともに落着かせても,〔カンドゥが〕密か に逃がしまうであろうから,そうならぬよ うに彼ら自身の 1 つの寺院に安居させよう としたところ,私が派遣した使者は〔カン ドゥが妨害したので〕止められて平西王の 下に到着しなかった。間隙49)の者に王へ 伝達するようにと差わしたが,消息は絶え て,戻って来なかった。彼ら 2 人は仕方な く,王の下に向かおうとして,方々道を捜 して進んだのである。邪まな気持ちからモ ンゴルの軍隊を率いて迂回路から進むなど といった誤った考えはない。私たちの 2 人 〔の使者〕が王と赤帽らに会見する事に対 し,カンドゥは協力しないのである。以前, 派遣した 2 人はそこで待ち続けていたに違 いない。今,赤帽とパグモの 2 人を私たち 2 人の〔使者の〕ところで一緒にするべく 送還する指示を賜り下さい,と身を呈して 上奏したことを譴責せず実現するようお取 り計らい下さい50) このように先の勅書における康熙帝の疑念に 対して弁明し,清朝に対する邪まな考えはな いと言明している。また,前回の奏摺では 「チベットの寺院」としか記載がなかったが, チューインドルジェとイェシェーニンポらを 合流させて,「彼ら自身の寺」に安居させよ うと記されている。『ダライラマ 5 世自伝』 には,鉄犬の年(1670 年)12 月の条に, シャマルの成就者をツルプ(mthur phu) 48) 同じ康熙 10 年のこととして,カンドゥの軍事行動に関する呉三桂の奏報がある(『明清檔案』 B21266)。 49) 「政体の間隙(törü-yin jabsar-a)」(『内秘書院檔案』第七輯:214,『蒙古堂檔』第 1 冊:62)という 記述がダライラマ 5 世の奏摺に散見される。恐らくダライラマ政権と清朝の勢力の狭間にある地域 を指す語と考えられ,この場合だとギェルタン地域を指すと考えられる。

50) ende-ece micaG ba tai qoyar sayid-i uGtur-a ilegegsen Gajar qoladaju urid qojid bolji bayinam,, ulaGan malaG-a-tu paGmu qoyar-i kandu jobaGaqu boluGujai, UlU jobaGaqu kereg kemen urida jarlaG boluGsan-i jOb kemen sanaju karma-yin jirGal jobalang-i kandu medekU tula karma-luG-a qamtu talbibasu jobuGujai tende Ober-Un nigen keid sUm-e-dU amur-iyar saGulGasu geji, mani ilegegsen elcis qaGaGdaju pingSi-wang-du ese kUrci jabsar-un kUmUn-iyer wang-dur ulamjilan kelen ilegebesU Uge tasuldabuu qariGu ese iregsen-dUr,, tere qoyar arG-a baraju wang-tur kUrkUi sanaju eyin teyin jam-i eriji yabuGsan bayinam,, tegUn ece busu gem-tU sedkil-iyer mongGul-un cerig abcu bultaqu jam-iyar yabuGsan buruGu sedkil busu,, mani qoyar kUmUn wang kiged ulaGan malaG-a-tu tan-dur jolGaqu jUil-i kandu yosuGar ese tusalaji bayinam,, mani urida ilegegsen qoyar kUmUn tende kUliyegseger bUi bUlUge,, edUge ulaGan malaG-a-tu paGmu qoyar-i mani qoyar kUmUn-dUr neyilegUljU eyin ilegekUi,, jarlaG yakiy-a bolqui OrUsiyen soyurq-a kemen jidkUn kiciyen ayiladqaGsan-i buruGusiyal UgegUi-e bUtUgen soyuraq-a,,(『蒙古堂檔』第 1 冊:63-66)

(13)

