九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Marx's Theory of Value and the Logical Analysis: With Relation to Prof. Aomi's Comments on Mar
刀田, 和夫
https://doi.org/10.15017/4475264
出版情報:經濟學研究. 46 (4/5), pp.229-248, 1981-10-10. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
—碧海純ー教授のマルクス批判に関連して一一—
刀 田
和 夫
目 、h
/人
はしがき
1. 論理分析の見地から見たマルクス価値論の問題 点ー一価値の定義と指示対象
2. マルクスの「価値=労働」の説明の難点とその 原因ー一価値の指示対象の不明確
3. マルクスの価値の指示対象,分析次元,「価値=
労働」の説明と価値の定義の必要性
4. 価値の定義,価値の原因—ォーストリー学派
の価値論の検討から 5. 財の生産と価値
は し が き
碧海純ー教授は,論文「マルクスの労働価値 説における説得定義と本質論」1)において, 論 理分析の見地から,「商品の価値とはその生産 に投入された労働である」というマルクスの労 働価値説の言明(以下簡略化のため碧海教授に 倣って「
V=L
」と略記する)を検討し, それ は経験命題(真偽を問うことのできる経験的事 実に関する言明)としての要件を欠いており,この言明はむしろ「一種の定義〔規約定義〕
と し て 捉 え る こ と が 論 理 的 に は 最 も 自 然 で あ る」2) と結論している。しかし定義であるとす れば,「
V=L
」という言明は,「価値」という 語の意味,用法についての決定または規約を表 現するものでしかないから,この言明には,経 験的事実として「価値」を労働で説明するとい 1) 岡田与好他編『社会科学と諸思想の展開』所収。
2) 上掲書, 32ページ。〔)内は引用者の付加。
以下,特別の断わりのある場合を除いて同じ。
う内容は帰属しえない。そして「
V=L
」 を 定 義と解するならば,「労働のみが本来的に価値 を造出しうるのであり,従って労働以外のも の,たとえば資本は,価値の源泉ではありえな い」”—すなわち利潤(剰余価値)の源泉は労 働である一ーということは,「定義から演繹さ. . . . . . . .
れる論理必然的な(従って経験的に無内容な)
タウトロギーである, という結論は避けられな い」4)。要するに論理的性格の面から見れば,マ ルクスの労働価値説も,それに基づく剰余価値 説も,共に経験的には無内容なものでしかな ぃ,ということになってしまうのである。
このような帰結が,マルクス及びその擁護者 にとって到底受け容れ難いものであることは言 うを待たない。碧海教授はマルクス擁護者に対 して,同論文で示されたマルクス価値論の「論 理的な困難がいかに回避できるかを明示して頂 きたい」5)と問うているが,以下の本稿の目的の 一つは,同教授のこの問いに答えることにあ る。ただ,念のため断っておくなら,本稿の意 図するところは,碧海教授のマルクス批判を根 拠なしとして全面的に退けることにあるのでは ない。同教授が述べているように,「
V=L
」の 言明が経験命題であるためには,この言明とは 独立に「価値」の定義が存在すること,あるい は「価値」の指示対象が明確であることが不可3) 同上, 24ページ。
4) 同上。傍点は引用者の付加。以下同じ。
5) 同上, 25ページ。
経 済 学 研 究 欠である。ところが本稿1, 2節でも詳しく見 るように,前者については同教授の指摘の通り 全然存在しないし,後者については,同教授の 主張するように全く不明とはいえないまでも,
十分に明確であるといえないことは否めない事 実である。『資本論』冒頭章の価値論が難解であ ることは衆目の一致するところだが,われわれ の見るところこの難解さは,以上の点にも見ら れるように,彼の分析が,論理的に見て経験命題 としての必要条件を十分に満していないこと,
及びこれと相侯って分析が不適切であることと 無関係でない。そのことのために彼が一体何を 問題とし,何を説明しようとしたのか,あるい はまた彼が分析によって「導出」したと称する
「価値」が何を意味するのか,これらのことが 極めて不明確なままに残され,さらにはこのこ とと不可分であるが,「
V=L
」の説明自体が,十分な論拠を示さないままなされるという結果 になっている,と思われるのである。こうした 判断から,本稿では,ある面では碧海教授のマ ルクス批判を受け容れ,論理分析の見地を念頭 に置きながらマルクスの価値論を検討して,上 述の経験命題が具備すべき諸条件が彼の価値論 にとって不可欠のものであることを明らかに し,同時にこれらの諸条件を補って彼の価値論 を再構成することで,彼が不明のまま残してい る上述の諸点の解明を行ない, また「
V=L
」 の説明を,明確な論拠を示して十分納得のいく やり方で行なってみたい。1 .
論理分析の見地から見たマルクス価値論 の問題点ー一価値の定義と指示対象 碧海教授によれば, マルクスの「
V=L
」と いう言明を経験命題と解することができるため には,「『価値」という多義的な語がどのような第46巻 第4• 5号
対象又は性質(この場合には,おそらく性質)
を指示するかが,十分に明晰な定義によって明 示されているか,それとも,少なくとも外延的 には既知のものとして論者の間で意見の一致が なければならない。分説すれば……(1)明晰な 定義の存在, または, (2) 問題の用語の外延
〔指示対象〕についての論者の合意が」1) 必要 である。ところがマルクスの「
V=L
」 は , 上 述の二つの条件のいずれをも欠いているという のである。先ず (1)の定義の存在については,同教授 は,「私の理解が誤っていなければ,『資本論』
においても,マルクスーエンゲルスの他の著作 においても,『価値』の明晰な定義は与えられ ていないように思われる」 という。 し か し
「そうだとすれば,『AはBである』という文に おいて主語『A』の指示する性質が明示されて いないことになり,従ってこの文全体の意味が 不明である」3) という帰結は避けられないので
ある。
たしかに「価梱」の定義が与えられていない という点は,われわれも認めざるを得ない。こ の点での碧海教授の理解には誤りは全然ないと いっていい。たとえば『資本論」では,マルク スは,商品の交換価値を分析の対象とし,先づ
「交換価値は……それ自身と区別される或る実 質の……『現象形態』で」あるという結論を導 き, 次にこの「或る実質」を, 「1クォーター の小麦=aツェントナーの鉄」という「等式」で とらえられた,交換関係にある商品がもっ,等 量の「共通物」と等置し,「或る実質」の何た るかをこの「共通物」の究明として行なう。そ 1) 岡田他編,前掲書, 20ページ。点線部は引用
者による省略部分を表わす。以下同じ。
2) 同上。
3) 同上。
して彼は周知の「蒸留法」によって商品の使用 価値の捨象を行ない,抽象的人間労働の「凝固 物」「結晶」を導出し,最後に, そしてこの点 が最も重要なのだが,商品のこのような側面を
「価値」と呼んだのである。つまり「価値」と いう語自体が,労働が導出される以前には全然 出て来ない。そして「或る実質」あるいは「共 通物」を説明するものとして労働が導出される と,そこではじめて「このようなそれらに共通 な社会的実体〔抽象的人間労働〕の結晶として,
. . . . . .
