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戦中の辻清明―明治憲法の割拠性を考える上での一視角― 利用統計を見る

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(1)

戦中の辻清明―明治憲法の割拠性を考える上での一

視角―

著者

荒邦 啓介

著者別名

Keisuke Arakuni

雑誌名

東洋法学

57

3

ページ

283-300

発行年

2014-03-31

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006488/

(2)

一   はじめに 二   昭和一五年・国防国家 三   「国務」 「統帥」調和論と「割拠性」論 四   おわりに 一   はじめに   『回 想 の 辻 清 明』 と い う 書 名 の、 高 名 な 政 治・ 行 政 学 者 の 業 績 と 人 柄 を 偲 ぶ 追 想 文 集 が あ る。 そ こ に 収 め ら れ て い る エ ピ ソ ー ド に よ れ ば、 昭 和 五 三 年 の ダ グ ラ ス・ グ ラ マ ン 事 件 (戦 闘 機 購 入 を め ぐ る 汚 職 事 件) を 受 け て 設 置 さ れ た航空機疑惑等防止対策協議会の一員となった辻清明は、政権党の体の良い隠れ蓑にされるだけではないかと息子 に問われた時、次のように言ったという。 《 研究ノート 》

戦中の辻清明

――

明治憲法の割拠性を考える上での一視角

――

 

  

 

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「自 分 は 戦 後 三 〇 年 間、 日 本 の 政 治 や 行 政 が 少 し で も 良 く な っ て く れ れ ば と 願 っ て、 今 ま で 色 々 な と こ ろ で 話 したり、書いたりしてきたつもりだ。でもその結果がこれでは、余りにも寂しいじゃないか。だから、今回も できるだけの努力はしなきゃいかんと思 ( 1) う 」。   学問業績は言うまでもなく、戦後の政治・行政の実際に対してもその深き学識と熱意とをもって大きく貢献した のが辻であった。   辻の研究者人 ( 2) 生 の起点は昭和一二年 (東京帝国大学法学部助手) にまで、即ち戦前にまで遡る。その研究は当時の 世相・政治・行政・思想・学術等を少なからず受容したものであろ ( 3) う 。この点で、言わば辻行政学の基礎のひとつ であり、戦後の辻が日本官僚制の特色を描く際になお用い続けた「割拠性」論が、大戦末期の昭和一九年の論文で 示された議論であった事実は見過ごせな ( 4) い 。藤田宙靖曰く、およそ学説は「それらが何を解決したのかではなく、 む し ろ 何 を 問 題 と し、 何 を 疑 っ た の か を 問 う こ と に よ っ て 初 め て、 そ の 真 価 を 掴 む こ と が 出 来 5) る 」。 昭 和 一 九 年 の 辻が「問題とし」 「疑った」ものは、彼の中では戦中・戦後を貫く日本法文化・行政文化論的問題であった。   短 い な が ら も こ こ で は、 戦 中 の 辻 の 研 究 の 一 端 を 再 読 し、 当 時 の 彼 の 問 題 発 見 を 振 り 返 っ て み た い。 本 稿 は 畢 竟、 戦 後 行 政 学 の リ ー ダ ー が 明 治 憲 法 体 制 の 中 で「問 題 と し」 「疑 っ た」 も の の 読 み 直 し で あ り、 辻 の 眼 を 借 り た 明治憲法の特徴の再追跡作業である。 二   昭和一五年・国防国家   辻が研究者として歩みだした時期は、戦争の時代であった。辻も他の学者達と同じく当時の法的・政治的・行政

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的な諸問題に向き合ったが、その筆法は単なる扇情的政治評論に堕する事なく、学問的であるのを忘れていない。   ところで、当時の政・官界では「国防国家」という言葉が躍っていた。第二次近衛文麿内閣が閣議決定した「基 本 国 策 要 綱」 (昭 和 一 五 年 七 6) 月) に 現 れ た そ の 言 葉 は、 昭 和 一 五 年 を 彩 っ た 政 治 的 標 語 で あ っ た。 円 滑 な 戦 争 遂 行 を 可 能 と す る た め、 「国 防」 に 焦 点 を 絞 っ た 国 家 諸 機 関 の 一 元 的 体 制 の 実 現 が 急 務 と さ れ て い た か ら で あ る。 辻 も ま た、かような空気の満つる中に生き、当然、帝国大学法学部の一員として当時の諸問題に対して敏感に反応してい た。   先に当時を「戦争の時代」と書いたが、その戦争が《総力戦》であった点も見逃せない。昭和一五年に総力戦研 究 所 と い う 仰 々 し い 名 の 首 相 直 轄 研 究 機 関 が 設 置 さ れ た の は、 当 時 の 世 相 を 容 易 に 知 り 得 る 事 件 で あ ろ う。 「近 代 戦ハ武力戦ノ外思想、政略、経済等ノ各分野ニ亘ル全面的国家総力 ( 7) 戦 」であり、政戦両略の一致がこの時代の国家 運営には必須であった。総力戦は決して武力戦のみで足るものではない。これと関連して、例えば当時の海軍の軍 令部内では、従来の大本営は戦争指導機関として不充分だとの認識から、大本営改革によって「国務」と「統帥」 の 連 絡 を よ り 密 に す べ き と い う 意 見 が 出 て い 8) た 。 そ こ で は、 大 本 営 政 府 連 絡 会 議 の よ う な も の で は な く、 「国 防 部」 (大本営) の中に「統帥部」と「国策部」とを並置させ、軍令機関の両総長が「統帥部」を、首相が「国策部」 をまとめるという組織が計画されていた。国防は、軍人の才能のみで為し得るものではなかった。   「万 難 ヲ 排 シ テ 国 防 国 家 体 制 ノ 完 成 ニ 邁 進 ス ル コ 9) ト 」 を 求 め る「基 本 国 策 要 綱」 は、 国 防・ 外 交 問 題 や 議 会 体 制 の 刷 新 論 と 並 び、 「国 内 態 勢 ノ 刷 新」 も 日 本 の 課 題 と し て 掲 げ て い る。 そ こ で は、 「国 政 ノ 総 合 的 統 一 ヲ 図 ル」 為 に、 「行 政 ノ 運 用 ニ 根 本 的 刷 新 ヲ 加 ヘ 其 ノ 統 一 ト 敏 活 ト ヲ 目 標 ト ス ル 官 場 新 態 勢 ノ 確 10) 立 」 を 基 本 国 策 の ひ と つ に 数 えていた。まさしく内閣を頂点とする行政部内での統合が要請されていた。

