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恐慌期の企業・金融複合破綻と投機的経営者 : 旭日生命を支配・搾取した山十製絲の破綻を中心に

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恐慌期の企業・金融複合破綻と投機的経営者

一旭日生命を支配・搾取した二十製糸糸の破綻を中心に一

小 川

1 は じめに

 今次の平成不況では不良債権を抱えた銀行が 数行破綻し,さらに本年になって発覚した日産 生命,三洋証券の破綻など,他の業態にも波及 しつつある。こうした金融情勢の中でいわゆる 「日本版ビッグ・バン」と称される金融改革な るものが実施されつつあり,外資・他業態から の相互参入はもとより,総合商社など一般産業 界からの証券・金融・保険業への新規参入も必 至と見られている。ここでは「コンビニで外貨 両替が可能となる」等と,ともすれば便益面の みが獺されている「日本版ビッグ・バン」政策 の是非を軽々に云々するのではなく,まず他業 態・産業界からの金融・保険業への具体的参入 事例を我が国忌前期の豊富な先例の中から求め, 企業と金融機関の癒着構造,金融機関の機関化 が必然的に招来するであろう,様々な利益相反 1)拙稿「大都市鉄道への経営転換と資金調達一翼  神急行電鉄,大阪鉄道の対比を中心として一」  『鉄道史学』第8号,平成2年9月,鉄道史学会,  同「明治・大正期の困窮私鉄再建と生保金融一豆  相鉄道の資産継承会社の性格を中心に一」, 『彦  根論叢』第298号,平成7年11月,同「明治末期  の民営社会資本の挫折と再建一高野鉄道のデフォ  ルトと財政整理を中心に一」 『滋賀大学経済学部  研究年報』第2巻,平成7年12月,同「明治期銀  行融資のデフォルトと自己競落・証券化による不  良債権回収一十五銀行の太田鉄道融資と水戸鉄道  新設を中心に一」 『彦根論叢』第299号,平成8  年1月,同「金融恐慌による休業銀行と関連社債  のデフォルトー東京渡辺銀行と東京乗合の利益相  反を中心に一」 『証券経済研究』第3号,日本証  券経済研究所,平成8年9月などを参照 弊害,企業・金融複合破綻(共倒れ)の危険性 を歴史的事実の解析作業を通じて可能な限り明 らかにしょうとするものである。        ユラ  筆者の一連の企業・金融破綻事例研究の中で, 今回対象とする山止直面(以下単に当社と略す る)は昭和元年度(以下昭和の年号は略する) の「横浜神戸生糸入荷番付」では東の横綱・片 倉製綜(91,599梱)と並ぶ,西の横綱(55,781 梱)に擬せられ,東の大関・郡是製糸糸(37,238 梱)を凌駕する地位にあり,近代史・地方史等       うの領域で既に優れた業績・先行研究がある。  当社は相当以前から実質的には「死に体」で ありながら,悪名高い高利貸からの高利導入な どの,経営者の必死の「あがき」によって昭和 初期まではまがりなりにも存続していたが,昭 和恐慌期の最中,ついに破綻に追込まれ,7年 破産を宣告された。この中で安田銀行等は猛然 と自行債権確保に走り,個別に担保に徴求して いた全国各地に散在する工場を次々に抵当権実 行,当社に所属する工場群は文字通り,四分五 裂の八つ裂き状態となり,空中分解した。この 過程でいわゆる「自己競落」目的の特別目的会 社(SPC)が銀行・商社等の手で数多く設立 され, 「金融資本の製綜業直営」 (S6.8.1T)と も報じられるなど,金融機関の不良債権処理上 も興味深い問題を提供している。  なかでも当社の破綻に至るまでの経緯と,金 2)とりわけ「山回文書」を駆使された海野福寿氏の  「山十製糸株式会社の経営」(『横浜開港資料館紀  要』第1号,昭和58年3月)は遂一の引用は略させ  て頂いたが,本稿は多くを負っている。「山十文書」  利用のあっせんも賜った海野氏に謝意を表したい。

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一20一 滋賀大学経済学部研究年報Vol. 4 1997 融恐慌期に破綻した旭日生命(以下単に旭日と 略する)といういわゆる「不良生保」とは密接 不可分な関係にあり,高橋亀吉も「山十製糸会       の 社の金融機関」となった旭日を重役の涜職行為 に基づく保険会社の破綻例の筆頭に掲げている。 両社の癒着関係は高橋亀吉の引用した記事の 「重役自身がその事業会社の窮状を救ふために,       の 放漫なる流用」を敢行した典型例であり,支配 下に置いた旭日資産の流用は,投融資先の窮状 を見抜けなかったという資産運用の失敗とは異 なり,明らかに背任行為であり,当然に大株主・ 経営者による保険契約者持分(将来の保険金支 払等に充当すべき責任準備金の積立額)の不当 侵奪となるが,当社の延命には相当の貢献をし たと考えられる。  本稿は山十製綜という斜陽・衰退化しつつあっ た伝統的製糸企業を事例として,恐慌期に複合 的に相次いで破綻した企業と金融機関の癒着構 造を,金融機関を支配していわゆる「機関」化 し,いわば「搾取」し,破綻にまで追込んだ産 業資本の側から分析しようとするものであり,       5) 同事例を金融機関の側から分析した拙稿の姉妹 編をなすものである。当社と表裏一体をなす旭 日の概要や,破綻生保に関する先行研究等は同 稿を参照されたい。本稿でも主たる史料とした 「山十文書」の整理に尽し,当社の経営を詳細 に分析された先行研究から多くの示唆を賜った 海野福寿氏,史料所在等に関してご教示賜った 石井寛治氏,文書閲覧に便宜を頂いた横浜開港 資料館・吉良芳恵氏等の各位に厚く御礼申し上       6)げたい。なお頻繁に引用した「山十文書」・関        T) 係社史・団体史・業界年鑑類・新聞・雑誌の脚 注表示は本文中に略号で示した。なお本稿は平 成9年度科研費基盤研究A1「戦前日本におけ る資産家・企業家層の形成に関する研究」の成 果の一部である。 II 山十束練の沿革 3)4)高橋亀吉『株式会社亡国論』昭和5年,萬里  閣書房,p226 5) 「金融恐慌と生保破綻一末期の旭日生命を中心  として一」 (『文暦論集』第120号,平成9年9  月,生命保険文化研究所)。なおこのほか「生保  破綻と投機的経営者一末期の共同生命を中心とし  て一」 『九州大学経済学部保険証講座開設十周年  記念論文集』平成9年(予),同「投機的資本家  集団と銀行乗取一芸備銀行を巡る株主総会紛糾事  件を中心として一(仮題)」 『彦根論叢』第312  号,平成10年2月(予)等を予定している。なお  昭和恐慌期の生保資産運用上の困難性に関しては  拙稿「昭和恐慌と生保経営(1) (ll)一生保証  券㈱設立を中心として一」『文研論集』第109∼  110号,平成6年12月,平成7年3月,また旭日  生命の旧所有者であった渡辺家・東京渡辺銀行に  関しては拙稿「金融恐慌と機関銀行破綻一東京渡  辺銀行の系列企業を中心に一」 『滋賀大学経済学  部研究年報』第3巻,平成8年12月,同「土地会  社方式による不良債権処理一渡辺系昭和土地案か  ら勧銀・根津系自己競落会社への変態を中心に一」  『彦根論叢』第305号,平成9年1月,同「金融恐  慌と証券化処理一我国における土地会社方式を中  心に一」 『証券経済学会年報』第32号,平成9年  6月,証券経済学会,等をそれぞれ参照されたい。  以下は末期における当社と金融機関・金融業 者との癒着解明に最低限必要な当社の沿革概要 を,前段階としてごく一部の限られた先行研究・ 公表資料室から抽出・概観したものにすぎず, 蚕糸業には全くの門外漢の筆者にとって,もと 6)『横浜関係史料所在目録第3集』(昭和62年3  月)所収の整理番号を付して,単に(山S3一 48  (12))等と略した。文書の全容は海野論文参照。 7)江口善次,日高八十七編『信濃蚕糸業史』昭和  12年,大日本蚕糸会信濃支会(『業史』と略),  日本紡織新聞社『日本紡織年鑑』各年度(『年鑑』),  昭栄製糸『昭栄製糸二十年誌』,昭和26年(『昭  栄』),片倉製練紡績「二十年誌』昭和16年(『片  倉』),片倉工業『ニューカタクラの創造』平成3  年(『カタクラ』),郡是製糸『郡是製糸六十年  史』昭和35年(『郡是』),グンゼ『八十年史』昭  和53年(『グンゼ』),『神栄八十年史』昭和43年  (『神栄80』),神栄『神栄百年史』平成2年(『神  栄』),T一東洋経済, D一ダイヤモンド, E一エコノ  ミスト,保銀一保険銀行時報,東朝一東京朝日,  東日一一東京日日,中外一中外商業,大毎一大阪毎  日

