立憲改進党の結成について
著者
松岡 八郎
雑誌名
東洋法学
巻
5
号
2
ページ
1-23
発行年
1962-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007807/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja立
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わが国における政党の発達は、その蔚芽を明治六年の征韓論争に敗れ、廟堂を去った参議たち、板垣退助、後藤象 二郎らを中心として七年一月に結成された愛国公党︿ 1 ﹀にこれを求めることができる。その後、自由民権運動日国会 開設運動の幾多の曲折をへて、その流れを汲む自由党(ろが、周知のように、十四年十月の政変の結果換発された国 会開設の詔勅を契機に、全国的基盤をもった最初の政党として、板垣を総理に推して創立された。 つ い で こ の 政 変 は、さらにいま一つの政党を生みだしたのであった。すなわちこの政変によって政府から追放された前参議大隈重信 ヘ 一 八 八 J を総理とする立憲改進党がそれである。この政党は、十五年ケ一年)三月十四日にその趣意書を発表し、さらに四月 十六日に結党式を挙げた。 この結成段階において、その中核となったものは、普通、前年の政変で政府を追われた大隈ら数人の高級官僚、 お よび沼間守一らを中心とする喫鳴社、矢野文雄らの慶応義塾関係の東洋議政会、 小野梓を中心とする鴎渡会であると いわれている。このように、前年の政変で下野した大限とその一党を中心として構成されたのであり、 立憲改進党 立憲改進党の結成について東 ﹃ 以 下 、 改 進 J 、 , F 党と略す﹂味、 洋 法 学 いわば政府首脳部の分裂によって生れでたものといえよう。そこで本稿は、この改進党の結成にい たるまでの過程を、近代的政党概念 ( 3 ) を照準としながら、追求していくのを目的とするものであるが、なおつぎの 点をとくに考慮して考察を進めていきたい。第一に、大隈は政府のなかにおいてなぜ孤立していったか。すなわちな ぜ政府から追われねばならなかったか。第二に、改進党を結成にまでもたらしたのは実際上だれであるか︿ろ。要す るに本稿においては、結党にいたるまでの人間関係を中心に考察を進めていくことにしたい。 従来、板垣たちの自由党にくらべて、改造党の研究ならびにその評価は低調のようであるが、 だが近代的政党とい う概念から考えるとき、再考察する必要があるのではないだろうか。本稿は、このような問題意識のもとにおける、 筆者の第一着手にすぎない。 ︿ 1 ) 愛 国 公 党 の 成 立 過 程 に つ い て は 、 巻 六 号 ) を 参 照 さ れ た い 。 ( 2 ) 自由党の創立過程については、拙稿﹁日本における政党の成立についての一研究│自由党の場合│明治七年から明治十年 まで﹂(東洋法学四巻二号)および﹁自由党の創立!日本における政党の成立についての一研究﹂(法学新報六八巻十号、 十 一 号 ) を 参 照 さ れ た い 。 ( 3 ﹀近代的政党の概念については、山口利男﹁近代政党論序説﹂付広島大学政経論叢四巻二号一五四頁参照近代的政党 は、始めから近代的政党として存在するものではなく、一定の政治的環境と関連しながら、あるいはその環境を変化,せしめつ つ自らも発生し、成立していくのである。このような政治的環境日近代的政党の成立条件については、蝋山政道編﹁政党﹂一 六 l
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頁、川原次吉郎﹁政党の公共性について﹂経商論纂三七号七 i 一一頁参照 (4﹀たとえば、通常の見解は、鴎渡会をも改進党結成の際における有力な政治勢力として取扱っているが、果してそうであろ 拙稿﹁日本における政党の蔚芽についての一研究l
愛 国 公 党 の 場 合 ﹂ ︿ 法 学 新 報 ハ 七うか。この疑問は、林茂教授が提出しておられる。林茂﹁立憲改進党員の地方分布﹂社会科学研究 九 頁 九 巻 四・五合併号 七 明治政府の実力者であった参議兼内務卿大久保利通が、明治十一年五月十四日突然﹁紀尾井坂の兇変︿ l こ に 倒 れ ると、政府首脳部聞の勢力のパラシスに大きな変動が起った。 大久保の生存中、 上には三条実美、岩倉具視の両大臣がいたが、 かれは事実上政府の中枢的地位を占めており、そ してその信任のもとに大隈重信、伊藤博文が控えていたのである。したがって大久保の遭難は、伊藤をして﹁殆ど当 惑、不知所為﹂ほど驚歎させ、また﹁如斯威望の大臣を失ひ候以上は、各地の人情にも大に影響を生ず、万一国家の 禍乱是より生候様の域に至候ては不容易﹂ ( 2 ) と 考 え さ せ 、 ただちに政府の補充強化が行われた。すなわち伊藤が工 部卿を免ぜられて大久保の後任として内務卿となり、さらに文部卿の欠員に西郷従道を、海軍卿の欠員に川村純義があ てられた。また当時元老院議官として英国に滞在していた井上馨が急電をもって召喚され 工部卿に任ぜられた。こ のように表面上は薩長の均衡がはかられ、政府首脳部聞に大なる波紋が生じなかったかのようであるが(三、井上の 政府復帰によって、大隈、伊藤、井上のトリオ︿ 4 U が政府のなかにおいて次第に重きをなすにいたった。元来このト リ オ は 、 かつて築地の梁山伯時代にたがいに親友をもって相許した仲であったが、伊藤と井上が長州出身であるのに たいして、大隈は肥前出身である点において宿命的な溝があり、また大隈が経歴、手腕において従来他の二人よりや や先んじていたが、井上の復帰によって伊藤と井上の提携が強化されるにいたり、三人の関係は複雑微妙なものとな 立憲改進党の結成について
