東 南 ア ジ ア研 究 35巻 3号 1997年 12月
雲南刀耕 火種 (
焼畑 農耕 )民 の生存 戟 略
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YINShaoting*InChina'sYunnan,thereare26ethnicgroupsofpeople,mostofwhom usedtobeswiddeners. In recentdecades,owing to thecontlntlinggrowth ofpopulation.drasticsoclalchanges.and otherreasons,lthasbecomeincreasinglydifficulttopractlSeSWlddencultivation. Tosustain theirlivelihood.the people have to resortto reform. The presentreport,a resultoffield surveys,summarizes eigh tstrategleSOfYunnan's swiddening peoples ln their utillZatlOn Of forestresourcesandtheirsolutiontotheinadequacycrlSisofsuchr.esources. ThesestrategleS areundoubtedlyofgreatuseforトIStOunderstandYunnan'schangesinswiddencultivatlOnand itsdevelopmenttrendslnthefuture.
序
文
雲南 は,現在 中国で焼畑 農耕 が最 も多 く存 在 してい る地域 で あ る。 そ の分布 は雲南西 南部 と ミャンマ ー, ラオスに隣接 した地帯 に集 中 してい る。 こ こ百年,特 に この五十年来, 人 口の急 激 な増加 と森林 資 源 の絶 え間軽 い減少 に よって,焼畑 農耕 民 は 日増 しに深 刻 にな る生存 の危機 に耐 えて来 た。 しか しひ とつ の重要 な事 実 と してあげ られ るの は,雲南 の焼畑 農耕 は, 内部 の人 と土 地 との 関 わ りの変 化 や外 部 か らの厳 しい圧 力 の下 で も,急 速 に は消 滅 して い ない こ とで あ る。 これ は,焼畑 農耕 を速 やか に消滅 させ たい と願 って い る多 くの 人達 を困惑 させ てい る。実 際 この種 の農業 は,大量 の森林資源 を必要 とす る とい う欠陥 を もってい るこ とは明 らかで あ る。 しか し 他 方 ,持続 的 に利 用 し続 け るため に,環境 保護 の ための戟 略 を創造 し続 けて きたので あ る。 人 々は時 に根 深 い民族 的,文化 的 な偏 見 か ら,焼畑 農耕 の環境保 護 に対 す るネガテ ィブな影 響 しか認 めず, これ まで焼畑 農耕民 が創造 して きた諸 々の生存戦略 を認 めたが らなか った。 そ こで,筆者 はフ ィール ドワー クに よる資料 に基づ いて,雲 南焼畑 農耕民 の8通 りの生存戦略 を ここに ま とめ あげ た。本論文 の記述 を適 して,我 々は彼 らの生存戦 略が研 究 に値 す る とい うこ*雲 南 民 族 博 物 館 ;YunnanMuseum oftheNationallties,HalGeng,Kunming650228.Yunnan,People's RepublicofChina
東南 アジア研 究 35巻3号 とを知 るこ とがで きる。 さらに重要 な こ とは,彼 らの生存戦略が雲南焼畑農耕民 の今 後の生存 と発展 に も,必ず や積極 的 な役割 を発揮 しつづ けるで あろ うとい うこ とであ る。 Ⅰ 雲南焼畑農耕 の分 布 雲南 の焼畑 農耕 は,現在 ,雲南西南 と ミャンマ ー, ラオス,ベ トナムに隣接 した地帯 に分布 してい る。 この地域 に生存 してい る葬族,恰尼族, 傑儒族,投 祐族,伐族,景頗族,布朗族, 普米族,怒族,徳昂族,基諾族,独龍族,揺族,苗族 な どは,程度 の差 こそあれ, まだ焼畑農 耕 を営 んで い る。 この地域 で, なぜ発達 した焼畑農耕が生 まれ, なおかつ現在 に至 る まで続 いてい るのか。 そ の原 因 を突 き詰 め る と, おお よそ次 の点 にあ る とい える。 まず第一 に, この地域 は,熱帯 と亜 熱帯気候 の移行地帯 に属 し,一年 を通 して温暖であ り, なおかつ東南 と西南 の季節風 が盛 んに 吹 き,雨量 も多 い。そのため植物資源が非常 に豊富 で あ る。 この ような地理的環境 は,狩猟採 集 を兼 ね る焼畑耕作 を主 として営 んで い る人 々に良好 な条件 を提供 した。次 に, この地域 は古 代 には漢文化 の中心 か ら遠 く離 れ, 山河 に阻 まれ交通が不便 であ り,かつて は 「樟 気 ・疫病 の 地」 と呼 ばれ,それは遠 くまで聞 こえて旅行 くもの も恐 れいやが った。漢民族 な どが, ここに 移住 をす るこ とは困難 な上,土着 の民族 の人 口 も比較 的少 ない レベ ルに止 まって いたため,森 林 の大規模 な開発 や破壊 を早 くか ら受 けるこ とが無 か った。例 えば,西双版約 な どの地域 は, 1950年代 の森林被 覆率 は まだ65%位保持 されていた。 第三 に,当該地域 は山地が多 く,その占 め る割合 は,総面積 のお よそ95%で,盆地 の 占め る割 合 は極 めて少 ない。 山地 の地形 は複雑 で
,
港概施設 を造 るこ とは難 しい上,高 山の気温 はか な り低 い。多 くの山は,高 く険 しく,水 は冷 たいため,