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より製糸業史研究を企図したものでないことは いうまでもない。製糸金融研究の基本書とされ る『日本産業金融史研究 製糸金融編』でも社 史の存在する片倉,郡是を除き,小口組,山十 組など破綻した結社に関してはその経営史料を        の 発見できなかったとされ,山梨県でも個別経営 史料の発見は製糸金融機関をも含め, 「今後も       うきわめて困難と思われる」と指摘されている。 その意味でも破綻企業の内部資料たる「山脚文 書」の発掘・整理の意義は極めて大きい。 1。山十製練の前身山十組の概要 当社の前身である山十組は明治18年七曜星社 8)9)11)13)14)17)18)19)21)35)山口和雄  編『日本産業金融史研究 製糸金融編』1966年,  東京大学出版会,p198,p360,p17,p262,p172,p168,  plO8,p129,p137,p356 10)匿名組合は商法に規定された組合の一種で,組  合員が営業者のために出資するが,この出資は営  業者の財産となり,組合員は第三者に対してなん  らの権利義務を有しないものである。この匿名組  合形態の前提として組合員が営業者に全幅の信頼  を置くことが肝要とされる。諏訪地方だけでも山  十組のほか,片倉組(大正9年株式会社に変更),  尾沢組(大正12年株式会社に変更直後に片倉に合  併。『片倉』p138),小口組(破綻を契機に昭和6  年8月株式会社に改組),林組(明治40年合名会  社に変更),小松組(明治38年合資会社に変更,  昭和元年度の番付で34位4427梱)等多数存在した  が,これら匿名組合の陥りやすい弊害に関して  『業史』は「同族同姓相連合して一経営者の下に  事業を営む匿名組合の組織によるもの現出せしが,  元来血族を糾合して一団となしたるものなるが故  に其団結も強固にして所謂一身同体の如く活動す  るを得たりしも,年所を経るに従って設立当初の  如くなる能はず,一族の統制宜しきを得ず,或は  一族なるが為に我侭勝手を行ふものを生じ,為に  失敗に陥るものあり」(『旧史』p850)「匿名組合  は資本に関する法律上の保護薄く信用亦低きが上  に,経営者其人に全幅の信頼を置きて之に一任す  るものなるが故に,其人の一挙一動により会社の  興廃を来すが如き場合少しとせず」 (同書p1032)  と指摘している。 『町史』の編者が匿名組合の失  敗の例として山十組等を念頭においていることは,  他の箇所の記述からもうかがえる。 として創設されたが,『干瓢』は「小口重右衛 門が安政年間より座繰製練を営めるに端を発し, 鹿子村吉,吉三郎之をつぎて漸次に規模を拡大 し,明治十一年器械製紐に改め,明治十入年笠 原房吉(初代),小口善重(初代)等と下諏訪 町に七曜星社を創設し,共同揚返をなせしが, 二十三年分離して,平野村下浜に吉上館製糸長場 を設け,小輩善重を社長とし,小口乙吉副社長 となりて経営せり,其後明治三十五年之を解散 し,翌明治三十六年より一族を糾合して強固な る一団を組織し,山十組と称せり」 (『業史』 p1108),「明治三十六年小口村吉,同重吉, 同吉三郎,同重太郎,同今朝吉等の一族兄弟に よりて組織され,小口村吉を組長とせるもの」 (『無恥』p1032)とする。小ロー族だけで構成 された山十組は明治36年に小口村吉(以下単に 血温)が諏訪地方の卓越した二大製糸結社の一 つの竜当館(館長小口善重,23年下諏訪の七曜 星社から分離,独立)から,竜上館丸一組(笠 原房吉),小口組(小口善重)とともに独立し     ユの た匿名組合として知られる。組合の本部事務所 を長野県諏訪郡平野村5203番地(後の当社の本 社所在地)に置いた。  今一つの製糸結社である開明社からは同様に, 片倉組(片倉製糸),林組,岡谷館等が独立し, これら二大製糸結社から分離した製糸結社が後 に,郡是製糸と依田社(長野県小県)を除き,        ラ 八大製糸の大半を形成し,後年の「昭和三年度 総輸出生糸九十万相年の四割は実に片倉,盆画, 郡是を始め十二製糸家の生産に掛る所」で, 「全生産高の二割が三大製糸家(=片倉,郡是,       ユ ラ山盛)の生産の生産する処」となっていた。  明治39年時点の千釜以上の長野県の製糸結社 は片倉組2325,岡谷製糸1590,山十組1241,小 口組1209,尾沢組(大正12年片倉に合併)1163, 林国蔵1084,山一林組1051と7社あり,他県の 結社は軒並み千首未満で,後年片倉組と覇を争 12)25)26)28)34)森泰吉郎『蚕糸業資本主義史』  昭和6年,森山書店,p165∼8

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一22一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.4 1997        ユのう郡是製糸もまだ317にすぎなかった。また明 治42年の輸出出荷量でも片倉組12,082,岡谷製 糸4,778,小口組4,614,山十組4,422,林組3,480, 尾沢組2,945であった。(『神栄』p66)  竜上館を結成した小ロー族には小口三次郎 (小口善重の父,明治10年現在で地価704円の 地主),小口重右衛門(先代村吉の父で,破綻 時に当社を経営していた村荘ら小ロー族の共通 の祖父,地価709円の地主)など地域の有力地         ユ   主が含まれていた。 2.山亭製練の沿革       ユう   当社の沿革について『明治大正史』は次のよ うに記載している。 「当社は大正十四年十月の 創立に係るものであるが,その前身は前社長小 口村童氏の祖父重(右)衛門氏の個人経営に属 し,明治初年に始まる。創業生初に於ては専ら 座繰式事綜に過ぎなかったが,明治十七年に至 り,製糸糸業の將來が特に有望なりと見て,断然 旧式の座繰式を排し大量生産の機械製織に着手 すると同時に,同族を集めて山十組を組織し, 業務益々盛大に赴いた。其後重(右)衛門氏害 し息村吉組曲を継ぎ,令弟吉三郎氏と協力して 鋭意事業の獲展を計った結果,最初繰綜置数六 十釜であったものが二十五年には四百五十釜と なり,三十五年には千三百二十四釜に,更に大 正元年には四千九百九十七釜となり,製糸界に 於ける一方の雄たるに至った。斯くて村吉氏の 彼後二代目村吉氏(先代襲名)組長となり,事 業益々好調に進展しつ・あった」  片倉の社史は「開港以来未曾有の新高値を現 出した」 (『片倉』p51)大正9年の糸価暴騰を 「蚕糸業者は勿論世を挙げて破天荒の糸価奔騰 振りに驚倒し,群小製糸家は各地に乱立し,製 糸業割拠の全盛を極めた」 (『片倉』p52)と 表現しているが,山十組も「欧洲戦乱勃獲し, 糸価の暴騰を見るに至ったので當社は機を逸せ 15)16)23)33)45)53)54)57)64)『明治大正  史』第11巻,会社篇,実業之世界社,昭和5年,p250 ず,工場の大拡張を行」い,「製糸界に於ける       一方の雄」と称されるまでに急拡大した。山十 組は全国に22ケ所の製糸場と700余ケ所の繭買 入所を有していた。(T15.4.20保銀)  山十組の釜数は明治20年30,28年130,32年 306,38年3283,大正3年3674,大正10年12,913    ユの と推移し大正8年頃の生糸ブームを含む大正3 年から10年の7年間に3.5倍に急拡大したこと が読み取れ,当然に銀行・売込問屋からの巨額 の資金調達が可能であったことも示している。 村吉は明治30年時点では第十九銀行の64株の株 主となっているが,これは明治30年3月の「十五 万円の新株募集を機として…小口村吉などの諏        訪の大製糸家が重要な株主となった」もので, 同時に144株の株主となった小口組の小口善重 が第十九銀行の監査役に就任している。小口組 は明治33年頃は第十九銀行の最大の貸出先の一 つであったが,山十組の代表者たる村吉・吉三 郎・笠原房吉の連名でも5万円の貸出見込高が        ユ   記録されている。  大正2年には失火のため工場を焼失した(旧) 木之本製糸(滋賀県伊香郡木之本村)の施設を       オの買収し,当社の木之本製直心とした。  大正2年度の山十組の金融取引状況は「十五 銀行に為手割引年々二〇万円以上。名古屋方面 の銀行とも為手取引あり(第十九銀行とは為手       コ 取引なし)」とあるが,さほど十五銀行の金融 支援を受けていなかったと解される。郡是製糸 の場合は三菱合資銀行部が大正4年に京都支店 を開設し,初代支店長加藤武男が「大正五年に思       ヨのひ切って大胆に二百万円の生糸資金を貸した」 ことを契機として,「三菱銀行との親密な関係 はこの時に始まり」 (『グンゼ』p144所収), 同行の資金を背景に諏訪製糸経営を凌駕する成 20)旧木之本製糸の経営に関与した冨田八郎のこ子  孫・光彦氏のご教示による。 22)岩井良太郎『日本財界人物全集』第9巻, 『グ  ンゼ』p144所収