東 洋 法 ~与 ず・ 四 っ た ︿ 5 ) 。このようにかつての深い友情によって結ばれながらも、対立の要素を含んでいた三人は、当時の政府首脳 部の問では、実力識見ともにすぐれており、とくに政治問題、財政問題の上で進歩的関明的な意見の所有者であっ た。だがこの三人のいずれもが、 晩年の大久保のごとき地位を占めるまでにはまだ成長していなかった ( 6 ) の で あ る。かくて大久保の残後から十二年にかけては、﹁内閣安定の形ありて未だ中心の定まらざる歳なり︿ 7 ) ﹂といわれ る ゆ え ん で あ る 。 しかながら十三年に入ると、政府内部のこの過渡的安定に動揺を与える問題がおこった。内閣と諸省卿の分離問題 がそれである。この問題は、すでに八年板垣退助 ( 8 ) によって期待された問題であったが、 ふたたび蒸しかえされて 政治問題となったのである。これは伊藤によってもちだされたが、当初多くの参議が反対し、伊藤の説得によってよ うやく大半の賛成を得ることができたが、大隈と大木喬任等は極力反対した ( 9 ) 。伊藤の分離論は、十一年の愛国社 の再興以来、民間における自由民権運動日国会開設運動が次第に昂揚し、藩閥政府打倒の戸が高まってきたが、ここに おいて内閣と諸省卿とを分離することにより、各省長官に新進の人材を登用し、もって政府の公平を示し、政府の基 礎を強化し、人心を一新せんと欲したのであった︿ヲ。だがこのような伊藤の配慮は、参議兼大蔵卿としてもっとも 勢力をふるっていた大隈の大蔵卿をやめてその勢力・をそがんとする陰謀である白)といわれた。そこで伊藤は直接大 隈に面会して﹁流言の妄を弁じ﹂たところ、 ついに大隈は大蔵卿の後任として佐野常民をあげる等を条件として賛成 するにいたった︿ぎ。かくて十三年二月二十八日内閣と諸省卿との分離が決定し、参議は諸省卿兼任を解かれ(日﹀、 新たに各省卿が任命された。さらに三月三日には太政官の法制、調査の二局を廃して、新たに法制、会計、軍事、内
務、司法、外務の六部を置き、十人の参議をしてこれを分掌せしめた︿想。伊藤は会計と内務、大隈は会計と外務を それぞれ担当することとなり、これをもって分離問題は一応落着した。だがこの問題は、伊藤と大隈の関係を一層微 妙なものとし、翌十四年の両者の確執のいわば前奏曲ともいうことができよう(想。 このように分離問題は、政府の内的安定性に一時動揺を与えはしたが、 一大波澗を起すまでにはいたらなかった。 伊藤、井上、大隈のトリオもなお十四年一月頃までは存続することができたのである。すなわち十四年正月この三人 は熱海に避寒し、滞在中三人でしばしば会合した(熱海会議)が、この間に国会開設問題、御用新開発行問題などに ついて隔意なき意見の交換が行われ、国会を開設すべきであるという点では、三人はほぼ一致していたようである。 だがいつ国会を開くか、またどんな組織にするかなどの詳しいことについてはなんの結論もでなかったようである
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。またこの会議に先きだっ、前年の十二月福沢諭吉を大限邸に招き、伊藤、井上を加えた三参議は、 今 回 政 府 においては御用新聞を発行する計画あり、 ぜひその編輯を引受けてもらいたいと懇請に及んだ。そこで福沢は熟慮の 末 、 一月に入って井上を訪ねてこれを断ったところ、さらに井上は﹁政府に国会開設の意あることを打明け、其開設 後に於ける進退の覚悟まで云々して、 此事は吾等三人協議の上竪く契約したものであるから決して動くやうなことは ‘ ‘ 、 、 ﹄ ' ん し かく大事を打明けるからには三人は決して福沢を売らず、福沢も亦三人を欺くべからずと明言したので臼﹀﹂ 福沢も承諾するにいたった。このように十四年一月の段階では、国会開設を不可避とし、この問題にたいして積極的 な態度をとるべきであるとする点において意見の一致がみられ、この点で三人の共同戦線が張られたが、この共同戦 線がどの程度のものであったかについてはきわめて微妙なものがあった。三人にはそれぞれの思惑があったのであ 立 憲 改 進 党 の 結 成 に つ い て 五東 洋 法 g 寸・ ームa / 、 る。すなわち三人の国会開設の意見には、大隈の考えと伊藤、井上の考えとの聞に遅速緩急の別があったのである。 いうまでもなく大隈は急進論であり、伊藤、井上は漸進論であった(ぎ。 かくしてこの三人の共同戦線はいわば同床 異夢的な共同戦線であったのであり、 したがって同年三月大隈が伊藤たちにはからず単独で、 しかも急進的な立憲政 体にかんする建議を上奏するや、大隈と伊藤の確執が表面化し、深刻化したのであった。 ハ 1 ) この事件については、板垣退助監修﹁自由党史﹂(岩波文庫版﹀上二二八
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二四四頁大津淳一郎﹁大日本憲政史﹂ニ 巻 一 四 O l 一五九頁参照なお明治十年から明治十一年にかけての木戸孝允の病死、西郷隆盛の自刃、大久保の遭難は、 それぞれ三人三様の悲劇的運命を象徴しているといえよう。 ( 2 ) 在欧の鮫島尚信‘松方正義に宛てた伊藤の書簡(十一年六月十一日付)の一節﹁伊藤博文伝﹂︿春畝公追頒会﹀中巻 一 O 七l
一 一 O 頁 参 照 ( 3 ) 前述の書簡において、伊藤はつぎのように述べている。﹁不顧不肖内務の後任を拝命、爾来西郷、川村諸兄も同列に拝命 に付、旧同僚諸先生と万事協議、先今日の処にては、脚も異議紛絃も不相生、同心毅力、犬馬の労を致候積に御座候﹂﹁伊藤 博文伝﹂中巻一 O 八 頁 ( 4 ﹀このトリオについて、かつて﹁大久保の信任を得たるは大隈及び伊藤にして、此のニ人は嘗て井上と共に謂ゆる染山伯を 作り、中央政府に参画する所頗る多かりき。初め大久保は大隈よりも井上を用ゐ、後に大隈と井上とが財政問題にて別れてよ り、大限と伊藤とが最高幕僚となり、而して井上は除外せらる。されど伊藤は井上の要職に居ると否とに拘らず、最も親密な るに於て変はらず、大隈も財政問題にてこそ井上と別れたれ、雄氏方甚だしく隔意せず、互に政治の才能を以て許せり。﹂三宅 雪嶺﹁同時代史﹂ニ巻七六l
七 頁 ハ 5 ﹀この複雑微妙な関係について﹁大隈も、伊藤も、井上も、均しく我意の強きが上、均しく外交通と財政通とを以て居り、 各々自ら得たりとし、他を凌がずんば甘んぜず。伊藤と井上と同郷にして心腹の友、互に他の長短を知りて相ひ補ふ所あり、 一人にてこそ大限に勝ち難けれ、ニ人が並び出づるや、攻守共に頓に強きを加ふ。伊藤が大久保に最も信用されながら、大隈に一著を輸するの観ありたるは、井上と離れたるが為めにして、今や井上と共にし、昔日の伊藤ならざるを示す三宅雪嶺 掲 ニ 巻 七 七
