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Kyushu University Institutional Repository
Peerage of Tsin (晋) and of Sung (宋): five Peerage and aristcrats in Liu-Sung (劉宋) Dynasty
越智, 重明
https://doi.org/10.15017/2329158
出版情報:史淵. 85, pp.39-73, 1961-05-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
豆 区日
爵 と
』.Lo
河'
爵
ll
再 び
﹁ 劉 宋 の 五 等 開 国 爵 と 貴 族
﹂ に つ い て
!
越
|智
重
明
は し が き
晋宋の交代は単なる皇統の交代以上に大きい歴史的意義があり︑政治構造︵より端的には支配構造︶に見える変佑は著
しいものがある︒両時代を通じて支配階層が士大夫︵広議の貴族︶である乙とに変りはないが︑政治構造における士大夫
のありかたは両時代でかなりの相異がある︒晋時代皇帝は士大夫に内面的︑精神的に政治的支配者としての一体感ともい
うべきものをもち︑それを政治構造に示していた︒ところが︑宋時代皇帝は﹁絶対﹂者としての距離感のみを以て士大夫
に対し︑かっかれらを全面的に宮人として自己の掌中に把握しようとした︒そうした様態は南朝を通じて存在し︑しかも
巨視的には時代が降るにつれて強化される︒南朝における異様な政治は右のような政治構造と国力の微弱さとのキシミあ
いの
なか
に生
じた
もの
であ
り︑
︵一
面で
は家
系の
固定
佑と
の関
連を
もつ
が︶
上級士大夫の宮人としての無能佑︑斉時代の
陰惨な皇親の生活︑皇帝側近の寒人による官僚機構運営の破壊︑王朝の運命の短かいこと︑乙れらはすべて右の政治の様
態から生じたものである︒その乙とは換言すれば皇帝の一元的人頭支配のもつ矛盾なのである︒
筆者はかつて晋宋両政権の性格の変佑を素姓の五等︵開国︶爵制から瞥見した乙とがゐった︒そζでは晋時代五等爵が
晋 爵 と 宋 爵
九
晋 爵 と 宋 爵
四0
上層部の士大夫に殆んど自動的に与えられていたが︑宋時代には皇帝に対する忠誠・功績によって与えられることになり︑
非士大夫がそこに大幅に進出してきた乙とを論
LU
︒本稿では第一に︑純制度史的に︑五等爵が晋宋両時代でどのように変佑したかを︑爵の温存面で検討し︑第二に︑晋時代の爵制と︵周時代害したと考えられていた︶中国の封建制との相異
を明
かに
し︑
第三
に︑
それらを綜合して右に述べた政治構造の変佑への理解を深佑すべき一助としようとするものであ
る︒なお︑第四に︑以上の考察の聞に五等爵制における租秩の乙とをとりあげる︒
なお
︑・
本稿
でい
う爵
はと
くに
断わ
らな
い限
り︑
一応
素姓
の五
等︵
開国
︶爵
に限
定す
る︒
本節では︑五等爵の継承を制度史的に考察し︑その聞に晋宋両時代における相異点をとりあげる︒
第一に︑両時代殆んど変佑のなかった点を検討する︒︵以下︑とくに断わらなくても︑本稿でいう家の﹁継承﹂は︑爵
の継承をもつものとする︒︶晋時代の爵の継承に関し︑仁井田陸民は︑通典に︑
晋侍中関純云︑古者所以重宗︑諸侯代爵献胃商問一士大夫代禄︒防其争競︑故明其宗︒今︑王侯有爵土︑其所防︑与
古無
異︒
重嫡
之制
︑不
得不
問︒
とあるのを引いて︑封爵相続人には︑第一に嫡妻長子を︑第二に嫡出長孫を選定すべく︑嫡妻長子の兄弟は嫡出長孫のな
い場合に限って選定されるべき高見を示されてい勺その順位が原則として守られているのはいうまでもない︒晋書芝
玉野
伝に
︑
︵王
静︶
長子
委之
︑蘇
峻時
為護
軍参
箪︒
週害
︒要
之子
昆之
嗣︒
とある︒王畏之には王允之のような著名の弟があったが︑王昆之が玉野の爵彰揮牒侯を嗣いだのは嫡妻長子についで嫡出
長孫が襲爵の順位となっており︑その原則が守られたからであろうと想われる︒また庶子が嫡子よりも年長の場合である
が︑
乙の
際も
嫡子
が襲
爵し
てい
る︒
晋書
博一
一一
王祥
伝に
︑
祥有五子︒肇夏複烈募︒肇撃庶︒夏早卒︒葡嗣爵︒
爵が
継承
され
た例
は極
めて
数多
い︒
とあるのはその例である︒つぎに直系卑属
l
男系男子を敏いだときの乙とであるが︑晋時代それを欠いだにもかかわらず乙こ
に若
干の
例を
あげ
ると
︑従
子の
場合
とし
て︑
晋書
博一
一一
鄭沖
伝に
︑
沖無
子︒
以従
子徽
為嗣
︒
とあり︑晋害時写十枯伝に︑その子がなかった羊枯の爵の継承に闘し︑
帝以祐兄子襲為嗣︒聾以︑ハ久没不得為人後︒帝叉令輿弟伊為枯後︒叉不奉詔︒帝怒並収免之︒太康二年︵西紀二八一
と
( あ 年 何 り て
き石器
無 書 室
モ土空語
弟 町 為 子 充 鑑
放 唇 童
悶 円 山枯奉
嗣
とある︒こうした爵の継承は始封のものの従子に限らず︑爵が伝承されてのち︑伝承者が死した際その従子が爵を継承す
るという形でも現われている︒例えば︑晋香芝陳輿伝に︑陳審の爵を伝襲していたその曽孫陳粋が永事中に害に遇った
のを
記し
ての
ち︑
孝武帝︑以審玄孫襲爵︒卒︒弟子浩之嗣︒
とあ
り︑
晋書
博玖
王協
伝に
︑
︿王
協︶
襲爵
武岳
侯︒
早卒
︑無
子︒
以弟
勘子
誼為
嗣︒
とあり︑晋書法謝安伝に︑
晋 爵 と
宋 爵
四
晋 爵 と 宋 爵
四
︵謝
該︶
無子
︒弟
光禄
勲模
︑以
子承
伯嗣
︒
とあ
る︒
また
︑従
孫の
場合
とし
て︑
晋書
一時
一山
荷額
伝に
︑
荷額
無子
︒以
従孫
徴嗣
︒
とあり︑晋書培説静伝に︑親指Mには唯だ一子魂混があっただけであるが︑かれに先立って卒しており︑庶孫規融|恐ら
くは魂混の子ーをたて嗣せしめようとしたが︑これまた早卒したのを記してのち︑
従孫
晃嗣
︒
とあり︑晋書措院籍伝に︑
︵庇
字卒
︒︶
無子
︒従
孫広
嗣︒
とあ
り︑
晋誉
博一
肌脅
紹伝
に︑
︵替
紹︶
長子
附有
父風
︒早
天︒
以従
孫翰
襲封
︒
とある︒また︑従兄弟の子の場合として︑晋書博一山王波伝に︑王出の庶子でその博陵県公を襲いだ王波が死し︑しかも凌
に子が無かったものを記してのち︑
太元二年︵酉紀三七七年︶︑詔︑興滅継絶︑封出従孫道素︑為博陵公︒
とあ
り︑
晋
書設
整租
伝に
︑
超無子︒従弟倹之︑以子僧施嗣︒
とある︒有二例は始封の場合のものでないが︑必らずや始封の場合にもそうしたことがあったであろう︒以上見たところ
から︑爵の継承が事実上極めて広範なものであったのが知られよう︒
ちな
みに
︑晋
書博
四一
華表
伝に
︑観
陽伯
であ
った
華表
の卒
後︑
その長子華奥の襲封について問題が起ったときのこととし
て ︑
﹃ 肝 跡
︶
?