のようなところに住まわせるなら,〔それ は〕良いやり方だと以前述べたように,〔皇 帝からの〕善きお言葉により,彼の弟子を 伴わせて派遣したが,……51) と記載があることから,「彼ら自身の寺」とは ラサ近郊のカルマ派本山ツルプ寺であろう。 他方,ダライラマ 5 世の使者がイェシェー ニンポや呉三桂に会うのを嫌っている点にお いてカンドゥを強く非難している。その上で, 今度は両者を合流させるのではなく,イェ シェーニンポらだけをダライラマ 5 世の使者 に引き渡してほしいと要請している。さらに 続けて, アティンカの地で妄動を引き起こし,常に 辺境の地を乱すことと,私たちの使者とは 関係ない。カンドゥがジャルタンに駐屯す るのは間違っており,こちらへ来るように といつも〔カンドゥに〕言っている。青 海からダライ〔ホン〕タイジ(dalai [qong] tayiji)52)も〔カンドゥに対して〕来るよう にと何度も使者を派遣して伝えている。あ れこれといつも言い訳をして,今まで出て 来ないのである。また,〔ダライ・ホン〕 タイジは困難に対してあらゆる方法を用い て対処するだろう。もし,彼(カンドゥ) を変えられないなら,〔カンドゥは〕力づ くで漢地へ進入するだろう 。〔その場合〕, スダンジン(sdanjin)53)のように保護する のではなく捕えて,ダライ〔ホン〕タイジ へ送致する命令を賜り下さい。もし,無理 ならこちらから〔ダライホンタイジへ〕指 示(する)54) と記されている。ジャルタンは音から判断し てギェルタンであろう。ダライラマ 5 世はカ ンドゥのギェルタン駐屯とアティンカ侵攻は もとより意に沿わないものであると弁明して いる。その上で,カンドゥが漢地に侵入する なら,康熙 5(1666)年,青海ホシュートの スダンジンが清朝へ逃亡した時のように保護 するのではなく,捕えてダライホンタイジへ 送致するよう要請している。ここに至ってダ ライラマ 5 世はカンドゥを処理する決意をし たのである。言い換えれば政治的にもダライ ラマ政権の施主である青海ホシュートとは異 なる政体が出現したことを公式に認めたので ある。 これに対して康熙帝は康熙 11(1672)年 11 月 29 日付けの書簡で以下のように記して いる。 もし,汝のもとで首領となった牧民(カン ドゥ)が〔赤帽らに〕危害を加え虐待する なら,このことをダライラマ,汝は自分で 処理せよ。また,カンドゥを汝らが力によっ て捕えようとする際,追い詰められて,我

51) zhwa dmar sgrub pa'i sku mtsur phu lta bur bzhugs na legs tsul gong du zhus pa bzhin lung bzang pos khong dpon slob yar skyel mar mngags kyang ... (DL 5, Vol. 2: 201-202)

52) グシハンの第 6 子・ダライバートル・ドルジ(dalai baGtur dorji)。1658 年,ダライラマ 5 世からダ ライホンタイジの称号を贈られた(石濱 2001: 111)。

53) スダンジンはグシハンの弟セレンハダンバートル(sereng qadan baGtur)の末子である(佐藤 1986: 484)。清朝への逃亡について『聖祖実録』には以下のように記されている「厄魯特顧実汗幼弟之 子伊斯丹津,為其兄弟所迫,棄妻子来帰,封為多羅郡王」(『聖祖実録』巻十九,康熙五年八月壬子 の条)。

54) a ting ka-yin ulus-tur SoG serikUn Uiledcu UrgUlji jiq (jaq)-a Gajar-a samaGu UiledUgci-dUr manu elci qamiy-a Ugei,, kandu jaltang-du saGuqui buruGu inaGsi Garcu ir-e geji UrgUlji keleged, kOke naGur-aca dalai [qong] tayiji ir-e gejU basa basa kUmUn ilegedeg bayinam,, eyin bayin arGalaju edUge boltala GaruGsan Ugei bayinam,, basa ber [qong] tayiji qataGu jOgelen aliba jUyil-yier tataqu bui-y-a,, tegUn-dU ese bolqula kUcileji abqu-du cinaGsi kitad dotor-a irekUle sdanjin metU UlU asaran bari inaGsi dalai [qong] tayiji-du kUrgegUlji OgkUi ayiladun soyurq-a,,(『蒙古堂檔』第 1 冊:66-67)

(14)

