1
みちびきの神
丹生都比売神社の研究
:
朱のロマンを求めて
2 1.はじめに 研究の発端 2.丹生都比売神社について ①現地探訪(神社参拝) ②神社の建造物について (鳥居・太鼓橋・楼門・本殿) ③神社の神宝 (太刀類・御輿・狛犬・御輿・琵琶・天野家文書・太鼓縁) ④神宝の多さが語る祭神・神社の由来 3.高野山との関係 ①みちびきの神について ②高野山壇上伽藍 4.丹生の全国展開 ①丹生とは ②丹生都比売神社の発展的思考 ③ 県内の丹生神j社 ④全国の丹生神社 ⑤丹生神社のフィールドワーク ⑥三重県宮川エコミュージアム全国大会 に出席して ⑦伊勢水銀・伊勢丹生・伊勢神宮寺について ⑧朱について 5.丹生の伝承と発展 ① 『記紀』と丹生 ②奈良・東大寺お水取りと丹生 ③世界遺産に登録された 丹生都比売神社 6. 神仙思想について ①秦始皇帝と水銀 ②始皇帝と徐福 7.あとがき・今後の研究の方向 書家 榊莫山 画
3
はじめに・研究の発端
• 私の住む板野町公民館の図書室で藍色布表紙に惹かれて、何気なく借りた1冊 の本『丹生神社を訪ねて』が私が古代に関心を持つ発端となった。 • 帰って本を開くと「天野」の文字が目に飛び込んだ。「天野」は私の旧姓で、故地 を探していた所だった。一刻も早くその土地へ行ってみたくなり、早速本の著者 丹生寿氏に電話して案内を頼んだ。 • 丹生寿氏は橋本市から待ち合わせ場所JR笠田駅へ息子さんとご一緒に来て下 さった。「天野大社」への標識で、紀の川を渡ると紀伊山地への登り坂。 途中、 丹生氏は胸の内ポケットから小さく折り畳んだ紙を大事そうに取り出された。それ は、新聞の切り抜きで、そこには、「水銀鉱脈が明かす邪馬台国のありか」と見 出しがあり、古代朱の採掘跡を探り、送り先がわかれば邪馬台国の所在地が分 かる、というものだった。 ・ 当時、邪馬台国の場所については諸説があり、考古フアンにとっては最大の関心 事であった。思わず車を止めてむさぼり読んだ。 ・ 阿南の若杉山遺跡には辰砂の発掘跡があり、天然の良港であった旧吉野川河 口の黒谷川郡頭へ運ばれて精製され、送り出されていたという事だが、その朱 が送られた場所が邪馬台国というのである。丹生氏は板野町の郡頭遺跡にも行 かれ、上記の本を上梓されたのだった。その寄贈本が図書室にあったのだ。現地訪問(神社参拝)
4 • 丹生都比売神社は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野(旧天野村)にある。天野大社ともい われて、紀伊の国一の宮である。海抜500mの山上とは思えない朱に塗られた雅な神社が 森に囲まれた静謐の中にあった。この地は盆地で田圃は青々として、小鳥のさえずりが聞こ え、時間がゆったり流れている、ここは将に桃源郷である。天野米産地として有名。 • 紀伊国名所図絵に描かれている。文化8年(1811年)∼嘉永4年(1851年)作成。画は京絵師3人に よる鳥瞰図、実地踏査と文献資料。 山川・寺社・旧跡・町屋・人物・当時の景観が詳細。 • 地図 天野社絵図(金剛峰寺蔵) 和歌山市から国道24号線で奈良へ向かう途中、 笠田から国道480号線を高野山に向かう途中に ある。 西行法師の時代(1100年代)三谷→天野→高野山は表街道だった。5
神社の建造物について
輪橋(太鼓橋)
長さ18m、幅3.8m。 鏡池に架けられている。 池中に小丘あり神鏡を納める故鏡池という。 朱塗り、橋脚は御影石 大坂住吉大社の輪橋と共に有名で、昔は木 製でした。淀君の寄進と伝えられている。 平安鎌倉時代は、神事は橋の上で行われて いて、神の渡る橋です。鳥居(両部鳥居)
本地垂迹説の上に立つ両部神道の 理を示す形式ので、仏教神道の反映 が最も濃厚な鳥居である。 朱塗り鳥居の本柱の前後に稚児柱を 設け、屋根を附けることが多い。 案内して下さった丹生寿氏 全国の丹生神社を踏査6