これらのものは価値ー商品価値なのである」と 出 て 来 る に 過 ぎ な い 。 し た が っ て マ ル ク ス の 叙述の実際から見れば,「価値」の語に関する限 り,彼は,商品に投下され結晶している房鍼全
「砿砿」こゑィ守ら
f
・こにすぎない, と判断するほ かない。この限りでは彼の「V=L
」 と い う 言 明は,論理的には定義と解されても仕方のない ものであることを認めないわけにはいかないの である4)0ただ,「価値」の語は,マルクスの直接の先 行者であった一一彼が継承し,また批判もした ー一古典派経済学でも一定の意味をもって用い られていたものであり,また古典派以外でもそ の語は存在する。さらに学問用語は別としても,
現在に至るまで日常生活において一定の意味を もって使われて来たものである。勿論それらは 非常に多義的ではある。けれども,論理的には,
それらの中から適度に選択して「価値」の定義を 与え,「
V=L
」を経験命題として構成する余地 がないわけではない。われわれはそれを本稿で も後で試みる予定であるが,それが有意味であ るためには,少なくとも「価値」の外延・指示 4) 本パラフの引用はすべて, 『資本論」岡崎次郎 訳,国民文庫版 (1), 75‑77ページ,からのもの である。対象が明確でなくてはならない。この意味でさ しあたり決着をつけておかねばならないのは,
条件 (2)であるといえよう。碧海教授はこの 点について次のように述べて,「価値」の外延.
指示対象の存在を否定する。
「一般に,『A』の意味が定義によって与えら れていないばあいにも,その外延〔指示対象〕
が,実際上は『わかっている』 (bekannt)なら ば,『AはBである』を経験的に意味のある・・・・・・
発見を内容とする文と解することができる。こ のようなばあい,『AはBである』という型の文 は, しばしば, 田辺元博士流に言えば, 『ベカ ントなものからエァカントなものへ』の認識の 深化を表わすものでありうる。『虹とは,大気 中の水滴による太陽光線の分散によって生じた 円弧状の色彩帯である』というばあい,主語に 当る『虹』がいかなる現象を指示するかは,古 来から常識的に『わかって』いたのであり,上 の文は,太陽光線の性質や光の屈折に関する科 学的知識の応用によって,この現象を解明する
ものである。・・・・・・我々の当面の関心の対象 『V
=L
』においては, しかし,上のような意味で『価値
J
というものが『ベカント』である, と は言い難い。」5)しかし,マルクスが述べているところでは,
「価値」の指示するものは明白で,交換価値の 分析から推論によって与えられた,交換価値が それの「現象形態」である「或る実質」であ り,二商品の交換関係の「等式」から推定され た等量の「共通物」である。そしてマルクス経 済学者の多くは, これが究明されるべき対象で あり,この意味で「ベカント」であると倣して いるのである。だから「『ベカント』である,と は言い難い」というためには,いささか経済学
5) 岡田他編,前掲書, 20ー21ページ。
経 済 学 研 究 プロバーの領域に入ることになるが,少なくと
もマルクスの分析及び推論の誤りを指摘する必 要がある。けれども碧海教授は,
働価値説に関するラッセル
て, これに代えている。
によって,
リカードの労 (Bertrand Rus‑
sel)の叙述をひき合いに出しながら, 内容的 には近代経済学者の多くが主張する労働価値説 に関する周知の考え方を支持することによっ
「勿論,或る解釈をテンタティヴにとること
『V=L』を経験的言明としてウム ドイテンすることは不可能ではない。そして古 典派経済学における『価値』の概念は,多義的 ではあるにせよ, こうしたウムドイテンを拒む ものではなかったのである。……ここでラッセ ルによってリスティトされた形における労働価
. . . . . . . . . . . . .
値説は,明らかに,交換価値の巨視的な収敏に関
. . . . . . . .
する経験的な仮説として述べられているのであ り, しかも,きわめてかぎられた条件のもとで 近似的にのみ妥当する理論であると考えられて
いるのである。
て,
リカードの説はともかくとし マルクスの労働価値説をこのように『狭少 で平板な』仮説にまで『俗流化』することは,
オーソドックスなマルクシストには到底しのび がたいことであろう。」6)
つまり「交換価値の巨視的な収敏」したがっ て価格の決定に関する仮説以外には,「V=L」 は経験命題として存在する余地はない。
マルクスのねらいはそれにはないから,
経験命題ではありえない。
経済学者
J .
しかし これは したがって「価値」
の外延・指示対象は存在しない,
ある。
と い う の で
このようなマルクスの労働価値説批判が近代 ロビンソン等のマルクス批判と軌 をーにするものであることは明白である。彼女
第46巻 第4• 5号
は,『質本論』第1巻冒頭章におけるマルクス の価値に関する叙述を論評して,次のように述 べている。
「ここでは,価値は価格を説明する,価格以外 のなにものかであり,
なにものかによって説明されなければならない ものである。 したがって,
って説明することは単なる一個の主張にすぎな
. . . . . . . . . . .
ぃ。もしわれわれが,価値を商品の生産に必要
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
とされる労働時間と定義し,そしてこの意味に
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
おける価値に比例した価格で,商品の交換が行
. . . . . . . . . . . . . . . .