が方の辺墻を超えて〔カンドゥが〕入って 来るなら,スダンジンの時とは違い,捕え た後引き渡そう55) ここに康熙帝はカルマ派転生ラマたちの帰還 についても,カンドゥの雲南辺境侵入への対 応についても,ダライラマ 5 世の考えを認め るに至った。 では,康熙帝にはこのようにほぼ全面的に ダライラマ 5 世の提案に同意し協力しなけ ればならない切迫した事情があったのだろう か。また,カルマ派転生ラマたちはその後, ツルプ寺に到着できたのだろうか。 3. 康熙 11(1672)年の     中甸(ギェルタン)の状況 順治 16(1659)年の清朝による雲南占領 から三藩の乱終了まで,呉三桂をはじめとす る在雲南の官員たちの檔案文書はほとんど残 されていない。したがって,雲南側から見た カンドゥ存命中の麗江やギェルタンなどの詳 細な状況は不明な部分が多いが,『明清檔案』 中にカンドゥ問題処理の方針が固まった同じ 康熙 11(1672)年の中甸地域の状況につい て記された檔案文書がある。そこから,カン ドゥの動きと清朝側の辺境防備の実情などを 分析していきたい。 康熙十一年九月九日付けの兵部尚書朱之弼 の題覆中に,総兵官趙得勝の指揮による中甸 への偵探状況が記されている。長くなるが, その部分を引用する。 閏七月十三日,また更換せる防守下江大渡 口千総朱勇福の報によるに称すらく,卑職 諭に遵い,土人和休祥,和吉祥を僉差し, 暗に江を渡過し山箐を遶走し,中甸に前往 し探看せしめ去りし後,今閏七月十二日辰 において,特に和吉祥先に回り,報による に称すらく,小的らは初めの八日晩くに中 甸に到り,和休祥の親戚の家に投じ歇み, 蔵れてこの家に在り,探り得たるに,康東 は閏七月初二日において,蒙古の頭目宰生 (Mog. jaisang)56)を差し,蒙番の兵馬千余 りを帯領し,打鼓,俸可の岔路に出だしめ, 中甸を離れること五十里の地に営を下す。 又,中甸に原住せる頭人蔓精をして小中甸 の木瓜とともに前去して夫を趕いて修理せ しめ,喇毛の大小の各路に出ず,と。又探 り得たるに,喇毛に原在せる督工の蒙古四 騎が康東に回報して説うに,船鑱かに二隻 を打起すのみ,正に船を整えるに在り,と。 康東随いて蒙古をして仍お喇毛に回らし め,着して船隻を将て収拾完備せしめ去り 訖れり。又,大宝管家喇價をして,中甸古 宗の三百名を領して,油桃覇,清水溝,魯甸, 合甸を修理せしめ,金江の大渡口の路に出 でしめ,康東親自から喇價に吩咐して云え らく,爾須らく上緊して船隻を整完すべし, 我随後,就ち兵を領して出来せんと要す等 の語あり。……又駐防石鼓千総戴成の稟報 に拠るに,駐防橋頭把総何上栄の報に拠る に称すらく,今土人の傅に拠るに,蒙古四 騎,人夫五十名あり,将に喇毛に下らんと す。造完せる船二隻は已に拖きて水に下し, 拉き往きて上去す,と説う。卑職即ちに百 総陳美に着して,馬歩兵丁並びに巨甸の土 人を帯して前去し偵探せしむれば,船は已 に大喇毛村を拉上し,上亨土を離れること, 五里の地湾に停まり,昼夜人の看守するあ り等の因あり57)

55) kerber cinu door-a-tu terigUlegsen arad kOnUgen jobaGaqu bolbau, egUni dalai blam-a ci mede basa kandu-yi ta kUcUn-iyer abqui-dur siqamdaju inaGgsi minu kerem-dUr oruju irebesU, sdanjin-aca yekede Ober-e bUkUi-yin tula, darui bariju qoyisi OgsUgei,,(『蒙古堂檔』第 1 冊:80)

56) 非チンギスハーン系統の領主を意味する称号。

57) 閏七月十三日,又拠更換防守下江大渡口千総朱勇福報称,卑職遵諭,僉差土人和休祥,和吉祥,暗 渡過江遶走山箐,前往中甸探看去後,今於閏七月十二日辰,特拠和吉祥先回報称,小的等於初八日 晩到中甸,投和休祥的親戚家歇,蔵在伊家,探得康東於閏七月初二日,差蒙古頭目宰生,帯領 ↗

