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『坊っちやん』の頭尾 : 自立への道筋

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『坊っちやん』の頭尾 : 自立への道筋

著者 山崎 甲一

著者別名 YAMAZAKI Kouichi

雑誌名 文学論藻

巻 88

ページ 85‑108

発行年 2014‑02

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00012963/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

﹁坊つちやん﹂︵明朗・4ホトトギス︶についての論評は︑

既に底をついたかのごとく︑研究史に新見や創見はほとんど

見当たらなくなったようである︒

改めてこの作品を一読してみると︑研究史上新見や創見

と注目された論の幾つかが︑何か︑作品の実状を遊離して︑

l物語の筋道を少々逸脱した眼で︑論理的な展開を施した

結果︑その種の新見や創見と見受けられる所産が出て来たよ

うに思われる︒

そのような研究史を一まず置いて︑その議論の枠内でこの

作品を眺めるのではなく︑それに囚われない︑より自由な眼 |貫かれる﹁義﹂

﹃坊つちやん﹄の頭尾

l自立への道筋

で再度ユッタリと眺め返してみたら︑いわゆる﹁坊つちやん﹂

論のための論評を重ねる弊︵平岡敏夫﹁坊つちやん﹂の世界

Ⅷ3一九九二・二の製肘からは︑かなり距離を置いた眼

の確保がなされることだろう︒

その意味で︑注釈の整備された全集の本文からでなく︑初

出の﹁ホトトギス﹂本文で読むことを試みた︵翻刻坊っち

ゃん二○○六・十愛媛新聞社以下︑引用文の旧漢字は

新漢字に直した︶︒

とくに主眼を置いたのは︑この作品の冒頭部と収束部の叙

述︒この物語の重要な︑書き出しの部分と︑閉じられ方の部

分である︒そこにまず注目してみれば︑この作品の基本的な

構図を読み取ることが可能であろうし︑そこをしっかりと押

山 崎

八五

(3)

さえられれば︑それに挟み込まれた具体的な内容は︑いわば

肉付けの部分でしかない︒この作品に︑頭尾に挟み込まれた

具体的な物語の展開が︑頭尾の力学を変容させるような事態

は存在しないからである︒

一本︑明確な太い筋で貫かれた意思と思想︵義︶が脈打っ

ている作品︑それがこの坊っちゃんという︑一人の人間の自

立の物語である︒

まずは︑作品冒頭部の︑坊っちゃんの紹介のされ方を押さ

えてみる︒

親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る︒小

学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を

抜かした事がある︒なぜそんな無闇をしたと聞く人があ

るかも知れぬ︒別段深い理由でもない︒新築の二階から

首を出して居たら︑同級生の一人が冗談に︑いくら威張

っても︑そこから飛び降りる事は出来まい︒弱虫や−い◎

︵ママ︶と離したからである︒小使に負ぶさって帰って来た時︑ 二死守すべき︑﹁人間として﹂と﹁男らしさ﹂ おやぢが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから︑此次は抜かさずに飛んで見せますと答へた︒

親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日

に鬚して︑友達に見せて居たら︑一人が光る事は光るが

切れさうもないと云った︒切れぬ事があるか︑何でも切

って見せると受け合った︒そんなら君の指を切って見ろ

と注文したから︑何だ指位此通だと右の手の親指の甲を

はすに切り込んだ︒幸ナイフが小さいのと︑親指の骨が

堅かったので︑今だに親指は手に付いて居る︒然し創痕

は死ぬ迄消えぬ︒

冒頭部二つのエピソードには︑﹁小学校に居る時分﹂の坊っちゃ

んが︑﹁物理学校﹂を卒業して﹁四国辺のある中学校で数学の

教師﹂となり︑やがて︑﹁漸く娑婆へ出﹂て行く迄の︑その前

半生の土台を築いて行く上での必然的な性格︑強烈な個性と

いうものが︑実に簡明に︑象徴的に表現されている︒

この冒頭部で従来とかく問題にされてきたのは︑坊っちゃ

んの﹁無鉄砲﹂な点であったが︑果して文脈の力点がそこにあっ 八六

(4)

たかどうか︒確かに︑﹁無鉄砲で﹂云々という語の出現はこの

﹁こでも︑物理学校への入学の手続きをよく考えもせずに﹁す

ぐして仕舞った﹂ことや︑四国辺のある中学校での教師の

口を紹介されると行くことを﹁即座に返事をした﹂りしている︒

この語の強調は︑﹁二﹂以下でも折にふれ︑何かにつけて強

調されていく点で︑一定の注視は必要であろう︒が︑だから

と言って︑この語の正確な定義というようなことに読みが傾

いて︑この語の特化がなされては︑この物語の文脈の大筋か

ら逸脱してしまうだろう︒

先に︑この小説の冒頭部一頁分の本文を︑そのまま少しく

丁寧に写しとってみた︒そうすると︑一見落語のような滑稽

な笑話が︑オトシ咄風に語られながらも︑キビノーと活写さ

れたこの坊っちゃんの言動をその底で︑或はその中心で支え

ているのが︑﹁無鉄砲﹂l深く﹁考へ﹂もせずに︑﹁すぐ﹂

入学の手続きを﹁して仕舞った﹂り︑数学教師の口を紹介さ

れ﹁た時﹂行きましょうと﹁即座に﹂返事を﹁した﹂りする

体の︑やや軽挑な︑猪突猛進型の性格︒という風に一見捉え

られがちなのだが︑実状はそうではない︒幼少時︑一生の人 格が略形成され︑決定づけられていく﹁小学校に居る時分﹂のこの二つの武勇伝をその底辺で︑中心で支えているのは他

︑︑︑でもない︑﹁弱虫や−い︒と嗽﹂されたことへの正当な反論で

レッテルある︒男子として︑﹁弱虫﹂という恥ずべき評価を下されるこ

とに対しての︑至極当然の汚名挽回︑名誉回復の行為として︑

そのことを深く自覚し得ぬ坊っちゃんに代って︑作者が︑そ

の事を明確に証していく筆の運び方となっている︒

﹁威張って﹂いる男には当然︑その態度を裏付ける実質・内

容というものがなくてはいけない︒二階から﹁飛び降りる﹂

真の勇気を有してこそ︑である︒示すことが出来なければ︑

カラ単なる空﹁威張﹂り︑張り子の虎でしかないことが知れ渡る︒

紛れもない︑動かし難い事実を以て示さなければ︑化けの皮

が剥げることになるばかりではない︒﹁弱虫﹂な子供︑l﹁卑

怯﹂︵一︑三︑四︑以下︶な男という人間として最も不本意な

軽蔑・潮笑を甘受しなくてはならなくなるのである︒

﹁男なら男らし﹂くと︑﹁人間としては﹂の二本柱は︑この

物語の︑同時に︑この小説の背骨たらしめている︑揺るぎな

い精神の力として︑坊っちゃんのその時々の判断や行動様式

八七

(5)

の上で︑絶えず生動して止まない元素として反復されている

ものである︒

赤シャシは気味の悪るい様に優しい声を出す男である︒

方が立派な人間だ︒何だか清に逢ひたくなった︒︵四︶

﹁男なら男らしい﹂態度・姿で︑と︑﹁人間として﹂の﹁価値﹂ へおれ位な声が出るのに︑1叩○ 丸で男だか女だか分りやしない︒男なら男らしい声を出すもんだ︒ことに大学卒業生ぢやないか︒物理学校でさ買ひに行って食はしてやっても︑食はせる丈の価値は充分ある︒清はおれの事を慾がなくって︑眞直な気性だと云って︑ほめるがほめられるおれよりも︑ほめる本人の い身分もない婆さんだが︑人間としては頗る尊とい︒今迄はあんなに世話になって別段難有いとも思はなかつたがかうして︑一人で遠国へ来て見ると︑始めてあの親切がわかる︒越後の笹飴が食ひたければ︑わざI〜越後迄 それを思ふと清なんてのは見上げたものだ︒教育もな 文学士がこれぢや見つともな