なわれるのが正常であるという命題を提出する ならば, そのときわれわれは,
の形而上学的論述から一つの仮説に変形してし まったのである。
「V=L」が,
L」は
そしてそれ自身,
しかし,
それを労働時間によ
それは吟味してみる ことが時間の浪費であるような仮説である。な ぜなら,われわれには予めわかっており,
クスもまた知っているように,
いからである。」7)
さらに
その主張を一つ
マ)レ
それは正確でな
ロビンソンも碧海教授と同じく,
「価値〔=労働〕
マルクスの に比例した価格 で,商品の交換が行なわれるのが正常である」
という具合に,価格の決定に関する仮説として 扱われる場合にのみ経験的な言明と見ることが できるのであって,そうでない場合には,「V=
「単なる一個の主張にすぎない」すなわ ち「形而上学的論述」一ー経験的事実に関する 情報を与えない言明ーーでしかないというので
ある。
に,次のような前提を置いている。すなわち交 換価値あるいは価格の決定ということだけが,
しかしこのような見方は,暗黙のうち
これらについて説明を要する問題だという見方 である。たしかにこれも重要な問題である。そ
の
同上, 21ー22ページ。7) Joan Robinson, Economic Philosophy, 1962. 宮崎義一訳『経済学の考え方』 58‑59ページ。
してロビンソンも含めて近代経済学者がこの問 題に多大の関心を持ち,またその解明に立派な 成果を上げて来たことも事実である。けれども 価格の決定の問題が重要な問題であることは承 認するとしても,だからといってこれ以外に価 格 に つ い て 説 明 を 要 す る 問 題 は 存 在 し な い と は,論理的にいえるはずがない。それをあえて いうのは,ロビンソン等のマルクス批判者達に は,自分の関心のある問題だけが経験的に意味 のある問題だ,という独断があるからだという ほかない。というのは,価格については,その 決 定 論 以 外 に も , 次 の よ う な 説 明 を 要 す る 問 題,すなわち価格の表わすものは何かという問 題が存在するからである。
碧海教授にも御自身の経験に訴えて判断して いただきたいが,いまある価格のある商品,た とえば1冊千円の小説本を買うという場合を想 定しよう。この場合,無限の収入を持つとか,
あるいは衝動買以外の買方はしない等の人々は 別であるが,通常は誰しもこの本が千円の支出 に値するものかどうか,あるいは千円の値打が あるものかどうかを考慮した上で購入する。そ して仮に考慮の上買ったとすれば,その人はこ の本に千円のくあたい〉あるいはくねうち〉を 認めたからだといえよう。そうだとすれば, 1 冊千円という価格は,それ自身とは一応区別さ れる,買手にとってのこの小説本のくあたい〉
くねうち〉の表現としての意味をもつといえよ う 。 あ る い は ま た , 仮 に 千 円 で 買 っ た と し て も,実際読んでみたら「千円にしてはくあたい〉
がない」ということにもなろうし,逆に「千円 にしてはくねうち〉がある」ということにもな ろう。このようであるとしたら,千円という価 格は,この本のくあたい〉<ねうち〉の表現と しては過大(前者)あるいは過少(後者)であ
るといっているわけであり,いずれにせよこの 場合も,価格はそれ自身とは区別されるくあた い〉<ねうち〉の表現としての意味をもつもの であることは明白である凡
以上では専ら商品の買手の立場,あるいは使 用の観点から価格のもつ意味を見たが,同様の ことは売手の立場,あるいは生産の観点からも いえる。その点は本稿 3の論述を参照していた だきたいが, ともかく上述のように,価格が商 品のくあたい〉<ねうち〉の表現としての意味 を持つとしたら,当然そこには価格の表現する 当のもの,商品のくあたい〉<ねうち〉は何かと いう問題が生じよう。そしてくあたい〉<ねう ち〉は,漢語的表現を用いれば「価値」である から,この語を使うならば,「価値」とは何か という問題が提起されるのである9)。 そ し て わ れわれは,いま上で述べた「価値」がマルクス の「価値」の指示するものであると解釈するの である。勿論彼は,われわれが以上で行なった 8) 価格と「価値」の区別と相互の関係について は,阿部照男『現代日本のインフレーション』第 4章第3節,を参照されたい。
9) 近代経済学は価格の決定だけが価格に関して存
........
在する問題だとし,このような価格が表わすもの は何かというような問題の存在を否定する。いわ ば価値論無用論が支配しているが,これに対して 哲学者中村秀吉教授は次のような疑問を呈してお
られる。
「われわれ門外漢が経済学に一見奇異に感ずる のは,価値論というものは必要ないと考える近代 理論が有力になりつつあるということである。な ぜならば,価格は数量であろうが,これと相関的 に考えられる質は,少しも明確ではないからであ る。われわれの素朴な疑問は価格が何の指標かと いうことである。おそらくこのような考えは,そ の質を決定することに異常な難点が含まれてい るか,あるいはそのようなことを行なっても,経 済現象の説明や予測に役立たないと考えることか らくるのであろう。……しかしそのような立場で 初めからのぞむ経済理論は,哲学的にいえば不可 知論を背景にもっているということになるのでは あるまいか。」(同著『科学論の基礎』 288ペー ジ)
経 済 学 研 究 ようなやり方で,彼の「価値」の指示対象を明 示しているのではない。彼は,交換価値を「現 象形態」とする「ある実質」あるいは二商品の 交換関係の「等式」から推定される等量の「共 通物」として「価値」を提示している。けれど も彼が後に「価値形態論」において,「価値」
の一般的表現手段(一般的等価物)として貨幣 を 説 明 し , 貨 幣 に よ る 「 価 値 」 の 表 現 を 「 価 格」と定義している10) ことを考慮するなら,
われわれの解釈も許されよう11)。このように解 釈するとすれば,そして上述のように価格の表 わすものは何かという問題の存在を認めるとす れば,「価値」を労働で説明することの当否は 別 と し て , 「 価 値 」 の 語 の 外 延 ・ 指 示 対 象 が
「ベカント」ではない,あるいは存在しないと いうことはできないのである。それは,商品の 価格が表わす,そのくあたい〉<ねうち〉なの である。
2 .
マルクスの「価値=労働」の説明の難点 とその原因ー一価値の指示対象の不明確 上述のように,マルクスの「価値」の指示対 象は,商品の交換関係の「等式」から推定され た「共通物」であり,われわれの解釈では価格 が表わすくあたい〉<ねうち〉である。前に見 たように, 碧海教授によれば,「価値」の定義 が存在しなくてもその指示対象が「ベカント」であれば,それを解明してその「正体」を明ら か に す る こ と が で き る 。 し か し 「 共 通 物 」 と
「価値」をとらえただけでは,このことを可能 10) 「一商品の金〔貨幣〕での価値の表現……は
••…•その商品の価格である。」(『資本論』 (1),
72ページ)
11) 「価値は価格とは違っていて,価格はただ価値 の表現にすぎない。」(マルクス『剰余価値学説 史』岡崎・時永訳,国民文庫版 (7), 262ー3ペ ージ)
第46巻 第4• 5号
にするほどに「価値」の指示対象が十分に「ベ カント」であるとはいえない。本節ではマルク スの分析に従ってこの点を明らかにしよう。
マルクスはこの「共通物」の解明を,それを説 明できない商品の諸属性を排除し,その結果商 品に残留した属性をもって当の「共通物」を説 明するものと見倣す,周知の「蒸留法」によって 行なっている。彼は商品の諸属性のうち使用価 値を,「使用価値としては,諸商品は……いろい ろに違った質であるが,交換価値としては……
いろいろに違った量でしかありえない……。し たがって一分子の使用価値も含んでいない」1)
ということを根拠に,交換価値に現われる「共 通物」の説明要因から除外ー~マルクスの表現 では捨象一ーする2)。 そして彼は,商品体から 使用価値を捨象するならば「商品体に残るもの は,ただ労働生産物という属性だけである」3)
