万葉時代のグリーンケミストリー
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― 古代の酒造法と万葉時代の酒の文化について ―
杉山一男†1
Green Chemistry in the Manyo Era 1:
Ancient Sake Brewing Methods and Sake Culture
in the Manyo Era
Kazuo Sugiyama
Kuchikamizake brewing in ancient times involved the conversion of starch
into glucose by the amylase enzyme contained in human saliva, followed by fermentation with wild yeast. Originating from the Asian mainland, another brewing method relied on yeast and amylase secreted by Aspergillus fungi. This paper elaborates on these ancient sake brewing techniques and narrates several anecdotes revolving around sake. Further, through a selection of sake-related poems from the Manyoshu anthology, it provides a glimpse of the role of sake in people’s lives during the Manyo Era, a facet of ancient Japanese culture that remains familiar to this day.
1. は じめに 酒 はエ チルア ルコ ールを 含む 飲料の 総称 であり 、抑 制作用 があ るため 飲む と 酩酊 を起こ す。 すなわ ち、 酒は、 脳の 様々な 領域 で覚醒 や刺 激を減 少さ せ る かあ るいは 抑制 し、神 経伝 達の水 準を 低下さ せる 向精神 薬で もある 。運 動 失 調、 抗不安 作用 、鎮痛 、鎮 静、眠 気、 認知障 害、 健忘、 陶酔 、筋弛 緩、 一 時 的な 血圧や 心拍 数の低 下な どを起 こす のであ る。 酒はス トレ ス発散 の手 段 で もあ るが酩 酊が 引き起 こす アコー ルハ ラスメ ント は古代 から 社会問 題と な っ てい た。紀 元前 1700 年頃 の最古 の成 文法で ある ハンム ラビ 法典に はワ イ †1近 畿 大 学 名 誉 教 授
ン を酔 っ払い に売 っては なら ないと 記さ れてい る。 こ の 酒 と い う 液 体 は ヒ ト が 誕 生 す る 前 か ら 存 在 し て い た と い わ れ る 。 ブ ド ウ・ 柿・バ ナナ ・マン ゴー などの 果物 にはブ ドウ 糖(グ ルコ ース) や果 糖 ( フ ル ク ト ー ス ) が 豊 富 に 存 在 す る の で 十 分 熟 し た 頃 、 発 酵 1 )を つ か さ ど る 微 生 物 、 即 ち 、 野 生 の 酵 母 (菌 ) (イ ー ス ト )2 )が 付 着 し て エ チ ル ア ル コ ー ル を含 む物質 が自 然に産 生し ていた ので ある。 我々 の祖先 はエ チルア ルコ ー ル が含 まれて いる とは意 識せ ずに発 酵し た果物 を口 にして 酩酊 したヒ トも い た こと は十分 想像 できる が、 これを 酒と 呼んで よい かにつ いて は議論 もあ ろ う 。 や が て 、 ヒ ト は ア ル コ ー ル 発 酵 3 )と い う 現 象 を 覚 え て ブ ド ウ を 容 器 に 蓄 え、 意識的 に酒 を造る こと になっ た。 ワイン の誕 生であ る。 ワイン など の 果 実酒 は、図 1 に 示した グル コース やフ ルクト ース を多く 含む 果実の 酵母 に よ るア ルコー ル発 酵の 1 段プ ロセス で造 られる 。 一 方、 麦や米 など の穀物 を原 料とす るビ ール・ ウイ スキー ・日 本酒・ 焼酎 な どの 穀物酒 は、 先ず、 穀物 に含ま れる 分子量 の大 きいデ ンプ ンを分 解( 糖 化 )し て分子 量の 小さい グル コース にし て、次 いで 酵母に よる アルコ ール 発 酵 させる 2 段 プロ セスで 造ら れる(図 2)。 穀物 酒の 醸造に おけ る糖化 の手 段 が夏 季乾燥 した 気候の 中近 東やヨ ーロ ッパと 高温 多湿な 気候 の日本 を含 む 東 ア ジ ア や 東 南 ア ジ ア で は 異 な る 。 前 者 の 地 域 で は デ ン プ ン の 分 解 に 麦 芽 ( モ ル ト)4)を 使 っ て ビ ー ル やウイ ス キ ーなど の ア ルコー ル 飲 料をつ く るの に 対 し て 、 後 者 の 地 域 で は 穀 物 酒 の 醸 造 に は デ ン プ ン の 分 解 に コ ウ ジ カ ビ 5) を 使う ことに 特徴 がある 。す なわち 、ヨ ーロッ パな どでは 夏季 、乾燥 して い 図 1 単糖か らエ チルア ルコ ールへ の変 換
る ので カビが 生え にくい ため モルト を利 用した がア ジア各 地で はコウ ジカ ビ を 使っ た醸造 法が 発達し たの である 。 中 国で は紀元 前 2200 年 頃、夏かの 始祖禹う王 の 時代に 酒が 造られ てい たこ と が 二 里頭に り と う遺 跡 か ら 酒 器 で あ る 銅 爵どうしゃくが 発 掘 さ れ て い る こ と か ら わ か る 。 こ の 夏かの 最後 の王桀け つは 酒の 池に船 を浮 かべ、 肉を 山のよ うに 盛る肉 山脯に く ざ ん ほ輪り んの 豪 勢 な 宴会 を催し たた めに国 は衰 えたと い う 6)。そ の後 、紀元 前 1100 年 頃、 殷い ん ( 商しょう)の 紂ちゅう王お うが 妲だ っ己きと と も に 、 以 酒 為 池 懸 肉 為 林 す な わ ち 、 酒 池 肉 林 に 溺 れた ことも また あまり にも 有名で ある 。論語 には 、郷人 で酒 を飲む(村 の 人 たち で酒を 飲む )の記 述が あり、 紀元前 5 世 紀頃 には庶 民の 飲み物 にな っ て いた ようだ 。古 代中国 の酒 の原料 は主 として 米で あり、 穀類 から造 られ る 酒 の醸 造は中 国の 長江流 域で は夏王 朝が 誕生す るは るか以 前に 稲作が 始ま っ た 時代 に遡る ので はなか ろう か。 日 本列 島に住 む人 々は何 時頃 からど のよ うに酒 に対 してい たか に興味 がも た れる 。列島 に住 む人々 は、 卑弥呼 の時 代(3 世紀 前後の 弥生 時代後 期後 半) か ら酒 好きだ った ことが 「魏 志倭人 伝」(魏 書 第 30 巻 烏丸 鮮卑 東夷伝 倭人 条 )か らわか る。 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性 嗜酒 (そ の会合 での 立 ち 居振 る舞い に、 父子や 男女 の区別 はな い。人 は酒 を好む 性質 がある )と あ る 。 本 研 究 で は 、 グ リ ー ン ケ ミ ス ト リ ー の 観 点 7 )か ら 日 本 列 島 に お け る 古 代 の 酒の 醸造法 と万 葉時代 の酒 の文化 を述 べる。 ここ に、万 葉時 代は、 通常 、 大 化 の 改 新 ( 645 年 ) の 初 期 万 葉 か ら 、 大 伴旅 人お お と も のた びと・ 山 上 憶 良やまのうえのおくら・ 山 部赤 人や ま べ の あか ひと・ 大 伴 家 持 おおとものやかもち が 活躍 した天 平万 葉まで のほぼ 120 年と される 。し かし、 万葉集 8) には 5 世紀前半に存在していたとされる仁徳天皇(第 16 代)の皇后 磐 媛いわのひめの歌 君 が行 き日け長く なり ぬ山た づね 迎ヘか 行か む待ち にか 待たむ (85) が あ る こ と か ら 、 本 論 文 で は 前 報 7 )に 従 っ て 、 仁 徳 天 皇 の 時 代 か ら 万 葉 集 の 最後 に収録 され た天平 宝字 3 年( 759 年)の 大伴 家持の 歌 新 あらた しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重しけ吉事よ ご と ( 4516) ま での 5 世紀 前半 から 8 世紀 末まで とす る。即 ち、 仁徳天 皇が 在位し たと さ れ る古 墳時代 後半 (5 世 紀前 半)か ら推 古天皇 (第 33 代 、在 位 592~ 628 年) 前 後の 飛鳥時 代( 6 世紀 末か ら7世 紀前 半)を 経て 、天武 天皇 (第 40 代 、 在 位 673~ 686 年) と持統 天皇 (第 41 代、 在位 690~ 697 年 )の白鳳 期( 奈 良 時代 前期) と元 明天皇 (第 43 代、 在位 707~ 715 年)が 藤原 京から 平城 京 に 遷都 した和 銅3 年( 710 年 )~ 平安 遷都 (794 年) の天平 期( 奈良時 代後 期 )に かけて の約 350 年 間と 広く考 える ことと する 。