神社の建造物
楼門(重要文化財ー旧国宝)
○室町時代の様式。文明元年(1469)建と記録に残る。
○間口8.15m、奥行き4.75m。二層入母屋造り桧皮葺き。
○野面石の上に木製唐様式基盤を据え、円柱建に飛貫を二重に通し、
木鼻が付き頭貫を納める。
○階下は吹き放しで、囲いは無い。
紀伊続風土記・紀伊名所図絵
旧境内は15000坪、四社明神を 中心に七堂伽藍が建ち並び荘 厳を極めたが、明治5年の神仏 混合廃止の時、将来の維持困 難を憂慮 して、神社以外の堂 塔(御影堂・多宝塔・山王堂等) は取り壊され、仏像をはじめと する美術工芸品は各地に散逸 してしまった。残念なことである。 楼門7
神社本殿(重要文化財)
第一殿(一の宮)丹生都比売大神(丹生明神) 第二殿(二の宮)丹生高野御子大神(高野明神) 第三殿(三の宮)大食都比売大神(気比明神) 第四殿(四の宮)市杵島比売大神(厳島明神) 若宮 天野検校行勝上人 • 各本殿の内陣に内殿を安置し御神体を祀る。 • 各殿は一間社春日造、桧皮葺、千木、勝男木あり、極彩色、 • 間口3.47m,奥行き3.33m。第2・3・4殿と少しづつ小さくなっている。 本殿四殿が並列に並ぶ(全国丹生神社の総本社、比売大神の付く神社は当神社のみ)8
本殿外部(木鼻)
扉の中に内殿(宮殿)がある。 社殿の庇を支える柱木と柱木を横につないで強 度を補強する頭貫の先端で飛び出した部分
神宝
国宝
銀銅蛭巻太刀(平安末期作)
重文 木造鍍金装御輿
「浜下り」渡御行列の中央に位置 する。屋根の頂に鳳凰を飾る。 内部は木製黒漆塗り。 正面を除く三面は、紅地蓮華唐草 文金襴の帷帳を垂らす。 9 柄・鞘は鞣革の下地の上に鍍銀した 銅製の板金をらせん状に蛭巻、その 間に黒漆を塗り込み、鍍金した亀甲 花菱繋ぎ文の総金具を嵌めてある。 兵庫鎖太刀他六口ある。神宝
重文 金銅琵琶 (伝源頼朝夫人政子奉納)
重文 木造狛犬(木地に漆塗り金箔・丹縁)
金属製の小型の琵琶。 奉納用の模型だが、金銀鍍を多用し、 非常に精巧に造られている。 腹板を鍍銀、撥面は一段と盛り上げて 鍍金、月に竹虎を配す。 獅子(阿形)・狛犬(うん形)一対。 四対の狛犬像がある。 現在高野山霊宝館・京都国立博物 館に寄託されているものもある。 体躯の表面は漆箔と彩色による仕 上げ。 鎌倉時代制作。 狛犬 獅子 1011
神宝
重文 法華経八巻 伝空海筆 もと後醍醐天皇御所持のち後村上天皇より奉納。 県文化財 丹生大明神告門(丹生相見家文書のうち) 丹生廣良氏蔵 県文化財 天野丹生家文書 十巻(丹生祝氏本系帳) 丹生廣良氏所蔵 丹生家は丹生都比売神社の旧社家で、歴代同神社に仕えてきた神職家で ある。当家に伝承されている古文書のうち経済史・文化史の重要資料46点 を10巻に表具している。 丹生廣良氏 丹生都比売神社128代目の社家に生まれ、 襲蔵の古文書900点を県立文書館に寄託 した。同神社研究の第一人者としても知ら れている。生涯をかけた研究への情熱で 和歌山県文化財研究会・和歌山市教育功 労者表彰をされている。 私に古文書を見せて下さる丹生廣良氏(県立文書館に て)神宝の多さが語る祭神・由来について
12軍神
・ 「播磨風土記」によれば、神功皇后三韓征伐の折り、丹生大神の神霊が軍鉾・軍衣・軍船を赤 く塗り染める啓示を与え、大勝を得たという伝承がある。 ・ 蒙古襲来の折り、神霊大いに働く。 ・ 皇室・公家・武家の御崇敬を受けた。 国宝 後醍醐天皇願文 (金剛峯寺蔵) 重文 後村上天皇寄進状 重文 頼宝施入状 • 延喜式の制では名神大社。 • 大正13年官幣大社 • 御神階正一位 • 扁額[正一位勲八等丹生大神」 国宝 関東御教書(金剛峯寺蔵) 文永・弘安年間の2度のモンゴル襲来の後 の対外緊張時に鎌倉幕府が高野山に対し て、天野社に参籠して「異国降伏」の祈祷 を要請した。 「天野の歴史と芸能」展 和歌山県立博物館 丹生都比売神社と天野の名宝13