︵五︶ とを問題にした箇所の︑ほんの一例の引用部分にすぎない︒

表に現われた姿と︑その人間が実際に事実として備えてい

る実質との距離感のない一致︒外見と中身との不離・一体感

というものが︑坊っちゃんなる人物の在るべき﹁人間﹂像と

して︑強烈に控えている︒

両面双方の甚だしい乖離が感得されれば︑それは当然﹁こ

れぢや見つともない﹂という次第となる︒清婆やの﹁親切﹂

というものが︑他者との実際上の比較から︑正に心底からの

実質を伴う行為であったことに気付けば︑﹁人間として﹂の﹁価

値を充分﹂に控えた﹁立派な人間﹂︑l﹁何だか逢ひたく

な﹂るような魅力をもった﹁人間﹂ということになる︒

﹁人間として﹂の﹁価値は充分ある﹂︑その実質が控えてい

れば︑何を﹁恥ぢ﹂る必要があろうか︒

情は皷苦茶だらけの婆さんだが︑どんな所へ連れて出

寄り付けたものぢやない︒おれが教頭で︑赤シャシがお

れだったら︑矢つ張りおれにへけつけ御世辞を使って赤 たって恥づかしい心持ちはしない︒野だの様なのは︑馬

車に乗らうが︑船に乗らうが︑凌雲閣へのらうが︑到底 ︑︑ノノ

(6)

シャシを冷かすに違ない︒︵五︶

実意なき﹁お世辞を使って﹂取り入ろうとする﹁恥﹂づくき﹁人

間﹂が︑﹁立派﹂そうな外見だけを誇示して見せたとしても︑﹁到

底寄り付けたものぢやない﹂ということになる︒何せ︑﹁何だ

か情に逢ひたくな﹂るような︑そのような︑﹁人間﹂としての

本物の魅力というものを内側に控えている訳ではないのだか

ら︑至極当然のことである︒

﹁恥ぢる必要﹂があるのは︑﹁皷苦茶だらけ﹂の外見ではない︒

あく迄も︑﹁人間として﹂︑その内側に控え︑備わってあるべ

きところの︑実質的な心の姿形lその﹁価値﹂の欠落こそが︑

正に﹁恥ぢる﹂べき要点なのである︒

﹁人間として﹂の実質的な﹁価値﹂は︑多面多様なものとし

て在る︒が︑この物語の冒頭部で問われているのは︑言行の

不一致︑外見と実質との乖離・距離感ということである︒そ

うした不一致や乖離は︑﹁男なら男らし﹂くを︑同時に又︑﹁人

間として﹂の価値というものを最大に重んずる坊っちゃんな

る人物にとって︑文字通り﹁弱虫や−い﹂と批難されるべき

事態なのである︒だからこそ︑体を張って迄も︑その廟笑を 打ち消さなくてはならない︒言行の一致は︑坊っちゃんなる人物にとって︑身体を張って迄も守り通すべき︑﹁男らしく﹂かつ﹁人間として﹂在るべき︑本来の﹁価値﹂観であったと見てよいだろう︒バッタ事件を通して唾棄されるのは︑寄宿生の﹁男﹂として︑﹁人間として﹂の﹁卑怯﹂さである︒

いくら人間が卑怯だって︑こんなに卑怯に出来る者ぢ

やない︒まるで豚だ︒︵四同左引用文︶

III1I

なものだ︒嘘を吐いて罰を逃げる位なら︑始めからいた

づらなんかやるものか︒いたづらと罰はつきもんだ︒罰 かれた時に︑尻込みをする様ゞかつた︒仕たものは仕たので︑つてる︒おれなんぞはいくら︑ 積りで図太く構へて居やがる︒おれだって中学に居た時1分は少しはいたづらもしたもんだ︒然しだれがしたと聞

があるからいたづらも心持よく出来る︒いたづら丈で罰 けちな奴等だ︑自分のした事が云へない位なら︑てんで仕ないがい︑・證拠さへ挙がらなければ︑しらを切る

尻込みをする様な卑怯な事は只の一度もな

ものは仕たので︑仕ないものは仕ないに極

いたづらをしたって潔白

八九

(7)

いて居る丈猶悪るい︒おれには到底是程の度胸はない︒

や︑長きに引用が渡ったが︑こうしてまた︑写しとってみると︑

この引用箇所などは︑問わず語りに︑この作者が物語を進め

ていく過程で︑一篇創出のモチーフ・テーマというものがお は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ︒金は借りるが︑返す事は御免だと云ふ連中はみんな︑こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない︒全体中学校へ何しに這入ってるんだ︒学校へ這入って︑嘘を吐いて︑胡魔化して︑蔭でこせ/︑生意気な悪いいたづらをして︑さうして︑大きな面で卒業をすれば教育を

ママ受けたもんだと痛違をして居やがる︒話せない雑兵だ︒

'

悪るいから︑﹁そんなに云はれなきや︑聞かなくってい︑︒ おれはこんな腐った了見の奴等と談判するのは胸糞が

部丈は教師のおれより余つ程えらく見える︒実は落ち付 りも遙かに上品な積りだ︒ 中学校へ這入って︑上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ﹂と云って六人を逐っ放してやった︒おれ

は言葉や様子こそ余り上品ぢやないが︑ぢやないが︑心はこいつらよ六人は悠々と引き揚げた︒上 のずからに流露された場面の一つのようである︒

個人の言動には︑権利と義務が︑或は主張と責任とが不可

分なものとして在る︑というようなタテマエ論を強調してい

る訳ではない︒ここの引用部分で一貫して問われているのは︑

己れの言動に係る一切の責任を︑他ならぬ自身で引き受ける

﹁男らしい﹂︑﹁人間として﹂の﹁潔﹂さの有無である︒

真実としての現実の実態は︑小説よりも更に小説的で奇怪

なものだ︒どのような現場であれ︑巨大な組織︑或は集団と

個人との衝突や軋礫︑l要するに双方の現実上の力学的な

関係というものに想いを致せば︑ここでの坊っちゃんの慨嘆・

批判がいかに的確かは言を要さない︒﹁学校﹂というムラ社会︑

組織の中で︑異端者と見なされる個人は︑間違いなく排除さ

れる︒その方向に︑ムラ社会の組織の力学というものは確実

に動いていく︒その力学は︑素知らぬ顔付で︑何事も無いか

のようにして︑静かに潜行する︒そうした力学を影で操る黒

幕は︑巧妙に用心深く姿を見せない︒寄宿中学生のバッタ事

件の背後で糸を操る︑赤シャシ一派のごとき輩である︒

彼等一味は︑﹁自分のした事﹂l悪事に対して︑あく迄も﹁し 九○

(8)

らを切る﹂﹁奴等﹂で︑﹁證拠さへ挙がらなければ﹂︑lどこ迄

も﹁嘘を吐いて︑胡魔化し﹂つづけるばかりでなく︑更に性

懲りもなく﹁蔭でこせノー﹂と悪事を︑lムラ社会・組織にとっ

て不都合な異端者の排斥︑陥れるための﹁策略﹂﹁好計﹂を弄

していながら︑﹁さうして︑大きな面で﹂大義を遂行したかの

如く︑﹁澗違をして居﹂るような︑﹁図太く構へて居﹂る﹁奴等﹂だ︒

この攻撃欲の根底に潜んでいるのは︑たいてい︑支配

欲である︒︵略︶こうした欲望を当の本人が意識している

とは限らない︒相手を破壊するようなことをしておきな

がら︑﹁仕事上必要なことだ﹂﹁あくまでも愛情からやっ

ている﹂などと思い込んでいるような場合もあるので︑

厄介なこと︑この上ない︒︵片田珠美他人を攻撃せずに

はいられない人二○一三・十二︶︒

﹁人間として﹂︑かつ﹁男らし﹂く︑本物の義という事に鋭

敏な坊っちゃんの感性からすれば︑どのように﹁澗違を﹂し

ようと︑﹁思い込﹂みがあろうと︑﹁仕たものは仕たので︑仕

ないものは仕ない﹂と﹁正直﹂に言える﹁潔白﹂さを︑所詮

持ち合わせない﹁奴等﹂は﹁けち﹂︑l﹁尻込みをする様な卑怯﹂ 者︑﹁嘘を吐いて罰を逃げる﹂﹁下劣な根性﹂︑﹁話せない雑兵﹂︑﹁腐った了見の奴等﹂という次第となる︒