潅瀧稲作 農業が発展 す るのは,か な り困難であ る。 第四に, 当地 の山地民族 の 数 は多 く,特 に50年代以前 は民族系統 が複雑 であ り, なおかつ厳 しい民族蔑視 や抑圧 が存在 し ていた。 そのため山地社 会 は,安定せず, ば らば らで,分離,独立 とい った性格 を著 しく呈 し ていた。 したが って, 開発 が容易 で,移動 に都合 の よい作業であ り, なおかつ複雑 な生産施設 を必要 としない焼畑農耕 は, 自然 に山地民社 会の需要 に適合 したのであ る。 第五 に,長期 間焼 畑農耕 を営 んで きた こ とに よって,各 山地民族 は完成 された生産技術 体系 を形成 しただけで な く, それ と密接 に関係 した社 会組織 と思想体系 を も形成 した。 もしこの生業 お よび社 会組織 や 思想体系 まで改変 しようとす るな らば, それ は大変難 しい ことであ り,短期 間の うちにそれ を 実現 す るの は不可能 な こ とであ る。 以上 の ような理 由か ら,雲南 の焼畑農耕 は現在 まで存続 し て きた といえる。 しか しなが ら,物事 は総 じて変化 ・発展す る ものであ り, この焼畑 農耕 もまた一定 ・不変 の もので はな く,時代 とともに変遷 して きた。 その過程 をみ る と,おお よそ3つ の段 階 に分 ける 526ヂ :雲南 刀耕 火種 (焼畑 農耕 )民 の生存戟略 こ とが で きる。50年代 以前 を一つ の時期 とす る と, そ れ は焼 畑 農耕 が長 い歴 史 を経 た に もか か わ らず , 依 然 と して, か な り盛 ん に行 わ れ て い た時 期 とい え る。 分 布 も広 く, そ の密 度 も濃 く,伝統 的 な技 術 や文化 の特 徴 を保持 して い た。50-70年 代 は衰 退期 で あ る。 この時期 は,焼 畑 の分布 も規模 も縮 小 し, 多 くの伝統 的 な技 術 や文化 の特 徴 が失 われ た。 そ の原 因 は, 社 会主 義 - の改 造 が 進 め られ,大量 の移 民 が 入植 した こ と と,疫 病 が効果 的 に制圧 され た こ とで, 人 口増加 を引 き起 こ した こ とで あ る。80年代 以 降 は急 激 な衰 退期 で あ る。 近代化 の波 と商 品経 済 の激流 の前 で ,焼 畑 農耕 とそれ に相 関 した伝 統 文化 の変遷 が 日増 しに迅 速化 した。50年 代 と比 較 す る と,現 在 雲 南 の焼 畑 の分布 はす で に大 きな変化 が生 じて い る。 雲 南 西南 に分布 して い る 地域 内で は, そ の分布 区域 は連続 的 な帯状 か ら断続 的 な塊 状 とな り,密 集状 態 か らまば らな状 態 に変 わ って しまって い る [ヂ` 1991:3] (図1)。
Ⅰ
Ⅰ 短期耕作長期休 閑の戦略
この戟 略 は, - カ所 の土 地 に- 季 だ け作 物 を栽培 し, その後放 置 して長期 間休 閑 させ る休 閑 耕作 方 式 で あ る。. これ は,雲 南 の焼畑 の最 も基 本 的 で典 型 的 な休 閑方式 とい え る。土 地 を計 画 的 に使 い,毎 年順 に休 閑 して い く。 これ が この休 閑方式 の顕 著 な特 色 で あ る。 この種 の休 閑制 度 を実施 して い る村 は,すべ て その村 の土 地 を若 干 の 区域 に区分 け し, それ を村民 全 体 で毎年 一 区画 だ け集 中的 に伐採 耕 作 し,年 ご とに新 しい土 地 に換 えて,順次休 閑 し,土 地 を循環 利 用 して い る。 区分 け され た区域 の 多 きは, 主 にその土 地 の樹 木 の生長 周期 に よる。 雲南 の各 LIJ地 民 族 の伝統 的 な区分 け区域 は,一般 的 に10カ所 以 上 あ り, それぞ れ の 区域 をこの よ うに使 うこ とが で きれ ば,耕作 後 の休 閑期 間 も十 分 とい え, したが って地 中の樹 木 が再生 し,森 林 に戻 る の を保 証 で きるので あ る。 区画 の多 少 にかか わ らず ,村 民 はみ な区画 と順 序 に基 づ いて厳 格 に 土 地利 用 を しな くて はな らず , な に ぴ とで あ って も単独 で 自由 に土 地 を選 ぶ こ とは固 く禁 じら れて い る。雲南 の大部 分 の焼 畑 農耕 民 は, かつ て は この一毛作 の長期 休 閑方式 を盛 ん に行 って いた。 この こ とは,50-60年代 の調 査報 告 (国 家民 族事 務 委 員 会5種 叢書 ) の 中 に も記 載 され て い る。 また筆 者 の80-90年 代 の調査 にお いて も,貢 山県 の独龍 族 , 盈 江 県 の景頗 族 ,西 盟 県 と潜 源 県 の任 族,澗
槍 県 の粒 袖族 (写真 1, 2), 景洪 県 の 基 諾族 , 劫 膳県 の姶尼 族,揺 族 , 克木 人 な どの い くつ か の村 で は, まだ この種 の休 閑耕作 方式 が継承 されて い る。 短期 耕作 長期 休 閑方式 の焼畑 に は, い くつ かの優 れ た点 が あ る。 まず 第一 に雑 草 が少 ない こ と。 第二 に虫害 が少 な い こ と。 第三 に表 土 の流失 が少 ない こ と。 第 四 に労 力 の省 力 化 が で きる (なぜ な ら雑 草 が 少 ない ため,耕作 や除草 に多大 な労 力 を費 やす必 要 が ないか らで あ る)。 そ し て五番 目に最 も重要 な こ と と して,樹 木 の再 生 に有利 で あ り,即 ち森 林 の持 続 可 能 な利 用 を保 証す る とい うこ とで あ る。 527束南 アジ ア研 究 35巻3号 ㌔ /一 \ -L 1.・J農江地区、 ・JJJ∼ .I J ヽ■■一.ヽ I r : I J lく、i=≡■
