はシェリング研究から何を取り出すのか。
著者
長島 隆
雑誌名
国際哲学研究
巻
別冊11
ページ
53-64
発行年
2019-03
URL
http://doi.org/10.34428/00010767
—ガブリエルはシェリング研究から何を取り出すのか。
長島 隆
はじめに
本稿では、ガブリエルらが提起している「新実在論」がどのような意味を持っているの かをシェリング研究の側から明らかにしていきたいと思う。 いわゆる「実在論」は 1990 年代以来大きく話題になっている。「批判的実在論」1、そ して最近の「思弁的実在論」2、そしてこの「新実在論」である。この「新実在論」3につ いては、イタリアのモーリチオ・フェラーリスとガブリエルがイタリアでの議論を通じて 共感しあいながら提起したものであり、「新実在論」の名前のもとで、共通して、カント 批判を前提しながら、ドイツ観念論を大きく見直そうとしている点では共通している。 さらに、重要なのはこれらの潮流が、まさに分析哲学のドイツ観念論への介入を前提し ていることである。この点では、すでに、ストローソンのカント研究、マグダウェルとブ ランダムのへーゲル研究も挙げられるし、すでに日本でも最近では「日本ヘーゲル学会」 が特集としてのシンポジウムを組んだことは注目すべきである。だが、ここでもシェリン グと分析哲学とについては言及されていなかった。この点ではやはり日本のシェリング 研究の遅れを指摘しておかなければならない。だが、ガブリエルらの「新実在論」はまさ にこの分析哲学を学ぶところから発生していることは重要である。 ガブリエル自身シェリング研究における分析哲学の導入の代表者であるホグレーベの 後継者であり、自覚的に彼は戦後のシェリング研究史を総括しながら、自分のシェリング 研究を打ち出している。彼自身の研究史の総括は、私見によれば、彼自身の問題意識にそ くして整理すれば4、三つの時期に分けられる。まさに第 1 期、ハイデッガー、ヤスパー スらの実存主義的研究とルカーチらのマルクス主義的研究の対立、第 2 期は、1980 年代 のホグレーベ、ブーフハイム、ゾルベルガーらの研究である。そして第 3 期は、まさにガ ブリエル自身を含む現在の流れである。 ガブリエルは戦後のシェリング研究を詳細に追いながら、第 1 期のヴァルター・シュ ルツの研究(とフーアマンスの批判)に注目する。そして、ホグレーベの研究を彼自身の研 究の土台として自らのシェリング研究を展開する。ガブリエルのシェリング論の特徴は、 次の 3 点でまとめられることができよう。 まず第 1 に、彼は、ミヒャエル・トイニッセンの指摘、シェリングの後期哲学において は三つのアプローチ、つまり自我論的アプローチ(自己意識の歴史に基づくアプローチ)、人間学的アプローチ、存在神学的アプローチがあるという指摘を承認する。 第 2 に、シュルツの「消極哲学の優位」という解釈とそれにたいする批判を、「消極哲 学と積極哲学」との関係はどうなるのかという問題として確認し5、第 3 に、この解決の 方向をホグレーベの解釈を土台にして解決しようとする。 そのさい、彼は後期シェリングの「神話の哲学」及び「啓示の哲学」を対象とするが、 基本的テキストとして取り上げるのは、「神話の哲学への哲学的序論」6である。
1.ガブリエルのシェリング研究の特徴
(1)さて、ガブリエルのシェリング研究の特徴を具体的に検討しながら、明らかにし よう7。まずなによりも、「神話」とはなんであるかについて、ガブリエルは、「神話」が 「意識」の表現形態であることに注目する。だから、神話史と意識史とが重なりあう地点 に注目することになる。すなわち、古代ギリシャの哲学史の出発点で「神話から哲学へ」 と表現される地点である。ガブリエルは、この「哲学的序論」がまさに哲学史的総括であ るところに着目し、「消極哲学」と「積極哲学」とはどのようにかかわるのかというシュ ルツ以来の問題をホグレーベに基づき回答を出そうとする。 このとき、シュルツと批判者の論争からふたつの原則的な問いが生じていると考える。 第 1 に、「何がそもそも消極哲学と積極哲学とを区別するのか」(Mythos, 14)という問 いであり、第 2 トにおける優位が帰されるか」(Mythos, 14)という問いである。