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  「基本国策要綱」が閣議決定されてから約一か月後、近衛は新体制準備会第一回総会声明の中で、 「統帥と国務と の調和、政府部内の統合及び能率の強化、議会翼賛体制の確立等」が「高度国防国家」を建設する上での「国内新 体制」の確立に必要なものだと述べてい ( 11) る 。   以上の諸点を踏まえてみると、次に掲げる辻の説明は、近衛声明に拠りつつ、国防国家体制構築には何を要する のかを端的に指摘していたものだと分かる。 「即 ち こ ゝ で 高 度 国 防 国 家 の 体 制 と は、 議 会 翼 賛 体 制 な ら び に 万 民 翼 賛 の 国 民 組 織 の 確 立 と と も に 行 政 体 制 と しては統帥と国務の調和、ならびに政府部内の統合および能率の強化を実現することを以てその鞏固なる基礎 としたのであ ( 12) る 」。   国防国家体制構築には、 (一) 「議会翼賛体制」及び「万民翼賛の国民組織の確立」と共に、 (二) 「統帥と国務の 調 和」 と(三) 「政 府 部 内 の 統 合 お よ び 能 率 の 強 化」 と の 実 現 を 要 す る。 こ れ ら が 達 成 さ れ て 初 め て 国 防 国 家 体 制 は整うものであっ ( 13) た 。 このうち (一) は余りにも大きな問題である為に別の機会に譲り、 本稿では (二) 及び (三) について論じ、その中で(一)にも僅かながら言及しつつ辻の議論を追っていこ ( 14) う 。 三   「国務」 「統帥」調和論と「割拠性」論   まずは、国防国家体制構築に必要であると辻が説明していた「統帥と国務の調和」問題についてである。   この点、例えば、当時内閣法制局参事官であった山崎丹照は、その著『内閣制度の研究』の中で、大本営政府連

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絡会議をもってこれの実現にかなりの期待を寄せる一文を書き記している。   山 崎 は、 「現 代 の 戦 争 は、 国 家 の 総 力 を 以 て す る 所 謂 国 家 総 力 戦 で あ る。 戦 勝 を 確 保 す る が 為 め に は、 所 謂 政 戦 両略の一致を計ることが喫緊不可缺の事柄である。而して此の政戦両略の一致を期する意味に於て、大本営と内閣 との連絡協調は、特に緊密なるを要する。而して此の両者の連絡協調の衝に当るものは、主として陸海軍大臣であ ら 15) う 」と述べた後、昭和一二年大本営設置に際しての大本営陸海軍部当局談話が大本営と政府との「連絡協調」に 言及していた事を受けて、次のような期待を示していた。 「〔陸・海軍間での緊密な連携と〕同時に、統帥部政府間に於ても、臨時其の必要に応じ、連絡会議が開かれ、 政戦両略の一致に万遺憾なきことが期せられてゐるのである。特に現東條内閣に於ては、現役の陸軍大将たる 東條英機が内閣の首班者たり、而も亦彼は同時に陸軍大臣をも兼ねてゐるのである。蓋し戦時に於ける内閣制 度の運営に一新機軸を出せるものであつて、之に依り政府・統帥部の連絡協調は愈々其の妙用を発揮するもの であ ( 16) る 」。   山崎がここで「政戦両略の一致」に期待できるとした「連絡会議」とは、大本営政府連絡会議である。また、東 條 内 閣 (昭 和 一 六 年 一 〇 月) で は 東 條 が 現 役 の 陸 軍 大 将 と し て 首 相 兼 陸 相 を 務 め て お り、 山 崎 は こ の 点 で も「政 戦 両略の一致」が更に確保されると見た。   し か し、 山 崎 が 期 待 を 示 し た 大 本 営 政 府 連 絡 会 議 の 設 置 と 東 條 首 相 の 陸 相 兼 任 と い う 策 に 対 し、 冷 徹 な 視 線 を 送っていた者もいた。辻清明である。