みちびきの神・丹生都比売神
弘法大師空海との関係
○空海
が高野山に真言宗の
本山
金剛峯寺
を開くにあたっ
て天野丹生都比売神社の
神
領
が寺領として手向けられた。
その時、
犬
が案内したという
言い伝えがある。
○真言宗の隆盛と共に全国
各地に真言宗の寺院が建立
され、その
守護神
として丹生
神社が祀られたところが多い。
神宮寺
とも呼ばれている。
○空海は密教の原理に基ず
く
曼荼羅世界の建立
を目指し
た。平和共存の世界である。
○空海は丹生・高野明神を敬
われ、
神仏の調和
を保って民
衆を幸せに導いて下さってい
る。その意味に於いても、混
沌とした今日、世界遺産に登
録された意義は大きい。
弘法大師・丹生高野両明神 像 弘法大師と丹生・高野両明神の関係を 視覚的にあらわしている。 狩場明神像(白黒2匹の犬を 連れている。)丹生廣良氏蔵14
高野山の壇上伽藍に祀られる両明神
重文 御社と山王院
壇上の西端にあり、三社が並列する。右から丹生明神、高野明神、十二王 子百二十伴神をまつる。弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日 本在来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と 高野明神(狩場明神)を勧請された。その本社は山麓天野にある。大師以後 今日に至るまで山内の住侶はこの両明神を厚く尊崇してきた。 文禄3年(1594)再建。御社の前の拝殿を山王院という。ここで毎年きまった 日に堅精や月並み問講などの儀式を行う。山内住侶の重要な宗教的行事で ある。(説明板) 壇上伽藍に祀られている両明神 金剛峯寺 ・高野山と丹生都比売神社
○神社のある天野は、高野山の西北10キロ、盆地の 地形に開けた静かな山里である。天照大神の妹(わか ひるめ)とされる丹生都比売神が祀られ、天野大社とも いわれている。わかひるめは和歌山の名の由来。 ○空海が、真言密教の殿堂を高野山に求め、嵯峨天 皇の勅許を得て、高野山に入るについては、この地域 に勢力を持つ天野社の許可と援助を得る必要があり、 天野社を地主神及び真言密教の守護神と仰ぎ、空海 は高野山に入られたという。天野社は、古くから高野山 と密接な関係があった。 ○行勝上人(第4殿に祀られている若宮)は仁和寺親 王から賜った一切経を天野に運び、経堂を建て、供養 に一切経会が行われた。後、金剛峯寺の恒例行事とな り、舞楽が奉納されたが、右写真はその装束である。 「天野一切経会試楽、享徳3年(1454)」の墨書があり、 制作時期が特定出来、中世の染織・服飾史を解明する 重要な作品である。 ○天野社では中世以来神前(一切経会の法会の場)で 舞楽が奉納された。神仏習合の芸能であることに特徴 がある。 ○高野山の修行が終ると、僧侶の方々は丹生都比売 神社にお参りをされるそうだ。 重文 舞楽装束類 水干・小袴(金剛峯寺蔵) 面と鉦鼓縁 15 僧侶からの お札(天野社)天野の里の史跡と伝説
16 高野山の麓にある天野は戒律の厳しい高野山に入山出来ない人や女人が移り住んだ。西行堂
上 貧女の一燈 お照の墓 下 横笛の恋塚 西行妻子の碑 女人禁制のため、妻子は 尼僧になって天野の里に草 庵を結び住んだ。 西行は妻子を訪ねていた。 『西行物語絵巻』の中に、 義清は出家を思い立ち、娘 を縁側から蹴落とす場面は 印象的だが、後に娘を尋ね て出家させる。私は、ここに 立つと妻子との三人の幸せ な姿が偲ばれた。 西行 本名 佐藤義 清 鳥羽院に仕えた北面の 武士。若い頃から仏道に 心を寄せ、仏道修行と和 歌とを生涯の仕事とする ため出家した。奥州の旅 の以後、高野山を中心に して修行を積む。 天野に西行田がある。 女人禁制の高野をめぐる悲恋 滝口時頼を慕う建礼門院の官女横 笛は、出家して滝口入道となり高 野山へ登った後を追って天野の里 で草庵を結ぶが入道との再会むな しく19歳でこの世を去る。里人は 恋塚を建立して長く菩提を弔った。17
