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Kyushu University Institutional Repository
A study of the Mandokoro (政所 : government office) of Dazaifu
竹内, 理三
https://doi.org/10.15017/2334020
出版情報:史淵. 71, pp.25-54, 1956-12-30. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
大 宰 府 政 所 考
竹 内 理
八七二年︵貞観十ニ︶二月二十三日︑太宰大弐藤原冬緒は︑四ケ条の起請を進めたその第三条に︑
承前 之例
︑諸 国雑 米各 随其 本色
︑翰 納諸 司・ 諸所
︑而 或司 全納
︑ 用尽 既誌
︑或 所々 多致 未進
︑公 途有 閥︑ 至有 期会
︑不 得廻 媛︑ 況 復件 司等
︑監
・典 二人 勾当 麓務
︑或 特有 自由
︑亦 非無 判盤
︑賞 進 之怠
︑英 不縁 比︑ 縦令 一任 之内
︑殊 立厳 制︑ 猶恐 相承 之官
︑任 意
改更
︑自 非宮 符︑ 何立 後法
︑望 籍︑ 五使 料之 外︑ 庸米 井雑 米︑ 惣 納税 庫︑ 毎日 下行
︑若 非符 宣之 旨︑ 輔以 下用
︑監 当之 官︑ 准法 科 官 ︑
O三
代 E9
実録
と見える︒太宰府に︑諸司・諸所があって︑管内諸国の雑米を︑あたかも中央の百寮が︑それぞれ諸国の年料米を収納す
るが如くに︑収納していたのである︒そして︑それらの﹁司﹂には︑監・典のニ人が賛務を勾当していたとある︒然し︑
太宰府の此等の諸司・諸所については︑まだ充分知られていない︒本稿を草する所以である︒
︵
−
﹀
職員令は︑太宰府の宮人を次の知く規定している︒
主神一人隼誇祭調事︑帥一人単調社戸口簿帳︑字養百姓︑勧
課農 桑︑ 札察 所部
︑貢 挙孝 義国 宅良 蹟訴 訟租 調倉 慕循 役兵 士器 伎 鼓吹 郵駅 伝馬 蜂候 誠牧 過所 公私 馬牛 関遺 雑物 及寺 僧尼 名籍 蕃客 帰
化饗訴事︑大弐一人掌周帥︑少弐二人掌岡大弐︑大監二人
大 宰 府 政 所 考
掌札 判府 内︑ 審署 文案
︑勾 稽失 察非 謹︑ 少監 ニ人 掌聞 大監
︑ 大典 二人 掌受 事上 抄︑ 勘署 文案
︑検 出稽 失︑ 議申 公文
︑少 典ニ
人掌同大典︑大判事一人筆集積犯状︑断定刑名︑判諸争訟︑
少判事一人隼同大判事︑大令史一人準抄写判文︑少令史一人
二五
大 宰 府 政 所 考
一 一 六
掌聞大令史︑大工一人掌城陣戎器舟械諸営作事︑少工二人
掌同大工︑博士一人掌教授経業︑課試学生︑陰陽師一人
掌占鐙相地︑医師ニ人掌診候療病︑算師一人掌勘計物数︑ 防人正一人掌防人名綬戎具︑教関及食料団事︑祐一人隼悶上︑令史一人︑主船一人掌修理舟職︑主厨一人隼躍瞳釜葱醤
鼓鮭
等事
︑史
生廿
人
乙こにあげられた太宰府宮人は︑合計すれば五十一人である︒七
O
三年︵大宝三︶に太宰府史生十員を増すと続記にみえるが︑現脊の令が養老令であるとすれば︑この時の増員は︑史生ニ
O
人の中に含まれているとみるべきであろう︒七三O
年︵天平二︶太宰帥大伴旅人宅で行われた有名な梅花宴では︑大弐紀卿・少弐小野大夫︵老︶・少弐粟田大夫︵人上︶・主人
︵大
伴旅
人︶
−大監大伴百代・少監阿奥島・少監土師百村・大典史大原・少典山若麻呂・大判事舟麻呂・薬師張福子
−薬師高義通・神司荒稲布・大令史野宿奈麻呂・少令史田肥人・陰陽師磁法麻呂・雫師志大道の府宮人が歌を詠じてい
万葉
︒ 五 う し た 正 規 の 官 人 の 外 に
︑
七
O
八年︵和銅元︶には︑帥に八人︑大弐に四人の儀伎を給せられることになっており続紀︑令制では更に︑帥にニ
O
人︑大弐に一四人︑少弐に一O
人︑大監・少監・大判事に各六人︑大工・少判事・大典・防人正・主神・博士に各五人︑少典・陰陽師・医師・少工・雫師・主船・主麗・防人祐に各四人︑諸令史に各三人︑
史生に各二人ずつの事力を給する乙とになっている縛防︒此等の事力は︑給主の雑役に服する・ものであり︵職分田の耕作
なども行う︶︑総数一七二人となる︒その数は︑帥・大弐に儀伎を給する乙とになった翌年には半減せられたけれども︑
鵬︑七一六年︵霊亀ニ︶には再ぴ旧に復している畑︒軍防令に定めた事力の数は︑その旧に復した数であろうoまた七八