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  辻は、山崎『内閣制度の研究』に対する書評の中で、次のような批判的言辞を書き残している。即ち、山崎の著 書 か ら は、 「内 閣・ 大 本 営 連 絡 会 議 の 設 置 と い ふ 外 面 的 制 度 の 存 在 の み を 眺 め て 一 般 的 な 国 務 と 統 帥 事 務 の 円 滑 な る 総 合 を 帰 結 す る 無 批 判 的 な 随 従 的 態 度」 が 見 出 せ る、 と。 ま た、 東 條 首 相 の 陸 相 兼 任 と い う 手 法 も、 「軍 部 大 臣 が 総 理 大 臣 を 兼 任 す る と い ふ 仕 組 を と つ て ゐ る 現 東 條 内 閣 で は そ の〔 「国 務」 と「統 帥」 の 不 調 和 と い う〕 欠 陥 を 補ひえてゐるが、改革の問題はもつと一般的な性質のものでなければならな ( 17) い 」、と。   辻と比して山崎の観察が多少楽観的に感じられるのは、或いは彼が内閣法制局の人間であった点がひとつの理由 か も 知 れ な い が、 山 崎 に 対 す る 辻 の 上 掲 の 批 判 は 適 確 で あ ろ う。 確 か に 大 本 営 政 府 連 絡 会 議 は、 「外 面 的 制 度 の 存 在のみ」からすれば、山崎のように期待を持てた。しかし、それによって「一般的な国務と統帥事務」の調和がは かられるというのは夢物語である。東條首相による陸相兼任も一時的な統合に過ぎず、永続的な制度となった訳で はない。東條はその後、参謀総長をも兼任したが、それでもなお辻の批判――「改革の問題はもつと一般的な性質 のものでなければならない」――を浴びずに済むものではなかった。首相・陸相・参謀総長の兼任は、あくまで東 條内閣特有の現象であった。   さ て、 山 崎『内 閣 制 度 の 研 究』 に 対 す る 辻 の 書 評 は、 「統 帥 と 国 務 の 調 和」 に 関 す る 以 上 の 議 論 に 尽 き る も の で はなかった。そこでは、国防国家体制を構築する為に要請される「政府部内の統合および能率の強化」という問題 についても触れられている。むしろ書評対象の山崎の著書はこちらの方により力点を置いたものであったから、辻 がこの問題に触れたのは当然であった。そしてその際、軍需工場動員法や国家総動員法施行に関する勅令に並んで 「政府部内の統合および能率の強化」 の実現に寄与すると考えられていたのが、 戦時行政職権特例 (昭和一八年三月) であった。

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  上 述 の よ う に 辻 は「統 帥 と 国 務 の 調 和」 策 に は 山 崎 と 比 べ て 悲 観 的 で あ っ た が、 他 方、 「政 府 部 内 の 統 合 お よ び 能率の強化」に関しては、東條内閣下での施策に相当に期待を持っていたように思われる。彼が特に注目していた のが戦時行政職権特例であった。今ここに、その第一条のみを掲げておく。   第一条 大東亜戦争ニ際シ鉄鋼、石炭、軽金属、船舶、航空機等重要軍需物資ノ生産拡充上特ニ必要アルトキハ内閣総 理大臣ハ関係各省大臣ニ対シ必要ナル指示ヲ為スコトヲ得   戦争遂行に係る「重要軍需物資ノ生産拡充」の為に首相の「指示」権を認めるというのが、戦時行政職権特例の 中 核 で あ っ た。 同 特 例 は、 昭 和 一 八 年 一 一 月 に 早 く も 改 正 さ れ、 第 一 条 が「大 東 亜 戦 争 ニ 際 シ 鉄 鋼、 石 炭、 軽 金 属、船舶、航空機等重要軍需物資ノ生産拡充、主要食糧ノ確保、防空ノ徹底強化其ノ他総合国力ノ拡充運用上特ニ 必 要 ア ル ト キ ハ 内 閣 総 理 大 臣 ハ 関 係 各 省 大 臣 ニ 対 シ 必 要 ナ ル 指 示 ヲ 為 ス コ ト ヲ 得」 と な り、 「総 合 国 力 ノ 拡 充 運 用 上特ニ必要アルトキハ」各省大臣への「指示」権を首相に認めるものとなった。より広範な「指示」権を首相に与 えた事になるが、辻もこの「指示」権に着目し、昭和一九年に刊行された法律雑誌上で次のように述べている。 「戦 時 行 政 職 権 特 例 の 発 布 は、 苛 烈 な 決 戦 段 階 に お け る 軍 需 生 産 力 の 飛 躍 的 増 強 と い ふ 至 上 命 題 が 不 可 避 的 に 要請したところのものであり、この分野において少からぬ貢献を齎したものであつたが、同時にそれが内閣総 理大臣の強力な『指示権』――実質的には指揮命令権を意味する――を規定することによつて、内閣自体の統

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制力を著しく高めたといふ点においてわが国戦時行政体制上極めて画期的な意義を有するものであつ ( 18) た 」。   辻は、改正戦時行政職権特例中の首相「指示」権を「内閣自体の統制力を著しく高めた」ものと評価している。 実 質 的 に 国 務 大 臣 単 独 輔 弼 制 度 を 根 底 か ら 覆 す 力 を 首 相「指 示」 ( 19) 権 に 見 出 し た 辻 は、 「広 く 従 来 の わ が 国 行 政 組 織 に 対 す る 全 面 的 再 編 成 を 促 進 す る 極 め て 重 大 且 つ 恒 常 的 契 機 を 営 み つ ゝ あ る」 と 指 摘 し、 以 下 の よ う に 続 け て い る。 「戦 時 行 政 職 権 特 例 は、 そ の 意 味 に お い て わ が 国 行 政 組 織 を 貫 流 せ る 伝 統 的 な 基 礎 原 理 を そ の 根 底 か ら 震 撼 せ しむる導火線をその矮小な体内に潜めた寸蛇の俤をすら宿してゐる。ひとたび出現するとともに、それは意識 的 た る と 否 と を 問 は ず、 自 己 の 周 囲 に 波 紋 を 喚 び 起 し つ ゝ、 最 も 堅 牢 な 割 拠 的 行 政 組 織 の 障 壁 を す ら 破 砕 し つゝあ ( 20) る 」。   辻の見立てでは、戦時行政職権特例は「わが国行政組織を貫流せる伝統的な基礎原理」を修正する力を持ってい る。では、辻の言う「わが国行政組織を貫流せる伝統的な基礎原理」とは何か。これは、彼が「最も堅牢な割拠的 行政組織」と述べている事から容易に推測可能なように、日本の行政組織の《割拠性》の事である。   後にも述べるように、明治政府当初の太政官制度の下では、参議らの間で統率的地位に立つ者が欠けており、そ の 多 元 性 が 露 わ と な っ て い た。 こ の 割 拠 性 を 克 服 す る の で は な い か と 期 待 さ れ た の が、 内 閣 制 度 へ の 移 行 (明 治 一 八 年) で あ っ た。 辻 も 引 用 し て い る が、 例 え ば 福 澤 諭 吉 率 い る『時 事 新 報』 は 当 時、 内 閣 制 度 創 設 に よ っ て 太 政