2. 古 代列島 の酒 日 本列 島に住 む人 々は、 いつ 頃から 米酒 を造る よう になっ たの かがは っき り しな い。確 かな ことは 、稲 作が伝 来し 、定着 して からの こと ではあ ろう 。 列 島で の稲作 は、 紀元前 1000 年以 上前 から行 われ てきた こと が、イ ネ花 粉 の 出 現 、 イ ネ の プ ラ ン ト オ パ ー ル 9 )の 検 出 ・ 同 定 か ら 推 定 さ れ て い る 。 ま た、 日本最 古の 水稲耕 作( 水田) 遺跡 は、弥 生時 代早期 初頭 (縄文 時代 晩 期 終 末 ) と さ れ る 佐 賀 県 唐 津 市 の 菜なばたけ畠遺 跡 で 、 石 包 丁 ・ 鋤 ・ 鎌 な ど の 農 業 具 が出 土して いる 10)。 菜 畠遺 跡の重 なる 地層の 一部 の放射 性炭素 14 を用 い た 年 代 測定か ら こ の遺跡 は 紀 元前 930 年頃 とも 推 定 されて い る 10)。 し か し、 当 時は 収穫量 が少 なく、 デン プン質 の不 足分を アワ やヒエ など 他の穀 物や ド ン グリ などの 堅果 類で補 って いたで あろ う。従 って 、コメ は多 様な食 べ物 の 一 つに 過ぎな かっ たとも 考え られる 。そ の後、 稲作 が発達 し、 卑弥呼 の時 代 に は列 島の人 々は 酒好き との 記述が ある ことか ら、 弥生時 代後 期後半 の 3 世 紀 前後 には稲 作が より広 まり 、酒の 醸造 が始ま って いたこ とが 分かる 。そ し て 、万 葉時代 初期 、5 世 紀前 半の仁 徳天 皇の頃 には 渡来し た鉄 製の農 機具 に よ って 飛躍的 に農 業技術 が向 上して 、イ ネの水 田耕 作が列 島全 体に拡 大し た。 3. ア ルコー ル発酵3) 酒 は 蒸 し た 米 に コ ウ ジ カ ビ を 生はや し た 「 麹 11 )」 と 水 と 酵 母 を 加 え て 醸 造 し て得 る。コ ウジ カビは 、α -ア ミラ ーゼ ・α -グ ルコ シダー ゼ・ グルコ アミ ラ ーゼ などの 酵素 アミラ ーゼ を菌体 外に 大量に 分泌 し、米 や麦 などに 含ま れ る 高分 子量の デン プン中 のア ミロー ス( 直鎖状 の分 子で分 子量 は比較 的小 さ い )や アミロ ペク チン( 分岐 状の分 子で 分子量 は比 較的大 きい )など のグ リ コ シ ド 結 合 12 )を 加 水 分 解 し て 低 分 子 量 の 単 糖 で あ る グ ル コ ー ス 、 二 糖 類 の 麦 芽糖 (マル トー ス)、 およ びオリ ゴ糖13)な ど 低分 子の糖 にす る。 こ れら の糖類 に酵 母が作 用す ると酒 がで きる。 すな わち、 第 1 ステッ プで 、 ア スペ ルギル ス属 のコウ ジカ ビが出 す酵 素アミ ラー ゼが米 のデ ンプン を分 解 し てブ ドウ糖 とす る酵素 反応 (糖化 )の プロセ スと第 2 ス テッ プでサ ッカ ロ マ イセ ス属の 酵母 (イー スト )がブ ドウ 糖をア ルコ ールと する アルコ ール 発 酵 の 2 段プロ セス で造ら れる 。アル コー ル発酵 の段 階では 図 2 に示す よう に 複 数の 酵素が 作用 する。 図中 の[グル コー ス]nは 繰り 返し単 位と いい、 グル コ ース 基が n 個連 なって いる ことを 示す 。アミ ロー スの場 合、 n = 300~600 で ある 。
4. 万 葉時代 の酒 の造り 方 4.1 口噛 み酒 4.1.1 口 噛み 酒の 造り方 図 2 穀物酒 の醸 造過程 :ア ミロー スの 糖化と グル コース のア ルコー ル発 酵 第 2 ス テップ ア ルコ ール発 酵: サ ッ カ ロ マ イ セ ス 属 の酵 母菌 第 1 ス テップ 糖 化 :ア スペ ルギル ス属 のコウ ジカ ビ
ア ミラ ーゼは ヒト の耳下 腺( 唾液腺 )や 膵臓か らも 分泌さ れる 消化酵 素で あ り、 アミラ ーゼ が唾液 中に 含まれ るこ とが以 下に 述べる 口噛 み酒醸 造の キ ー ポ イ ントで あ る 。口噛 み 酒 の造り 方 が 「風土 記 逸 文(大 隅お ほ すみの 国 )14)」 に 見 ら れる 。 酒 を 造 る を ば 「 か む 」 と も い ふ 。 い か な る 心 ぞ 。・ ・ ・ 大 隅 の 国 に は 、 一 家 あ る いえ に 水と 米とを設も うけ て 、村に 告げ めぐら せば 男女 一所 に集ま りて 、 米 を 噛かみ て 、 酒さ か船ふ ね( 大 き な 容 器 : 槽 ) に 吐 き 入 れ て ,散 り 散 り に 帰 り ぬ 。酒 の香出 で来 る時、 又集 まりて噛かみ て 吐き入 れ者 共も の どもこ れを飲 む。 名 づけ て口く ち噛か みみの 酒と 云うと 、云 々。 すな わち、 図 2 の第 1 ステ ップに 示す ように 米な どのデ ンプ ンを含 む食 物 を 口に 入れて 噛む と、唾 液中 の酵素 アミ ラーゼ が働 きデン プン をグル コー ス な どに 変化す る。 それを 吐き 出して 溜め ておく と、 野生の 酵母 がグル コー ス を 発酵 してエ チル アルコ ール が生成 する (図 2 の第 2 ステ ップ )。 この 時、 原 料は 生のま ま口 に入れ て噛 む場合 、煮 る・蒸 すな どした りす る場合 、更 に は 酸敗 させた 後で 口に入 れて 噛む場 合が ある。 沖 縄地 方では 、身 を清め た女 性が生 米を 噛んだ り、 炊き立 ての コメを 丹念 に 噛ん で容器 に吐 き出し 、そ れに少 しの 水を加 え、 石臼で 挽い てドロ ドロ に し て、 甕に入 れて 発酵さ せ神 酒を造 って いた。 一般 には、 甘酒 程度の 酒が 醸 さ れて いたが 、特 別な場 合に は発酵 を重 ねて高 いア ルコー ル度 数の酒 も造 ら れ てい る。 古 事記 には応 神天 皇(第 15 代、在 位 5 世 紀前 後) の父「 仲哀 天皇の 条」 に も 噛 み 酒 を 造 る 様 子 が 描 か れ て い る 。 建 内宿 禰た け の う ちす くねのみこと命 は 太 子 ( 後 の 応 神 天 皇 ) が 禊みそぎを す る た め , 高 志こ し のみくにのくち前 の 角つ の鹿が( 越 前 の 敦 賀 : 福 井 県 敦 賀 市 ) に 仮 宮 を 建て てお迎 えし た。そ して 禊を終 えて 大和に 迎え 入れる とき 、太子 の母 息お き 長 帯 ながたらし 日 売ひ め のみこと命( 神 功 皇 后 ) は 太 子 に ふ さ わ し い 神 が 醸 し た 酒 だ と し て 献 上 し て 歌っ ている 。 是 こ こ に 、 還か へり 上の ぼり 坐まし し 時 に 、 其 の 御 祖み お や息お き長な がたらし帯日 売ひ めのみこと命 、 待ま ち酒ざ けを 醸かみ て 献り き。爾し かく して 、その御 祖み お やの 御 歌み う たに 曰く、 こ の 御 酒み きは 我 が 御 酒 な ら ず 酒く しの 司か み 常 世と こ よに 坐い ます 石い は立 た す 少 すくな 御 神み か みの 神か む寿ほき 寿ほき 狂くるほし 豊と よ寿ほき 寿ほき 廻もとほし 奉ま つり 来こし 御 酒み きぞ 止あさ ず飲をせ ささ 如か此く歌 ひ て 、 大お ほ御 酒み きを 献たてまつり き 。 爾 く し て 、 建 内たけのうちの宿 禰す く ねのみこと命、 御 子み この 為 に答 へて、 歌ひ て曰く こ の 御 酒み きを 醸かみ け む 人 は そ の 鼓つづみ 臼 に 立 て て 歌 ひ つ つ 醸か
み けれ かも 舞ひ つつ 醸かみ け れかも こ の御 酒み きの 御酒 の あ や に甚う た楽だ のし ささ 此 こ れ は 酒さ か楽く らの 歌ぞ ( そし て、太 子が (大和 に) 帰り上 って いらっ しゃ った時 に、 その母 君 息お き長な が 帯 たらし 日 売ひ めのみこと命 ( 神功 皇后) は待ま ち酒ざ け( 無事の 願い を込め て造 る酒、 5.4 項 参照 ) を 造っ て献上 した 。そう して 、その 母君 がお歌 いに なって いう には、 こ の御 酒は 私が 醸した 御酒 ではあ りま せん 御酒 をつか さど る神 常 世に いらっ しゃ って、 岩神 として (岩 のよう に永 続性を もっ て)立 っ て いら っしゃ る少 名毘 古那す く な ひ こ な の神か みが 祝福の ため に踊り 狂っ て醸し 祝 福のた め に踊 り廻っ て醸 して、 献 上して きた 御酒で す 一気に お飲 みくだ さ い さ あさあ 。 こ の よ う に お 歌 い に な っ て 御 酒 を お 勧 め し た 。 そ こ で 建 内たけのうちの宿 禰す く ねのみこと命が 、 御 子 の代 わりに 答え て歌っ てい うには こ の酒 を醸し たと いう人 は その鼓 を臼 のよう に立 てて 歌い つつ醸 し た から か 舞 いつ つ醸し たか らなの か この御 酒は 何と もい えず楽 し い こと です さあ さあ こ の二 首は酒さ か楽く ら( 酒の 座)の 歌で ある 。) こ れら の記述 から 口噛み 酒を 造る様 子が 分かる 。ま た、酒 つく りは神 に仕 え る巫 女の仕 事で あり、 酒が 深く宗 教と 結びつ いて いたこ とを 窺わせ る。 