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八 頁 ( 6 ) ﹁維新の功臣﹂という順序からいけば、大久保の後継者となるべきものは、薩派の黒田清隆であったが、かれは北海道開 拓使長官という中央政治からやや離れた職務についていたので、長派の伊藤が内務卿となり、大久保の後継者たる地位を占め ることになった。だが﹁延いて黒田の伊藤を視ること大久保の如くならず、陰然最も重きを以て自ら任じ、周囲の事情も之を 許す。﹂三宅雪嶺前掲ニ巻八五頁 ( 7 ﹀コ一宅雪嶺前掲二巻八六頁なおこの過渡的な安定期においても、政府の内部において注目すべき事件があった。す なわち大久保の残後反薩長的な侍補一派の親政運動が積極化したが、伊藤はこれと対抗し、よくこれを押えて、十二年十月十 三日には侍補制度の廃止となった。﹁伊藤博文伝﹂中巻一四 O l 五頁参照 ( 8 ) この問題は八年の大阪会議の協定四項中の一つであった。元老院および大審院の創設、地方官会議の開催などの問題は実 現されたが、この分離の問題は、板垣退助の督促にもかかわらず、なかなか実現されなかった。かくて板垣はこの不満を主た る理由として八年十月ふたたび下野するにいたったのである。板垣退助前掲上一八四│九頁参照﹁伊藤博文伝﹂上巻 九五三l
九 七 一 一 員 参 照 ( 9 ) この経過について精しくは、﹁伊藤博文伝﹂中巻一五八│一六二頁参照 ( 凶 ﹀ ﹁ 伊 藤 博 文 伝 ﹂ 中 巻 一 五 八 l 九頁 (日﹀この陰謀説を述べているのは、小栗又一編﹁龍演矢野文雄君伝﹂一五七頁また黒田でさえこの分離の議をもって単に 大蔵省改革の策謀であるとしている。十三年二月十五日付黒田の三条、岩倉にたいする書簡﹁伊藤博文伝﹂中巻一六二i
三 頁 参 照 (ロ)以上の分離問題の考察は、﹁伊藤博文伝﹂によっているが、その他、大隈首唱説、井上発議説がある。﹁世外井上公伝﹂三 巻にはこれらの諸説の資料が掲載されている。 ︿日)ただし井上参議のみは当時条約改正交渉中をもって外務卿を兼任した。その他、大木参議の元老院議長兼任、黒田参議の 前 立憲改進党の結成について 七東 洋 法 学 ) i . 、 開拓使長官兼任、山県参議の参謀本部長兼任が認められた。指原安三 頁参照 ( M ﹀ ﹁ 伊 藤 博 文 伝 ﹂ 中 巻 二 ハ 九
1 .
一 七 二 頁 参 照 ハ日)大久保利謙﹁明治十四年の政変﹂明治史研究叢書第一期一巻四九頁 ハ凶)﹁これら熱海会談の真相は全く不明であった。かれ(大限)に随行した矢野文雄さえ、(中略﹀その詳細のことはわからな かったといっている。なにしろ会議とは後人のつけた名で、=一人は同一旅館(富士屋)で、日夕往来し、酒食を倶にして談笑 していたというに過ぎず、まとまった相談はなかったものらしい。きれば国会は開設せねばならぬということには、三人一致 したが、いつ聞くか、どんな組織にするかという詳しいことについては、一致しなかったらしい。三人の聞に定まったこと は、いづれ近い将来ということであったらしい乙渡辺幾治郎﹁大隈重信﹂一三九i
一 三O
頁 (口﹀石河幹明﹁福沢稔吉伝﹂三巻四六頁 (凶﹀﹁=一四月の頃と覚ふ、議吉一日大隈君の宅へ参り雑話の語次に、例の国会開設も容易なる事に有之まじく、最早花も散ら んとするの時節、春去秋来中々以て遅々たることなんと云ひしかば、君も亦云く、然り中々不容易事なり、左れども幾年も幾 年も待つ可きに非ず、国より其開門の日は期す可からざるも、政府議定の日は必ずしも秋風の起るを待たざる可し云々と。又 本年一月中旬井上君が拙宅へ来訪の時、議吉の言に、国会を開くとて凡そ今より何個年何個月の後を期するや、其御見込は如 何と云ひしに、君の云く、容易には出来ず、先づ三年きと答へたる其趣は、必ずしも三年三十倒月を計へたるに非ず、唯其用 意の難きを表するもの、如し、議吉は首を傾け、成程左様なる可し、併し此三年の日月は随分喧しき日月ならん、其遅速は兎 も角も事の大体さへ定れば跡は跡の謀あらんのみと談を終りたることあり。又伊藤君が拙宅へ来訪のときに、国会開設の前に 元老院を改革して士族を云々するの言あり。是等を前後照し合して見るときは、大隈君の考と伊藤井上二君の考とは、少しく 緩急の別あるが如くに覚えたれども、畢寛同意団結の三参議、大同論中の小異と思ふて軽々に之を看過したることなり。﹂福 沢 の 伊 藤 井 上 に 贈 っ た 十 四 年 十 月 十 四 日 付 書 簡 石 河 幹 明 前 掲 三 巻 七 七l
八 頁 ﹁ 明 治 政 史 ﹂ 明治文化全集 二 巻 正史篇 一 一 一 三 五明治十二年から十三年にわたって、大限、伊藤、井上のトリオを中心とする政府首脳部間の勢力均衡状態はよく維 持 さ れ て い た が 、 一方民間における自由民権運動 H 国会開設運動は高潮の勢いを示していたハ 1 ﹀。これにたいして政 府は、財政問題 ( 2 ﹀ 、 条約改正問題 ( 3 ) などで多事であったとはいえ、 なんの積極的対策を講じてはいない。 ' -品 守 , -争 J J J ﹁集会条例﹂などの圧法規弾によって上から抑圧していたのである。 しかしながら単なる禁圧によっては、全国的に高揚しつつある国会開設運動を圧服することは勿論不可能であり、 したがって政府においてもなんらかの政策の修正を行わねばならなくなってきた。すでに明治九年九月元老院に勅し て国憲按の起草が命ぜられ、十一年その草案が成り、十二年十二月さらにその草案の修正を終ったが、岩倉の容れる ところとならず︿ 5 ﹀、そこで政府においては各参議より立憲政体にかんする窯見を徴し、それによって政府の憲法問 題、国会開設問題にたいする方針を確立しようとしたのであった (6) 。 十二年十二月にはまず山県有朋が提出し、 つ い で 黒 田 清 隆 、 山田顕義、井上馨、伊藤博文と十三年末までにょうや く五参議の建議 ( 7 ﹀ を 終 っ た の で あ る 。 伊藤は、﹁今の時に当り漸進の道に由り以て時変を制し、 徐に萱革する所あ らんと欲せば、先づ元老院を吏張して、名実相副はしむるに若くはなき也。元老院をして名実相副はしめんとせば之 を華士族に取るに在り ( 8 ﹀。﹂といい、また﹁元老議官を華士族に撰び以て公議を広むるの外、 更に検査院員外官を 府県会員の中に採り、以て財政を公議するの漸を開く、 此れ亦立憲の初歩となすべし ( 9 ﹀ 。 ﹂ と 建 議 し た 。 このよう に伊藤の見解は、﹁国会を起して以て君民共治の大局を成就するは甚だ望むべき事なりと雌も﹂﹁未だ逮かに起すべか らずと(叩)﹂なし、その聞の措置として元老院の更張と公撰検査官の設置を説いたのである。これにたいして首席参 立憲改進党の結成について 九
