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4.隅田川に架かる橋 4−1 橋の名称由来と歴史 (1)橋の名称由来 その昔、江戸幕府は軍事上の理由から隅田川の千住大橋と多摩川の六郷橋以外には極 力橋を架けなかった。しかし、明暦3年(1657)の大火以降、防災の意味から次々と 橋が架けられるようになった。また、その後時を隔てて関東大震災の復輿事業で架設さ れた橋もかなりある。図20に示すように、現在、隅田川には人が渡れない橋もいれる と36橋が架けられている。これらの橋の名称のほとんどがその地名に因むものが多い が、表5に著名な橋の名称由来をまとめて示した。 図20 隅田川の橋梁16)

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表5 著名な橋の名称由来(直近の地名にちなむ橋名を除く)18) 橋 名 橋名の由来 千住大橋 明暦の大火後に交通安全、安全上のため千住大橋と呼ぶようになった 千住汐入大橋 渡船場「汐入の渡し」にちなむ 白鬚橋 東岸にある白鬚神社にちなむ 水神大橋 東岸にある「隅田川神社(水神宮)」にちなむ 桜 橋 隅田公園を結ぶ園路の役割を持ち、両岸の桜を楽しむ人が渡る隅田川唯一の歩行 者専用橋 言問橋 「言問」という名称は在原業平の喚んだ“名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思 ふ人はありやなしやと”という歌にちなむが、実際にこの業平の故事があったと されている場所は現在の白鬚橋付近のことであり、有力な説としては、1871年の 創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって隅田川に ちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名付け、人気の店になり、この近辺 が俗に「言問ヶ岡」と喚ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに 由来するというものがある 吾妻橋 はじめは「大川橋」と呼ばれた。江戸の東にあるため「東橋」と呼ばれており、 後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、向島にある「吾嬬神社」へ通ずる道で あったことから転じて「吾妻」となった説がある 駒形橋 橋の西詰めにある「駒形堂」にちなむ 厩 橋 元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」のあった場所にちなむ 両国橋 西側が武蔵国、東側が下総国と二つの国にまたがっていたことにちなむ 永代橋 当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたことからという説と、徳川幕府が末 永く代々続くようにという慶賀名という説がある 佃大橋 隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられたこ とにちなむ 勝鬨橋 1905年日露戦争の旅順陥落記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置され、そ の後対岸の月島との交通需要が増加し架橋され、渡しの名にちなむ 写真2017) 桜橋上空より下流を望む 手前より、桜橋、言問橋、東武線鉄橋、 吾妻橋、駒形橋、厩橋

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(2)橋の歴史的変遷 隅田川の最初の橋は、徳川家康の江戸入府直後に架けられた千住大橋である。この橋 は、奥州街道を渡す橋であり、東北の伊達氏をにらむ戦略上の必要から、架橋を急いだ もので、創架以来火事や洪水による被害もなく、江戸三百年を生き抜いて明治をむかえ た名橋である。 一方、江戸中心部を流れる下流部に、はじめて橋が架けられたのは、両 国橋で千住大橋から70年後のことであった。元禄年間に入ると、新大橋と永代橋がたて つづけに架けられた。以降、幕府は、これら隅田川橋梁の管理に苦慮しつづけることに なるが、最大の悩みは頻繁におこる火事(およそ3年に1回の大火)と洪水であった。 火事による橋梁の被害は、深刻なものがあり、多くの被災記録が残されている。江戸市 街の2/3を焼失し、死者10万人を出した明暦の大火では、市中の60橋が焼失している。 一般に、木橋の耐用年数は、20年といわれていたが、洪水による橋梁の被害記録による と、平均して2.5年に1回の割合で流出、損壊などの被害を受けた。 大正12年(1923)9月1日の関東大地震では隅田川の橋梁被害も甚大で、永代橋、両 国橋、厩橋、吾妻橋が火災により機能を失ったが、床組に鋼、コンクリートを用いてい た新大橋のみが被害をまぬがれた。こうした被害状況を踏まえて、耐火、耐震性の高い 橋梁を目指して、復興事業がはじまった。 隅田川では、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、 厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋および相生橋の9橋と、白鬚橋と千住大橋が架け替えら れた。 4−2 橋の構造と文化について (1)江戸時代の橋の構造19) 江戸時代の隅田川の架橋資料は、「東京市史稿橋梁編」に詳しく掲載されている。し かし、例えば工事仕様でどれを採用したか等が不明で、文献の内容やつながりのはっき りしないものがあり、こうした資料も安政年間以降残されていない。江戸時代の橋の施 策を概観すると、幕府の組織、制度に内在していた以下の問題点があった。 ①橋の建設を担当する部署は固定されていなかった。 ②橋の維持管理をまかなう財源制度が未整備であった。 ③橋の工事を発注する役所と受注する大工棟梁との相互理解が十分でなかった。 ここでは、当時の橋の断面図と代表的な施工方法を紹介する。

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元禄年間に架橋された新大橋、両国橋は、幕府が材木を提供し、工事の請負費は、1 坪当たり単価がそれぞれ6.6両坪、8.8両坪で、在種は欅、栂、檜などの高価なものであ った。橋脚の最大間隔は10m以下で、下流へ行くほど地中深くに埋め込まれた。特に 永代橋ではかなり深かったため、建設費はその分増加した。杭は通し杭、継ぎ杭の両方 を使用しているが、永代橋の落橋事故以降の橋の仕様は、大川橋をみると、杭の本数、 杭径、根入れ長はいずれも増加している。 橋脚杭の施工方法は江戸公儀の記録の中に「震ゆりこみ込」工法が散見される。安政7年のも のと推定される「両国橋御修復仕様」に「土俵数百俵余仕掛け震方仕」といった記録が 残っている。 両国橋 大川橋 (吾妻橋付近) 新大橋 永代橋 図21 隅田川4橋の断面図 図22  橋脚杭の施工例「震ゆりこみ込」工法 原出典は「矢作橋掛直御普請杭震込之図」 (三河美やげ)