この問いにたいする回 答の方向を、ガブリエルはホグレーベの研究に見る。 ガブリエルによれば、ホグレーベの解釈は次のような意味を持っている。第 1 に、ホ グレーベはシェリングの後期哲学、とりわけ後期哲学の「ポテンツ論」が「述定理論」8 として読まれることを示した。そこからホグレーベはカントの「純粋理性の超越論的理 想」をシェリングが受容することを強調した。だから、「消極哲学」は「超越論的理想の 発生」(Mythos,18)を対象とする。このことから明らかになるのは、「消極哲学が接近で きる限りの世界の発生」であり、だから、「ポテンツ論」はまさにこの発生を暴き出すこ とになる。この点をシェリングの「ポテンツ論」が存在論的な原理を「元主観」、「元述語」 そして「主語と述語の元総合」として指摘していることに見ることができる。 第 2 に、ホグレーベの解釈から見ると、「積極哲学の二つの新しい考察様式」(Mythos, 19)が生じている。次のようにガブリエルは指摘している。 「積極哲学が意味の論理的-存在論的な空間を超越するのは、積極哲学が絶対的外 部を発見することによってである。他面で、あらゆる意味生成は絶対的外部を意味の 論理的-存在論的空間の内部で目指している。それはこの外部が肯定的な総体性の 有限な成立を保証することによってである。」(Mythos,19f.下線部は筆者)ガブリエルは、こうしてホグレーベの線上で、この「絶対的外部」と「肯定的総体性の 有限な成立」とを明確に二つの哲学の在り方の対象として理解する。だから、この「絶対 的外部」は、有限者にとっては(消極哲学にとっては)到達できない世界であり、カントの 「超越論的理想」を意味することになる。そのため、ガブリエルは、まさに『神話におけ る人間』(以下『神話論』と略記する)の第 1 部の第 5 節、第 6 節で、カントの「超越論的 理想」を取り扱い、「ポテンツ論」の分析を行う。ポテンツは有限者の階層化された存在 論である。 この「絶対的外部」こそが、ガブリエルから見れば、シェリングの「太古のもの(思惟 以前の存在 das Unvordenkliche)」である。ガブリエルはこれを哲学史的に遡及し、存 在神学=神の存在論的証明を核におく神学から解釈しなおす。すなわち、パルメニデス以 来の「思惟-存在の同一性」の展開ととらえる。その限り、シェリングの後期哲学はまさ に近代哲学の基本的な方向を意味することになる。これが、ガブリエルが「神話の哲学へ の哲学的序論」を基本テキストにして後期シェリングを解釈する理由でもある。 この点がまさしく第 4 節で「汎神論的存在としての近代存在神学の実在的存在」を取 り扱い、この存在神学がシェリングに与えたものを浮かび上がらせる。まず第 1 に、シ ェリングは、「神話過程」が現実性を浮かび上がらせ、継起的多神論として展開する。つ まり「神話的意識は神的内容によって媒介されて世界を表象する」(Mythos, 57)。だか ら、現実性は神話の形態の順番が神の階層順序として現れることになる。神話過程とは 「宗教的意識」の歴史であり、この「宗教的意識」が「反省」を媒介にして生じている。 それが、古代ギリシャの神話過程の完成を意味し、その全体を意識の対象として、向かい 合うのがソクラテスであるとする。 「人間は対象をそのつど与えられた諸対象を超出する連関の一部として理解する限 りでの対象を持っている。所与を超えて一切が立っている最後の連関に上昇するこ とは一般化されれば、世界あるいは現実性全体の概念が獲得される」(61)。 この「超出」こそが問題であり、それによってはじめて有限者の全体を意識の対象にで きるのである。「超越」という問題が登場する。現実性は、すでに神話として「神話過程」 において形成されている。その全体が完成されたときにソクラテスが登場し、この「神話 過程」を純粋意識の対象として意識のうちに確立することになる。これが第 1 点である。 第 2 に、「宗教はおそくともソクラテス以前の哲学者以来、いつも哲学的に神、神々、 正確に言えば、神的なものが何であるかについて語られる神学をともないながら登場す る」(56)。さきに述べた「神話過程」と「意識過程」とは、時間的な序列を持っていない。 むしろ同時並行的な過程である。ガブリエルは「ホメロスとヘシオドス」とを、第 17 節 で取り扱い、ヘシオドスを「最初の哲学者」として理解する。つまり、神話過程と意識過