とし,さらに使用価値の捨象は,同時に,商品 に対象化されている労働の具体的有用的側面の 捨象を意味するとして,商品体に残った労働生
1) 『資本論』 (1), 76ページ。
2) 尚,マルクスは「使用価値の捨象」の根拠とし て,商品の交換関係における使用価値の捨象の
「事実」をも挙げており(同上),しかもどちら かといえばこちらの方を強調している。けれども われわれは上述のような「事実」の指摘による論 拠づけは妥当でないと考える。何故かというと,
問題となっているのは「共通物」であるのだか ら,その説明に際して使用価値を捨象すべきかど うかは,この対象に即し,それのもつ性質との関 連で判断すべきことで, 当の「共通物」ではな い,交換関係におけるそのような「事実」を引き 合いに出すべき正当な理由は何もないからであ
る。
ついでながら,この交換関係における使用価値 の捨象が「事実」であるか,ということ自体が一 つの問題であり,マルクス価値論をめぐる過去の 論争の一つの争点でもあった。この点については たとえば河上肇の『資本論入門』における解説(『河 上肇著作集』第4巻, 122ー3ページ)と,これに 対する高田保馬の批判(同著『労働価値説の吟 味』 53‑55ページ)等を参照されたい。
3) 『資本論』 (1), 76‑77ページ。
産物という属性は,「無差別な人間労働〔抽象 的人間労働〕の……凝固物」4),結晶という性格 をもつとする。この商品体に残留した抽象的人 間労働の凝固物,結晶が,「共通物」であり「価 値」であるというのである。
以上がマルクスの「V=L」 の 説 明 の 概 略 で あるが,結論を先回りしていうなら,この説明 は, 「価値」を労働で説明することを正当化し えない,いくつかの難点をもつ。そしてそれら は,一重に「価値」を「共通物」ととらえたこ とに起因しているのである。
第1に,「価値」を「共通物」ととらえたの では,それは労働で説明することのできない対 象 を も 指 示 し 得 , こ の 意 味 で 「V=L」 を 不 可 能にする。 この論点は, 論争史上,「価値」の 分析に際して商品を労働生産物に限定すること の可否の問題として論ぜられた,次のベームの マルクス批判と関係する。
「交換が,『ひとしい大きさをもつ共通なも の 』 の 現 存 を 前 提 す る 等 置 を 意 味 す る な ら ば,この共通なものは,やはり,交換に入るあ らゆる種類の財において, もとめられ見いださ れなければならない。この共通なものは·…••ま た,土地,立ち木,水力,炭層,石切場,石油 層,鉱泉,金鉱などのような,自然の賜物にお いても,もとめ見いだされなければならないの である。交換価値のきそになっている共通なも のを探求する際に,労働生産物でない交換され るねうちのある財を除外する, ということは,
この事情のもとにおいては,方法上のゆるすべ からざる死罪である。」5)「かりに,マルクスが,
4) 同上, 77ページ。
5) Eugen von Bohm‑Bawerk, "Zurn AbschluB des Marxschen Systems", in Staatwissenscha‑ ftlichen Arbeiten: Festgaben fur Karl Knies,
1896.木本幸造訳『マ)レクス体系の終結』 120ペ
決定的なところにおいて探求を労働生産物に局 限しないで,交換されるねうちのある天然物に おいてもまた,共通のものを求めた, とするな らば,労働が共通物でありえないことは手にと るように明らかだったことであろう。」6)
マルクスは「共通物」の解明に際し,対象で ある商品を労働生産物に限定している 。この 限定と「共通物」が労働であるという結論とは 明らかに不可分の関係にある。これに対してベ ームは,われわれの言い方をするなら,交換価 値に現われる「共通物」の解明が問題なら,交 換価値をもち, したがって「共通物」を有する 商品は労働生産物に限定されないのだから,マ
)レクスのようにこれに限定し, 「自然の賜物」
の ご と き 非 労 働 生 産 物 で あ る 商 品 を 除 外 し て
「共通物」を説明するものを求めるのは妥当で なく, このような不当な限定を取り除くなら,
「共通物」が労働で説明されえないことは明白 である,といっているのである。
このようなベームの批判に対してマ)レクス擁 護者達がどう応えたかというと,彼等は, ヒル ファディングの反論に代表されるように,分析 に則してではなく,専ら方法論的見地から,価 値の分析に際し対象を労働生産物に限定するこ とがいかに正当であるかを示すことによって応
ージ。
6) 同上邦訳, 124ページ。
7) 『資本論』にはこの点についての明確な断わり はないが,マルクスが後に自分の分析を振り返っ て書いた一文では,次に見るように,彼が対象を 労働生産物である商品に限定して分析していたこ
とを明確に述べている。
「私が出発点とするものは,いまの社会で労働
. . .
生産物がとる最も簡単な社会的形態であり,そし てこれが『商品』である。」(「アードルフ・ヴァ ーグナー著『経済学教科書』への傍注」邦訳『マ ルクス・エンゲルス全集』第19巻, 369ページ)
経 済 学 研 究 えた叫しかしこれらの反論は,その主張された 内容の意義は別として,これを分析の見地から 見るなら,明らかにベームの批判に応えるもの ではなかった。というのは,仮に「価値」が労 働で説明されるものなら,それの分析上の手懸 り,あるいは根拠は,「価値」の指示する対象 に求めなければならず,それに手懸りと根拠と を求め得るとすれば,「価値」が唯一労働で説 明されるものである限り,それは労働生産物で ある商品だけが有し,非労働生産物商品はもた ない性格のものとして明確にとらえられていな ければならないはずのものである。そしてそう とらえられているならば,仮に商品一般を対象 にとったとしても, 労 働 で 説 明 さ る べ き 「 価 値」を探求の対象として取り上げることによっ て,自ずと非労働生産物の対象からの除外が行 なわれるはずである。したがって「価値」を労 働で説明する結果になる分析に際しては,対象 を労働生産物にあらかじめ限定すべき必要は全 然ないのである。むしろ問題なのは, 「価値」
が労働で説明されるはずのものであるなら,そ れは労働生産物である商品のみが有し,非労働 生産物である商品は持たないものであること が,分析に際し明確にとらえられていなければ ならないのに,「共通物」と「価値」をとらえ たのでは,ベームが指摘しているように,それ は非労働生産物である商品が有する何等かの属 性, したがって労働で説明することが不可能な 対象をも指示することが可能となり,そのこと が何等なされ得ないこということである。この 8) たとえば, Rudolf Hilferding, "Bohm‑Ba‑
werks Marx‑Kritik", in Marx‑Studien, 1904. 玉野井・石垣訳『マルクス経済学研究』 141‑9
ページ,河上肇『資本論入門』前掲著作集, 152
—7 ページ,宇野弘蔵『価値論』 76-80 ページ,
白杉庄一郎『価値の理論』 39‑40ページ,等。
第46巻 第4• 5号
理由から「価値」を「共通物」ととらえる限 り,ベームが批判する通り「
V=L
」 は 正 当 化 され得ない。この正当化を可能にし, したがっ てベームの批判に応えるためには,少なくとも 上述の点の明示が可能なように, 「価値」は単 なる「共通物」以上のものとしてとらえられる 必要があるといわねばならない。次に,「価値」を「共通物」ととらえる限り
「
V=L
」が正当化されえないことは,上述の論 点と並んで一大争点となっていた,「使用価値 の捨象」の可否をめぐる問題の一つからもいえ る。前に要約したように,マルクスは量的にと らえられる一一ーしたがって同質的である一一→「共通物」に対し,使用価値は異質的でしかな いからその説明要因としては捨象されるとし た。ところがこれに対して,使用価値は単に異 質的であるに止まらず同質的でもあり,また量 的にとらえられるものであるから捨象は正当で ない, という批判がなされたのである。たとえ ばわが国の価値論々争における高田保馬の次の 主張がこれである。