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官 制 度 下 で 見 ら れ た「同 年 の 兄 弟 相 集 り て 長 老 を 缺 く の 姿」 が 改 め ら れ 各 部 の 統 一 が 得 ら れ る だ ろ う と し、 「我 輩 は国のために祝せざるを得ざるなり」と歓迎し ( 21) た 。   だ が、 辻 は 言 う。 「制 度 的 に は 近 代 的 な 組 織 構 造 を 整 備 し た わ が 内 閣 が、 自 己 の 拠 つ て 立 つ 基 盤 を 所 謂 政 治 的 統 一に求めることを欲せず、遂にこれをその外部に超然たらんとする特権的な藩閥勢力の推諉と均衡の裡に見出した こ と は 結 果 と し て そ の 成 立 の 当 初 よ り わ が 内 閣 を し て そ の 統 制 力 の 著 し い 弛 緩 を 齎 ら す こ と に な つ 22) た 」、 と。 こ こ に言う「政治的統一」とは「国民各自の主体的な政治意思を一元的に結集し、国家権力の正当な行使に参与せしむ ること」であり、それが「内閣の政治的基礎」を形成していない場合、その「内閣の鞏固な統制力の欠如」状態を もたら ( 23) す 。これは結局、先述の国防国家構築に要する(一)及び(三)の問題であった。辻によれば、明治憲法体 制 は、 国 民 の 政 治 意 思 を 集 約 化 す る と い う「政 治 的 統 一」 に 依 ら ず し て、 「藩 閥 勢 力 の 推 諉 と 均 衡」 に 依 っ た 事 で、 (三)の問題を恒常的には克服できない――即ち統制力なき――内閣の出現を許容してきたのである。   かような状況を洗い出し、内閣制度創設過程を分析したものが、戦後出版された『日本官僚制の研究』に収録さ れ た 昭 和 一 九 年 の 論 文「統 治 構 造 に お け る 割 拠 性 の 基 24) 因 」 で あ っ た。 辻 は、 「太 政 官 制 度 よ り 内 閣 制 度 へ の 変 革 の 制度的意義」のひとつを――『日本官僚制の研究』に収めるに当たり加筆された一説だが――、次のように言う。 「太 政 官 制 の 事 実 上 の 政 治 的 決 定 権 を 掌 握 し て い た 参 議 の 間 に 正 式 の 統 率 的 地 位 に 立 つ 職 務 が 欠 け、 そ の 多 元 的存在を露呈していたのに対して、新しい内閣制度では、総理大臣が内閣の他の閣員を統一し全体の平衡を保 持する強力な権限を獲得するに至っ ( 25) た 」。

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  辻が当時の詔勅等から読み取っているように、内閣制度創設は参議らが「多元的存在」であったという従来の政 治的弱点を議会開設までに修正できる方策だと考えられていた。先に掲げた『時事新報』の指摘も、基本的にはこ れと同一である。   しかし、この修正は上手くいかなかった。辻は、当時の内閣制度が結局のところ「形式的には近代的立憲性、本 質的には封建的藩閥性という二重の性格の上に築かれた矛盾した存在」であったと述 ( 26) べ 、続けて、より明確なかた ちでその失敗の原因を指摘している。 「い い か え れ ば、 参 議 間 の 対 立 と 分 裂 を 止 揚 し て、 よ り 高 次 の 統 制 力 を そ の 内 に 求 め る こ と が で き る と 信 じ て いた内閣制度が、その統制力を創り出す背後の政治的原動力の近代化を忘却していたところから、依然として 旧い割拠性を保持しつづけたことを意味す ( 27) る 」。   薩 長 両 藩 出 身 者 で 政 権 を ほ ぼ 独 占 す る と い う、 「藩 閥 性」 を 有 す る 政 28) 府 で あ る 事 自 体 が、 割 拠 性 を 克 服 で き な い 一大要因であった。そもそも「明治政府構成の基本原理」とも言うべきものが「薩長両閥間の勢力均衡」にあった とすれ ( 29) ば 、議会開設を数年後に控えた当時、開拓使官有物払下げ問題で傷を負っていた薩派の黒田清隆を復権させ る必要がある等、 「薩長均衡はかえって強く意識され、その体裁を整えなければならなかっ ( 30) た 」。明治新政府が一体 となって議会政治の時代を迎える為には、二大勢力が安定的に協調している状態――「薩長均衡」――をどうして も必要とした。   この「薩長均衡」から導き出される内閣の在り方に関するひとつの帰結について、村瀬信一は次のように言う。