︵前略︶大鴻瞳何遵奏︑良免為庶人︒不応襲封︒請︑以表世孫混︑嗣表︒有司奏目︑民所坐除削爵︒爵一時之制︑良為
世子
︑著
在名
簿︒
不聴
襲嗣
︑此
為刑
罰再
加︒
云云
︒
とある︒結局︑華民は観腸伯を襲い︑卒後その長子華混
l
右文に見える世孫混ーがさらに観陽伯を襲っている︒また晋書博一
肌桓
温伝
を見
ると
︑桓
温は
その
生前
︑長
子桓
照を
世子
とし
てい
るが
︑
の名簿に記入されていたのが察せられよう︒ このように見てくると︑封爵相続人たる世子が官
つぎに宋時代であるが︑乙の時代においても封爵相続人に第一に嫡妻長子︑第二に嫡出長孫︑第三に嫡妻長子の兄弟︑
を選定すべきであったのはいうまでもない︒またこの時代においても被相続人の直系卑属|男系男子以外の傍系男子によ
る爵
の継
承が
往々
見ら
れる
ので
あり
︑例
えば
従子
の場
合と
して
︑宋
害時
一四
王鎮
悪伝
に︑
︵王
康無
子︒
︶以
克河
西太
守基
子天
枯嗣
︒
とあ
り︑
宋書
措一
劉懐
粛伝
に︑
︵劉
慎粛
卒︒
︶無
子︒
弟懐
慎︑
以子
蔚祖
嗣封
︒
とあ
り︑
宋書
埼一
孟龍
符伝
に︑
︵孟
龍符
卒︒
︶無
子︒
弟仙
客︑
以子
微生
嗣封
︒
とあり︑宋書誌顔師伯伝に︑顔師伯と同時に︑その子が皆殺されたが︑
る︒
また
︑宋
書草
孝一
種一
趨皇
后伝
に︑
︵前略︶於是︑追封︵越︶資臨賀県侯︒務長子宣之︑仕至江乗令︒蚤卒︒無子︒以弟孫襲之︑継宣之︑紹封︒
とあるが︑これは従孫の場合の乙とであろう︒また従兄の子の場合として︑宋書禁聖子祖伝に︑ のち師伯の弟顔師仲の子顔幹が封をついだとあ
晋 爵 と 宋 爵
四
晋 爵 と 宋 爵
四 四
孝祖子悉為醇安都所殺︒以従兄子慧遠継封︒
とあるのがめげられる︒これから見て爵の継承が事実上極めて広範なもので︑晋時代とほぼ変りなかったのが窺われよ
っ 。
ただし︑晋宋両時代を通じ子が無いため爵の継承が認められず国除となった場合も当然害する︒
第二に︑両時代︑爵の継承に関して大きい相異面が存したことについてであるが︑今迄見てきた爵の継承は人々が有す
る爵のうち特定の爵の継承を対象とした・ものである︒この際特定の爵というのは一人の有する爵のうちそのものが死亡時
有した爵という意味である︒ところで︑晋時代︑すでに爵を有するものが新たに他の爵を有すべき際︑あるいは新たに爵
を昇
され
る際
︑
そのものは︑皇帝に請うて︵世子たるべき︶嫡妻長子を除く直系卑属
l
男系男子︑あるいは傍系男子に︑新たに宥すべき爵を有せしめあるいは昇るまえの旧爵を︵往々やや変佑させて︶襲がせているのである︒
いまそれについて検討するが︑そのまえに説時代の爵をめぐる制度にふれておく︒旧来有爵者の近親に対し︑封一戸を分
つことと爵を下賜することとが一体佑して行われていた︒後漢末すでに曹氏はそうしたことを後漢の皇帝の名において行
って
いた
︒現
志鳩
曹洪
伝に
︑
初︑太祖分洪戸︑封子震列侯︒
とあ
り︑
現士
山時
十張
遼伝
に︑
分封
兄汎
及一
子︑
列侯
︒
とあ
り︑
説志
一一
十子
禁伝
に︑
分自
五百
戸︑
封一
子列
侯︒
とあるのはその例である︒これは説に入ってから盛に行われた︒その若干の例をあげると︑現士山詩文帝本紀︑責初二年
︵西
紀二
二一
年︶
二年
正月
の条
に︑
辛巳
︑分
三公
戸色
︑封
子弟
各一
人︑
為列
侯︒
とあ
り︑
競志
鳩夏
侯尚
伝に
︑
︵平
陵郷
侯夏
侯尚
亮︒
︶子
玄嗣
︒叉
分尚
一戸
三百
︑賜
尚弟
子事
爵関
内侯
︒
とあ
り︑
現志
鳩曹
仁伝
に︑
︵曹
︶泰
亮︒
子初
嗣︒
叉分
封泰
弟楢
・範
︑皆
為列
侯︒
とあ
り︑
現志
坤夏
侯惇
伝に
︑
︵夏
侯惇
亮︒
︶
列集
︒
子充嗣︒帝追思惇功︑欲使子孫畢食︑分惇邑千戸︑賜惇七子二孫︑爵皆関内長︒惇弟廉及子株素自封
とあ
り︑
競志
鳩買
休伝
に︑
初文
帝分
休戸
三百
︑封
肇弟
纂為
列侯
︒
とあ
り︑
現士
山博
曹詔
伝に
︑
叉進爵菰寿郷侯︑増邑三百︒井前八百戸︒叉分邑二百︑封小子訪為列侯︒
とあ
り︑
現志
玲十
鐘伝
叫に
︑
︵鐘
な揖
︒︶
子競
嗣︒
初文
帝分
銃戸
邑︑
封鱗
弟演
及子
勘・
孫予
列侯
︒
とあ
り︑
現志
隣十
程皇
伝に
︑
文帝
践昨
︑復
為衛
尉︒
進封
安郷
集︑
増邑
三百
戸︑
井前
入百
一戸
︒分
封少
子延
及孫
暁列
集︒
とあ
り︑
現志
一時
十張
既伝
に︑
晋 爵
と 宋 爵
四 五
晋 爵 と 宋 爵
四六
黄初
四年
︵西
紀ニ
ニ三
年︶
︵張
既︶
嘉︒
詔日
︑・
・・
・其
賜小
子翁
帰爵
関内
侯︒
子絹
嗣︒
とあ
り︑
説士
山時
十徐
晃伝
に︑
太和
元年
︵西
紀二
三四
年︶
︵徐
晃︶
嘉︒
・・
・・
・・
子蓋
嗣︒
蓋亮
︒子
覇嗣
︒明
帝分
晃戸
︑封
晃子
孫二
人列
侯︒
とあ
り︑
現士
山崎
一十
張部
伝に
︑
部前後征伐有功︒明帝分部戸︑封部四子列侯︑賜小子爵関内侯︒
とあ
り︑
説志
博一
一陳
群伝
に
青龍四年︵西紀二三六年︶︵陳群︶亮︒盛田靖侯︒子泰嗣︒帝追思霊功徳︑分室戸邑︑封一子列侯︒
とめ
り︑
説志
博一
−一
社襲
伝に
明帝
即位
︒進
封平
腸郷
侯︒
・・
・・
分邑
百戸
︑賜
兄基
爵関
内侯
︒
とあり︑現志註握林伝に︑
明帝
叉分
林邑
︑封
一子
列侯
︒
とあ
り︑
説志
博仁
王基
伝に
︑
進封安郷侯︒上疏求分戸二百︑賜叔父子喬爵関内侯︑以報叔父推育之徳︒有詔︑特聴︒
とある︒この際︑現志博二桓階伝に︑
階疾病0
・・
・・
徒封
安楽
郷侯
︒邑
六百
戸︒
叉賜
階三
子爵
関内
侯︒
祐以
嗣子
不封
︒病
卒︒