丹生とは 丹生族の活躍
丹生
とは、「丹を生む」即ち
「丹を生産する」
こと
である。「丹」とは朱砂のことで、朱砂は
朱
や
水
銀
を製する。 古代から水銀は盛んに採掘され
た。縄文土器の時期以来
日本人の生活と密着
し
ていた。
○朱と砂金は日本人が
最初に手にした金属
だっただろう。○古代から人々は生命の源である
血の色
、
赤
を神聖視。○赤色の鉱石である朱砂を採掘する人達が神
と崇拝したのが、丹生都比売神である。○朱砂の鉱脈を求めたその地には「丹生」の地
名、祭祀された神社を「丹生神社」とした。
その祭祀を司ったのが
「丹生氏」
。
後には、
水神
となったり、
神社名が変わったり
、
合祀された神社もある。○丹生寿氏は、北海道から九州まで全国の丹
生神社208ヶ所を調査。全国の丹生神社の総本社 丹生都比売神社神宝の鉱石 が上天野にある丹生都比売神社。丹生都比売神社の御田祭と花盛祭
18•
御田祭り
毎年1月第3日曜日に行われる。 出演者9人で農作業に関わる様々の 所作を演じることで、五穀豊穣を願う 行事。中世以来の面が現存している 点は、芸能史上きわめて稀有。 ・花盛祭
寒い冬が過ぎ、花咲く春を迎えた ことを祝う祭り。拝殿に40∼50の 花が並び参道にも竹筒に生けられ た花が並ぶ。その中を平安末期か ら室町初期まで行われた「浜降り」 の神事のなごりの渡御も行われる。 「浜降り」とは紀の川を下り、和歌 浦の玉津島神社に1泊、翌朝、 日前宮の草庵に入り天野へ帰って 来る行事。高野御子がひそかに衣 通姫に通った故事による。 私は、この祭事を見て阿波と関係 あると感じた。玉津島神社は西 の端、向こうは阿波である。 御田祭りの田人と面 米をまく散米と猿田彦 の先導で天野地区70 人が面や衣装を着け て、境内を練り歩く。 外鳥居の祝詞棚から、 西方の玉津島神社を 拝み宮司が厳かに祝 詞を上げる。徳島県内の丹生都比売神を祀る神社
徳島県那賀郡鷲敷町大字仁宇字学原
八幡神社
祭神 ミズハノメ、・応神天皇
旧村社丹生神社は、往古、丹生大明神ともいわれた。 明治21年八幡神社を合祀する。昭和37年阿井八幡神社を合祀「八幡神社」とす。 丹生橋を渡ると仁宇。この辺り一帯は中世まで、有数の水銀鉱山。水井水銀鉱山があっ た。西の高野と呼ばれる太龍寺山麓にある。
19 神主の丹生晧文氏と 八幡神社徳島 若杉山遺跡
• 徳島県立博物館 企画展「石とくらし」より 弥生時代の終末から古墳時代前期にかけて 墳墓や古墳に埋葬した人に多量の 水銀朱がふりかけられるようになった。この時期の水銀朱の採掘・精製は阿南市 水井町の若杉山遺跡で盛んに行われていた。精製には石臼・石杵が使われ、石 杵の形態からすりつぶしの行程までがここで行われていたことがわかる。 辰砂 水井町由岐水銀鉱山産 石臼・石杵 徳島県立博物館蔵若杉山遺跡
四国霊場21番札所太龍寺の麓の斜面、標高150mにある。地質は 秩父帯に属す。石灰岩やチャートの中に2,3ミリの厚さで辰砂が含まれる。辰砂 の入った原石をすりつぶし、水の中に何度も入れ比重の重い辰砂を精製した。 20徳島 神山町
21•
古代の朱鮮やか 神山町に採掘坑跡(7.7.4徳島新聞)
県内で辰砂鉱床のある山が確認されたのは、 若杉山についで2例目、坑道跡は弥生時代か それ以前とみられる。•
弥生時代の辰砂採掘の坑道跡を発見
(7.7.4 日経)