東 洋 法 学
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議たる大隈はどうであったろうか。 大隈が一向提出する様子がなかったので、 左大臣有栖川宮が督促すると、﹁衆参議を御前に召さる h の時に於て親 く煮見を上言せん﹂と答えたが、さらに促されたため、三月に(日﹀長文の建議を提出し、 かならず他見を差控えられ たしと申し添えた。 この大隈の建議白)は、﹁第 国議院開立の年月を公布せらるべき事 第 国人の輿望を察 して政府顕官を任用せらるべき事 第 政党官と永久官を分別する事 第 四 震裁を以て憲法を制定せらるべき事 第 五 明治十五年末に議員を撰挙せしめ十六年首を以て国議院を聞かるべき事 第 六 施政の主義を定めらるべき事 第 七 総論﹂の七項目からなり、一二大臣を軍官、 警視官とともに﹁中立永久官﹂ とし、﹁政党に関与せず聖主を補佐 憲の政は政党の政なり﹂といって政党内閣主義を主張しており、 し奉り、内閣組立の為め最盛政党に内勅を下さる﹄等に於て顧問に備り、公平に国益を慮ら﹂しめようとしまた﹁立 しかも十五年末に議員を選挙し、十六年首に国会を 開設すべしと唱えたのである︿ぎ。ところが、このように諸参議のうちでもっとも急進的な内容 Q ) に驚いて有栖川 円 呂 は 、 ひそかに三条と岩倉に内示したが、 かれらも同様に非常に驚いた。かくて諸参議の窯見を徴し、これにもとず いて政府の態度を確立しようとする三大臣の思惑は、十四年半ばにいたってもなんら見通しすらたたなかった。そこ で問題は大隈と伊藤との相違にあったので、 岩倉はまず大隈に﹁卿が意見伊藤と異同なきゃ﹂と問うたところ、﹁惟 小 異 あ る の み ﹂ (時)と答えたため岩倉は大隈の建議を伊藤に示したが、﹁伊藤は之を見て念惑し日く、 前に予の意見 書を大隈に示すや、大隈は其主義を同くすと答へたり。而るに今や此の如き意見を上言し、之を実行せん事を糞望す るは、予其意の在る所を知るに苦しむとよさらに七月二日には書を岩倉に送って、﹁大隈此節の建白熟読仕候処、実に意外之急進論にて、 とても魯鈍の博文輩麟尾に随従候事は出来不申、 且又現今将来の大勢を観察仕候主眼も、甚相 違 仕 候 ︿ 口 ) 。 ﹂ と 述 べ 、 かくては辞職するよりほかはないと訴えた。 )のように従来比較的意思が疏通し、 主張にお いても大体等しいと思われていた大隈と伊藤との聞に大きな溝ができ、 まさに政府首脳部は分裂の危機に直面したの である。分裂を憂慮する三条、有栖川宮、岩倉らの斡旋により、 また大隈が陳謝したことによってようやく両者の問 に和解が成立したが、 いちどもつれた二人の関係は、再びもとのようにはならなかった。そこにさらに新しい問題が 発生して、両者の聞を決定的にさいてしまった。 (1)この問題の具体的な分析については、拙稿﹁自由党の創立﹂付同法学新報六八巻十号、十一号を参照されたい。 ( 2 ) ﹁会計ノ事、尤モ十三年政略ノ要部ニ在ルガ如シ﹂﹁明治十三年記事本末﹂(明治十四年正月の東京日日新聞紙上に連載さ れ し も の ﹀ 明 治 文 化 全 集 二 二 巻 雑 史 篇 一 四 五 1 六 頁 一 五 二 │ 五 頁 参 照 ( 3 ) ﹁ 明 治 十 三 年 記 事 本 末 ﹂ 前 掲 一 五 五 │ 六 頁 参 照 ︿ 4 ) ﹁四月五日(十三年﹀太政官第十二号布告を以て集会条例を発布す。欝に新聞紙上政論の喧喋するや、新聞条例及議誇律 の発布あり(明治八年六月)。今や演説集会将に盛んならんとして此の条例出づ、鳴呼法の出づるは下果して之を犯すに由る 乎 。 ﹂ 指 原 安 三 前 掲 = 一 三 八 頁 ( 5 ) ﹁前キニ元老院議長ニ勅シ憲法ヲ起草セシメ給フ、而シテ其稿己ニ成ルト雄、我力国体ト相符ハサル所アルヲ以テ未タ進 奏スルニ至ラス﹂十二年十二月岩倉の三条への上書の一節尾佐竹猛﹁日本憲政史﹂一七二頁 ( 6 ) ﹁今マ更ニ勅命ヲ衆参議ニ下シ、各自ニ其意見ヲ禄上セシメ、聖慮ヲ以テ之ヲ取捨シ、我国体ト相符フ所ロニ依リ憲法ヲ 欽定シ給ハンコトヲ願フ。是レ今日ニ於ケル最緊要ノ急務ナリト思考ス、実美之ヲ然リトス﹂(岩倉公実記)尾佐竹猛前掲 一 七 五 頁 ( 7 ﹀五参議の建議の全文は、板垣退助 前掲 上 三一七│三四二頁 参照 これらの建議はそれぞれ相違があり、山県は、 立憲改進党の結成について
東 洋 法 学 まず特選議会を設置し、府県会議員より徳識あるものを抜擢してその議員とし、試みに国憲の条件を議せしめること数年、果 して立法の大権を寄託するに足るとすれば、これを変じて民会となすべしといい、黒田は、国会開設の時期なお早しとし、教 育を改良し、民法刑法を整備し、産業を振興したのち、これを開設するもおそからずといい、山田は、人民に参政権を許すべ き事項を定め、憲法を仮定して四五年間元老院と地方官会議とに於てこれを試み、しかるのち憲法を確定し、特命をもって布 告すべしといい、井上は、まず民法を編成し、つぎに憲法を制定し、輿論の帰向するところにしたがって国会を開設すべしと いった。伊藤については後述する。 ( 8 ﹀ 板 躍 退 助 前 掲 上 三 三 八 頁 ( 9 ) 板 垣 退 助 前 掲 上 三 ゴ 一 九 頁 ( 叩 ) 板 垣 退 助 前 掲 上 三 三 八 頁 (日﹀大隈がいつ有柄川宮から督促を受け、何日に建議を提出したかについては、大隈の建議書の三月という日附以外に手がか り が な く 、 は っ き り し な い 。 大 久 保 利 謙 前 掲 五 六 │ 七 頁 参 照 ( ロ ﹀ 全 文 は 、 板 垣 退 助 前 掲 中 四