﹁人間として﹂︵四︶︑﹁男なら男らし﹂く︵五︶︑本物の︑或

は本来の義を重んずる坊っちゃんゆえにこそ︑本質的な﹁上

品も下品も区別が出来﹂得る︑ということになる︒﹁言葉や様

子﹂などの表面上︑外見的な﹁上部丈﹂で︑元よりその﹁区別﹂

は決まらない︒内に秘められた︑中々外に現われにくいその

かおかたち﹁心﹂の容貌によって上下はおのずと決まってくるものだ︒﹁下

品﹂な﹁心﹂であれば︑下品な言動を招来するのは必然のこと︒

いくら人間が卑怯だって︑こんなに卑怯に出来る者ぢ

やない︒まるで豚だ︒

ということになる︒﹁人間﹂の名が泣く﹁豚﹂にも等しいほど

の言動に対して︑﹁下劣な根性﹂︑﹁話せない雑兵﹂︑﹁胸糞が悪

るい﹂︑﹁腐った了見﹂等々の侮蔑語が畳みかけられるのは至

極当然のことであろう︒

要は︑外見や﹁上部丈﹂の問題では片付かない︑﹁心﹂自身

の姿形としての言動上の﹁上品・下品﹂が︑問題の焦点となっ

ている︒

(9)

従って従来度々論議に上る︑坊っちゃん﹁旗本﹂説︑﹁清和

源氏﹂﹁多田の満仲の後商﹂説など歴史的事実関係をベースに

して︑これらの語の出現︵四︶の意味を︑場面の文脈を超え

て過大視したり︑さらには︑それを以て︑この一篇の作品の

モチーフ主題として位置づけていくような解釈の仕方︵平岡敏夫漱

石ある佐幕派子女の物語g9.1︑漱石佐幕派文学の魅

力l﹃坊つちやん﹄﹁草枕﹄﹁三四郎﹂﹁こ︑ろ﹄を中心にl

群馬県立女子大国文学研究銘号ご屋・3︶に︑私は距離

を置く︒

これらの語の出現は︑文脈上︑先に引用した︑﹁けちな奴等だ﹂

以下の文章や︑実意ある﹁親切﹂というものを︑利害や損得

を抜きにして︑掛け値のない︑心の正直な現れとして︑自然

体で行なうことのできる清婆やの﹁心﹂意気や人柄を︑﹁人間

としては頗る尊とい﹂︑﹁立派な人間﹂として紹介した件︑さ

らに︑﹁豚﹂のごとく汚らわしく﹁卑怯﹂な﹁人間﹂としての

寄宿中学生の所業の件︑に続いて出現している語句である︒

﹁男﹂子として︑或は一人の女性として︑さらには一個の﹁人

間として﹂備えるべきは︑﹁言葉や様子﹂などの﹁上部丈﹂の ﹁上品﹂﹁下品﹂さではなく︑﹁心﹂の姿形それ自体の﹁上品﹂﹁下品﹂ということ︒同時に︑それと不可分に現出するところの言動の上・下品ということであった︒従って︑問題の語の出現の仕方も︑そのような文脈で押さえられて然るべきものであろうと思う︒

江戸っ子は意気地がないと云はれるのは残念だ︒宿直

をして鼻垂れ小僧にからかはれて︑手のっけ様がなくっ

て︑仕方がないから泣寝入りにしたと思はれちゃ一生の

名折れだ︒是でも元は旗本だ︒旗本の元は清和源氏で︑

多田の満仲の後喬だ︒こんな土百姓とは生れからして違

ふんだ︒只智慧のない所が惜しい丈だ︒どうしてい︑か

分らないのが困る丈だ︒困ったって負けるものか︒正直

だから︑どうしてい︑か分らないんだ︒世の中に正直が

勝たないで︑外に勝つものがあるか︑考へて見ろ︒︵四︶

ここでの坊っちゃんの息巻いた口吻︑映呵の切り方を支えて

いるのは︑﹁旗本﹂や﹁清和源氏﹂︑﹁多田満仲﹂などの︑血統︑︑︑︑︑︑︑や家柄などでは﹁元﹂より無い︒﹁是でも元はだ﹂﹁の元

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑はで︑の後商だ︒﹂﹁こんなとは生れからして違ふんだ︒﹂

(10)

︑︑︑︑︑︑﹁只智慧のない所が惜しい丈﹂﹁どうしてい︑か分らないのが

困る丈﹂というような物の言い方︑この作者の筆の運び方の

力点は︑﹁男なら男らし﹂く︑同時に﹁人間として﹂の尺度で

眺めた場合︑所詮︑﹁元々﹂︑I﹁人間﹂性の中身というも

のが︑本質的︑根本的に﹁違ふ﹂ということを強調している

迄に過ぎない︒是でも﹁元は﹂︑﹁の元は﹂︑﹁の後喬﹂︑﹁こん

なとは生れからして違ふ﹂lこれらの物の言い方︑場面

の文脈を強力に支えているのは︑坊っちゃんなる一個の人物

の︑﹁言葉や様子﹂など﹁上部丈﹂では測ることの出来ない︑

﹁是でも元は﹂と胸を張って主張できる﹁心﹂意気︑その気位

や精神︑﹁品﹂位の高さ︒いわば志すところの根源的な﹁違﹂

いというものを︑例えば︑﹁旗本﹂や﹁清和源氏﹂︑﹁多田満

仲﹂というような︑歴史的な事実の比瞼を以て示した迄のこ

とである︒﹁清和源氏﹂を以て﹁上品﹂の頂点としての具体的イメジ人物像を︑また﹁土百姓﹂を以て﹁下品﹂の最底辺としてのイメジ︑︑︑︑︑︑具体像を︑あく迄も比瞼として提示したに過ぎない︒先の引

用箇所に出ていた︑﹁卑怯﹂の程も最低であれば︑﹁人間﹂以

下の﹁豚﹂と蔑称されたそのように︑ここでも︑﹁男らしい﹂︑﹁人 間として﹂の﹁心﹂意気︑気位︑精神︑志の高下という︑本質的︑根﹁元﹂的な﹁違﹂いにおいて︑坊っちゃんは﹁是でも元は﹂清和源氏に︑そして一方の寄宿中学生は︑﹁こんな士百姓とは生れからして違ふ﹂と位置づけられる︒事実上︑現実的な身分階層による位置付け方などで﹁元﹂﹁元﹂ある筈もない︒文脈l場面の展開︑物語の筋道というものが控えていることに︑改めて留意する必要があろう︒

こうした物語の筋道︑作品内部の文脈から逸脱して︑ある

語句のみを特化したら︑それは木を見て森を見ずの視点に陥っ

てしま芦っO

﹁意気地﹂の有無︑﹁泣き寝入り﹂をするかどうか︑.生の

名折れ﹂の汚名を背負って生きるか否か︒それら﹁男らしい﹂

﹁人間としての﹂誇持︑プライドを身に付けているか否かで︑﹁上

品﹂と﹁下品﹂が︑l﹁清和源氏﹂か﹁士百姓﹂かに決定

的に峻別される︒それ故に︑﹁人間﹂にモトる﹁豚﹂程度の最

低の﹁卑怯﹂に比べたら︑﹁智慧のない所﹂︑﹁どうしていいか

分らない﹂点などは︑﹁只l惜しい丈﹂︑﹁困る丈﹂のことに

過ぎなくなる︒それどころかむしろ︑﹁正直だから﹂こそ︑そ

(11)