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実際,現地に潜入偵探して情報を収集した のは主に和休祥や和吉祥などの土人である。 ここでいう土人とは和姓であることから,麼 些,現在でいえばナシ族の者であろう58)。彼 らの報告をまとめると,主に以下の 3 点になる。 ①カンドゥは宰生を頭に蒙番の兵馬千あま りを打鼓,俸可の分岐路に進出させている。 また,カンドゥは中甸の頭人蔓精59)に,小中 甸の木瓜とともに道を整備しながら喇毛の大 小の道に進出させている。蔓精が何者かは不 明であるが,木瓜は 15 世紀半ば∼17 世紀初 めにかけて,麗江木氏土司が占領した土地に 送り込んだ官員たちである(和 1992: 16-17)。 ②喇毛では 2 隻の船が建造中であるが,そ の後の百総陳美の偵探によれば,その 2 隻は すでに進水して大喇毛村に遡上し,詳細は不 明だが上亨土という地点から 5 里のところに あるという。 ③カンドゥは大宝管家の喇価に命じて,中 甸の古宗,つまり中甸在住のチベット系の者 たち60) 300 名を率いて,大渡口への道を整備 し船を用意させ,準備でき次第カンドゥ自ら 軍を率いて進出することになっている。ここ でいう大宝とはカルマ黒帽派系統の転生ラマ を指し,管家とは摂政を意味する。つまり, 大宝管家とはカルマ派転生ラマの名跡の一つ, ギェルツァプであろう。従って喇価とはギェ ルツァプの下にいる者の名前と推測される。 以上から,カンドゥ側の配下の者や軍の移 動が俸可,喇毛,大渡口それぞれに向かう 3 本のルートに分かれていることがわかる。こ れらはいずれも金沙江の渡口であるが,この うち,大規模な軍の移動先は俸可と大渡口で ある。俸可は西から東へ渡渉した場合,永寧 府やムリへ至る渡口である。大渡口は中甸・ 麗江の要路に位置する渡口である61)。すなわ ち,カンドゥの侵攻目標は永寧と麗江であろ う。また,大渡口へ至る道路が油桃覇,清水 溝,魯甸,合甸を通過しているとある。油桃 覇,清水溝,合甸は同定できないが,魯甸は 維西に位置する62)。カンドゥは喇価に道路を 整備し船の建造が終われば兵を率いて出発す ると言っていることから,この時点で彼自身 は維西あたり,少なくとも金沙江の西側にい るものと考えられる。 また,カンドゥが動かしている者たちは, 青海から連れてきたホシュートの者だけでは ないこともわかる。たとえば,木瓜などは前 述の通り,元来麗江木氏土司の管轄下にあっ た占領地の行政を行う官員であるが,中甸の 木瓜は木氏土司の統御を離れて,カンドゥの 配下に入っている。また,ギェルツァプ配 下の喇価に命じて古宗 300 名を動員してい ることから,宗教的権威を利用している実 ↗ 蒙番兵馬千余,出打鼓,俸可岔路,離中甸五十里之地下営。又令原住中甸的頭人蔓精同小中甸的木 瓜前去趕夫修理,出喇毛的大小各路。又探得原在喇毛督工的蒙古四騎回報康東説,船鑱打起二隻, 正在整船。康東随令蒙古仍回喇毛,着将船隻収拾完備去訖。又令大宝管家喇價領中甸古宗三百名, 修理油桃壩,清水溝,魯甸,合甸,出金江大渡口的路,康東親自吩咐喇價云,爾須上緊整完船隻, 我随後,就要領兵出来等語。……又拠駐防石鼓千総戴成稟報,拠駐防橋頭把総何上栄報称,今拠土 人伝説,有蒙古四騎,人夫五十名将下喇毛。造完的船二隻已拖下水,拉往上去。卑職即着百総陳美 帯馬歩兵丁並巨甸土人前去偵探,船已拉上大喇毛村,離上亨土五里之地湾停,昼夜有人看守等因(『明 清檔案』:B21269-212270)。 58) 五世以降姓和。即流寓入籍者,必改姓和,故今里民和姓居多(乾隆『麗江府志略』官師略,種人)。 59) 青格力は蔓精とマンジン(man jin)を同一人物としているが(青格力 2014),中甸の頭人の蔓精と 記載されていることから,モンゴル系ではなく,古宗などのチベット系と考えられ,別人と思われる。 60) 狜猔,即吐蕃,旧属本府,今帰中甸管轄,金沙江辺皆其種類(乾隆『麗江府志略』官師略,種人)。 61) 転而東有阿喜渡口及金江大渡口,……折而南有棒可渡口。……自雍正元年,平定青海,中甸帰城, 蒙蕃拠地悉皆内附。麗境大渡総帰阿喜。……棒可系永寧要路(乾隆『麗江府志略』山川略,津梁)。 また,乾隆『麗江府志略』に喇毛と合致する地名は見当たらないが,「又南有喇沙漠渡口」という 記載があり,音が近いことから喇毛を指すと推定される(乾隆『麗江府志略』山川略,津梁)。 62) 乾隆『麗江府志略』図象略。