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九頁参照なおこの建議の立案執筆者の主なるものは、大隈の参謀であった矢野 文雄であった。小栗又一編﹁龍、演矢野文雄君伝﹂一六五頁平塚篇編﹁伊藤博文秘録﹂一一一六頁 (日)﹁此意見書のうちで、我輩が最も熱心に主張して、大隈侯も賛同してくれたのは、終身官と政党官とを各別にした項中 で、太政大臣、左大臣、右大臣の三人を終身官にして、全然党争の外に立てると云ふ点であった。﹂(矢野文雄談)平塚篤前 掲一二八頁なおこのような考えはどこからでたのであろうか。﹁これに似た考は、大阪会議に於ける木戸案が、三大臣参 議の下に、三権分立制を布かんとしたのと同じようである。斯ふいふ思想は永く、我国の朝野を支配したのであった。天皇は 政治の衝に当らせ給ふべきものといふ考と、しかもまた政争の外に超然とし給ふべきものといふ考と、立憲政といっても天皇 の大権を制限すべきものでないとの考とがゴッチャになり、政党はその範囲外に於て活動し善政を布くべきものであり、政党 不可侵の標木の内は公卿が伝統の力に依り、動かざる地歩を占むべきものであるといふのであった。﹂尾佐竹猛前掲二八 四頁( U ﹀この建議は諸参議の意見とは格段の差があって、たしかに三大臣を驚かせるにたるものであった。しかし一見してわかる ように純然たるイギリス流の立憲主義ではなく、また吉野博士も指摘したように、この意見それ自身は決して三大臣や伊藤が いうほど過激なものではなく、憲法の欽定を唱えて当時の民権論者と大いに立場を異にして、中立永久官のごとぎは一面にお いて他日起ることあるべき党弊に備える慎重な用意があった(吉野作造﹁大隈参議国会開設奏議解題﹂明治文化全集=一巻 正史篇下巻解題十二頁)。つまりこれはけっして参議 H 在朝者大隈としての発言を逸脱したものではなかったのである。大 久 保 利 謙 前 掲 一 一 二 頁 ︿日)大隈にしてみれば、欽定憲法を唱え、内閣が組織される場合には﹁中立永久官﹂としての三大臣に諮問するというイギリ ス流の政党内閣主義とは異る憲政論を主張したのだから、伊藤の意見と本質的にちがっているとは考えなかったのであろう。 信夫清三郎﹁自由民権と絶対主義﹂三五頁 (凶)伊藤がなぜこのように激怒したか。伊藤の建議にくらべると大隈の建議は、第一により具体的で、問題解決に一歩をすす めている。三大臣制と政党内閣制との妥協を提案して、政府の絶対勢力を温存しつつ、しかも民権派の要望をいれた点は、む しろ在朝者の案としてギリギリの線まで立憲制の筋を通そうとしたものであった。さらに民権派の強襲に対抗するために国会 の即時開設という逆手を主張したので、各参議の抽象論にくらべると格段の差がある。これには伊藤も、一応大隈にしてやら れたと感じたにちがいない。鋭敏な伊藤の頭には、直ちに大隈と福沢一派との連絡が浮んだであろう。(伊藤の三条にたいす る七月一日付書簡に、﹁大限の建白は、恐らくは其出処同氏一己の考案には有之問布様狐疑仕候。﹂とある﹁伊藤博文伝﹂中巻 二 O 六 l 七頁。﹀自分は先きに意見書の提出にあたって、予め大隈にも内示したが、大隈は自分に何等はかるところなくこの ような積極論を上奏した。伊藤としては焦慮せざるを得なかったのである。大久保利謙前掲六二頁 ( げ ) 板 垣 退 助 前 掲 中 三 九 頁 四 十四年一月頃には一応共同戦線が成りたっていた大隈と伊藤、井上との聞は、福沢が不審を起したハ 1 ) ように次第 立憲改進党の結成について
東 洋 法 学 四 に溝が生じていたが、六月にいたり、前述のように建議をめぐって伊藤と大隈との確執が深刻化したが、三大臣の慰 撫、大隈の陳謝によって伊藤も七月八日から参朝し、 海道開拓使官有物払下事件によって、決定的な分裂を惹起したのである。 一時的な妥協が成立した。だがこの和解も、この月末からの北 北海道開拓使はこの年、予定の存置期間十ヶ年を経過したので、存廃が問題となったが、黒田長官は ( 2 ) 、十ケ年 間に政府資金一千四百万円余を投じた開拓使経営の事業一切を、開拓使書記官安田定則、折田平内らと大阪の巨商五 代友厚(薩摩出身﹀と中野梧一 (長州出身﹀らが共同して組織した関西貿易商会に僅々三十万円余、しかも無利息三 十ヶ年賦で払下げようとした。これが問題となったのである。黒田は七月二十一日この願書を太政大臣へ進達した が、やがて閣議にかかると、有栖川宮、大隈、佐野常民(大蔵卿﹀らから反対意見ハろがでた。だがちょうど天皇が 東北、北海道を巡幸されることになって、有栖川宮、黒田、大限、大木、松方らがこれに従い、七月三十日東京を離れ た。黒田は自己の進退を賭して強硬に主張したので、三十日進発の際にようやく勅許が下り、 八月一日正式に発表さ れた。この報が一度伝わると世論は沸騰し ( 4 ) 、﹁明治政史﹂は、﹁維新以来日本全国の人民智となく愚となく挙って 政府の措置を非議せしこと未た此時より甚きはなし﹂ ( 5 ) と記録している。沸騰した世論は、単にこの払下問題にた いして反対するだけではなく、 さらに進んで、﹁此事件の如きは畢覚寡人政治の組織に在ては情実と勢力との結果な り。是を以て之を単に内閣の過失なりと概言するは、其本を顧みすして唯た其末を是非するの識を免れず。若し誠に 此病を医せんと欲せは宜く国会を開設すへし。﹂ ︿ 6 ) としたのである。従来政府を支持していた福地源一郎(東京日日 新聞) すら反対の急先鋒となり、なかでももっとも反対したのは、後の改進党系である慶応義塾系の人々であった。