程とはまさに前者が現実性の形成プロセスであり、意識過程はそれを有限者の世界に定 立する過程であると考える(存在定立的過程)。これが消極哲学側から見るならば、「超越」 の問題性が生じていると考える。 現実性とは理念であり、神が「存在者であること」である。この「存在者」は連関して おり、この「全体連関」が形成されているのである。だから、この全体性の理念は、つね に「全体としての世界」に手を伸ばして捉えることができるものである。そして「人間的 な超越」の努力を指導することになる。こうして人間はつねに「唯一の存在者」であり、 「この存在者に与えられているものを超えていること」(79)において意味がある。だから、 「消極哲学」はこの理念へと「超出」して自己のうちで体系化することが課題であること になる。「消極哲学の課題はシェリングによれば、理念の展開をその規定へと跡づけする ことにその本質がある」(80)。 (2)このような存在論的な理解の方向をホグレーベから継承しながら、ガブリエルは もう一度「自己意識の歴史」論に、つまり超越論哲学の試みに戻って(トイニッセンが指 摘した「自我論的アプローチ」が浮かび上がってくる)意識論とこの存在論の媒介を試み る。まさに『神話論』の第 3 部がそれを示している。ホグレーベをガブリエルが高く評価 するのは、「述定」の問題である。むしろホグレーベの「述定」理論にそくして議論を展 開しているように見える。まさに彼がカントの「超越論的理想」を第 1 部第5節で取り 上げるのも、ホグレーベ自身が取り上げているのであるから9。シェリングにそくしてみ れば、「個体化」の問題にかかわっている。 述定はまさに主語が述語によって規定されることによって、存在として定立されるこ とを意味している。つまりここにはまず第 1 に、述定に先立って「存在」があることであ る。第 2 に、述定はこの存在を思惟の次元へと取り込み、概念として定立することを意 味する。だから、ホグレーベはシェリングの試みをカントとアリストテレスの交差として 指摘する10。つまり、ホグレーベはまさにこの述定に先立つ「存在」とは個別化されてい ない全体性であり、存在者の全体を意味していると考える。だから、存在者は「存在」の ネットにおいて立ち現れることになると考える11。これがホグレーベによれば、「あらゆ る可能的なものの総括」、「物一般のあらゆる述語の総括」というカントの解釈はまさにこ のネットのことである。これが普遍的索引(Universalregister)であるとされる12。 さらに、シェリングの思想展開において、ホグレーベは、まさにフィヒテ的自我と対立 し、かつデカルト的自我からの決別を見ることになる。すなわち「認識主観」=自我=人 間ではなく、宇宙そのものである。シェリングはまさにこの宇宙そのものが自己認識する 過程として捉える。だから、人間認識はまさにこの過程の一契機となる。しかも重要なの は、ホグレーベによれば、シェリングがこの可能的なものを事実的な、空間-時間的に存 在するものの活動空間に限定することである。つまり、「有機的なもの」、「非有機的なも の」、「動物」、「植物」である。これはまさに自我の存在論的在り方としての身体を超え、
存在の可能性が拡張されることを意味している。しかもこの領域は「存在」としてその全 体において統一されている在り方をしている。だがこの可能性は、「有限者」の領域にお いて「存在者」として展開されている在り方である。その限り、これは「進化論的な在り 方」13であり、これが階層順序として「ポテンツ論」として展開されることを意味してい る。これが「宇宙論的過程」として成立することになる。この過程は「可能的なもの」が 有限者として成立すれば、そこから可能的なものは汲み尽されることがなく、根源的な可 能性ではない。まさにこれがカントの言う「超越論理想」である。