一年︵天応元︶の官符によれば︑府の学校には︑管内六国の学生・医生・算生二百余人ありとみえ謀格︑七九七年︵延
暦二ハ︶には︑太宰府の使部三
O
人とみえ珂上︑入O
六年︵大同元︶には︑大監・少監・大典・少典を各一員を増員し御齢︑翌年には︑府に直する使部二百人︑散仕一百人︑その宮仕を量って三等に分ち︑正税稲を借貸すと定め世間格︑八
一四年︵弘仁五︶太宰府算師一員を増員し胴上︑八二三年︵弘仁一四︶には︑主厨・主舶をやめて主域ニ員をおいた珊上
八二六年︵天長三︶には︑太宰府および九国二島の兵士を廃して︑選士衛卒を置いたが︑府におかれた選土は四
OO
人 ︑
衛卒はニ
OO
人であった︒このことを定めた官符には︑次のように述べている︒比府
者九
国二
嶋之
所幅
接︑
夷民
従来
︑
w m 賊
畑地
時︑
追捕
拷掠
︑可
有
什片
側︑
加以
兵馬
什足
︑飼
丁︑
草丁
︑賃
上梁
物所
︑作
紙所
︑大
野城
修珂
等︑
旧例
皆以
兵士
充︑
今尚
量︑
低比
二百
人︑
充件
雑役
船日
中山
LKmUFrJ
とみえる︒これ以前の府兵の数は明らかでないが︑恐らくこの時におかれた選士衛卒の数より少いことはないであろう︒
八四
O
年︵承和七︶さきに廃した主厨・主船を復一泊して︑大主城一員を廃し説︑八四一年︵承和人︶太宰府の曹百四O
を対馬嶋の防人に充てた蹴後︒府の曹とは如何なる者を指すかは明らかでないが︑曹は獄舎の意味があるから︑或は罪人
のことであろうか︒八九五年︵寛平五︶に博多警固所に夷停五
O
人を加えた咽一はとある︑伴囚に類するものであろうか︒﹂l J
また延喜式によれば︑太宰府鼓吹丁として︑筑前・肥後各七十二人︑筑後︑肥前各五十四人︑豊前・豊後各三十六人とあ
り︵計して三ニ二人となる︶︑府県土人︑太宰府に充てる仕丁として︑
伎各
三人
︑附
術開
人︑
学校
二人
︑脳
司二
人︑
税倉
二人
︑薬
一一
川一
人︑ 匠司 一人
︑修 理器 伎所 一人
︑守 客館 一人
︑守 辰六 人︑ 守駅 館
一人
︑儲
料二
O人
とあり︑引つづいて﹁主船一百九十七人︑厨一戸三百九十六畑﹂とある南部︒仕丁を︑仮りに少弐以下の官人が令制のまま の数であるとして計算すれば︑帥以下保伎に至るまでの仕丁総数二九五人︑それに府の各所司の守衛仕丁合計四一人︑両
帥 コ 一
O人
︑大
弐二
O人
︑少
弐一
一一
人︑
大小
限各
八人
︑主
神・
主工
・大
小典
・博
士・
明法
博士
・主
厨各
六人
︑九
日博
士・
陰陽
師・
医師
・算 師・ 主船 各五 人︑ 大唐 通事 四人
︑史 生・ 新羅 訳語
・努 師・ 様 者合せて三三六人︒乙れに主船司の駈使丁を加えれば︑五三三人となる︒これ以後︑太宰府宮人及びそれをめぐる准宮人
については︑九三五年︵承平五年︶に︑史生二人をやめて︑検非違使正権各一員をおいたことがある位で謀一符ある︒た
しかに︑職員令に定められた太宰府官人は︑計五
O
人を出でないけれども︑その宮人に供奉する慌伏︑駈使に従う事力・大 宰 府 政 所 考
仕丁等を加え︑更に府兵︑選士等を加えれば数千の数に達する︒此等の中には分審によって︑府につめる者もあって︑そ
七
大 宰 府 政 所 考 のすべてが常時府に居なかったとしても︑太宰府には府の外に筑前国街があり︑観世音寺・国分寺がある︒七六九年︵神
l¥. 護景雲三年十月︶大宰府が︑府庫に史記漢書後漢書三国志晋書の各一部を置かんことを請うた言葉に﹁此府人物股繁︑天
下之一都会也﹂とのべているのは蹴︑多少の鼓張はあるにしても︑虚構であるとは考えられない︒市も︑府の官人は︑時 を降るにつれて︑増加の傾向を示している︒
九
O
五年︵延喜五年︶勘造の観世音寺資財帳の奥に加えられた府官の判は︑
帥=
ロ一
岡兼
中務
卿親
王在
京
大弐
従四
位下
藤原
朝岡
田 従五位上行少弐源朝臣﹁輔行﹂
少弐兼筑前守従五位下藤原朝臣 正六位上行大監清原真人従六位上守大航藤原朝臣﹁百万﹂正六位上行少監平朝臣﹁季万﹂少
監 闘
正六位上行大典笠朝臣
正六位上行大典秦忌寸円
u
正六位上行少典御船宿禰﹁光万﹂
従六位上守少典秦宿繭門リ
とあって︑令制がそのまま遵守せられていることを示している︒
ついで九九三年︵正暦四︶安楽寺廟
K道真贈位の勅使下
向の際︑廟前に現じた佐異を奏した太宰府解の連署は次の如くなっている︒