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州 一、 iV .押 図 例 E ヨ 焼 畑分布 区 ●▼ 雲南省の50年代地
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布 図 雲両省の80年代晩畑分布図 図1 雲南 省 の焼畑 分布ヂ :雲 南 刀耕 火種 (焼畑 農耕 )民 の生 存戦 略 写真 1 ミャ ンマ ー国境 付 近 の投 抽族 の焼 畑 写真2 焼 畑 で は通常 数種 類 の作物 が混 作 され る
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
輪作方式の戦略
人 口の増 加 と土 地 不足 に よ り,上 記 の短 期 耕作 長期 休 閑の焼 畑 耕作 方式 が とれ な くな った 時, 多 くの山地民族 は輪作方式 を とるこ とで,危機 を緩和 して きた。輪作 は,2, 3年 の短期 間の もの もあ り, また5, 6年 の比較 的長期 間の もの もあ る。 輪作期 間が長 ければ長 いだけ土 地 の節約 がで きる。 例 えば,一年耕作 して長期休 閑の焼畑 で は,一般 的 に一 人30ムー (1ム--約560mり 以 上 の土地 が必 要 だが, 3年 間輪作 し, 15年 間休 閑す る方式 だ と,- 人当 た り18 ムー位 まで減 らす こ とが で きるo また,5年 間輪作 し20年 間の休 閑方式 だ と,半分 の土地 を節 約 で き,即 ち必要 な土地 は一 人平均15ムー とい うこ とにな る。 当然,現 実 には多 くの土地 は輪 作 には適 して はい ない。 しか しなが ら, た とえ部 分的 に しか使 えない と して も,土地 に対 す る 人 口のJ主_迫 を人 い に軽減す るこ とはで きる.。 まさにその ため に, ここ40年 の間,輪作 方式 は大 きな発展 を遂 げた とい える。表 1にい くつ かの民族 の よ く見 られ る輪作方式 を示 した。 輪作 を 行 うこ とで,土地 を節約 で き, また一定 程度 の 人口増加 と土地減少 の問題 を緩和 で きる。 この 点が この方式 の優 れた ところで あ る。 しか しなが ら,輪作 を行 うこ とは雑 草 を繁茂 させ , 人 々 に多大 な労苦 を ももた らす こ とに もな るのであ る (写真 3, 4)0Ⅰ
Ⅴ
植樹造林の戦略
耕 作 後 の休 閑地 に植 林 をす る ことは, 「糧林輪作」 と も呼 ぶ こ とが で きる。植林 は土地 の休 閑期 間 を短縮 で きるため,土 地 を節約す る とい う目的 にか な う。 例 を挙 げて言 えば,一一人1年 3ムーの土地 を伐採 耕作 し, 10年 で- 一一サ イクル を 目安 とす る と, 一 人当た りの必要 な土地総面 積 は30ムーであ るO仮 に休 閑地 に植林 して,休 閑期 間 を 8年 に短編 させ る と,一 人当 た りの必 要 面積 は24ムー まで下 げ る こ とが で きる。 も し5年 に短 縮 す れ ば, 半 分 まで に減 らせ て, 15 529東南 アジア研 究 35巻 3号 表 1 雲南 省 の各地域 にお ける輪作方式 (1) 西盟 県イ瓦族 の例 輪作 輪 作 作 物 類 型 第-年 第二年 第三年 休 閑期 間 (午) 1 小 豆 和 白れ川ul■し■U 豆 花 豆 花 稲 麦 稲 稲 稲 麦 小 棉 小 棉 陸 蕎 陸 陸 陸 蕎 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 陸稲 (間作にコウリャン等) 陸稲 陸稲 陸稲 陸稲 陸稲 コ ウ リ ャ ン トウ モ ロ コ シ 陸稲 (紅米) トウ モ ロ コ シ 陸稲 コ ウ リ ャ ン 6-10余年 (2) 貢 山県独龍族 の例 輪作 輪 作 作 物 類 型 第一年 第二年 第三年 休 閑期 間 (年) 1 トウモ ロ コ シ 粟 2 燕 麦 3 稗 4 蕎麦 5 蕎麦 6 大豆 6 6 6 6 6 6 I I I I I I 5 5 5 5 5 3 (3) 景洪 県基語族 の例 村 輪作 輪 作 作 物 名 類 型 第-年 第二年 第三年 第四年 第五年 第六年 休 閑 期 間 (午) 巴 1 綿花 陸稲 棉 花 トウモ ロコシ 大豆 エ ゴマ 陸稲 or陸稲 ゴマ 2 綿 花 陸稲 陸稲 陸稲 大豆 エ ゴマ 陸稲 (別 の 品種 ) (別 の 品種 ) ゴマ 並 3 陸稲 陸稲 陸稲or大豆 トウモロコシ or 陸稲 陸稲 トウモ ロコシ 大豆 エ ゴマ (別 の 品種 ) 1 蕎麦 陸稲 ゴマ エ ゴマ 陸稲 トウモ ロコシ 陸稲 落花生 大豆 2 陸稲 大豆 陸稲 大豆orトウモロコシ 陸稲 陸稲 落花 生 エ ゴマ (別 の品種 ) 3 陸稲 陸稲 陸稲 大豆orゴマ 陸稲 トウモ ロコシ or 15-20 (別 の 品種 ) 大豆 エ ゴマ 4 陸稲 占三吉 陸稲 トウモ ロコシ 陸稲 トウモロコシ 1520 出所 :[ヂ 1991]