叉迫
贈関
内侯
︒
とあ
るの
から
見て
︑︵
通常
︶︵
嫡妻
︶長
子に
対し
ては
その
父の
封一
戸を
分ち
かっ
爵を
賜う
こと
はな
かっ
た︵
換言
すれ
ば嫡
妻長
子
は父の爵の推定相航人となっていた︶としてよかろう︒なお︑説志一一曹真伝に︑
真少与宗人曹遵・郷人朱讃︑並事太担︒道・讃早亡︒真感之︑乞分所食邑封遵・讃子︒詔日︑大司馬有叔向撫孤之仁︑
篤委平久要之分︒君子成人之美︒聴分真巴賜遵・讃子爵関内侯︑各百戸︒
とある︒この記事は︑封戸を分ち爵を近親に賜うことが盛行していたのを裏面から証するものではなかろうか︒
こうした制度は︑有功者に対する︵広議の︶賞与の一種であって︑基体となるべき人物の旧来の爵を温存することとは
関係ない︒晋時代に入つでもその残存はある︒すなわち晋香芝破邪武王他伝に︑封王の場合であるが︑
︵現
邪王
他莞
︒︶
臨終
︑表
求葬
母太
妃陵
次︑
井乞
分国
封四
子︒
帝許
之︒
とある︒また晋書諸倖抵伝に︑
︵侍抵︶以討楊駿勲︑当封郡公八千戸︒国譲︑減半︒降封霊川県公千八百戸︒余二千二百戸︑封少子暢為武郷亭侯︒叉
以本
封︑
賜兄
子山
世間
為東
明亭
侯︒
とある︒この際の﹁本封﹂とは関内侯を指すと思われる︒しかし︑乙うした制度は晋に入ると極めて少なくなっており︑
爵を近親者に与えるという観点からすれば︑それはつぎに述べるような︑︵世子たるべき︶嫡委長子を除く直系卑属|男
系の男子︑あるいは傍系男子に︑新たに有すべき爵を代って有せしめ︑あるいは旧爵を︵往々やや変佑させて︶襲がせるとい
う制度にとって代わられたことになる︒しかし︑乙の新制度は単にそうした意味での前制度の否定というよりもむしろま
晋書法郡豊伝に︑ったく新らしい歴史的意義をもつものとして理解すべきである︒まずその具体例をあげると︑
︵郡
聾︶
更封
南昌
県公
︒以
先爵
︑封
其子
曇︒
とある︒都曇は郡豊の第二子である︒都聾の先爵は高平侯であるが︑都曇はそれによって安東白となっている︒宋書巻四
f
十九
劉鐘伝に︑東晋時代のこととして︑
︵劉
鐘︶
以広
固功
︑封
永新
県男
食邑
五百
戸︒
・・
・・
平萄
功︑
応封
四百
戸男
︒以
先有
封爵
︑減
戸︑
以賜
次子
敬順
高畠
県男
食 晋 爵 と 宋 爵
四 七
晋 爵 と 宋 爵
四 i¥
自百
戸︒
リ︑また宋書巻五長沙景王道憐云乙︑東晋時代のこととして︑
十一
f l
︵劉道憐︶以広固功︑改封寛陵県公食邑千戸︒減先封戸巴之半︑以賜次子議宗︒
とあ
り︑
晋書
一市
川桓
温伝
に︑
升平中︑改封南郡公︒降臨賀為県公︑以封其次子済︒
とあり︑また晋書ぽ王悟伝を見ると︑王悟は王導の第二子であるが︑
︵王
悟︶
襲爵
即丘
子︒
とあり︑晋書博問王協伝を見ると︑王協は王導の第四子であるが︑
︵王
協︶
襲爵
武岡
侯︒
とある︒即正子とは王導が伝襲したその祖父王覧の爵であり︑武岡侯とは王導が華軟を討った功を以て封ぜられたものであ
る︒王導はついで始興︵郡︶公となっている︒これはその長子王悦の系統が襲いでいるが︑いままでに見たところとゐわせ考
ぇ︑王導は武岡侯となったとき即正子を第二子に襲がせ︑始興公となったとき武岡侯を第四子に襲がせたものであろう︒
晋書措謝玄伝に︑
︵謝
玄︶
以勲
︑封
出版
楽県
公︒
玄議
以先
封東
興侯
︑賜
兄子
玩︒
詔聴
之︑
更封
玩予
寧伯
︒
とあり︑また宋書時四檀留伝に︑東晋時代のこととして︑
︵檀
留︶
従討
慮循
︒於
左里
︑叉
有戦
功︒
弁論
広固
功︑
更封
宜陽
県侯
食巴
千一
戸︒
降先
封一
等為
伯︑
減一
戸之
半二
百五
十戸
︑
賜︵
檀︶
瓶子
強︒
とある︒檀祇は檀詔の弟であるo
また
晋書
時一
肌桓
玄伝
に︑
玄調朝廷︑以己平元顕功︑封予章公︑食安成郡︒地方二百二十五里︑邑七千五百一円︒平仲堪・伶期功︑封桂陽郡公︒地
方七十五皇︑口巴二千五百戸︒本封南郡如故ο玄以予章︑改封息昇︒桂陽郡公︑賜兄子俊︑降為西道県公︒
とある︒当時桓玄は漸く野望を露わにしていた︒従って右の爵に関する記事には受禅へのコlスの一段階という意味が多
分に含まれてはいるが︑兄の子桓俊への爵の措置に︑今迄見てきたのと同じ性格のものを窺おうとするのは強ち無理では
あるまい︒ところで︑後述のように︑義秀の少子斐聞は︑その兄裳溶の距鹿郡公の爵を襲ぐべき溶の庶子袈僚をさしおい
て釦鹿郡公の爵を襲いだが︑晋品替差窪回伝には︑
及︵楊︶駿誌︑以功当封武昌侯︒簡請以封慢︒帝寛封領次子該︒領苦陳︑慢本承嫡︒宜襲組鹿︒先帝恩旨︑辞不獲命︒
井﹂ みの ヲ︒
︒
武田之封︑己之所蒙︒特請以封慢︒該時尚主︒故帝不許︒
この
記事
は︑
新たに旧と異る爵ーさきのものに比して低いーを有すべき際︑
それ
を次
子に
与え
た例
であ
るが
︑
このように見てくると︑裂舗が鎧鹿郡公となったときに考察の開始点をおいた際︑右の帝の処置は単に謝該が公主に尚し
ていたために昼じたというよりも︑当時の旧爵温存の原則の適用あるいは準用によるとされるのではなかろうか︒
なお︑現時代にあっては旧爵の温存は見当らないようである︒南斉書博二予章文献王伝に︑宋堕代のこととして︑
太祖破醇索児︑改封西陽︒以先爵︑賜為晋寿県侯︒
とあ
る︒
議疑
i
後の斉の予章文献王i
は︑覇道成|後の斉の太祖|の第二子にあたる︒粛道成はその父粛承之が宋朝から授げられた晋興県五等男︵五等男は男爵より下位の爵である︶の﹁爵﹂を襲いでいる︒後︑道成は西陽県侯となっている
が︑右の南斉書予章文献王伝の記事に則って考えれば︑このとき︑晋興県五等男を以てその第二子巌に賜ったことになる︒
晋時代先爵をその第二子︵以下︶に賜わるときは︑それ以下の等に降されるのが普通であり︑例外的に王導の第二子王悟