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長を示したといわれる。(『郡是』p87)  同時期の小口組の釜数は6061から6664へと約 1割,僅かに603しか増加していないため,小 口組を一挙に抜き去った。東朝も「山十製糸会 社は大正六年目りの好況に乗じてその工場を拡 張し,最近その経営組織を株式会社に変更し, 公称資本二五〇〇千円,払込資本一二五〇千円, 所有工場二四個,所有かま数一五三一四個にし て小口組を凌がし,片倉製糸会社に次ぐ第二位 の大経営となり,小口村吉氏が社長,小口今朝 吉氏が副社長となってみる」(S2.6.17東朝)と 報じている。 『明治大正史』も「欧洲戦乱勃発 し,糸価の暴騰を見るに至ったので当社は機を 逸せず,工場の大拡張を行ひ,大正九年には総 釜数一万四干八百二十五釜を有するに至り,其       収益又莫大なるものがあった」とする。 3.片倉,郡是等との対比  大正13年時点の製糸業者別の横浜出荷数量 (梱)を見ると,1位片倉製綜73,457,2位当社 50,143,3位郡是避難34,560,4位小口組27,432, 5位交水社12,582,6位依田社12,300,7位山丸 製糸i2,167,8位岡谷館11,825,9位石川組 10,677,10位林組10,100と,片倉製糸に次ぐ地        位にあり,3位の郡是製糸以下を凌いでいた。 また元年度の「横浜神戸生糸入荷番付」では1 位片倉製糸糸91,599,2位当社55,781,3位郡是 黙坊37,238,4位小口組28,675,5位交水難 14,401,6位林組13,878,7位石川組13,577,8 位山丸製糸13,084,9位依田社12,402,10位岡 谷社12,399,11位鐘淵紡績11,655梱であった。( 『カタクラ』p145所収)  農林省の第十一次工場調による製糸業者別生 産規模で当社は機数,繭使用高(貫),生産額 (貫)のいずれの規模指標でも片倉製糸に次ぐ 全国第2位の地位にあった。しかし製糸能率と して1釜当りの生産額では当社は32.6貫と,郡 24)『財界二十五年史』大正15年,帝国興信所,付  録P1∼2 是製糸の59,4貫,片倉製糸の41.0貫に比べかな り見劣りする。好況期の設備拡充をあまり行な わなかった小口組の35.3貫よりも低いことを考 えると,設備が老朽化して1釜当りの生産性が 低いためではなく,製糸不況で設備が遊休化し たためと考えられる。当社の破綻寸前の6年5 月9日に最遠隔地の平壌製片影(釜数390)を 実査した東洋経済記者も「小規模乍ら,割合に 明るい,整頓した工場」(S6.6.27T)との印象を 記している。もっとも平壌は当社の最新工場で はあったが。2年度では株式会社組織の486工 場の平均値の36.3貫に対して片倉製糸は43.8貫 で,r全国平均より2割も高い当社(片倉)の 能率は,先づ優れたもの」(S6。3.21T)と評され ており,当社の製糸能率は全国平均よりも約1 割低いことになる。

 次に生産額/繭使用高を見ると,当社は

10.72%と,「蚕種の統一,桑葉の統一,飼育の 指導」(S6.3.14T)などにより,優i良繭確保という 原料政策に抜群の強みを持つ郡是製糸の11.97 %よりは劣っているものの,片倉製糸の10。46 %をはじめ,ほとんどの製糸業者よりは歩留り が良いことになる。したがって当社の巨費を投 じた新鋭設備が遊休化し,財務体質が良好な片 倉・郡是とは異なり資本費の負担増に苦しむ構 図が見えてくる。  さらに問屋荷受高表(3年度)でも郡是が 52,237梱,片倉が44,039梱と「輸出商の職能を 兼ねるに至り」,神栄,原合名,小野商店,渋         沢商店など「大問屋及輸出商に比肩する」荷受 高を誇るのに比して,当社の荷受高は僅かに 8,319梱と1ケタ少ない。大正14年度の問屋別 入荷高でも郡是が第7位,片倉が第8位に位置 するのに対して,山十組は29位にとどまってい る。(『神栄』p84)  郡是は三菱銀行からの資金調達が確立し,従 前の問屋前資金に頼る必要がなくなったため, 大正13年から売込問屋経由の販売ルートを輸出 商への直接販売に変更, 「会社設立以来,各種 の支援を得て来た神栄株式会社とも同社輸出部

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一24一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.4 1997 への輸出生糸の取引を除き,売込み問屋として の取引きは絶えた」 (『グンゼ』p161)。こ のため売込手数料節減のメリットが生じた。  これに対して当社は大正15年10月末現在で神 栄生糸の株式800株を保有(『神栄』p87)し ているが,これは神栄生糸が大正15年8月「取 引先製糸家に対しては,功労株のうち1満株を 最多800株・最小10株として割り当て」 (『神 栄』p87)た結果であり,郡是という最大の商 権を喪失した神栄生糸にとっては当社が最大の 取引先製糸家であったことが判明する。しかし 神栄生糸が大正年間に株式を引受けた製糸会社 のリストには当社はなく,株式の相互持合関係 にはなかった。 (『神栄』p76)森泰吉郎も 「生産費逓減上,大製糸糸家のみの行ひ得る強み がある。それは即ち下思副産物の利用加工業兼 営であって…大正十四年片倉,郡是の氏社は是 等兼営業から総資本金に対する二割内外の利益 を得て,同年製紐工程に於ける損失を償った上,       の 一割内外の株主配当を行ってみる」と,製綜不 況下での片倉,郡是の兼営の強みを強調する。  また資金的背景でも3年時点では郡是の筆頭        株主は日本生糸とならんで三井物産が16,000株 と総株数の3.9%を占め,以下日本綿花8,000 株,第一徴兵保険7,050株等の法人・問屋筋が 多く株式を保有し(『年鑑』3年,p761),森泰 吉郎も「特に本鞘製綜の如きは大財閥三井と資 金的関係を持って最近この方面の経営に便を得     う て居る」と財閥等との資本結合面を指摘する。  高橋亀吉は反動恐慌により「製糸業者は地方 銀行の逼迫のため,製糸資金に困り,養蚕業者 また,繭の滞貨のための資金難に陥り,それぞ        れその救済資金の供与を必要とした」と指摘し ている。こうした蚕糸界救済のためのシンジケー トとして,大正9年9月25日政府の低利資金融 通等の各種援助を受けて帝国蚕綜株式会社(本 店横浜,資本金1600万円,うち払込800万円) が設立された。この時原敬内閣の大蔵大臣高橋 是清は国家的産業と信ずる蚕糸業救済のために 反対する閣僚を沈黙させて,自説を押し通した といわれる。片倉製糸を代表して今井五介,小 降組を代表して小口善重(6,000株),千綿製 糸を代表して遠藤三郎右衛門,生糸輸出商の原 富太郎(1万株)など,業界指導者が取締役に 列する中で,今朝吉も山十組を代表して初代監          査役に就任した。大正10年末には今朝吉は何故 か監査役の中に見当たらないが,なお筆頭株主 の今井五介14,100株に次ぐ,!万株の第2位の         ラ 大株主であった。 4.山川製練設立(株式会社化)  「片倉組の組織変更が本県製糸業界に与へた る刺激は実に甚大にして爾後本県内製糸家中大 規模経営者の之に倣ひ,株式会社に組織変更す る者相次ぎ,製糸企業上一大画期を作れり」 (『業史』p1034)といわれるが,当社自身は大 正14年10月8日「旧山十組ノ営業ヲ其儘継承シ 其営業ヲシテ時代ノ企業精神二順応セシムル形        態ヲ執り活動能力ノ増進ヲ図ルノ主旨」により 組織を株式会社に変更したとする。 しかし『明治大正史』は大正9年の「財界反動 は意外に激しく斯界に打撃を與へたが予めに当 社もその影響より免れることが出來ず,大損を 蒙むつたので,十四年十月組織を変更し,資本 金二千五百万円二分の一払込の株式組織となし        陣容の立直しを行った」と,組織変更を大損に よる「陣容の立直し」=再建策と把えている。 27)三菱商事系列で,大正9年から郡是と取引開始。  大正9年の公募増資に応じた三菱商事持株を継承  した。 29)高橋亀吉『大正昭和財界変動史』上,東洋経済  新報社,p340 30)日本銀行調査局『本邦財界動揺史』 (日本銀行  調査局『日本金融史資料明治大正編』昭和33年,  p586所収) 31) 『銀行会社要録』大正11年,上27 32)36)39)43)48)50)当社『第一回営業報告書』  大正15年2月,p1,plO,p2∼p4,p15,p4,p2