な お 、 こ こ に 登 場 す る 酒 造 の 神 と し て の 少 名 毘 古 那 神 は 大 国 主おほくにぬしの神か みの 国 造 り の 完 成に 力を尽 くし たほか 、酒 造・医 薬・ 温泉・ 穀物 ・知識 ・石 の神な ど多 様 な 性質 を持つ 神話 の神で ある 。 同 じく 「応神 天皇 の条」 に、 十 九年 の冬十 月の戊ぼじゅつ戌の 朔ついたちに、 吉野 の宮に 幸いでます 。 時に、国 樔人く に す ひ と 来 朝ま い りり 。因より て醴こ酒さ けを以 ちて 天皇に 献たてまつり て 、 歌うたよみして日ま うさ く 橿 か し の生ふに 横よ臼く すを 作り 横 臼に 醸かめ る大お ほ御 酒み き う まら に 聞き こし 持ち食をせ ま ろが 父 ( 十九 年の冬 10 月 1 日、(応 神天 皇が )吉 野の宮 に行 幸され た。 その時 、 国 樔人 く に す ひ と ( 現在 の奈良 県吉 野町国 栖の 人)が 来朝 した。 そし て濃い 酒を 天皇に 献 じて 、歌を 詠ん で、 樫 の生 えてい る所 で横臼 を作 り そ の横 臼で醸 した 大御酒 をお いしく 召 し上 がって くだ さい わが 父(首 長) よ。) と 申し 上げた 。こ こに、醴こ酒さ けは 粕 を分離 せず 、その まま 飲用す る甘 酒であ る。 4.1.2 口 噛み 酒に よる 盟うけい酒ざ け 古代 、念願 する 物事の 成就 や成否 や吉 凶を占 う祈 誓う け いに は酒を 介在 する例 が
見 ら れ る 。「 盟 」 は お 互 い に 交 わ し た 約 束 を 神 の 前 に 誓 う こ と を 意 味 す る 。 播 磨国 風土記 の「託 賀た か郡 の条14)」 に は 荒 田あ ら たと 号な づく る 所 以ゆ えは 、 此 処こ こに 在い ます 神 、 み 名 は 道み ち主ぬ し日 女ひ め のみこと命、 父 无なく し て み 児 を 生 み ま し き 。 盟うけい酒さ けを 醸かま む と 為して 、 田た七 町 を 作 り し に 、 七 日 七 夜 の 間 に 、 稲 、 成 熟み のり 竟をは り き 。 す な は ち 酒 を 醸かみ 、 諸もろもろの 神 た ち を 集つ どへ 、 そ の 子 を 遣やり て 酒 を 捧 げ て 養やしなは し め き 。 こ こ に 、 そ の 子 、 天 あめの 目まひとつの一 みこと命に 向 き て 奉たてまつり き 。 す な わ ち そ の 父 な る を 知 り き 。 後 に 、 そ の田た荒あれ き。故かれ 、荒 田の村 と号 すく。 ( 道み ち主ぬ し日 女ひ め のみこと命が 、 父 が な い の に 赤 子 を お 産 み に な っ た 。( 誰 の 子 か ) 神 意 を 聞 くた めの酒 を醸 造しよ うと して、 田七 町を耕 作し たとこ ろ、 七日七 夜の 間 に 稲が 完全に 熟し きった 。そ こで酒 を醸 造し、 多く の神々 を集 め、そ の子 を 遣 わ し て 酒 を 捧 げ て 奉 ら せ た 。 さ て そ の 時 、 そ の 子 は 、 天あめの目まひとつの一 みこと命に 向 か っ て酒 を奉っ た。 そこで その 子の父 神で あるこ とが 分かっ た。 後に、 その 田 が 荒 れ 果 て た 。 だ か ら 、 荒 田 の 村 と 名 付 け た 。) こ こ に 、 天あめの目まひとつの一 みこと命は 式 内社 し き な い しゃ で あ る 天 目 一あめのまひとつ神 社 ( 兵 庫 県 西 脇 市 大 木 町 ) の 祭 神 で 鍛 冶 師 の 奉 じ た 神 。長 年、火 の色 を見つ める 仕事の ため 、一眼 を失 ったと され る。ひ ょっ と こ (火 男)の 原型 であり 、後 述の天あ まの石 屋い わ やの 神 話にも 登場 する。 同 様 の 盟うけい酒ざ けの 話 は 「 風 土 記 の 逸 文 ( 山 背 国 )14 )」 に も あ る 。 要 約 す る と 、 玉 依 た ま より 日 売ひ めが 川遊 びをし てい るとき 、丹 塗に ぬ り矢や( 真っ赤 に塗 られた 矢) が流れ て き たの で、家 に持 ち帰り 、寝 床に挿 し置 いたと ころ 、とう とう 身ごも って 男 子 を 産 ん だ 。 そ の 児 が 成 人 し た と き 、 日 売ひ めの 父 、 賀 茂か も建た け角つ のみのみこと身 命が 酒 を 醸 し 、 神 々を 招待し て七 日七夜 の酒 宴を張 った 。そこ で命 が、児 に「 一座の 神々 の 中 でお 前の父 と思 われる 人に この御 酒み きを 飲ま せなさ い」 といっ た。 すると 児 は 天 に 向 か っ て 祈 ろ う と し て 天 井 を 破 っ て 天 に 昇 っ て 酒 を 捧 げ た の で 、 火ほ の 雷 いかずちの 神か み( 命みこと) が 児 の 父 と 判 明 し た 。 丹 塗 矢 と 称 し た の は 、 乙 訓 郡 の 社 で 祭 ら れて いる火 雷神 のこと であ る。 4.1.3 神 話に 出て くる酒 4.1.3.1 宗像 三女 神 古 事 記 15 )の 上 つ 巻 の 「 天 照 大 神 と 須 佐 之 男 命 の 条 」 に は 、 伊 耶邦い ざ な技き のみこと命 ( イ ザ ナ キ ) は 3 人 の 子 ど も に そ れ ぞ れ 、 天あ まてらす照大 御神お お み か み( ア マ テ ラ ス ) は 高 天原 た か ま が はら を 治 め 、 月 読つ く よみのみこと命 は 夜 之よ る の食を す国く にを 知 ら せ 、 そ し て 須 佐男す さ の お のみこと命( ス サ ノ オ ) に は海 原う な はらを 治めな さい と委任 した 。しか し、 スサノ オは 仰せつ かっ た国を 治 め な い で 大 泣 き に 泣 い た の で 、 イ ザ ナ キ が 何 故 そ ん な に 泣 く の か と 聞 く と 「 亡き 母の国 の根 之ね の堅 州か た す国く にに 行きた いと 思って 泣く のです 」と 答えた ので 、 イ ザ ナ キ は 怒 っ て 、「 そ れ な ら 、 こ の 国 に 住 ん で は な ら な い 」 と い っ て 彼 を
勘 当し 、自ら は近 江の多 賀に 鎮座し た。 そこで 、ス サノオ は姉 のアマ テラ ス に お願 いして 母の 国に行 こう と高 天原た か ま が はらに行 った 。この 時、 山川は みな どよめ き 国土 はすべ て震 えた。 これ を聞い たア マテラ スは 驚き、 わが 国を奪 おう と 思 っ て 攻 め て き た に 違 い な い と 武 装 し て 待 ち 構 え 、「 何 の た め に 上 っ て 生 き た の か 」 と 尋 ね た 。 ス サ ノ オ は 、「 私 は 亡 き 母 の 国 に 行 き た い と イ ザ ナ キ に 言 った ら、神 やら いに追 い払 われま した 。そこ で、 このよ うな 次第を 申そ う と 思 っ て 参 上 し た だ け で す 。 他 心 は あ り ま せ ん 。」 と 答 え た 。 ア マ テ ラ ス は 「 そ れ な ら 、 お 前 の 心 が 清 ら か な る こ と は ど の よ う に し て 知 ろ う か 。」 と 問 わ れ る と 「 そ れ ぞ れ 誓 約う け いを し て 子 を 産 み ま し ょ う 。」 と 申 し 上 げ た 。 そ う し て 二柱 の神は 天の 安の河 を挟 んで誓 約す る。そ の結 果、5 男 3 女の神 が生 ま れ た。 アマテ ラスは 3 柱 の女 神を産 んだ のであ る。 天 照 大 御 神 、 先 づ 建た て速は や須 佐之 男す さ の を のみこと命の 佩はけ る 十と拳つ かの 剣つるぎを 乞 ひ 渡 し て 、 三み段き だに 打ち 折りて 、ぬ なとも もゆ らに天 の真ま名 井な ゐに 振り滌す すぎ て、 さ が み にか みて、 吹き棄うつ る気 吹い ぶ きの狭 霧さ ぎ りに な れる神 の御 名み なは 、多 紀理 毘売た き り び め の 命 みこと 。 亦 の 御 名 は 奥 津お く つ島し ま比 売ひ め のみこと命と 謂 ふ 。 次 に 市 寸島 比売い ち き し ま ひ め のみこと命。 亦 の 御 名 は、狭 依毘 売さ よ り ひ め のみこと命と 謂ふ 。次 に多 岐都 毘売た き つ ひ め のみこと命 3 柱の 女神た ちは ニニギ ノミ コトの 天孫 降臨以 前に 天下っ た神 たちで ある 。 宗 む な 像 か た 三 女神 として それ ぞれ、 福岡 県の宗 像大 社の三 宮に 鎮座し た。 古事記 に は 、 多 紀理 毘売た き り び め のみこと命( 日 本 書 紀 で は 田た心ご り姫ひ め神 、 以 下 同 じ ) は 玄 界 灘 の 沖 ノ 島 の 沖 津宮お き つ ぐ う、 市 寸島 比売い ち き し ま ひ のみこと命( 市 杵 島 姫 神 ) は 筑 前 大 島 の 中 津宮な か つ ぐ う、 そ し て 田 寸津た き つ 比 売ひ め のみこと命 ( 湍 津た き つ姫ひ め神 ) は 宗 像 市 田 島 の 辺 津宮へ つ ぐ うに 坐い ます と あ る が 、 市 寸島 比売い ち き し ま ひ のみこと命と 田 寸津た き つ比 売ひ め のみこと命は そ れ ぞ れ 、 辺 津宮へ つ ぐ うと 中 津宮な か つ ぐ うに 祭 神 と し て 祀 ら れて いる。 