︑第四子王協が同等の爵を賜わったことや︑侍位向が上級の爵を賜わったことがあるが︑右はそうした例外の場合にあては
晋 爵 と 宋 爵
四 ブL
普 爵 と 宋 爵
五
。
まる︒管見の及ぶ範囲では︑宋時代における旧爵の温存はこれだけである︒晋宋両時代で旧爵の温存に関し前者は肯定的
積極的︑後者は否定的消極的であったと断じて大過ないであろう︒
ところで︑晋時代︑爵の相続において前に述べた相続順位が守られていない場合が往々存する︒例えば晋書博正義一秀伝
t乙
、
︵裟
秀︶
有二
子溶
・額
︒濯
嗣︒
・・
・・
早卒
︒溶
庶子
慢不
恵︒
別封
高陽
苧侯
︒以
溶少
弟儲
嗣︒
とあり︑晋書主義餌伝に︑
買充即領従母夫也︒表︑秀有佐命之勲︒不幸嫡長喪亡︑遺孤稚弱︒領才徳英茂︑足以興国嗣︒詔領︑襲爵︒儲固譲不許︒
とあるが︑右の領装の輩行主義に則るともいうべき爵の相続が原則にはなれた不当のものであったのは明かである︒また
晋墨江⁝陶侃伝を見ると︑陶騒が有爵者陶侃の世子となっていたが陶侃に先立って卒したため︑︵踏の弟と思われる︶陶
夏が改めて世子となっている︒陶暗には間弘という子がいた︒陶夏が向侃の爵を襲ぐまえ︵つまり陶侃の生前︶に卒した
ため
詔︑復︑以膳息弘︑襲侃爵︒ ︑
とあるが︑向夏が世子と定められたととろには︑輩行主義を見ることが出来る︒ところで嫡系主義の否定は一般にいう輩
行主義以外の形にも現われている︒例えば晋書桓玄伝に︑
温甚
愛異
之︵
綿花
を︶
︒臨
終︑
命以
為嗣
︑襲
爵南
郡公
︒
とある︒桓玄は桓温の第六子でかつ庶子であった︒温が亮じたとき兄たちはすべて生存していたと思われる︒そのうち庶
子がどれどれであったかわからないが︑何れにしても最年少の庶子たる玄が温の爵をついだのが正常でないのは疑いない
ところである︒また晋書博明一王戎伝に︑王戎の子王万が卒したことを記してのち︑
有庶子興︒戎所不歯︒以従弟陽平太守情子︑為嗣︒
とあって︑直系を排して傍系に爵を襲がしめたことを物語っている︒こうした諸例はいくら多くあっても原則の存在を否
定するものとはいえないが︑原則を守ること自体がルーズになっていたのを示唆するのは疑いない︒
が︑
宋書
尚一
﹂橋
叔度
伝に
︑
︵橋湛之︶以南奔︑賜都郷侯︒大明四年︵西紀四六O
年︶
卒︒
・・
・・
子淵
庶生
︒宣
公主
︑以
淵有
才︑
表為
嫡嗣
︒
一方
︑宋
時代
であ
る
とある︒郷侯はいうまでもなく五等爵の下にあるもので︑かっ伝襲されるものである︒この継承の順位も当然五等爵の場
合と同一であろうが︑右の椿淵の襲爵はその原則を破っている︒しかしこうしたことは宋時代殆んど他に例がなく︑また
管見の及ぶ範囲では︑晋時代に往々見えるような爵の変則的な継承はない︒
いま晋米両時代においてこうした相異の生じた背景の一端を考えて見ると︑まず晋時代であるが︑そこには新旧の爵の
継承問題がある︒さきに見た斐簡のようにその父の爵が最高のもので︑自らの功により授けられるべき爵がそれよりも低
いというのは例外的であり︑遇措は父祖のものを襲いだ爵よりも新らしく授けられた爵の方が高く︑また自らが次々に授
けられた爵も普通のちほど高いものであるが︑こうした際の新旧の爵の継承に関し種々の複雑なケlスが不可避的に生じ
てくる︒例えばさきに見たように王導の第二子王悟は導の爵即丘子を襲いでいる︒乙の即正子は王導がその祖父王覧から
伝襲したものである︒新らしくより高い爵が授けられ︑かっ旧い爵よりも低い爵をその子孫︵一族︶に改めて授けられ︵ある
いは襲がしめられる︶際︑嫡妻長子がそのより高い爵の継承者たるべく予定され︑低い爵が第二子以下に授けられあ︵あ
るい
は襲
がし
めら
れる
︶
のは一般的であり︑それが制度的に定まっていたのは殆んど間違いないから︑乙うした点からい
えば右の即正子の爵を王悟が襲いだのに無理はない︒しかし︑即正子の爵の継承という点からだけいえば︑それは嫡系主
義が王導の次の世代で制度的に否定されたということになる︒このことは当時における特殊な爵制自体が︑その継承面に
晋 爵 と 宋 爵
ヨ.I
晋 爵 と 宋 爵
五
矛盾を字んでいたことを意味する︒このような矛盾が広く爵の継承におけるルlズさの生起に間接的心理的に働きかけた
こと
は否
定出
来ぬ
であ
ろう
︒
一方宋時代は日爵が温寄されることは殆んどなく︑従って爵の相続において右に見たような
矛盾も亦殆んど生ずべくもなかった︒このように見てくると︑晋宋両時代における右の相異を生じた背景の一つとして︑
旧爵の温存の有無の影響があげられるであろう︒
ちなみに︑宋時代にはかつて現時代盛行した分封が殆んど消え去っている︒ただ封国の収入を近親に分けるべきである
という考えはかなり強かったようである︒宋書持謝弘微伝に︑
︵謝弘微︶襲︵従叔謝︶峻爵建国県侯︒弘微家素貧倹︒而所継豊泰︑階受書数千巻固定数人而己︒遺財
︵祝
日︶
義照
初︑
−
Rト町
︑
Ad
− −
f 一無関予︒︵謝︶混聞而駕歎︑調国郎巾令漆凱之目︑建国国禄︑本応与北舎共之︒国侯既不措意︒今可依常分送︒
弘微或違混言︑乃少有所受︒
とあ
る︒
また︑室長世朋恵開伝に︑
凡為父起四寺︒南岸南岡下︑名目禅岡寺︒曲阿旧郷宅︑名目禅郷寺︒京口基亭︑名目禅亭寺c
所封
封陽
県︑
名目
禅封
寺︒
﹁北
舎﹂
とは
謝弘
微の
本家
を指
す︒
謂国僚日︑封秩葦鮮︑而兄弟甚多︒若使全関一人︑則在我所譲︒若使人人等分︑叉事可悲恥︒寺衆既立︑白宜悉供僧
衆︒
由是
︑国
秩不
復下
均︒
とあ
るの
はそ
の一
端を
物語
り︑
さわ
りに
宋書
尚一
世木
齢石
伝に
︑
︵朱︶景符卒︒子組宜刷︒金制之封︑八年不反︑及不分姑国秩︑奪爵︒云云︒
とあるのはそれが制度的に義務づけられていたのを示唆する︒習時代の封一円は実封であるから︑分封︑旧爵の下賜を受け