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また昭栄製糸社史も「山十組経営者はその発展 期にあって盛んに株式,土地等に投資し,資金 を散逸したので,莫大にして而も悪質の債務が 累積し,管下各工場は辛うじて操業を維持する という状態に追い込まれてしまった。藪に於い て苦境切抜策として…その組織を株式会社に変 更」(『昭栄』p5)したと記載する。  これと好対照をなす大正9年の片倉組の株式 会社への組織変更を片倉社史は「一族が和衷暴 力粒々辛苦築き上げた,製糸糸事業の業績隆々た る時運の最高潮に満を持し,有望なる前途を控 へて之を世に公開し,株式組織に変更せること は内実非常の大英断」 (『片倉』p53)と自画 自賛している。片倉は創立時の株式公募で得た 1β74万円ものプレミアムを積み立て,抜群の 資本力を装備した。  森泰吉郎も「従来諏訪を根城とした片倉組は 大好況に乗じて事業の大拡張をなし,大正八年 その株式化以来,多くの製糸糸家を合併し全国二 十数県に亘り数十の工場を統括し…遂にその本 拠を財界の中心地東京に移し資金を直接大銀行 より得る…等,近代的企業の面目を遺憾なく発      ゆ 回し始めた」と株式化を評しており,近年の研 究者も片倉の株式化の意義を「株式会社制度 (外部資金依存からの相対的脱却)と機械の採 用(労働力依存からの相対的脱却)を行なうこ        おのとによって,その経営的安定を図った」と高く 評価する。  これに反して当社の大正15年2月期の社務概 況は「当会護身一期ノ営業ハ市況逆転ノ去秋十 月初旬ヨリノモノニシテ極力能率ノ増進,経費 ノ節減気軽メタルモ満足ナル成績ヲ挙グルヲ得 ザリシバ遺憾トスル所,株主各位ト共二次期二         ラ 望ヲ嘱セントス」2年2月期の社務概況は「四 月下旬二至リテハ…安値百五十円ヲ出現シ,実 二惨澹タル状態二陥入レリ,当業者ハ市場ノ安 定二腐心シ,糸価維持ノ対策ヲ考ズル事トナリ…」 , 「市場ノ人気極度二軟化シ,対外為替ノ続騰, 米国二於ケル入造絹糸ノ値下,綿業界ノ不況期, 内外事情糸況二利アラズ,相場ハ次第二安歩調 ヲ辿り,十一月下旬二至リテ…本年ノ新安値二 低落シ市場ハ不安ノ人気口覆ハルルニ至レリ…」 ,「当社ハ尋問二子シテ原料ノ仕入,生糸ノ製 造並二其販売共二最善ヲ尽シテ誤ラザラン事二 努メ,常二意ヲ業績ノ向上ト内容ノ充実二注ギ, 少費,多産ノ方針正長リ優良ナル製品ノ供給ヲ 図り,以テ斯業ノ危機二善処セン事二専念シタ ルモ,前述ノ如キ経過ナリシヲ以テ,遂二別項 ノ如キ営業成績ヲ報告スルノ止ムナキニ至リタ       ヨの ルハ甚ダ遺憾トスル処ナリ」3年2月期の社務 概況は「実二大正九年以来ノ新安値二惨落シ, 市場ハ宛然恐慌状態ヲ演出シタリ…帝蚕会社共 同保管貸出シ等アリシモ,供給過剰ノ為メ遂二 糸況回復ノ曙光ヲ認メ得ラレザル状態トナレリ   」といずれも不振の連続を告白している。 5.山留製練の株主・経営者  当社の営業報告書には株主名簿が添付されず, 海野論文でも一部分の紹介に止るが, 『営業報 告書』の記述から株主関係の事項を摘出すると, 「資本総額ヲ金二千五百万円ト定メ,一株金五十 円トシ,此株式総数ヲ五十万株二分チ,発起人 二於テ内四十七万四千五百七十五株ヲ現物出資 ノ方法二於テ引受ケ,残りニ万五千四百二十五 株ヲ公募耳付ス」, 「金銭以外ノ財産ヲ以テ出 資ノ目的トシタモノハ発起人十八名ニシテ」, 「大正十四年十二月十五日,株券ヲ交付セリ, 本期間株式ノ異動二十一件此株数十九万尋千百        ラ 八十二株主シテ期末現在ノ株主二十二名ナリ」  期末現在の株主22名の明細はないが,当然に 株主である役員11名(図取・社長村吉,取今朝 吉,重吉,矢島広之助,重太郎,今朝太郎,増 澤源三郎,笠原鈴吉,増澤庄之助,監朝重,蓄 蔵)と検査役2名(重爾,幸重)計13名以外は 9名にすぎない。大正15年3月取に選任された 37)44)55)56)80)当社『第二回営業報告書』昭  和2年2月,p6∼p9,p14,p2 38)81)当社『第三回営業報告書』昭和3年2月,  p6 h−7

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一26一 滋賀大学経済学部研究年報Vo!.4 1997        安田弘や,4年時点の役員・大株主のうちの重 複を除いた4名(藤田秀雄,平林運治郎,塚本 清胤,矢島慶之助),支配人の竹重らが,残り の9名の株主に含まれる可能性が高い。株主22 名の中の18名は現物出資をした発起人であるが, 当社の創立委員長の村吉をはじめとする一山十 組に所属した製糸場の所有者が当然に発起人と なったと考えられる。当社創立直前の大正10年 時点の農商務省『工場通覧』から山十組の製糸 場を抽出すると[表一1]の通りである。  すなわち開創(大六),今朝吉(第六,第十), 重吉(木曾川),矢島広之助(小山),重太郎 (一関),今朝太郎(第七),増沢源三郎(新町), 笠原鈴吉(二日市),笠原繁太郎(福島),朝重 (沼津),槙蔵(米子)らは山十組各製糸場の工     むラ 場主であり,増沢庄之助も同姓の増沢喜市が木 ノ本の工場主であるなど,当社の現物出資者= 発起人であった。これら小ロー族の山十組当 社での役職や姻戚関係,他社役員の兼務状況は [表一2]に示した。このうち今朝吉は長野県 諏訪郡平野村の製糸家で,「信州諏訪製糸界の 大立者」 (S2.7.1東朝)と言われ,大正9年9 月25日糸価維持のために政府の援助を受けて蚕 糸業界ぐるみで設立された特殊会社である帝国 蚕糸糸株式会社(第二次)では山十組を代表して 初代監査役に就任し,山十組の出資名義人も社 長の村吉ではなく今朝吉となっている。しかし 今朝吉の上場銘柄の持株を見ると,満鉄の旧株 320,新株320,東海銀行新株220株しかなく, 一族名義・関係法人名義でも上場銘柄保有は見      る ラ 当たらない。旭日を手放した渡辺一族の保有す 40)役員は代取藤田秀雄,取村吉,重太邸,平林運  治郎,監塚本清胤,増沢源三郎,上位4株主は村  吉,重吉,矢島慶之助,重太郎。なお平林運治郎  は山十組東京支店長,日本電話専務,住所欄は神  田小柳28の山十組東京支店内(『日本紳士録』大  正14年,p698) 41)農商務省『工場通覧』大正10年 42)73) 『全国株主年鑑』大正15年用,経済之日本  社,p60 る一流銘柄とは質量ともに全く比較にならぬ貧 弱さは隠しようもなかった。  大正14年時点の長野県の多額納税者調査によ れば製糸・養蚕関係者中の第1位越寿三郎(須 坂町・山丸製糸霊場代表者,長野製綜㈱代表者) 46,012円,2位小口今朝吉(平野村・当社副社 長)34,180円,3位笠原房吉(平野村・笠原組 入山二,角イ,常田館工場代表者)26,868円, 4位小口善重(平野村・小口組代表者・山三, 金三,和田山製糸糸所代表者)26,199円,5位小 口村吉(平野村・当社社長)21,687円,6位丸 茂文六(玉川村・丸茂製革所代表者)12,868円, 7位小口重吉(以下単に重吉,平野村・当社取・ 大株主)12,388円,8位矢島広之助(平野村・ 当社取・小山製糸糸所代表者)11,236円,9位 今井五介(平野村・片倉製糸副社長,信濃鉄道 社長,日本共立火災取締役,片倉殖産代表取締 役ほか多数)10,348円,10位小口勝太郎(平野 村・小口組石岡,金丸製綜所代表者)/0,315円, 11位小岩井宗作(松本市・養蚕指導員)10,267 円,12位小ロ金吾(平野村・小口黒山太田置所 代表者)9,988円,13位小口今朝太郎(平野村・ 当社取)9,737円,14位小口修一(平野村・小 口組山正製糸長所代表者)9,418円,15位笠原繁 太郎(平野村,当社取)9,173円,16位渡辺元 得(長地村・渡辺製糸所代表者)8,448円,17 位笠原鈴吉(平野村・当社取)8,440円,18位 尾沢菊次郎(平野村・入丸一組代表者)8,391 円,19位山田由蔵(下諏訪町・関西製糸糸㈱入一 組代表者)7,568円,20位山口仙蔵(平野村) 6,467円となっている。 (『年鑑』3年,p57