のような事態に立ち至る︑という次第にもなる︒

﹁嘘を吐いて︑胡魔化して︑蔭でこせノー﹂と悪事の策略︑

好計を巡らして﹁恥ぢ﹂ることすら知らず︑甚だしい﹁痛違

をして﹂﹁大きな面で﹂世を渡る﹁腐った了見の奴等﹂︑いわ

ゆる﹁話せない雑兵﹂共には︑決して立ち至れない事態ゆえに︑

妙な﹁知慧﹂などより遙かに大切な﹁人間﹂の要件として︑﹁正

直﹂さを上位に位置づけるのである︒

作品内部の物語としての文脈がそのようになっている以上︑

﹁旗本﹂や﹁清和源氏﹂︑﹁多田の満仲﹂の語の出現を以て︑固

有名詞や血統への事実還元に傾く解釈は︑当を得ないという

ことになる︒文学作品の或る箇所や一面を特別視して解釈に

及ぶ傾きは︑昨今頓に流行だが︑やはり慎重に行なわれなく

てはいけないだろう︒作品の文脈︑その文学性から遊離・乖

離して︑一般的な文化論的︑歴史論的拡大解釈に陥っている

弊は︑アチラ︑コチラで見受けられる学界現時の動向である︒

ここでの固有名詞は上述のように︑歴史的事実としての血

統や身分階級を指示したものではなく︑﹁心﹂﹁意気﹂や精神︑

誇持︑志など︑その﹁品﹂位の最﹁上﹂位というものを端的 に具現する一例の比嶮として用いられた迄で︑その比瞼自体に重量がかけられた文脈にはなっていないということである︒

文学作品を︑ともすれば歴史的事実やその時代︑そして文

化的背景の方向に議論を進めていくのではなく︑文学作品を

文学作品として︑その緩やかな枠組みや物語の道筋のなかで︑

読書を楽しんでいくことが現在最も肝要なことなのではない

か︒

上述のごとく︑坊っちゃんが︑﹁男なら男らし﹂く︑かつ一

個の﹁人間として﹂︑﹁一生の名折れ﹂に感ずる最低の恥づく

き事とは︑﹁豚﹂並みの﹁卑怯﹂な言動であった︒何事にも﹁胡

魔化﹂さず︑﹁正直﹂な言行をする︒正々堂々と胸を張って事

に向き合えない自身の姿を︑同時にそういう他者の姿を︑坊っ

ちゃんなる人物は徹底して﹁恥ぢ﹂入る︑至極健全な感性と

いうものを身に付けている︒いわば生来の︑天与の感性とも

言うべきもので︑日々努力して身に備えたようなものではな

い︒そのことは︑自分で為した悪事︵﹁いたづら﹂︶について︑

次のように断言していたことで了解ができる︒

おれだって中学に居た時分は少しはいたづらをしたも 九四

(12)

んだ︒然しだれがしたと聞かれた時に︑尻込みをする様

な卑怯な事は只の一度もなかった︒

﹁嘘を吐いて罰を逃げる﹂︑自分のしたことに正々堂々と責任

を負わず﹁尻込みをする﹂︒それを﹁豚﹂並みの﹁卑怯﹂と唾

棄するのである︒﹁豚﹂並みの︑最低の﹁卑怯﹂な言動は︑坊っ

ちゃんなる人物が﹁男らし﹂く振舞い︑﹁品﹂位ある﹁人間と

して﹂生きる上で︑最も痛切に恥づくき︑﹁一生の名折れ﹂の

汚名を着る行為なのである︒

それが天与の︑生来の感性だけに︑成長して大人になって

も︑変化や変質を来たすことはない︒むしろ﹁此不浄な﹂︵十二

赤シャシ一派との係わり方を通して︑この感性に益々磨きが

かけられていくことは有っても︑鈍磨していくような方向︵細

谷博﹁坊っちゃん﹂の︿不安﹀﹁五﹂南山大学日本文化学

科論集旧号二○一三・三︶は︑この物語には無い︒

そういう物語一篇を貫いている文脈を背景にして︑冒頭部

の二つのエピソードがまず紹介されていた︒

一人の﹁男﹂子として︑一個の﹁人間として﹂︑坊っちゃん

なる人物は︑﹁弱虫﹂l﹁卑怯﹂という二生の名折れ﹂を拒 否するがために︑﹁二階から飛び降りて一週間程腰を抜か﹂すという﹁無鉄砲﹂を︑そしてナイフで﹁何だ指位此通だ﹂と︑︑︑日常利き腕の方の﹁右の手の親指の甲をはすに切り込﹂むという︑甚だ度胸の坐った︑胆試し風の﹁無鉄砲﹂を重ねる︒言行の不一致は︑﹁男らし﹂さと﹁人間として﹂の誇持・品位を最重要と考える坊っちゃんなる人物にとって︑唾棄すべき︑侮蔑すべき﹁卑怯な事﹂であった︒

﹁死ぬ迄消えぬ﹂その時の﹁創痕﹂は︑従って︑坊っちゃん

なる人物の﹁男らしい﹂︑﹁人間として﹂の確かな証し◎.生

の名折れ﹂ならぬ︑一生の名誉ある勲章に外ならない逸話と

して︑紹介されたということになるだろう︒

それ程に︑この物語冒頭部の二つのエピソードには︑坊っ

ちゃんなる一人の人物の動かしがたい本質︵パトス︑エトス︶

モチーフと︑そして︑その物語全体を貫く主意とが︑サラリと而も巧

みに溶かし込まれていた︒

三天与の︑﹁おれの心と腹﹂

物語の収束部に向かう前に︑冒頭部につづく序章内での︑

九五

(13)

少々留意して置くべき︑幾つかの点を指摘したい︒序章と終

章との対応関係を押える意味で重要と思われるからである︒

既述の二つのエピソードに続く勘太郎との喧嘩の一件は︑

彼が﹁弱虫の癖に﹂四つ目垣を﹁乗りこえて︑栗を盗みにくる﹂

から︑批難・制裁を加えるところとなる︒﹁男なら男らしい声

を出すもんだ﹂︵五︶とは︑赤シャシの﹁気味の悪るい様に優

しい声を出す男﹂への︑その違和感から発せられた諌言である︒

そのように︑弱虫なら弱虫らしく在れ︑という︑外貌と中身

との不離・一体感︑l言行の一致というものを自己の人生観.

人間観の基軸に据える坊っちゃんならではの︑﹁弱虫の癖に﹂

と言うものの言い方であることは既述の通りである︒兄への

違和感やソリの合わない原因も︑﹁元来女の様な性分で﹂而も

﹁ずるいから︑仲が良くなかった﹂と紹介されている︒男の﹁癖

に﹂l﹁元来女の様な性分﹂であることが︑坊っちゃんの

気に入らないところだ︒

外貌と中身との乖離が無い﹁人間﹂の姿︒言行が一貫して︑

揺るぎない﹁人間﹂の姿︑人生観︒lそれが︑﹁眞直でよい

御気性だ﹂と清に誉められ︑そしてまた自身︑﹁人間は竹の様 に眞直でなくつちや頼母しくない︒﹂︵八︶と自負する︑坊っちゃんのレーゾン・デートルなのである︒己れに﹁嘘を吐いて︑胡魔化して蔭でこせ/︑﹂と小細工や﹁策略﹂︑﹁好計﹂を企むような﹁下劣な根性﹂の﹁奴等﹂とは︑所詮﹁人間﹂の質︑格が違う︒

体を張った生き方をするとはこういうことだ︑とでもいう

ように︑殆どそんな自覚も無いままの坊っちゃんに︑天与・

天分の発現として冒頭部の二つのエピソードを軸とした︑こ

れ以下の生い立ちに係る種々の場面が続く迄︑のことである︒

表向がいくら立派だって︑腹の中迄惚れさせる訳には

行かない︒金や威力や理屈で人間の心が買へる者なら︑

高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくて

はならない︒中学の教頭位な論法でおれの心がどう動く

ものか︒人間は好き嫌で働らくものだ︒論法で働らくも

のぢやない︒︵八︶︵P.一○二上段二三行の引用文も同︶

本当に﹁心﹂や﹁腹﹂にこたえる﹁人間﹂の姿とは︑言葉や

理屈︑論法︑金︑威力などの力だけで充たされる訳ではない︒

そこに︑﹁人間の心﹂を揺さぶる現実の行動が伴ってこそ︑﹁腹

(14)