2.「太古のもの(das Unvordenkliche)」の位置
(1)宇宙論的過程と「世界」とは区別されなければならない。この「世界」が「太古 の存在」であるとされる。ガブリエルの「太古の存在」についての言明を引用する。 「もちろんシェリングが人間の存在を結局存在神学的に思惟する。というのも、彼 が人間を観念論的に全体の存在の自己還帰という運動から理解するから。しかも、自 己に還帰するのが理念ではなく、『太古の存在(思惟以前の存在)』あるいは意識その ものの形式において自らを認識する全体の事実性であることである」(Mythos, 11)。 まさにここでシェリングの「太古の存在」、「太古のもの」とカントの理念との区別が述 べられている。消極哲学からいえば、自己意識を超えた存在こそが「超越論的理想」であ り、それが存在論的に理解されていることがカントの意義である14。シェリングはさらに、 それを存在の側から展開しようとしている。それが「太古の存在」の位置づけになる。 シェリングは、先にホグレーベが指摘したように、可能的なものを事実的に限定された 論理空間に限定する。これが、宇宙論的過程である。だから、この宇宙論的過程が事実的 な過程として、有限者の領域に生起している。存在者が成立し、この限り、消極哲学はこ の過程を認識し叙述することができる。これがポテンツ論である。これはまさに理性が捉 えようとする「論理的空間」であり、シェリングはまさにこの論理的空間の媒介から「絶 対的外部」を推論することを課題としている15。 このポテンツ論において重要であるのは、まさにホグレーベが指摘した「可能的なも の」が根源的な可能性ではないことである。むしろ一時的、暫定的な「存在者」が定立さ れることである。だからこの「暫定的な可能性」にしたがって、宇宙論的過程は自然の展 開として、その必然的な展開を行うことになる。つまり宇宙論的過程において、有限者、 存在者として可能的なものが現実に成立するとき、この有限者、存在者は自らの可能性を 実現すべく運動する。この運動が宇宙論的過程の必然的な連鎖を作る。しかも「暫定的な 可能性」であるがゆえに、この宇宙論的過程は、無限に続かざるをえない。ヘーゲル的に 言えば、宇宙論的過程は「悪無限」の世界であることになる。ここにポテンツ論の意義がある。 だから重要なのは、まさに「自己に還帰する」運動としてこの自然過程は捉えられなけ ればならないことである。すでに指摘したように、「自己還帰」の自己は、デカルト、フ ィヒテ的な自我ではなく16、シェリングにとって「太古の存在」である。だから、この自 然過程で生み出された「人間」の自己意識には常に「外部」が存在しなければならないこ とになる。この「自己意識」はまさに派生的な存在様式(「意識された-存在(Bewußt-Sein)」 (Mythos, 368)17)を示している。これを可能にしているのが「太古の存在」であること になる。 (2)「自己意識の歴史」と「宇宙論的過程」 だから、人間の「自己意識」は自己の外に「過去」として、自己の存在論的な形成とし てその運動として「記念碑」として、その宇宙論的過程の全体が存在することになる。そ こから述定(述語化、存在定立)と「想起」という問題が登場することになる。 ガブリエルはシェリングをフィヒテから区別して、シェリングが自我を「すべての自己 関係と対象関係の基礎である」ことを認めながら、この限りではフィヒテと一致している のだが、この「主観-客観」の自己意識の反省モデルを自己意識の「産出モデル」として 展開しようとするところにシェリングの固有性を見る。そしてガブリエルによれば、シェ リングは「可能的な(そして現実的な)諸表象の全体、あるいは世界を自我の弁証法から導 出しようとする」(Mythos, 390)。そして「世界を諸関係の体系的関係として導出しよう とする」(ibd.)。これによってシェリングは主観的主観-客観から客観的主観-客観から芸 術作品にいたるまで、「絶対的同一性」を捉えようとするが、しかし、超越論哲学はまさ に「主観-客観」という意識の二元性のもとにあり、自己意識においてこの二元性を廃棄 することが課題となるが、どの段階でもこの課題は達成できず、「絶対的同一性は必然的 になお知的直観における意識の自己把捉から逃れる」(Mythos,378)ことになる。 