吉野作造とキリスト教の影響(5)
著者名(日)
松岡 八郎
雑誌名
東洋法学
巻
38
号
1
ページ
1-32
発行年
1994-09-10
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000539/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja吉野作造とキリスト教の影響
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岡
八
郎
七 海老名弾正は、前述のように、神戸教会牧師を辞して、明治三〇年︵一八九七年︶一〇月、教勢著しく不振であっ た首都・東京において伝道すべく、神戸より家族を引き連れて上京した。この伝道は、当初の計画としては、押川正 義、横井時雄との三人が教派の名を離れて協力して行う予定であったが、押川が仙台の東北学院を離れることができ ︵−︶ ず、また横井も京都の同志社総長に就任することとなったため、結局、海老名一人の伝道となった。 この結果、海老名は横井が牧していた本郷教会を受け継ぐことになったが、だが元来、この教会は特殊の教会とし て、横井を中心として成立していたため、その同志社総長就任にともない、解散と決定して、教会員の多くがこの教 会から離れ、残ったのは一〇余名にすぎず、また資金も乏しかった。したがって、このような教会を受け継いだ海老 ︵2V 名の東京伝道は、初めからきわめて困難な状況にあった。 東 洋 法 学 一吉野作造とキリスト教の影響㈲ 二 しかし、海老名の熱誠あふれる説教により、また押川や巌本善次が時おり説教を応援してくれたことにより、同じ ︵3︶ 年内には日曜礼拝は一五〇名ほどの参会者が集まるようになり、人員数から言えば﹁東京第一﹂となった。翌明治三 一年︵一八九八年︶も新年から日曜礼拝者が増え続けて、三〇〇名ほどに達し、伝道活動はますます盛んとなってい ったが、同年三月二〇日には本郷の大火により、類焼して教会堂が全焼してしまった。このような災難にもめげず、 伝道活動は一層続けられ、殊に学生が多数参加して、教会は活気にあふれ、教勢が非常に盛り上がっていったのであ ︵4︶ る。 ︵5︶ やがて、明治三三年︵一九〇〇年︶七月には、海老名を主幹とする﹁新人﹂が創刊されて、海老名の雑誌がでたと いうことにより、相当反響もあったが、第四号︵明治三三年く一九〇〇年V一〇月発行︶まではなかなか思うように 発行することができず、すぐ廃刊してしまうのではないかと危ぶまれた。しかし、三沢糾︵熊本第五高等学校出身、 東大生︶が熱心に編集に参加し、その三沢の勧誘によって、さらに内ケ崎作三郎、吉野作造、栗原基、小山東助︵い ずれも仙台第二高等学校出身、東大生︶らが本郷教会に参加するとともに、その編集にも協力して、第五号︵明治三 ︵6︶ 三年︿一九〇〇年﹀一一月発行︶からは全く面目を一新するにいたった。 吉野は、﹁新人﹂が創刊された同じ年の九月、東大に入学し、その直後は小石川柳町の日本浸礼教会に通っていた が、前述のように、三沢の熱心な勧誘によって本郷教会に参加し、海老名の﹁霊感溢る・説教﹂を聴くとともに、ま ︵7︶ たその説教を筆記して、﹁新人﹂に掲載する仕事を通しても、海老名の影響を直接受けることとなった。 こうして海老名と吉野との直接的接触が始まることになったが、丁度そのころ、二〇世紀を迎えるに当たって、福
︵8V 音同盟会本部による﹁二〇世紀大挙伝道﹂が実施され始めていた。すでに述べたように、明治二〇年代以来、新神学 が盛んに論議され、特に日本組合基督教会においては信仰上の動揺を起こすものが多く、この大挙伝道が行われよう としていた時にも、プロテスタント・キリスト教界は正統主義を固執するものと新神学によってこれを批判するもの ︵9︶ とが混在していた。また明治憲法の制定および教育勅語の発布、﹁教育と宗教の衝突﹂論争、日清戦争の勝利と三国干 渉などの状況のもとで、国家主義あるいは国粋主義が台頭して、キリスト教の教勢が一般に著しく衰退の傾向にあり、 このような内部の信仰上の動揺と外部からの社会的、政治的、思想的圧迫のもとで、特に明治二〇年代後半からのキ リスト教の衰微と不振はどん底の状態にあった。そこで、このような状態を挽回する方策として、二〇世紀を迎える に当たり、﹁二〇世紀大挙伝道﹂というキャンペーンを打ち出され、新しい信徒の獲得を目指して、この伝道活動が実 ︵−o︶ 施されることになった。 このようにして大挙伝道が実施され始めると、この伝道活動は東京、大阪、神戸を始め各地において高揚し、大き ︵11︶ な成果を収めることができたが、明治三四年︵一九〇一年︶四月二一日、東京、美土代町青年会館における神田、本 郷、小石川、牛込四区の大挙伝道教師会で、保守的信仰をもつ牧師たちが新神学的傾向をもっていた海老名を大挙伝 ︵12︶ 道から除外すると言い出したため、海老名はみずから伝道活動をするとして活動をともにしなかった。 こうした状況のもとで、この大挙伝道に当たっての福音の理解をめぐって、同年九月一一日より翌明治三五年︵一 ︵13︶ ︵14︶ 九〇二年︶七月二四日までの約一〇カ月にわたり、﹁福音新報﹂による植村正久と﹁新人﹂による海老名との間で有名 ︵15︶ な神学論争︵キリスト論論争あるいは福音主義論争とも呼ばれている︶が展開されるにいたった。この論争によって 東 洋 法 学 三
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 四 海老名はキリスト教界において一層名を知られることとなり、﹁何と言ひても日本耶蘇教会の大立者は植村正久君と海 ︵16︶ 老名弾正君なり﹂と言われるまでになった。 いまここで、この論争の詳細について述べることは到底できないが、ここでは、この論争における海老名の主張が そのころ1東京伝道に着手して四年後、﹁新人﹂発刊後一年余りのころ のかれの思考方法と信仰および思想をも っともよく表現していると考えられることからして、その主張を中心としてこの論争を考察してみたいと思う。なお また、この論争に現われたその主張こそが、その当時の吉野作造︵東大の二年生となり、後述するように、終生の恩 師小野塚喜平次教授からようやく政治学の講義を聴くようになった︶に直接深く影響を及ぼしたのではないかとも考 えられる。 論争の切っ掛けはまず植村から始められた。明治三四年︵一九〇一年︶九月一一日発行の﹁福音新報﹂には﹁福音 ︵17︶ 同盟会と大挙伝道﹂と題する論説が掲載され、その論説において、﹁福音同盟会が大挙伝道に海老名を弁士からおろし たのはけっして妥当ではない、不都合千万だといっている。というのはがんらい福音同盟会は全国キリスト信徒の親 睦の機関なのである。であるから福音同盟会はそうした親睦的活動をするのはよいとして、﹃伝道の事業﹄には不向き である。そもそも福音主義について規定するところなくあいまいにしているのであるから、いざ伝道事業をするとな ると﹃基督教の超自然的要素を否定し、其の復活を信ぜず、唯だ之を道徳上の模範、古今の大教師と為す位の程度に あるもの︵海老名弾正の神学思想を指す︶も悉く之を受け容れて、共に伝道せざるを得ず。﹄福音同盟会の伝道は大変 なことである。ところで自分︵植村ー筆者注︶はあくまで﹃神人となりて世に下り、十字架に死して人の罪を購ひた