の中迄惚れさせる﹂ことができる︒この腹の底迄惚れさせる

力とは︑その言葉をしっかりと支え︑言葉に内容・裏付けを

もたせる行動力︑実行力を措いて外には無い︒﹁表向き﹂だけ

は大層﹁立派﹂な言葉︑理屈︑論法説そして地位︑権﹁力﹂︑﹁金﹂

力︒しかしそれ丈では︑﹁おれの心﹂は一向に﹁動﹂かない︒

坊っちゃんの﹁好き嫌い﹂の持論はこうして︑単なる薄っ

ぺらな感覚的︑感情的印象論の域を大きく超えるものとして

提示︑強調されている点に改めて留意しなくてはならないだ

ろう︒単なるその場限りの︑気紛れな感情論ではないからこそ︑

うらなり君の不幸な転任を前提にした︑自身の増給は断られ

ブ︵︾O

﹁僕は増給がいやになったんですから︑まあ断ります︒

考へたって同じ事です︒左様なら﹂と云ひすて嵐門を出た︒

頭の上には天の川が一筋か︑って居る︒︵八︶

言葉や理屈︑論法などという不確かなものではなく︑﹁おれの

心﹂と﹁腹の中﹂で直に相談して判断されたもの︒﹁好き嫌﹂

という一般的な感情的感覚論を抜け出たところで︑﹁男らしく﹂

堂々と︑﹁人間として﹂清々しい︑.筋﹂筋の通ったその﹁動﹂ かない信念の現われ方として︑増給拒否の坊っちゃんの言動に︑作者は﹁天の川﹂の簡潔な︑結晶度の高い一文で︑最大のエールを送っている︒

﹁考へたって同じ事﹂︑l﹁言葉﹂や﹁理屈﹂︑﹁論法﹂で﹁考

へ﹂る前に︑天与︑天分の﹁おれの心﹂や﹁腹﹂自体が︑次

の行動を促すのである︒

従って坊っちゃんのこの﹁好き嫌い﹂論の言動を︑単なる薄っ

ぺらな感覚的感情論と見なしたら︑そこから︑この物語の誤

読は始まっていく︵片岡豊︿没主体﹀の悲劇l﹁坊っちゃ

ん﹂論11︑Ⅱ︑Ⅳ︑Ⅵ立教大学日本文学第鋤号

昭塊・吃︑有光隆司﹁坊っちゃん﹂の構造I悲劇の方法に

ついてl﹁三﹂国語と国文学弱巻8号昭師・8︶︒

だからと言って︑この物語を妙に複雑に捉えて︑上述の如

く︑或る語や句︑記述や場面を過大視したり︑特化して深刻

そうに意味づける昨今の論の傾斜ぶりにも︑誤読︑誤解の陥

奔は控えている︵前掲平岡敏夫﹁坊っちゃん﹂の世界Ⅱ︑

V︑三好行雄﹁坊つちやん﹂昭弱・3三好行雄著作集第

二巻一九九三・四︑前掲細谷論一︑二︑五など︶︒

九七

(15)

﹁坊つちやん﹂のような物語は︑晩年の﹁行人﹂や﹁心﹂︑

﹁道草﹂や﹁明暗﹂のような︑内面の複雑な深層世界を描いた

作品とは描かれ方を異にする訳だから︑何か論文や評論文に

でも向き合うかのように︑神経を尖らして解読していかなけ

れば話が始まらない︑そのような一篇となってはいない︒キ

ビノーと︑且つユッタリと読者が物語を楽しめる︑楽しく享

受できるように︑この作品は描かれてある︒キビ/︑とした

物語の展開に︑興味津々と五感を存分に働かせながらユッタ

リと楽しむ︒そうして読み終ったあとで︑おのずからフシと

この作者の表情というものが浮上してくれば︑この物語を通

して読者に伝えたかったであろう主意にも近づける︒

最初からこの物語を︑坊っちゃんなる人物と一緒になって

楽しもうとする時間も惜しむかのどとく︑獲物を狙う何かの

ように虎視眈々と向き合っていったのでは︑平岡敏夫氏の所

謂﹁﹁坊つちやん﹂があるゆえの﹁坊つちやん﹂論﹂デハナク︑

﹁﹁坊っちゃん﹂論があるゆえの﹁坊っちゃん﹂論﹂︵﹁坊つち

やん﹂の世界Ⅷ3一九九二・二が量産される丈のこ

とで︑この物語で﹁出会う﹂のは︑﹁漱石よりも漱石論﹂の方︵漱 石ある佐幕派子女の物語V漱石研究の現在3︶という次第にもなる︒この傾向は独り﹁坊っちゃん﹂研究史に留まらず︑漱石の作品全般に︑そして独り漱石のみならず︑近現代文学研究一般︑さらには近世以前の古典文学の研究分野にも同様に︑顕著に見受けられる三十年来の傾向︑と私には感じられる︒

論を本筋に戻すが︑坊っちゃんの﹁好き嫌﹂い論の根底に︑

上述の︑﹁男らしく﹂堂々と︑そして﹁人間として﹂清々しい︑

一本﹁筋﹂の通った︑天与の﹁おれの心﹂や﹁腹の中﹂から

割り出された判断や信念に基づいていること︒そのことを︑

我々読者︑l論のための論者と違うl読者はしっかりと

押えて置かなくては︑この物語の聴き方を︑そのトバロから

聞き誤ってしまうことになる︒

その肝心な点を聞き︑読み落としさえしなければ︑この物

語全体を過度に深刻な面持ちで向き合うことも︑そしてそれ

とは反対に︑文章の上澄み丈を掬って訳知り顔に読み終える

ことも︑避け得ることだろう︒

序章での︑物理学校進学の選択をする際の思案l︑

学問は生来どれもこれも好きでない︒ことに語学とか 九八

(16)

文学とか云ふものは眞平御免だ︒新体詩など︑来ては二

十行あるうちで一行も分らない︒

﹁言葉﹂や﹁理屈﹂︑﹁論法﹂丈が﹁いくら立派だって︑腹の中

迄惚れさせる訳には行かない︒﹂lそれが坊っちゃんの﹁お

れの心﹂の﹁動﹂かい在り方であった︒﹁考へたって同じ事﹂︑

l現実上の実際の行動に裏付けられぬ︑或はそれを土台と

していないような︑﹁理屈﹂や﹁論法﹂の﹁学問﹂世界︑そし

て言葉を主とした﹁語学﹂や﹁新体詩など﹂を﹁好きでない﹂︑

﹁真平御免﹂と言うのには︑坊っちゃんなる人物の︑いわば行

動美学の志向があると見てよいのではないか︒実際の行動を

通して︑物事の本質を一つ一つ体得していく坊っちゃんの生

活流儀︒そしてそこから徐々に人生観︑人間観︑世界観が紡

ぎ出され︑次第にそれが形成されていく︒そのような︑並の

凡人ではない︑極めて特異な坊っちゃんなる人物の成長の物

語として︑この作品は写し出されている︒

茂作の人参畑で友達と相撲取りをして︑畑を﹁あらした事﹂

も︑母の死ぬ間際︑台所で﹁宙返りをしてへっついの角で肋

骨を撲って﹂母の怒りを買ったのも︑言葉・理屈・思慮よりも︑ ところでこの序章には︑もう一点留意すべき側面がある︒肉親との死別︑離別︑そして清婆やの風邪︵死︶である︒﹁二﹂以下︑中学校へ実際に赴任する前の︑いわばこの物語が本格に始動するその前史に相当する段階で︑何故これらの事柄が用意されなくてはならなかったか︒

おやぢは些ともおれを可愛がって呉なかった︒母は兄

許り晶負にして居た︒此兄はやに色が白くって︑芝居の

眞似をして女形になるのが好きだった︒おれを見る度に

こいつはどうせ碓なものにならないと︑おやぢが云った︒

乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った︒成程録

なものにはならない︒御覧の通りの始末である︒行く先

が案じられたのも無理はない︒只懲役に行かないで生き

て居る許りである︒

﹁二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云つ﹂て︑﹁男 身体の方がまず動いてしまう坊っちゃんなる人物の生のスタイルを︑端的に︑象徴的に示す事例であったであろう︒