この払下問題がおこると、これに反対した大隈の戸望が高まった︿ 7 コと同時に大隈が民間の政客を煽動し、殊に 福沢およびその門下と結托し、内外呼応して薩長勢力の打破を企図しているとの陰謀説 ( 8 ﹀なるものがおこるにいた った。このような陰謀説は、やがて大隈にたいする政府首脳部およびその周囲からの攻撃 ( 9 ﹀を激しくし、その結果 大隈は謀叛人のごとく悪評された自﹀のであった。かくて政局が急を告げるをもってコ一条は京都滞在中の岩倉の帰京 を促し、岩倉は十月六日上京したが、翌七日には伊藤、井上、西郷らが訪問して政局は活溌となった。伊藤は大隈罷 免、開拓使官有物払下中止、国会開設にかんする詔勅案、内閣、元老院および参事院章程案を示し、岩倉の賛同を求 め、その決意を促がした。岩倉も政局を拾収するためには断乎たる処置にでる以外にはないとし、官有物払下中止、 大隈罷免には同意したが、国会開設にかんする詔勅の漁発については多少跨賭するところがあった。だがさらに伊 藤、井上毅の進言があり、九日には、車駕還幸の期も近ずいたので、岩倉邸において三条以下各参議が集って閣議が 開かれ、大限の罷免、国会開設の詔勅換発、開拓使官有物払下の中止などの重大事が決定され︿巴、実行に移すばか りとなった。この間政府内部の動静が大隈派にもれ、矢野文雄が御巡幸先に急行して大隈に内情を告げ、有栖川官を 動かして薩長参議の免職を謀っているとの情報が伝えられた
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﹀が、大勢はすでに決し、十月十一日還幸とともに御 前会議が聞かれ、万事岩倉、伊藤らの予定したとおりに決定した。その夜、伊藤と西郷が内閣を代表して大隈に辞表 の提出を求めたが、大隈としてはなんの策の施しょうもなく、翌十二日に辞令を受理せざるをえなかった。また同日に は明治二十三年を期して国会を開くべしとする大詔が換発され、二十一日には参議の諸省卿兼任制が復活され、さら に新たに参事院が設けられた。この改革によって伊藤が自ら参議兼参事院議長となり、事実上内閣の中枢部を握るに 立 憲 改 進 党 の 結 成 に つ い て 一 五一 中 ハ ヘ 定 十 院 幹 事 兼 太 J 矢野文雄(政官大書記官)牛場卓造 ( 耕 一 一 時 少 ) 犬 養 毅 ( 蛾 封 一 時 一 ) 尾 崎 行 雄 ( 間 ) 中 上 川 彦 次 郎 ( 町 一 龍 一 大 ) 小 野 梓 ( 正 時 検 ) 牟 田 口 元 学 ( 諒 一 四 時 大 ) 小 松 原 英 太 郎 ( 劇 務 書 宅 〆 ヘ 農 商 務 権 J E ヘ 文 部 権 大 J ¥ 文部権ノ J ヘ 大 蔵 権 少 J 少官一)中野武営(少書記官)島田三良戸書記官﹂田中耕造 f書記官パ﹂森下岩崎{書記官)等皆本官を免ぜられ、 東 洋 法 学 い た り 、 政府の実権は全く薩長派に帰したのである。 大隈の影響のもとにある、 農商務卿 河 野 敏 鎌 、 駅逓総監前島密、 判事北畠治房も前後して免官となり、﹁平素大隈に因縁ある者は復た官途に隻影を留め ざ る に 至 ( 日 ) ﹂ ったのである。 以上みてきたように、十四年の政変は、奔騰する自由民権運動日国会開設運動の勢をそらすために、詔勅を出すこ とによる政府の譲歩であるとともに、大隈派という異物を排世することによって、薩長派政府を純化し、専制化した の で あ る 。 かくて大隈およびその{派は、この政変の犠牲者であり、その人達を中心として結成された改進党は、 し たがってこの政変の必然的産物であったのである。 ( 1 ﹀﹁四月頃と覚ふ、論吉伊藤君の宅を訪ひ、兼ての新聞紙の事は如何なりしゃと尋ねたれば、君は却て論吉に向て其事情成 行を問ふものの如し。依て大限参議へ談じたる有様は是まで云々とて、其成行を語りたれども、此時の談勢恰も主客相反する が如くにして、論吉の胸中には少しく不審を起したり。﹂石河幹明前掲三巻七六 l 七 頁 ハ 2﹀なぜ黒田がこのような条件で関西貿易商会に払下げようとしたか。その意図については、払下による旧官吏の救済、五代 との友誼による権益の提供とのみ考えることは当を得ていない。黒田の本来の念願は開拓使の継続にあり、その事業の不成績 の故に衆参議の反対を押し切ることができず、廃使の不可避が明らかとなったときに始めてこのことが企てられたのである。 黒田が、開拓使の経営にかくも執着した理由は、一つにはそれが薩閥の牙城であるという点、今一つは、彼の根強い富国強兵 論と結びついている点にある。永井秀夫﹁明治十四年の政変﹂堀江英一・遠山茂樹編﹁自由民権期の研究﹂一巻所収 一 八 二 頁 参 照
( 3 ﹀大限の反対意見について陸奥宗光遺稿に﹁其後大隈が伊藤と面会の時に、開拓使官有物払下の一件に就き黒田より何か聞 込みたる事ありやと云へるにより、伊藤は黒田と会談の顛末を語れり。大隈は官有物払下全体に就ては異議なし、然れども其 払下ぐべき官有物運転資金として九万円を下附するが如きは、到底同意する能はざる所なりと云へるに因り、伊藤は抑々今回 開拓使官有物払下の事は使庁を廃し、新に県治を創設するに当り、旧来使庁の官吏に官有物を払下ぐるとの次第にして、事国 より常格を以て論ずべきに非ず、故に其事全体を不可なりと云ふなれば、国より一個の意見として聴くべき価値あれども、其 事に不可なきも、其れに附帯する僅に九万円の運転資金に限り痛く異議を唱ふるは梢々事物の本末を失ふに非ずやと詰りたれ ども、大限は此事に就ては到底同意を表する能はずと云ひ去れる由なり。﹂三宅雪嶺前掲二巻一三五頁 ︿4 ﹀この問題は、決定以前に世間にもれ、事あれかしと待っていた世論は一斉に攻撃を開始した。﹁彼ノ敏捷健筆ナル東京横 浜毎日新聞ハ、早クモ之ヲ七月廿六日(第三千百八十三号﹀ノ社説ニ﹁関西貿易商会ノ近状﹂ト掲ゲ(其七月廿八日第三千百 八十五号ニ於テ完タシ)丁寧論排セラレタリ。之ヲ開拓使官物払下処分ニ係ル論説ノ鳴矢トナス﹂原田篇三編﹁北海廻澗録﹂ 明治文化全集二十二巻雑史篇一九二頁なおこの問題についての新聞論説が問書に収められている。 ハ 5 ﹀ 指 原 安 三 前 掲 三 六 九 頁 ︿ 6 ﹀ 指 原 安 一 ニ 前 掲 三 六 九 頁 ︿ 7 ) ﹁其門下の士及三菱会社の関係ある人等今日政府中独り大隈君のみ嘗て此払下を非とぜられりと頻に世間に伝声せしを以 て、天下の人心忽ち同君に帰し﹂指原安三前掲三六九頁 ( 8 ﹀この陰謀説なるものが、いつだれがおこしたかについては不明であるが、八月二十一日附の寺島宗則施黒田の書簡に、 ﹁大印︿大隈)建白セシ後ハ、弥陰然三菱社後楯トシ、福沢ヲ顧問トシ、後藤、板垣、副島へも内通シ、或ハ民権不平家を腹 中に入レ、太政官其外諸省府県之所ニモ私恩ヲ報ヒ、人心ヲ収撹シ、大ニ好策ヲ遂クル手段最中ト認メ申候﹂とある。渡辺幾 治郎﹁大隈重信﹂一三七頁しかしこのような陰謀説は、福沢側、大隈側の資料の提出によって(福沢の﹁明治辛巴紀事﹂が 石河幹明氏の﹁福沢識吉伝﹂第三巻に公表され、渡辺幾治郎氏の﹁文書より観たる大隈重信侯﹂があらわれた)否認されるに いたった。大久保利謙前掲一