升 :雲南刀耕火種 (焼畑農耕)民の生存戦略 写真3 輪作地での播種前の除草作業 写真4 輪作地では 2-3年 目から撃耕する ム ー しか必要 と しな くなる。 また実 際 の状 況 を見 る と, この植林休 閑方式 の焼畑 を行 ってい る 民 族 は,優 れ た植 栽樹種 を選 択 して い る。普通 は,生 長 の速 い水 冬瓜 (Alm LSu7Wf'alenst'S, 榛 の本棟 ) の木 や商 品価値 の高 い ウル シ ノキや松 な どを選 んで い る。次 に, い くつ かの民族 の植 林 の例 を紹 介す る。。盈江 県 卜場地 区 に住 む景願族 は,現 在で も焼畑 農耕 を営 んで いて,植 林 は 景頗族 の伝統 的 な焼畑 方式 であ る、。 毎年秋 に, 人々は山奥 に水冬瓜 の種子 を採集 に行 き,播 種 前 に陸稲 の種子 に混ぜ てか ら,地面 に混播 す る。 その後木 の苗 と陸稲 の苗 は同時 に生長 し,作 物 を収 穫 した後 に は,すで に鮮 や か な線 色 を した水冬瓜 の木 の幼林 がで きあが ってい るので あ る。 5, 6年 後 に はそれ を伐探 し, また食糧 を栽培 す る こ とがで きる。水冬瓜 は,一般 の樹 木 に比べ 生長が速 く, また落葉 の量 も多い。)その うえ根 に根痛 菌 を もってい るので空気 中の窒素 を固定 し,地力 を肥 やす こ とがで きる〔- またその ため休 閑地 の植生 をで きるだ け速 く回復す る こ ともで きるので あ る。 貢 山県の独 龍族 と怒族 も水冬瓜 を栽培 す る伝統 が あ る。 しか し彼 らは種子 を散播 す るので な く,苗 木 を植栽す る。 水冬瓜 の木 は秋 に種 が落 ちるので, も し種 が落 ちる前 に一度荒焼 きをす る と, 発芽 と生 長 に大 変有益 で あ る。 毎年12月前 後, 人々はlhの土 砂 崩 れ した傾 斜地 に最 も多 く生 えてい る苗木 を採 集 にい き,持 ち帰 った後, それ を溝 に浸 けて 置 き
,
清 明 節 (4
月上 旬) を待 って地面 に移植 す る。 数年後 には休 閑地 は よ く茂 った林 とな ってい る。 折水県の洛本草地 区の勘黒 人 (白族支 系上 独 龍族 や怒族 も同様 に水冬瓜 を栽培 す る焼 畑 を 営 んで い る。単 にそ れだけで な くウル シ ノキ を植 え,掻 くこ とに も長 けていて, ウル シ ノキの 「糧林輪作」 法 を創 り上 げたo この方 法 は, まず海抜2.000m以上 の高 Llt地帯 で肥 沃 な土地 を選 び,樹林 を伐探 し,焼畑 地 を乾燥 させ る。∫その後,一度掘起 こ して家鴨 の糞 を施 し,2, 3月 の 関 に ウ ル シ ノキの種 子 を散 播 す る。 2年 目の 3月, 苗 木 が 50cm位 まで 生 長 した ら, 海抜 1.000-1,900m の間の焼畑耕 地 に移植 す るO比車知勺肥沃 な土地 な ら1ムー当た りお よそ40-50 株植 栽で きる。 また比 較的痩せ た土地 な ら50-60株 植栽 で きる。 また地力 を肥 やす ため に, ウ ルシ ノキ と水冬瓜 の木 を混植す る こ と もで きる。4, 5月に ウル シ ノキ と水冬瓜 の本株 の畝 の 531東南 アジ ア研 究 35巻3号 間 に トウモ ロコシな どの作物 を植 える。その後3, 4年 は トウモ ロコシの連作 がで きるが,木 が大 き くな った ら,再 び トウモ ロコシの間作 はで きないので,栗 や南瓜 な どの作物 に切 り替 え る。水冬瓜 の木 は,6- 7年で伐採 で き,枝葉 は地面で焼 き,幹 は主 に建築用材 にす るこ とが で きる。 ウル シ ノキ は8年後 に掻 くが, 1ムー当た り年 間で14kg程 の樹 液 を採 る こ とが で き る。 漆 は7,8年続 けて掻 くこ とがで き,良い もの は10年 あ ま り採 り続 けるこ とがで きる。 木 が老化 した ら,伐採 して火入 れ を し, 同様 の植 栽 を継続す る。 植林 は,農業資源 の保全 や生態系 のバ ラ ンスの維持, そ して人 口が多 く土地が少 ない とい う 問題 を緩和 す る有効 な方法であ り, まさに焼畑 農耕民 の生存 の知恵であ る。 しか し,50年代 か らの外部 の絶 え間無 い非難 や反対 , また制 限 な どを受 けて, この植林農法 とい う優 れた伝統 を も 「原始 的 な遅 れた風習」 と して,次 第 に放棄 されて きてい る。 この こ とは,疑 い もな く大変 残念 な こ とであ る。
Ⅴ
土地調整の戦略
焼畑農耕民 の 中で は,村,氏族 ,個 人 に よって土地が多か った り,少 なか った りし,人 々の 占有 あ るい は土地利 用 面積 は均 一 で ない。 しか し,土 地 の少 な い村 ,氏族,個 人 は,村 ,氏 族, あ るい は個 人の問にあ る地縁 ,連盟,親戚 ,友 人 な どの諸 々の関係 によって,土地 の多 い 村 ,氏族,個 人 よ り一定面積 の土 地の一時的 な使用権 を得 るこ とがで き, それ によ り土地不足 の問題 を解 決 してい る。 この よ うな社 会 関係 を利用 しての土 地調 整で よ く見 られ るの は,借 地,租借地,共 同耕作 の 3形式 であ る。 借 地耕作 は,一般 的 に比較 的関係が良好 な村 ,氏族,個 人間で発生 してい る。 借地人 は,習 慣 に従 って,貸方 の村 の長老,氏族 の首領, あ るい は地主 に煙草,茶, ビンロウ,酒 な どの贈 り物 を送 り,必要 な借地面積 と使用期 間 を説 明す る。 借地 の場合 は報酬 は必要 ない。人 口のあ まね く増加 に よ り,現在 人が少 な く土地が多 くて,耕地 を人 に貸す こ とがで きる地 区 はすで に 少 な くな って はい るが, まだ一部 の地域 で は行 われてい る。 例 えば,盈江 県の幸場地 区の景頗 族 の村 で は,今 日で も借地耕作 の伝統が依然 として生 きてい る。 租借地 は借地 とは違 い,一定 の地代 を収 め なければな らない.例 えば,劫海県 の布朗 山の布 朗族 は,かつ て-担 ぎの種が撒 ける土地面積 (約4- 5ムー) で は,一般 的 に 1枚銀貨 を収 め た。布朗 族 は村 集 団で租 借耕作 を盛 ん に行 って い る。 