四情との二度の別れ︑遺言︑真の旅の始まり

九九

(17)

なら男らしい﹂育て方をしようとした﹁おやぢ﹂も︑勘太郎

との喧嘩の一件や茂作の人参畑荒らし︑そして古川の田圃の

井戸を埋めて尻を持ち込まれた一件等々︑﹁町内では乱暴者の

悪太郎と爪弾き﹂される程に﹁いたづらは大分やった﹂その

余りの程度に呆れて﹁愛想をつかし﹂︑﹁母も﹂その余りの﹁乱

暴﹂狼籍ぶりに︑ゆくゆくは﹁懲役﹂を受ける極悪非道の姿

がチラJ1として︑もはや匙を投げてしまう︒

一方﹁やに﹂色が白くて︑﹁女形になるのが好き﹂な兄とは︑

﹁男なら男らし﹂くの信念を持つ坊っちゃんとは︑ハナから反

りが合わない︒この兄との度重なるケンカも︑実の所は坊っ

ちゃんの﹁乱暴﹂の方に正当性があるにもかかわらず︑﹁おや

ぢ﹂も兄も︑そして母すら︑その事を理解してはくれなかった︒

勘太郎とのケンカは︑他人様の﹁栗を盗みにくる﹂ことが︑

事の発端であったし︑病気で母が死ぬ二三日前の︑﹁台所での

宙返り﹂は︑いつもは台所に居て働くその母不在の空間で﹁宙

返り﹂をする︒一見突飛な行動を起こす︑そこに︑坊っちゃ

んなる人物の世間並みの凡人でない︑異色な感性というもの

が在る︒ いつも台所で活動していた母の不在︒その幼少時の心の寂

しさ︑空虚感を︑病気で伏せったまま活動出来ない母を眼に︑︑︑して︑いつもの家事での活動する姿を求めて︑その活動振り

が最も凝縮された﹁宙返り﹂というような行動に及んだので

はないか︒忙しく立ち働らくいつもの母の姿が﹁台所﹂に無

く︑病床に伏せったままという状態は︑子供﹁心﹂にとって

l﹁おれの心﹂にとって︑堪え難い悲しみに襲われただろ

う︒そうした悲しみの痛切な反動から︑﹁宙返り﹂という︑重

い病に伏せる母親を前にした際の︑世の常識や通念では推し

測れない︑従って突拍子もないものに映る坊っちゃんの行動

が生じた︑という風に解されないだろうか︒﹁そんな大病なら︑

もう少し大人しくすればよかったと思つ﹂たと坊っちゃんな

りに反省したが︑﹁理屈﹂や﹁論法﹂で﹁考へたって同じ事﹂︑

天稟の独得の感性が身体を起動させてしまうことは既述した︒

世間一般の常識や通念ではスミヤカに理解不能な人物︑それ

が坊っちゃんの坊っちゃんたる所以だが︑しかし︑そうした

突飛な行動にも︑心静かに推し測ってみれば︑平凡な世の人々

にも実によく理解できる︑普遍的な真実が︑l﹁男らしい﹂︑ 一○○

(18)

また︑﹁人間として﹂の本質的側面がサラリと︑何事もないか

の如く上手に溶かし込まれていることに気付かされるだろう︒

そうであるにもかかわらず︑﹁乱暴で乱暴で行く先が案じら

れる﹂と母にいつも心配させていた﹁親不幸﹂ぶりが︑﹁おつ

かさんが早く死んだ﹂原因と兄に責められては立つ瀬がない︒

﹁口惜しかったから︑兄の横面を張って大変叱られた﹂という

仕儀となる︒一事が万事︑坊っちゃんの言動はそのように世

間からは元よりのこと︑親兄弟という肉親からすらも誤解さ

れつづけることとなる︒

このように︑坊っちゃんなる人物は物語の当初から︑肉親

からも﹁愛想をつか﹂され︑その溝を埋められず︑動かしが

たい距離を持った存在として描かれている︒そうした関係の

中で母は死に︑その六年後に﹁おやぢも卒中で亡くな﹂る︒

そして︑﹁実業家﹂志望の兄は九州の支店に就職のため出立す

る︒

新橋の停車場で分れたきり兄には其後一遍も逢はない︒

終章でも︑坊っちゃんが唯一人胸襟を開き︑兄貴分として色々

教えられ︑心友・莫逆の交わりに達した山嵐とも︑同様の﹁分 何だか大変小さく見えた︒

傍線部は︑幼少時に借りた三円が︑﹁今となっては十倍にして

返してやりたくっても返せない︒﹂その清の︑死の影の予兆と

して暗示した描写である︒清の生前︑三円を返さなかった理

由を教師となって次のように言っている︒

清をおれの片破れと思ふからだ︒︵六︶

﹁封建時代の主従の様に考へて居た﹂幼少時の序章での坊っ

ちゃんの捉え方から︑社会に出て︑様々の現実的な事件や出 れ﹂方をしている︒帰京迄同行したあと︑

山嵐とはすぐ分れたぎり今日迄逢ふ機会がない︒

さらに︑お清婆さんが既に序章から︑﹁北向﹂きの三畳で﹁風

邪を引いて寝て﹂おり︑坊っちゃん出立の時︑プラットホー

ムから

もうお別れになるかも知れません︒随分御機嫌よう﹂

と小さな声で云った︒目に涙が一杯たまって居る︒おれ

は泣かなかった︒然しもう少しで泣く所であった︒汽車

が余っ程動き出してから︑もう大丈夫だらうと思って︑

窓から首を出して︑振り向いたら︑矢っ張り立って居た︒

(19)

来事︑そして実際の種々の人間達と交渉することで︑清婆や

の人柄︑﹁人間として﹂の品格は﹁おれの片破れ﹂という最高

位に迄認識し直されていく︒そういう︑︑心中の奥深いところで︑

一対の夫婦のようにシッカリとつながっていく︑﹁片破れ﹂の

お清婆さんの存在を︑既に序章から︑最初から死ぬべき︑坊っ

ちゃんと﹁別れ﹂るべき存在として登場させていること︒終

章で帰京した坊っちゃんと一時同居はしたものの︑間もなく

予期通り︑予定通りに﹁肺炎に罹って死んで仕舞﹂う︒

このようにこの物語りの頭尾の要所要所を押えてみると︑

坊っちゃんなる人物は当初から︑身近な人々との種々の﹁分

れ﹂l死別︑離別というものが︑必然的に宿命づけられた物

語りとして提示されていたことが解る︒肉親たちとの距離と

死︑離別の﹁分れ﹂から始まって︑うらなり君︑山嵐や清婆

モチーフやとの離別と死別に至るこの物語の骨格は︑坊っちゃんなる

未熟さを多分に持ちながらも︑﹁男らし﹂く︑﹁人間として﹂

見失ってはいけない︑天与の﹁おれの心﹂と﹁腹﹂を持つ坊っ

ちゃんなる人物が︑それ迄の心の拠り所︑心の支えであった

身近な人々から離れ︑一人﹁分れ﹂︑二人﹁別れ﹂しながら︑ 真に﹁男らし﹂く︑一人の独立した﹁人間として﹂自立する︑そのトバロに立つ迄の成長・発展の物語として漱石は描いた︑ということになるだろう︒

そのようにこの物語の骨格を押えてみると︑これ迄議論さ

れてきたこの作品の諸々の問題も︑それ程神経を尖らせ︑青

筋立ててギリーーと分析・究明しなくてはならない程のモノ

ではなくなってくるようである︒

先に︑序章での坊っちゃんの﹁乱暴で乱暴で行く先が案じ

られる﹂両親の嘆きが紹介された箇所で︑次のような文言が

記されていた︒

成程録なものにはならない︒御覧の通りの始末である︒

行く先が案じられたのも無理はない︒只懲役に行かない

で生きて居る許りである︒

平凡な一般常識人から見れば︑坊っちゃんなる人物は﹁除な

もの﹂ではない︒然しそこの所が︑坊っちゃんなる人物の坊っ

ちゃんたる所︑lいわばレーゾンデートルとも言うべき︑

天与の︑異色の感性であったことは既述した︒

従って︑傍線を施した文言のニュアンス︑その含意すると

(20)