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(2)古くからの橋の紹介 江戸時代に架橋された橋や文化財的橋として千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、清 洲橋、勝鬨橋を紹介する。 ・千住大橋 前述したとおり、隅田川最初の橋で徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年 (1594)11月に架橋された。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡 裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と思 われる。千住大橋は計6回の改架、改修が行われ、明治18年(1885)7月1日の台風 による洪水まで、流出が一度も無かった。 ・両国橋 両 国 橋 の 創 架 年 は 2 説 あ り、 万 治 2年(1659)と寛文元年(1661)で、 千住大橋に続いて隅田川に2番目に架 橋 さ れ た 橋 と さ れ て い る。 長 さ94間 (約200m)、幅4間(8m)。当初「大 橋」と名付けられていたが、西側が武 蔵国、東側が下総国と2つの国にまた がっていたことから俗に両国橋と呼ば れ、 元 禄 6 年(1693) に 新 大 橋 が 架 図23 「名所江戸百景千住の大橋」 歌川広重(初代)画 写真21 千住大橋 中央に「大橋」の橋名板がかかっている。上に なにもつかない大橋である隅田川架橋第1号大 橋といえばこの橋しかなかったプライドであろ うか2番目の両国橋より70年前のことになる 図24  葛飾北斎「冨嶽三十六景 色御厩川岸 両國橋夕陽見」

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橋されると正式名称となった。江戸幕 府は防備の面から隅田川への架橋は千 住大橋以外認めてこなかった。両国橋 は流出や焼落、破損により何度も架け 替えがなされ、木橋としては明治8年 (1875)12月の架け替えが最後となる。 こ の 木 橋 は 明 治30年(1897) 8 月10 日の花火大会の最中に、群集の重みに 耐え切れず10mにわたって欄干が崩落 し、死傷者は十数名にも及んだ。これ により改めて鉄橋へと架け替えが行わ れ、 明 治37年(1904) に、 現 在 の 位 置より20mほど下流に鉄橋として生ま れ変わった(写真22)。 ・新大橋 最初に新大橋が架橋されたのは、元 禄 6 年(1693年 )12月 7 日、 隅 田 川 3番目の橋で、「大橋」とよばれた両 国橋に続く橋として「新大橋」と名づ けられた。橋が完成していく様子を、 当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉 が句に詠んでいる。 「

ありがたやいただいて踏むはしの霜

」 新大橋は何度も破損、流出、焼落し、その回 数 は20回 を 超 え た。 そ の 後、 明 治18年(1885) に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明 治45年(1912) 7 月19日 に は ピ ン ト ラ ス 式 の 鉄橋として現在の位置に生まれ変わった(写真 24)。昭和52年(1977)に現在の斜張橋に架け替 えられた(写真25)。 写真22 1904年完成の旧両国橋 写真23 現在の両国橋(赤色+薄緑色) 図25 大はしあたけの夕立 (歌川広重)

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・永代橋 永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698)8月であり、長さ110間(約200m)、幅 3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあ り、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規 模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、東に上総、南に箱根」と称され るほど見晴らしの良い場所であったと記録に残る。しかし、文化4年(1807)年8月 19日深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋 事故を起こした。橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆 が次々と押し寄せては転落し、死者は実に1,500人を超え、史上最悪の落橋事故と言わ れている(図26)。 この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している。 「

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

」 写真24 1912年完成の旧新大橋 写真25 現在の新大橋(黄色) 図26 富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図20) 1807年8月19日に崩壊が発生し死者1,500人余と記録されている。

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その後、明治30年(1897)には、道路橋では日本初の鉄橋として鋼鉄製のトラス橋 が現在の場所に架橋された(写真26)。しかし、関東大震災で被災したため、現在の橋 が再架橋された。「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツのライン川に架かってい たルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径 間長100mを超えた橋でもある。現在江戸東京博物館に架橋当時の永代橋のレプリカモ デルが存在する。平成12年(2000)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨 土木遺産」に選定された。また、平成19年(2007)に都道府県の道路橋として初めて 後述する清洲橋・勝鬨橋とともに国の重要文化財に指定された(写真27)。 4−3 代表的な橋の景観と文化 いままで江戸時代の橋を中心に紹介してきたが、ここでは現在隅田川に架かっている 景観に優れた代表的な橋について基礎構造を含めて紹介する。 (1)代表的な橋の景観と基礎構造 ・清洲橋 清洲橋の名は、深川の清澄町と日 本 橋 の 中 州 を 結 ぶ 橋 で あ る こ と に 由来し、橋の新設にあたって公募さ れたものである(写真28)。この二 つ の 町 を 中 州 の 渡 し が 結 ん で き た が、震災復興事業の一つとしてドイ ツのケルンの吊橋に範をとって、女 性 的 な 曲 線 美 を も つ 吊 橋 を 架 け る ことになった。男性的な永代橋と対 照 的 に 女 性 的 で 芸 術 的 な 立 体 構 造 を持つ本橋は、隅田川第一の美橋と 写真26 1897年完成の旧永代橋 写真27 現在の永代橋 写真28 日本橋側からみた清洲橋

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いわれている。基礎 は 地 盤 が 軟 弱 の た め ニ ュ ー マ チ ッ ク ケ ー ソ ン 工 法 が 採 用され、全国に普及 す る 足 が か り と な った(図27)。 ・勝鬨橋 我 が 国 の 代 表 的 な 可 動 橋 と し て 知られる本橋は、シカゴ型二葉式跳 開橋で、第二次世界大戦前に完成し た最後の橋梁である(写真29)。命 名 は 前 述 し た と お り で、 架 設 当 時 は、我が国橋梁技術の粋として衆目 を集めたが、自動車交通の激増によ り漸次開くことが少なくなった。 写真29 下流側からみた勝鬨橋 図27 清洲橋の基礎構造 構造形式(主径間):自碇式連続補鋼板桁吊橋 橋長:186.22m 施工年月:着工 大正14年3月,完成 昭和3年3月 幅員:25.908m 橋  台:基礎形式 ニューマチックケーソン 形状寸法 6.10×24.38×30.4 橋  脚:基礎形式 ニューマチックケーソン 形状寸法 6.10×24.38×30.4 構造形式(主径間):シカゴ型固定軸双葉跳開橋 橋長:246m 施工年月:着工 昭和7年6月 竣工 昭和15年6月 幅員:26.6m 橋  台:基礎形式 右岸 直接基礎左岸 木  杭 形状寸法 不明 橋  脚:基礎形式 直接基礎 形状寸法 不明 図28 勝鬨橋の基礎構造