徳島新聞 日経新聞 神山町神領の通称丹生山(におや ま)で、古代に朱の原料として珍重さ れた辰砂鉱石の採掘坑道跡とみられ る穴が見つかった。付近にその時代の 朱の製造センターが存在し各地に配ら れていたのではないかと推定できる。 坑道跡は鉱脈に沿って、山の中腹に アリの穴のように縦横に延びており、 林道工事で山肌を切り崩した際、5ヶ 所で見つかった。岩盤表面に赤色の 鉱石が残っている。分析結果、辰砂と 判明。 坑道の規模は不明だが、確認された最 大のもので幅1.5m、高さ70cm、奥 行き26m。穴の中や周辺に、削石に 使ったとみられる石片が数多く残ってい たが、年代を特定できるような土器は 見つかっていない。22
徳島県内の丹生都比売神を祀る神社
・
徳島県鳴門市撫養町木津字奥中山13 丹生神社 祭神 丹生都比賣大神・ 高野御子大神 大食都比売大神 市杵島姫大神 • 徳島県小松島市坂野高野18-1,18-2 高野神社 祭神 丹生都姫神 応永2年創建された。 明治の末坂野垣内に鎮座す る日吉神社に合祀された。 鳴門市の丹生神社(村木氏撮影) 日吉神社朱について
23 • 赤は血の色である。血液は生命そのものである。 • 神聖な赤の呪力が魔除けとなった。施朱の風習。 • 死者に神聖な赤色を施し再生を祈った。 • 魏志倭人伝に「邪馬台国に丹あり」記載。 • 有用鉱物として朱(辰砂)に関心。薬用・防腐作用。 • 朱塗り銅鐸・朱塗り土器・朱漆装身具 • 道教思想・神仙思想(不老不死)。 • 古墳ー装飾古墳・壁画古墳・遺体に朱を置く。 • 法隆寺の資材帳に、塔分・通分として朱の記載あ り。 赤のまじない(パプアニューギニアにて) 古墳石室内 出雲市西谷3号墓 ひつぎの底に敷き 詰められた朱 パ プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア の 酋 長 弥生後期の 福 岡の 遺跡 で 目 と 口 の 周 り に 入れ墨をし た ﹁ 人 物線刻板﹂ が 出土24
古代に使用された赤色顔料
赤色は、赤ちゃんが最初に覚える重要な色といわれている。おかあさんの唇の赤 (ことばー頭脳の発達)、お母さんの乳房の赤(母乳ー身体の成長)。危険を認識する赤信号。• 辰砂(丹砂) 硫化水銀
太古より使用された
顔料
、特に古代世界では最も重要な色
の一つ。ローマ時代には水銀と硫黄を合わせて人工的に辰
砂を作っていた。(錬金術師がるつぼの中で作る赤色)
硫化水銀の状態では、それほど危険ではないが、加熱する
と
有毒なガスが発生
する。
• ベンガラ(酸化第二鉄)
酸化第二鉄を主成分とする。 インドのベンガル地方から輸入されて「ベンガラ」 と呼ばれている。日本では、岡山県吹屋が特産地。 弁柄、紅殻と書き、古くは古墳時代から壁画や埴 輪の彩色、現在では、九谷・伊万里・京焼などの 陶磁器の赤絵、能登・輪島などの漆器や衣料の 下染め、家屋・船舶の塗料などに使われている。 ベンガラ粉末 硫化鉄鉱石 はそう25
丹生神社のフィールドワーク
• 丹生川上神社上社
奈良県吉野郡川上村大字迫
祭神
高龗大神
相殿神 大山祇神 大雷神
御神徳 この神は
竜神
にて雨を降らせる神様。
農業を以って唯一として来た我が国に於いて、
雨を降らせ、雨を
司る
この神様に対する尊崇の念は特に篤く、神代の昔より今日
に至るまで変わる事なく、その具現として京都の
貴船神社
をはじ
め全国各地に御分身が祀られています。
御由緒 天武天皇白鳳4年「人声ノ聞コエザル深山吉野ノ丹生川上ニ我ガ
宮柱ヲ立テテ敬祀ラバ天下ノタメニ
甘雨ヲ降ラシ霖雨ヲ止メル
」
との神宣により創祀されたと伝えられています。上代の祭祀に御
社殿はなく、おりにふれて霊山、霊木に降神をいたし、祭祀を行
っていましたが、天武天皇の御代、初めて御神殿を建立して奉
斎
されたのであります。
後醍醐天皇御製(吉野山にて詠ませらる)
この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空