中務卿兼帥四品親王在京
正三位行皇后宮権大夫典大弐藤原朝臣佐理 従五位上行少弐兼筑前守藤原朝臣説孝
少弐従五位下藤原朝臣延明権少弐従五位下藤原朝直孝友
権少弐従五位下紀朝国 正六位上行大典刑部宿繭
六獄
従三位下行権大監平朝臣致光
六鍬
大股正一位上藤原朝臣
六銀
大臨正位上藤原朝間正六位上行少監橘朝臣正六位上行少舵清原真人正六位上行少院秦宿繭精正
正六位上行少般消原真人
よhH
ハ位
上行
少山
内秦
宿繭
正六位上行少典伴宿繭如武
正六位上行少典腹部良広
となっており服闘諸制氏︑少弐ニ人の外に権少弐二人︑大監二人の外に権大典︑少監二人の外に二人︑少典二人の外に一 人と︑令制の官制がくずれ始めた乙とあこぶしている︒九九六年︵長徳二︶の大間警にも︑
主 太
宰 J,;J' 神
大雌正六位上半朝臣中方蚊章
権大政正六位上大中国朝臣範政問竪
一 口
vJV
縦少般車ハ一位上藤原羽田経則蜘伴院
口n M =
少典正六位上川部宿禰諸王停正瞬間二年内給美作大目坂上古忠改任 主 主 総 主 工 時 土 明 法 博 士 官 同 士 主 船 主 尉 大 唐 通 事 と見え︑権官が常置佑しつつあることを示している︒
更に
下っ
て一
O
二六年︵万寿三︶宇佐宮の佐異を太政官に報告し 大 宰 府 政 所 考
:IL
政 所 考
た大
府宰
解に
なる
と一
隷却
︑ 大
府 5ド 帥
闘 正三位行大弐藤原初也 正五位下行少弐兼筑前守高階朝臣 正五位下行少弐兼肥後守藤原朝臣
正六位上行大典豊国宿禰公職
従五
位下
行権
大蛇
藤原
駒山
回貞
清 従五位下行大東平朝臣季基 従五位ド行権大監藤原朝巨額業 従五位下行大股平初回 従五位下格少監菅野朝日 従五位下行少民大蔵朝国 従五位下行少監豊嶋真人時道 正六位上行少監安倍朝臣 正六位上行少監財部宿繭 正六位上行機大典建部宿繭 正六位上行椛大典大政朝臣 正六位上行大典上毛乃朝臣弘 毘六位上行大典財部宿繭 正六位上行機少典大中国朝臣
一 ニ ︹
J︶
とあって︑帥・大弐︑少弐二人︑大監二人︑権大監二人︑少監四人︑権少監一人︑大典三人︑権大典二人︑権小典一人と なっている︒令制では十二人であるところが十九人となっている︒また翌年の大宰府解には︑
帥 闘
正三
位行
大弐
藤原
初.
臣惟
慾
定五
位下
行少
弐兼
筑前
守山
川附
刷凶
成順
正五位下行少弐兼肥後守藤原朝臣致光
正六位上行大典財部宿繭 従五位下行総大蛇藤原朝国貞消 従五位下行大航平初回季ぷ 従五位下行大獄平朝国成約 従五位下行少阪大的制似
従五位下行少監豊嶋真人時道
正六位上行大典上毛野朝臣
正六位上行権少典大中居朝国
少典闘
少典闘
上O
同 となって︑太宰官人は増加の一途をたどっていることを示している︒今この前後の文書の連署によって︑大宰府宮人を示
すと︑次の如きおどろくべきものがある︒
﹂ d
ヨ八
︵長
暦一
一︶
一一
O四
五年
︵寛 徳二
︶二
OE
二年
︵永
一本
七︶
コ O五 九 到 劇 聖 司
コ
d
対川 平︵ 制同 四︶ 一寸
0・
叫一
ゴ丸
岡州
四
Ml一
﹂ 附 属
E
l −
− 同 時 帰
i l −
− − 同 時 牒
Ill
− 一 町 時 付 同
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隣 住 同 協 作
F
− − 一 I
大 監 平 朝 包
− 大 蛇 御 奉 納 凶 大 蛇 源 制 回 一 大 阪 一 段 胸 真 人 大 航 費 嶋 真 人 一 大 敗 秦 宿 繭 大 蛇 秦 宿 繭 大 殿 御 春 朝
大 臣
監 秦 宿 繭 大 監 秦 宿 蹴 大 艦 大 蔵 朝 巨 大 監 秦 宿 繭
大監日下部
大蛇安倍大舵藤原
大監藤原朝臣
大監菅野朝巨
大監清原権大蛇豊嶋真人 大監大蔵大監大蔵大監日下部大監御春権大監秦宿繭
権大監豊嶋真人権大舵藤原朝臣
椀大
監山
耳鳴
真人
権大監藤原朝臣
権大盤藤原朝臣
大 宰 府 政 所 考
大阪大賊朝毘
一大
監大
中国
制巨
大監藤原朝包
大監藤原朝巨
大監菅野朝臣権大隆盛嶋真人
権大腿藤原
権大監平朝臣
権大監紀朝臣
権大
佐川
大勝
朝臣
大監大蔵朝巨
大殴大中医朝巨
大腕組朝臣
大監紀朝臣大監藤原朝臣
大監菅野朝臣
権大路盤嶋真人
機大阪早部
権大監紀朝臣権大監大蔵朝臣
権大腿大蔵朝臣 大監紀朝原大監紀朝臣大監菅野朝臣椛
大監