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「そ も そ も、 強 い 総 理 大 臣、 と は 薩 長 均 衡 に 馴 染 ま な い 性 格 を 持 つ。 維 新 以 来 の 成 功 の 歴 史、 と い う 非 制 度 的 か つ 曖 昧 な 裏 付 け し か 持 ち 得 な い 人 物 が、 『内 閣 職 権』 に 定 め る が 如 き 強 力 な リ ー ダ ー シ ッ プ を ふ る お う と す れば、それ自体が軋轢を生み、薩長間の均衡に亀裂を入れかねない可能性があり、また政権運営の結果、成功 を収めた総理大臣は相応の優位を築き、逆に失敗した者は地位を低下させることが予想され、それもまた薩長 の均衡を動揺させるおそれがあるからであ ( 31) る 」。   こ の 村 瀬 の 指 摘 は、 先 に 見 た「本 質 的 に は 封 建 的 藩 閥 性」 的 性 格 を 持 つ 内 閣 と い う 辻 の 指 摘 と 重 な る。 蓋 し、 「均衡」を大事とする余り、リーダーシップを振るう訳にはいかないのが当時の内閣総理大臣であった。   また、首相のリーダーシップ発揮の抑制的傾向に加え、憲法上の国務大臣単独責任制度の問題もあった。辻は、 当時の施政者らが議院内閣制を避ける為に国務大臣単独責任制度を齎し、内閣の「統一性」と「強化性」を阻害し てしまったと解説してい ( 32) る 。   辻の分析によれば、明治憲法下の内閣は、その創設過程で何よりも「藩閥性」の影響を強く受け、首相が強力な 指導力を発揮するのには馴染まない多元的割拠的な構造となっていた。この明治以来の閣内での多元的割拠的な構 造を取り払い、総理大臣の強力な指導を可能とさせるものとして辻が期待を示したのが上述の戦時行政職権特例で あった。それは、国務大臣単独責任制度や閣内での均衡性、総理大臣の「同輩中の首席」性といった既存の閣内秩 序を一変させるものとして期待できたのである。このように、内閣制度創設期に克服できなかった課題の解決可能 性が昭和戦中期になって生じてきたのは、蓋し「戦時」だからこそであった。辻は言う。

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「満 州 事 変 を 契 機 と し て 外 に は 国 際 政 治 的 な 対 立、 内 に は 経 済 的 不 況 と い ふ 所 謂 近 代 国 家 の 危 機 の 時 代 の 出 現 は、従来の国家機能に対し著しい転換期的相貌をあたへるに至つた。国家の内外における既成秩序の分裂は、 漸やくこれに対する総合化機能の必要を招来し、したがつて亦国家権力の統一的行使を強く要請しはじめた。 従来の如き内閣の統整力の缺如と行政組織の分立に対する反省と自覚がいまや時代的機能の痛切な要望を前に して生じたのである。そのことは我国が準戦体制から支那事変の勃発が導入した国防国家体制を通じて、さら には大東亜戦争の進展に伴ふ決戦体制に突入するに及んでも、依然減退せざるのみか一層熾烈な形態において 行はれたのであつて、本稿の冒頭に述べた戦時行政職権特例は、この問題に対する一つの具体的な解決を表示 するものに他ならなかつたのであ ( 33) る 」。   国内外の危機的状況は「内閣の統整力の缺如と行政組織の分立に対する反省と自覚」を日本国民に呼び起こし、 「準戦体制」から「決戦体制」へと流れていく中で、 「内閣の統整力の缺如と行政組織の分立」を是正する為に案出 さ れ た の が 戦 時 行 政 職 権 特 例 で あ っ た。 「決 戦 体 制」 下 だ か ら こ そ、 明 治 憲 法 の 宿 年 の 課 題 を 解 消 で き る の で は な い か と 辻 も 感 じ た 特 例 的 な 勅 令 が 制 定 さ れ た の で あ る。 ま さ し く、 「決 戦 段 階 と い ふ 峻 厳 な る 事 実 は 何 に も ま し て 一 切 の 国 家 機 能 を 一 元 化 す 34) る 」。 戦 時 行 政 職 権 特 例 は こ の 問 題 に 対 す る 東 條 内 閣 な り の 答 え で あ 35) り 、 戦 中 の 辻 は、 少なくとも文面上、それに期待を示してい ( 36) た 。 四   おわりに   以 上、 国 防 国 家 に は 何 が 必 要 か と い う 問 題 に 対 す る 辻 の 説 明 を 始 点 と し て、 戦 中 の 彼 に よ る 明 治 憲 法 の 分 析 を

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注 ( 1 )  辻隆夫「父のこと」辻清明追想集刊行会編『回想の辻清明』 (辻清明追想集刊行会・平成五年) 、三四一~三四二頁。なお、本 追 っ た。 辻 の 分 析 は、 蓋 し 総 力 戦 時 代 に お け る 0 0 0 0 0 0 0 0 0 明 治 憲 法 の《弱 点》 の 分 析 で あ っ た。 「統 帥 と 国 務 の 調 和」 問 題 と 「政 府 部 内 の 統 合 お よ び 能 率 の 強 化」 問 題 を 中 心 に 扱 っ て き た が、 辻 の 眼 を 借 り て の 明 治 憲 法 の 特 徴 の 再 追 跡 作 業 という本稿の狙いは、ひとまずこれで果たされた事となる。   ところで、日本近代史学者の鳥海靖は、明治憲法体制下の「一つの大きな特色」として「権力の割拠性」を挙げ ている。それは、天皇を軸としながらも、内閣や議会、枢密院や軍といった諸々の国家諸機関が横のつながりを持 たず、更にそれらの内部でも構成要素が分立的割拠的であった事を意味す ( 37) る 。本稿で追った辻の議論は、明治憲法 を 論 ず る 上 で 逸 す る 事 の で き な い「権 力 の 割 拠 性」 問 題 を 解 き ほ ぐ そ う と す る も の で あ っ た。 「統 帥 と 国 務 の 調 和」 は 特 に 軍 と 内 閣 の、 「政 府 部 内 の 統 合 お よ び 能 率 の 強 化」 は 内 閣・ 行 政 内 部 の「権 力 の 割 拠 性」 問 題 に 他 な ら な 38) い 。即ちそれは、明治憲法の割拠性を考える上での一視角である。   政治・行政学者の辻清明が戦中に問題として捉えていたものは「権力の割拠性」問題であり、更にそれが統帥権 とその独立制度、内閣制度とその責任制度と直接に関連していたという点で、すぐれて憲法的問題であった。首相 権 限 の 強 化 や 縦 割 り 行 政 の 問 題 が ―― た と え、 「国 防 国 家」 ・「戦 時 行 政 職 権 特 例」 と い っ た 物 々 し い 言 葉 は 使 わ れ な い に せ よ ―― 戦 後 も 論 じ ら れ 続 け て き て い る 日 本 法 史・ 政 治 史 に 鑑 み れ 39) ば 、 戦 中 の 辻 清 明 の 議 論 は、 戦 前・ 戦 中 ・ 戦 後 を 貫 く か た ち で 存 在 す る 日 本 憲 法 ・ 憲 法 史 の 問 40) 題 を 考 え る 為 の 重 要 な 素 材 と し て 今 な お 色 褪 せ て い な い 。