「交換価値として商品はただ異なれる量たれ るのみ,故に使用価値は含まず, と云う,これ は使用価値が量たり得ずという仮定の下に於て のみ,成立し得る主張であろう。而も,使用価 値は一面に於て明に量である。私共は,一着の 衣服と一箱の菓子とを比較し,そのーを選択す る,これらは使用価値として,質を異にするに せよ,異なれる量だからである。而も或は云う ものがあろう。質を異にするものが如何にして その量を比較せらるるを得るかと。弦に於て使 用価値の内容を吟味しなければならぬ。使用価 値は商品を有用ならしむ物体的属性を意味し,
又有用性の特定なる内容を意味し,又有用性そ のものをも意味しうる。例えば菓子が舌に一定
の刺激を与えうる性質をもつと共に,又それは 甘味と云う満足を与えうるものであり,進みて は欲望充足を与えうる性質をもつものである。
……而してすべての使用価値は具体的なる内容 に於てそれぞれ異なるものがあるけれども,欲 望充足を与うる性質,即ち効用に於ては同質の も の で あ る 。 畢 寛 効 用 と 云 う の は 質 差 を 切 離 して考えたる使用価値に外ならぬ。此効用は前 述の如く,量的のものである,精確なる測定を 許すか否かは別として, とにかく大小の比較を 許すところの量的なものである。而して,交換 の現実に於て,刻々に大小が比較されつつある ところの量的なるものである。交換価値が量的 であるが故に,共通物は量をもつもの又は量で あるものたるはずだ, と云う論拠からのみ,使 用価値にかの共通物たる資格を奪うということ は理論の運びに粗漏がある……。」9)
マ ル ク ス は , 使 用 対 象 で あ る 商 品 体 そ の も のと, そ れ が も つ 有 用 性 と を 使 用 価 値 と 呼 ん だ10)。これは上揚引用中で高田がいう使用価値 の第1, 第2の内容にほぼ相当する。そしてこ の点から見れば,「諸商品は,なによりもまず 違った質」であるということができ,異質性を もってしては,量的にとらえられる同質な「共 通物」は説明できないから,この限りでは使用 価値の捨象は正当である。しかし使用価値を,
商品の使用の観点から見た諸属性の総称, と規 定するなら, こ れ に は 高 田 の い う 「 欲 望 充 足 を与うる性質」すなわち「効用」も入れないわ けにはゆかない。しかもこの「効用」は量的に とらえられる同質的なものであるのだから,そ 9) 高田保馬「労働価値説は支持し得らるるや」同 著『労働価値説の吟味』54‑55ページ。原文の旧 仮名使い及び漢字の旧字体はいずれも現代表記に 直した。以下同様。
10) 『資本論』 (1), 73ページ。
の際には使用価値を「共通物」を説明する要因 と し て 不 適 格 だ と し て 捨 象 す る こ と は で き な い。この点は高田のいう通りである。勿論く使 用価値〉の語をマルクスのように限定的に使用 することは自由である。この用語法のもとでは 使用価値の捨象は正当である。しかしその場合 には,この捨象の結果「共通物」を説明するも のとして労働の結晶という属性だけが商品に残 留するとはいえない。そこには高田のいう「効 用」も,その資格を有するものとして残留せざ
るを得ないといわねばならない11)0
11) 白杉庄一郎は高田のマルクス批判に対して次の ように反論している。
「なるほど使用価値も,欲望充足をあたえる性 質ーー効用ーーにおいて,量化の原理をもつとい えぬではない。しかし,問題の使用価値一ーした がって効用—ーが個別的具体的であるかぎり,そ の量は単に主観的なものたるにとどまって,交換 価値が量だといわれる場合におけるような客観性 をもちうるものではない。この見地からして,私 は……個別具体的な使用価値は交換関係の内部に おいては単に質的差異を代表するにとどまるもの であると考える。」(同著『価値の理論』35ページ)
白杉は,高田のいうように使用価値も「効用」
の点で量的にとらえられることは認める。しかし 交換価値が「客観性」を持つものであるのに対 し,「効用」は「主観的」なものでしかないとし う理由で,それを,「客観性」を持つ交換価値に かかわる「共通物」の説明要因から排除しようと していると解釈してよいだろう。したがって白杉 は,「共通物」が「客観性」一ーこれは「社会的 客観的」(同所)とも表現されている―という 特徴をもち,この特徴に照らして「主観的」ー一
これは「個人的主観的」(同所)とも表現されて いる一ーである「効用」はその説明要因から排除 される,と主張していることになる。われわれは ここで,白杉が当然視し,何らの説明も与えてい ない,「効用」が単に「主観的」でしかないかど うか,あるいは仮に「主観的」でしかないとして も,それが「客観的」である交換価値に影響を与 える事実がある以上「共通物」の説明要因として 排除できないのではないか,さらには「主観的」
であることがいかなる理由で「客観的」であるこ とと対立し,「客観的」である「共通物」の説明要 因から排除するのを正当化するのか,等の当然問 われて然るべき問題には立ち入らない。ただわれ われが指摘したいことは,問題となっている「共 通物」について明示的である性質は,マルクスも
経 済 学 研 究 以上のことが, 「価値」を「共通物」 ととら える限り,それを労働で説明することを正当化 し得ないことを示していることは,すでに明ら かであろう。「価値」を説明するものとして労 働だけを残留させるためには, 少なくとも,
「効用」を含めての商品の「使用価値」あるい は使用の観点から見た商品の諸属の捨象が可能 でなければならない。けれども,「共通物」の量 的にとらえられる同質的なものという性質だけ では,この捨象は正当化され得ないのである。
さて,われわれは,マ)レクスの「V=L」 の 説明を,これをめぐる二つの歴史的論争点と関 連させながら検討して見た。以上から結論とし ていえることは,「価値」を単に「共通物」とと らえただけでは,「価値」の指示対象は,「V=
L」の説明を正当化するほどに十分に「ベカン ト」であるとはいえない, ということである。
「価値」を労働で説明できるためには,上述の ように少なくとも,その指示するものが労働生 産物である商品だけが有するものであることの 明示と, そ れ の 説 明 に 際 し 「 効 用 」 も 含 め た
「使用価値」,あるいは使用の観点から見た商品 の諸属性の捨象とが不可欠である。ところが,
いっているように「いろいろに違った量」すなわ ち量的にとらえられるということだけであるの に,このような対象から「客観的云々」という性 質が,その正確な内容—白杉はこれを説明して いない—~も含めてどのようにして引き出すこと
ができるのか,あるいは新たにこのような性質を どのようにして追加しうるのかを,白杉は,対象 に即した分析によって示しているのではないとい うことである。「価値」を「社会的客観的」であ るとし,「効用」を「個人的主観的」であるとし て,前者の説明に際し後者を退けるのはヒルファ ディング以来のマルクス経済学の伝統ともいうべ きもので,白杉もこれに従ったまでのことであろ うが,仮にそれが正しいとしても,方法論的見地 からの単なる主張に止る限り,それは十分とはい えない。その正しさは,基本的には,対象に即し た分析によって説明さるべきである,というのが われわれの考え方である。
第46巻 第4• 5号
「価値」を「共通物」ととらえただけでは,ま たそれのもつ単に量的にとらえられる同質的な ものという性質だけでは,上述の明示も捨象も なされ得ないのである。したがって仮に「V=
L」が妥当であるとしても, これを説明するた めには,「価値」を「共通物」ととらえただけ では不十分であって, そのためには, 「価値」
は単なる「共通物」以上のものとして,少なく とも上述の明示と捨象とを行ない得るように,
十分明確にとらえられなければならない。
3 .