(「丹生川上神社上社の御事について」より)
延喜式の丹生川上神社の論社には
上社・中社・下社
がある。
26
丹生川上神社について
上社は大滝ダム建設のため水没するので移転する前に私は参拝した。 丹生川上神社上社本殿基壇調査(1999.12.16 奈良県立樫原考古学研究所) 宮ノ平遺跡(上社旧境内地) ○平安時代後期の神社に関連する祭壇跡 とみられる長方形の石敷き。 ○縄文時代中期末∼後期初め(4000年前) の祭祀に使ったとされる石棒が10点以上 出土。平安以前の神社の形態を知る貴重な 資料。本殿遷座後、発掘調査で多数の土器・ 石器が出土。上代よりの祭祀が証明された。 ○新しい社殿 平成7年11月地鎮祭、平成10年3月 御遷座。地元奈良県はもとより、全国 の水力発電・製糸業・製鉄業の人は勿 論、水の恩恵に感謝の念を持つ人々 が祈雨・祈晴の祈りを捧げている。 歴代皇室の崇敬篤く、神祇官より使者 が遣わされた。祈雨には黒毛馬、止雨 には白毛馬が添えられた。 2002.8.25聖地が 失われる前の鎮魂 の祭り(hpより) 新しい社殿27
三重県宮川エコミュージアム全国大会に出席して
エコミュージアムとは
○今から20年以上前にフランスで生まれた「青空博物館」構想。 ○博物館は知識を深め、情操を培い、生涯学習のためにある。しかし、博物館のような 建物を造らず、あるがままを展示する。そこには自然と人間の調和ある営みが存在 する。 ○エコミュージアム理念を取り入れた構想は環境重視・生活優先の「町おこし」として注 目されはじめた。 ○徳島県の板野町・上板町・土成町の三町が「あさんライブミュージアム」として取組む。 目的ー再発見は「観る」、再活用して育成すること「磨く」、発信して発展さす「放つ」。宮川エコミュージアム
宮川流域には、日本一の清流にはぐくまれた 自然・歴史・文化・産業・伝統がある。 長い年月をかけて築き上げてきた「地域ら しさ」を流域案内人が伝える「生きた博物館」 である。 フィールド数は139ある。 (2004.2現在) 全国大会は年1回、今回は10回目。 宮川流域エコミュージアム・フィールド28
伊勢水銀について
○三重県多気郡勢和村 この一帯は古代の水銀坑道が数多く点在し、紅色を していたので「火の谷」と名付けられた。斜坑が多く、 旧坑も鉱脈に沿って斜めに地中に延びている。集落 東南部の丘陵地帯にはこのような旧坑が百数十ヶ 所、露天掘りの跡も何ヶ所かあるといわれ、丹生は 日本有数の水銀生産地だった。 ○松阪市射和 (伊勢白粉) 丹生の水銀を原料として白粉を生産した釜元が83ヶ 所あった時期があり、盛んに生産された。 {水銀の用途} ○鍍金(奈良東大寺の大仏『東大寺造立供養記』) 水銀を金・銀と混合してアマルガムを作り、それを塗布した後 に加熱して水銀を気化して金・銀を定着させる。金の鍍金に は非常に大切な金属である。大仏製作には、多量の水銀を 必要とした。 ○疫病の特効薬 ○水銀商人の活躍。 ○丹生暦 勢和村水銀坑跡(宮川流域案内人 逵昭夫氏) 勢和村水銀採取現場跡29
伊勢丹生について
• 伊勢水銀
の産地
勢和村丹生地区は水銀の産地 の代表的な土地。 櫛田川は中央構造線に 沿って流れる。 この地域で「朱」が産出。 この流域には、旧石器 時代の遺跡が存在。 古代には旧本流右岸に は、斎宮があった。 丹生山 近長谷寺 日本三大観音の一つ とされる重文本尊木造 十一面観音。仁和元 年(885)に建立。高さ 6.6m、右手に数珠を かけ錫杖をそえる姿は 日本唯一のもの。鉱物 探査を表している。ご 開帳は毎月18日。行っ た日が偶然18日、写 真撮影させていただい た。 重文 木造十一面観音 発掘の穴が見える30
伊勢神宮寺
丹生山 神宮寺(女人高野山 丹生大師)