るを信ず。而して余輩︵植村−筆者注︶の信ずる耶蘇基督は活ける神のひとり子にして、人類の祈りを受け、礼拝を 受くべきものなり。基督は人類より此の上無き崇敬と愛とを受くべきものなり﹄。これが自分の信仰であり、伝道しよ ︵18︶ うとするところだ﹂と述べて、植村はその福音主義信仰を明らかに主張している。 したがって、植村は、﹁此の信仰を主張し、此の信仰を人に伝ふるを以て主義とするは余輩の伝道なり。﹂とし、﹁福 音同盟会は此点に就きて確かなる立場に居らず。﹂とも述べて、福音同盟会には福音についての考えが異なるものが混 ︵19︶ 在しており、﹁此の故に余輩は断言す、福音同盟会は伝道の機関たるに適せざるものなりと。﹂主張したのであるが、 ︵20︶ この主張の背後では、当時、東京において非常に注目される牧師となっていた海老名に対抗し、その信仰が福音主義 信仰と異なる新神学的傾向をもつものであることを間接的に批判したと言ってよいであろう。 このような植村の主張に対して、同年一〇月一日発行の﹁新人﹂に海老名は﹁福音新報記者︵植村を指すー筆者注︶ ︵21︶ に与ふるの書﹂を発表して、植村の前記の論文に﹁神 人となりて世に下り﹂とあるのはいかなることであるかと神 ︵22︶ 学論争をいどんだのであった。ここに両者の間で論争が始まり、その後相互に幾度かの応酬が展開されたが、海老名 ︵23︶ は、翌明治三五年︵一九〇二年︶一月一日発行の﹁新人﹂に﹁三位一体の教義と予が宗教的意識﹂と題する論説を掲 げ、自己の思考方法と信仰および思想を明確に示すにいたったのである。 そこで、この論説における主張を通して、当時の思考方法と信仰および思想を明らかにしてみたいと思うが、ここ では、特に吉野に強い影響を与えたと思われる二つの間題について考察してみたいと思う。第一は、この論説を書い た思考方法の問題であり、第二は、この論説でも述べられている宗教的意識、すなわちその貴重な体験にもとづく﹁神 東 洋 法 学 五
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 六 子の意識の宗教﹂についてである。 第一の問題については、この論説の﹁予が研究の順序﹂という﹁節﹂において、つぎのように述べている。 ﹁予が基督教信者となりし当時より、三位一体の教義が念頭に浮ぶごとに未だ曽て一種言ふべからざる苦痛を感じ ないことはなかった。予が微なる智力は此教義を解せんが為にあらゆる考慮を用ひ壼して窮境に陥ったこと屡であっ た。固より神聖にして犯すべからざる教義として継承し来った所の信條であれば、之を尊重したこと限りなく、若し も一点の疑雲を起すことあらば、不信不敬の罪として之を打消し去ったことも度々であった。予は眼病に悩まされて
し
多くの書を渉猟するの便を持たなかったが、まんざら大家の議論を聞かなかったでもない。予は独逸のドルノルが近 世の神学大家として大に三位一体論を主張した所の人であるとき・最も彼れの著書に思いを凝らし、彼れの大著であ るキリスト論発達史の如きは実に再三繰返して之を玩味して見たのであったが、其史たるや実に紛々擾々の宗論史に 外ならないことを知った。其書に由って予はキリスト論の如き、三位一体論の如きは古来明確なる定論なきを知り得 たばかりであった。唯其議論が深遠なる宗教的意識を解せんが為に討究せられたものであって、今の神学校などで乾々 論及するが如きとは雲泥の別あることを知ったのは予が本書の著者に謝する所である。予は又三位一体論に興味を有 したる、否天地万有を三動機を以て説明し蓋さんと、試みた大哲ヘエゲルにも其教を乞ふた。其議論固より深遠で、 有益なる教を受けた所のもの二三にして墨きず、予は彼れの弟子たるを栄とするものである。けれども三位一体の教 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 義は彼れに由っても尚解することは出来なかったのである。ア・予は重荷を負うて疲れた、しかし予が心の苦闘は尚 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ の の の む の の む の の 止まなかった。此時恰もキリスト彼れ自身の秘訣を知らんと欲するの情切にして禁じがたく、予が宗教的意識は本来の の ロ む の の の の の の の の の の の の の の の の の の の ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 彼を信じて得たものであるから、復彼れ自身の解繹を聞んと欲した。凡て疲れたる者、重きを負へる者は我れに来れ、 の の の の の の の の の の の の む む む ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ の の の 来れ我れは柔和にして心謙れるものなれば我について倣へとの言は実に予が祈願に適応する所の聲であった。我れは の の む の ロ の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の む の の の 柔和にして謙遜れるものなれば我れに就いて学べとの言は殊に予をして彼れに親むの情を深かちしめたのである。予 ● ● ● ● 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、︵25︶ が宗教的意識はキリストに由て始めて発生したのであるが、其解繹も亦キリストに由て確定することを得た。﹂ 右の文章においてみることができるように、海老名は、キリスト論や三位一体論の伝統的教理を弁護する意図をも たず、かれにとってキリスト教の本質とは教理や信条ではなく、その宗教的意識はキリスト自身から直接見い出した ものであるとしており、明らかに新神学的傾向をもつ自由にして合理的なキリスト教であることを示している。また 三位一体論の教義をへーゲルの理論によって解明しようと努め、果すことができなかったが、だが、﹁予は彼れの弟子 たるを栄とするものである。﹂と述べていることからも明らかなように、海老名の思考方法は、へーゲルの歴史を発展 ︵26︶ 的に把握しようとする弁証法の影響を強く受けたことは間違いのないところであろう。 このように海老名の思考方法は、新神学的傾向をもつ自由にして合理的なものであり、またへーゲルの影響による 歴史主義的思考がその特徴であり、このような思考方法は後述するように、吉野に影響を与えたのである。 前述のように、海老名の宗教的意識はキリスト自身から直接生み出したものであるが、それでは、その宗教的意識 とはどのようなものであったか。ここに第二の問題が生まれることになる。このことについては、この論説の﹁耶蘇 基督と予が宗教的意識﹂という﹁節﹂において、その過去の貴重な体験を踏まえて、つぎのように述べている。 ﹁予は基督信者となって二個の著しき実験をなした。第一の実験は基督信者となった其瞬間の時であった。何であ 東 洋 法 学 七