出品
嶋真
人
権大盤組閣臣
権大監大蔵朝臣
少監大中臣朝臣
大 宰 府 政 所 考
少監豊嶋真人少監大蔵朝臣少監御者朝臣少監藤原
少監酒井
権少監紀
権少院大級
的代
紀
厳代大蔵監代大蔵
大典伴大典伴大典伴
大典
山
大典国大典上毛乃
一少
旅費
嶋真
人
一少
監大
蔵朝
臣
一少
大厳
蔵朝
臣
一少
臨御
春朝
臣
一少
監藤
原朝
臣
一少
舵藤
原朝
臣
一少
脱平
朝国
少臨酒井朝臣
一権
少聡
朝紀
臣
一様
少監
紀朝
臣
一権
少監
大蔵
朝臣
服一 代伴
一厳
代大
蔵朝
臣
一監
代大
蔵朝
臣
一臨
代大
中臣
一院
代布
勢
一院
代目
奉
一院
代円
U
天山
間紀
朝臣
天典和気朝臣
−大
菅典
野朝
臣
一大
典酒
井
少時
血豊
嶋真
人
少監大蔵朝臣少臨御春朝臣少舵藤原朝臣
権少監紀朝臣 権少監御春
院代伴監代大蔵
監代
丹波
︵丹
治も
︶
監代宗形獄代清原
大典紀
典大
山
少監藤原朝臣少監藤原朝臣少厳平朝臣少監口朝臣権少隠紀朝臣権少臨豊嶋真人権少監源朝臣権少駈源朝臣権少燈大蔵朝臣隊代和気朝臣監代小野朝臣監代丹治監代多治朝臣
監代多治朝臣監代清原真人大中臣大中巨大中居大典伴 少監豊嶋真人
少監藤原朝臣 少監藤原朝臣 少獄紀初臣
少監清原
権少隠豊嶋真人 権少隠豊嶋真人 権少院大蔵朝臣 隊代惟宗朝臣
監代
紀
監代
紀 監代藤原朝臣
監代速部
駈代大中臣朝臣 監代大中臣朝臣
大典
紀
大典
伴
少監藤原朝臣
少監多治真人
権少監多治真人
監代伴
厳代
紀 監代大中目
一権
大典
前旧
一少
典藤
一程
少典
山奥
一典
代宗
形
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代大
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二 十 八 人 一 一 七 十 一 一 人
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a十八人
権大典阿刀 少典大中国
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十 五 人 此等の位署の中に︑在判とあるのはその数少いけれども︑此等が仮空のものでないことは︑
一
O
六六年︵治謄二年︶観 世音寺に新造した仏像の胎内に納める法華経書写に︑都督の命によって結縁した大宰府官人智識に︑藤原師成・橘義道・
藤原邦通・橘資成・橘宗成・藤原斉型・藤原致国以下︑御春・平・菅野・紀・秦・大蔵・豊島・丹波・伴・山・宗形等の
山川
知的
︒太
宰府
の文
書三
連署
して
いる
宵人
の数
ば︑
平二
︶ 姓の人々があることによっても推測されるのである
の府政所下文の三六名を以て最高とする︒
r、
一 一
、
』J
一 O
五九年︵康延喜民部式下にある仕丁守衛の規定は︑大宰府の政庁の構造の一端を示すものと思われる︒これによれば︑府・学校・
蔵司・税倉・薬司・匠司・修理器紋所・客館・駅館に︑
それぞれ守衛がおかれた︒守衛のおかれると乙ろは︑
建 物 が あ り︑それぞれの庁所であったと考えることが出来る︒また八二六年の選士を充てた諸所に︑貢上染物所・作物所があった ことが知られる︒此等の諸﹁所﹂は︑大宰府政庁内において︑如何なる組織と機能を果していたのであろうか︒守衛四人
大 宰 府 政 所 考
大 宰 府 政 所 考
IL4
のおかれている﹁府﹂は︑後に論ずることとするc
先ず︑学校であるoここには守衛仕丁二人を置く︒府の学校のある一劃を﹁学校院﹂と称したことは︑一
O
ニ一年︵治安元
︶
の観世音寺牒に
請被
任道
理裁
断︑
学校
院別
当権
少監
多治
︑乍
日空
寸家
所領
公験
︑号
学校
院所
領四
至内
︑相
妨寺
領四
至内
地状
とあるのが初見である︒府の学校のことは︑続日本紀にも見え︑令制に定められた大宰府の博士は﹁教授管国学生﹂もの
であり︑初めは﹁経業﹂を教授する博士︑即ち明経博士一人であったものが︑間もなくして音博士がおかれ︑
︵延
暦十
八︶
明法
博士
がお
かれ
た古
川一
時間
航長
−
c医師及び算師も亦それぞれ算道・医道の教授を行った︒延喜式には︑
博士・明法博士・音博士・医師・算削がみえ︑ほかに学校なるものをみえ︑式部式上に﹁其六国学生︑医生皆集府下︑分
七
丸J