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(2)橋の景観と文化21) 開府より半世紀、明暦3年(1657)に江戸は大火に襲われ、市街地の6割が焼き払 われた。10万8,000人あまりにのぼる被災者を出したこの大惨事によって、人口の過密 と住居地の密集が問題視されることになり、その後の江戸再建の中心は居住区の外転と 火除け地の二本柱による災害対策に注がれた。それから100年後の宝暦10年(1760)に、 江戸は再び大火に襲われ焼失、200年後の安政3年(1856)には大地震による津波の被 害をこうむった。その後も、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の大 空襲と、およそ100年ごとの災害(戦災)は、たかだか300年という江戸の歴史を伝え る構造物を後世に残すことを許さなかった。そのつど復興され息を吹き返した江戸・東 京の文化を語るとき、それは形のない文化だと定義できる。江戸の文化の遺産は、京都 や奈良に残るような1,000年以上もまえの建築や仏像でない。あいつぐ崩壊を前向きに 受け止め、まったく新しいものを創造していくバイタリティーこそ江戸文化あるいは隅 田川文化と呼べるものの源ではなかろうか。 架橋を含めて隅田川流域の環境 整備を考えるとき、必ず江戸時代 の絵を用いて景観への気遣いが問 題とされるが、いまさら江戸時代 に戻れといっても、むしろ現在の 景観にはなじまない。今風の感覚 を理解しない者に対して「この田 舎者め!」と非難するのが落語の 世界でしばしばみられる江戸っ子 の負けん気である。   古いものを「御破算」にして、新しいものに果敢に挑んでいく隅田川文化の精神が新 たな都市づくりを推進する原動力となった。個性的な橋の展覧会にはじまり、後述する 「親水テラス」など、隅田川を中心に据えたリバーシティ開発事業の根底を支えてきた のも、また隅田川文化の特徴といえるのかもしれない。 写真30 隅田川最下流の橋「勝鬨橋」 左側は移転予定の築地市場、奥はリバーシティ 開発事業で建設された高層ビル群

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5.隅田川と洪水 5−1 洪水の歴史 (1)隅田川の歴史的洪水と荒川の開削 現在、岩淵水門では隅田川のほかに荒川、新河岸川 が入り混じっている(写真31)。隅田川、荒川放水路、 岩淵水門の歴史は明治43年(1910)の壊滅的な大洪 水に大きく関わっている。 明治43年(1910)の8月は月初めから長雨が続き、 8∼10日には秩父の山岳地で300∼400mmの豪雨が降 った。当時は現在のような荒川放水路(岩淵∼堀切∼ 葛西)がなく、秩父で降った雨は隅田川を経て岩淵か ら千住、向島、浅草、両国、月島、築地へ流下してい った。豪雨により河川は増水し、数十箇所の堤防が決 壊し、岩淵、志村、王子、日暮里、千住、下谷、 浅草、本所深川、向島、亀戸など広範囲で浸水被 害があったとの記録が残っている(写真32、図 29)。水が引くのに2週間もかかり、浸水家屋27 万戸、被災者150万人、被害総額は1億2千万円 (当時の国民総生産の4.2%)にも達した。 この洪水復興のために、明治政府は岩淵に水門 を建造して荒川本流(現隅田川)を仕切り、岩淵 から中川の河口に向けて延長22km、幅500m の放水路を開削することを決断し、洪水時に 隅田川の水門を閉じて、増水した河川水を荒 川放水路によって一気に東京湾へ流すことを 計画した(図30)。 早速、明治44年(1911)から測量と用地買 収が始まり、大正2年(1913)には馬を使っ て 放 水 路 を 掘 り 始 め た。 し か し、 こ の 大 事 業は第一次世界大戦後の不況や関東大震災 などの影響を受けてなかなか進まず、大正13 年(1924)にようやく岩淵水門が、昭和5年 (1930) に 放 水 路 が20年 の 歳 月 と 延 べ310万 人の労力をかけてようやく完成した(図30)。 写真31 岩淵水門付近22)に加筆 荒川放水路 隅田川 岩淵水門 旧岩淵水門 荒  写真32 明治43年の水害被害22) 図29 明治43年の水害被害23)に加筆 左岸側のみ堤防があっ たのは、左岸に低地、 右岸に台地が広がって いるからである 隅田川

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こうして、隅田川(旧荒川)下流 の住民は洪水被害から解放された のである。ちなみに荒川放水路の 工事に遡ること7年、世界的な土 木事業のパナマ運河の建設が始ま っている。パナマ運河は荒川放水 路の距離の約4倍、土砂量にして 約6倍の工事量であったが、半分 の10年で完工している。 荒川放水路の建設には内務省土 木局の青山 士あきら技師の力が大きく、 パナマ運河建設に関わった経験を 大いに発揮し、旧岩淵水門を設計 し、施工を指揮した。当時は過剰 な設計・施工であると批判を受け たが、関東大震災でも被害を受け なかったことで設計・施工が間違っていなかったことを証明した。青山技師は後に『私 はこの世を私が生まれたときよりもより良くして残したい』との言葉を残している。こ の言葉こそが、執筆者ら土木事業に携わる者たちの共通した理念ではないだろうか。 (2)それ以前の洪水被害 2章で述べたように、縄文時代前期は海水面が上昇し、関東平野の奥まで海水が入り 込んでいた。また縄文時代中期には海水面が低下し、内陸部に自然堤防※1が転々と残っ た。弥生時代になると低湿地で稲作を試み、台地や自然堤防上に住居を構える生活が始 まり、洪水と共存が図られた。 江戸時代には現在の海岸線近くまで海は後退し、徳川家康は水運の活性化を期待し て、河川の改修、人工河川の開削が幕府の優先課題として行われた。荒川上流も改修が 進み、入間川の水量を増やして秩父山系からの木材輸送を盛んにさせたようである。 江戸時代になり人口が集中した江戸中心市街の洪水対策は、図29に示すように隅田 川右岸(西側)の日本堤(現在の台東区の土手通り)、隅田川左岸(東側)の隅田堤(現 在の墨田区墨堤通り)を築堤した。また、堤防の上流域を水田地帯にして広大な遊水地 として機能させることで、荒川上流域にて河川氾濫が生じても下流域には水害が生じな いよう整備された。このような江戸中心市街を重視した治水事業は、上流域の水田地帯 図30 当時の隅田川と荒川放水路22)に加筆 岩淵水門 開削した荒川放水路 全長22km、幅500m 旧荒川 (当時の隅田川) 不忍池 ●浅草 ●両国 皇居 ●東京駅 東京湾 旧中川 赤羽 ※1 洪水などで堆積した土砂の高まりで、砂地盤から構成されることが多い。 現代では、巨大地震による液状化の危険性が懸念されている。