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稿では史料の引用に際して旧漢字の一部を改めた。 ( 2 )  辻 の 略 歴・ 著 作 目 録 は、 差 し 当 た り、 辻 古 稀 記 念 号 で あ る『国 際 基 督 教 大 学 学 報 Ⅱ B 社 会 科 学 ジ ャ ー ナ ル』 二 二 号(二) 、 一三三頁以下。略歴の一部を示せば、大正二年京都市生まれ、昭和八年京都帝国大学文学部独逸文学科入学、翌年退学、東京帝国 大学法学部政治学科入学、同一二年卒業、法学部助手、蠟山政道の指導を受ける(その後、矢部貞治が名目的に指導教官を務めた 点 に つ い て は、 関 嘉 彦・ 辻 清 明・ 松 本 重 治「追 悼 座 談 会   蠟 山 正 道」 『中 央 公 論』 九 五 年 一 〇 号(昭 和 五 五 年 八 月) 、 三 〇 三 頁) 。 召集・除隊を経て、同一七年法学部助教授、同二六年教授。 ( 3 )  参 照、 辻 清 明「私 の 行 政 学」 『年 報 行 政 研 究』 一 七 号(昭 和 五 八 年 三 月) 、 三 ~ 六 頁。 辻 は、 「政 治 と 行 政 と の 接 点 な い し 交 錯 に、 執 拗 な ま で の 関 心 を 示 し た」 も の だ と 戦 中 以 降 の 自 身 の 研 究 を 回 顧 し て い る(四 頁) 。 割 拠 性 論 を 展 開 し た 論 文「統 治 構 造 に お け る 割 拠 性 の 基 因」 (後 述) や、 米 国 で の 政 治 と 行 政 の 接 点・ 交 錯 を 論 じ た 同 時 期 の 論 文「米 国 戦 時 行 政 の 動 向」 『国 際 経 済 研 究』五巻八号(昭和一九年九月)も、辻の言う「執拗なまでの関心」の所産である。この政治と行政の接点・交錯への関心という 問 題 と 関 連 し た 辻 以 後 の 政 治・ 行 政 学 史 の 一 幕 に つ い て は、 今 村 都 南 雄『官 庁 セ ク シ ョ ナ リ ズ ム』 (東 京 大 学 出 版 会・ 平 成 一 八 年) 、 二 一 頁 以 下 を 参 照。 な お、 昭 和 一 〇 年 代・ 二 〇 年 代 の 日 本 法 学 の 輪 郭 を 示 す も の と し て、 参 照、 出 口 雄 一「戦 時・ 戦 後 初 期 の日本の法学についての覚書(一) 」『桐蔭法学』一九巻二号(平成二五年三月) 。 ( 4 )  辻 清 明『行 政 学 概 論』 上 巻(東 京 大 学 出 版 会・ 昭 和 四 一 年) 、 九 七 頁 以 下。 辻 に 指 導 を 受 け た 大 森 彌 が、 辻 は 既 に 昭 和 一 七 ・ 一 八 年 に そ の 後 の 研 究 の「基 本 設 計 を ほ ぼ 確 立」 し て い た の で は な い か と 述 べ て い る 点 も 注 目 に 値 す る。 西 尾 勝・ 村 松 岐 夫・大森彌・武藤博己「辻行政学を語る」 『季刊行政管理研究』五六号(平成三年一二月) 、六二~六五頁。 ( 5 )  藤田宙靖「 『学説』を理解するということの意味」 『法学セミナー』五七巻九号(平成二四年九月) 、巻頭言。 ( 6 )  「基本国策要綱」内閣制度百年史編纂委員会編『内閣制度百年史』下巻(大蔵省印刷局・昭和六〇年) 、二三三~二三四頁。 ( 7 )  「総 力 戦 研 究 所 設 置 ニ 関 ス ル 件・ 昭 一 五、 八、 一 六   閣 議 決 定」 土 井 章 監 修・ 大 久 保 達 正 他 編 著『昭 和 社 会 経 済 史 料 集 成』 一 〇 巻(大東文化大学東洋研究所・昭和五五年) 、五三四~五三五頁。 ( 8 )  「大本営ニ関シ・十五 ・ 七 ・ 二〇   軍令部第二課」前掲『昭和社会経済史料集成』一〇巻、二三六頁以下。

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( 9 )  前掲「基本国策要綱」 、二三三頁。 ( 10)   同上、二三四頁。 ( 11)   「新体制について(近衛内閣総理大臣声明) 」『週報』二〇三号(昭和一五年九月) 、二~三頁。 ( 12)   辻清明「戦時行政の性格」 『法律時報』一五巻三号(昭和一八年三月) 、一六頁。 ( 13)   前掲論文「戦時行政の性格」中で引用されている文献で、且つここで挙げられている三点の戦時国家での必要性を指摘するも のとして、 Ulrich Scheuner, Die deutsche Staatsführung im Kriege, in: Deutsche Rechtswissenschaft, 5. Bd, 1940, S. 9. ただ、辻は 当時のドイツの国防機構を概観・紹介する為にこの文献を引用している。なお、第三帝国の政軍関係を対象とした近時の研究とし て、