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 八 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ったかといふと、天地の神が我君主であるといふことを感得したことである。実に予は神に降参して其臣僕となった ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ので、此時より予を支配するものは神であって、予は主我主義を去って主神主義の人となった。兎も角も主神主義を 以て主我主義と戦ったのであったが、世上の名誉利達はいふまでもなく、宗教界に於ける聖業すら尚予を主我主義に 縛するの憂あるを知り、名利の欲、智識の欲、権勢の欲、悉皆之を撲滅するにあらずんば到底主我主義の根拠を滅絶 すべからずと思惟し、無名、無能、無識の人となるとも此主我主義をさへ滅絶すれば足れりといふ考で其境涯に入ら んことを務めたのであったが、天道も亦予をして無名、無能、無識の人とならしめ、独り神の聖旨のみを悦楽する境 遇に至らしめ給ふたのである。此時余は始めて最も聖なるゲッセマネーの主薦を実験することを得た。其時恰も忽焉 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、、、 、 、 、 、 、 として予が心底に発生したるものは則ち神は我父にして我れは其愛子であるといふ意識であった。爾後二十余年余が ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 宗教的意識は此神子たるの意識であって、実に余が宗教思想の源泉となったのである。余は此二個の実験と意識とを ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ の の の の の の の の ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 以て耶蘇キリストの意識を窺ひ見た。是に於て天地の主なる父よと号呼し給ふた耶蘇基督の宗教的意識に限りなきの ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 同情と同感とを献することが出来て、彷彿の間に基督を見ることを得た。又此意識を以て隣人に向へば同胞兄弟の情 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ は禁ぜんと欲するとも禁ぜられないのである。基督が凡て我父の聖旨を行ふものは是れ我兄弟なり姉妹なり母なりと 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、︵27︶ いひ給ふた心情も推知せられたのである。﹂ 右の叙述が示しているように、またすでに述べたことがあるように、海老名は二回の貴重な回心によって、﹁神は我 父にして我れは其愛子である﹂という﹁神子の意識の宗教﹂をもったことから、すなわち、この﹁宗教思想の源泉﹂ から、﹁天地の主なる父よと号呼した﹂キリストとその宗教的意識を同じくすることができたのであり、したがってキ
リストが﹁凡て我父の聖旨を行ふものは是れ我兄弟なり姉妹なり母なりといひ給ふた心情も推知せられたのである。﹂ このように海老名は貴重な体験を通して、キリストを直接知ることができた。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ こうして、海老名はキリストには神と父子有親の意識があったとして、﹁基督は神に対しては子たるの情清く温にし ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ の の の の の む の む の の の む の の の む の の む の て、其交に一毫の障碍がなく、又人類に対せられたときは、忽ち父母の至情を発して、天地万有を撫育する所の天父 。 o 。 o 。 。 。 。 。 。 。 o︵28︶ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ・ ・ 、 、 ・ ・ ・ ⋮ の実相を示し給ふのである。﹂と述べ、したがって﹁基督には二方面がある、即ち神に対しては人、人に対しては神で 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、︵29︶ ある。此二方面を有するが即ち真の神子の実相であると思ふ.﹂としている。海老名のこの主張は、人がキリストを媒 介として神に結ぶということであり、したがってキリストは人でなければならぬとし、キリストに人間の宗教的意識 ︵30︶ のモデル︵理想的人間︶を見い出したのである。 このように海老名は、完全な宗教的意識を体得した一個の理想的人間としてキリストが神と人とを結びつける仲介 者であるとし、したがって神とその仲介者としてのキリストのもとでは、人はすべて神の子として平等であるという 信仰をもっていたのである。このような人はすべて平等であるという信仰は、吉野の政治理論に、特に人格主義を基 調とする民本主義の理論に大きな影響を及ぼすことになる。 以上述べてきたようなこの論説における海老名の主張は、勿論、植村の認めるところではなく、植村は海老名に反 論して、﹁海老名氏は基督の神格を信ぜざるなり。其の基督教は基督を宗にせず、之を崇拝するものに非ず。余輩は基 督の神たるを信ず。基督は人となりし神なり。余輩は基督の内住と遍在とを信ず。余輩は基督を礼拝し、また之に祈 りを捧ぐ。海老名氏は基督を師表として仰ぐのみ。余輩は然かのみならず之を救主なりと信ず。海老名氏の救ひは大
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吉野作造とキリスト教の影響㈲ 一〇 悟するに重きを置かる・に似たり。其の基督は見せしむるを尚ぶ。余輩は此らの点に於て海老名氏に同意す。然れど も更に進んで罪の赦し甚だ重要なりと信ず。海老名氏は基督に学ぶを重んぜらる。余輩は生死ともに之を信じ、之に ︵3 1︶ 結び、之に依り、之に一任するを尚ぷ。﹂と述べたが、これに対して海老名の反論が行われ、この神学論争はさらに継 続されていった。 だが、この神学論争がほぼ峠を越えたと思われたころ、福音同盟会は明治三五年︵一九〇二年︶四月二日より四 日間にわたり第一二回大会を東京神田青年会館において開き、同盟会の主義および目的の改正について論議が行われ たが、議論が紛糾し、その最終日の一四日にいたって、つぎのような決議が可決された。﹁本同盟が福音主義と認むる ものは聖書を以て信仰と、行為の完全なる規範とし、人と其の救ひのために世に降り玉へる吾等の主イエスキリスト ︵3 2︶ を神と信ずるものを言ふ。﹂この決議の結果、福音同盟会は本来親睦団体であったが、日本全体の教会をほぼ網羅して いたので、植村の前述のような主張にそった﹁福音主義﹂がキリスト教の本質をなすものであり、またキリスト教会 がその拠って立つ基礎であることが、教会全体によって確認されたこととなり、こうして海老名は福音同盟会からは ︵33︶ ずされるにいたった。だが、このような除名の憂き目をみた後も、海老名の名声は高められても、衰えることはな く、海老名自身の信仰や思想もなんら変わることもなく、本郷教会は都下有数の教会として、その教壇は依然として ︵3 4︶ 青年学生たちに熱心に受け入れられたのである。その学生のなかの一人が吉野であったことは言うまでもない。そし て吉野は、前述のような海老名の説教や﹁新人﹂の論説および編集を通して、その思考方法や信仰および思想、すな わち、その歴史主義的思考や科学的合理性を基礎とする新神学的傾向をもつ自由にして積極的楽天的な﹁神子の意識