ここ で、さ がみ にかみ て、 吹き棄うつ る気 吹い ぶ きの狭 霧さ ぎ りに なれ る神 の御 名み なは( 噛 み に噛 んで吐 き出 した息 の霧 になっ た神 の御名 は) は口噛 み酒 の造り 方を 連 想 させ る。宗 像大 社は海 陸交 通の道 の神 として 祀ら れてい るが 酒の神 であ っ て もよ いので はな かろう か。 4.1.3.2 須 佐之 男す さ の お のみこと命の 狼 藉 日 本の 神話に アル コール ハラ ストメ ント が登場 する 。アマ テラ スは、 上述 の よう に誓約 によ って上 述の 3 柱の 女神 を産ん だが 、スサ ノオ の方は 、ア マ テ ラス の左右 のみ づら、 かず ら、そ して 左右の 手な どに纏 った 沢山の八 尺や さ かの 勾 玉を 噛みに 噛ん で吐き 出し た息の 霧から 5 柱 の男 の神が 生ま れた。 左右 の み づ ら に 巻 い て い る 玉 か ら 天あ め之の忍お し穂ほみみの耳みこと命と 天 之あ め の菩 卑ぼ ひ能のみこと命、 か づ ら に 巻 い て い る 玉 か ら 天 津あ ま つ日 子ひ こ根ね のみこと命、 左 右 の 手 に 巻 い て い る 玉 か ら 活 津い く つ日 子ひ こ根ね のみこと命と 熊 く ま 野の久く須す毘び のみこと命が そ れ ぞ れ 生 ま れ た 。 天あ め之の忍お し穂ほみみの耳みこと命と 天 之あ め の菩 卑ぼ ひ能のみこと命は 二 柱
と もに 稲穂や 農業 の神で ある ことか ら、 ここで の「 噛みに 噛ん で」は 農耕 で 丹 念に 土地を 耕す 、すな わち 、稲作 に励 むと解 釈し たい。 誓 約の 結果、 弟神 のスサ ノオ は、 我あが 心清 く明あ かきが 故に 、我が 生め る子は 、手 弱女た お や めを 得つ。 是 に因 りて言 はば 、自ら 我勝 ちぬ と 勝ち を宣言 し、 姉アマ テラ スの田 の畔 を壊し 、溝 を埋め 、大 嘗祭を する 御 殿 に糞 をまき 散ら した。 しか し、姉 神は それを 咎め ずに、 次の ように 言っ た。 屎 く そ の 如き は 酔ゑひ て吐 き散ら すと こそ 我あが な せの 命みこと 如か此く為しつ ら め 又 、田の あを 離ち 溝を埋うは 地ところを あた らしと こそ 我が なせ の 命 如か此く為しつ らめ ( 屎の ような もの は酔っ て吐 き散ら そう として 私の 弟の命 がそ うした もの で し ょう 。また 、田 の畔を 壊し 、溝を 埋め たのは 、土 地がも った いない と思 っ て 私 の 弟 の 命 が そ う し た の で し ょ う 。) と 弟 神 を か ば っ た 。 ス サ ノ オ の 乱 暴 狼 藉は 、酩酊 が引 き起こ すア コール ハラ スメン トが 古代か ら社 会問題 とな っ て いた ことを 示し ている 。姉 神の弁 護に もかか わら ず、ス サノ オの悪 い行 い は 止ま らず、 さら に悪行 を為 したの で、 アマテ ラス は見て 恐れ 、天あ まの石 屋い わ やの 戸 を 開 き 中 に 籠 っ て し ま っ た の で 、 高 天原た か ま が はらも 葦 原あ し はらなかつくに中 国は す っ か り 暗 く な っ て しま う。そ こで 、神々 が安や すの河 原か わ らに 集ま って 相談し て、八 尺や あ たの 鏡を 作る な ど い ろ ん な 手 立 て を し た 。 最 後 に 、 天 宇受 売あ め の う ず めのみこと命 が 神 が か り し て 胸 の 乳 を 露 出 させ 、裳の 紐を 女陰ま で押 し垂ら すと 高天原 が鳴 り響く ほど 八百万 の神 々 が ど っ と 笑 っ た 。 ア マ テ ラ ス は 不 思 議 に 思 っ て 天 の 石 屋 を 細 く 開 け て 天 宇受 売あ め の う ず めのみこと命 に 「な ぜ歌舞 をし て大笑 いし ている のか 」と聞 くと 汝なが 命みことに 益まし て貴き 神の坐い ます が故 に、歓よ ろ喜こ びび 咲わ らひ楽あ そぶ と 答 え た 。 そ の 間 に 天 児屋あ め の こ やのみこと命と 布ふ刀とたまの玉みこと命が 八 尺 の 鏡 を 差 し 出 し て ア マ テ ラ ス に 見 せ る と 、 少 し づ つ 出 て き て 鏡 に 映 っ た 自 分 の 姿 を 見 た 。 そ の 時 、 天 手 あ め のた 力 男 ぢ か らの 神 か み が ア マ テ ラ ス の 手 を 取 っ て 引 き 出 し た 。 そ し て 、 高 天 原 と 葦 原 中 国 なかつくに は 明 る く な っ た 。 以 上 が よ く 知 ら れ た 天 の 石 屋 の 神 話 で あ る 。 こ こ に 、 ・ ・・ 天の金 山か な やまの 鉄くろがねを 取 りて、鍛 人か ぬ ちの 天 津あ ま つ麻ま羅らを 求めて ・ ・・ 鏡を作 らし め・・ ・ と天 津あ ま つ麻ま羅らに 八 尺や あ たの 鏡をつ くら せてい るが 、この 神は 4.1.2 項で 取り上 げた 天 あめの 目まひとつの一 みこと命の 別名 で、製 鉄・ 鍛冶の 神で ある。 4.1.3.3 須 佐之す さ の男お のみこと命の 大 蛇退 治 高 天原 た か ま が はら で 乱暴 狼藉を 働い たスサ ノオ は 是こ こに 、八百 万の 神、共 に議は かり て、速 須佐 之男は や す さ の を のみこと命に千 位ち く らの 置 戸お き とを負おほ せ 、亦ま た、 髭と手 足の 爪を切 り、祓は らへ しめ て、神か むや らひ やら ひき
( そし て、す べて の神々 は一 緒に相 談し てスサ ノオ にたく さん の祓え もの を 背 負 わ せ 、 ま た 、 髭 と 手 足 の 爪 を 切 り 、 罪 を あ が な わ せ て 、 神 遣らいやら い に 追 い 払 っ た 。) そ の 結 果 、 高 天原た か ま が はらを 追 い や ら れ た ス サ ノ オ は 出 雲 国 に 下 っ た 。 ス サノ オが酒 で八や岐ま た大 蛇お ろ ちを 退治し た 件くだりは よく知 られ ている 。 乃 すなわ ち 脚あ し摩 乳な づ ち・ 手 摩乳て な づ ちを し て 八 醞やしほおりの 酒 を 醸かみ 、 併あ はせ て 仮 庪さ ず き八 間や まを 作 り 、 各 おのもおおも 一 口ひ と つの 槽さかふねを 置 き、酒 を盛もら しめて 待ち たまふ 。期と きに 至りて 、 果 たし て大 蛇お ろ ち有り 。 ( そし て、脚あ し摩 乳な づ ち・手 摩乳て な づ ちに 命 じて幾 度も 繰り返 し醸 した上 等な 酒を造 らせ 、 併 せて 桟敷を 八つ の間数 作ら せ、各 々に 一つず つの 酒桶を 置い て、酒 を満 た さ せて 八岐大 蛇が 来るの を待 ってお られ た。そ の時 が到来 して 、果た して 大 蛇 が や っ て き た 。) 酒 は 米 を 噛 ん で 造 る の で 「 醸 」 を カ ム と 読 み 、 八 醞やしほおりの 酒 と は 幾 度 も 噛 ん だ 醇 度 の 高 い 酒 で あ る 。 槽さかふねと い う 飼 い 葉 桶 の よ う な 大 き な 容 器に 入れ、大 蛇お ろ ちを 神 として 神酒 を供薦 して いる。 4.1.3.4 神武 天皇 の東征 日本 書紀 16)に よ る と、 高天 原に降 臨し た瓊 瓊に に杵ぎ のみこと尊の曽 孫で ある 神か む日 本や ま と磐い わ 余れひこの彦みこと尊( イ ワ レ ヒ コ : 後 の 神 武 天 皇 ) は ヒ コ ナ ギ サ タ ケ ウ カ ヤ フ キ ア エ ズ ノ ミコ トとタ マヨ リヒメ の子 である 。イ ワレヒ コは 、 東 ひむがしのかた に 美うまし地つ ち有 り 。青山 四よもに周め ぐれ り 。其の 中に 、 亦 ま た 天 あまの 磐 い わ 船 ふ ね に 乗り て飛び降く だる 者 有り と 聞い ては東 征の 途に就 いた 。神武 東征 である 。日 向ひ ゅ うがを 出て瀬 戸内 海を東 に 向 かい 、難波 の岬 に到着 した 。次い で生 駒山( 大阪 と奈良 の県 境の山 )を 越 え てイ ワレヒ コ軍 が進攻 しよ うとし たが 先住民 の長な が髄す ね彦ひ こ軍 の反撃 に出 遭っ た の で 退 却 し て 、 熊 野 ( 和 歌 山 ) に 至 っ た 。 そ の 後 、 頭 八咫や た がらす烏に 先 導 さ れ て 内 陸部 の菟う田だに到 着し た。そ こで イワレ ヒコ は兄えうかし猾と弟お とうかし猾の 2 人 を召し た と ころ 弟猾は すぐ に来た が、 兄猾は 来ず に天皇 を殺 そうと 企ん でいた 。そ れ を 知っ た天皇 は兄 猾を殺 した 。その 後、 弟猾は 牛肉 と酒を 取り 揃えて イワ レ ヒ コ軍 を 労ねぎらい饗 宴し た。 己 すでに に して 弟猾、 大き に牛し し酒さ けを設まけ て皇 師み い くさを労ねぎ 饗みあへす。 天 皇すめらみこと、 そ の酒 宍さ け ししを 以ちて 軍 卒いくさひとに 班あ かち 賜ひ・ ・・ そ の後 、イワ レヒ コノは 大和 国畝 傍う ね びの橿 原の 宮で神 武天 皇とし て即 位した 。 こ こ に 登 場 す る 長な が髄す ね彦ひ こに し て も 兄えうかし猾と 弟お とうかし猾に し て も 先 住 民 を 差 別 し た 呼 び 名 であ る。天 孫族 は侵攻 して きた列 島の 新しい 征服 者で、 被征 服者の 先住 民 族 は征 服者に 結構 な酒肴 のモ テナシ をし たので ある 。 4.2 コウ ジカ ビを 用いた 醸造 酒