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で洪水・氾濫による被害が多発することとなり、家の敷地に土を盛ったり(水屋)、軒 先に小舟を吊るして自衛策を講じていた。天明3年(1783)の浅間山噴火による火山 灰が降り積もった結果、上流域の河床が上昇して侵食量が多くなった他、堰せきとめ止湖この決壊 により、下流域で洪水が多発するようになった。 明治初期には隅田川河口に重化学工業の工場が立ち並び始め、日清・日露戦争を経て 工場は上流部へ進出していった。そのため根本的な治水対策は実施されないままでい た。そのような状況の中、前述した明治43年(1920)の大洪水が発生したのである。 5−2 水門 河 川 法 改 正( 昭 和39年 ) に よ り、 隅 田 川 は 岩 淵 水 門 に て 荒 川 か ら 分 岐 し た( 写 真 31)。分岐部には新旧の岩淵水門が建設され、有事の際には水門を閉めて隅田川下流域 を水害から守ることになっている。ここで、新旧の岩淵水門やその他の水門を見てみる。 (1)新旧の岩淵水門 赤い水門は大正13年(1924)に完成した旧岩淵水門で、前述の青山技師の思想が色 濃く残っている土木遺産である。建設当該地は不良地盤でありながら、水門の躯体全体 をコンクリートにしたことが当時としては画期的であった。その頃の構造物はレンガか らコンクリートへ移行していった時代であり、その意味からしても、この水門は先駆的 な構造物であった。地中の杭は水に強いマツをふんだんに使い(56本)、地下水よりも 高い場所には鉄筋コンクリート杭(44本)を併用した。 旧岩淵水門は昭和35年(1960)に地盤沈下の問題から改築され、当初の土台を生か すように上流側をコンクリートで補強した。ただし、水門上面の花崗岩の化粧張りなど は当時のまま残された(写真33)。 旧岩淵水門はメンテナンスを受けながら機能を果たしてきたが、老朽化が進んだこと で昭和57年(1982)に青い水門で親しまれる新岩淵水門へと移行した(写真34)。旧岩 淵水門は荒川・隅田川の歴史を語る上での偉大な土木遺産として残され、憩いの場とし て皆に開放されている。 写真33 旧岩淵水門(赤い水門) 写真34 新岩淵水門(青い水門)

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(2)隅田川と荒川間の水門 江戸時代以降、東京の低地は舟運が盛んになり、人工的な水路整備と埋立てによる土 地利用を繰り返してきたが、明治以降、鉄道網や道路網の急速な発展により舟運は次第 に衰えていった。 一方で明治時代から隅田川河口に工業が立ち並び、商業地は内陸へ拡大していった。 工場は地下水を汲み上げ、競って工業用水として使用した結果、隅田川と荒川に囲まれ た江東三角地帯は地盤沈下が進行し、50年間で最大4mも地盤が沈下した箇所もあった (図31)。現在は地下水くみ上げを規制しているため地盤沈下の進行は収まっているが、 地盤高がA.P.±0m以下のいわゆる0m地帯は84km2にまで達している。このため0m地 帯を含んだ江東三角地帯では高潮対策がとられ、地盤低下とともに河川堤防のかさ上げ を繰り返した結果、大地震に対する抵抗力が小さい堤防が多く建造されることになった。 江東三角地帯を流れる河川(小名木川等の運河) は江戸時代の水路整備の名残りであるが、近年は災 害時の救援物資運搬や被災者救護など新たな防災ネ ットワークの一端を担うと期待されている。しかし これら河川には潮汐変動を含む水位差があり、船で 行き来するのは容易ではない。このため河川間の接 続部には水位の異なる2つの河川をつなぐ施設とし て閘こうもん門(ロックゲート)が設けられている。 図31 地盤沈下量の計時変化と地盤高平面図、断面図23) 写真35 荒川ロックゲート24) ※河川の水位と地盤沈下した低地、  高潮対策を採った堤防に着目

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平成17年(2005)には荒川と旧中川の合流地点に新しい閘門が完成し、「荒川ロック ゲート」として運用が開始された。荒川ロックゲートは最大3.1mの水位差をカバーして、 双方向からのアクセスを可能とした。今までの無機的な水門と異なり川辺の新しいラン ドマークとして親しまれることを期待され、写真35のようなデザインが施された。 5−3 防災への取り組み (1)スーパー堤防 スーパー堤防は「高規格堤防」と呼ばれ、 極めて大きな洪水でも破は て い堤しないよう幅を 広く取った堤防※2のことを言う。荒川∼隅田 川の場合、洪水時は岩淵水門を閉め、河川水 は荒川を経て東京湾へ流す計画である。国土 交通省は荒川沿いのスーパー堤防未整備区 間で堤防が決壊するシナリオを想定し、被 害予想をしている。このシナリオで は、荒川∼隅田川下流域の洪水被害 は甚大で、恐ろしいことに水位は銀 座 で1.5m、 錦 糸 町 で2.4mに な る と も言われている(写真36)。 東京都は隅田川の堤防を防災面に 配慮したスーパー堤防や親水性に配 慮 し た テ ラ ス 護 岸 を 整 備 し て き た ( 図32)。 平 成19年 6 月 に 発 表 さ れ た「隅田川流域河川整備計画1)」で は、スーパー堤防や緩傾斜型堤防の 整 備 計 画 が 示 さ れ て い る。 平 成17 年3月末時点の堤防整備の状況(図 33)によれば、テラス護岸について は隅田川の中∼下流両岸を対象に整 備が進み、すでに約8割の護岸が整 備済みとなっている。一方、スーパ ー堤防および緩傾斜型堤防ですでに 整備が終了している地区は全体の2 写真36  J R 錦 糸 町 駅 前 の シ ミ ュ レーション合成写真 ※2 スー パ ー 堤 防 の 幅 は、 高 さ の30倍 をもち、約200∼300mにもなる。 図32 スーパー堤防、緩傾斜型堤防の概念図23) バスの屋根 錦糸町駅舎