Andreas Dietz, Das Primat der Politik in kaiserlicher Armee, Re

ichswehr, Wehrmacht und Bundeswehr, 20

11 , S. 299ff. ( 14)   た だ し、 後 に 少 し 触 れ る が、 (一) と(三) の 問 題 が 恐 ら く 表 裏 一 体 の 関 係 に あ る と い う 点 に は 注 意 を 要 す る。 と 言 う の は、 辻 の 見 立 て を 極 め て 強 引 に ま と め れ ば、 (一) を 確 保 で き る 制 度(例 え ば 国 民 の 政 治 意 思 を 一 元 化 で き る 議 会) が あ り、 そ の 力 を 基 礎 に 成 立 し た 内 閣 で あ れ ば、 国 家 行 政 組 織 全 体 に 統 制 力 を 働 か せ 得 る の で、 そ の 分 立 的 割 拠 的 性 格 を 修 正 で き る ―― 即 ち(三) をクリアできる――というものだったからである。 ( 15)   山崎丹照『内閣制度の研究』 (高山書院・昭和一七年) 、二六七頁。 ( 16)   同上、二七六頁。 ( 17)   辻清明「山崎丹照『内閣制度の研究』 (昭和一七年) 」『国家学会雑誌』五七巻二号(昭和一八年二月) 、九八頁。 ( 18)   辻清明「戦時体制の内閣制度」 『法律時報』一六巻五号(昭和一九年五月) 、二二頁。 ( 19)   首相の強力なリーダーシップを認める戦時行政職権特例は、明治憲法における国務大臣単独輔弼制度論からの批判を惹起する 虞 が あ っ た。 山 崎 も こ の 点 に 相 当 な 注 意 を 払 い、 憲 法 上 の 疑 義 が 噴 出 し な い よ う 努 め、 「内 閣 総 理 大 臣 の 地 位 権 限 を 強 化 す る こ と は、現行内閣制度の円満なる運用上不可缺の要件と考へられる。併しながらそれはどこ迄も、国務大臣が憲法上同等の立場に於て 併 立 す る と い ふ、 帝 国 憲 法 の 原 則 の 許 容 す る 範 囲 内 で あ る こ と を 要 す る」 、 と 述 べ て い る(前 掲 山 崎『内 閣 制 度 の 研 究』 、 三 九 一 頁) 。

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   なお、元法制局長官の金森徳次郎もこの「指示」権に着目し、あくまでも《国務大臣》と《各省大臣》の区別に留意しつつ、総 理 大 臣 の 権 限 強 化 に 期 待 し て い る。 即 ち 金 森 は、 戦 時 行 政 職 権 特 例 に 現 れ た 首 相「指 示」 権 に つ き、 「内 閣 の 首 班 と し て の 所 見 を 明 に し て 行 政 の 範 囲 に 於 て 法 的 に 各 省 大 臣 の 意 思 決 定 の 内 容 を 限 定 す る も の で あ る」 と 述 べ、 「し か し 之 は 一 般 の 指 揮 命 令 の 如 く 其の無条件的服従を要請するものではない。各省大臣が国務大臣として有する意見の独自性を害することを得ざるは憲法上の要請 である。故に各省大臣は国務大臣としての所見と一致し得る場合には之に従ふべく一致し得ずと信ずる場合には之に相応する態度 を 執 る べ き こ と に な る で あ ら う」 と し て い る(金 森「決 戦 行 政 態 勢 の 進 展」 『国 策 研 究 会 週 報』 五 巻 八 号(昭 和 一 八 年 二 月) 、 六 頁) 。    両者の議論から浮かび上がるのは、戦時行政職権特例のはらむ法的問題点が憲法第五五条との整合性如何に存したという点であ る。国務大臣単独責任制度に支えられた閣員相互の均衡的関係に基づく内閣制論と、総理大臣の強力なリーダーシップを可能とす る大宰相主義的な内閣制論との間で揺れた戦前最後の事件のひとつがこの戦時行政職権特例であった。 ( 20)   前掲辻「戦時体制の内閣制度」 、二二頁。 ( 21)   「内閣の組織」 『時事新報』明治一八年一二月二四日。 ( 22)   前掲辻「戦時体制の内閣制度」 、二三頁。 ( 23)   同上、二二~二三頁。 ( 24)   『日 本 官 僚 制 の 研 究』 (弘 文 堂・ 昭 和 二 七 年) 及 び そ の 新 版 で あ る『日 本 官 僚 制 の 研 究』 (東 京 大 学 出 版 会・ 昭 和 四 四 年) 所 収。両者の差異については、新版の「新版序」を参照。ただし本稿で引用する箇所での異同はない。本稿では参照の利便を考え後 者から引用し、その際は「基因」とのみ記す。    また、 「基因」論文の初出時のタイトルは「内閣制度の樹立――当時の輿論を中心として」で、 「近代日本の成立」という特集を 組んでいる『国家学会雑誌』五八巻一号(昭和一九年一月)に掲載された。この原論文からの引用時は「樹立」とのみ記す。 ( 25)   「基因」 、六六頁。この一節は原論文「樹立」の方には見られないが、内容上、辻が戦後になってようやく発見したものとは到 底思えないし、当時何らかの禁忌に触れる一節であったとも考えられない。戦後に旧稿を見直した際、より説明を充実化すべく加

(18)