4.2.1 醸 造法 の伝 来 前 項 で 述 べ た 古 事 記 の 「 仲 哀 天 皇 の 条 」 に 続 く 、「 応 神 天 皇 の 条 」 に コ ウ ジ カ ビ に よ る 酒 造 法 が 百 済 か ら 伝 わ っ た と 考 え ら れ る 記 述 が あ る 。 百 済 は 和 邇わ に吉 師き しに 論語 と千字 文を 応神天 皇( 5 世紀 前後 )に献 上さ せると とも に、 酒 の醸 造を知 って いる須 須許す す こ理りを 送っ てきた ので ある。 ・ ・・ 酒を醸かむ こと を知れ る人 、名は仁 番に ほ、 亦 の名は須 須許す す こ理り等 と 、 参まゐ 渡わ たり 来 た り 。 故か れ、 是この 須 須許す す こ理り、 大お ほ御 酒み きを 醸かみ て 献たてまつり き 。 是こ こに 、 天 皇 すめらみこと 、 是 の 献 れ る 大お ほ御 酒み きに う ら げ て 、 御 歌み う たに 曰 く 、 須 須許す す こ理りが 醸か み し御 酒み きに 我酔ゑひ にけ り 事こ と無なぐ し酒 笑ゑ酒ぐ しに 我酔ひ にけ り 如か此く歌 ひ て ・・ ・ 」 ( ・・ ・酒の 醸造 を知っ てい る人で 、名 は仁 番に ほ、ま たの 名は須 須許す す こ理りと いう 者 とが 渡来し てき た。そ して この須 須許す す こ理りは 、御 酒を造 って 献上し た。 その 時 、天 皇は、 この 献上さ れた 御酒を 飲ん で気持 ちが 愉快に なっ て、お 歌い に な っ て い う に は 、「 須 須許す す こ理りが 醸 し た 酒 に 私 は す っ か り 酔 っ て し ま っ た 無 事平 安にな る酒 笑い たく なる酒 に 私はす っか り酔っ てし まった 」と お 歌 い に な っ た ・ ・ ・ 。) 須 須許す す こ理りが 伝 え た の は 口 噛 み 酒 の 造 り 方 で は な く コ ウ ジカ ビを使 った 醸造酒 の製 法であ ろう 。 一 方 、「 播 磨 国 風 土 記 」 に も コ ウ ジ カ ビ に よ る 酒 の 醸 造 の 記 述 が み ら れ る 。 庭 音に わ との 村 。 本 の 名 は 庭に は酒きな り 。 大 神お ほ かみの 御みかれひ粮、 沾ぬれ て 黴 生 え き 。 す な わ ち 酒み わを 醸かま し め て 、 庭に は酒きに 献たてまつり て 、 宴さかみづく 。 故か れれ 、 庭 酒 の 村 と 日い ふ 。今 の人は庭 音に わ との 村 と云ふ と あり 、コウ ジカ ビを用 いた 酒の醸 造が 行われ てい たこと を示 してい る。 す な わち 、古代 、日 本列島 では 口噛み によ る酒が コウ ジカビ によ る酒に 移行 し て いっ たので ある 。長崎 県対 馬市厳 原い ず はら町豆 酘つ つに あ る多 久頭た く ず魂た ま神社 の赤 米神事 で 備 え る 酒 は 麦 コ ウ ジ で 発 酵 さ せ た ま ま の 酒 だ そ う だ 17)。 遅 く と も 奈 良 時 代 の初 期に麹 を用 いた酒 造り の技術 が伝 来して おり 、列島 の醸 造法は 飛躍 的 に 発展 した。 日本 酒の醸 造が 本格化 した のであ る。 4.2.2 酒 造り 唄 持 統 3 年 (689 年)に飛 鳥あ す か浄き よ御 原み が はら令 に基 づいて造 酒司み き の つ かさに 酒 部が設 けら れた。 文 武天 皇(第 42 代、在 位 697- 707)の 大宝元 年( 701 年 )に は大宝 律令 に よ って 朝廷の ため の酒の 醸造 体制が 整備 された 。そ の後、 寺院 でも、 僧 坊そ う ぼう酒し ゅ 18 )を 造 り 出 し て い る 。 酒 部 は 杜 氏 の 意 も あ る 。 杜 氏 た ち は 新 酒 の 仕 込 み の と きは 酒造り の唄 を歌う 。こ れは酒 造り の各工 程で 幾人か の杜 氏たち が調 子 を 合わ せて同 一の 作業を する タイミ ング をとる 意味 と作業 時間 を計る 意味 も あ ると いう。 万葉 集に古 代の 酒造り の唄 が採録 され ている
梯 は し 立 た て の 熊 来く ま き酒 屋に 真 罵ま ぬら る 奴やつこ わし 誘 さ す ひ 立 て 率ゐて 来 な ま し を 真 罵ま ぬら る 奴やつこ わ し ( 3879) ( 梯立 の熊来 の酒 屋にど なら れてい る奴 よ ワ シ 誘い立 てて 連れて 来て し ま い た い の に ど な ら れ て い る 奴 よ ワ シ 。) こ こ に 、 酒 屋 は 大 勢 の 奴 婢 が 働 いて いたで あろ う醸造 所の ことで 、こ の歌は 奴婢 らの自 嘲と 願望が ある 労 働 歌で あろう 。ま た、大 伴家 持も「 酒造 りの歌 一首 」とし て詠 ってい る。 中 臣 の 太ふ と祝 詞の り と言ご とい ひ 祓は らへ 贖あが ふ 命 も 誰たが た め に 汝な れ ( 4031) ( 中臣 の唱え る立 派な祝 詞を 誦じ 祓い をし 祈る 命も 誰の ためか 他 な ら ぬ あ な た の た め だ 。) 醸 造 の 際 に 唱 え る 歌 で あ る が 、 家 持 が 醸 造 歌 に 託 し て 詠っ た戯歌 と思 われる 。 こ こに 、中臣 は神 事・祭 祀を 司った 氏族 である 。中 臣氏の 中で も中臣 鎌足 は 蘇我 氏を滅 亡に 追いや った 「乙巳 の変 」に参 画し 、天智 天皇 から藤 原姓 を 賜 って おり、 鎌足 の系統 だけ が藤原 姓を 名乗る こと が許さ れ、 祭祀を 司る 氏 族 から 、奈良 ・平 安時代 を通 じて一 大政 治勢力 に変 貌する7、 19)。 4.2.3 酒 誉め の歌 常 陸国 風土記 の「香か島し まの 郡の 条14)」 に 又 、年と し別ご との四 月う づ き十 日に 、祭 を設まけて 酒を灌のむ 。 卜うらべ氏う じの種 属や か ら、 男 も女 も集 会つ どひ、 日を 積み夜 を累か さね 、飲み 楽し び歌い 舞ふ 。 そ の唱う たに 云はく 、あ らさか の 神のみ 酒を たげ たげ と 言 ひけ ばかも よ 吾わが 酔ゑひに けむ ( また 、毎年 の四 月十日 に、 祭を行 って 酒宴を する 。卜部 氏の 同族は 、男 も 女 も集 まり、 何日 も何日 も、 幾夜も 幾夜 も、酒 を飲 み楽し み歌 い舞う 。そ の 唱 う歌 に次の よう に言う 。新 しく醸 造し た神酒 を、 飲め、 飲め と、あ なた が 上 手に 勧めた から だろう な、 私はす っか り酔っ てし まった よう だ。) 卜 部 氏 は 神 社 に 属 し て 卜 占 を 職 と す る 氏 族 。「 あ ら さ か の 神 の み 酒 」 は 新 し い精 の強い 良い 、神か ら戴 いた酒 のこ と。こ の歌 は酒を ほめ て宴を 謝す る 歌 であ る。 4.2.4 オ ン- ザ- ロック 日本 書紀の 「仁 徳天皇 の条 」に酒 に関 する興 味深 い記述 があ る。仁 徳天 皇 の 弟 で あ る 額 田ぬ か たの大お ほなかつひこの中 彦皇 子み こが 闘 鶏つ け( 奈 良 県 山 辺 郡 付 近 ) で 猟 を し た と き 、 山 頂か ら野中 を見 ると廬い ほ( 草木 で作っ た仮 の小屋 )が あり、 使い をやっ て調 べ さ せ る と 窟む ろで あ っ た 。 そ こ で 、 闘 鶏つ け の稲い な置きおほおお大 山や ま主ぬ しを 召 し 出 し て 尋 ね た 。 問 答 は次 のよう であ る。 「 其の 野中に 有る は、何 の窟む ろぞ 」