の宗教﹂の影響を強く受けながら、東大政治学科の学生として、勉学に励んでいたのである。 ︵1︶
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その創刊事情の発端は﹁本郷教会は学生が多く、卒業して出て行ったり、終始変動してゐたから、その連絡を取る 渡瀬常吉 前掲 二三六−七頁 参照。 渡瀬常吉 前掲 二三四頁 参照。 渡瀬常吉 前掲 二三三i四 参照。 には組合派も日基派も賛成しない。小生︵海老名−筆者注︶単身孤独の決心を以て上京に決した。﹂ やうに目論む。三人は教派の名を離れ大合同の底意を以て、三人協力東京にて運動を開始すべく協議した。此の運動 えたるが如し。︵中略︶挽回策として押川・横井・海老名の三人と戸川残花・巌本善治等が手伝うて一大気勢を揚げる 渡瀬常吉 ﹁海老名弾正先生﹂︵龍吟社︶ 二三三頁 参照。﹁教勢行詰り如何ともすべからず分けて東京は火の消 ため月報を出さうと云ふことであった。﹂それが発展して、月報ではなく雑誌を出そうということになったのである。 渡瀬常吉前掲 二三七ー八頁参照。またその創刊の目的は、﹁発刊の辞﹂によれば、﹁幕末の時に当り幾多の偉人 傑士が心血を注ぎて唱導したる王政復古挙国一致開国進取てふ精神的の大教訓は弦に維新の大革命を生じ爾来年を経 ること数十年遂に日本今日の文明を来たし世界烈強と相肩比せしむるに至れり精神的教訓の力量に偉大ならずや我が 日本の国民をして此の小成に安んぜしむれば即ち止む筍しくも然らず昂然高く一歩を占めて世界を指導する大国民た らしめんと欲せば余輩は実に道義的一大新思想の開発を望まざるを得ず何を以てしか云ふ幕末志士の唱導したる教訓 は既に其果を結び了りぬ新果を得んと欲せば新種を下さざる可らず新日本の国民には新思想を与ふるの必要あればな り﹂﹁今や我が日本の国民が漸く其眼を転じて新日本の預言を聞かんと欲するの時余輩なんぞ点々として満腔の活道を 吐露せざるを得んや余輩が新人を発刊する以所実に蕪に在り﹂とある。なおまた﹁新人﹂第一号の﹁例言﹂には編集 方針として、﹁﹃新人﹄は宗派の外に超然卓立し専ら宗教道徳に関する真理を世に間明せんことを務め又教育哲学及美 東 洋 法 学 一一76
︵8︶ ︵9︶ 13 12 11 10 吉野作造とキリスト教の影響㈲ 一二 術に関する問題をも論せんとす﹂﹁﹃新人﹄は宗教道徳の時論を切議するのみならず政治に渉らざる限り社会の諸問題 に就き公平なる批評を試む可し﹂﹁﹃新人﹄は青年男女の徳育に就きては特に力を盤し以て其指導者たり又好伴侶たら んを期するものなり﹂﹁﹃新人﹄は清麗なる文学を紹介し趣味津々たらしむ可し﹂﹁﹃新人﹄は時に教壇を設け名士の説 教筆記を掲ぐることあるべし﹂﹁﹃新人﹄は幾多の名士を社友に有したれば常に其の論説を読者に紹介す可し﹂﹁﹃新人﹄ は寄書欄を設け広く同志の文を得んとす玉稿を投寄せられんことを翼望す﹂と述べられている。﹁新人﹂一巻一号︵明 治三三年く一九〇〇年V七月一〇日発行︶ 参照︵﹁新人﹂からの引用は龍渓書舎復刻版による。以下同じ︶。 渡瀬常吉 前掲 二三八−九頁 参照。 内ケ崎作三郎 ﹁吉野作造君と私﹂ 赤松克麿編 ﹁故吉野博士を語る﹂︵中央公論社︶所収 一〇四−五頁 参 照。 この大挙伝道の詳細については、工藤英一 ﹁近代日本社会思想史研究﹂︵教文館︶ 八OI一〇六頁 参照。な お、福音同盟会というのはキリスト教諸教派の連合体であり、従来、キリスト教徒の親睦団体といった程度のきわめ てルーズな組織であった。 土肥昭夫 ﹁海老名弾正i思想と行動 ﹂ 和田洋一編 ﹁同志社の思想家たち﹂︵同志社大学生協出版部︶ 上巻所収一〇八頁参照。
工藤英一 前掲 八一−二頁 参照。 この具体的な伝道活動については、工藤英一 前掲 九〇1六頁 参照。 渡瀬常吉 前掲 二四〇頁 参照。 植村は、明治二三年︵一八九〇年︶三月、﹁教会の枠をこえて政治・文学・社会・経済・教育いいかえると日本の社 会百般のことについて﹂﹁批判論評して自己主張する﹂雑誌﹁日本評論﹂を発刊し、また同年四月には﹁日本のキリス ト教徒に、その意志所見を開陳交換する機関﹂として﹁福音週報﹂を発行したが、﹁福音週報﹂が翌明治二四年︵一八 九一年︶二月には発行禁止となったため、同年三月から﹁福音新報﹂として改題再刊した。これは植村の死去の時︵大161514
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︵24︶ 正一四年く一九二五年V︶まで続いて刊行された。海老沢有道 大内三郎 ﹁日本キリスト教史﹂︵日本基督教団出版 局︶ 二四五−七頁 参照 および 京極純一 ﹁日本プロテスタンティズムにおける政治思想−植村正久の場合 1﹂ 福田歓一編集代表 ﹁政治思想における西欧と日本﹂︵東京大学出版会︶︵下︶所収 六九頁 参照。 植村については、京極純一 前掲 六五−一六六頁 参照。 この論争の詳細については、佐波亘編著 ﹁植村正久と其の時代﹂︵教文館︶五巻 二四三−四三八頁 参照。 山路愛山 ﹁我が見たる耶蘇教会の諸先生﹂﹁太陽﹂明治四三年︵一九一〇年︶二一月号。﹁明治文学全集﹂︵筑摩書 房︶88 ﹁明治宗教文学集﹂ 口 所収 四〇三−七頁 参照。 この全文については、佐波亘編者 前掲 五巻 二五八−二六三頁 参照。 海老沢有道 大内三郎前掲 三四三頁 参照。 植村正久 ﹁福音同盟会と大挙伝道﹂。佐波亘編著 前掲 五巻 二六二頁 参照。 渡瀬常吉 前掲 二四二−五頁 参照。 この全文については、﹁新人﹂二巻三号︵明治三四年︿一九〇一年﹀一〇月一日発行︶一ー三頁 参照。なおまた佐 波亘編著 前掲 五巻 二六三−七頁 参照。 この応酬については、佐波亘編著 前掲 五巻 二六七−二八七頁 参照。 この全文については、﹁新人﹂二巻六号︵明治三五年︿一九〇二年V一月一日発行︶八ー一九頁 参照。なおまた、 佐波亘編著 前掲 五巻 二八八−三〇五頁 参照 および渡瀬常吉 前掲 二五〇1二六七頁 参照。 ﹁ドルナー、イーザーク・アウグストUoヨ9同舞欝>瀬拐二。 。。㊤.9器−一。 。o 。ト8。 。 ドイツのルター派神学者、 調停神学の代表者。スイス国境のノイハウゼンに牧師の息子として生まれ、長じてテユービンゲンで国Oぼ天ウアの もとに学ぶ。テユービンゲン、キール、ケーニヒスベルク、ボン、ゲッティンゲンの各大学の教授を歴任。一八六二 年以降はベルリーン大学組織神学教授。自由主義神学と教条的な正統主義神学の間に立ち、近世的思惟︵カント、シ ュライアマハi特にへーゲル︶と伝統的な教義を媒介的に統一しようとした︵調停神学︶。その思想の鍵はへーゲル的 東 洋 法 学 一三2625、 32 31 30 29 28 27 吉野作造とキリスト教の影響⑤ 四 な︿生成発展﹀の概念である。U。零。