不 完全 な統 計 だが,布 朗 山の草加村 は 1934年 か ら1954年 の20年 間,南東 に星班,新 固,香広 な どの村集 団が,14カ所租借耕作 を して いた。基諾 山の 巴亜村 も巴奪 , 巴坂, 巴漂,礼盃 の土地 を租借耕作 し,陸稲500kgの収穫 が あ れば,約250kgの地代 を収 めた。 また,村 の北角 の土地 は地代 も比較 的安い 。 幸 場 の景頗族 の 租 借 地耕作 は,1ロー (約20kg強) の種 を播 種 で きる面積 (約3- 4ムー) で は,地代 は多ヂ :雲南 刀耕 火種 (焼畑 農耕 )民 の生存戦略 い もので1.5ロー,少 ない もので0.5ローで あ った [ヂ 1985:23]。 共 同耕作 は, 関係 の親密 な親戚 ,友 人間で多 く発生 し, これ は土地 のあ る もの は土地 を,労 力 の あ る もの は労力 を,種子 のあ る もの は種子 を提 供 して共 同で耕作 し,協議取 り決 め に基 づ い て 食糧 を分 配す る, 一種 の 自主 的 な協 同,相 互 利益 の土 地 調 整 方式 で あ る。 この共 同耕作 は,今世紀 の50年代 初頭 には盛 ん に行 われて いた。例 えば西盟 県の促 族 で は,50年代 の 凹継 同 氏 らの6つ の村 で の調査 に よる と, 各村 の総戸 数 中,共 同耕作 に参加 した戸 数 の比率 は,最低 が44.7%で, 最高 は100% とな って い る。 また怒江 州碧 江 県 の一 区九村 の 甲加 と羅 宜益 の二 つ の村 で は,50年代 初期 ,焼畑耕 地 の共同耕作 面積 は,全面積 の94%を占めて いた。碧江 県 の知 子羅村 には,怒族76戸 が住 み, そ の うち共同耕作 にかかわ って いたの は61戸 で,全戸 数 の80% を占めてい る。 福 貢 県の一 区で あ る本吉 甲村 で は,水 田の共 同耕作 が 水田の総 面積 の41.6%を 占め,耕 起 地 の共 同耕 作 は総 面積 の65%,焼畑 耕 地 で は86.6% とな って い る [ヂ 1981:35, 56,64]。 過去 現 在 を問 わず ,土 地 の 多 い村 や個 人 もあ り, 少 ない村 や個 人 もあ る とい った現 象 は客観 的 に存在す る。 社 会的 な関係 をか け橋 に した借地,租借 地 や共 同耕作 は, かつ て雲南 の焼畑 農耕民が広 く行 って いた土 地調整方式 であ る。 しか しなが ら,土地制度 が変遷 し, 人が 多 く土 地が少 ない とい った現 象が 日増 しに酷 くなるに したが って, この種 の方式 は昔 ほ どには 行 われ な くな って しまった。
ⅤⅠ
移 動 の戦 略 雲南 の焼畑 農耕民 の大部 分 は定住 を してい るが,一部 には定住 しない移動民 もい る。 なぜ移 動 す るのか とい うと,歴 史的 には他 民族 の圧迫 や戦 争か らの逃避 ,鬼神観念 に よる移住 や疫病 か ら避 難す るためで あ った。 しか し最 もよ く見 られ る事 例 は, どち らか とい うと,生 活環境 の 改善 のため に,焼畑 に都合 の よい森 林 を求 めてで あ る。 前 に も言 及 したが,焼畑 農耕 の最 も基 本で あ り,重要 な特徴 は休 閑耕作 にあ る。移動焼畑 農耕民 と定住焼畑 農耕民 との違 い は,休 閑 耕作 の範 囲の違 い にあ る とい える。定住民 は村 の土 地 の限界や決 ま り事 を受 け,彼 らの休 閑耕 作 は村 の土地 の範 関 内 に固定 されて い るO移動民 は村 の土地 の 限界や決 ま り事 が な く,森 林全 体 を自分 の休 閑耕作 の範 囲 に見込 み, もとのす み かの環境 が悪化 し,伐採耕作 で きる森林 が新 た に見 つ か りさえす れ ば,遠 い近 い にかかわ らず ,彼 らは毅然 と家 を捨 て,故郷 を離 れ耕作 に 赴 く。80年代以前, 雲南 の 自由移動 す る習慣 を もつ焼畑 農耕民 には,揺 族,苗族 ,蛤尼
族 の一 部 ,持祐族, 傑 僕族 と克本 人が い た。 これ ら民族 は焼畑 を営 むばか りで な く, 狩猟採 集 も盛 ん に行 い, そのため森林- の依存度 は極 めて高 か った。他方 , これ らの民族 それ 自身 を見 る と, 彼 らの 中 には外 来 に属 す る, 当地 にルー ツの ない民 族 (例 えば揺 族 ,苗族 ) もいた り,比較 的 弱小 の言 わば蔑視 されて きた民族 支 系 (例 えば克本 人や黒
位 相) もいて, かつ て彼 らは 自分の 533東南 ア ジ ア研 究 35巻3号 村 よ り20km地点 図 2 麻木樹郷 旧龍村 の分化 変遷 図 出所 :[ヂ 1992] 土地 を もってお らず,思 いの まま移 り住 んで いた。例 えば騰 沖県 には,かつ て この ような こ と わ ざがあ った。 「伐根腐 れば,傑 傑移住す る」。 これ は,その地 の傑傾族 の移動 がか な り頻繁 に 行 われていた こ とを裏付 けてい る といえる。 また,劫海県 の位 相族 の村那賓 で は,1949年か ら 1976年 まで, この村 の周囲数十 キ ロの範 囲内 に18回 (一説 には17回)移動 し,その うえ2,3 戸 ずつ越 した り戻 った りの情況 は数 え切 れ ない (図2)。 また,劫膳 県の恰尼族村 の旧龍 で は, 1942年 か ら1982年 の40年 間, 人 口の不断の増加 で森林面積 が 日増 しに不足 し,村が常 に分 かれ て移住 し,本来 ひ とつ だ った村 が9つ にな って しまった。80年代 に入 る と,国家が新 しい森林 と土地 に関す る法律 を公布 して,森林 と土地 の所有 を厳 しく区分 した。 こうなる と,移動 を習 慣 と した焼畑農耕民 は所有権 のない,誰 も管理 していない森林 を見つ けるこ とが難 しくな り, その ため, 移動 に よ って生存 の危機 か ら抜 け出す戟 略 は,次 第 に実行で きな くな った ので あ る。