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七頁参照 立憲改進党の結成について 七東 洋 法 品ι 寸・ i¥ ︿ 9 ﹀大隈にたいする政府内部からの攻撃はニ方面からあった。 久 保 利 謙 前 掲 九 九
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三一貝参照 ︿凶)大隈自ら回想して﹁火の手は盛んに燃え揚ったが、それを煽動して火を附けたのは大隈だと云ふことになったはまだい ぃ、此頃で云へば革命とでも云ふか、其頃の言葉で我輩は叛乱を企てたと云ふ訳で、我輩はトウ/¥謀叛人になって了った。 而も比大隈の謀叛の裏には福沢論吉が参謀となり、軍用金は三井、三菱が出して居るとまで政府側では云ひ出した。﹂と述べ ている。松枝保二編﹁大限侯昔日諦﹂二五四│五頁だが大隈にも責任がなかったわけではない。﹁天下の人心自ら我れに向 へり、藩閥も軍人も眼中に無し、と過信したのが我輩の大いなる誤りであった。伊藤、井上は元々長州の出であるから、我輩 と行動を共にして頗る立場が苦しくなる。其処で後に至ってソロ/¥跨跨し始めた、遼巡し始めた。遂に伊藤、井上も我輩と 離れると云ふ不幸に陥った。是れ即ち明治十四年の我輩の失脚で﹂松枝保ニ前掲二四七l
八頁 (日﹀岩倉が還宰後に処置すべき項目を筆記して一同に示した。﹁伊藤博文伝﹂中巻二二四 l 五 頁 参 照 ハロ﹀十月十日附、井上馨の伊藤にたいする書簡に、﹁今朝承り候得ば、矢野文雄事四五目前御巡宰先きへ到り、方今事情甚切 迫に付左府公説付聖上え強迫して薩長参議免職辞令書を東京え送達する策を催し候﹂﹁伊藤博文伝﹂中巻二二六頁 ( 臼 ) 指 原 安 三 前 掲 三 七 四 頁 一 つ は 隊 長 派 か ら で あ り 、 一つは元老院一派からであった。大 五 改進党はいうまでもなく、十五年三月十四日その趣意書が発表され、 四月十六日明治会堂において結党式を挙げ、 総理に大隈を推した。このように大隈を動かして結党にまでもたらすのにもっともあづかって力のあったのは一体だ れであるか。勿論当時、改進党的政党!穏健なイギリス的二院制、 立憲君主制を標梼する政党ーが創立されるべき客 観的条件がそなわっていたといわれているが(土、それを具体的に実現したのはだれであるか。殊にこの改進党は、 前年十月末に創立された、国民的基盤のうえにたつ自由党 ( 2 ) とは異って、大隈とかれを支持するかぎられた人々によって当初結成されたニとからもわかるように、この政党は大隈をめぐる一部の人々の主導のもとに結成にまでもた らされたのである。このように大隈に影響を及ぼし、改進党を現実に生みだした人は一体だれである。 それは沼間守一であるとする説 ( 3 ) も あ る が 、 小野梓とするのが、もっとも妥当であると思われる。しからば小野 がいつ政党の樹立を考えるようになったか、 またそれを大隈にいかに進言しているか、その過程を辿ってみよう。 小 野 (4) が大隈と密接な関係をもつようになったのは、明治十四年に入ってからであった。そして大隈にまず三月 十八日には﹁今政十宜﹂を呈出し、これ以後交渉が次第に頻繁となった。 小野は政治改革のために政党組織の必要を 確 信 し ハ 6 ) 、 大隈のためにその準備に着手したのである。 六月十日の日記には﹁小為来訪、談ニ中立政党樹立之事こ とあり、さらに八月二十日には﹁此日小為、高早等来話、決下樹ニ立一政党一之議ととあるが、このころ政党組織の計 画が鴎渡会ハ 7 ﹀で論議され始めていたのである。さらに九月二十三日には﹁下午、 小 為 、 高 早 、 小弥、宇盛等来訪、 議 ユ 我 党 所 v操之主義ことあって、新政党の思想的根拠について論議が行われ、同月二十五日には﹁晩問、 小 為 、 高 早 、 小 弥 、 立 花 等 来 訪 、 議 二 五 口 党 樹 立 之 目 的 目 、 討 論 数 次 、 終 取 二 真 利 之 趣 旨 -、 為ニ吾党所 v 操 之 主 義 目 、 至ニ初更-而 去。﹂とあり、この﹁真利﹂をもって政党の思想的基盤とすることに決定したのである。﹁真利﹂とは最大多数の最 大幸福を目的とする功利主義をいい、 小野がペシサムから影響を受け、 日頃口癖のように説いていた生活の根本準則 であった︿$。このように政局が急を告げていた九月の末には、 小野の脳裡には政党を樹立して新しい時代に備える 計画がすでにできていたということができよう。 このように小野によって政党結成の準備がなされてはいたが、この政党結成の論議が進捗したのは、勿論十月の政 立 憲 改 進 党 の 結 成 に つ い て 九
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変以後のことである。この政変の直後、自由党が創立されたが、この創立に刺激されて、政党尚早論をいだいていた 福沢によって後藤象二郎を党首とする智識あり、名望あり、財産ある各階級を網羅する英国流の政党樹立の企てが伝 えられたが、中途にして立消えとなった︿ろ。かくては桂冠後の大隈の進退は、 一般の注目するところであったが、 大隈は態度をはっきりさせず、やがて政党を組織するという風説が飛ぶにいたった。 一 方 、 小野は十一月三日に大隈 を訪ねて政党組織のことを談じ、これ以後しばしば大隈を訪ねてこの間題について論議を重ねている。十五年に入る と 一月三十一日には大隈邸に河野敏鎌、前島密以下の同志が集って政党樹立のことを議し、 小野は推されて政党の 諸規約を起草することになった。これらの草案は大限、矢野、高田らの意見を徴したうえで、二月中には確定した。 このように小野の尽力によっていまや準備を完了し、三月十四日には﹁立憲改造党趣意書﹂が発表され、また大隈自 身も政党を組織する所以を公表した︿ M ) 。 