「氷 室ひ む ろな り 」 「 其のおさむるさま蔵 如何 にぞ 。亦奚な にに か用つ かふ 」 「 土 を 掘 る こ と 丈ひとつえあまり余、 草 を 以 ち て 其 の 上 に 蓋お ほふ 。 敦あ つく 茅ち・ 荻すすきを 敷 き 、氷 を取り て其 の上に 置く 。既に夏な月つを 経 て泮きえず 。其 の 用つ かふ こ と 、即 ち熱な月つに当 りて 、水み づ酒さ けに漬ひ たし て用 ふなり 」 この 時代す でに オン- ザ- ロック を嗜 んでい たの である 。弟 皇子が その 氷 を 持 ち 帰 っ て 仁 徳 天 皇 に 献 上 し た 。 天 皇 は こ れ を 歓 び 、 以 後 後 、 毎 年 、 12 月 には 氷室で 氷を 貯蔵し 、春 分の頃 にな ると初 めて 氷を分 けた という 。 4.2.5 禁 酒令 前 述 ( 4.2.2 項 ) し た よ う に 、 造 酒 司 に 酒 部 が 設 け ら れ た の は 持 統 朝 の 689 年 である が、 それ以 前に 、すで に禁 酒例が 見ら れる。 日本 書紀に よれ ば、 孝 徳天 皇(第 36 代、在 位 645~654 年) が「大 化の 改新」 の 詔みことのりを 下した 翌 年の 大化 2 年に 禁酒の 詔を 発して いる 。 凡 おおよ そ 畿 内うちつくによ り 始 め て 四 方よ もの 国 に 及い たる ま で に 、 農 作な り はひの 月 に 当 た り て は 、 早 すむやけ く営た つ田く るこ と を務め よ。 美 物うましものと 酒と を喫く らは しむべ から ず ま た、 持統天 皇(第 41 代 、在位 690~ 697)の持 統 5 年( 691 年)、この 年 の 夏の 長雨は 季節 外れで ある ので必 ず農 耕に被 害が 出るだ ろう と案じ て、 夕 ゆうへ に 惕い たみ 朝あしたに 迄い たま で に 憂うれへ懼お そり 、 厥その 愆あやまりを 思 念お もふ 。 其それ 、 公まへつ卿き み・ 百 も も 寮 人 つかさひと 等ど もを して 、酒・宍し しを 禁いさめ断やめ て、摂 心せ ふ しん悔 過く ゑ くわせ しめ よ こ れら に禁酒 令の 以降に もた びたび 、災 害・旱 魃・ 飢饉・ 疫病 の流行 や酒 乱 によ る騒擾 を防 ぐため に禁 酒や群 飲酒 禁止の 詔が 下され てい る。聖 武天 皇 ( 第 45 代、 在位 724~ 749)の 天平 4 年( 732 年 )と天平 9 年( 737 年 )に 禁 酒令 が出て いる 。その 間の 天平 7 年の 疫や飢 饉の 大流行 は大 仏建立 の引 き 金 とな って、 大仏 造立の 際に も酒肉 と殺 生が禁 じら れてい る。 また、 疫病 が 蔓 延し ていて 、集 まって 酒食 を行う こと が病気 の伝 染の原 因と 考えら れ、 天 平 18 年( 746 年 )に 「群 飲厳 禁令」 の詔 が発布 され たので あっ た。さ らに 、 禁 酒令 は天平 宝字 2 年( 758 年)に も酒 乱大流 行の ため発 布さ れてい る。 5. 万葉 集の 酒の 歌 5.1 祭祀 と酒 宗 教ご とに酒 の扱 いは異 なる 。仏教 では 、飲酒 は避 けるべ き悪 徳であ り苦 し み を 生 み 出 す も の と さ れ る 。 尤 も 有 力 寺 院 で は 僧 坊 酒 18 )が 造 ら れ て い た が 。一 方、飲 酒に よる陶 酔感 が神秘 なも のと考 えら れるよ うに なり神 に関 わ る 宗教 儀礼に 結び ついて いっ た。我 が国 の神道 では 、酒は 敬神 信仰と 深く 関 わ り、 儀式に 用い られる御 神酒お み きは 神 への捧 げも のであ ると 同時に 自ら の身体
を 清め 、神と の一 体感を 高め るため の飲 み物で もあ る。す なわ ち、飲 酒と い う 行為 は神聖 な行 事その もの であっ た。 現在で も、 神殿に 神酒 を供え て祭 祀 す るほ か、地 鎮祭 では敷 地の 四方に 酒を 注いで 工事 の安全 を祈 ったり する の は 奈良 時代か らの 風習で ある 。 信 仰の 対象と なる 酒神は 具体 的に定 めら れてお り、 ギリシ ャ神 話では バッ カ ス ( デ ィ オ ニ ソ ス ) で あ る が 、 わ が 国 の 代 表 的 な 酒 神 の 一 柱ひとはしらは 大 物お お ものぬしの主 大 神 お ほ かみ で あり 、大神 が鎮 まるの は三 輪山の大 神お ほ みわ神 社 である 。奈 良県桜 井市 にあ る 三輪 山は大 神神 社の御 神体 であり 、杉 は神杉 とし て神聖 視さ れ、杉 の葉 で 作 った 杉玉が 酒つ くりと 酒蔵 のシン ボル となっ て今 に伝わ って いる。 万 葉集 に採録 され た三輪 山を 詠った 歌の 枕 詞まくらことばは 味う ま酒さ けであ る。 例えば 、 味 う ま 酒 ざ け の三み諸も ろの 山 に立つ 月の 見が欲ほし 君が 馬の音 そ為する ( 2512) ( 味 酒 の 三 諸 の 山 に 立 つ 月 の よ う に 見 た い と 思 う あ な た の 馬 の 音 が す る 。) 三 諸山 は神が 憑く 三輪山 のこ と。 額 田王 が近江 国に 下った とき に詠ん だ歌 も枕詞 は味 酒であ る。 味 う ま 酒 さ け 三輪 の山 あお によし 奈 良の山 の 山の際まに い 隠るま で 道 の隈く ま い積る まで に つ ばら にも 見つ つ行く かむ を し ばし ばも 見み放さけ む 山 を 情こころな く 雲 の 隠 さ ふ べ し や ( 17) ( 味酒 の三輪 山が 青土 も美 しい奈 良の 山の山 際に 隠れる まで 幾重 にも 道 を 折り 重ねる まで 幾度 も望 み続け てい こう山 を 心なく 雲が 隠すべ きだ ろ う か 。) 額 田 王 が 近 江 に 下 っ た の が 天 智 天 皇 の 近 江 遷 都 の と き な ら ば 天 智 6 年 ( 667 年) に詠 われた こと になり 、大 和を離 れる に際し ての 儀礼の 歌で あ ろ う。 酒 が神 を祭る 行為 と結び つい ていた こと を表す 歌が ある。 斎い串く し立 て神 酒み わ坐すゑ奉ま つる 神か む主 部ぬ しの髻う華ずの玉た ま蔭か げ見 れ ば羨と もしも ( 3229) ( 玉ぐ しを立 て神 酒を据 えて お祭り する 神職( 巫女 )たち が髻う華ずに さした 玉 か ず ら を 見 る と 珍 し い こ と よ 。) 髻う華ずは 髪 飾 り の こ と で 冠 に 付 け る こ と が あ る が、 髻もとどり( 髪を 頭の 頂に束 ねた 部分) にも 挿した 。 新嘗 祭に臨 み、長 皇子な が の み この 子で文 室ふ む やの智ち努ぬ の真 人ま ひ とが 詠 んだ歌 は酒 を古語 であ るキ と 詠ん で祭儀 の慣 行を表 して いる。 天 地と 久しき まで に万代 に仕 へまつ らむ黒 酒く ろ き白 酒し ろ きを ( 4275) ( 天地 が続く 限り 共に永 遠に 万代 にお 仕えし まし ょう黒 酒白 酒を捧 げて ) 新 嘗祭 は宮中 行事 で収穫 祭に あたる 。皇 極天皇 (第 35 代 、在 位 642~ 645 年 )の 時代に 始ま り、天 皇が 五穀の 新穀 を天神 地祇 に勧め 、そ の年の 収穫 に 感 謝す る行事 ので ある。 黒酒 は神前 に供 えた酒 で醸 造した 甘酒 に久佐 木の 焼 灰 を入 れた灰 持あ く もち酒 であ り、入 れな いもの が白 酒。 長 皇子 は、キ トラ 古墳の 被葬 者では ない かとい われ る天武 天皇 と持統 天皇
の 皇子 である 。ま た、文 室ふ む やの智ち努ぬ の真 人ま ひ とは 元正 ・聖武 ・孝 謙・淳 仁天 皇に仕 えた 皇 族で あるが 孝謙 朝で臣 籍降 下して いる 。 大伴 家持が 祭儀 のとき に詠 った歌 では 酒器に 柏の 葉を使 って いる。 皇す神 祖め ろ きの遠と ほ御 代み よ御 代 はい布しき 折り酒き飲 みき とい ふそこ のほ ほがし は ( 4205) ( 皇祖 ―天皇 の祖 先―た ちの 御代御 代に は 広 げ畳 んで酒 を飲 んだと いう こ と よ このホ オガ シワは 。) 古代の 食器 であっ た柏 の葉を 筒状 にして 酒器 と し て酒 を飲ん でい る。料 理人 のこと を膳 夫か し わでと いうの は柏 の葉に 食物 をもっ た こ とに 由来す る。 柏 の葉 を酒器 に用 いた興 味深 い話は 、古 事記の 「仁 徳天皇 の条 」にも ある 。 仁 徳 天 皇 の 皇 后 で あ る 大 后おほきさき石 之い わ の日 売ひ め のみこと命は 嫉 妬 心 の 強 い 人 で あ っ た の で 、 天 皇 に仕 える妾 は宮 中に入 るこ とがで きな かった 。仁 徳天皇 が吉 備の黒 日売く ろ ひ めに 恋 し て 、 大 后 を 欺 い て 、「 淡 路 島 を 見 た い の だ 」 と 騙 し て 、 吉 備 国 ま で 行 幸 し た。 こんな こと があっ た後 の話で ある 。皇后 石之 日売命 が神 事に使 うた め に 盃さかずき用 の 柏 の 葉 を 採 り に 紀 伊 國 ま で 採 り に 行 っ て い る 間 に 、 又 も や 好 色 の 仁 徳天 皇は異 母妹 の八 田や た の若わ か郎 女い ら つめと結 ばれ た。そ れを 知った 皇后 は恨み 怒っ て、 船 に満 載して あっ た柏の 葉を 全部海 に投 げ捨て てし まった とい う話で ある 。 此 こ れ よ り 後の時ちに 、 大 后おほきさき、 豊とよのあかり楽せ む と 為して 御み綱つ なかしわ柏を 採 り に 、 木き の国く にに 幸い で 行まし し 間 に 、 天 皇すめらみこと、 八 田や た の若わ か郎 女い ら つめに 婚あひ き 。・ ・ ・ 倉 人く ら ひと女めが 船 に 遭 ひ き 。 乃すなはち 、 語 り て 云 ひ し く 、「 天 皇すめらみことは 、 比こ の日ご ろ八 田 若 郎 女 に 婚 ひ て 、 昼 夜戯 れ遊ぶ 。若 し、大 后は 此の事 を聞 こし看めさ ぬか 、静か に行 幸い で ます 」 と いひ き。是 に、 大后、 大き に恨み 怒り て、其 の御 船に載 せた る 御み綱つ な 柏 かしわ を ば、 悉ことごとく 海に 投げ棄うて き・ ・・ ・ ( 此れ より後 のこ と、皇 后が 、酒宴 を催 そうと して 、御綱 柏を 採りに 紀伊 國 に お 出 か け に な っ て い た 間 に 、 仁 徳 天 皇 は 、 八 田 若 郎 女 と 結 婚 し た 。・ ・ ・ 倉 人 女 の 船 に 出 会 っ た 。 そ し て 語 っ て 言 う に は 、「 天 皇 は 、 こ の ご ろ 八 田 若 郎 女と 結婚し て、 一日中 戯れ 遊んで いま す。ひ ょっ として 皇后 はこの 事を ご 存じないのでしょうか、のんびりと遊び歩いていらっしゃる」と言った。 ・・・そ れ を 聞 い た 皇 后 は ひ ど く 恨 み 怒 っ て 、 そ の 船 に 載 せ て あ っ た 御 綱 柏 を 、す っかり 海に 投げ捨 てて しまっ た・ ・・ 。) こ の後 、皇后 は山 城国を 経て 、大和 には 入らず 綴喜 (京都 府綴 喜郡田 辺町 付 近: 京田辺 市) の韓 人か ら ひとの家 に引 き籠っ てし まった 。こ れを和な ごめ て破 綻なく あ らし めるこ とが 理想的 な天 皇の色 好み の姿で ある 。御綱 柏は ウコギ 科の 小 高 木カ クレミ ノの 葉であ ろう 。告げ 口し た倉 人女く ら ひ と めとは 皇后 の身近 に仕 える女 官 であ る。