早 :雲南 刀耕 火種 (焼畑 農耕 )民 の生存 戦略
ⅤⅠ
Ⅰ
商品作物 を発展 させる戦略
商 品作 物 を栽培 し,市場 で換 金 す る こ とで, 農業- の依 存 度 を軽 減 す る こ と もまた,焼 畑 に お け る森林 資 源 の不 足 を解 決す る ひ とつ の重要 な手段 で あ る。 雲 南 の大部 分 の 山間地 で は, 商 品経 済 は発 達 して い ない に もか か わ らず , 商 品作 物 の栽 培 の歴 史 は む しろ比 較 的長 い。 例 え ば,思 茅 や西双 版 納 な どの基諾族 ,布朗 族 , 恰尼 族 な どの生 産 す る 「普再 茶」 は,古 代 にお い て も大変 有 名で あ った。 明清 朝 の時代 ,黄 連 な どの薬 材 を採 集 し,売 る こ と も怒江 峡 谷 の怒 族 や独龍 族 な どの重要 な生 業 で あ った。 80年 代 か ら政府 の奨励 と支援 に よって, 多 くの焼畑 農耕 民 は, 商 品作物 の栽培 を重要 な発 展 の 目標 と し, 大 きな成果 を上 げ た。例 え ば怒江 峡谷 で は, 80年代 以 降, 主 に シナ アブ ラギ リ, ウル シ ノキ, クル ミと黄連 な どが発展 した。 当地 の碧 江 県 (硯 櫨水 県)の架科 底 村 は,1985年 の シナ ア ブ ラギ リの植 栽 面積 が3,519.1ム ー まで に達 し, 同 年 の種 子 生 産 量 が49,237.5kg, 収 入 が35,451元 で あ った。 福 貫 県 は, 商 品作 物 発 展 の た め に 統 一 の計 画 を作 り, 海抜1,600m以 下 で は シナ アブ ラギ リを栽培 し,1,000-2,000m地 帯 で は ウ ル シ ノキ を植 栽 し,2.400m以 上 は森 林 と し,森 林 の 中 に黄 連 な どの漢 方 薬 材 を植 え る こ と と した。1985年 末 に は,福 貢 県 の シナ アブ ラギ リの面積 は.48.900ム ー強 まで に達 し, ウル シ ノキ は25.531ム ー, 黄 連 15,100ムー強 に な った。 1985年 の シナ アブ ラギ リの生 産量 は, lil.5 万 kg,
漆 は12.5万 kg, 黄連 は9,000kg強で あ る。 怒江 州 全体 で 1979年 の商 品林 の面積 は,6万 ム ーあ ま りで,1986年 には50万 ム ー強 まで発展 した (怒江 州統 計 局.1987年 )。 景 洪 県 の基 諾 山 は,歴 史上雲南 南 部 の6大 茶 産地 の 中で 第--位 を占め て い たが,現 在 この伝 写真5 商品作物 としてのバナナ栽培が,近年元江 流域に多 く見られる 続 的 な商 品作 物 も, かつ て の よ うに重 要 な座 を奪 回 した。 1976年 か ら1986年 まで に, 茶 の 栽培 は4,769ム ーか ら6,630ム ー まで発展 し, 総 生 産 は3.143.41市 担 (1市 ‡勘ま50kg) と な り,生 産 額 は50万 元 あ ま りにな った。 また 砂 仁 は,近年 当地 で は最 も速 く生 産 が伸 び, 利 益 も一 番 大 きい 商 品作 物 と な って い る。 1977年 か ら1986年 まで, 砂 仁 の 栽 培面積 は 1,705ムーか ら9,414ムー まで増 え,総 生 産高 は3,412.06市 担 , 売 上 は200万 元 余 りで あ っ た。1991年 には さ らに15,718ムー まで に伸 び た。 ゴムの木 も重 点生 産 品 目と して,1986年 に は2,511ム ー植 え,1987年 も1万 ム ーあ ま り 535東南 アジア研 究
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巻3
号 植 栽 し,1
9
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年 に は2
0,
0
8
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ムー に まで 達 した。 この ほ か に果 物 も大 き く伸 び,1
9
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年 に は2,
6
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ムーであ った (基諾郷統計 室.1
9
9
2
年)0 この ように,商 品作物栽培 に よる林業が発展 す るこ とで,焼畑農耕- の依存 は,大幅 に減少 した。基諾 山 を例 に とれば,1
9
8
0
年 当地 の穀物 栽培面積 は3
9,
3
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ムーで,1
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年 は31,
2
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ムー と8,
09
0
ムー も減少 した。1
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8
0
年 の穀物収入 は7
41,
0
0
0
元で,総収入 の6
6.