マルクスの価値の指示対象,分析次元,「価値=労働」の説明と価値の定義の必要性 マルクスは「価値」を,「1クォーターの小 麦=aツ ェ ン ト ナ ー の 鉄 」 と い う 交 換 関 係 の
「等式」から推定された, 等量の「共通物」と とらえた。この推定の前提である「等式」は,
対象が資本主義経済である以上,物々交換を意 味するものではなく,小麦1クォーター=axポ ンド,鉄1ツェントナー=xポンド,という商 品の価格形態からの抽象と考えるのが妥当であ る1)。他方彼の「価値」は,価格とは区別され る,それによって表現される何ものかである。
「価値は価格とは違っていて,価格はただ価値 の表現にすぎない。」 だがそうであるとする
と, 何 故 マ ル ク ス は 「 価 値 」 の 解 明 を 直 接 価 格の分析から始めず, その抽象の結果である
「等式」の分析から始めたのか,という疑間が 1) 「具体的な現実においては,どの商品も一定量 の貨幣で表現されており,自分の価格をもってい る。……マルクスは抽象の力を借りて…•••商品を その貨幣表現から,価格から抽象するのであっ て,こうして商品は,相互に直接的な関係にはい り,交換価値として現われる。」(デ・イ・ローゼ ンベルグ『資本論注解』宇高・副島訳①, 106ペ ージ)
2) 『剰余価値学説史』岡崎・時永訳,国民文庫版 (7), 262ー3ページ。
提起されよう。この点に関しては方法論上の面 倒な問題があるが3), その点は措くとしても,
分析の対象として先ず与えられているのはこの ような抽象以前の価格形態の商品であり,この ような抽象それ自体がすでに対象の分析を意味 する一ーしかもこの分析過程は少しも叙述され ておらず, この意味では厳密にいえばこうした 抽象の妥当性そのものが説明されないままにな っている—一ことを考慮するなら,抽象の結果 である「等式」からではなく,それ以前の価格 形態から分析を始めなければならないことは明 らかである。そして価格の分析から出発するな ら, すでに1で一部説明したように, 「価値」
は単なる「共通物」に止まらない,より明確な ものととらえることができるのである。
商品の価格を分析するなら,価格が表わすも のとして商品のくあたい〉<ねうち〉すなわち
「価値」が抽出される。そして,いま,売買の 仲介者である商人等を無視して考えるなら,ま ず買手は消費者である。彼の立場から見れば商 品は使用対象でしかないから,それのくあた い〉<ねうち〉は,使用上のあるいは使用の観 点から見たそれでしかなく,この意味で「価 値」は第1に「使用価値」ととらえることがで きる。同様に商品が非生産物である場合には,
商品は買手にとってだけでなく売手にとっても 使用対象であるから,売手の立場から見ても
「価値」は「使用価値」である。しかし商品が 労働生産物であるなら, 「価値」は別の観点か らもとらえられる。いまこの商品が専ら販売を 目的に生産される生産物であるとしよう。そし 3) この点については,拙稿「『資本論』における
『価値の導出』の批判的考察」(『経済学研究』九 州大学,第45巻 第4‑6号合併号所収)の4.
「『価値の導出』における分析の出発点」を参照さ れたい。
てたとえば売手が生産したキャベツを市場で取 引する際に,買手が400円なら買うといい,こ れに対して売手が500円でなければ売れないと いうとすれば,買手のいう 400円がキャベツの 使用の観点から見たくあたい〉<ねうち〉を表 わすものであることはいうまでもないが,売手 のいう 500円は,このキャベツが売手にとって 使用対象でない以上,キャベツの使用の観点か ら見た〈あたい〉〈ねうち〉を表わすものでは ありえない。しかしこの商品は生産物であり,
売手はその生産者である。だから売手は,その 商品を使用の観点からは評価しないけれども,
その生産の観点からは評価することができる。
すなわち 500円という価格に表わされるくあ たい〉<ねうち〉は生産上のそれであり,生産 の観点から見たそれである。内容的には,たと
. . . .
えば, 「手間暇かけてつくったこのキャベツが 400円では安すぎる(そのくあたい〉<ねうち〉
.
.
は
.
500円だ)」,あるいは「このキャベツの生産.
には費用がたくさんかかっているから400円で は安すぎる(そのくあたい〉<ねうち〉は500 円だ)」という具合に,
. . . .
何等かの意味におい て商品の生産にかかわらしめ,そのくあたい〉くねうち〉を評価しているのである。したがっ て生産物である商品は,「使用価値」のみなら
...
ず,それとは区別される生産上の,あるいは生
. . . . . . . .