九
士I三
業教
習﹂
と見
える
︒
こうした教官以外に︑事務官として﹁学校院別当﹂があったことが前掲文書で知られる︒
こ の 文 害 は︑観世音寺が︑学校院別当が寺家四至内の領地二町許を越境してとりこめたととを訴えたものであるが︑その時別当が 証拠として提出した﹁学校院所持公験﹂は︑﹁去る天暦十二年六月二日の院司申文によって申し立てた﹂と乙ろのもので
院司も存在したことが知られる︒
ある
とい
う︒
これ
によ
って
︑
学校
院に
は︑
乙の
観世
音寺
の訴
は︑
在府
官人
によ
って
︑
﹁任年来例領掌﹂との外題が加えられたが︑学校院の攻勢は止まなかったらしく︑一
O
四五
年︵
寛徳
二︶
︑太
宰府
政所
は︑
学
校院及び府老千兼等に対して︑観世音寺田至内の南及び西万を押妨することを停止しているオ追悼城一蹴崎限付誠一徳︒一
O
五八年︵天喜六︶には︑再び観世音寺は︑守家の阿至内の開発回二段を︑学校院領と号して地子米を勘資することを停止 せんことを府に訴えている噌清一誠附諮削除下寺家四五内の開発回二段と称するのは︑
溝﹂とあり︑観世音寺の寛平五年十一月一日の流記資財帳には︑
は︑観世音寺に理ありとの裁定を下した胴限界一知廿七o 学校院公験には﹁東限松埼小
西限松岳井学校東小道﹂とある土地で︑太宰府政所で
一
O
六八
年︵
治暦
四︶
にも
︑
学校
院院
可が
︑
丞に腸示を書13d
改めて︑学校院東小道の東地二段を横妨したと︑寺が訴えている胴船唯一刻叫ん九︒此等の事件は︑学校院と観世音寺との境 界線を示すと共に︑学校院院司の職掌!学校院の経済的経常ーをも暗示する︒果してこの頃まで府学が︑学校としての機 能を果していたかは明らかでないが︑学校院そのものは健在であったといえる︒因に︑学校院を学業院と称するに至った
のことを記した次の記事が︑管見に及んだ初見である︒ のは︑鎌倉時代の日記民経記寛喜四年︵貞永元・一二=三年︶三月十六日の条に︑当時京都の大学技にのこる孔子等の像
唐木
一地
一一
巾一
冊己
此事︑士口備大田渡府第二度之時︑給弘文館本︑帰朝之問︑忘件
︒︒
︒︒
︒︒
本不入子船︑而孔子於海中飛︑俄入船中︑随身世大卒府学業院
云々︑経伝卿為大半帥之時︑初凶見学業院之円︑一則同
m w 剛
山切
川
臼也
︑経
伝卿
︑司
学業
院脅
老等
同︑
州胤
回−
政切
失子
制之
処︑
嘗老
云︑件影者士口備大臣自唐渡来︑先奉安置比院︑数日之後︑欲
4F
とある文である︒江次第紗・二月釈尊の条に︑
或日
︑古
口術
大臣
入唐
︑持
弘文
館之
耐像
来初
︑安
川胤
太宰
府学
業院
とあるのは︑江次第の原文ではなくて︑
一条
米良
の註
記で
あろ
う︒
﹁兵馬所﹂については︑梢明らかにし得る︒中央にも兵部省の被官に兵馬司があって︑
波山
川城
之処
︑海
中物
嶋︑
大臣
驚惟
之問
︑奉
入孔
子摘
自︑
然発
解
山崎
博︑
計共
数一
鋪日
以不
足︑
以是
大鰐
︑如
本帰
学業
院︑
奉尋
之 処︑如本令懸給︑帰上之時如初︑叉発見如初帰県︑的被子船中
第二
度能
令封
納之
処︑
経二
日於
海中
叉帰
失︑
品の
川川
見之
処︑
阪阿
閉山
件皮
失切
云々
︑大
国共
時山
内帳
︑以
百済
師絵
︑於
学業
陥窄
問︑
以新
渡本
大学
寮云
々︑
凶大
父命
百済
両側
︑前
向十
図彼
木︑
院大
学祭
一五
々 正一人掌牧及兵応部駅公私馬牛事︑伯一入︑大令史一人︑少令史一人︑使
m J
ハ人︑
一白
了一
人︑
と職員令にみえる︒大宰府にも︑兵馬ニ
O
疋があって︑飼丁・草丁が居ることは︑前掲入ニ六年︵天長一一︶選士・衛本モ
これは兵馬所の組織をかなり明
らかにするものである︒日く 置いたときの官符に見え︑兵馬所の名は︑九七五年︵天延三︶の兵馬所解が初見であり︑
大 宰 府 政 所 考
五
大 卒 府 政 所 考 兵馬 所解
申請
府符 事 被載 不可 領知 旅田 漆町 情捌 拾歩 状 た郭 九条 十二 防問 段︑ け二 条三 防八 段一 二防 内三 段︒ 右郭 十六 条八 防三 段︑ 廿条
三防
七段 百八 十歩
︑七 防八 段︑ 竹 二︵ 一︶ 条二 防八 段︑ 三防
八段
︑六 防八 段︑ 廿二 条二 妨八 段 三防 八段 右︑ 被去 十月 什日
符到
来係
︑件 旧観 世音 寺山 品住 大悲 観音 井新 造
薬師
・十 一面