6%
, 同年 の商品作物 と副業 に よる収入 は,総収入 の3
3.
4%
しか 占めていなか ったが,1
9
85
年 には,両者 の比率 は完 全 に逆転 して しまい,穀物 収 入 は総収 入 の3
2.
7%
まで に下 り,林 業産 品の収入 は2,
31
2,
0
00
元 で,総収入 の6
2.
6%
まで に上昇 した。-人当 た りの平均収入 も1
9
8
0
年 の1
3
4
元 か ら1
9
8
6
年 の481
元 まで にな り,3倍 強 に増 えた。 商 品作物 の大量栽培 と, それ に よる商品経済 の発展 は, 山地民族 と市場 との関係 を密接 に し た といえる。 完全 な焼畑農業へ の依存 か ら市場- の部分 的 な依存- と次 第 に転換 し, 自給 自足 経済 か ら商品経済- と転換 す るこ とは,疑 い もな く山地民族 の各方面 に多大 な影響 を生 み 出 し てい る (写真 5)0ⅤⅠ
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草 地耕 作 の戦 略 周知 の事実で はあ るが,焼畑農耕民 に とって, もし利用す るに足 るだけの森林資源が な く, 土地 を長期 間休 閑 させ る こ とが で きな けれ ば,森林 の 回復 は難 し く,土地 はやが て草 地化 す る。 この草地 を耕作 す るのは,地力 の退化,雑草 の繁茂,虫害 な どの問題上 ,焼畑 よ りはるか に困難であ る。 このため農民 は,焼畑 の何倍 もの労力 を費や し,その上 さまざまな対策 を講 じ な くて はな らない。次 に騰沖県,麗江 お よび怒江3つ の地域 の事例 を挙 げ,焼畑 農耕民 の森林 消失後 の草地耕作 にお ける幾つ かの戦略 を紹介 したい。 騰 沖県漢族 の森林消滅後の草地耕作 は,独特 の鋤,肇 を用 い る耕起 と野焼 きを結 び付 けた方 法で あ る。 草地 はふつ う1年か長 くて2年耕作 し,その後7,8年休 閑す る。 新 開墾地 は,9 月 に鋤で起 こ し,翌年1
,2
月 に耕す。 ただ し鋤 で起 こす方法 は,他 の地域 と違 い,土 を袋状 (塊) に し,土塊 は打 ち砕 かず, また土塊 中の雑草 は土 中に埋 め て腐 らせ ず に, 日に晒 して乾 燥 させ ,火入 れの燃料 にす る。 肇 を用 いた耕起法 も同様 であ る。 3, 4月 にな って乾燥 した土 塊 の草 の面 を内側 に して積 み上 げ,直径 1- 3mの大 きさが まち まちの円形 の保塁状 にす る。 そ の 中 に牛糞 ,乾燥 した木 の切 り株 や松 葉 を置 き,火 をつ けた後,草 のつ いた土塊 で上 を塞 ぎ,粗 く泥 を外側 に積 み上 げ,最 後 に細 か く土 で覆 う。 7日間焼 いた後 に土 山 を開 けて,再度 草 の根 や塊 をいれ, また泥土 で覆 ってゆ っ くりと焼 く。 清 明節 (4月上旬) になって,完全 に 灰状 に焼 き上が った土 山 を竹 で平 らにか き広 げ る。 それか ら陸稲 を播種 し,土 山の中心 の よ く 焼 けた赤土 を とってかぶせ る。2年 目 も耕 作 を続 け るな らば,大量 の施肥 を し,常 に除草 をす5
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ヂ :雲南 刀耕 火種 (焼畑 農耕 )民 の生 存戦略 る必要 が あ る。 この種 の野焼 きの方法 は,焼畑 農耕 の継承 と言 える。 それ は, 固 まった土壌 を 柔 らか くす るだ けで な く,雑草 や害 虫 の繁殖 を抑 制 す る こ とがで きる。 麗江 県 の山地民納西族 は,森 林消失 後 の乾地 を2つ の農法 で耕作 して い る。 一つ は,休 閑耕 作 の実施 で あ り, もう一つ は休 閑耕作 の連作 を行 わない もので,休 閑耕作 地 に撃耕 と野焼 きを 結 合 させ た方 法 であ る。新 開墾地 に7月, 一度 耕起 して, 11月再 度起 こ し, 翌年 の 2, 3月に 山で松 葉 を集 め, そ れ と雑 草 とを一 緒 に地 面 に敷 き詰 め て焼 く。 この と き 1ムー 当 た り約
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k
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の松葉 を焼 く。4
月 にエ ン麦 を播 き,6
,7
月 に除草,1
0
月に収穫す る。 その後引 き続 き魂豆 を一 回栽培 した後, 3年 間休 閑す る。 火入れ をせ ず に連続 して乾 地 を耕作 す る方法 も, 耕起 ,施肥 お よび輪作 を結 合 した農法 であ る。 どの土地 も播 種前 には,3度耕起 し,3度 な ら す 。肥料 は主 に厩肥 で, それ を作 るため に, ほ とん どの家 で は数十頭 のヤ ギ と数頭 のあか牛 を 飼 って い る。 また, この外 に若 干 の緑 肥 も植 えて い る。 輪作 方法 は土地 に よって異 な るが,肥 沃 な土地 には, 2年 間馬鈴薯 (夏 の食糧 と して) とハ ダカムギ (冬 の食糧 と して) を植 え,3 年 目に麻 あ るい はカブ, また は白イ ンゲ ンか ソバ を栽培 す る。 4年 目に は再度馬鈴薯 を植 え, 間 に豆 や ソバ な どの作物 を植 える。 