5.2 挽歌 にみ る酒 と神 高 市 皇 子 が 薨みまかっ た の で 柿 本 朝 臣 人 麻 呂 が 殯あらきの宮み やの と き の 詠 ん だ 長 歌 ( 199) が あり 、この 長歌 に続い て短 歌二首 (200、 201)が あり 、さ らに 反歌と して 檜 ひ の 隈 くまの 女 王 お お きみ が 高 市 皇 子 の 死 を 悼 み 、 泣 沢 神 社 の 女 神 を 怨 ん で 詠 ん だ 挽 歌 が あ る 。 泣 沢 な き さわ の 神 社も りに 神 酒み わす ゑ 禱い祈のれ ど も わ が 大 君 は 高 日 知 ら し ぬ ( 202) ( 泣沢 の女神 に命 のよみ がえ りを願 って 神酒 を捧 げて祈 るの だが わが 大 君 は 高く日 の神 として 天を お治め にな ってし まっ た。) こ こ に 、 高 市 皇 子 は 天 武 天 皇 の 長 男 で あ る が 、 天 武 朝 で は 「 吉 野 の 盟 約 19)」 に 参 加し た 6 人の皇 子の 内で草 壁皇 子と大 津皇 子に次 ぐ第 3 番目 の地 位 に あっ た。天 武天 皇の崩 御の 後、大 津皇 子が謀 反の 罪で死 罪と なり、 また 、 皇 太子 であっ た草 壁皇子 も薨 御した ため 、皇后 であ った鸕 野讚う の の さ良ら ら皇 女が 持統 天 皇(第 41 代 、在位 690~ 697 年 )と して 即位し た。 太政大 臣と なった 高市 皇 子は 皇族と 臣下 の筆頭 とな り持統 政権 を支え てい る。な お、 歌聖と され 、 万 葉集 に多数 の歌 を残し た柿 本人麻 呂は 主に持 統天 皇の時 代に 活躍し た官 人 で かつ 歌人で ある 。しか し、 万葉集 が柿 本人麻 呂に 関する 唯一 の資料 であ っ て 彼の 経歴は よく 分かっ てい ない。 5.3 相聞 歌 味 う ま 酒 さ け を 三 輪 の 祝はふりが い は ふ 杉 手て触ふれ し 罪 か 君 に 遇あひ が た き ( 712) ( 三輪 の神官 が祀 る杉の よう に 畏 れ多 いあな たの 手を触 れる ような こと を し た 罰 で し ょ う か そ の 罪 に よ っ て 再 び 君 に 会 い 難 い こ と よ 。) こ の 杉 は 、 大 物 お お もの 主 ぬ し が 宿る 三輪の 神杉 であっ て実 際に手 を触 れたの では なく、 高貴 な人に 恋 する ような 犯し 難きを 犯し たこと を丹 波た に はの大 女お ほ めの娘 子お と めが 詠って いる 。身分 違い の 相手 と契っ たが 、その 後、 逢えな くな ってし まっ たのだ 。大 物主は 、大 国お ほ くに 主 ぬしの 神か みと と も に 国 造 り を し て い た ス ク ナ ヒ コ ノ カ ミ が 常 世 の 国 に 去 っ た あ と 海 の向 こうか ら現 れた神 で蛇 神・水 神・ 来神で ある 。大 神お ほ みわ神 社じ ん じゃに献 じる 神酒 を 盛る土 器す えを 特に 三輪 の於お喜 寿き す恵えとい い、 使った 後は 壊して 二度 と使わ ず清 浄 さを 表現し てい る。な お、丹 波た に はの大 女お ほ めの娘 子お と めの 素性 は不 明であ る。 丹 生に ふ の女 王お お きみが 大宰 府の帥 大伴 旅人に 贈っ た歌も 相聞 歌であ る。 古 いにしえ の 人 の 食きこ せ る 吉 備 の 酒 病 め ば す べ な し 貫 簀ぬ き す賜た ばら む ( 554) ( 昔の 人が召 し上 がった とい う吉備 の酒 も病気 の私 には無 用の もので す ご 当 地に 名高い 貫簀 を下さ いま し。) 吉備 国は稲 作が 盛んで 美味 しい酒 が当 時 か らよ く知ら れて いたよ うだ 。九州 へ下 る途中の 64 歳の 大伴 旅人か らそ の 味 酒を 贈られ た丹 生女王 は貫 簀が欲 しい といっ てい る。彼 女も 結構な 年齢 と 思 われ 、酒好 きで も病気 にな ると飲 まな かった よう だ。こ こに 、貫簀 は手 を
洗 う 時 に 水 が 飛 び 散 ら な い よ う に 盥たらいの 上 に 置 く 細 く 切 っ た 竹 を 糸 で 編 ん だ 簀 の 子 だ と い う 説 と 、 身 を 横 た え た と き 肌 に 心 地 よ い 竹 で 編 ん だ 莚むしろ( 敷 物 ) だ とい う説が ある 。 5.4 待酒 待 ち酒 は訪ね て来 る人に 飲ま せよう と、 あらか じめ 造って おく 酒のこ と。 4.1.1 項の「 仲哀 天皇の 条」 も待酒 の物 語であ る。 大伴旅 人が 太宰帥そ ちで あっ た とき 、大 弍だ い に丹 比た ぢ ひあがた県もりの守まえつきみ卿 が民 部卿 に遷任 した ときに 待酒 の歌を 詠ん で贈 っ てい る。呑 み友 達がい なく なるこ とを 想って 詠ん だ歌で ある 。 君 が た め 醸かみ し 待ま ち酒ざ け安 の 野 に 独 り や 飲 ま む 友 無 し に し て ( 555) ( あな たのた めに と造っ てき たもて なし の酒を 私 は一人 で安 の野に 飲む の で しょ うか 酌む 友もな く。 )時は 天平 元年( 729 年) 2 月 11 日か とも い わ れる 。安の 野は 現在の 福岡 県朝倉 郡夜 須町で 大宰 府の東 南に ある。 もう 一 首、 待酒を 挙げ る。 味 う ま 飯 い ひ を 水に醸かみ なし わが 待ちし代か ひは さ ねなし直た だに し あらね ば (3810) ( う ま い 飯 を 水 と と も に 噛 ん で 酒 と し 私 が 待 ち 続 け た 甲 斐 は 全 く な い 本 人が 来ない ので 。) この 歌に は、「昔 一人 の娘 子を と めがい た。 その夫せと 別れ 、恋 し く待 ち望み つつ 年を経 た。 時に夫せの君き みは さ らに別 の妻 を娶っ て、 生身( 本 人 )は 来ない でた だ贈り 物だ けをよ こし た。そ こで 娘子が この 恨みの 歌を 作 っ て 返 事 し た 」 と い う 詞 書ことばがきき が あ る 。 身 分 違 い の 相 手 と 契 っ た が 、 そ の 後 、 逢 えな くなっ てし まった とい うのだ 。 5.5 酒宴 の歌 5.5.1 推 古天 皇の 酒宴 推古 天皇 20 年、 天皇は 1 月 7 日に人じ ん日じ つと 称 する祝 宴を 催して いる 。人 日 は 中国 の習慣 で、 この日 の天 候でそ の年 の運勢 を占 い、晴 れな らば幸 いが あ り 、曇 りなら 災い がある とい う。民 衆は 酒食を もっ て山に 登っ たり様 々な 行 事 をし 、宮中 でも 宴を設 けた 。日本 書紀 のこの 条は 日本に おけ る人日 の初 出 で ある 。 二 十年 の春正 月の辛 巳し ん しの 朔つきたちにし て丁て い亥が いに 、 置 酒おほみきめして 群まつらへきみたち卿 に 宴 とよのあかり す 。是 の日に 、 寿おほみきたてまつ上 り て 歌うたよみして日ま をさ く 、 やすみしし 我が大君大臣おほおみの 隠かくります 天の八十や そ蔭かげ 出で立たす みそらを見れば 万代よろづよに かくしもがも 千代にも かくしもがも 畏 かしこ み て 仕つ かへ 奉ま つらむ 拝をろがむ みて 仕へ まつら む 歌う たづ きま つる と まを す。 天 皇すめらみこと、和こ たへ て 日のたまは く、