た近親は実質的に収入をえる︒宋時代封国の収入を近親に分けるべきであるということは︑恐らく前代・晋時代のそうレ
た大勢をもとにして生じてきたものであろう︒しかしいくら義務的なものにまで強まったにしても︑それはさきにとりあ
げた旧爵の温存とは無関係なものなのである︒
前節では同一王朝内における爵の温帯をとりあげ︑晋宋両時代で相異のあったことを検討した︒本節では前王朝の爵の
温存をとりあげ︑晋宋両王朝で相異のめったことを検討する︒六朝においては︑受禅という形をとって新王朝ができるピ
けに︑前王朝の爵の存続をある程度まで認めても︑それはやむをえなかったといえよう︒レかしそれにしても晋建国にあ
とあ
る︒
たっては︑六朝の他の場合とは異なる様相が見えるのである︒
まず規建国の場合︑貌志詩文帝本紀︑黄初元年︵西紀二二O
年︶
十一
月の
条に
︑
以漢諸侯王為崇徳侯︑列侯為関中俣︒
つぎ
に宋
建国
の場
合︑
宋書
功一
非常
本紀
下永
初元
年︵
西紀
四二
O年
︶六
月の
詔に
︑
戚随連改0
・・
・・
可降
始興
公︑
封始
興県
公︒
晋民
封前
︑
蹴蹴
公︑
封柴
桑県
公︒
各々
千戸
︒
始安公︑封高浦県供︒長沙
公︑封酷陵県侯︒康楽公︑可即封県侯︒各々五百戸︒以奉晋故丞相王導・太侍謝安・大将軍温隔・大司馬問侃・車騎将
軍謝玄之問︒其宣力範照︑同銀難者︑一依本秩︑無所減降︒
とあ
る
o
つぎ
に斉
建国
の場
合︑
南斉
書一
言帝
本紀
下建
元一
苅年
︵西
紀四
七九
年︶
四月
の詔
に︑
宋氏
通供
︑乃
宜随
運省
替︒
・・
・・
降差
之典
︑道
往制
︒南
康県
公・
華容
県公
︑可
為侯
︒洋
郷県
侯可
為伯
︒減
一戸
有差
︒以
継劉
穆之
・王
弘・
何無
忌後
︒
とあ
り︑
同年
五月
の詔
に︑
度運革命︑引爵改封︒宋民第秩︑離宜省替︑其有預効屯夷︑宣力斉業者︑
一向
山本
封︑
無所
減降
︒
=
日爵 と 宋 爵
五
:
晋 爵 と 宋 爵
五 回
とあ
る︒
hE
つぎに梁建国の場合︑梁書コ武帝本記申天監元年︵西紀五O
二年
︶四
月の
詔に
︑
興運升降︑前代旧章︒斉世王侯封爵︑悉皆降省︒其有効著難難者︑別有後命︒惟宋汝陰王不在除例︒
とある︒これらを通じていえることは︑たとえ例外的に前王朝の爵が杏続するにしても︑
︵新
王朝
の建
設に
当主
が別
に功
績がなかった場合︶その爵が降爵された形で帯することである︒
ところが︑晋建国にあたっては︵前王朝の爵が一般に温帯され︑かつ︶降爵はないのである︒例えば︑現志時官官蕗伝
に︑戚照中︑閲建五等︒案以著勲前朝︑改封憧南頓子︒
とあ
り︑
説志
一立
十王
粛伝
に︑
︵王粛亮︒︶子揮制︒憧強︒無子︒国絶︒景元四年︵西紀二六三年︶︑封粛子悔為蘭陵侯︒戚照中︑開建五等︒以粛著勲
前朝
︑改
封陶
為承
子︒
とあ
り︑
説志
酷十
劉放
伝に
︑
及戚照中︑開建五等︒以放・資著勲前朝︑改封正方域子︑宏離石子︒
とある︒劉正は方城侯劉放の爵をついだものであり︑孫宏は中都侯孫資の子でその爵をついだものである︒また現志博一一一
博蝦
伝に
︑
︵侍蝦莞︒︶子抵嗣︒戚照中︑開建五等︒以蝦著勲前朝︑改封幅浬原子︒
とあ
る︒
侍躍
は陽
郷侯
であ
った
︒ま
た貌
志時
二陳
泰伝
に︑
戚照中︑開建五等︒以泰著勲前朝︑改封温為慎子︒
とある︒陳泰はその父・陳群の爵頴陰侯を嗣いたものである︒陳温は当時乙の爵を嗣いでいた︒
また
調士
山世
高柔
伝に
︑
戚県中︑開建五等︑以柔等著勲前朝︑改封揮国陸子︒
とゐる︒高柔は安国侯であり︑高湾はその爵を嗣いでいたものである︒また貌士山尚一L
王観
伝に
︑
戚照中︑開建五等︒以観著勲前朝︑改慢穆東子︒
とあ
る︒
王観
は陽
郷侯
であ
り︑
王慢
はそ
の爵
を嗣
いだ
もの
であ
る︒
また
貌志
博一
〜郭
准伝
に︑
戚照中︑開建五等︒以准著勲前朝︑改封︵正︶扮陽子︒
とある︒郭准は陽曲侯であり︑郭正はその爵を嗣いだものである︒戚照中に五等を建てたということは︑要するに︵晋の︶
司馬民が五等爵を建てたということである︒そこでは前朝つまり親王朝の功臣︵の子孫︶で︵新らしく開かれることが定
まっている新王朝に対しあまり功績のないもの︶に対し一律に子の爵が授けられたことが記されている︒ここで必要な範
囲で競の爵の制度を瞥見しておく︒それは王︑県侯︑郷侯︑亭侯︑関内侯︑名号侯︑間中侯︑関外侯︑五大夫の順に存在
する︒そのうち県侯︑郷侯︑亭侯が列侯である︒また関内侯以上が租を食み︑名号侯以下は租を食まず︑虚封であった︒
︵漢の諸侯王がそれとされた崇徳侯は名号侯と考えられるから︑漢の諸侯玉︑列侯は説建国にあたり︑その新爵制におい
て旧
来の
爵よ
りも
三等
ずつ
の格
下げ
にな
る︒
︶
さて︑右の魂末の有爵者すなわち王情︑劉正︑孫宏︑侍抵︑陳温︑高揮︑王慢︑郭正はすべて列侯である︒荷慢も恐ら
くは同様であったのであろう︒現時代︑県侯は官品第三品︑郷侯は官品第四品︑亭侯は官品第五品︑関内侯︑名号侯は宮
品第六品であり︑関中侯︑関外侯は不明である︒晋では︑県侯は官品第三品︑郷侯は宮品第四品︑亭侯は官品第五晶︑関
内侯︑名号侯は官品第六品︑関外侯は官品第七品である︒従って関中侯は官品第七品︵かあるいは官品第六品﹀にあたる
であろう︒これから推して現時代も関中侯︑関外侯は官品第六品|第七品にあたると思われる︒五大夫については記録が
ないが︑両時代を通じて品官にあたったことは間違いなかろう︒乙こで重要なのは︑晋時代︑列侯の爵が旧来と同じ官品
にあ
てら
れた
乙と
と︑
︵開固たる︶子爵が官品第二品にあたることとである︒かくて︑貌の功臣の子孫で貌の列侯の爵を
もっているものに対し︑晋王朝が︵自らも列侯の爵を存しているにもかかわらず︶単にその故に︑自らの爵制において旧