シュトラウスの﹃イエス伝﹄の刺激を受けて書かれた、比較的初期の著作︽9① 国導盆良注轟詔80窯魯ΦαR9貸Φく8αR評お90日凶ω彰︵﹁キリストの人格に関する教義の発展史﹂二巻 一八三 九年1︶は重要的で、古典的ケノーシス説に対し新説を唱えた。彼は神的ロゴスを非人格的原理とし、受肉はイエス の生誕において一回的に起こったことではなく、その成長発展の中でロゴスが徐々に所有され、生涯の終わりにロゴ スとイエスの人格の完全な合一︵受肉︶が実現したとした。教義上の主著は︽ω務8BαR昌誘岳畠①旨9雲冨冨8ぼΦ︾ ︵﹁キリスト教信仰論の体系﹂一八七九−八一︶であり、信仰は、教会的な素朴な信仰、哲学的・理性的信仰、この両 者が統一された信仰という三段階を経て、発展的に完成すると説いた。ほかに︽○Φωo霞畠器αR肩98貫耳一ω魯窪 ↓ぎ○一〇讐Φσ80且RωぎUΦ日零巨き亀︵﹁ドイツを中心とするプロテスタント神学史﹂一八六七年︶、︽ω蕩冨BαR oぼ一ω岳魯9腔簿①巳ΦぼΦ︾︵﹁キリスト教倫理学の体系﹂一八八五年︶などがある。教会政治の面でも積極的な働きをみ せ、E・ベルマンと共に福音主義協会同盟を助けた。︽冒ぼ菖畠R︷日号暮零冨↓冨oδ讐Φ︾の創刊者また編集者と しても知られている。﹂﹁キリスト教人名辞典﹂編集委員会編 ﹁キリスト教人名辞典﹂︵日本基督教団出版局︶ 九九 三頁 参照。 ﹁新人﹂二巻六号︵明治三五年く一九〇二年V一月一日発行︶ニニー四頁 参照。 ﹁海老名弾正の次男雄二氏が﹃父はへーゲルの哲学書を愛読した﹄と語り、蔵書のなかにも多くのへーゲルの著書 がみられるのである。﹂ 太田雅夫 ﹁大正デモタラシー研究 知識人の思想と運動﹂︵新泉社︶ 八八頁 参照。 ﹁新人﹂二巻六号 一四頁 参照。 ﹁新人﹂二巻六号 一五頁 参照。 ﹁新人﹂二巻六号 一五頁 参照。 吉馴明子 ﹁海老名弾正の政治思想﹂︵東京大学出版会︶ 一〇〇ー一頁 参照。 ﹁福音新報﹂三四二号︵明治三五年く一九〇二年V一月一五日︶佐波亘編著 前掲 五巻 所収 三二七頁 参照。 佐波亘編著 前掲 五巻 四二二i五頁 参照。
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海老沢有道 大内三郎 前掲 三五一頁 参照。 渡瀬常吉 前掲 二六九−二七〇頁 参照 および 海老沢有道 大内三郎 前掲 三七六頁 参照。 八 前述の神学論争が行われ、吉野が海老名の思考方法や信仰および思想の影響を直接強く受けていたころ、吉野は東 大においてどのような勉学を続けていたのであろうか。 吉野はすでに述べたように、明治三三年︵一九〇〇年︶九月、東大に入学し、やがて本郷教会に参加して、海老名 から直接影響を受けるにいたったのであるが、この東大での一年生時代について、後年︵昭和三年く一九二八年V︶、 つぎのように回顧している。 ﹁私が初めて大学の門を潜ったのは明治三十三年である。その頃の学生は、先生の講義を忠実に理解するのが精一 杯で学校以外の事には全て興味を有たなかった。多少社会的に交渉あらんと努める仕事としては、せいぐ教室を借 りて演説の稽古をする位が関の山であった。之を思へば昨今の学生の気魂には涙の出る程嬉しいものがある。教授諸 先生も政府の顧問的仕事が忙しかったと見え、休講も多かったし学生に接近する機会などは殆んどなかったやうだ。 一年生のとき一木喜徳郎先生の国法学講義に心酔し、一日大に勇を鼓して︵当時私は格別内気で臆病であった︶先生 を九段上の私邸に訪うて教を乞ふたことがある。遇っては下すったが、君は独逸語が達者に読めるか、でないと話に 東 洋 法 学 一五吉野作造とキリスト教の影響㈲ 一六 ならぬと云った風の簡単な問答に辟易して樽、氾々の体で引き退り、迂っかり教授訪問などをするものではないと悔ゐた のであった。斯んなわけで、どうしても学問が我々の活きた魂に迫って来ない。夫れからどう云ふものか私は早くか ら政治学に興味を有ってゐたと見え、一日こっそり上級のその講義を倫み聞きして見た。講師は木場貞長氏、駄洒落 まじりに一冊の洋書を机上に開いて政治は術なりや否やとか何とか述べて居られた。その時は何とも気がつかなかっ たが今考えるとブルンチュリーの紹介であったらしい。之で以て見ても、当時の最高学府の青年が近代政治の理解を ︵−︶ 全然欠いて居ったことに何の不思議もないだろう。﹂ 右の回顧が示しているように、当時の学生は教授の講義を理解するのが精一杯であって、したがって他のこと︵例 えば現実の政治問題︶にはあまり関心を示さず、また教授も政府の顧問的仕事に追われて、教育には熱心ではなかっ ︵2︶ ︵3﹀ た。だが学問に積極的意欲をもっていた吉野は、一木喜徳郎教授の天皇機関説を基調とする国法学の合理的な講義に 全く傾倒して、その自宅を訪ね、教えを乞うたが、一木は吉野の学問的意欲を刺激するような対応をしなかった。ま ︵4︶ た一年生時代のある日、政治学に興味をもっていた吉野は、木場貞長講師が担当していた上級の政治学の講義を盗聴 ︵5︶ したが、その講義はブルンチュリの紹介にすぎず、近代の現実政治とはあまりかかわりはなく、したがって現実政治 の理解に役立つものではなく、吉野の学問的興味を引くものではなかったのである。このように一年生時代、その学 問的意欲を十分満たすことはできなかったが、一木の天皇機関説の講義は、後年、後述の小野喜平次の影響とともに、 政治論と法律論とを区別する民本主義の理論に影響を与えたのではないかと思われ、さらに、木場の講義のように観 念的抽象的に政治を考える態度に反発したことは、後に、現代政治を現実の問題として研究考察していった態度をす
でにここに見ることができよう。 ︵6︶ だが、二年生になると、その学問的意欲を十分満たすことができるようになった。それは、小野塚喜平次が欧州の 留学から帰朝し、政治学講座担当の教授として、明治三四年︵一九〇一年︶一〇月からその講義を始め、聴講するこ とができるようになり、その講義に非常に感銘を受けたからである。前述の回顧に続いて、つぎのように述べている。 ﹁私自身の眼を此方面︵近代政治の理解−筆者注︶で大いに開いて呉れられた第一の恩人は小野塚教授である。同 博士は三十四年欧州の留学から帰られ、私の二年生のときその最初の政治学の講義を授けられた.この講義で私の受 けた最も深い印象は、先生が政治を為政階級の術と視ず、直に之を国民生活の肝要なる一方面の活動とせられたこと である。先生は盛に衆民主義といふ言葉を使はれた︵因に云ふ先生はデモクラシーを衆民主義と訳されたのである︶。 斯んなことは現代︵昭和三年く一九二八年Vごろ1筆者注︶の人達には何の不思議もないことだろうが、実は斯程ま でに専制的政治思想があの頃天下に横行して居たのである。憲法布かれてやっと十年にしかならないのだから、考へ ︵7︶ て見ればまた怪むに足らぬことかも知れぬ。﹂ 右の回顧が示しているように、二年生時代に受けた小野塚の講義にその学問的意欲が満たされ、大いに感銘を受け たのであるが、その深い印象としては、第一に、政治は為政階級︵支配層︶の単なる方便ではなく、国民一般の生活 のための重要な問題であるという被支配層を重視する考え方、第二に、第一と関連して、衆民主義という言葉によっ てデモクラシーが主張されたこと、の二点を挙げることができる。このような小野塚の講義からの影響が、後に現代 の政治問題に関心を集中させ、それが民本主義の理論として現われたのであり、吉野は、終生、政治学の理解につい 東 洋 法 学 一七