以下,肩書はp150以下)このうち越寿三郎

(須坂町),丸茂文六(玉川村),小岩井宗作 (松本市),渡辺歩調(長地村),山田由蔵 (下諏訪町)の5名以外は平野村在住者である。  20名のうち墓園製糸糸関係者が2位,5位,7 位,13位,15位,17位と6名,小口組関係者が 4位,10位,12位,14位と4名も占めているの に,最大手の片倉製糸は今井五介が9位,片倉 兼太郎は番外の21位にとどまるなど,この時期

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[至心1] 山十組、二十製練(#印)製糸場一覧 所 在 地 製糸場名 工 場 主 創 業 S5.2末 冝@数

破綻後の帰属

[山十組時代] 長野県上高井郡須坂町 神 尾 神尾甚七 M10.8 長野県上高井郡須坂町 浦 野 浦野権之助 M18.7 長野県諏訪郡平野村 #第十 小口今朝吉* M18.6 1154 S6.竜上製綜㈱に賃貸 長野県諏訪郡川鼠鳴 横 内 横内秀次郎 M36.3 長野県諏訪前平野村 #第六 小口今朝吉* M37,6 (211) 群馬県多野郡新町 #新町 増沢源三郎 M38.2 696 S7.6.29昭栄製糸競落 S18.12.7中島飛行機iに売却 長野県諏訪郡平野村 #第七 小口今朝太郎 M40.4 (475) 長野県松本市桐 高 野 高野重徳 M40,ユ0 長野県諏訪郡下諏訪町 #下諏訪 (第八)小口市郎 M42.3 745 S7.4.13昭栄製糸競落 愛知県葉栗郡木曾川町 #木曾川 小口重吉 M43.3 676 S5,12木曽川製綜設立,賃貸 長野県諏訪郡川岸村 橋 場 三沢米蔵(半蔵) M43.3 (47) 岩手県西桐油郡山同村 #一関 小口重太郎* M44,2 840 S7.3.28昭栄製糸競落 長野県諏訪郡平野村 #第五 小口自重 M45.1 586 S6.龍上製緯糸㈱に賃貸 埼玉県児玉郡本庄町 #本庄一 小口重衛 T2.2 496 S7.6.8昭栄製糸競落 同 本庄二 550 S6,圓丸心製糸糸所に賃貸 滋賀県伊香郡木之本町 #木之本 小口清人 T2.6 T2木之本製糸を買収 滋賀県伊香郡木之本町 #木之本 増沢喜市 T3.3 620 S6.神栄生直に賃貸 福岡県筑紫郡二日市町 #二日市 笠原鈴吉* T3.3 (780) S7.5.12昭栄製糸競落 栃木県下都賀郡小山町 #小山 矢島広之助 T5.3 1000 S7.5.6昭栄製糸競落 長野県諏訪郡平野村 #大六 小口村吉 T6.3 987 静岡県沼津市上土町 #沼津 小口朝重* T6.3 550 S7.7.25昭栄製糸競落 S17.6.8沖電気に譲渡 福島市太田町 #福島 笠原繁太郎 T6.4 866 S7.4.7昭栄製糸競落 宮崎市牟田町 #宮崎 小口卯之吉 T6.5 1008 S8.3.10昭栄製糸競落 ×「債務関係複雑」 S8.5.1共心組製糸所 朝鮮大邸府東雲町 #大面 (小口肇) T7. 650 S79自邸製綜設立 鳥取県西伯郡成実村 #米子 小口槙蔵 T8.6 634 S7.3.7昭栄製糸競落 ×「債務関係複雑」 S9.11.7廃止処分 S18.5.24沖電気に譲渡 長野県小県郡県村 #田中 (小口市之助) T9.3 896 S5.12田中製練設立,賃貸 岩手県西盤井郡山目村 #山目 (小口村吉) T9.6 390 S7.3,28昭栄製糸競落 (一関の一部) S10.6.20撤廃処理 群馬県勢多郡桂萱村 #前橋 (井上幾之進)

T97

257 S6.井上幾之進に賃貸 長野県東筑摩郡塩尻村 ?館芦沢 (芦沢禎重) T10.10 (13) 大分市上野町 #大分 (小口今朝吉) T12,6 660 大分合同銀行競落 長野県諏訪郡平野村 ?丸三 (小口重太郎) T13.4 (50) 広島県深安郡本庄村 #福山 (小口村吉) T14.10 279 [山十七綜時代] 朝鮮平壌府平川里 平 壌 T15.9 390 (資料)工場主,創業年月は農商務省『工場通覧』大正10年,大正7年以降の新設工場は『信濃蚕糸業史』    p1109,『日本紡織年鑑』昭和3年, p 152,釜数は『第五期営業報告書』昭和5年2月, p 3∼    ( )内は昭和3年6月末現在(『日本紡織年鑑』),破綻後の帰属は『昭栄製糸二十年誌』『第七期    営業報告書』による。 (凡例)#印…山十製綜発足時の継承製糸所,*印…旭日生命株主,×印…『昭栄製糸二十年誌』の特記    事項

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一28一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.4 1997 の三十中津の躍進ぶり,とりわけ社長村吉の21, 687円を大幅に凌ぐ34,180円もの納税額を誇示 する今朝吉の得意満面ぶりが目に浮かぶようで ある。一族の中でも今朝吉が大正5年に木之本 の敷地を購入した如く,好況期に強気の設備投 資を次々と敢行し,家業以外での投資行動の成 果を含めて大儲けをして,一族中での発言力を 高めたものと推定される。

皿 旭日生命との関係

1.山下下馬の金融取引  大正15年2月末現在では当社の主な負債は銀 行勘定1,925.2万円,問屋勘定663。3万円,そ        の の他とも負債2,718万円,2年2月末現在では 借入金811万円,当座勘定91万円,支払手形 1,644万円,問屋勘定497万円,総負債3,203       ゆ 万円であった。当社の「債務総額は三千万円の 多額に上り,而も全国の銀行,会社に亘って居 り,且つ未払繭代,未払給料等零細にして口数 の極めて多い債務をも含んでいた」(『昭栄』 p5)のであった。  安田銀行兵須久常務は「大正十三年以来,同 社に対する取引に関係」 (『昭栄』p12)して いたから,安田銀行は少なくとも株式会社化の 前から融資取引があったことになる。なお今朝 吉が旭日を渡辺家から買収した際,旭日の新ス タッフとして安田保早引から豊田春雄,元共済 生命の「山本氏を拾ひ上げるに就ては安田銀行 との関係なども重要な理由の一つかも知れぬ」 (T14.7.27保銀)と観測されたように,安田銀 行が山十組との融資取引開始後の大正14年の旭 日買収資金調達にも一口乗っていた可能性を示 唆している。  当社末期の銀行等との金融取引に関しては財 務状況とともに海野論文に詳しく紹介,分析さ れているので,ここでは立入らないが,旭日の 買収後は旭日との「種々なる関係により共同生 命,中央生命,戦友共済生命等よりも資金を吸 収して居る」 (S2.6.17東朝)と生保資金にも 傾斜した。最終段階では大正15年5月資金に困 り,私的金融業者たる乾合名から150万円を借 りたのを契機に乾からの融通額が急激に拡大し, 乾合名は「山警標綜にも千万円位」(S6.6.21D) 融通したとも報じられた。  前掲『明治大正史』は「二年決算に於ても同 様損失を蒙ったので借入金支払手形等外部負債 は可成多額に昇り,一方運転資金にも屡々困難         を來すに至った」とするが,「その放漫なる経 営方法は昨今の糸価変動によって大打撃を蒙り, 四月中旬すでに五十万円の不渡手形を出しかけ, 乾某の後援によって解決した」(S2.6.17東朝) とも報じられた。この「乾某の後援」というの は後述する神戸の著名な私的金融業者・乾新兵 衛のことで,大正12年6月操業の「大分工場買 収当時乾某ヨリ債務付ノ侭ニテ購入」したのが 「乾某トノ悪縁ヲ結フニ至リシ端緒」(山T−84) で,六甲山麓:の宅地開発を目論見ながらも訴訟 で立往生していた阪神土地建物株式買収を企て て,乾とそのダミー・西川末吉・山本乙五郎に 巨額の仮払を行なったが結局失敗している。ま た乾以外にも10中押の高利貸から借金している。 こうしたやましさのためか,小ロー族の経営と なった以後の旭日も当社同様決算内容の公表に は極めて消極的で,ダイヤモンド誌記者の追及 に対して「決算報告が出来てみないので判らな い…原稿は印刷屋にやってあるので会社にはな い…重役の手許に出してあるのだが,その重役 が留守で判らない」(T15.4.5D)と逃げまわり, 同記者をして「こんな一時逃れを云ふ会社にろ くなものがない」(T15,4.5D)と酷評されてい る。これに対して「山羊文書」に極めて詳細な 資料を含む理由は安田等の銀行筋の強い要求に 基く提出資料の控えと考えられる。 2.片倉生命を模倣  ダイヤモンドは「経営者の渡辺家が当社(= 旭日)を売物に出したは,他の事業の蹉蹟を来 したからにもよるが,旭日自体に手を焼いたこ とも一因である」として,買手については「ま