︑延 命凶 鉢尊 像等
常総
分料
︑以 今月 十一 日施 入己 了︑
所笠
承知
︑向 来一 大延 同年 春不 可鎖 知︑ 旧政 所院 料先 年所 制 度株 間十 町稼 国等 依停 止︑
彼院
如本 猶所 之可 領也
︑其 内十 六条
ノ
」 −、
八防 三段
︑廿 一条 ニ防
八段
︑六 防八 段︑ 廿二 条二 防八
段︑
三防
九段
芥山
町コ
一段
︑在
比施
入之
内︑
除此
之外
既可
返領
者︑
所器
開如
件以
解︑
天延 三年 十一 月什 同日 別 当 少 監 藤 原 在 判
保伎長清原邦縁
蔭孫高階理家 白人代建部
勾当百済
4寸前
海 原 在 判
執当ホ染末貰−J
H臼U
し 即ち兵馬所には︑株田・稼畠があり︑別当・勾当・執当・官人代と︑四等官制らしき職員もおかれたことがわかる︒但
門人代小沼凶O 内閣文庫文書 乙の文書は︑時の大宰大弐藤原岡章が︑制批音寺の観音放びに新造の薬師・十一面・延命像の泊燈料問として︑兵馬
所稼田を割きとって施入した乙とを︑兵馬所が諒承した請文であるので︑兵馬所本来の機能が維持されたと考えるのは困
から︑称旧の変質は︑ 雑である︒大弐国章の兵馬所椋旧抱入ずる代りの条件として︑先年割きとった称田十町を政所院に返却すると称している
これ以前からであると見なくてはなるまい︒政所院は︑兵馬所の政所院と思われる︒兵馬所の官人 は︑政所院にあって︑有形無実の兵馬所回の所得のみに預かる職掌と佑していたのであろう︒あたかも同じ頃︑観世音寺 でも﹁検彼寺代代進府用途帳︑所載雑用己以有其数︑就中寺女奴牌多有其名︑今尋実情︑巳是無身︑而称彼常食︑徒備立 用︑為僧有罪︑為寺無益﹂ということが指摘されている吋同一強位附版制永延一一
o兵馬所は︑九九八年︵長徳四︶に至っ
て︑さきの国章施入の三仏常燈田を︑兵馬田と号して作人を徴寅し︑同時に同じく大宰官人の施入した左郭十五条十一防 三段︑十六条十一防三段︑廿条十一防七段︑廿一条十二防四段︑右郭入条五防七段︑四条八防二段の田地の奪回をも企て ている︒これを訴へた制批音寺牒に対して︑大弐は︑牒状を大帳所兵馬所に下して勘・悶・せしめ︑ぺ或無所拠公験︑或不見脳
入文書︑然而神社仏寺之施入︑宜免兵馬所口口︑以寺家令進止之﹂と判している哨設問限郡山細川十︒ 弘三︶にも︑観世音寺が︑その四至内と称する左郭二条十二防︑三条十二防︑九条十一防の内の田地を︑兵馬田と注して
0 0 0 0 0 0
入費していることを訴えられているが︑乙の観品川音寺牒には︑左兵馬司と見え︑且︑﹁右兵馬田﹂﹁左兵馬田﹂の名が見え
る出
羽一
以帥
限諮
問肝
心十
c
してみると︑兵馬所は左︑右二司に分れていたのであろうか︒一
O
三五年︵長元八︶にも︑観川 音寺は︑寺家南大門︑筑前国分寺︑市町垣内︑赤披浦︑東材寺背等の寺田を︑兵馬所が妨げると訴へている︒太宰府公文
所で
は︑
兵馬
所間
同日
八小
動中
臣師
信宇
佐召
聞し
た間
間前
一殺
到一
世一
畑一
候蜘
欄脚
立円
寺
o
ここに兵馬所に直人があり︑庁頭なる職掌が あった乙とが知られる︒兵馬所と観世音寺との︑永年にわたる相論は︑
によって︑結末がつけられた︒
政所下克右両郭
可停兵馬所防A
口徹
判官
寺領
知都
内作
出一
︑明
木領国拾壱町玖段弐倍漆拾歩
左郭
玖同
時町
段弐
情漆
拾歩
弐条陸坊弐段︑拾弐坊弐殴柄捌拾歩参条玖坊参段半︑拾弐 坊弐伯漆拾歩帥時条捌坊参段︑玖条拾壱坊壱段︑拾弐坊同時 段︑拾臨時条拾壱坊参段︑拾伍条拾壱坊参段︑拾陸条拾壱坊 参段拾玖条拾坊五段︑弐拾条拾壱坊漆段︑弐拾壱条拾弐坊 建段︑弐拾弐条参坊捌段︑慰坊内参段︑
右郭漆町
建条捌坊弐段︑漆坊弐段︑捌条伍坊漆段︑拾隙条捌坊参政 半︑弐拾条参坊一機段半︑漆坊捌段︑弐拾壱条弐坊捌段︑参 坊捌段︑陸坊捌段︑弐拾弐条弐坊捌段︑参坊捌段︑
大 宰 府 政 所 考
一 OO
六年
︵ 施
一
O
三八年︵長暦ニ︶の︑二通の太宰府政所下文
問者内関川捌段
学校以従小巡以弐段︑前大門鳥居凶壱段︑市大門東大野河
北弐段︑京大門北大野河西参段
右被上京一去︑件坪坪凶比校寺公験之処︑己入共同.主之内︑侭 至本領出者︑領知可然︑於新開山託︑難問至内︑非可必領︑然 而事縁者根︑可従優免︑宣卿在地郭︑停兵一均所妨︑永令寺家領
者︑所卿如件︑部宜承知︑依立行之
長崎二年二月十六日大獄平利凶
権大阪秦宿繭ヘO以ド署名略す︒前掲府Jf
白人
位里