だから、シェリングにとっては、知は自我の自己関係として捉えられるのだが、それは 「自己客観化」として捉えられることになる。だが、このとき、ガブリエルは活動として の自我が、自らが「世界内容」ではないことを意味しており、そのために「世界一般の構 成が認識的にどのように透明になりうるかにたいする反省」(Mythos, 385)が必要であ ると指摘する。そして実際、シェリング自身この点は自覚しており、知的直観を「生産的 直観」として規定し、この世界内容を生み出すことを指摘する。まさに自我こそが「世界」 の発生点であるとされることになる。だが、この背後に「世界一般の構成」がわれわれに とって「基本的差別を通じていつもすでに背後に存在する」と指摘されることになる。 だからこの「超越論的観念論の体系」の試みは、結局のところ「絶対的同一性」の把捉 不可能という結論に到達している。 「自分自身にとって客観的になろうとする無限な活動性は、したがって、必然的に<
無限に進行する非客観的なもの>であり続ける。したがって、自我の自己を知る自己 動させられる」 だが、まさにこの挫折を引き起こすものこそ、外部である。「外部」はまさに「絶対的 外部」としてそれ自身でこの自己式の歴史の過程と媒介されなければならない。だから、 知的直観という自己の内容の創造活動そのものも、客観性を獲得しなければならず、それ は客観化された神話として登場しなければならない。 (3)神話的過程は自己意識の歴史の自己還帰、すなわち自己客観化を意味することに なる。ギリシャ時代のソクラテス-プラトンの「神話化」という問題もまたこの点から捉 え返されなければならない。それは神話への「背進」ではなく、「哲学する理性そのもの の歴史性を哲学的に把捉する試み」(Mythos, 445)であるとガブリエルは指摘する。 そのため、ここで神話過程と哲学史的過程との区別とその媒介が問題になるが、哲学史 的過程が自己意識の歴史という自己還帰の構造をもつわけであり、神話過程と媒介され ることによってその内容を充実させることになる。 加えて重要なのはこの両者にとって「太古の存在」は「絶対的外部」を意味しており、 この「絶対的外部」が神話過程へと媒介されることはそれ自身としてはあり得ないとされ ていることにガブリエルは注目する。 「太古の存在から理念への移行はまず初めて、移行に負っている理念によって動機 づけられていることができない。この思想の型はすでに、シェリングの初期哲学にお いて見出される。この初期哲学において、何故そもそも無限者から有限者への移行が 存在するかという問いが中心的な意義を持っている。そこここで、シェリングは媒介 の根拠がないことに痕跡で至るために、問いの力動学が入ってくる。」(Mythos, 446) あくまでも「太古の存在」が「超越論的理想」へと現実化することは、「超越論的理想」 の側にはない。少なくとも消極哲学の側からこの「絶対的外部」を捉えようとするとき、 理性はぎりぎりの点で自分の外部があることを指摘できるけれども、それを捉えること ができないのである。だから理性から見れば、この媒介の根拠は存在しないと言わねばな らないだろう。シェリングはかつて「無限者から有限者への移行」を否定した(1795 年の 「書簡」論文)。このことが後期にいたるまで継承されている。 そうすると、この「太古の存在」そのものは、「絶対的外部」であり、「積極哲学」の課 題は、この「媒介の根拠がないこと」によって制約されていることになる。消極哲学はま さに意識の側から論理的にこの「太古のもの」にいたろうと努力するが、しかしそれは挫 折せざるをえない18。
「超越的存在と超越的絶対的精神とは理性のうちでもそれらがまた理性の出発点の 潜勢力(太古の存在)として、ないしはその目的としても示されるとき絶対的に理性の 外部にある。」(Mythos, 482) だが、まさに「太古の存在」はあらゆる現実性の可能性の絶対的な根拠であるとシェリ ングは捉えていることになる。
3.「新実在論」-述定存在論の展開