晋 爵 と 宋 爵
五五
晋 爵 と 宋 爵
五六
来の列侯の爵よりも上位の︵新︶爵︵としての子爵︶を与えたことが知られる︒こうした前王朝の爵への対処のしかたは
さきに見たように漢親交代時︑晋宋交代時.宋斉交代時︑斉梁交代時にはまったくない乙とである︒
前々節と前節とでとりあげたことは要するに︑晋王朝は素姓の爵の温容に異常なまでに積極的であったが︑宋王朝には
そうした傾向がないという乙とである︒本節以下ではその理由にウいて検討する︒
晋時代︑そうした爵のありかたは直ちに晋の皇帝が︵周時代に存在したと考えられていたような︶封国制|封建制を強
ル加
する
意図
があ
り︑
その
一環
をな
すも
のと
想定
され
そう
であ
る︒
しか
し︑
晋の
皇帝
は必
・ら
ずし
もそ
うし
た意
図ぞ
もた
ず︑
各封国は︵広義の︶官僚機構とみなすべきである︒
いまそのことをまず尊降制︑厭降制の方面から検討してみよないわゆる尊降制とは儀礼喪服篇を一貫する一つの原理
であって︑乙れに従えば諸侯の場合傍親期以下の喪を絶って服せず︑大夫の場合諸侯が絶つと乙ろを一等降して服するこ
とに
なる
︒さ
て晋
書唯
一一
礼志
中に
︑
︿a︶Illi
−
−
Iliri
−
−
11 11 1I ll i
−
−
−
−
−
−
−
− ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
漢現故事︑元五等諸侯之制︒公卿朝士服喪︑親疎各々如其親︒新礼︑王公五等諸侯︑成国置卿者︑及朝廷公孤之爵︑皆
傍親絶春︑而傍親為之服斬衰︒卿校位従大夫者︑皆絶組︒撃虞以為︑古者︑諸侯君臨其園︑臣諸父兄︒今之諸侯︑未聞
︵b︶
Il
子古︒未聞子古︑則其尊未全︒不宜便従絶基之制︑而令傍親服斬衰之重也︒諸侯既然︑則公国之爵︑亦宜如旧︒昔現武 l−
帝愚
吾川
中︑
己骨
表上
演劇
刑判
依古
和司
事与
−出
呉川
智羽
施行
判明
行者
︑ー
劃劃
可大
皿耳
東以
劃可
ー宜
一定
ー新
和︑
骨畑
町﹂
劉
之|
とある︒乙の記事はその字句の解釈自体が貌晋時代の封建制︑尊降制の理解に直接大きくつながるものである︒そうした
意味でここではとくに問題となる傍線の部分を私見に従って読み下しておく︒
︵a︶ 漢誕の故事では五等諸侯の制はなく︑︵従ってかつて周時代五等諸侯の制があったときに存していたような尊降
の制はなくて︑︶公卿朝士の服喪は親疏による規定︵だけ︶を適用して行われるべきであった︒ところが︑西晋の新礼
では
︑
︵その新礼が制定されたとき︑すでに西晋朝では皇親の封王の制と五等諸侯の制とが強佑されていたが︶王公と
五等の諸侯とで封国をもら卿をおくものと︑朝廷で三公や︵三公につぎ︑卿よりも上位の︶孤の爵︵H官︶にあるもの
︵すなわちほぼ官品第一品から官品第二品までの官人︶は皆傍親の期以下の喪を絶って服せず︑
一方
︑傍
親は
その
ため
に斬衰の喪に服することとし︑卿校の位で朝廷における官品が大夫に従うもの︵すなわち︑ほぼ官品第三品から第五品
までの官人︶は傍親の紹麻︵以下︶の喪を絶って服しないことにしようとした︒
︵b︶ ︵塾虞のいうのには︶昔︑説の曹操が後漢の建安年聞に︑すでに後漢朝に上表して周の古に則って制度をつくっ
てい
る︒
その際現情が周の古と異っているものは制度として行わないことにした︒周の古に則って行ったものは
説
科﹂に書き示した︒わが晋朝はそれ︵のうちのしかるべきもの︶をとって
︵晋
︶令
に著
わし
た︒
﹁貌
科﹂
以来
諸侯
の傍
親絶期の制︵など︶はそこで国家の﹁法﹂として制度化されていない︒今新礼を定めるにあたっては︑
皆も
との
一「麓
科﹂以来のように無規定にすべきである︒︵すなわち傍親絶期の制などはこれを否定してしまうべきである︒︶と︒詔が
あっ
て撃
虞の
説に
従っ
た︒
右の記事について附記すると︑通典尚一一三公諸侯大夫降服議に︑右の﹁漢説故事﹂が﹁漢故事﹂となって﹁説﹂がない︒
また﹁規制︑県侯比大夫︒按大夫之庶妹在室︑大功︒適人降一等︑当小功︒﹂の記事がある︒礼制に関する通典と晋書礼志と
の記事とは︑蓋言すれば通典の方をより信用すべきであるが︑この際に限っていえば︑通典の﹁漢貌故事﹂を正確とすべ
きで
ある
cすなわち通典同項のなかに︑
晋 爵 と 宋 爵
豆七
晋 爵 と 宋 爵
五八
︵前
略︶
︵晋
︶徐
調答
云︑
・・
・・
喪服
伝叉
日︑
始封
之君
︑不
臣諸
父毘
弟︒
先儒
以為
︑不
臣則
服之
︒漢
魂以
来︑
王侯
皆不
臣
既不以貴降︑則余尊之厭︒故五服内外︑通如周
況其
親乎
︒
其父兄︒則事異於周︒故厭降之節︑与周不問︒組猶不降︒
之士礼︑市三降之典不行同失︒昔説武在漢朝︑為諸侯制︑市寛不立︒荷公定新礼︑亦欲令王公五等皆芳親絶周︒而塾仲
理鮫以為︑今諸侯与古異︒遂不施行︒此則是近代成軌也︒
とあ
る︒
これ
とあ
わせ
考え
︑
﹁現
﹂の
字を
入れ
るべ
きで
ある
︒
このように見てくると︑漢説晋において︑素姓の場合尊降の制は制度佑していなかったとされよう︒なお︑尊降の制の
影響下に生じたものに厭降の制がある︒厭降とは大要ぞいえば︑皇帝︑諸侯の妾腹の子︑が父が服しないところのもの︵例
通 典 説 土
えばその生母︶のために︑本服をとげえないことをいう︒こうした厭降の制は大夫の場合にも適用される︒
為所
生母
服議
に︑
徐減答謝静云︑漢説以来︑通用士礼︒庶子︑父在︑為所生︑周︑心喪三年︒如諸侯大夫之子︑乃厭降︒而近代所不行︒
とあるが︑厭降の制も亦漢魂晋と引続いて行なわれていなかったことが知られる︒ただし︑通典三公諸侯大夫降服議に︑
衛尉国邑侯満車︑間温子容︑目︑庶妹亡︒有服︑否︒番目︑喪服︑諸侯以尊降︑不服︒孔誼議︑天子諸侯誠不応服︒叉︑