真 蘇ま そ我がよ 蘇我 の子ら は 馬なら ば 日 向ひ む かの 駒 太刀 ならば 呉の真ま刀さ ひ 諾う べし かも 蘇我 の子ら を 大君の 使 はすら しき ( 人日 に群卿 に酒 を振舞 って 宴会が 催さ れたと き、大 臣お ほ おみ蘇 我馬 子は 酒盃を 献 じ て歌 を詠ん だ。 我 が大 君がお隠こ もり に なる広 々と した宮 殿 またお 出ま しにな って 御 空を みます と 千代も 万代 もこの よう に立派 であ ってほ しい もので す 私 ども は 畏かしこみ崇あ がめ てお 仕え申 し上 げまし ょう こ の祝 い歌を 献上 いたし ます と 申し 上げた 。天 皇はこ れに 和され て 真 蘇我よ 蘇 我一族 の人 々は 馬で いえば 日向 の良馬 太 刀でい えば 呉 の利 剣だ もっ ともな こと だ 蘇 我一 族を大 君が お使い にな るのは ) 蘇 我馬 子は敏び達だ つ( 第 30 代 、在 位 572~585 年 )・ 用明 ( 第 31 代、 在 位 585 ~ 587 年 )・崇 峻(第 32 代、在位 587~ 592 年)・推 古天 皇(第 33 代、 在位 592~ 628 年) の 4 代の天 皇に大 臣お お おみと して 仕え 、「丁 未て い びの 乱19)」 で 廃仏 派の 仇 敵 大 連おほむらじ物 部守 屋も の の べ のも りやを 討 滅 し 、 馬 子 の 専 横 に 憤 っ た 崇 峻 天 皇 を 逆 に 暗 殺 す る な ど 専横 を極め た。 5.5.2 皇 子ら の歌 天 智 天 皇 の 皇 子 で 「 吉 野 の 盟 約 19 )」 に 参 加 し た 志 貴 皇 子 の 子 で 万 葉 後 期 を 代 表 す る 歌 人 で あ る 湯 原 王おほきみが 打 酒 ( 酒 を 飲 む こ と : 酒 宴 ) の 歌 を 詠 っ て い る。 焼 や き 太 刀た ちの 稜か ど打 ち 放 ち 大 夫ま す らをの 禱ほく 豊と よ御 酒み きに わ れ 酔ゑひ に け り ( 989) ( 焼太 刀の角 を鋭 く打っ て 雄々し い男 子が祈 りを 込める りっ ぱな酒 に 私 は 酔 っ て し ま っ た 。) 焼 太 刀 は 鍛 え 上 げ た 太 刀 の こ と 。 酒 を 豊と よ御 酒み きと い い 、 飲 むと き太刀 を振 って酒 を祝 福する 酒ぼ めの儀 礼が あった 。そ して楽 しく 飲 ん だ。 湯 原王 は政争 から 逃れ、 風流 を貫い た人 といわ れて いる。 兄弟 の白 壁し ら かべ王お うは 光 こ う 仁 に ん 天 皇(第 49 代 、在位 770~ 781 年 )と して 即位し てい る。 高 市 皇 子 の 皇 女 で 長 屋 王 の 妹 の 河 内こ う ちの女 王お ほ きみが 橘 諸 兄 の 屋 敷 に 元 正げんしょう太 上 天 皇 ( 第 44 代 天皇 とし ての在 位 715~ 724 年)の 行幸 を仰 いで宴 を開 いたと きに 参 席し て詠ん だ歌 がある 。 橘 の下 照る庭 に殿と の建 てて酒 みづ きいま すわ が大君 かも ( 4059) ( 橘の 実で木 の下 が照り 映え る庭に 御殿 をお建 てに なって 酒 宴を催 して お ら れ る 我 が 大 君 よ 。) 高 市 皇 子 は 、 前 述 の よ う に 、 天 武 天 皇 の 第 一 皇 子 な の で 皇太 子に就 くべ きであ るが 、母親 が身 分の低 い出 身であ った ため、 天武 天 皇 と皇 后鸕 野讃う の の さ ら良ら の皇 女み こ(後 の持 統天皇 )と の子草 壁皇 子が皇 太子 の地位 に就
い たの である 。ま た、河 内女 王の兄 の長 屋王は 藤原 不比等 の死 後、皇 親勢 力 の 巨頭 として 政界 の重鎮 とな ったが 藤原 四兄弟 (武 智麻呂 、房 前、宇 合、 麻 呂 )と 対立し 、聖 武天皇 の即 位後藤 原氏 の光明 子の 立后に 反対 するも 讒言 に よ り、 いわゆ る「 長屋王 の変 」によ って 自死に 至ら しめら れた 。ここ に、 橘 諸 兄は 光明子 (後 の光明 皇后 )の異 父兄 である 。 5.5.3 春 の酒 宴 古 来、 酒宴は 屋内 だけで なく 遊び酒 とし て屋外 にお いて、 花・ 月・雪 を求 め て風 流な宴 を催 してい る。 そして 春も 秋も万 葉人 はこよ なく 酒を愛 した 。 ま ず、 春に酒 を詠 った歌 を挙 げる。 万葉 集の代 表的 な歌人 で大 伴旅人 の異 母 妹で ある 大 伴おおとものさかのうえのいらつめ坂 上 郎 女が 盃に 浮かぶ 梅の 花を歌 って いる。 酒 坏 さ か づき に 梅の 花浮け 思ふ どち飲 みて の後は 散り ぬとも よし ( 1656) 以 下の 歌は、 大宰 府の帥 大伴 旅人が 催し た「観 梅の 宴」で 歌わ れたも ので あ る。 当時、 梅は 外来の 植物 として 珍重 された 。 笠 沙 か さ のさ 弥みは 詠う 。 青 柳 梅 と の 花 を 折 り か ざ し 飲 み て の 後 は 散 り ぬ と も よ し ( 821) (青柳と梅の花を折って翳かざして酒を飲む さあこの後は散ってしまってもよい。) ホ スト である 大伴 旅人も 、勿 論、詠 って いる。 我 が 園 に 梅 の 花 散 る ひ さ か た の 天 よ り 雪 の 流 れ 来 る か も ( 822) ( 我 が 庭 に 梅 の 花 が 散 る 天 涯 の 果 て か ら 雪 が 流 れ 来 る よ 。) 落 花 を 雪 と み ている。旅人が梅と雪の取り合わせに興じた歌には別の酒宴で詠んだもう 1 首、 わ が岳 を盛り に咲 ける梅 の花 残れる 雪を まがへ つる かも (1640) も ある 。 大 宰府大 令史だ い り ょ うしの 野 氏宿 奈や し の す く な麿ま ろの歌 。 毎 年 と し のは に 春 の 来き たら ば か く し こ そ 梅 を か ざ し て 楽 し く 飲 ま め ( 833) (年ごとに春がめぐり来れば このようにこそ 梅を翳して楽しく酒を飲もう。) 壱 岐い きさかん目の村そ ん氏し彼 方を ち かたの 歌 春 柳 はるやなぎ 蘰 かづら に 折 り し 梅 の 花 誰た れか 浮 べ し 酒 坏さ か づきの 上へに ( 840) (春の柳を 蘰かづらにとて折ったことだ。梅の花も誰かが浮かべている酒盃の上に。) 最 大の 万葉歌 人で ある大 伴旅 人が、 上の 酒宴以 外に 詠んだ 梅と 酒を詠 んだ 歌 を もう 一つ挙 げる 。 梅 の 花 夢い めに 語 ら く 風 流み やび た る 花 と 我あ れ思もふ 酒 に 浮 べ こ そ ( 852) ( 梅の 花が夢 に語 ること には 風流 な花 だと私 は思 う さ あ酒 に浮か べて ほ し い ― 空 し く 私 を 散 ら し て し ま う な 。) こ の 歌 は 大 伴 旅 人 の 作 と 思 わ れ る が 、 作 者 の 願 望 を 詠 っ た 別 案 が あ る 。「 花 と 我あ れ思もふ 酒 に 浮 べ こ そ 」 を 「 い た ずら に我を 散ら すな酒 に浮 べてこ そ」 でもよ いと いうの だ。
万葉 集第 17 巻に大 伴家 持が 天平 20 年 3 月 3 日 の晩 春、野 に遊 んだと きに 掾 大伴池い け主ぬ しに 贈っ た七 言の詩 (漢 詩)が ある 。書き 下し 文で示 す。 余よしゅん春の媚び日じ つは 怜あ賞はれ ぶに 宜よろしく 上 巳 じ ょ うし の 風光 は遊覧 する に足る 柳 陌 りゅうばく は 江に 臨みて袨 服げ ん ぷくを 縟まだらかに し 桃 源は 海に通 ひて 仙舟を 浮ぶ 雲 罍 う ん らい に桂け いを 酌 みて三 清を 湛たたえへ 羽 爵 う し ゃく は 人を 催うながし て 九 曲きゅうきょくに 流る 縦 酔 しょうすい に 心を 陶して 彼我 を忘れ 酩 酊し 処とし て 淹 留えんりゅうせ ぬはな し 暮 春の 魅力的 な日 は称賛 する にふさ わし く 三 月三 日の風 光は 遊覧す るに 足りる 堤 に生 えた柳 は入 江に臨 んで 美しい 服装 をいや が上 にも飾 り 仙 境は 海に通 じて 神仙 の舟 が海に 浮か んでい る 雲 雷を 刻んだ 酒樽 に香り 高い 酒を酌 んで もっ て清 なる酒 にひ たり 羽 模様 の盃は 酌む ことを 勧め ながら 曲水 を幾重 にも めぐり 流れ る 酔 うま まに心 は陶 然とな って すべて を忘 れ 酩 酊し て ど こと て飽き る所 はない 3 月 3 日の「上 巳じ ょ うしの 節 」には 曲水 の宴を 催す ことが 習慣 となっ てい た。桂 酒 は酒 に桂の 樹皮 を入れ たも の。三 清は 道教の 三人 の最高 神格 のこと であ る が これ を三種 の酒 に例え 、第 三を清 酒と いい、 聖人 の隠語 であ る。 5.5.4 秋 の酒 宴 秋 の歌 がある 。大 伴坂上 郎女 が家 族う が らと宴 会し たとき に詠 ってい る。 か く し つ つ 遊 び 飲 み こ そ 草 木 す ら 春 は も え つ つ 秋 は 散 り ゆ く ( 995) ( この ように ずっ と楽し み酒 を飲み たい ものよ 変 わらず 見え る草木 だっ て 春 は生 い茂り つつ 秋に は散 ってし まう ことだ 。) 上掲の 1656 番 は春 の酒 宴 で あっ たがこ の歌 は秋の 草木 を例え に出 して人 生の はかな さを 詠い、 この 宴 会 のと きを思 う存 分楽し んで 下さい と言 ってい る。 秋 の行 楽の歌 を挙 げる。 天平 勝宝 5 年( 753 年) 8 月 12 日に 二, 三人の 廷 臣 たち が壺に 入れ た酒を 携え てなら 東部 の高円 の野 に昇り 、い ささか の所 感 を 託し て作っ た歌 三首の 一つ が 左 京さきょうのしょうしん少 進大伴 宿禰池い け主ぬ しの 歌で ある 。 高 円 た か まと の尾 花を ば な吹 き 越す秋 風に 紐解き開あけ な直た だな らず とも ( 4295) ( 高円 のスス キを 吹きす ぎる 秋風に よっ て衣の 紐を 解こう では ないか 妻 の 直 手た だ てな らず とも 。) ここ に、「紐 解き 開けな 直な らずと も」 は秋風 が激 しく衣 を 翻ひるがえす 様 子 を 見 て 戯 れ に 詠 っ て い る 。 恋 人 同 士 が 紐 を 解 く の で は な い が お