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さか片倉組の片倉生命に張り合った訳でもある まいが…」と「生命保険会社を自家事業の弗箱 にしやう」(T15.4.5D)とする小口によるポロ 生保の法外な高値買収の隠された意図を勘ぐっ ている。  片倉社史は片倉生命の創立の意図を「片倉組 は明治初年創業以来蚕糸報国を念とし,共存共 栄を主義として鋭意蚕糸業経営に努力し来った 処であるが,是が基礎確立するに及んで,更に 共存共栄の趣旨貫徹の為,大正八年三月蚕糸業 関係を背景に竿頭一歩を進め決然保険事業に乗 り出した」 (『片倉』p506)として,大正11 年11月の片倉生命の開業に続いて,大正14年1 月富国火災海上保険(旧小樽貨物運送保険)を 傘下に収めた。片倉生命は「本事業に対しては 未来永劫に無限の責任を負ひ,事業と死生を共 にして,経営に当る決意を表象する為『片創 の姓を冠し(当時保険界には其の例が無かった) 之が旗色を鮮明に標榜し…片倉製綜の熱烈なる 後援の下に」 (『片倉』p506)営業開始した とのべている。さらに片倉生命は8年大安生命 をも併合した。       るの  こうした片倉組による片倉生命の創立に刺激 され,山十組も「二十ニケ所の製糸場と七百余 ケ所の繭買入所を有する関係より見て,片倉生 命の遣口に倣ひ,是等の勢力を利用し積極的の 募集」 (T15.4.20保銀)を目論んで,「全国に 散在する製糸場…製糸機関を利用し,旭日の発 展」を(同上)狙ったことは十分に推測される。 「同生命は小口家が前経営者であった渡辺一家 46)松村敏『戦問期日本蚕糸業史研究』平成4年,  東大出版会,p80∼107参照。同氏も 「山県製糸  の例も,おそらく片倉生命の創業が契機」(p98)  とされる。なお大安生命社長の橋本万右衛門(福  島県郡山の富豪で,放漫経営から昭和5年10月休  齢した郡山合同銀行頭取)は金融恐慌の最中,政  治事件に巻き込まれた。 「昭和二年の金融恐慌に  依って,橋本氏は大蹉朕を来し,園山の極に陥り,  進退谷まっていたところへ予て製鉄関係で懇意な  片倉脩一氏と併合の談が進み…片倉生命に包括移  転」 (『本邦生命保険事業史』p188)した。 から引継いで以来,山肌製糸の縁故を辿って経 営の地盤を作ってみる」 (S2.8。2中外)と言わ れ,たとえば旭日は大正15年10月1日付で宮崎 と大分に出張所を新設したが,大分出張所は乾 との悪縁の端緒となった大分市の山十製糸所 (大正12年6月開設,代表者今朝吉)内に置か れ,宮崎出張所も高利業者と接点の多い宮崎市 深坪町の山十製糸所(大正6年5月山十組宮崎 製糸場として開設,代表者小口卯之吉から2年 時点では今朝吉に変更)内に置かれた。(T15. 10.6保銀)中央の統制力が弱い当社ではあるが, 大分,宮崎両製糸場とも旭日社長の今朝吉自身 が代表者の事業所であり,今朝吉の意向が反映 されやすいはずであった。しかし山十日の期待 に反して,旭日の製糸関係の営業成果は「糸価 の暴落にて製糸家,蚕業家等が沈静状態の確め, 多少の遺憾は免がれない」 (T15.5.13保銀)停 滞状態にとどまった。 3.旭日生命との関係  商工省の発表した旭日の解散理由は「小口今 朝吉社長二就任セシカ,忽ニシテ会社財産ヲ彼 等一派関係方面二流用シ其為ストコロ実二不安        の 二堪エサルモノアリシ」と,今朝吉への不信感 をあらわにしている。案の定,彼の経営する当 社が「財界振はず,製練亦輸出少く,円価は下 り,為に製糸糸事業収支合ずして」(S3.8.20保銀), 資金難に陥ったため,「旭日が社財としてもっ てみた国債その他約二百万円の優良有価証券を 巧みに同氏が長野県諏訪郡岡谷に根拠を置く山 十夷膳株式会社の財政的窮乏を救ふため,同社 のポロ株をスリかへてそれを旭日の方へもちこ んで遂に旭日を回復不能にまで陥れ」 (S2.7.2 東朝),「旭日生命の責任準備金に手を付け」 (S3.8.20保銀)拘束命令に違反して預金先の某 銀行とのからくりを利用して,旭日の資金を流 用した結果「八百万円の責任準備金が全部重役 47) 『本邦生命保険業史』昭和8年,保険銀行時報  社,p228

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一30一 滋賀大学経済学部研究年報Vo!.4 1997 の不当投資によって消滅」 (S4.12.15東朝)す るまでに至った。  当社と旭日との関係としてまず判明するのは, 旭日が発起人以外の数少ない当社株主として登 場する事実である。「大正十四年十二月十五日,      ゆ  株券ヲ交付」した直後の,大正14年12月末現在       ママの旭日の報告書の有価証券明細には「山十組製 糸糸」1.5万株が価格35万円,1株50円,払込額25円, 単価23円33銭,配当率1割,「価格100二対スル       ゆ年間予算利益見込額」10.71と記載されている。  現物出資以外の「残りニ万五千四百二十五株        ヲ公募二付ス」とあるから,今朝吉が大正14年 6月に支配した旭日は同年12月末には早くも当 社の総株数50万株の3%に相当する大株主となっ たことになる。もっとも旭日は小ロー派に譲渡 後「渡辺家経営時代の責任準備積立金に欠陥あ るを発見し,此欠陥は二十八万円からの巨額に 上り…結局小口氏は山十組の持株三十七万五千 円を提供し補填に充当する事に決定」(T15.4.20 保銀)し,当社の旭日への担保提供株式・由十 製革株141,400株の「内同社寄付一万五千可也  小口今朝吉名義」(山S5−28)とあるので, これが旭日の有価証券明細書に計上された「山  ママ 十組製麺」1.5万株に相当すると考えられる。 小ロー族の旭日支配と,山十組の当社への組織 変更と旭日による当社株引受は偶然の一致では なく,最初から仕組まれた一連の行動ではなかっ たかと思われる。郡是等のように当社の金融的 バックが必ずしも明瞭でないことは,取引のあ る安田銀行等の有力金融機関の信用が十分では なかったことを意味しており,当社が独自に資 金源を模索していた可能性をも示唆すると考え られる。海野氏の指摘通り,当社が独自に生保 を買収・経営して,その資金の取込み「製糸事 業への融資」(p83)を狙ったものと推定される。    同生命,中央生命等の悪名高い「不良生保」も 当社ないし一族への債権者として登場する。し かし当社は「中央……側ニチハ山十二対スル貸 付金トナシオルモ其実ハ小口今朝吉氏個人ノ借 入金」(山S3−40)なりと主張するなど,当社 と一族間の経理区分は甚だ不明瞭であった。共 同生命は「総資産四百六十五万円中山早事綜会 社株式四万七千株を担保として百十八万五千円 を貸出し」 (S3.4.1大毎)たとされる。共同生 命の事実上最後の『事業報告書』の貸付金明細 書には「手形第一号」 118.5万円の利率年8% の貸付金が記載され, 「償還期限及方法」は 「一覧払の事」とあり,問題の担保欄は「有価 証券,山鋼製練株式会社株式四万七千株(一株       二十五円払込)」と記載されている。この118.5 万円は共同生命の貸付金総額154.9万円の76.4 %,未払込株金を含む総資産383.3万円の30.9 %(未払込株金を除いた総資産348.45万円の実 に34%)に相当する巨額貸付である。  この当社株担保の巨額貸付がいっから発生し たかは,共同生命の『事業報告書』が貸付金明 細書を第三十四回より以前には省略しているた め不明だが,玉屋一派が支配した大正14年末に は貸付金総額が131.0万円もあり,すでに発生 していたと見られる。当社の株券は大正14年12 月15日中初めて交付され,もし共同生命が株券 交付直後に融資していたとすると,あまりにも タイミングが良く,旭日による当社公募株引受 と同様に,当初から仕組まれた一連の行動と見 るべきで,当社の株式化もその一環であろう。 当社4.7万株は公募分の25,425株をはるかに超 過し,同社総株数50万株の9.4%にも相当する から,共同生命の巨額貸付先は今朝吉またはそ の関係者に間違いなかろう。ちなみに中央生命 への当社株提供の名義人は朝重(2万株),重 4.共同生命との関係 当社と関係ある生保は旭日だけではなく,共 49)旭日『第十四回 事業報告書』大正14年,p47 51)前掲拙稿「生保破綻と投機的経営者一末期の共  同生命を中心として一」参照 52)共同生命『第三十四回 事業報告書』昭和元年,  p43