痩せ た土 地 には, 1年 目に馬鈴薯 ,2年 目には他 の作 物 に 変 える。 怒江峡谷 は,雲南 で名高 い焼畑 の根絶地域 で あ るが,現在乾地 の耕作面積 はす で に焼畑 を大 き く上 回 って い る。 この地 の乾地耕作 の発生 と発展 は,16世紀 中頃 よ り傑儒族 が,北方 か ら大 量 に入植 して来 た こ とと密接 に関係 してい る。 過度 の開墾耕 地化 に よ り,怒江 峡谷 中の森 林 はすで に大量 に消滅 して しまってい る。 木株 が 剥 き出 しにな ってい る峡谷 の傾 斜 地 を前 に,怒江両岸 に暮 らす怒族 , 傑儒族 な どが焼畑 を営 む こ とは, もはや不可能 とな って い る。彼 らは土地 の勾 配 の大 きさに よって,鋤 と撃 を使 い分 け て耕作 してい る。 そ こか ら 「鋤耕 地」, 「牛整 地」 とい う名称 がで き,両方 とも連続 して耕作 で きる乾地 で あ る。 この他 ,彼 らは施肥 しない焼畑 のや り方 も変 えた。毎年 大量 の落 ち葉 を集 め て,厩 舎 につ め て堆 肥 をつ く り, そ れ を大量 に地 面 に投 入す る こ とで, 地 力 を維持 させ て い る。 一般 的 にムー当 り1,
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0k
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以上施 肥す る。 峡 谷北部 は,親 族 の影響 で, ムー当 りの施 肥量 が, しば しば2,
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0
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強 に もな るこ とが あ る。 ま さに鋤撃 に よる耕作 と施肥 に よって, 怒江 峡 谷 の乾地耕作 の発展 は強 固 にな った とい え る。Ⅰ
Ⅹ
水 田開発 の戦 略 水 田開発 は,疑 い もな く,森林 と土 地資源- の圧 力 を緩和 す る有効 な手段 であ る。 雲 南 の焼 畑 農耕民 の多 くが,早 い時期 か ら水 田耕作 を行 って いた。例 えば,葬族 は,早 くも 4世紀 には 水 田耕作 を していた とい う記録 が あ る。.また,穏 族 ,苗族 ,徳昂族 ,景頗族,f
瓦族,布朗 族, 537東南 アジア研 究 35巻3号 怒族,傑僕族 な どの民族 の一部 は, 中華 人民共和 国成立以前 よ り,すで に水 田農業 を兼 ねて営 んでいた。水 田の開発 が最 も遅 か ったのは,独龍族 と基諾族 で,前者 は1952年 に始 ま り,後者 は1957年 に始 まった。 図3には,半場 の景頗族 と怒江 の独龍族 の水 田面積 の推移 を示 した。 水 田開発 につ いて言 えば,雲南紅河流域 に住 んで い る恰尼族 の棚 田農業 を特 にあげ るべ きで あ ろ う (写真6)。紅河の恰尼 族 は,紀元前2,3世紀 に,北部 の金沙江 よ り南 下 して来 た。 彼 らは,紅河 の山地 にた ど り着 いた後, は じめ は焼畑 を営 んでいたが,人 口が大幅 に増加 して 1950 1960 1970 1980 図3 水 田面積 の推 移 (1)独龍江 地 区独 龍族 の水 田の推 移 (2) ト場地 区景頗 の水 田の推 移 1990年
ア :雲 両 刀耕 火種 (焼 畑 農耕二)民 の生 存 戦略 写真6 紅 河 流 域 の 略 尼 族 の棚 田 写真7 怒 江 峡 谷 に広 が る怒族 と傑欄 族 の 畑 と新 しい棚 田 か らは,棚 田の 開発 を始 め, 明代 には この地 の棚 田農業 はす で にか な り発達 してい た。、
現
在 の 紅 河 III地 で は, 水 源 の あ る山の傾 斜 地 は, す で に開 発 され, 山裾 か ら頂 きまで,棚 田が交亙 に 幾重 に も連 な り, 実 に壮 観 な眺 め で あ るしこ棚 田農業 は集約 型の農業 形態 で あ り, 人類 に とって 安 定 した利 用 システ ム とい え るO 紅 河 の姶 尼族 が創 り上 げ た棚 円農業 は,他 の地域 の 山地民 族 の 発展 に, 間違 い な く学 ぶべ き,参考 とな る価 値 を もって い る (写真 7)。、結び
以上 ,雲 南 の焼 畑 農耕艮 の持 続 的 な生 存 と発 展 を求 め て の8つ の戦略 を紹 介 した。 ま さに こ れ らの 戦 略 に よ って,雲南
の い くつ か の 山地 民 族 の焼 畑 農 耕 は, 今 日まで続 い て きた の で あ る。 しか し, 人口が 一層増 加 し,森 林 法 規が よ り強化 され るにつ れ て,焼 畑 農耕 は一 歩-一歩消 滅 に向 か って行 くこ とで あ ろ う。 そ して,乾 地 の耕 作 が国定 し, 水酬 詞発 や商 品作物 の 栽培 が 雲 南 の焼畑 農耕 民 の主要 な生 存手段 とな る こ とで あ ろ う.。 謝 辞 本稿 は中国語 で書 か れ た もの を渡辺 建 美氏 に翻 訳 して い た だ い た「.こ こに記 して謝意 を表 します 参 考 文 献 朱恩常 ;張 文照. 1981.
『怒 族 社 会 の 歴史 調 査』雲
南 人艮
出版 社 539東南 アジア研 究 35巻3号 王樹立 ;宋恩 常.1985.『布朗族社 会の歴史調査』 (2)雲南民族 出版社 . ヂ緒亭.1991