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割程度とまだまだ低い。すでに整備が終了している地区は白髭東・西地区、佃島地区、吾 妻橋東岸の墨田区役所付近などで、市街地再開発を行った地域に限定される。スーパー堤 防の幅は通常の堤防と比較して広いために、堤防整備には用地取得が大きな障壁となって いると考えられる。今後は住民一丸となった防災都市整備や次期東京オリンピック誘致と 連動させた観光地整備のスローガンのもと、市街地再開発と連動して堤防整備が進むこと が期待される。 写真37∼40に現在の堤防の様子を示す。写真37は昔の防潮堤の名残りであり、カミ ソリ堤防と呼ばれているものである。現在、このような堤防はほとんどの箇所でテラス 護岸へ改修されている。 写真38は白鬚橋上流側に設けられたサンクチュアリー空間である。これは生物保護 のために人間の立ち入りを禁止し、数十m離れた場所から生態を観察する区域である。 人々の心が隅田川に愛着を感じるように、多様な生物にとっても隅田川が棲みやすい空 間になるよう期待される。写真39は桜橋付近のテラス護岸(緩傾斜型堤防)で、住民 が川へ親しみを持って接することができる配慮がなされている。 写真40は吾妻橋付近から見た上流側で、言問橋や桜橋にかけて両岸に公園が整備さ 図33 堤防の整備状況1)(平成17年3月末時点) 浅草駅の東側地区 整備が完了した 吾妻橋東地区

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れ(隅田川公園)、川辺の散歩を楽しんだり、スポーツに親しみ、花見を楽しめる空間 として作られている。また地震時等の避難場所としても重要な役割を果たしている。 (2)ハザードマップ 隅田川沿岸は堤防の整備などのハード対策が進められているが、さらに洪水被害の教 育・周知やハザードマップ作成等のソフト対策を積極的に取り入れている。23区(北区、 足立区、港区、板橋区など)が作成しているハザードマップ、東京都が作成している浸 水予想区域図※3(図35)を参考に自宅や職場近くの浸水予想を確認しておき、避難場所・ 経路を確認しておくことが必要である。 図34のように、北区の浸水予想域では電信柱に 予想される浸水深さを表示し、携帯電話にて避難 場所の表示を行うサービスも始まり、常日頃から 防災への意識を高める試みがされている。 写真37 昔の防潮堤の名残り 写真38 白鬚橋上流のサンクチュアリー空間 写真39 桜橋のテラス護岸(緩傾斜型堤防) 写真40 言問橋、桜橋と隅田川公園 ※3 隅田川及び新河岸川、神田川、石神井川及び白子川、江東内部河川などが公開されている。 http://www. kensetsu.metro.tokyo.jp/suigai_taisaku/index/menu02.htm 図34 電柱への浸水深さの表示23) 白髭橋 旧防潮堤 テラス護岸の 既成地区 桜橋 言問橋 桜橋

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かつての防潮堤は隅田川への関心を大きく失わせてしまい、高度経済成長期の工場排 水による隅田川の汚濁は人々を川から遠ざけた原因となった。国・都などの官庁主体の 河川整備、学校や地区のボランティア活動などの民間の活動により、隅田川はきれいな 水辺空間を取り戻し、2章で述べたようにすでに多様な生物の生息が確認されている。 また、テラス護岸やスーパー堤防の整備により緑と水が融合して、散歩・花見・花火・ スポーツなどの楽しみが、あたかも江戸時代の庶民が楽しんだように復活してきてい る。 しかし、隅田川は時たま荒々しい姿を見せ、洪水となって河川流域に住む人々へ牙を むく。昔の人々は家の土台を高くして、軒下に小舟を吊るして自衛していた。現代に 住む私たちは江戸庶民と違って、あらゆる情報を駆使して水害の範囲をあらかじめ予測 し、落ち着いて安全な場所へ避難することができるのである。常日頃からの準備を怠ら ないことで、心のふるさと隅田川ともっともっと密着して生活できるだろう。 図35 隅田川及び新河岸川の浸水予想区域図(東京都河川局のホームページより)

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6.まとめ 6−1 隅田川に関わるイベント (1)隅田川花火 隅田川の花火大会は、享保17年(1732)に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うた め、翌年旧暦5月28日、両国の川開きに花火を催したのが始まりとされる。この当時 は20発前後の花火で、かなりのんびりとしたものであった(図36)。当初の打ち上げは、 「鍵屋」が担当したが、文化7年(1810)に「鍵屋」 の分家の「玉屋」(創業者は玉屋清吉)の創業によ り、2業者体制となり、双方が腕を競いあった。「鍵 屋」と「玉屋」の打ち揚げ場所は両国橋をはさんで 上流と下流に分かれて交互に花火を揚げたため、観 客は双方の花火が揚がったところで、できのよい業 者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「た まやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。 当時評判がよかったのは「玉屋」のほうで、「玉や だと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるよう に、「玉屋」の掛け声ばかりで「鍵屋」の名を呼ぶ ものがいない、といわれた時代もある。ただし、「玉 屋 」 は 天 保14年(1843) に 火 災 を 起 こ し、 江 戸 処 払いを命じられ、一代限りで断絶した。その後、昭 和36年(1961)から交通事情の悪化等により中断 す る が、 昭 和53年(1978) に 現 在 の 名 称 と し て 復 活し、以後毎年続けられている。平成19年(2007) は復活後30回を記念し、約22,000発が打ち揚げられ、 隅田川周辺に集まる約95万人もの歓声が夏の風物 詩として盛り上がった(写真41) 図36 江戸時代の両国花火 歌川広重 名所江戸百景「両国花火」 図37 明治時代の両国花火大会の様子25) 写真41 現在の隅田川花火大会

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(2)早慶レガッタ 早 慶 レ ガ ッ タ は 明 治38年 (1905)に、隅田川向島で第1 回大会が開催されて以来、戦争 などの中断をはさみながらも、 平 成19年(2007) で76回、102 年目を迎える。はじまりは野球 同様、早稲田が先輩格の慶應に 試合を申し入れた事に端を発し ている。第1回大会のレースは 両校の学生をはじめ、前評判を 聞き付けて集まった野次馬が、双方の応援に両岸を赤白に分かれ、その盛り上がり源平 合戦さながらだったと言われた。このレースはエイトではなくシックスで競われ、慶應 有利の下馬評を覆して早稲田の艇が1艇身半で勝った。 しかし、翌年以降の開催が期待されたものの、野球の早慶戦の過熱振りから、早慶両 校の対校戦が全面禁止になるに到り、第2回大会は25年後の昭和2年(1927)であった。 昭和32年(1957)の第26回大会は荒天により川面に白波が立つ中での歴史に残るレ ースとなった。ボートの浸水が予想される中、レースは序盤慶應が早稲田を大きく引き 離したが、慶應艇がレース途中で浸水により失速、そのまま沈没した。早稲田はボート を漕ぐ選手とボートに浸入した水を食器で掻き出す選手に分かれ、最終的には浸水を回 避し無事ゴールし、早稲田の勝利となった。このエピソードは、後に小学校6年生国語 の教科書に「あらしのボートレース」という題名で取り上げられた。 隅田川における対校レースは、昭和30年頃から高度経済成長に伴う河川交通量の増 大、高速道路向島線の橋梁架設工事、水質汚染等で、隅田川は既にボートを漕げる環境 では無くなり、昭和36年(1961)年の第30回大会を最後に一旦中断され、以降、戸田 ボートコースや荒川に移ることを余儀なくされた。その後、河川浄化が進み、昭和53 年(1978)、隅田川にレガッタの灯を消してはならないという多くのファン、OB、地 元の方々の熱意により、17年ぶりに早慶レガッタは隅田川に回帰し、現在に至っている。 「復活早慶レガッタ」では慶應が下馬評を覆し、大差で早稲田を下した。 大会は、毎年4月中旬の日曜日に開催され、桜橋付近がゴールとなる(写真42)。ち なみに、今年までの過去の対戦成績は、早稲田41勝、慶應34勝、同着1である。 (3)浅草の祭り <浅草三社祭り> 浅草の観音様の東隣に鎮座するのが、浅草神社(三社権現)である。この拝殿は徳川 写真42 早慶レガッタの様子(桜橋付近)12)