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 一八 ︵8︶ て学生時代からの小野塚の指導に対して感謝の念を捧げている。 ︵9︶ それでは、吉野が影響を受けた小野塚の政治学とはどのようなものであったろうか。ここでその詳細について述べ ることは到底できないが、二年生の吉野たちに留学帰朝後最初に行った小野塚の講義は、やがてその成果がまとめら ︵−o︶ れ、明治三六年︵一九〇三年︶﹁政治学大綱﹂︵博文館︶上巻︵同年四月二六日発行︶および下巻︵同年一二月二一日 発行︶の二巻として出版されるにいたったので、吉野に影響を及ぼした前記の二点に焦点を合わせて、この著書︵以 下、﹁大綱﹂と略称する︶の内容を考察してみたいと思う。 第一点から説明すれば、この問題は、従来の専制的政治においては、とかく政治は支配層の単なる方便︵支配の技 術︶の問題として考えられてきたが、小野塚はそうではなく、殊に近代政治は被支配層︵普通、国民と呼ばれている︶ の生活を考慮する活動として考えるべきであるとしており、別言すれば、政治は支配層よりも被支配層に重点を置い て考慮すべき問題であると説いているのである。こうしてこの第︸の問題は、小野塚が政治をどのように把握してい るか、したがってまたその政治を研究対象とする政治学とはどのような学問であるか、という問題を提示していると 言ってよいだろう。それでは、﹁大綱﹂において、これらの問題はどのように把握されているのであろうか。 ﹁大綱﹂では広義の政治学について、つぎのように述べている。﹁人類社会二関スル現象中殊二国家的現象二関スル 者ヲ撰ヒ研究スル者ハ国家諸学又ハ政治諸学ト云フ我国従来用ヒ来レル政治学、国家学、ノ名称ハ共二等シク多クハ 漠然、此広大ナル意義二於テセリ、蓋シ政治社会ノ特徴ハ其国家存在ノ点ニアリ而シテ国家二聯関スル現象ハ政治的 現象ト汎称セラル・ヲ以テ此両語互二流用セラレタルナラン、之ヲ欧米ノ用語二徴シ其語源二遡ルモ亦政治学トハ国
︵11︶ 家二関スル学ノ義二用ヒラレタルヲ見ルヘシ﹂ ︵12︶ この説明に明らかなように、小野塚は国家現象をもって政治現象であるとしており、この政治の発想こそ、﹁大綱﹂ ︵13︶ における根底的基本的思考であり、したがって、﹁広義二於ケル政治学トハ国家二関スル諸学科ノ総称ナリ﹂と定義さ れることになる。だが、このような広義の政治学はその範囲がきわめて広いため、当然、分科が行われることになり、 ︵14︶ ﹁大綱﹂においては、左記のように、その分科が表示されている。 この分科が示しているように、 合わせたものであり、したがって、 む の の ロ ロ 基礎ヲ論スル︵政策原論−筆者注︶ 東 洋 法 学 広義の政治学から狭義の政治学を導き出しており、それは国家原論と政策原論とを の ロ の の む ロ ロ の の ロ ロ の ﹁狭義二於ケル政治学トハ国家ノ事実的説明ヲ与へ︵国家原論−筆者注︶其政策ノ 。。。。︵15︶ ノ学ナリ﹂と定義される。しかも﹁現今国家二関スル研究発達ノ有様ヲ省レハ単 一九 政治社会二関スル学 ︵広義ノ政治学︶ 純理的 応用的・ 記述的 説明的 汎 論 各 論 政治史 政治地理 政治統計 法規的 事実的 国法 行政法 国際公法 国家原論+狭義ノ政治学 政策原論 行政学 経済学ノ政策論
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 二〇 ︵16︶ 二政治学ト称スル時ハ広義二於テセスシテ狭義二於テスルヲ適当ナリトス﹂と述べており、狭義の政治学こそ、普 通、政治学と呼ぶべきものであるとしているので、以下の小野塚の政治学とは狭義における政治学を指すものとして 用いることとする。 それでは、﹁大綱﹂において政治学の構成要素をなす国家原論および政策原論とはどのようなものであるのか。まず 国家原論については、これは前述のように﹁国家ノ事実的説明ヲ与へ﹂るものであるとされているが、﹁国家ノ事実的 説明﹂とはなにかが問題となる。右の分科では政治社会H国家に関する学問︵広義の政治学︶を純理的と応用的とに 分け、さらにその純理的なものを記述を主とするものと説明を主とするものとに分類し、その説明を主とするものの ︵17︶ 中に、﹁国家ヲ法規ノ方面ヨリ観察スル者﹂と﹁事実ノ方面ヨリ観察スル者﹂とがある。前者を研究対象とするものが 法律学︵主として公法学︶であり、後者を研究対象とするのが国家原論であるとされ、ここに法律学と国家原論とが 区別されている。すなわち、これは国家を研究する学問として法律学と政治学とを区別しているということであるが、 だがただ単に区別しているのみならず、両者の相互関係について、つぎのように述べている。 ﹁抑政治ハ多クハ法律︵広義ニシテ憲法ヲモ含ム︶ヲ挨テ行ハレ法律ハ結局政治ノ目的ヲ達スル重ナル手段﹂であ る。﹁殊二国家ノ法律的研究ハ政治ノ完全ナル智識二欠クヘカラズサレト法律学ハ其性質上比較的二形式学ナリ論理ノ 一貫ヲ主トシ時二実際ノ迂遠ヲ省ミス憲法ノ法律的研究モ亦同一轍ニシテ其目的トスル所ハ憲法ノ本質及ヒ利害等ノ 説明ヨリハ寧ロ現存憲法ノ全部ノ矛盾ナキ系統的説明ニアリ固ヨリ国家ノ法律的説明ハ其政治的説明二接近スルヲ可 トスルモ両者ノ一致ハ必スシモ期シ難シ、政治学ノ国家研究ハ事実的也根本的也活動的也政策的也之ヲ例センカ法律
学トシテノ憲法学ヲ以テ蒸気機関ノ構造ノ説明トセハ政治学上ノ憲法論ハ其作用ト活動力ノ基礎トノ説明也、各国ノ 憲法ハ決シテ法律学者ノ随意二作成シタル系統的一体ニアラス特定ノ政治事情ノ産物ナリ各種ノ政治的勢力ノ安排ノ 結果也国民ノ政治生活ノ歴史的結晶ナリ故二憲法ノ真意ヲ解セント欲スル者ハ其法律学的研究ノミニ満足ス可ラサル コト知ルヘキナリ﹂﹁夫レ政治現象ニシテ憲法ノ表面二顕ハレサル者少シトセス、政府ノ組織ノ如キモ其形式ト実際ト 屡相去ル頗ル遠キ者アリ之ヲ例センカ羅馬国ノ帝制ト為ルヤ尚ホ久シク共和制ノ外貌ヲ具ヘタリ英国ノ法令中二内閣 ノ規定ヲ見ズシカモ内閣ハ英ノ政治組織ノ中心タル地位ヲ占ム北米合衆国大統領選挙二於ケル政党ノ勢力ハ同国憲法 ヲ研究スルモ毫モ解シ得サルヘシ、故二政治ノ分子ヲ除去スル国家ノ研究ハ最モ成功スル場合二於テモ僅二国家ノ骨 酪ヲ知ルニ止リ決シテ活動的国家ノ真相ヲ窺フヲ得ス﹂﹁国家ノ公法的研究ハ政治的研究ヲ待テ始メテ政治ノ実際二応 用シ得ルモノナリ彼ノ主権ハ万能ニシテ毫モ他権力ノ干渉ヲ蒙ラス随意二其意思ヲ以テ他ノ意思ヲ拘束スルヲ得ト云 フカ如キハ法理論トシテハ可ナリト錐モ是唯形式的可能ヲ言フノミニシテ假二之ヲ以テ実質上可能ナリトスルモ主権 ノ無限作用ノ実現力果シテ国家二取リ将タ又主権者二取テ得策ナリヤ否ヤハ全ク別問題ニシテ政治教育ノ素養アル者 ︵18︶ ニアラスンハ断定二苦シム所ナリ﹂。 右の叙述が示しているように、政治は法律によって行われ、法律は政治の目的を達成する手段であり、法律と政治 とは区別をすることができるが、両者には密接な相互関係がある。したがって、国家の研究には法律的研究すなわち 法律学が必要ではあるが、それのみでは国家の研究は十分ではない。しかも法律学はその性質上形式論理を重視する 学問であるから、国家の形式的説明となり、これに対して政治学の国家研究は事実的、根本的、活動的、政策的であ 東 洋 法 学 二一