大夫
降縮
︒尊
与己
敵︑
則不
敢降
︒云
云︒
とあ
り︑
虞喜釈滞日︑漢貌以来︑先儒論礼︑及喪服変除者︑皆言︑大夫降其努親為士者二等︒時人或班較︑行之︑自謂合礼︒云云︒
とあるのは漢灘晋の儒家が尊降︵︑厭降︶が行われないのに対し︑必らずしも賛意を表したものでないことの一端を物語
るものであるが︑いまとりあげているのは国家の制度なり現情なりであって︑漢貌晋の儒家が︵かつての礼制を解釈した
その解釈のしかたや︶その当時に自らの意を以てかくあるべしとした様簡ではない︒
論を進めると︑通典三公諸侯大夫降服議に︑
司空荷顕議以為︑諸侯絶周︑大夫絶籾︒然則尊問︑
周以
及線
︑
皆如
本親
︒喪
服経
日︑
君為
姑姉
妹女
子子
嫁於
園君
者︒
伝日︑何以大功︑尊同也︒叉日︑大夫為伯叔父母子昆弟昆弟之子為士者︒伝日︑何以大功︒尊不同也︒然則尊不問︑則
降不待所臣︑乃絶之︒諸侯尊重︑大夫尊軽︒以大夫尊降其親︒則知︑諸侯雄所不臣︑絶不服也︒有司奏如欄議︒
とある︒ここに見える荷髄の見解についてであるが︑晋書一服十礼志上に︑
参考今古︑更其節文︒
及晋
国建
︑文
帝叉
命荷
崩︑
因調
代前
事︑
撰為
新礼
︒
羊枯
任憧
慶峻
応貞
並共
刊定
︑
成百六十五
篇︑奏之︒太康初︑尚書僕射朱整奏付尚書郎撃虞︑討論之︒虞表所宜増損︒云云︒
とある︒荷蹴が新礼を制定してから太康元年まで十五年ほどたっている︒この際﹁有司奏如韻議︒﹂とあることは︑あた
かも荷拘の尊降の制復活の議が用いられ︑それが十余年たった太麗元年に改めて撃虞によって批判の対象となり︑ついに
廃止されたのを物語るかの如くである︒しかし︑﹁昔貌武在漢朝︑為諸侯制︑而寛不立︒荷公定新礼︑亦欲令王公五等皆
芳親絶周︒而撃仲理鮫以為︑今諸侯与古異︒遂不施行︒此則是近代成軌也︒﹂とあるのは︑その新礼においてもついに尊
降︵︑厭降︶の制が行われなかったのを示している︒この否定が詔がでることによって再確認されたわけである︒蓋し封
建制を徹底させるとすれば︑周の封建制にならって王侯五等の諸侯が︵始祖の場合を除︑き︶その諸父島弟を臣とするまで
になるべきであり︑そこに尊降︵︑厭降︶の実を含ませるべきである︒尊降︑厭降の制が周の封建制においてその原理に
連なるものであること︑別の表現をすれば︑それは個人的には諸侯︑大夫の政治的な尊厳性の維特を示すものであるが︑
それと同時にそうした尊厳性が封建制の一環をなすものであるだけに︑広く封建制強佑の一翼をになうものであること︑
はいうまでもない︒こうした封建制の強佑は結局累層的人間関係の強佑となるのであるが︑このように見てくると︑荷湖
の示した尊降の制︵ひいては厭降の制︶が︑結局またもや否定されてしまったということは︑晋朝のもつ一元的人頭支配
晋 爵 と 宋 爵
五九
晋 爵 と 宋 爵
ノ
、
。
の意図が︑封建制の無限の展開を阻止せざるをえなかったのを示唆しよう︒つまり︑晋時代の封建制は︑周時代ほどの成
国の実をあげるのを否定すべき歴史的要因がめったのである︒
右に関連して注目すべき記事がある︒それは晋書博畑劉頒伝に︑
︵准
南相
劉︶
領在
郡上
疏目
︑−
−−
−今
諸王
裂土
︑皆
兼於
古之
諸侯
︑而
君臆
其爵
︑臣
壮其
位︑
莫有
安志
︒其
故何
也︒
法同
郡
県︑無成国之制故也︒今之建置︑宜使率由旧章︑一如古典u然人心繋常︑不累十年︑好悪禾改︑情願禾移︒臣之愚慮︑
以為宜早創大制︑遅廻衆望︑猶在十年之外︒然後能令若臣各安其位︑栄某所蒙︑上下栢持︑用成務輔︒・・・今宜令諸王
国容少而軍容多︒然於古典所応有者︑悉立其制︒然非急所須︑断而備之.不得頓設也u須単甲器械既具︑牽臣乃服綜
章 ︑
4 倉
盲目
己実
︑乃
営宮
室︑
乃備官可︑境内充実︑乃作礼楽︒唯宗廟社榎.則先僅之υ至於境内之政宮人用
才︑自非内史国相命於天子︑其余衆職︑及死生之断︑穀吊資実︑鹿賞刑威︑非封爵者悉得専之Q
−−
−−
今諸
国︑
本一
郡之
百姓
己足
︑
政耳︒若備旧典︑則宮司以数︑事所不須︑而以虚制損実力ο至於慶賞刑断︑所以衛下之権︑不重則無以威衆人市衛上︒
故臣之愚慮︑欲令諸侯権具国容少而軍容多︒然亦終於必備今事︑為宜︒云云︒
とある記事である︒劉頓は郡県の制と︵周の封国制
l
封建制に同質の︶封国制l
封建制とを対比してそうした封国制|封建制を強化すべきを力説しているのである︒乙の上疏は太康十年︵西紀二八九年︶に武帝に対し行われたものである︒乙
の上
疏に
おけ
る封
国制
|封
建制
の強
佑と
国勢
との
関係
であ
るが
︑晋
書博
一〜
食貨
志を
見る
と︑
︷申
るや
か一
v是時︑天下無事︑賦税平均︑人戚安其業︑而楽其事︒
とある︒乙れは太康元年の平呉から太康十年ごろまでの状態を述べたものと思われる︒ところで︑劉額の上疏に︑
自近世以来︑為監司者︑類大綱不振︒而微過必挙︒微過不足以害政︒挙之則微而益々乱︒大綱不振︑則豪強横臨時︒豪強
横陣︑則百姓失職失︒・・・・夫︑大姦犯政而乱兆庶之罪者︑類出富彊︒而豪富者︑其力足慨︑其貨足欲︒以是︑官長顧勢
而頓筆︑下変縦姦u健所司之不挙︑則謹密網以羅微罪︑使奏劾相接︒状似尽公︑而措法不亮︑固己在其中央︒非徒無益
於政体︑清議乃由此而益々傷ω
云 云
︒
とある︒右の監司とは主として御史台の官及び諸州の刺史などを指す︒そこから︑晋書食貨士山に見えるような表面的な静
誼のうちに︑豪族勢力が大いに進展し︑しかも西晋朝がそれをいかんともなしえなかったのが察せられよう︒さて︑資治
通鑑立晋太康十年の条に︑晋書に見える劉領の上疏の節録がある︒その一部で劉頒の孝信よく伝えている部分に︑
自泰始以来︑将三十年︒凡諸事業︑不茂既往︒以陛下聖明︑猶未反叔世之械︑以成始初之隆︑伝之後世︒不無慮乎︒使