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三代将軍家光寄進の典型的な権現造 りで、あらゆる風火を逃れてきた強 運の神社である。浅草寺の本尊であ る黄金の観音像を漁の最中に網にか けた檜前浜成・竹成兄弟および土師 真中知の三人を祀っている。大祭の 三 社 祭 は 旧 暦 の 3 月17日 ∼18日 に 行われ、江戸時代には3基の御本社 神輿を担いで浅草橋まで下り、そこ から御座舟で隅田川を上り、駒形で 陸に上がり、御本社に帰興した。現在は、5月の第3金曜日∼日曜日に行われ、金曜日 午後に「びんざら舞」、「鳶頭木遺り」、「浅草芸子の手古舞」、「白鷺の舞」などが練り 歩く大行列がある。土曜日には100基余りの神輿渡御があり、日曜日早朝6時には宮神 輿3基の宮出しを行う(写真43)。一の宮、二の宮、三の宮の大神輿が次々と氏子地域 を渡御する。祭りの最後を飾る宮入は午後8時過ぎに行われる。 <サンバカーニバル> 浅草といえば「江戸下町情緒」という印象があるが、これまで、他の町にはない新し いものをどんどん取り入れてきた。明治時代には日本最初の映画館、日本で初めてエレ ベーターを取り付けた12階建ての赤レンガビル「凌雲閣」、日本で初めての遊園地「花 やしき」、サーカスなどがあげられる。大正時代になると「大正オペラ」、「安来節」と いった幅広いジャンルの音楽を生み出してき た。 し か し、 昭 和30年 代 後 半 か ら40年 に か け て盛り場の中心は、新宿や渋谷に移り、浅草は 次第にさびれていった。このような状況の中で 当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故伴淳三 郎 氏 が、 浅 草 の 新 し い イ メ ー ジ と し て、 ブ ラ ジルのサンバを浅草のお祭りとして取り入れる ことを提案した。これをきっかけに、浅草の商 店連合会が主体となるサンバカーニバルが誕生 し、今では東京下町の夏を代表するお祭りとな っており、本場ブラジル人からの評判も高い。 今 年 は、 8 月25日 に 第27回 浅 草 サ ン バ カ ー ニバルとして、馬道通り∼雷門通りで歌って、 踊って盛大に開催された(写真44)。 写真43 三社祭の宮だしの神輿26) 写真44 浅草サンバカーニバル

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6−2 新東京タワー構想 テレビ放送をより きれいに提供(高品 質化)するための電 波のデジタル化に伴 い、電波を安定的供 給するための電波塔 が、平成23年(2011) 「 墨 田 区 押 上・ 業 平 橋 地 区 」 に 約610m の 世 界 一 の 高 さ で 「 新 東 京 タ ワ ー」 と して誕生する(図38)。新東京タワーは、新東京タワー 株式会社(東武鉄道が100%出資)が事業主体となり、 以下の基本理念に基づき建設される。 ①地域とともに活力ある街づくりに貢献 新タワーが建設される墨田区は、江戸きっての盛り場 であった「浅草」、屋敷町だった「本所」、景勝地でもあ った「向島」があり、「食」、「風情」、「職人のものづくり」 といった江戸文化の継承地であるとともに、隅田川をは じめ、開放感のある水辺空間に恵まれ、交通利便性に恵 まれた地域である。この地域は、物づくりの職人気質が 息づき、下町の人情が豊かであり、世界一の観光タワー を中核とした大規模複合開発により、新たな交流、観光、 産業拠点を形成し、地域を活性化するとともに、国際観 光都市東京の実現に貢献することを目指している。 ②時空を超えたランドスケープに挑戦 この地を「新しい歴史を創造する下町文化創生拠点」 として位置づけ、江戸期の景観を代表する隅田川を背景 に、日本の伝統的な美意識のもと最新技術を駆使して造 形した意匠により、足元の北十間川から連なる水の流 れと下町文化が織りなす粋な雰囲気と融合し、他の地区 にはない、時空を超えたランドスケープを創造する(図 39)。 図38 新東京タワーと隅田川(想像図)27) (隅田川右岸駒形橋付近からの眺望) 図39  新タワーと併せた 北十間川の整備27)

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③防災面での安心と安全の提供 災害時には新タワーが有する情報インフラとしての社会的意義を発揮するとともに、 地震・火災・水害等の災害に十分耐え得る街づくりを進めることで、地域の防災性能の 向上に貢献し、地域に安全と安心を提供することを目標とする。 ④新タワーから21世紀の夜を彩る光を届ける(ライトアップ) 新タワーでは、21世紀の日本の新たなランドマークとなるとなるように、最先端の 照明技術を駆使し、地域の景観に穏やかに溶け込むようなライトアップを実現する。 また、地上350mと450mに2つの展望 台を設置し、350m部分にはレストラン・ 店舗等を設置し、関東一円を眼下に、会 食を楽しめる。高さ450mの展望ロビー の 外 周 に は、 ガ ラ ス で 覆 わ れ た 空 中 回 廊を設け、世界一の高さを散策できるこ とを実現する。さらに、新タワーの足元 には、押上駅と業平橋駅をつなぐ東西約 400m、 面 積 約3.67haに お よ ぶ「 タ ワ ー のある街」が生まれ、施設4階レベルに は押上駅前からタワーロビーへと続く交 流広場を、駅前や北十間川沿いには3箇所の広場や親水公園を配し、ここを訪れる人々 や近隣に住まう人々が集うコミュニティ空間を実現する(図40、図41)。  “日出ずる方角、東の空に、タワーが立ち上がるとき”  下町職人の“ものづくり”の遺伝 子を持つ人々との交流から新しい文化 が生まれ、世界中から人々が集い、ふ れあい、ときには互いに刺激し、触発 し合う中で、ファッションやアート、 ライフスタイルなど、人々の生活の質 を高める独自の都市文化が生まれ、育 っていく街…。新しい街がタワーと伴 に発展していく。 図40 新タワー足元の整備28) 押上方面から北十間川沿いの整備 図41 新タワー周辺の街並み28) タワー足元の集客施設の整備