吉野作造とキリスト教の影響⑤ 二二 る。かくして法律学は国家構造の形式的説明︵それが憲法学である︶となり、政治学は国家の作用や活動についての 説明となり、国家の研究には両者の研究が必要であって、法律的研究のみに満足することはできない。そのもっとも よい例は主権の問題である。主権を法理論的に説明すれば、なにものにも干渉されない無限万能な力であると言うこ とができるが、このような説明は法理論として成り立つことできる。だが現実政治の問題として、主権をこのような 無限万能の力として運用することができるかどうかは別問題であり、したがって主権の政治理論的研究が必要となっ てくる。以上述べてきたような、法律と政治、法律学と政治学の区別および相互関係の発想は、いずれ後述するよう に、後に吉野の民本主義の理論、とりわけ﹁国家主権の所在﹂と﹁国家主権の運用﹂とを区別する政治理論に影響を 及ぼすことになる。 前述のように、政治学の構成要素としての国家原論は﹁国家ノ事実的説明﹂をすることを目的とするのであるが、 の の の ロ その国家とはどのようなものであるか。﹁大綱﹂では国家を定義して、つぎのように述べている。﹁国家トハ一定ノ土 o o 。 。 o 。 。 o 。 。 。 。 o 。 。 。 。 。 。 o 。︵19︶ 地二於テ統治組織ヲ有スル継続的人類社会ナリ﹂だが国家原論の研究対象となる国家については、つぎのように限定 を付けている。﹁已二国家タル以上ハ未開人ノ国家ト錐モ亦政治学研究ノ目的物タルニ相違ナク之二反シテタトヒ人類 二取テ重要ナル社会的ノ組織団体ト錐モ其国家ニアラサル以上ハ直接二政治学ノ目的トスル所ニアラス只其国家二影 ︵20﹀ 響スル点二於テ合セ論セラル・ノミ﹂と説明して、未開の国家といえども、政治学の研究対象となることは勿論であ るが、社会集団については、それが国家ではないかぎり、その研究対象とはならないとしている。ただし、現在では 未開の国家の研究はまだ困難な状況にあり、したがって、﹁先ツ主トシテカヲ用ユヘキハ蓋シ比較的材料豊富ニシテ且
︵21︶ ツ現代ヨリ類推ノ効ヲ奏シ易キ近世国家現象ノ研究ニアランカ﹂と述べ、﹁予ハ学問研究ノ順序ト目下実用上ノ急務ト ヲ考へ便宜上政治学ノ当然ノ範囲ヲ縮少シ暫ク種々ノ国家ヲ除外シ先ツ近世文化国︵政治上二於テハ立憲代議制ノ国︶ ヲ以テ政治学ノ主タル研究目的物ト為シ其他古今ノ諸国家現象中必要ナル者ハ︵特二国際競争関係上︶時々比較対象 ︵22︶ スルニ止メント欲ス﹂と結論して、政治学の研究対象としては、主として文化の進んでいる西欧の立憲代議制国家に 限定するとしており、かくして当然、国家原論における﹁国家ノ事実的説明ヲ与へ﹂るとは、主として立憲代議制国 家について事実的説明を与えることである。小野塚は、このような先進的な西欧の立憲代議制国家についての実証的 ︵23︶ な比較研究をもって、終生の基本的な学問的志向としていた。このような学問的志向は吉野にも受け継がれたと言っ てよい。明治三九年︵一九〇六年︶一月、衰世凱の招きにより、その子・克定の家庭教師として中国に赴いて以来、 西欧のみならず中国にも大きな関心をもつようになったことはよく知られていることであるが、その民本主義の理論 をみるとき、西欧の立憲代議制国家についての学問的志向がきわめて高いと言うことができる。 つぎに政策原論に移ろう。前に表示したように政治社会”国家に関する学問︵広義の政治学︶を純理的と応用的と に分け、その応用的なものを汎論と各論とに分類し、前者の汎論が政策原論であり、後者の各論には行政学および経 済学の政策論などがある。その政策原論とは国家の政策の基礎を論ずるものであるとされているが、それでは国家の 政策とはどのようなものであるか。国家についてはすでに説明した通りであり、ここでは政策について述べよう。 政策について説明するために、﹁大綱﹂においては、まずその政策の前提の問題として、政治とはなにかについて、 つぎのように定義がなされている。﹁政治トハ国家機関及ヒ国民ノ行為ニシテ直接二国家ノ根本的活動二関スルモノ・
東洋法学 二三
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 二四 ︵24︶ 総構ナリ﹂そしてこの政治の定義を前提として、政策については、﹁政策トハ国家機関及ヒ国民力国家ノ目的ヲ達セン ︵25︶ 力為メニ採ルヘキ手段ヲ云フ﹂と定義し、さらに政策原論を定義して、﹁政策原論トハ国家機関及ヒ国民力国家ノ目的 ︵26︶ ヲ達センンガ為メニ採ルヘキ根本的手段ヲ学問的二研究スルモノナリ﹂と述べている。 これらの定義を考察するとき、政治も政策もともに、国家の目的を達成するために国家機関および国民が行うこと であり、政治および政策の主体は国家機関および国民であることを示している。それでは国家機関および国民とはど のようなものであるのか。このことについて、つぎのように述べている。﹁国家ノ権力ハ凡テ国家機関ノ運用スル所タ リ機関ニヨラズシテ国家特有ノ意思ヲ認メ得ズ﹂﹁故二国家ノ権力トハ結局国家機関ノ掌中二存スル権力タリ国家機関 全部ノ有スル権力ガ国家特有権力ノ全部タリ此点ヨリ見レハ国家ノ権力ト国家機関ノ権力トノ間二差別ヲ付スルコト 難クシテ国家機関即チ国家タルノ感アリ是レ国家ノ組織ヲ単二統治権ノ方面ヨリ観察シタルモノニシテ更二之ヲ国家 ヲ構成スル人類ノ方面ヨリ見レハ国家ハ人類ノ集合ノミ集合セル人類ノ社会力一定ノ組織ヲ有スル点ヨリ其社会ヲ指 シテ国家ト呼ヒ其人類ヲ指シテ国民ト呼フ国家機関タル人類モ亦此意義二於ケル国民ノ一部分ナリ故二此方面ヨリ論 スレハ国民以外国家ナクシテ国民即チ国家ナリト言フモ亦可ナリ﹂﹁前述ノ如ク観察点ヲ異ニスレハ国民モ国家ニシテ 国家機関モ国家ナリ国家ノ一部ニアラズシテ共二各全部ナリ然レトモ謙テ国家力其目的ヲ達スル手段タル可キ勢力ヲ 求ムレハ国家二国家機関ノ権力ト国民ノ勢力トノニアルヲ発見スヘシ是レ国家機関ト国民トノ両者ヲ共に狭義二解シ 互二相対立スルモノト為シ此両者ガ合シテ始メテ国家ヲ成立セシムルト為スノ見解ナリ﹂﹁此ノ如キ国家二於ケルニ勢 力ノ併行ハ単二事実的説明ノ必要二応スルノミナラス又タ政策的論定ノ便宜二適フモノナリ国家機関ノ権力トハ憲法
又ハ慣例上国家機関力国家特有ノ強制権ノ運用トシテ有スル勢力ニシテ国民ノ勢力トハ国民力被治者トシテ政治上二 ︵27︶ 有スル勢力ナリ只両者勢力ノ種類ヲ異ニスルモノアリト錐トモ政治的勢力タル至テハ即チ一ナリ﹂。 右の説明に明らかなように、﹁大綱﹂においては、国家機関も国民もともに政治および政策の主体であるとともに、 政治的勢力としても対等のものであるとしており、このように、国家機関と並んで国民を政治および政策の主体とし て重要視していることは、前述の吉野の回顧に﹁先生が政治を為政階級の術と視ず、直に之を国民生活の肝要なる一 方面の活動とせられたこと﹂とあるように、小野塚の政治についての把握の方法における基本的な特徴であったと言 うことができる。従来とかく政治を考えるに当たって、為政階級︵支配層︶に重点を置く考え方が強かったのに対し て、このような国民︵被支配層︶を重要とする考え方はやがて吉野に受け継がれ、民本主義の理論として結実するに いたるのである。 続いて、吉野が非常に影響を受けた第二点、すなわち小野塚の﹁衆民主義﹂︵デモクラシーの訳語︶について説明し よう。小野塚がデモクラティックという言葉を初めて使用したと思われるのは、明治三八年︵一九〇五年︶二月、﹁国 家学会雑誌﹂一九巻二号に発表した﹁独乙帝国議会議員総選挙二現ハレタル社会衆民党の勢力増加﹂と題する論文で あった。その論文において﹁元来︵8目○町善ω9h①ヨOR曽け賞留BoR壁∈Φ︶ノ語ハニ様ノ意義二用ヰラル、一ハ ︵28︶ 君主ト相容レサル意味二於テシ、他ハ単二一般民衆ノ勢力ヲ認ムルノ意味二於テス。﹂と述べており、前者の意味にお いては、君主と対立する民主という意味であり、後者の意味においては、民衆の勢力が台頭してきたことを意味する。 だが﹁大綱﹂では前者のような意味でのデモクラティックという言葉は使用されておらず、ここでは後者のような意