引表
参担
刊の
乙と
﹂ 政 所 下 兵 馬 所 応任先判旨︑免除観世音寺所領市町局内開発問弐段之事︑
七
大 宰 府 政 所 考
l¥
右︑得彼寺司解状係︑諮被任前々御判旨︑裁許領掌為兵埼所︑
被妨領寺領市町白内開発問弐段状︑右件市町畠為寺ト領経年序 也︑市依有水便所関等也︑而依前々如必妨︑進府申文之処︑任
理被免除己了︑而今有比妨︑の宮口上如件︑望諮府裁︑任前々御
判旨
︑被
免除
者︑
督w m
柑崎
原卿
宣︑
件旧
任先
判国
問︑
可免
除之
山下
知者︑所仰如件︑宣知状︑依宣免之︑
大股平朝臣ヘO
以下 箸戸
戸名中略︑
長暦二年三月八日O内閣文庫文書
一
O
七二年︵延久四︶に至って︑上掲文書に見える右郭二十一条ニ坊︑二十二条二坊から勘出田を勘出
これを兵馬所領と主張した担軽一龍一議一一戸︒府政所では︑﹁前兵馬所百四師吉之時︑己無其愁︑愛吉助沙汰之問︑今
有此
訴﹂
とて
瑚時
一一
議⁝
六︑
兵馬
所を
して
寺家
に免
除せ
しめ
た割
以鳩
山川
叫ん
六
o兵馬所預師吉は︑一
O
三五年の相論に召間さ︒
︒
︒ れた直人庁頭師信と︑その名に類似が感ぜられ︑預は︑庁頭と同一職掌であろうか︒兵馬所の名は︑これを最後とする
然し
兵馬
所は
︑
して
︑
が︑
これ
によ
って
︑
一一世紀までは︑なおその存在をたしかめることはできた︒
,曲、、
一 一
、』..,
次に客館は鴻瞳舘であらう口平安期にみえる﹁蕃客所﹂は︑大宰帥の職掌に﹁寺僧尼名籍蕃客帰化饗諜事﹂とある部分 ぞ担当するものであらう︒蕃客所の組織の一端を示している︒延喜民部式に︑
﹁凡
大宰
府蕃
客儲
米三
千八
百品
川石
︑若
経年
致損︑便充公用︑廻旧収新供事﹂とみえる︒次の文書は︑
輩 骨
客H L
川
注進
呉楽
所役
一事
正月修善上七何日所役
同月十五日安居初所役
0 0 0 0
とあり︑務客所に執行・監代があり︑制川背寺の仏会の呉楽役を劫仕していることが一不されている︒執行山村助疋は︑地治
七月十五日蓮花会所役
JM
作一
的役
︑一
し庁
︑川
注進
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︑
応徳二年九月日
執 行 山 村 助 庫文書 内閣文O 正
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六年には観世音寺音楽々頭監代︑山村助正とあって耕一︑観世音寺楽頭を兼ねていたのも︑
り先
︑一
O
一二年︵寛弘九︶には︑審客所勾当調公武が︑観世音寺から︑呉楽頭伴師高死闘替として︑呉楽頭に任命され ているのも知世︑これが以前からの例であったことを示している︒而してこれは︑蕃客所が主として華客の饗応をなすも のであることを意味する︒令の帥の職掌に﹁蕃客帰佑饗諜事﹂とある部面を分担する所であるわけである︒太宰府におい
その
職掌
柄で
あら
う︒
これ
よ て蕃客を耕一するに楽を用いたことは︑大分さかのぼるけれども六八六年︵朱烏元︶新羅使が来朝したときに︑彼等を饗す
るために︑大和の川原寺の伎楽を筑紫に運び︑その代りとして皇后宮の私稲五千束を川原寺に納めたことが書紀江与える
が︑こうした乙とがずっと後まで行われ︑その順備がされていた︑と思われる︒
観世音寺の呉楽は︑七=二年︵天平三︶に伎楽面二十三積に装束を添えて施入し︑筑前国の料物を以て安居御願初後に 呉楽を勤仕することに始ったが理斌削除事一三︑その後︑長保頃批判前国からの料物下行が行われなくなり哩肘臨時都知
呉楽係丁四十二人の功稲八百三十東代として︑早良郡の田八町四段が充てられたが︑一
OO
五年︵寛弘二︶糟屋西郷に改められている哨性一括的問賠街︒蕃容所の官人が︑観世音寺呉楽々頭を兼ねて︑寺の所役をなすことは︑大宰府が蕃客郷軍離
に用うる呉楽を︑寺の呉楽に依脊していたためと察せられるが︑審客所の官人は呉楽団を蕃客所領佑しようとして相論を
起し
てい
る聞
社一
龍一
明一
店主
⁝広
が観
O
大宰府の鴻瞳館の所在地については︑現在の福岡市平和台上という説と︑官内町説とがあるが︑その名の初見ば︑八三
七年︵承和四︶続日本後紀三月丁亥の条に︑
遺出
粗大
使藤
原朝
臣常
嗣出
自鴻
服︑
発向
太宰
府
とあ
る記
事で
あり
︑
ついで八四七年︵承和十四︶九月の入唐求法巡礼行記に︑
十七
日到
博太
西南
能挙
嶋下