産の観点から見たくあたい〉〈ねうち〉である
「生産価値」をももつということができる。
このように商品の価格を分析してみれば,そ れが表現するものとして先ず「価値」が抽出さ れ, さらにこの「価値」が,商品の使用の観点 からとらえられる「使用価値」と,生産の観点 からとらえられる「生産価値」との二つのもの に区別される。そこで次には,それぞれについ て一体それらは何か,それらの起源,原因,ぁ
経 済 学 研 究
るいは「本質」は何か, という問題が提起され よう。この場合「生産価値」が,労働によって 説明されるはずのマルクスの「価値」に相当す るものであることは容易に推察されるところで あるが,すでに述べたように,彼は「価値」を 単に「共通物」としかとらえなかったために,
「価値」を労働で説明するために不可欠な,そ れが労働生産物のみが有する属性であることの 明示と,分析における「使用価値」の捨象の正 当化とを行ない得なかった。 この意味で「価 値」の指示対象は十分に「ベカント」とはいえ なかった。けれども「価値」を,上述のように
「生産価値」ととらえるならば, これらの欠陥 は克服され,この意味で「価値」の指示対象が 十分「ベカント」になることは明らかである。
第1に,「生産価値」が解明さるべき対象として 設定されるなら,仮に考察対象として非労働生 産物をも含む商品一般を前提したとしても,生 産されるものは労働生産物でしかないから,
「価値」が労働生産物のみが有する属性である ことの明示は,自ずとこの解明対象の設定によ ってなされる。したがって「共通物」ととらえ た場合には,非労働生物がもつ,労働で説明す ることの確実に不可能な対象をも「価値」は指 示し得,このために「V=L」は正当化され得な いという事態も生じ得たが,「価値」を労働生産 物だけが持つ「生産価値」と明確にとらえるこ とによって,このような可能性は,議論の余地 なく排除され得ることになるのである。そして 第2に,「生産価値」は前にも示したように,商 品を使用しない生産者にとって問題となる商品 の属性であり,商品の使用の側面とは直接の関 係を持たない。したがってかかる性質の「生産 価値」の解明には,商品の使用の側面に関係を 持つ,マルクスの使用価値及び「効用」も含め
第46巻 第4• 5号
た商品の使用上の諸属性は無視してさしつかえ ない。すなわち「使用価値」の捨象は正当化さ れるのである。以上のようであるとすれば,労 働で説明されるべきマルクスの「価値」の指示 対象は,「V=L」が真である限り,単なる「共 通物」とではなく,「生産価値」と明確にとら えられなければならない。
さて,上述のように「価値」を「生産価値」
と明確にとらえるならば,「共通物」ととらえる ことに不可避的に伴う分析上の重大な欠陥が克 服され, この点に関するベーム等のマルクス批 判にも十分に応えられることはすでに明かであ る。しかし以上からさらに進んで直接に「V=
L」を説明する段になると, そこには明確に すべき,また解決を要する問題が残っていると いわねばならない。
第1に,「使用価値」の捨象は上述のように 正当であるにしても,マルクスのように,それ を行なえば商品体には唯一労働が残留すると無 条件にいうことができるか, ということであ る。「使用価値」の捨象の際に分析の対象として いる商品は労働生産物である商品であり,それ は労働生産物の歴史的,社会的形態としての商 品であって,単に労働生産物一般に尽きない性 格をもっている。だからこのような商品から 使用上の諸属性を捨象するならば,そこには商
.
.
.
品の生産上の諸属性が残留するというのが直接 の帰結であり, したがって,そこには労働が投 下されているということだけでなく,少なくと も生産の費用としていくばくかの貨幣支出が行 なわれている等のことも含まれざるを得ない。
それ故に「使用価値」の捨象の結果労働だけが 残留するとは決していえないのである。ただ,
労働生産物の歴史的,社会的形態としての商品
. . . .
を,このような対象として全面的に分析対象と
するのではなく,その超歴史的,歴史貫通的基 体である労働生産物の次元でとらえ,あるいは それのもつ歴史的,社会的諸属性を無視して単 に労働生産物と抽象して,商品のその側面をの
. . . .
み一面的に分析対象とするならば,別の結論が 導かれる。商品を単に労働生産物と抽象してと らえれば,マルクスの考えでは,それは労働の 対象化物,結晶であるから4),それからの「使 用価値」の捨象は,「使用価値」に対象化,結晶 している具体的有用労働の捨象を意味し,それ によって労働の対象化物,結晶としての生産物 には,抽象的人間労働の対象化物,結晶として の側面だけが残留するのである。このような結 果に導く分析次元あるいは分析側面の限定は,
. . . .
商品の「生産価値」の説明を,それが商品とし
. . .
てもつ歴史的,社会的特質にではなく,それが 他の経済体制の生産物の歴史的,社会的形態と も共有する,超歴史的,歴史貫通的特質に求め ることを意味するものであり,当然これは「生 産価値」の一面の説明であって,すべてではな ぃ。同様にして「生産価値」の説明を,専ら商 品としての歴史的,社会的特質に求めることも 可能なのである。しかしマ)レクスは「価値」の 分析のこの二重性を明示せず,事実上前者の観 点から分析しているのに,それが同時に後者で あるかの如く叙述している叫しかしこれは明 らかに妥当でない。分析の上述の二つの次元あ るいは二つの側面を区別し,行なっているのが 前者であると明示しなくては,「使用価値」の 4) マルクスのこのような労働生産物のとらえ方に ついては,詳しくは拙稿「サービス商品の価値と 商品体 (1)」(『経済学研究』九州大学,第44巻 第4‑6号含併号所収)のIの2を参照された
しヽ。 •
5) この点については詳しくは,前掲拙稿「『資本論』
における『価値の導出』の批判的考察」の2.「使 用価値の捨象と分析次元」を参照されたい。
捨象の結果労働のみが残留すると結論すること はできないのである。
次に,上述のように分析を超歴史的,歴史貫 通的次元あるいは側面に限定し,「使用価値」
の捨象によって唯一労働を残留させたとして も,これだけで果してこの労働が「価値」,正 確にいえば「生産価値」を説明するものである といえるか, という問題がある。というのは,
「価値」が「使用価値」等の他の要因では説明 できないということ自体は,労働がその説明要 因であるということについては,何ら語るとこ ろはないからである。勿論他の要因では説明で きないという結論は,唯一残った要因である労
. . . . .
働がそれであると推測させる有力な根拠を提供 しているといってよい。しかしこの推測が妥当 かどうかは,この推測とは独立に,労働それ自
. . . . . .
体について理由を挙げて説明しなければならな い性質のものである。このことは,たとえばあ る家畜のある病気の病源菌を発見するという場 合に,その病気に関連して採取される数種の細 菌の中から,次々と病気に関係がないことが判 明した細菌を除外していって,最後に唯一つあ る細菌が残ったという時, このことは残留した 細菌が病源菌であることを推測させる有力な根 拠を提供するものであるが,この推測が妥当 か否かは,その細菌を用いた実験によって問題 の病気の発病に成功し,発病のメカニズムを 解明して初めて明らかにされるのと同様であ る。
以上のような理由から, 「使用価値」の捨象 によって唯一労働を残留させる「蒸留法」は,
それがわれわれが前に修正したような内容で正 当に行なわれたとしても,「
V=L
」に最終的な 判定を下す能力はない。それは労働が「価値」の説明要因であると推定する論拠を提出するに
経 済 学 研 究 止まる。だから「
V=L
」 と正当にいい得るた めには,適切な理論によるか,あるいは経験に 照らすかして, 「蒸留法」で抽出された労働が「価値」を説明するものであることを,理由を挙 げて示さなければならないのである。ところが マルクスの分析には明らかにこの不可欠の過程 が欠落しているのである。そしてこのことを行 なうためには,先ず曖昧かつ多義的である「価 値」の語の意味するものを明確にすること,ぁ るいはその語が商品のもついかなる性質を指示 するのかを明示すること,すなわちマルクスの 分析では全く不在である「価値」の定義の提示 が必要である。前に碧海教授の述べるところを 引用したように,「AはBである」という文にお いてAの意味するものが不明であるなら,この 文そのものが意味不明であり,そうであれば「A
はBである」ということの理由を説明すること は不可能である。このことは「
V=L
」 に お い ても同じである。「価値」の定義によってそれ が何を意味し,商品のどんな性質を指示するの かが明示されない限り,どんな理由をもってし ても「価値」を労働で説明することは不可能で ある。しかし定義が与えられるなら,それによ って示される性質を労働が説明し得るか否かを 問うことが可能になり,「V=L
」が真である限 り,先述のように適切な理論か経験に基づい て,その理由を説明することができるのである。4 .