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6−3 親水を踏まえた隅田川の将来像 隅田川は古くから人々に親しまれて きた「水の都」東京を象徴する河川で あり、人々が集う魅力ある水辺空間と して、「隅田川を中心にいきいきとし た、うるおいのあるまちづくり」を目 指して、今後も引き続き緩傾斜堤防や スーパー堤防等により、親水空間化と 堤防の安全性を向上させ、周辺市街地 と一体的な整備の継続が必要である。 かつてはコンクリートの直立護岸ば かりだった隅田川も、桜橋のたもと、 箱崎、大川端に造られたスーパー堤防や耐震性を備えたテラス護岸(整備率86%)など、 安全で親水性や景観に配慮した整備が積極的に進められている。これまでのような川に 背を向けた街並みから、川に顔を向けたまちづくりを目指している(写真45)。 こうした取り組みにあわせて、東京都は、隅田川や運河など水辺空間の魅力を高め、 都市の賑わいを目指し、「観光施策連携推進会議」を設置し、さらに地元と連携し、早 慶レガッタや花火大会の再開に象徴されるように、防潮堤をギャラリーや吾妻橋付近の オープンカフェ、水上ステージとして活用するなど、住民や観光客が憩い、にぎわう場 となることも積極的に考えている。 また、平成23年(2011)には世界一の高さを誇る新東京タワーの完成に伴い、隅田 川もさらに活性化し、より多くの人々が集まる地域を目指している。 これからの隅田川は、東京都民の“母なる川”として、東京の親水河川の中心的存在 として益々に発展していくに違いないと考える。 かつて深川の大川端に住居を構え、 こよなく隅田川を愛し続け、“古池や かわづ飛び込むみずの音”と詠った松 尾芭蕉は、このように変貌をとげた現 在 の 隅 田 川 を 眺 め な が ら( 写 真46)、 隅田川の未来について、いったいどん な唄を詠んでいるのだろうか……。 写真45  隅田川のテラス護岸 写真46 隅田川河畔から清洲橋を眺める芭蕉

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【付録 隅田川周辺のグルメスポット】 隅田川周辺の旨いもの食べさせてくる れるお店をいくつか紹介する。是非一度 舌鼓を打ってみてください。 <駒形どぜう> 浅草駅から蔵前に向かう通りの右側に あり、創業は徳川十一代将軍の享和元年 (1801) で あ り( 写 真47)、 い ま で も 入 れ込み式の客席は健在で、江戸時代にタ イムスリップしたような気分になる。名 物「どぜう鍋」は、どじょうに酒をかけ、酔ったどじ ょうを甘味噌仕立ての味噌汁に入れて煮込む美味で ある。どじょうを酔わせることにより、臭みがとれ骨 が柔らかくなり、丸ごと食べられるようになる。ねぎ をたっぷりのせて(お好みで七味と山椒を加える)食 べるのが昔からの味わい方。一人前2,500円から。 <神谷バー> 明治13年(1875)、初代神谷傅兵衛が浅 草区花川戸町四番地で「みかはや銘酒店」 を開業したのがはじまりで、酒の一杯売り を始める。やがて“電気ブラン”で有名と なり、文人たちが好んで訪れた店である。 “電気ブラン”は神谷バーでおなじみのブ ランデーをメインにしたカクテルで、名前 の由来は、明治の頃まだ電気が珍しかった のにちなんで名づけられた。当時の職人さ んたちは、アルコール度40度のこのお酒を 何杯飲めるか争ったと言われている。しかし、無理を してコロリと倒れる人たちが続出したため、お店では 一人3杯までと制限した。しかし、多くの客は、勘定 を済ませてまた挑戦……。と言うほど人気のお酒だっ たとのこと。40度ものは大瓶ボトルが1,040円、神谷 バーでのグラス売りが一杯180円。温かみのある琥珀 色のキツーイお酒である。 写真47 「駒形どぜう」入口 柳川どじょう鍋料理(2,500円∼) 写真48 浅草神谷バー 電気ブランのボトルとグラス売り

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<土手のてんぷら伊勢屋> 旧山谷堀に沿った「土手通り」を三ノ 輪方面に向かって「吉原大門」を過ぎた 右側に「てんぷら伊勢屋」がある。 隣の「桜なべ中江」とともに有名店舗 で、 休 日 に は 行 列 が で き る。 ち な み に 「土手」とは創業した明治の頃、店の前 が山谷堀になっていて、その土手があっ た こ と か ら 由 来 し て い る。 現 在 山 谷 堀 は、埋め立てられているが、店の前を通 る「土手通り」には往時の名残が偲ばれ る。時代がかった建物だけでも一見の価値がるが(写真49)、香り良い胡麻油の香りが 暖簾の向こうから漂っている。どんぶりのふたからはみ出す海老の勇姿! からっと揚 がった天ぷらがどっさり載っており、海老美味しく、穴子 も柔らかい。天丼、海老丼 2,300円。 <仲見世人形焼> 浅草寺仲見世通りには、数多くの店舗が並んでいるが、 仲見世で人気の人形焼は、「亀屋」、「木村屋本店」が有名 である。木村屋本店では手焼の様子を見られる(写真50)。 「木村屋本店」は、浅草仲見世で一番初めに人形焼を売 り出したお店との事。手焼きながらの形にこだわってい る。 「亀屋」も亀の裏側には、ちゃんと「かめや」と彫って ある。 <両国ちゃんこ料理 川崎> 鶏ガラでとった醤油味のちゃんこ鍋「ソッ プ炊き」(ソップは痩せ型力士の呼び名)は、 あっさりとした出汁にこだわり、人気を博し ている。店は大正∼昭和期に活躍した元幕内 力士・横手山により昭和12年に創業され、現 在は3代目である(写真51)。“手をつく”(勝 負 に 敗 れ る ) こ と か ら、 鶏 肉 以 外 の 肉 料 理 は力士には敬遠され、鶏のちゃんこが好まれ た。 写真49 土手のてんぷら伊勢屋 (隣が「桜なべ中江」) 写真50 人形焼きの職人 (仲見世通り) 写真51 両国のちゃんこ店