ついで四月十六日には結党式を挙げて大隈を総理に、河野を副総理に推 し、小野、牟田口元学、春木義彰を掌事としてここに結党を終った。 この改進党のもとに集った人々は、前年の政変によって下野した元高級官僚、 および沼間守一らを中心とする喫鳴 社、矢野文雄らの慶応義塾出身の東洋議政会、 小野梓を主導とする鴎渡会の人々であるといわれている。ここでまず 問題となるのは鴎渡会である。この団体は前述のように小野梓を指導者として東京大学を卒業せんとしていた青年達 か ら 成 り 、 たしかに智識をもって小野を助けてはいるが、いまだ社会的に認められているとは云いがたい人々であり、 したがって他の集団と同じように一つの政治勢力として取扱うわけにはいかないのではなかろうか。 つぎは福沢のこ の政党にたいする関係である。大隈は改進党を組織するや、福沢に入党を切望したが、福沢は独立不聴を標梼して応ぜず、その門下生は動揺したが、結局牛場卓造ら数人が入党したにすぎなかった白)ひかくて結党式当日には百数十名 が集ったと(路﹀いわれている。最後にこの政党と三菱岩崎弥太郎との関係について一言しておこう。大限が在朝時代 においては、大隈と岩崎との関係は密接なものであったことはいうまでもないが二度野に下り改進党を結成するにい たっては、﹁三菱は大隈の家計を助くるのみにて、改進党を助けず、 改進党は幹部も三菱より運動費を受け白)﹂な かったといわれている。 だが改進党の有産者的性格は、客観的に三菱の利益を代表し、促進することになった︿巳。 以上、主として人間関係を辿って改進党の結成過程をみてきたのであるが、この考察から、改進党の結成は政府の 分裂による異質物の放出であったとともに、同時に自由民権運動H国会開設運動に新局面を与えることになった。か くて改進党は、自由党とは全く別の政党であり、改造党の発足にあたって河野敏鎌が自由党との区別を強調し、板垣 が﹁改進党は我々を以て猟犬と為し、為かも其獲物をば悉く白から取らんとするもの自よといったのは改進党の本 質を暗示しているといってよい。 ( 1 ) ﹁よしゃ一の大隈なくしても、何人か v 穏健なる英国風の二院制、立憲君主制を標梼する政党を樹立すべきであった。け だし政党が一定の社会群を政治的に代表するものである限り、当時早ゃくも結成された自由党によって代表され得ない部分の 社会層は、当然別個の政党を要求せずにはゐなかったからである。社会経済的の利害から言っても、またその政治的見解から 言っても、或ひはまた人的関係、感情的経緯かわり言っても、自由党とは別個の政党が早晩創立さるべき筈であったのである。﹂ 鈴木安蔵﹁自由民権﹂三八七頁 ( 2 ﹀自由党の具体的な創立過程については、拙稿﹁自由党の創立│日本における近代的政党の成立についての一研究って 完)﹂法学新級六八巻十一号を参照されたし。 ( 3 ﹀例えば伊藤仁太郎氏は﹁自由党創立の時の看板は沼聞の新聞社に掛つでをった。ところが馬場辰猪と極端な喧嘩をしてし 立 憲 改 進 党 の 結 成 に つ い て
東 洋 法 尚 子 まふ。板垣の方にも工合の思いことになった。それでどうも行く所がない。その聞に河野敏鎌と握手してしまふ。それでゐる 所へ大隈が朝を辞して祈知識を抱いてどうして宜しいか困って居る所へ喰ひ込んで行って説きつけたものだ。﹂と述べてい る 。 鈴 木 安 蔵 前 掲 三 九 二 頁 ま た ﹁ 明 治 裏 面 史 ﹂ 尾 佐 竹 猛 ﹁ 明 治 政 治 史 点 描 ﹂ 一 二 九
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一 三 O 頁 に も 同 様 の 記 事 が あ る。だが小野梓はこのように沼間が大隈に接近していった以前から、すでに後述のように政党につき献策を行っている。 ( 4 ﹀小野が大隈に知られたのは、義兄の小野義真の紹介で、留学帰朝早々であったらしい。小野の思想は、イギリス留学中に 基礎がおかれたブルジョアイデオロギーで政治思想は、和製イギリス的立憲思想の標本であって、これが改進党思想の基本と なったのである。すでに明治十二年に大限に呈出した意見書において悶会の開設を主張している。大久保利謙前掲一一八 │九頁 ( 5 ﹀大隈のために小野が心血をそそいで書いた政府改革論である。その内容は第一宜レ変二内閣之組織一、第二宜レ定ご施治之方 額二第三宜レ決こ外債之募集目、第四宣レ罷-一紙幣之焼棄ス第五宜レ衝ニ外邦之弱所一、第六宜レ延三一法之実施τ
第七宜レ改二会 計 之 年 度 -、 第 八 宜 レ 正 で 準 備 之 有 様 一 、 第 九 宜 レ 明 こ 官 吏 之 責 任 一 、 第 十 宜 レ 断 一 一 開 拓 之 廃 庁τ
の十ケ条であった。この主張は大隈 の国憲にかんする建議に影響を与えたといわれている。西村真次﹁小野梓伝﹂一三二頁 ︿ 6 ) ﹁今や内閣の組織を一変し、施政の方針を定めんと欲せば、憲政建設の基礎を樹立せざるべからず。憲政を建設せんと欲 せ ば 、 勢 政 党 を 組 織 せ ざ る 可 か ら ず ﹂ 大 津 淳 一 郎 ﹁ 大 日 本 憲 政 史 ﹂ 二 巻 五 三 一 一 良 ( 7 ) 小為とは小川為次郎をいい、高早とは高田早苗を指す。小川は小野の友人で、この小川を通じて当時東京大学の学生であ った高田を知ったのである。この高田がさらに自分の友人である岡山兼吉、市島謙吉、山田一郎、砂川雄峻、山田喜之助、天 野為之の六人を小野に紹介し、この人達によって十四年三月頃、鴎渡会がつくられた。高田早苗﹁半蜂昔ぱなし﹂六八l
七 O 頁参照したがって鴎渡会は、小野を中心とする大学生の小集団として出発したのである。 西 村 真 次 前 掲 一 一 九 頁 ﹁ 河 野 磐 州 伝 ﹂ 上 巻 四 四 三 │ 四 頁 大 津 淳 一 郎 前 掲 二 巻 五 二 二 頁 参 照 十五年三月十八日大限邸において大隈と藤田一郎との間に一問一答が行われ、それが東京日日新聞に掲載された。渡辺幾 ( 8 ) ( 9 ) ( 叩 )治 郎 ﹁ 大 隈 重 信 ﹂ 一 五 三 │ 六 頁 参 照 (日﹀この問題については、鈴木安蔵前掲三九七