価値の定義,価値の原因一ーオーストリ 一学派の価値論の検討からマルクスの「価値」は,交換価値ないしは価 格と明確に区別されるものであり,それらに表 現される何ものかであった。「価値」の語自体 は,彼に先行する古典派経済学以来のものであ ったが,そこでは
J . s .
ミルも述べたように,第46巻 第4• 5号
「『価値』という言葉は, 経済学において, 付 属詞なしに使用された場合には, い つ も 交 換 価値を意味する」1)のが通例で,交換価値とは 明確に区別されてはいなかった。勿論リカード の「絶体価値」のように,相対価値である交換 価値とは区別される何ものかをそれによって意 味せしめようとした学者も少なくはなかった。
けれどもその場合でも,それに明確な意味を与 えたものは皆無といっていい。この点新古典派 経 済 学 の 源 流 の 一 つ で あ る オ ー ス ト リ ー 学 派 は, 古典派とは対照的であった。彼らは「価 値」を交換価値や価格と区別し,のみならずそ れに明確な意味を与えた。たとえばメンガーと ベ ー ム と は 「 価 値 」 に つ い て 次 の よ う に 述 べ た。
「価値とは,具体財又は具体財数量が,我々 が自己の欲望満足に於て之等のものの支配に依 存するのを意識することによって我々に対して もっ,その重要性 (Bedeutung〕である。」2)
「価値とは, あ る 主 体 の 幸 福 目 的 〔 欲 望 満 足〕3) に対する 1財又は複合財の重要性〔Be‑
1) John Stuart Mill, Principles of Political Eco‑ nomy, with some of their Applications to social Philosophy, 1 st. ed. 1848,末永茂喜訳『経済学 原理』(三), 21ページ。
因にミルのこの評言について,後にシュムペー ターは次のように述べている。
「分析的努力が主として集中されていた価値と は,交換価値 (exchangevalue)であった。ジ ョン・スチュアート・ミルが価値なる用語は,経 済理論においては,本質的に相対的なものである こと,またいずれか二個の商品若くは用役間の交 換比率を示すものにほかならないことを強調した とき,彼はその当時普及していた慣行の決着をつ けたにすぎない。」 (JosephA. Schumpeter, History of Ecomomic Analysis, 1954.東畑精一 訳『経済分析の歴史』第4分冊, 1237ページ)
2). Carl Menger, Grundsatze der Volkswirtschaf— tslehre. Erster, allgemeiner Theil. 1871.安 井琢磨訳『国民経済学原理』 75ページ。尚,訳 文は一部変更。
3) 「我々がある財から携る幸福は其の性質上一般
deutung〕である。」4)
以下,上掲の価値についての言明を手初め に, オーストリー学派の価値論を検討してみる が,先ず,
すくするために,主としてベームの表現を念頭 に置き,またわれわれの判断による補足も加え て,次のように restateしよう。すなわち「価 値とは,
上の価値に関する言明を,分析しや
欲望満足の観点から見た財の重要性
(さ)である」と。
以上のように restateされた 「価値」に関 する言明は,定義ともまた経験命題とも解釈す
ることができる。ただ彼らは,「価値」の 質」ないしは原因(起源)を財生産の費用に求
「本
める費用理論,及びその一分派である労働にそ れを求める労働価値説を否定し,
「欲望満足」に求めるべきであるとして,上掲 のような「価値」についての言明を行なってい るから, さしあたっては経験命題と解釈すべき であろう。 そこでこう解釈するとしたら,上述 の言明は,「価値」を「欲望満足」,
たがえば「効用」, で説明する言明として再構 成 す る こ と が で き る 。
ていなければならないが,
「財の重要性」である。
むしろこれを
すなわち
慣 用 に し
「価値 〔の
「本質」,原因〕は効用である」と。碧海教授の
「V=L」に倣って略記すれば「V=U」である。
そしてこの言明が経験命題たりうるためには,
「価値」の定義がこの言明とは独立に与えられ これに相当するのは したがって「V=U」の 言明は,「財の重要性」を意味する「価値」を
「効用」で説明するという内容をもつものであ に……欲望の満足にある。」(Eugenvon Bohm‑
Bawerk, "Grundzilge der Theorie des wirts‑ chaftlichen G且terwerts", in Jahrbucher fur Nationalokonomie und Statistik, 1886. 長守善 訳『経済的財価値の基礎理論(主観的価値と客観
的交換価値)』42ページ)
4) 同上訳書, 29ページ。
る (そして 「効用」 が唯一の 「価値」の「本 質」であり原因であることが判明すれば, これ に基づいて「価値」は前にわれわれが restate
したように定義される)。
この言明は, 一定の想定のもとで,
を問うことができる。いまある主体によるある 財の消費を想定しよう。その際,
る主体の需要が供給を上回れば,財数量のいず れか一単位が失なわれても,
足の一部が損なわれる。逆に需要が供給を下回 れば,財数量のいずれか一単位が失なわれても 主体の欲望満足は損なわれない。財消費の目的 が欲望満足にあるとするなら,
は,個々の財のいずれか一単位が失なわれても 欲望満足の一部は損なわれるから,各個の財は
. . . . . . . . . . .
重要であり,重要性をもつ。これに対して後者 の場合は,個々の財のいずれか一単位が失なわ れても欲望満足は少しも損なわれないから,各
. . . . . . . . . . . . .
個の財は重要でなく,重要性も持たない。また
「効用」概念を用いるなら,「効用」は消費数量 の増加とともに減少し,
財は「効用」を持つ。
とは明らかであり,
その真偽
その財に対す
その主体の欲望満
前 者 の 場 合 に
ついには零に至る度盛 を持つ。その際財の消費数量の追加によって得 られる「効用」が「限界効用」であるが,前者 の場合は「限界効用」はプラスであり,各個の しかし後者の場合は「限 界効用」は零であって,各個の財は「効用」を 持たない。そして「効用」を得ることが主体の 財消費の目的であるなら,この目的に照らして
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
「効用」のある財は重要であり, 重要性をもつ
. . . . . . . . . . . . . . . . .
が,「効用」なき財は何らの重要性ももたない。
以上のようであるとすれば, 「欲望満足」 の損 傷の有無あるいは「効用」の有無と,財が「重 要性」を持つか否かとは不可分の関係にあるこ この意味で,「財の重要性」
である「価値」を「欲望満足」あるいは「効用」