さて、ガブリエルがこの点から「世界は存在しない」ということを主張する。そこに「新 実在論」の問題提起は始まる。存在するのはまさに「述定」によって存在定立された個別 的存在だけである。 だが、自然科学は宇宙という全体概念を提起している。しかし、これは自然過程の総体 性を意味するものでしかなく、「宇宙」と「世界」とは区別されなければならない。ガブ リエルは「意味の場」としてこの「世界」を考える。だから、ガブリエルは自らの提唱す る「新実在論」を次の二つにまとめている(Warum, 169)19。 第 1 に、「わたしたちはものおよび事実それ自体を認識することができる」こと。第 2 に、「ものおよび事実それ自体は唯一の対象領域にだけ属するわけではない」ことである。 そこから、彼は「新実在論」を「意味の場の存在論」と称する。これは「私たちが認識す るいっさいのものは、それぞれ何らかの意味の場に現象する主張」であるという。 ガブリエルは、この「意味の場の存在論」を事実性にもとづいて議論することだと指摘 する。まさに「新実在論」=「意味の存在論」が主張するのは、現象と本質、あるいは現 象と物自体のような区別はなく、物自体も現象もまた事実であるということである。だか ら、「真である認識はいずれのものそれ自体(あるいは事実それ自体)の認識である」 (Warum,175f.)。 この事実性こそが問題であり、「事実性にもとづいて議論する」(Warum, 186)ことが、 「新実在論」が提起することである。この事実性は「およそなにかが存在している状態」 (Warum,ibid)である。この事実性にもとづいて議論することによって、「理性の実在 論」(Warum, 189)にいたると主張される。 この「事実」は「所与性」であるが、われわれの意識によって生み出されたものではな く、われわれに与えられたものである。ガブリエルはまさに理性に基づき、これらの事実 を認識していくことを主張することになる20。構築主義が主張するように、何かわれわれ (の意識)によって生み出されたものだけが事実ではなく、シェリングが主張するように、 むしろ「生み出すもの」は「外部」にある。理性に基づきこれらの事実の存する秩序を取 り出すことこそが課題となる。その限り、ガブリエルは自ら批判する構築主義の「構築された事実」を認めると同時に 「構築されていない事実」をも認めることを強調する。すなわち、主観-客観の相関にお いて成立する事実ではなく、客観の側の事実とそれを認識している主観の事実とが存在 することを指摘する。だから「事実性は避けられない」(Warum, 190)。「それゆえ新し い実在論は、およそ存在するものを予断なく探求するように主張します」(Warum,ibid.) このような事実性の理解は、まさにシェリングが指摘する事実性でもある。すでに指摘 したように、「絶対的外部」から定立された有限者の在り方こそがこの事実性である。少 なくとも「述定」によって存在定立された存在者に先立つ存在の在り方を、われわれは、 それを捉えることができないとしても、確認することになる。 シェリングが事実性を強調するのも、まさに存在者がこの「絶対的外部」から定立され るプロセスについてわれわれが捉えることができない、「媒介の根拠がない」がゆえに、 宇宙論的過程の総体的に自律した必然性を見るとともの底に偶然性をも見ることになっ たことがガブリエルの「新実在論」の提起の根底にあるだろう。そこでは西洋哲学史を貫 通する「述定」そのもの(ホグレーベの解釈に示唆を受けたガブリエルの理解)の意味が あることを「新実在論」は強く主張する。その限り、ガブリエルの「新実在論」の主張は まさに西洋の哲学的営みの正統に属するのではないだろうか。そのことを強く感じさせ る提起であると言えるだろう。
おわりに