774年弘法大師(空海)の師である勤操大徳が開山し、その後、大師がこの地に立 ち寄った際、七堂伽藍を建立された。本尊である弘法大師像は、大師42才の自画 像であるとされている。一般に「丹生大師」の名で親しまれている。古くから 厄除け の大師さま として近隣の信仰を集めている。丹生付近は伊勢水銀の本場として知 られていた。東大寺大仏が再興された時は、ここから二万両の水銀が塗金用として 献上されたという記録がある。医薬品や伊勢白粉として広く利用された。水銀の蒸 留に用いられた土製の釜が保存されているという。『天工開物』の「はそう」だろう。 付近は丹生千軒と言われるほど賑わっていた。 神宮寺山門 神宮寺に並ぶ丹生神社全国の丹生と辰砂
31 辰砂(左 大和、右前 阿波、中央後 三重、右後北海道) 徳島県立博物館蔵 (ニフ)系の地名の分布 『地名・苗字の起源』鈴木武樹 著 「に」がつく地名は、朱の産地 「丹」のよく取れる土地は『丹生」であり、地名は「仁 布・壬生・入」とも記す。 (入田・新田・入野・新野・丹生谷・丹羽など) 神社・川・山の名前に多い。 南朝で活躍した武将と丹生神社を護ってきた一族 大和の丹生−千早鉱山 吉野山ー役の行者・修験者 南朝で活躍した武将(楠木正成・北畠顕能・新田義 貞・名和長年・児島高徳) 木村昭和氏資料32
東大寺二月堂お水取り
•
東大寺二月堂の
お水取り
は奈良に
春を告げる行事
である。
•
正式には
「修二会」(しゅにえ)
と呼ばれ、毎年3月1日から14日まで2週
間続くお勤め。堂の回廊で大松明を振り回す勇壮な火祭り.
•
修二会の始めと終わりには二月堂の回りに勧請されている
興成社・飯道
社・遠敷社の三社
に参拝。
•
3月13日の真夜中、錬行衆が
あかいや
に入って若水を汲み取り,本尊
の十一面観音にお香水として供える。
・若狭国の「遠敷明神」
あかの水を若狭か ら、地中の水路を通っ て東大寺のあかいや へ送ると、再び湧き出 す。若狭で行われるの は「お水送り」。 この水が聖水として信 者に分け与えられる。 二月堂お水取り(徳島新聞)33
「お水取り」と丹生の「お水送り」
・「遠敷」
は「小丹生」で丹生氏の一派である小丹生氏がこの地で活躍、祖神 を祀った小丹生神社が後代に今の字を使うようになった。養老5年(721年) 創建。福井県には丹生の付く地名がたくさんある。 二月堂の修二会は、天平勝宝4年(752年)から始まり、一度も休んでいない。この 年、東大寺るしゃな仏の開眼供養が行われた。 • 丹生との深い関係を伺うことが出来る。• 「お水送り」
天平勝宝4年(752)、東大寺の二月堂が 建立され全国の神々を集めた修行「修二 会」が行われた際、若狭の遠敷明神が釣 りに夢中になり遅刻。おわびに若狭の清 水を送ろうと大岩の前で祈ると、岩が割れ て泉が湧き出た、という伝説に由来する。 午後7時、信者が神宮寺を出て、約2 キロ上流の遠敷川鵜の瀬まで、松明を手 に歩いた後、白装束の住職が「お香水」を 川に注ぐ。 (徳島新聞記事) 遠敷川に「お香水」を注ぐ白 装束の天台宗神宮寺住職34
「古事記」「日本書紀」における丹生
• 丹生神社の追求は非常に難しい点があった。なぜ500mの山上に雅な神社があるのか。しかも、哀 感を伴っている。地元の村は穏やかな桃源郷で、私を強く惹きつける魔力があったのだった。その 得体の知れない魅力で、神山町のアリスちゃんの交換人形を地元天野小学校に贈ったことがある。 自分の魂の帰着場所だったのかもしれないと思う。○
「天野」は丹生都比売神社の「祝」で、神代からの旧家と書かれているので『日本書紀』を 調べた。「神功皇后」に 昼の暗きこと夜のごとし、何故かと問うと、小竹の祝と天野の祝 はうるわしき友だった。小竹の祝が死んだので、天野の祝は屍の側に伏して自ら死んだ ので合わせ葬った。「けだしこれか」と各異なる処へ埋めるとひかり照り輝いた。 (丹生氏の遠祖は天野祝と称した。) ○「古事記」神武東征伝承