泊船
︑十
八日
鴻胸
館前
︑十
九日
入館
止︑
大 宰 府 政 所 考
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大 宰 府 政 所 考
阿
0
とあるのである︒次は三代実録仁寿二年
戸八
五ニ
︶ 十二月発禾条の小野筆の伝に︑
承和
五年
︑比
太宰鴻瞳舘に唐人抗
道古なる者が居て筆と詩賦を唱和したとみえる︒入六九年︵貞観十一︶には︑統領一人選士四十人甲由阿四十具を鴻圃館に
﹁榔与鴻阻相去二駅﹂とある官官︒森克己博士の﹁日宋貿易の研室六九
t
七O
頁一
O
九一年︵寛治五︶である︒寛治五年は蕃客所の名が文献の上遷して︑不虞に備えしめた官符に︑
にかかげられた鴻瞳館表によれば︑
その
最後
の所
見は
︑ に出没する時期である︒延喜兵部式に︑
凡大宰府定額兵馬二十疋之中︑十疋牧馬十疋並分置鴻目舘︑備急速之儲︑
とあり︑叉延喜交替式には︑
凡大宰府蕃客儲米三千八百冊斜︑若経年致損︑便光公問︑廻回以新︑旦行旦申︑
とあるが︑市も鴻瞳舘に常置の官人のおかれた乙とを示す史料はない︑職員令玄審寮の条に︑
﹁頭一人・掌仏寺僧尼名籍
供済・蕃客辞見・訴饗送迎及在京夷扶・監当館舎事﹂とある﹁館会己は義解には﹁鴻臨館也﹂とみえ︑集解に︑
釈云︑謂一尽及摂津国舘舎等︑古記云︑舘舎謂在京及津国舘舎者惣検校也︑
とあるのを併せ考えれば︑太宰府の審客所は入省中の玄蕃寮に当り︑府の鴻腫館ぞ監当するものであらう︒
審客所に関連するものに︑主厨司︑主船司︑警固所がある︒職員令には︑
一主厨↑は単に陸臨婆醤鼓鮭の事を掌るとあ
るの
みで
ある
が︑
入四
O
年︵承和七︶九月二十三日の官符に︑主厨司一員正八位上官
右制令之臼︑箆憤主厨︑所掌之職︑最在蕃客︑加以供御之儲不可闘乏︑
Oご 一
代
核五
とみて︑春客の饗応がその任の最たるものであり︑従ってその所在地も︑貞観十一年新羅侵入警備の夷停を﹁鴻臨館弁津
厨︶に配置したとあるように定鰍︑博多津︑鴻臨館の近辺にあったo
また主厨司の御設の貢進は︑延喜内膳式︑
大宰府 御取飯間百五十九斤︑組鍛五百十八斤十二袋︑諸問鍍八百五十五
斤十
五義
︑陰
緩八
十六
斤一
ニ媛
︑羽
割毅
品川
九斤
一飯
︑火
焼飯
一一
一百
姉五斤凶暴︑己上調物︑鮒鰭一百七十八斤五缶︑錨鍍一百八斤
とあ
り︑
宮内
式に
︑
三缶︑曝演鍍二百九十六斤九缶︑甘魔鰻九十八斤二倍︑己上中
男作物.鰭年魚二百廿三斤六缶︑煮塩年魚八百叫川九斤什缶︑内 子鰯年総叫川六斤一缶︑己上梁作︑鯛醤問斗八升二缶︑宍臨二斗
三升一缶︑蒜房涜一石五斗七升六缶︑以上厨作
とみ
え︑ 凡大宰所貿御軸同者︑調物二千二百九十二斤︑中男作物放梁作弁麗作物斤物一千七百七十八斤︑斗物二行二斗八升︑
これを貢上する御賛使として︑厨造・書生と使一人が当った蹴︒延喜民部式に︑大宰府厨戸三百九十六姻とある のは︑此らの御賛を採るための海夫であらう︒八六二年︵貞観四︶九月二十二日の官符に︑
七百八十余担とみえるが長格︑一
OO
四年︵寛弘元︶の大宰府牒に︑議一︑料米が料田佑したことを示している︒
次に﹁主船司﹂の名は︑
管見
の及
ぶと
ころ
︑
﹁厨司・染所五使等料惣三千
﹁遍知院料︑且寄主園司領田弐拾町﹂
と み え
入唐五家伝に収める頭陀親王入唐略記に︑高岳親王
貞観
三年
八月
九日
︑
集解の﹁主船一人﹂の註に︑
此即
所新
造者
︑ が難波津から太宰貢綿船の帰船に乗じて太宰府鴻瞳館に著くや﹁主船司香山弘貞申府﹂とあるのが唯一の例である︒然し
故此司唯掌修理也﹂とあって︑而も大宰府の条の註に
主船司の寄在を示しているとみてよからうc
﹁大
工職
隼云
舟械
︑
﹁司
﹂と
称し
てい
るの
は︑
この
項だ
けで
ある
︑
八四
O
年︵承和七︶再び復活したその理由は︑四︶主厨と共に一時停止されたが︑案鮮問式云︑簡練舟械︑備於不良者︑加以年中例−武絹綿舛御賛
別賞等物︑毎年有数︑の常雇民船︑多賀正税︑叉遣唐姐使所乗
之新緩船︑授於府街︑令伝彼様︑足君主船之所掌者也︑其大唐
主船
は︑
八二三年︵弘仁十
通事
有職
無掌
︑設
諮︑
−見
出臨
主船
︑停
兼通
事︑
即充
倍加
入︑
令護
其 船
︑
︒ ゴ 一 務 代 五 大
宰 府 政 所 考
とある︒主船司の職掌が明らかである︒延喜民部式に︑﹁主船一百九十七人﹂とあるのは︑船を護るための格丁であらう︒
凹