(16)

情が見える。この時のギェルツァプは前述 の通りギェルタン出身で,1660 年生まれの 6 世ノルブザンポ(nor bu bzang po)である (Douglas, White 1976: 164)。生まれた年や土 地柄,さらにカンドゥがチューインドルジェ を直接コントロール下に置いている事実を踏 まえると,転生者選定にはカンドゥの意向が 大きく働いたことは間違いない。つまりカン ドゥの行動は単にカルマ派を擁護するという のに止まらず,やはり施主としてのそれであ る。以上から,カンドゥはかつて麗江土司が 派遣した木瓜や施主福田の関係にあったカル マ派を統御しており,麗江土司支配時代の社 会階層をそのまま引き継いでいることがわか る。従ってカンドゥのこの地域における支配 の浸透度は相当高いと言えよう。 以上の情報を受けて,趙得勝は, 該卑職,看得たるに,噶都は上下江口の各 路を修整して,皮板の船隻を打造し,渾褪 などの物を多く備え,已に一枝の人馬を遣 わして,路は打鼓,俸可に出ず。揆るに其 の挙動は出犯の情あるに似たり63) とある通り,カンドゥの軍事侵攻が間近に 迫っていると見ている。そして,カンドゥが 攻めてきた場合については, 即ち卑職応援の兵を準備するに,寥寥とし て数百に過ぎず。一処を応援せば各処を兼 顧する能ず,且つ,噶都の屯答せる処所は 江辺に逼近し,事有らば,只だ旦夕在るの み,即ちすぐに飛報し援料を請うも,また 機に当る能ず64) とある通り,兵力不足により防ぎきれないで あろうと述べている。 カンドゥの侵攻準備が,その後どのような 結果になったか,詳細は不明であるが,以上 から清朝側にとってカンドゥ問題の解決は現 状では自力で行うのは困難であったことがわ かる。それゆえ,ダライラマ 5 世に協力を約 し,軍事行動を含む解決を託したと言えよう。 4. カルマ派転生ラマの帰還とカンドゥ問題 カルマ派転生ラマ送還に同意したダライラ マ 5 世と清朝は,その後どのような動きを見 せるのだろうか。康熙 12(1673),13(1674) 年の両者の書簡は残されていないが65),チ ベット語史料に断片的に記述がある。まず 『ムリ政教史』に, その年(1670 年),シャマルパの以前の 化身がウー・ツァンでモンゴル軍の騒乱 によって,雲南にお行きになられた後に, 〔シャマルパを〕探して迎え入れるため に,〔ダライラマ 5 世によって〕執事(zhal ngo)のミチャク(mi lcags)と随員のジュ ンイン・リンポチェ(bzhung dbyings rin po che)が派遣されたようだ。それから 3 年 の間,ムリに滞在されてお勤めになり,政 府の命令のごとく我々の軍隊を国境に駐留 させた上で,雲南に我々の人間を派遣して, 中国の役人に理由を申し上げて,上のムリ の寺に〔シャマルパを〕招待した。…… 政府の新しい俗官(drung 'khor)がお越し になり,〔ムリの化身ラマ,ガワンクンチョ ク・テンペギェルツェン(nga dbang dkun mchog bstan pa'i rgyal mtshan)が〕山岳部

63) 該卑職看得噶都修整上下江口各路,打造皮板船隻,多備渾褪等物,已遣一枝人馬,路出打鼓,俸可。 揆其挙動似有出犯之情(『明清檔案』B21270)。 64) 即卑職準備応援之兵,不過寥寥数百。応援一処不能兼顧各処,且噶都屯答処所逼近江辺,有事只旦 在夕,即馬上飛報請援料,亦不能当機(『明清檔案』B21271)。 65) 『蒙古堂檔』第 1 冊に康熙 12(1673)年,13(1674)年の康熙帝とダライラマ 5 世の書簡は掲載さ れていない。

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