まさにガブリエルの提起する「新実在論」は、この「太古のもの」という有限者の領域 を超えたところに、有限者の側に定位するときに「超越」の問題を提起している。われわ れは、この有限者の領域に定位しつづけなければならない。シェリングは若いころから、 「存在と思惟の合致」を主張し、自然哲学と超越論哲学においても「絶対的同一性」を主 張した。自我を超えた絶対的な存在が問題であった。 ガブリエルが『神話論』で明らかにしたのは、この「絶対的存在」がまさに自我の外部 の存在であり、それが自我論的には捉えることができないこと、だがまさに我々は有限な 存在である人間として、シェリングが言う「永遠の自由」を担う存在として、自己を超出 せざるをえない。理性に基づいて存在者の事実性を考察することもまたこの超出の前提 であることになるだろう。「新実在論」において事実性を強調することは、まさにシェリ ングと同一の線上にあると言えるのではないか。註
1 「批判的実在論」については、以下のものを参照されたい。ロイ・バスカー『弁証法. 自由の脈動』(式部信訳)、作品社、2015 年。同『科学と実在論.超越論的実在論と経験 主義の批判』(式部信訳)、法政大学出版局、2009 年。バース・ダナーマーク他『社会 を説明する.批判的実在論による社会科学論』(佐藤春吉監訳)、ナカニシヤ出版、2015 年。 2 「思弁的実在論」については、次のものを参照されたい。カンタン・メイヤスー『有 限性の後で.偶然性と必然性の後で』(千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳)、人文書院、 2016 年。Levi Bryant/Nick Srnicek/Graham Harman(ed.), The Speculative Turn.Continental Materialism and Realism, re.press Melbourne, 2011.
3 「新実在論」については、以下のものを参照されたい。Morizio Ferraris, Manifest
des Neuen Realismus, 2014; ders.,Manifesto of New Realism, New York: Suny Press;
Gabriel,Markus(Hrsg.): Der Neue Realismus, Berlin: Suhrkampf, 2014.また邦訳では 以下のものを参照。マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩 訳)、講談社、2018 年。くわえて、丸山俊一『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲 学する』NHK 出版新書、2018 年 4 このとき、一般的な研究史的には、19 世紀末のエドゥアルト・エルトマンに言及して いるが、これはまさにシェリング研究の 1970 年頃までの通説的な研究をなしている。 また 70 年代以来のマンフレート・フランクらの研究にも着目している。だが、本稿の 文脈ではこれらの研究についてのガブリエルの見解は度外視している。また拙稿 「Weltalter の研究動向とマルクス・ガブリエルのシェリング研究」『国際哲学研究』 別冊5(哲学と宗教-シェリング Weltalter を基盤として)、2014 年 10 月、142-160 ペ ージ。
5 Gabriel, Markus, Der Mensch im Mythos. Untersuchungen über Ontotheologie,
Anthropologie und Selbstbewußtseinsgeschichte in Schellings Philosphie der Mythologie. Berlin/New York, 2006.S.14. 以下では Mythos と略記し、ページ数だけ
を記す。
6 「神話の哲学」へは二つの序論がつけられた。第 1 部の序論は第 1 講義から第 10 講義
までで「歴史-批判的序論」(SW XI,3-252/Hb.6,5-254)であり、第 2 部の序論が第 11 講 義から第 24 講義までであり、「神話の哲学への哲学的序論あるいは純粋合理主義哲学 の叙述(Philosophische Einleitung in die Philosophie der Mythologie oder Darstellung der Reinrationalen Philosophie)」(SW XI, 255-572/Hb.5,437-754)であ る。なおこれは手稿として残されたものであり、第 1 部にかんしては何度か講義が行 われたが、これを全体として講義の形で編集された。