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参考文献 1)東京都建設局河川部:「隅田川流域河川整備計画」2007.6. 2)堀淳一他:地図の風景(関東編Ⅰ:東京、神奈川)、そしえて文庫、1980.7. 3)鈴木理生:東京の地理がわかる辞典、日本実業出版社、1999.9. 4)建設省関東地方建設局:「大利根百話」、1987. 5)参謀本部陸軍部測量局:第一軍地方迅速測図、大日本測量㈱資料調査部複製 6)古地図ライブラリー別冊切絵図・現代図で歩く「もち歩き江戸東京散歩」、人分社、2006. 7)貝塚爽平:東京湾の地形・地質と水、築地書館、1993.5. 8)埼玉県:「荒川」 9)宮村忠:隅田川の歴史、かのう書房、1989.7. 10)鈴木理生:江戸の川・東京の川、井上書院、1989.8. 11)東京都土木技術研究所:東京深部地盤図 12)林順信・大西みつぐ:隅田川を歩く、JTBキャンパスブック、2001.12. 13)藤原千恵子:図説 江戸っ子と行く浮世絵散歩道、河出書房新社、2003.4. 14)浅草散歩ガイド、生活情報センター、2006.8. 15)隅田川水上バスHP:http://www.suijobus.co.jp/ship/index.html 16)島正之:隅田川、名著出版、1986.9. 17)東京都建設局道路建設部道路橋梁課:東京の橋と景観、1987.12. 18)フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」HP:http://ja.wikipedia.org/wiki 19)松村博:論考江戸の橋、鹿島出版会、2007.6. 20)東京都江戸東京博物館:隅田川をめぐるくらしと文化、2002.3. 21)宮村忠他:今昔四季隅田川、講談社カルチャーブックス、1992.10. 22)国土交通省関東地方整備局荒川河川事務所:「荒川羅針盤2007」、2007. 23)国土交通省関東地方整備局荒川河川事務所:「都市を往く荒川下流」、2003. 24)国土交通省関東地方整備局荒川河川事務所:「荒川ロックゲート」パンフレット第3版、2006. 25)隅田川花火大会HP:http://kanko-sumida.com/hanabi_syowa_program.html 26)林順信:大江戸めぐり、JTBキャンパスブック、2003.12. 27)新東京タワー HP「やさしい未来が、ここららはじまる」:http://www.rising-east.jp/ 28)墨田区観光協会:タワーのある街・歴史と文化が薫る街 すみだ、2006.9.

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技術ノートのあゆみ

 技術ノートは 当協会技術委員会が技術情報誌として昭和62年12月に創刊号を発行して以 来、平成19年11月までで第40号に達しています。  創刊号から第40号までの内容は、既刊リスト表の様になっています。トピックスの内容 は、東京を舞台とする様々な話題の中に地形、地質との関連または基礎工学的な話を織り込 みながらその歴史や現在を伝える内容となっています。各号とも写真や図にカラーをふんだ んに使い、明るい紙面となっています。  技術ノートは、一般の方々に地質調査業を理解していただこうと始めた行事であります。 今後も、たくさんの人たちに読んでもらえるよう、内容を充実させて地域社会に貢献してい きたいと思います。  創刊号から最新号まで(社)東京都地質調査業協会のホームページ (http://www.tokyo-geo.or.jp/)からPDFファイルで読むことができます。 ■技術ノート既刊リスト表(バックナンバー) No. 発行年月 技術トピックス 1 S. 62.12 東京都の地形区分図・地質断面図 2 S. 63. 3 超高層ビルの地質の基礎形式 3 S. 63. 7 江戸城なりたち、その地形・地質との関係 4 S. 63.10 東京湾の埋立、その歴史 5 H. 1. 3 東京の川と水 6 H. 1. 8 建築基礎工法の変遷、その地質との関係 7 H. 1.12 隅田川の橋、その地質と基礎形式 8 H. 2. 5 東京の地下鉄 9 H. 2.11 東京の石 10 H. 3. 3 新東京都庁舎 11 H. 3. 7 東京の遺跡 12 H. 3.12 東京の高速道路 13 H. 4. 3 東京の温泉 14 H. 4. 9 都内の庭園 15 H. 5. 3 山手線 16 H. 5.10 東京のベイエリア 17 H. 6. 3 東京の下水道 18 H. 6. 9 東京のエネルギー 19 H. 7. 3 東京の山 20 H. 7. 9 東京の上水道 21 H. 8. 3 東京の低地 22 H. 8.10 東京の運河 23 H. 9. 3 東京のトンネル 24 H. 9. 9 東京の防災 No. 発行年月 技術トピックス 25 H. 10. 3 東京の川 神田川 26 H. 10.10 東京の台地 27 H. 10.12 東京の道 28 H. 11. 3 東京の水辺 29 H. 11.10 東京のまちなみ 30 H. 12. 3 首都圏を支える鉄道網 31 H. 12. 9 東京の公園 32 H. 13. 3 東京のお酒 33 H. 13. 9 三宅島 ー 2000 年噴火と火山災害ー 34 H. 14. 3 大江戸線 35 H. 14.10 東京の野菜 36 H. 16. 2 東京の斜面と災害 37 H. 16.11 東京湾 38 H. 17.11 多摩川 39 H. 18.11 東京の地名と地形 40 H. 19.11 隅田川

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 隅田川といえば「♪春のうららのすみだ川 上り下りのふな人が 櫂のしず

くも花と散る 眺めを何にたとうべき・・・」と歌われる「花」が思わず口ずさむ。

武島羽衣が作詞、滝廉太郎が作曲した「花」は、我々を何とも言えないすがすが

しい気分にさせてくれる、まさに日本人のこころのふるさとの歌である。大川と

呼ばれかつては舟が優雅に往来し、人々に生活に溶け込んでいた隅田川もやがて

高度経済成長とともに、どぶ川となり人々から忘れ去られていった。しかし、こ

こ 20 年は少しづつ元の姿に戻りつつあり、こころのふるさととして復活の兆し

が見えてきている。たまには、母なる川をゆっくり眺めてみたいものです。

では、次回技術ノートもご期待下さい。

技術委員会(向山、高松、金井、馬場、西原)

編 集 後 記

参照

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