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爾(6千株)であり,4年時点の当社の大株主 は村吉66,158株,重吉23,930株,矢島慶之助23, 033株,重太郎22,364株と2.2万株以上はいずれ も小ロー族に限られていた。このように玉屋時 次郎の共同生命と今朝吉の旭日は共同生命の資 産の1/3にも達する当社株式担保の巨額貸付 によって,相互に堅く結付いていた。 5.旭日生命支配と小ロー族の不統一  今朝吉主導で進められたと推定される旭日生 命支配に対して当社社長の村吉がどのような態 度をとったのかは未詳だが,小口・中村派によ る買収時点の旭日生命株主の中に多くの小ロー 族が並ぶのに,小口村議の長男小口幸重100株 を除き,なぜか社長の小口村吉をはじめ,重吉, 仙重,才蔵らの有カー族の名がほとんど見当た らないのが奇妙に感じられる。『業史』は小ロ ー族に関して「統制宜しきを失ひ,各自勝手の 行動を行ふものを生じ,一意家業に専念せず」 (『業史』p1109∼10)と厳しく批判する。株 式会社化されたのちも当社は匿名組合時代その ままの「統制の欠如した放漫な気風」(『昭栄』 p32)が濃厚であったといわれている。  後に「小口今朝吉氏は親族一般離間され」, ポスト今朝吉時代の当社の当局者は「前重役の 行動とは云へ山十一族のやったことであるから… なるべく迷惑をかけないやう何等か円満の解決 策を得るべく努力」(S3.12.28中外)する旨を 言明したとの報道の,山十一族の「親族一般離 間され」た前重役・今朝吉に対する,意外なほ どに冷ややかなニュアンスから推測するに,本 家の村吉ら有カー族は旭日買収などは今朝吉の 「家業に専念せざる」 「勝手の行動」に当初か ら批判的であった可能性もあろうか。その証拠 として当初の山窟による旭日単独経営の約束が 実行されないとして, 「小口氏の一族の人々も 単独経営なれば山十組の関係を辿って旭日の拡 張もいいが,然らざる限り積極的に募集をなさ しめるは考へものであるとの意見で関係筋へ募 集方を命じない模様」(T14.1120保銀)との小 ロー族の意外に冷たい反応が興味深く報じられ ている。しかし一方では「旭日の募集忙中には 事の成行は別問題として山十組の関係筋を動か してその手蔓によって相当の成績を挙げて居る 所もあると云ふ次第で,別に小口氏として募集 中止を命令した事はないやうである」 (同上) と,山峰内部の異なった動きに戸惑った記事を のせている。この記者は山十内部の事情には疎 い保険記者であるから,恐らく当社全体を額面 通り普通の株式会社のごとき企業体と考えて, 実権者の今朝吉一人が牛耳っているものと錯覚 していたものと推測される。いかに表面上は株 式組織に改組したとはいえ,同族間は「往々ニ シテ自由ノ行動ヲ採り間々専断ノ識ヲ招」(山 T−84)いていた当社では,旭日買収当初から, 今朝吉に近く,旭日株主にも名を連ねた今朝吉 系統の小ロー族の経営する製糸場と,小口村吉 など, (当然に参加を勧められたはずなのに) 旭日株主にはならなかったその他の小ロー族の 経営する製糸場とでは,「関係筋を動かし」と 「関係筋へ募集方を命じない」という,全く異 なる対応が当然に生じたものと考えられよう。 】V 山十王練の破綻 1.小口今朝吉の失脚と藤田秀雄による再建整  理  4年時点の当社重役陣は代表取締役藤田秀雄, 取締役村吉,重太邸,平林運治郎,監査役塚本 清胤,増澤源三郎,大株主は意表66,158,重吉         23,930,矢島慶之助23,033,重太郎22,364株で あった。  これは当社が「財界反動は意外に激しく斯界 に打撃を与へたが為めに当社もその影響より免 れることが出來ず,大損を蒙むつたの,十四年 十月組織を変更し,資本金二千五百万円二分の 一払込の株式組織となし陣容の立直しを行った が,打ち続く財界の不況と糸価の惨落には如何 ともする能はず,十五年決算に於ては三百入十 二万余円の欠損を計上するの余儀なきに至った。

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一32一 滋賀大学経済学部研究年報Vol. 4 1997 更に昭和二年決算に於ても同様損失を蒙ったの で借入金支払手形等外部負債は可成多額に昇り, 一方運転資金にも屡々困難を射すに至ったので,       ゆ 当社は断然根本的一大整理を行」うことを余儀 なくされたためであった。          2年2月18日今朝吉は当社取を「都合二依リ」 辞任し,(3月1日小口合名からも退社)代っ て同日付で重太郎が専務に就任したが,これは 単に2年2月期に383万円もの損失を出した責 任をとったというにとどまらず,「神戸の諸氏 よりの債権は迫られ,製糸糸事業は振はず,剰へ 小口今朝吉氏は親族一般離間される事となり… 乾氏は愈々小口氏より債権取立て得ざる」(S3. 8.20保銀)という,債権者の意向で債務不履行 の責任をとった結果と推定される。  大正2年3月「反目是色の強い製糸場の集合 体」(『グンゼ玉p131)として出発し,「取引 区域の競争が激しく」(『グンゼ』p177),しば しば郡是首脳部を悩ませていた綾部製糸(元年 度入荷番付で18位6247梱)も関東大震災を境に 「資金ぐりが悪化し,以来経営不振が長びくま ま金融恐慌の波をかぶり,遂には事業の継続不 能という瀬戸際に立たされ」 (『神栄』p103) たため,2年8月大口債権者の神栄生糸は「綾 部製糸(株)支援につき百三十七銀行・何鹿郡 銀行と協議」 (『神栄』p543)し,再建計画 を策定するなど,製糸業界の不振,資金逼迫, 企業整理が広く進行しつつあった。また福生の 森田製糸所(元年度の入荷番付で759梱)が2 年5月法人化の直後に「八王子市第三十六銀行 に引継がれ多摩製綜株式会社と改称」(『片倉』 p146)したのも実質的には綾部製糸と同様な 債権者による自己競落と考えられる。

 2年7月2日当社の課長級2名が東京地方検

事局に喚問され, 「小口の手を経て旭日生命か ら山十製綜会社につぎ込まれた金額並にその使 途について取調」 (S2.7.2東朝)を受けた。こ うした中で「小口同族は幾度か財界有力者を招 聰して会社の整理を委嘱したが,何れも成功す るに至らなかった」 (『昭栄』p6)といわれ, たとえば大正15年3月18日臨時総会で一族外の 安田弘(豊多摩郡大久保町西大久保214)を取 締役に選任したが,約9カ月後の大正15年12月         めラ 15日「病気ノ為メ」辞任している。 『明治大正 史』は「群衆は断然根本的一大整理を行ひ,小 口氏の後を受け代表取締役となった藤田秀雄氏 は自から陣頭に立って社内の改革,事業の進展     うの に努めた」とする。当時「目下山葵製綜は過般 の代表取締役の更迭によって整理案を作るべく 調査立案中」 (S3.12.28中外)と報じられてい る。今朝吉はこうした事情から兼務していた丸 萬製糸(元年度の入荷番付で31位4472梱)取も ほぼ同じ頃に退いた模様で,4年末では依然丸 萬製糸の3千株の大株主ながら,取締役には今 朝太郎,常任監査役には竹重,監査役には槙重 が小ロー族を代表して就任していた。(『年鑑』 5年,p810)  旭日の清算人は主要債務者である当社(約250 万円)と,今朝吉等の所有担保株(約100万円) に対して強制処分をなす方針をとったが,目下 整理案を調査立案中の当社側では「前重役の行 動とは云へ山十一族のやったことであるから, 手形に対しては責任を持つと同時に旭日生命被 保険者にもなるべく迷惑をかけないやう何等か 円満の解決策を得るべく努力して来たが,こと ここに至れる以上今後の成行を侯ちて善処する 外ない」(S3.12.28中外)との意向であった。 この「前重役の行動とは云へ山十一族のやった こと」とは前副社長今朝吉亭亭ロー族の一連の 行動に対して,「過般の代表取締役の更迭によっ て」代表取締役に就任し,当社の整理案を作り つつあった藤田秀雄が当然には責任をとらなかっ たことを示し, 「小口今朝吉氏は親族一般離間 され」たとの報道とも符合する。  藤田らは当社が旭日清算人から「二百五十万 円の強制処分を受けたる場合には破産の憂目に も会ひかねないので之を未然に防止せんとして 山十組の整理委員は各代理店代表の名をもって, この不良資産を一括し百万円前後の価格をもっ て他社に買収せしめ,以って包括移転を促進せ