とき丸めて海の中へ拠り込んで仕舞った︒﹂︵二︶からにほか

ならない︒

従って︑紙幅の関係上︑詳細は別稿に引き継ぐことになるが︑

末尾部分で山嵐と坊っちゃんが︑赤シャシや野田を︑﹁﹁貴様

の様な好物はなぐらなくつちや︑答へないんだ﹂とぽか/︑

なぐ﹂り︑﹁辞表を書﹂いて中学校を去るのも︑そして﹁街鉄

の技手﹂になるのも︑偏に︑l教育上のモラルの観点から

の暴力・﹁腕力﹂是非論や︑結局︑学校社会の﹁不浄﹂は何ら ころは︑﹁町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きを﹂サレる幼少時の坊っちゃんの異色の感性・言動が︑そのまま持続し︑さら︑︑︑︑に﹁懲役﹂一歩手前の地点迄進展・膨張している現在の姿を示唆していることになる︒﹁街鉄の技手になった﹂坊っちゃんは︿死んだ﹀︵前掲三好︑片岡︑平岡︑細谷論︶どころか︑﹁不浄な地﹂と学校のムラ社会から﹁離れ﹂ることで︑

漸く娑婆へ出た様な気がした︒

とある︒坊っちゃんなる人物は一向に変化も退歩もしていな

い︒水を得た魚の如く︑さらに生きノ︑と﹁生きて居る﹂と

いうことになる︒何故なら︑教師着任の﹁辞令は東京へ帰る

覧の通りの始末只懲役に行かないで生きて居る許り﹂の一

文との頭尾の照応は︑この物語の骨組みを支える最重要な模︑

いわば扇の要に相当する︒ここを看過すれば︑この作品の研

究史のみならず︑漱石の作品全般の議論の傾向に見受けられ

る︑ナンデモアリの問題提起とその解釈の仕方︑さらには︑

近現代文学一般のそうした研究動向にも係る︑作品の読み方︑

文脈の押え方の重大性というものを︑改めて喚起してくる局 根本的に浄化されることはなく︑坊っちゃん・山嵐二人の自己満足的な解決︑事実上の敗北を喫して学校社会から排除され︑﹁街鉄の技師になった﹂と受け止めるような勝敗論︵前掲三好︑片岡︑宮本陽子﹁坊っちゃん﹂は笑わないl英.仏訳と比較しながらl広島女学院大学国語国文学誌蛆号平成別・皿︶などを︑遙かに突き抜けたところで︑この物語は収束されている︵秋山公男﹁坊つちやん﹂l面白さの構図愛知大学文学論叢%輯平3.3に︑﹁﹁不淨な地﹂からの離脱は﹂︑﹁敗北﹂﹁敗走﹂でなく︑﹁これを見切り見捨てたにすぎないc﹂Ⅱの@との指摘がある︶︒

﹁漸く娑婆へ出た様な気がした︒﹂の一文と︑今現在は﹁御

(21)

面かと思われる︒

﹁赤シャシも野田も﹂︑山嵐と坊っちゃんの﹁無法﹂な﹁腕力﹂

に対し︑とうとう﹁訴へなかった﹂のには︑然るべき厳とし

た事情が控えていたからである︒双方の権力闘争︑派閥争い

に勝った︑負けたの凡俗の現実的次元で︑この物語を描こう

とした訳ではない︒

﹁貴様等は好物だからかうやって天詠を加へるんだ︒こ

れに懲りて以来つつしむがい︑・いくら言葉巧みに弁解

が立っても正義は許さんぞ﹂と山嵐が云ったら両人共だ

まってゐた︒

とあるように︑人智の小賢しい論法など︑所詮︑

﹁天詠も骨が折れるな︒是で天網恢々疎にして洩らしち

まったり︑何かしちや︑詰らないぜ﹂

という坊っちゃん・山嵐二人の強い意志や信念が実現し得た

ところで︑双方の派閥抗争は収束されている︒二人のその熾

烈な信念は︑とりも直さず︑作者漱石の︑﹁男らし﹂く﹁人間

として﹂保持すべき﹁義﹂を信ずる強固な信念に拠っている︒

作者漱石の信ずるこの思想︑l背骨としての信念を可能な かぎり簡素に︑平易に物語化し具現して提示したのが︑﹁坊つちやん﹂なる人物であった︒坊っちゃんなる未熟にして︑而も可能性ある一人の人物の︑真に自立のトバロに到る迄の成長・深化の形成過程を︑一ト月にも充たない短期間の事件に凝縮して見せたのである︒

その主意からして坊っちゃんが︑山嵐を兄貴分として︑弟

分の役回りを与えられるのは当然のことだ︒山嵐の方が風格

も実質も上位だから︑物語の主役なのではなく︑上位︑兄貴

分格に位置づけ︑そのように終始描かれているからこそ︑坊っ

ちゃんは下位の弟分格として︑自身の成長・深化が促される

のである︒

因に︑社会に出た坊っちゃんにはしばしば︑

相変らず空の底が突き抜けた様な天気︵三

を目にしていく︒﹁ひろ人︑とした海の上で︑潮風に吹かれる

のは薬だと思﹂い︑釣舟の﹁胴の間へ仰向けになって︑さつ

きから大空を眺めて居﹂る︵五︶︒或は度々︑十五畳の広々と

した﹁座敷の真中へのび/︑と大の字に寝﹂ている︵二︶︒

﹁突き抜け﹂るような︑微塵の濁りも吹き払われたかのよう 一○四

(22)

な﹁大空﹂を﹁仰﹂ぎ見︑﹁ひろ人〜とした海﹂や︑やはり広々

とした座敷の真中で﹁大の字に寝﹂る︒そうした坊っちゃん

の日常的志向は絶えず︑小賢しい人智や策略︑好計などという︑

﹁蔭でこせノー﹂と為る﹁けちな﹂企みというようなものから︑

遙かに﹁突き抜け﹂て在る﹁大空﹂︑l天与︑﹁天詠﹂︑﹁天網恢々

疎にして漏らさず﹂の大いなる自然の意思に見守られている︒

一方の山嵐に︑こうした﹁天﹂と直に向き合い︑﹁大の字に

寝て﹂﹁仰﹂ぎ見る姿は皆無である︒﹁突き抜け﹂るような﹁大

空﹂を絶えず﹁仰﹂ぎ見る坊っちゃんの高・広・深への志向

というものが揺るぎなく控えている坊っちゃんゆえに︑未熟

ながらもより柔軟なポテンシャルの可能性は︑もはや安定し︑

大きく動くことなく固定化された山嵐の﹁心﹂や﹁腹﹂よりも︑︑︑︑大なるものが控えているということである︒山嵐が実質的に

は︑主役ならぬ脇役に位置づけられるゆえんである︒前掲片

岡論には︑﹁坊っちゃんには知り得ない山嵐の淋しさ﹂︑﹁坊っ

ちゃんとの隔絶感がもたらす淋しさ﹂の指摘があるが︑この

作品の物語に︑そのような内的文脈はおよそ認められない︒

別離後に﹁一遍も逢はない﹂兄と︑﹁今日迄逢ふ機会がない﹂ 山嵐とでは︑別離の際の位相は︑本質的に異にしている︒

さらに山嵐には自身と一心同体︑﹁おれの片破れ﹂と呼べ

るような人生の伴侶はいない︒喪うべき人生の伴侶が存在し

ない以上︑喪う時の痛切な﹁心﹂の傷みもない︒無いが故に︑

ポテンシャルの度も低いということになる︒一人の﹁男﹂と

して︑また﹁人間として﹂︑成長・深化していく重要な契機を︑

元々有していない役柄が与えられているからである︒

一方の坊っちゃんには︑情婆やという﹁おれの片破れ﹂︑l

人生の伴侶が確実に控えていた︒情と離れ︑その清の象徴的

な姿とも言うべき対象が︑﹁突き抜け﹂るような︑高・広.深

の﹁大空﹂として︑しばしば坊っちゃんに﹁仰﹂ぎ見られていく︒

その自分と一心同体の﹁片破れ﹂︑人生の伴侶たる清婆やが︑

物語末尾で﹁死ぬ﹂︒清との離別と︑今度は紛うかたない本当

の死別︒この二度の﹁別れ﹂に際会することで︑坊っちゃん

なる人物は︑一つも二つも︑一人の﹁男﹂として︑﹁人間として﹂

の器量を﹁大﹂きく高めていく重要な契機を得ることとなる︒

lこの物語の主意を︑﹁自立への道筋﹂と捉えたゆえんがそ

こにある︒末尾の清の遺言︒

一○五

(23)