東洋法 学 二五
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 二六 味で﹁衆民的﹂という言葉が使われている。 ﹁大綱﹂において﹁衆民的﹂という言葉が論議の対象となるのは、﹁政策原論﹂のなかの﹁内治政策﹂と称する﹁章﹂ の﹁内治政策ハ衆民的ナルヘシ﹂という﹁節﹂においてであるが、その﹁節﹂において、﹁衆民的ノ意義﹂についてつ ぎのように述べている。﹁衆民的トハ政策ノ結果ノ帰着点力衆民ニアルノミナラス政策ノ決定二関シテ衆民ノ勢力ヲ認 ムルヲ云フ、単二民ヲシテ依ラシムルニアラスシテ又民ヲシテ知ラシムルナリ単二知ラシムルニ止ラスシテ且ツ民ヲ ︵29︶ シテ政治二参与セシムルナリ﹂として、﹁衆民﹂︵一般民衆と言い換えることができる︶のための、また﹁衆民﹂によ る政策が必要であると主張し、このような主張は、言うまでもなく、政策の基本的目標を国民に置く吉野の民本主義 の理論に影響を与えたのである。さらに﹁近世国家︵近代国家−筆者注︶ハ其国体ノ君主国タルト共和国タルトヲ問 ハス共二著シク衆民的傾向ヲ有シ階級ノ特権ヲ認メス法ノ前二万人ノ平等ヲ原則トシ能力上ノ差異ヲ理由トスルノ外、 ︵30︶ 均一ナル参政権ヲ衆民二与フ此二於テカ衆民ノ意思ハ政策ノ決定上二勢力ヲ増加シ﹂て、﹁衆民的傾向﹂が非常に進 み、その結果、﹁衆民的政策﹂がややもすれば行き過ぎとなる傾きがあるが、﹁唯タ夫レ衆民政策ハ多数ノ普通人民ヲ 要素中二包含スル以上ハ其関係複雑ニシテ危険従テ大ナルハ固ヨリ然ラサルヲ得ス此危険ヲ減殺シ善ク衆民政策ヲ利 導スルハ識者ノ重大ナル任務ナリ如何二考フルモ国家最終ノ地盤ハ多数民衆ナリ国家ノ運命ハ結局其掌中二帰ス彼等 之ヲ自覚スルノ暁ハ其衆民的政策ヲ要求スル秋ナリ少数人士ハ到底久シク此要求ヲ無視スルコト能ハス況ヤ多数ノ積 極的協力ハ其消極的服従二比シテ国家経営上遥二好結果ヲ来スニ於テヲヤ是衆民的政策ノ単二主権在民ヲ主義トスル 共和国二覇ヲ称スルニ止マラスシテ広ク文化国二蔓延スル所以ナリ立憲君主国二於ケル君主ノ地位ハ衆民的政策ヲ侯
ツテ却テ其堅牢ヲ増加スルモノナリ然レトモ凡テ衆民的政策ハ同等ナル真価ヲ有スルニ非ラス自然二良果ヲ産出スル ︵31︶ モノニアラスシテ衆民智徳発達ノ程度二感応スルモノナルハ決シテ忘却スヘカラサルナリ﹂と述べ、衆民の智徳の発 展している民主共和国も立憲君主国もともに、﹁衆民的政策﹂が行われることによって国家が安定するが、その程度は 衆民の智徳︵政治意識とモラル︶の発達のレベルに対応するとしており、この﹁節﹂はまさに小野塚の立憲君主国に ︵3 2︶ おける﹁高らかなデモクラシi賛歌﹂と言うことができる。この﹁衆民的﹂思考は、新しい時代の思考として大学生 ︵33︶ 時代の吉野の政治理論に大きな影響を与え、小野塚の講義に深く感銘し、政治学への関心を一層高めていったのであ る。 以上論述してきたように、吉野は特に前述の二点について小野塚から特に強い影響を受け、同時にまた、すでに述 べたように、海老名の思考方法と信仰および思想からも大きな感化を受けながら、大学生時代を過していったのであ るが、それでは、それらの影響のもとで、この時代に吉野はみずから具体的にどのような政治理論を構築していった のであろうか。つぎにこの間題について論究したいと思う。 ︵1︶ 原文は吉野作造 ﹁民本主義鼓吹時代の回顧﹂ ﹁社会科学﹂ 四巻一号︵昭和三年く一九二八年V二月刊︶所収 参照。な診その他には、吉野作造 ﹁閑談の閑談﹂︵書物展望社︶ 所収 一九四1二一三頁 参照、三谷太一郎責任 編集 ﹁吉野作造﹂ ﹁日本の名著﹂︵中央公論社︶ 所収 二〇六−二一七頁 参照、松尾尊公ん編集解説 ﹁吉野作 造集﹂﹁近代日本思想大系﹂︵筑摩書房︶ 所収 四二六−四三五頁 参照、三谷太一郎編 ﹁吉野作造論集﹂︵中公文 庫︶ 所収 一三六−一五二頁 参照。 東 洋 法 学 二七
吉野作造とキリスト教の影響㈲ 二八 ︵2︶ ︵3︶ コ木喜徳郎 いちききとくろう ︵一〇 。。8㎝る∼一。鼠●匿μ8慶応三、四、四∼昭和一九︶ 憲法学者。政治家。 掛川藩士岡田良一郎の次男、兄は岡田良平。一木家の養子となる。一八八七年︵明治二〇︶東大政治科卒業。一時内 務省にはいり、ドイツ留学後、九四年東大教授となり、その後、内務省の要職を兼任し、九九年法学博士。一九〇〇 年貴族院議員に勅選。〇二年には法制局長官をも兼ねた。その後、内務次官、第2次大隈重信内閣の文相・内相・一 七年︵大正六︶枢密顧問官となり、のち枢密院副議長、宮内大臣、枢密院議長を歴任した。枢密院議長当時、天皇機 関説の信奉者として右翼の暴漢に襲われ、三六年︵昭和一一︶三月辞任している。なお明治期より、兄良平とともに 報徳社︵二宮尊徳の思想を実践し農村の救済再建をめざして組織された結社︶の運動にも参画、三四年︵昭和九︶良 平が死去すると代わって大日本報徳社社長に就任している。三三年︵昭和八︶男爵となる。︵岩井忠熊︶﹂日本近現代 史辞典編集委員会編﹁日本近代現史辞典﹂︵東洋経済新報社︶ 三三ー四頁 参照。なお一木の憲法思想については、 家永三郎﹁日本近代憲法思想史研究﹂︵岩波書店︶ 一四〇ー一五〇頁 参照。 一木の天皇機関説は美濃部達吉によって批判的に継承されたと言われているが、その美濃部の学生時代について、 家永三郎教授はつぎのように述べている。﹁明治二十七年、二十一一歳で帝国大学法科大学に入学した美濃部は、前々か ら憲法講座を担任してきた穂積︵八束−筆者注︶と、この年に末岡精一の後任として国法学の講座を担任することと なった一木との、二人の憲法学者の講義をあわせきいた。入学前から一木の著書﹃日本法令予算論﹄を﹃幾度か熟読 し、其の鋭い筆鋒に深い敬意を捧げて居た﹄美濃部は、一木の講義に﹃一層感激を覚ゆることが深﹄く、三年間の在 学中に﹃聞いた多くの講義の中で、最も大なる影響を与へ﹄られたが、これに対し、﹃非論理的な独断が くなかった﹄ 穂積の講義には、﹃まだ幼稚な一年生でありながら、心服することが出来ないで終﹄り、在学の間に二つの憲法学説に 対する彼の選択は、明確に決定せられたのである。﹂ 家永三郎 ﹁美濃部達吉の思想史的研究﹂︵岩波書店︶ 三頁 参照。このように美濃部は、穂積の天皇主権説を非論理的なものとして賛成せず、一木の天皇機関説を合理的なもの として継承したが、単なるその祖述者ではなかった。その両者の学説の異同については、家永三郎 前掲 四−二二 頁 参照。