筆した一節と見て良いだろう。    なお、辻は『日本官僚制の研究』収録に際して「この論文〔 「基因」 〕については、当時の原型をなるだけそのまま留めたいとい う 筆 者 の 気 持 か ら、 加 筆 は 最 小 限 に と ど め て お い た」 と 注 記 し て い る が( 「基 因」 、 一 一 五 頁) 、 例 え ば 議 院 内 閣 制 に 関 す る 記 述 (六 〇 頁) や 統 帥 権 の 独 立 へ の 言 及(一 一 〇 頁) を 新 た に 加 え て い る 点 は、 こ の 論 文 が 何 を 問 題 と し て い た の か と い う 点 を 考 え る ならば、やはり重い意味のある加筆ではなかろうか。更に、原論文「樹立」にある「むすび」四頁分が全て削除されている事も注 意したい。しかし勿論、全体の論旨が変更された訳ではない。 ( 26)   「基因」 、八八頁。 「樹立」 、一〇四頁。 ( 27)   「基 因」 、 八 八 頁。 こ の 箇 所 も 原 論 文「樹 立」 に は な い が、 前 注 引 用 部 分 を よ り 明 確 に す べ く 言 い 換 え て い る だ け な の で、 「基 因」論文と「樹立」論文との間の内容上の変化はない。 ( 28)   辻 は、 「藩 閥 政 府 自 体 の 直 接 的 強 化 を 目 的 と す る 制 度 的 方 策」 と し て、 統 帥 権 の 独 立 を 挙 げ( 「基 因」 、 一 〇 四 頁 以 下 及 び 一一〇頁) 、「陸の長閥・海の薩閥という言葉が、いまに至るまでその跡を絶たないところからみて、統帥権の独立の実施と藩閥政 府との親和関係は決して看却されるべきことではない」 (一一〇頁)と指摘している。ただ、この箇所は原論文「樹立」にはない。 ( 29)   鳥海靖『日本近代史講義』 (東京大学出版会・昭和六三年) 、二〇九頁。 ( 30)   村瀬信一『明治立憲制と内閣』 (吉川弘文館・平成二三年) 、一五頁。 ( 31)   同上、一八頁。 ( 32)   「基因」 、一一一頁。 「樹立」 、一二〇頁。 ( 33)   前掲辻「戦時体制の内閣制度」 、二四頁。 ( 34)   同上、二五頁。 ( 35)   な お、 も う ひ と つ の 問 題、 即 ち「国 務」 「統 帥」 調 和 問 題 に 対 し て 東 條 内 閣 の 示 し た 最 後 の 答 え が、 東 條 首 相 兼 陸 相 に よ る 参 謀総長兼任になろう。兼任経緯については、稲葉和夫「資料解説」参謀本部編『杉山メモ』 (原書房・昭和四二年) 、二六頁以下、 鈴木多聞『 「終戦」の政治史』 (東京大学出版会・平成二三年) 、九頁以下を参照。

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( 36)   戦 後 の 辻 は、 「決 戦 体 制」 を 軍 部 に よ る「空 念 仏 的 標 語」 で あ っ た と、 読 む 者 を 惹 き つ け る 表 現 を 用 い て 批 判 し て い る。 辻 「割 拠 に 悩 む 統 治 構 造」 『潮 流』 四 巻 五 号(昭 和 二 四 年 五 月) 、 八 頁。 ち な み に、 前 掲 辻『日 本 官 僚 制 の 研 究』 新 版 の 序 ⅲ 頁 に は、 この「割拠に悩む統治構造」を基にしたのが『日本官僚制の研究』に収められている「日本ファッシズムの統治構造」だと記され て い る。 た だ し、 更 に 遡 れ ば、 「割 拠 に 悩 む 統 治 構 造」 の 一 部(全 体 の 約 三 分 の 一 程 度) は 前 掲 の 昭 和 一 九 年 論 文「戦 時 体 制 の 内 閣 制 度」 が 基 と な っ て い る(勿 論、 昭 和 一 九 年 に は「空 念 仏 的 標 語」 な ど と い う 言 葉 遣 い は な い) 。 そ し て 昭 和 二 四 年 論 文「割 拠 に 悩 む 統 治 構 造」 で「空 念 仏 的 標 語」 な る 批 判 的 言 辞 が 加 筆 さ れ た。 し か し そ の 後、 『日 本 官 僚 制 の 研 究』 収 録 の「日 本 フ ァ ッ シ ズムの統治構造」では、 「空念仏的標語」という表現は削られている。 ( 37)   前掲鳥海『日本近代史講義』 、二六九頁以下。 ( 38)   な お、 明 治 憲 法 下 の「国 務」 と「統 帥」 の 割 拠 と 統 合 を め ぐ る 問 題 の 一 端 に つ い て は、 拙 稿「明 治 憲 法 に お け る『国 務』 と 『統帥』 」(平成二五年度東洋大学博士学位請求論文) 。 ( 39)   こ の 辺 り の 議 論 に つ い て は、 差 し 当 た り、 飯 尾 潤『日 本 の 統 治 構 造』 (中 央 公 論 新 社・ 平 成 一 九 年) 及 び 待 鳥 聡 史『首 相 政 治 の制度分析』 (千倉書房・平成二四年)を参照。 ( 40)   明 治 国 家 の 官 僚 制 や 軍 制 を も 射 程 に 入 れ て い た 戦 中 の 辻 の 業 績 は、 ま さ し く 憲 法(国 制) ・ 憲 法 史 研 究 で あ っ た と 言 え よ う。 こ の 点 に つ き 参 照、 Ernst Rudolf Huber, Vom Sinn verfassungsgeschichtlicher Forshung und Lehre, in: ders., Bewahrung und Wandlung, 1975, S. 11 f. ま た 更 に、 昭 和 二 〇 年 八 月 以 降 を 含 め た 日 本 憲 法 史 を 考 え て い く 上 で も、 辻 の 議 論 は 大 き な 意 味 を 持 っ て い る。 こ の 点 と 関 連 し て、 明 治 憲 法 と 昭 和 憲 法 を 貫 く 言 わ ば 通 史 と し て の 日 本 憲 法 史・ 憲 法 学 説 史 研 究 の 重 要 性 を 示 す 論 考 と し て、例えば、長谷川正安「日本憲法学史を考える」 『法律時報』六五巻一号(平成五年一月)を参照。 ―あらくに   けいすけ・東洋大学大学院法学研究科博士後期課程―

参照

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