7 現在のところガブリエルの「神話論」の最も包括的な紹介は次のものであろう。中島
プローチ」『ヘーゲル哲学研究』第 24 号、2018 年、121-134 ページ。
8 ガブリエルがホグレーベの「述定理論」をさらに展開しているのは次のものである。
マルクス・ガブリエル「シェリング『世界年代』の述定存在論」(小野純一訳)、『国際 哲学研究』別冊 5、2014 年 10 月、25-39 ページ。
9 Hogrebe, Wolfram, Prädikation und Gesesis. Metaphysik als Fundamentalheuristik
im Ausgang von Schellings >>Die Weltalter<<, FaM: Suhrkamp, 1989,S.51-70.
10 Ibid.,S.70. 11 ガブリエルは、『神話論』の標語として「まえがき」の前にある扉ページで「全体とし ての世界はいわば理性においてとらわれている。しかし問題は、どのようにしてこの 全体世界はこのネットにいたるのか」というシェリングの言葉を書いている。 12 Ibid., S.60. 13 Ibid.,S.67. 14 ガブリエルは、このようなカントの「超越論的理想」のシェリングにたいする意味を 浮かび上がらせたホグレーベの意義を次のように強調している。「ホグレーベはなかん ずくシェリングが純粋理性の超越論的理想についてのカントの教説を受容することの 意味を強調する。なぜなら、超越論的理想においてシェリングは全実在(omnitudo realitatis)の世俗化した(硬直化された)把握を、すなわち一般に存在しうるものすべて の全体を把握することを認識するから」(Mythos, )。 15 Ibd., 145. 16 一言注意しておきたいのは、シェリングがフィヒテ、デカルトを否定するのではなく 批判していることである。そしてガブリエルもまたソクラテスを含め、これらの人の 営みの核心において「懐疑」を見ており、哲学の核心においてこの「懐疑」があるこ とを見ていることである。だから、あまり見られていないようだが、『神話論』のあと にガブリエルには次のような著書があることは重要である。Gabriel, Markus:
Skeptizismus und Idealismus in der Antike, Berlin:Suhrkamp,2009; ders.(hrsg), Skeptizismus und Metaphysik, Berlin・New York:Walter de Gruyter, 2012; ders., Antike und moderne Skepsis zur Einführung, Hamburg: Junius Verlag, 2009.
17 ガブリエルは次のように言う。「この存在論的原理は自然哲学的に霊魂として現れ、こ の霊魂はそのものとして霊魂の個体性の遠近法的な屈折において霊魂のつねにすでに 生じた自分に向かうことに基づいて霊魂にたいして現象する存在者の全体に関係して いる」(Mythos, ibid.)。 18 「太古のもの」については「積極哲学のもう一つの演繹」において集中的に取り組ま れるけれども、この論文はまさに消極哲学が捉えることができないもの(「太古のも の」)に定位してどのようにそれが現実性として現れ得るかというシミュレーションで ある。また最後の自然哲学にかんする著作ともいえる「自然過程の叙述」もまた同様
の「論理空間」の成立のプロセスを解明しようとするシミュレーションであると言え るだろう。 19 以下マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)講談社、2018 年からの引用については、Warum と略し、邦訳ページ数のみ記す。 20 この点で、ガブリエルは「事実」をまずその複雑性において肯定することを主張する ことになる。つまり、事実として丸山俊一前掲書、第 1 章を参照されたい。