神武天皇(イワレヒコ)が大和の宇陀に出陣し、宇迦し(ウカ シ)兄弟を平らげようとしたとき、兄宇迦しは反抗し、謀略によって道臣命(ミチノオミノミコ ト)らを逆襲しようとしたが、自らがしかけたわなにかかり命を落とした。その地を宇陀の 血原という。赤い色の土地という意味で、辰砂粒が散乱していたのだろう。 その地より 幸行せば、尾生る人が井より出てきた。「汝は誰ぞ」と問えは「僕は国つ神、名は井氷 鹿」いう。 ○『日本書紀』「神武天皇」 二人その山に至ることを得て、土を取りて来帰りき。ここに天皇 甚く悦びたまひて、この埴以ちて、八十平瓫、(略)丹生の川上にのぼりて、用いて天っ 神地っ祇を祭り(略)「吾今厳瓫を丹生の川沈めむに、もし魚大き小きと無く、悉に酔ひて 流れむこと、(略)吾かならず能くこの国を定めてむ。」(天皇が初めて神祇を行う。)35
世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道)に
登録された丹生都比売神社
• 中国蘇州市で開かれた国連教育科学文化機関(ユネスコ)で三重・奈良・和歌山三県 にまたがる霊場と参詣道が世界遺産に登録された(平成16年7月)。 • 日本では12件目である。 • 丹生都比売神社境内の約12,727平方m(高野山地域の地主神及び他地域から勧 請された神々を祀る神殿と神殿前の大規模な木造楼門)と高野山町石の「二ツ鳥居」 (史跡)までを結ぶ坂道「八丁坂」の生活道を除いた約800mと大峯奥駈道、紀伊山地 の霊場が指定された。 高野周辺マップ 町石(九度山の慈尊院 から高野山の奥の院の 御廟までの約24km, 1町おきに町石が立つ. 二つ鳥居(天野社より八丁坂を登り, 町石道と出会う峠に二基の鳥居が並 んで立つ。大師が木で造り、1649年 石造りに改造される。)秦の始皇帝と水銀
36 兵馬俑発見者 揚志発氏(土産用兵馬俑にサイン) 秦の始皇帝(西暦前259∼前210)戦国の七雄を統一 中国2000年の封建社会には300以上の帝王が現れては 消えた。初めて封建制度の統一国家を立て、「皇帝」の名称 を創設した帝王。 文字・貨幣・度量衡の三大統一は当時の経済発展・文化交 流に大きな影響を与えただけでなく、後世にも大きな功績を 残した。 万里の長城造営・始皇帝陵驪山建設・兵馬俑軍団制作 阿房宮の高度な建築技術・秦代法律制度の記録文書 焚書坑儒・不老不死の薬追及。 始皇帝陵 地下宮殿の中に は奇宝・財宝、 上部に星座,下 部には水銀。 (土中の水銀含 有量高い) 『史記』『漢書』の 記載を裏付ける。 将軍・武士・軍陣 兵馬俑の芸術千人千様の塑像群37
始皇帝と方士徐福
・神仙説
不老不死の仙人になることを願うこと。前4世紀の戦国末期から現れ、秦の始 皇帝(天下統一紀元前221年)は熱心なファン。更に前漢時代の武帝もファン。後漢 末に五斗米道の新興宗教と結合。先駆者葛洪の『抱朴子』は道教の基礎理論となる。 ・不老不死
皇帝は生死の外の存在でなければならない。始皇帝は不死を念願。前219 年、東方に巡幸の際、斉の方士徐市(じょふつ)(徐福ともいう)が、東方の海中に蓬 莱・方丈・瀛州という三つの神山があり、仙人がいる。その国へ不老不死の薬を求め に行くことを申し出た。始皇帝は、童男・童女数千人を集め、巨万の富を与えて出発 させた。しかし、仙薬は入手出来なかった。 この事も原因して儒家思想の弾圧で前213年儒者460人を穴埋めにする坑儒を行っ た。始皇帝は仙薬を入手し、宇宙 と同化、「皇帝」の任務遂行を図った。 泰山で封禅の儀式を行い、皇帝と天帝が交合す。 ・徐福
2200年前、山東半島から日本を目 指して船出。日本への航路を開く。 ・徐福上陸地の代表的場所
佐賀県諸富町 三重県熊野市 和歌山県新宮市 丹後半島徐福上陸地38