坊つちやん後生だから情が死んだら︑坊っちゃんの御

寺へ埋めて下さい︒御墓のなかで坊つちやんの来るのを

楽しみに待って居りますと云った︒だから清の墓は小日

向の養源寺にある︒

この︑物語収束部の清の遺言を︑序章のやはり遺言めいた清

の﹁小さな声で云﹂うところの︑

﹁もうお別れになるかも知れません︒随分御機嫌よう﹂

との頭尾の照応に留意すれば︑とかく騒々しく論議されてき

た末尾の清の遺言の真意や清という存在の人物像は︑多分こ

のようなところに落ち着く︒

﹁御墓のなかで楽しみに待つ﹂︑或は﹁坊つちやんのお寺

へ埋めて下さい﹂と言う含意は︑﹁死ん﹂でも坊っちゃんの側︑

お近くで︑坊っちゃんの﹁男﹂として︑また︑﹁人間として﹂

の器量が益々大きく︵高く・広く・深く︶なる姿を目にし︑見守っ

ていたい︑そのような念願とみるべきであろう︒

何故なら︑頭尾のこの二つの︑遺言めいたものと真の遺言

とを強力に結合しているのは︑﹁別れ﹂に外ならないからであ

る︒清との最初の﹁別れ﹂l別離によって︑坊っちゃんの自立. 独立への旅が始まり︑最後の﹁別れ﹂l死別によって︑真に独立・自立の旅が始まっていく︒いわば清婆やという存在自体が︑実質的な母親と︑人生の伴侶たる妻君︵﹁奥さん﹂﹁御嫁﹂︵七︶︶の役割を担っていた︒自身を本当の意味で支えてくれ

︑︑た︑掛け替えのない二人の伴侶を喪った痛切な﹁おれの心﹂が︑

その天与の異色非凡な感性が︑更にまた︑坊っちゃん自身の

成長・深化を促すことになる︒

そのことへの疑いのない︑﹁おれの心﹂と﹁腹﹂からの自覚︑

認識が︑﹁だから﹂清の魂を自分の菩提﹁寺﹂内に鎮めるとい

う行為を生む︒従って清婆やは︑坊っちゃんの恋人や︑あの

世から手招きしつづける薄気味悪い存在などではない︒未熟

ながらポテンシャル豊かな坊っちゃんなる人物を生前も︑死

後も︑しっかりと見守り支えつづける母親でも在り︑妻君で

も在るような︑掛け替えのない人生の伴侶と見なすべきであ︑︑︑︑︑︑ろう︒正に︑淡水の交わり︵荘子︶に外ならない︒

情婆やとの死別を契機にして又︑坊っちゃんの真の人生の

旅が始まる︒その確かな自覚が︑坊っちゃんに︑﹁だから清の

墓は小日向の養源寺に﹂設けさせたのである︒ 一○六

(24)

親兄弟との﹁分かれ﹂︑知人友人との﹁分かれ﹂︑そうして︑

掛け替えのない情婆やとの二度の﹁別れ﹂を通して︑天与で︑

異色の感性という芯は棒の如く貫きながら︑一人の自立する

﹁男﹂として︑﹁人間として﹂確実に成長・深化していく物語を︑

﹁坊っちゃん﹂という作品に漱石は結晶化したと言える︒

最後に︑この物語に創作当時の漱石の精神の一端を示して︑

小論を終える︒

今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかった︒

余の生活は天より授けられたもので︑其生活の意義を切

実に味はんでは勿体ない︒︵中略︶天授の生命をある丈利 それでなくては眞に生活の意味が分らない︒手応がない︒何だか生き︹て︺居るのか死んでゐるのか要領を得ない︒ あてにしない︒妻子や︑親族すらもあてにしない︒余は

用して自己の正義と思ふ所に一歩でも進まねば天意を空 上の御情とか︑近所近辺の好意とかを頼りにして生活し 己れを信頼した事が一度もなかった︒朋友の同情とか目やうとのみ生活していた︒是からはそんなものは決して一人で行く所迄行って︑行き尽いた所で莞れるのである︒ ふする訳である︒余は斯様に決心して斯様に行なひつ︑睾価︸フ︵︶O

︵明釣・Ⅲ・羽狩野亨吉宛手紙︶

﹁坊っちゃん﹂なる物語とよく符合した精神が︑ここに認めら

れる︒坊っちゃんの菩提寺内に﹁埋め﹂られた情婆やの魂は︑︑︑︑︑︑︑︑こうした坊っちゃんの成長した実際の姿を︑目の当りに出来

︑︑る日を﹁楽しみに待って居﹂るということになる︒こうした

お情婆さんの存在は︑恐らく故子規である︵小論子規と﹁坊

つちやん﹂東洋4巻3号g三・6︶︒その事は︑本論の﹁四﹂

の小見出しに示した視点と︑﹁四﹂での具体的な論述によって

も裏付けられることであろう︒

ポテンシャル豊かな坊っちゃんなる人物の創出という事実

上︑実生活での足跡があって︑日常現実の場での漱石もまた

確実に︑﹁天授の生命﹂と﹁自己の正義と思ふ所﹂を.歩﹂

ずつ﹁進﹂め︑﹁行な﹂うことが可能になっていく︒

ダイナミック文学創作と実生活との密接不可分な力学的な関係というも

のを︑この物語と書簡との重なり具合が︑おのずと︑如実に

証している︒小林秀雄の言う︑作品は作家の生活理論の結果

であり︑原因でもある︵アシルと亀の子Ⅱ昭5.5︶と

一○七

(25)

帯に置いておいて︑それ︽

と思うのよ・﹂︵白州正子︶︑ いう名言は︑漱石の文学と実生活においても︑確かな事実として想起されてくる︒

﹁坊つちやん﹂なる作品を改めて読み終えてみると︑赤シャ

シ一派の言行とその容貌というものが︑極めて簡明に浮かび

上ってくる︒

l﹁お勉強のできた人っていうのは︑自分の身を安全地

帯に置いておいて︑それであれこれいうでしよ︒私は卑怯だ

攻撃せずにはいられない人︶︒ l﹁何よりも︑自分に自信がなく︑他人の幸福が羨ましくて歯ぎしりしたいほどだからこそ︑他人を傷つけたり痛めつけたりせずにはいられないのだ﹂︵前掲片田珠美他人を l﹁﹁学のあるバカとは︑︷ける人﹂ということになる︒﹂はバカ−平成十六・十二︒

l﹁悪人に共通しているのは︑﹁自分は正しいんだ﹂と強

調するのに︑どこかで顔がひきつっているんですよ︒余裕ぶ 実践に向かない人︒修羅場を避︵川村二郎学はあってもバカ れば余裕ぶるほど︑顔がひきつってくるのが︑悪人の典型です︒﹂︵私の悪人論1宇梶剛士二○一三・一○・十六朝日新聞朝刊︶︒

﹁学のあるバカ﹂と﹁悪人﹂は︑﹁坊つちやん﹂の明治近代にも︑

ソシテ︑現代の今日にもハビコる︑いわばボウフラのごとき︑

下水や澱んだ水溜りに生息する︑モラル・バックボーンを失っ

た存在として︑この作品が強烈に喚起してくるものの一つで

ある︒ 一○八

参照

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