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しむべく密かに運動を続け」(S3.11.6保銀)た という。 2.製糸業界の極度の不振  4年になると製糸業者への「銀行業者の態度 は金解禁問題と関連して幾分警戒気味」 (『年 鑑』5年,p810)となっため,神栄生糸には資 金繰に窮した「製糸家から年末資金借入れ要請 殺到」(『神栄』p544)する有様であった。5 年上期には「政府は蚕糸業未曾有の受難期に直 面して,唯一の対策たる糸価法の適用を断行」 (『年鑑』5年,p32), 「三月八日には糸価補 償法が発令されたが繭安の期待と,先安見越に よる製糸家の繋ぎは絶えず,安値は安値を追ふ て六月には清算先物七十円五十銭と云ふ明治二 十八年五月中新値七十一円三十銭を下回ると云 ふ底値を出すに至った」 (『年鑑』5年,p75) ため,多数の製糸工場において「生糸の暴落か ら製糸工女の賃金不払問題が惹起されて蚕糸界 の不振の深刻さを暴露」 (『年鑑』5年,p31) した。4年6月を100とする価格指数で7年ま での最安値(7年6月)の水準を示すと生糸は 23.7となり,同時期の55種の主要商品価格の最 安値指数の中で小豆の17.2,ゴムの17.7に次ぐ 惨落・暴落ぶりを示し,綿糸の31。0,印綿35.9, 人絹糸36.0,羽二重38.9,豆粕39.5,硫安39.6       等を遥かに凌駕していた。  社会局調査によれば4年中の製糸工女の賃金 不払件数は全国で118工場,従業員38,088人, 賃金105.8万円に達しており,このうち長野県 は46工場,従業員1万人,賃金32.7万円であっ た。これが6年1月末現在では長野県だけでlll 工場,従業員23,500人,賃金58万円に激増して おり,全国的にはさらに惨澹たる状況にあると 見られた。(S6.4.25T)  当社の5年2月期報告書は社務概況において 「実二大正七年以来ノ新安値ヲ見ルニ及ビ商況 混沌トシテ恐慌的状態ヲ呈シ,未ダ回復ヲ見ル ニ至ラズシテ本期ヲ終レリ…当会社ハ如斯多難 ナル今期二処シ,外二当業者ト協力シテ糸価維 持量ヲ講ジ,之が効果ヲ収ムルニ努メ,内二経 営上深甚ナル注意ヲ払ヒテ原料ノ買入或ハ製品 ノ販売二衝リ,鋭意専心業績ノ進展二努力シタ ルモ,斯業大勢ノ赴ク処亦,如何トモスル能ハ ズシテ別項ノ如キ欠損ヲ計上スルニ至レル中尊           二不得得次第ナリ」と当期損失179.7万円計上 を弁解し,これまで毎期反復してきた「次期二 野ヲ嘱セントス」の常用句さえ落としている。 一方で同報告書は監査役の塚本清胤と取締役支 配人平林運治郎両名の辞任登記申請を報告して おり,平林は「病躯任二堪へ難キ為メ」(山S3− 48(23))とはいえ,決算の実態と業務の行詰 りを真っ先に知り得る立場にある両役員が「次 期二塁ヲ嘱」することの不可能を悟ったのか, 沈み行く山十丸から逃げ出したこともはからず も告知している。  製綜業界が恐慌対策として6年3月に執行し た1カ月間の操業全休の結果,大小製糸糸家とも 操業資金の閉塞を被り,とりわけ群小製糸糸家の 受けた打撃は甚大で「愛媛県の伊予社外五聖を 筆頭として」(S6.4.26都),神奈川,広島各5 ,岐阜,静岡,長野,福井各4,徳島,奈良, 山形,栃木,山梨,愛知各3など全国61工場が 解散・閉鎖した。(S6.5,2T)3月の操業全休以 降は長野県の大手製綜業者にも苦境を露呈する 動きが出て来た。6年3月には小口組の小口善 重,小口修一,岡谷製綜(山共)の小口宗雄そ の他は「製糸糸経営の合理化を計り,その基礎を 確立するため,一流工場片倉組,小口組,山共 その二七,八工場を一丸とするトラストを作る ことに決し,四月末までに資本金八十万円全額 払の丸興製糸糸株式会社(四五千釜)を組織全 国各地に分工場を設け,本年夏挽から操業を開 始することになった」(S6.3.28T)と報じられた。 58)62)高橋亀吉『大正昭和財界変動史』中,  p1130,plO84 59)当社『第五回営業報告書』昭和5年2月,p9  一一 10

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一34一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.4 1997 片倉では「未曾有の不況に際し,由緒ある岡谷 地方製糸業者の窮地を救はんが為,業者九名, 其工場数十六ケ工場を一企業形態」(『片倉』 p153)とする,片倉脩一の立案に基づく業界 救済策と位置付けている。6年4月長野県諏訪 郡川岸村の西部製綜業者は「川岸製綜研究会」 を創立して,職工の賃金不払同盟を結ぶことを 申し合わせ,鉄道運賃,全国生繭市場の手数料 等の値下要求も決議した。  この時期は最大手の片倉でも利益金は2年度 の694万円をピークに,3年度653万円に漸減, 4年度353万円に半減,4年度には生糸恐慌の 影響をモロに受け,持越品と春繭では約500万 円の損失を被り(S6.9.15E),最終利益は10分の 1の35.3万円に激減,無配転落したが,膨大な 公募プレミアムで今なお「流動資産が巨額を囲 むるにかかわらず,その60%を自己資本で賄ひ 得るのだから…優良会社の資格を立派に備へて るる」(S6.3.21T)状態を維持していた。これに 対して郡是が辛くも配当を据え置けたのは「両 社の原料政策の巧拙と経営上の堅実・不堅実の 差の反映」(S6.8.1E)と解説されている。なお 野津にはこの時期設楽製糸,中村製糸,佐藤製 糸場,挙三等, 「各方面から工場設置または困 窮製糸の引受けの要望があいつぎ,その陳情書 は二〇を数えた」(『グンゼ』p265)という。 3.山十豊田,小口製三等の破綻  6年には「当社(郡是)は片倉を除いて競争 相手が,殆んど大部分瀕死の状態にある」(S6. 3.14T)と評されていたが,その指摘通り「五年 以降吹きつづいた恐慌の嵐に,山里藩翰,小口 組製糸糸の如き大工練業者をはじめとして,業者          の の倒産没落が相つぎ」,元年度の「横浜神戸生 糸入荷番付」上位10社中少なくとも2位(当社), 4位(小口組),8位(山丸製糸),10位(岡谷 社)の4社がほぼこの時期に脱落した。  「従来しばしば問題を起してみる岡谷某大製 糸所の如きはつい最近(一月二十日)まで約一 万円の賃金支払を引ずつた」 (「年鑑』5年, p31)状態に陥っていた岡谷製練は「五年目以 来の綜価惨落によりて経営困難となり,昭和六 年八月同社を解散して山男製綜株式会社を作り」 (『業史』p1047),小口組も「五年…以降の不 況によりて大打撃を蒙り,昭和六年八月遂に同 組分裂せり」 (『業史』p1046)と昭和恐慌下 での製糸各社の終焉を記載する。すなわちその 折,長らく匿名組合の組織形態を死守してきた 小口組の一部は「組織を改めて株式会社組織と し,小口善重氏社長となり,株式会社丸山小口 製綜所繰糸糸部及難山正工場のニ工場八百十三釜 を経営して現在に至れり」 (『業史』p1046), また小口組の9工場は6年8月小口潤筆に改組, 7年4月日東製糸(三菱商事系列,資本金200 万円)に改称,11年12月「同社[=日東]の製 糸糸事業は,一切を挙げて我社[=片倉]が賃借 経営することとなり安積工場と改称」(『片創 p153),13年8月片倉製綜紡績に合併された。 結果的に丸山小口遠駆所や小口製綜への改組は 実質的に破綻ないし三菱商事による救済受入れ の結果と考えられる。当時三菱商事はほかにも 7年9月愛媛脚半を創設した。(『片倉』p173)  小口組整理の斡旋に乗出した井上準之助は6 年8月28日時点で貸借関係のあった神栄生糸の 「感情ヲ害シ…同人ノ全体ノ状況画影常二宜敷     カラズ」と小ロ組の経営者は危機的状況にある と判断していた。結局神栄生糸は与野の石岡製 糸甘甘を債務者からの依頼で「接収」(『神栄80』 p73)している。7年2月井上準之助が暗殺され た後,神栄生糸は小口組問題の斡旋を横浜正金 銀行頭取児玉謙次にゆだねている。  製糸業・蚕糸業の倒産没落は蚕糸地帯の地元 銀行にも打撃を与え,たとえば5年11月6日休 業に追込まれ,預金払戻がほとんど不可能な信 60) 『昭和産業史』第二巻,昭和25年,東洋経済,  p181 61)勝山勝司宛井上準之助書簡(『神栄80』p74  所収)。勝山は注67参照。

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