夫異時︑大業或有不安︑其憂責猶在陛下也︒臣聞︑為社理計︑莫若封建親賢︒然︑宜審量事執︒可使諸侯率義而勤者︑
其力足以維帯京邑︒若︑包蔵禍心︑其執不足独以有為︒其斉此甚難︒陛下宜与遥古今之士︑深共簿之︒周之諸侯有罪︑
諒放其身而国昨不調︒漢之諸侯有罪或無子者︑国随以亡︒今︑宜反漢之敏︑循周之旧︒則下回而上安突︒
とある︒今迄の考察とこの記事とから︑劉煩の上疏において︑豪族勢力の進展が西晋政権に危機をもたらすものとして大
きくとりあげられたこと︑及びその危機の廻避が封建制の強佑に求められたこと︑が察せられよう︒ところが︑右の上疏
に対
し︑
詔答
日︑
得表
︑陳
封国
之制
︑宜
如古
典︒
・・
・・
諸所
陳聞
︑具
之︒
知卿
乃心
為国
也︒
動静
数々
以問
︒
とあるだけで成国の制は結局行われていないのである︒
つぎに晋宋時代を通じて︑同一封固において最も封国からの収入が多かったと思われる時代をとりあげ︑その収入が一−−h
建制の再現とほど遠いものであったのを推測してみよう︒
西晋時代の国秩に関する史料として︑通典巻三職富十三王侯総鍍に︑
十 一
︵A︶諸侯並三分食一︒東晋元帝太興元年︵西紀三一八年︶︑始置九分食一︒
晋 爵 と 宋 爵
ー
ノ、晋 爵 と 宋 爵
~ ノ
、
とある︒右の﹁諸侯﹂は前後の記事から見て明かに西晋の諸侯のことである︒
また
晋害
時一
十地
理志
上に
︑
︵B︶太康元年︵西紀二人O
年︶
平呉
︒・
・・
・市
江左
諸国
誼三
分食
一︒
元帝
渡江
︑太
輿元
年始
制九
分食
一︒
とあ
り︑
宋書
博四
百官
志下
に︑
︵C︶晋江左諸国︑誼三分食一︒元帝太興元年︑始制九分食一︒
とあるのがあげられる︒論を進めるに先立ち︑当時の諸侯という語の用法について瞥見しておこう︒晋書堵段灼伝に︑
灼後復陳時宜日︑・・・・於今之宜︑諸侯彊大︑是為太山之固︒非吾族類︑其心必異︒而説法︑禁鋼諸王︑親戚隔絶︒不祥
莫大意︒問者︑無故︑叉瓜分天下︑立五等諸侯︒上不象賢︑下不議功︒市是非雑操︑例受茅土︒似権時之宜︑非経久之
制︒将遂不改︑此亦煩擾之人︑漸乱之階也︒云云︒
とある︒これから︑諸侯には封王といった意味の場合と公侯伯子男の五等爵をもつものといった場合とがあるのが知られ
る︒
同伝
には
さら
に︑
︵ 前
略 ︶
︵段
灼︶
臨去
︑遺
息上
表︑
目︑
・・
・・
遣息
頴表
言︒
・・
・・
其五
日︑
・・
・・
於今
︑国
家大
計︑
使異
姓無
裂土
専封
之邑
︑
同姓並拠有連城之地0
・・
・・
大晋
諸王
二十
余人
︑市
公侯
伯子
男五
百余
国
0・
・・
・諸
王宜
大其
園︑
増益
其兵
︑悉
遣守
務︑
使形
勢
足以
相接
︒則
陛下
可高
枕而
臥耳
︒臣
以為
︑諸
侯伯
子男
名号
︑皆
宜改
易之
︑使
封爵
之制
禄奉
礼秩
︑並
同天
下諸
侯之
例︒
云云
︒
とあ
る︒
﹁諸
侯伯
子男
名号
︑皆
宜改
易之
︑使
封爵
之制
禄奉
礼秩
︑並
同天
下諸
侯之
例︒
﹂と
ある
のは
︑
︵素
姓た
る諸
侯伯
子男
に裂土専封の邑を無からしめることを表裏一体をなすものとして︑︶素姓たる諸侯伯子男の︵郡県名を冠する︶名号ぞ皆改
め
︵ 除 く
︶ が
︑ た だ
︑ は こ れ を 残 し
︑ 同
旧来の封爵の制における禄奉礼秩︵H
封国
から
の収
入と
封君
とし
ての
待遇
と︶
姓として天下連城の地に拠有する諸侯と同じくすべきである︒
とい
った
意味
であ
るか
ら︑
天下請侯とある際の諸侯は封
また
︑晋
書巻
二礼
志上
乙︑
十 一
王を指し︑また︑諸侯伯子男とある際の諸侯は当然︑公侯の爵をもつものの意味となろう︒
及泰
始中
︑有
司奏
︑諸
侯之
園︒
其王
公以
下入
朝者
︑四
万各
々為
二番
︒三
歳而
周︒
周則
更始
︒・
・・
・︒
奏可
︒
とあ
り︑
晋書
唯一
ト一
斉献
王位
伝に
︑
︵鴻︶枕叉言日︑陛下︑遣諸侯之国︒成五等之制者︑宜先従親始︒親莫若斉王︒
︵ 前
略 ︶
とある︒この際の諸侯は︑封王と︵開固たる︶公侯伯子男爵を有するものとを併せて意味しているとすべ︑きであろう︒当
時の諸侯の語は通常右にあげた四つのうちのどれかを指している︒
話を
本筋
にか
えす
と︑
hr
︵A 且p
︶に
は﹁
東晋
元帝
太興
元年
︑始
置九
分食
一︒
﹂と
あり
︑ま
た晋
書一
七成
帝本
紀︑
戚和
元年
︵西
紀
三六年︶十一月の条には︑
改定
王侯
国秩
︑九
分食
一︒
とあ
る︒
そう
する
と︑
︵
A︶の﹁九分食一﹂の諸侯と成帝本紀の王侯とは同一のものでないとしなければならない︒当時王
侯の語は︑封王を意味する︒例えよ︑説志巻二武文世王公伝に引く注に︑l
十
愛子日︑現興︑承大乱之後︒民人損減︑不可則以古始︒於是︑封建侯王︑皆使寄地空名︑而無其実︒王国使有老兵百余
人︑以衛其因︒雄有王侯之観︑市乃傍於匹夫︒県隔千里之外︑無朝璃之儀︒鄭国無会同之制︒諸侯酷猟不得過三十里︒
叉為設防輔監国之官︑以伺察之︒王侯皆思為布衣︑而不能得︒既違宗国務界之義︑叉臨親戚骨肉之恩︒
とあるが︑この王侯はそうした意味である︒︵A
︶の
記事
にお
いて
︑
﹁諸侯﹂が太輿元年に九分食一となった諸侯以外
に︑それよりも上級の諸侯を含むのは︑
﹁始
置・
・・
・﹂
とい
うそ
の書
きぶ
りか
らし
て明
かで
ある
︒こ
の際
の上
級の
諸侯
とし
ては封王しかない︒つまり︵A︶の﹁諸侯﹂は封王と五等爵をもつものとをあわせたものとなる︒
さて
︑晋
書議
十鄭
沖伝
に︑
︵開
国︶
県侯
であ
った
鄭沖
︑何
曽︑
荷鎖
︑王
沈︑
羊枯
らに
対し
︑泰
始六
年︵
西紀
二七
O年
︶詔
して
︑
国置郎中令︑仮夫人・世子印綬︑食本秩三分之一︑皆如郡公侯︒
晋 爵 と 宋 爵
ノ、