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コミュニケーション的行為理論による道徳教育の可能性

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(1)93. コミュニケーション的行為理論による道徳教育の可能性 渡通II.IJ (平成10年9月9日受理). はじめに. 時代とそれ以前の時代とでは大きく異ならざるを得ない ということは認めなければならないように思われる。教. 今子どもたちが大人たちを困惑させている。学校では、 校内暴力、いじめ、登校拒否(不登校)そして学級崩壊、 学校の外では、凶悪・粗暴化する非行、薬物乱用、性的. 育に関わる、この近代固有のトポスの構造を明らかにし ようとするとき、避けて通ることができないのは、すで. 逸脱等々の諸問題が多発し、しかもごく普通の子どもた ちがそれらの渦中にあるといわれる。このような子ども たちを巡る厳しい現実の中で、子どもたちの「モラルの. に度々論究されてきたフーコー(Foucault.M.)による 近代を巡る議論であろう1)。それによれば、 17世紀にお. 低下」がその決定的な要因と見なされ、学校教育に対し. いては言葉と物とはその確実なっながりを喪失し、言葉 はその独自の世界を構成することとなった。それ以前に おいては言葉はそれが指し示す対象である物と共通の地. て、とりわけ学校の遺徳教育に熱いまなざしが向けられ ている。. 盤の上にあった。ところが、 17世紀以後においてはその 地盤は失われ、人間はその地盤を知の世界において構築. その一方で、学校の道徳教育は、その意義が強調され ながら、反面不十分さが指摘されている。特に1958 (昭 和33)年の「道徳の時間」の特設以後もその実施の不徹 底が指摘され、また、その効果に疑問が投げかけられて きた。しかし、多くの批判の中で道徳の授業に関して様々 な工夫がなされてきたのも事実である。話し合い活動や 役割演技を積極的に導入したり、教科の学習との結合や 特別活動における体験活動との結合も行われてきた。そ れにも関わらず、依然として道徳教育の不十分さが指摘 され、それが単に政治的な思惑にとどまらず、おおかた. せざるを得.なくなったのであるo一方、人間それ自身は 身体と精神を持つ一個の全体的存在であるが、言葉と物 の分離は、人間の思考においては、精神と身体の分離を 余儀なくされることを意味している。 そのような事態の帰結を、フーコーは人間であること の四つの特質として描いている2)。 ①人間の存在の有限性。 人間は、一方では、労働、言語、生命などの具体的な諸. の認めるところであるとすれば、教育と道徳教育の基本. 形態によって外部から規定され、他方では、これらの経 験の成立を主体としての人間に負っている。 ②人間の「経験的-先験的な二重性」。. 的な部分に立ち戻るしかないように思われる。 以下では、近代以後の教育の基本的な問題に立ち返り、. 人間は認識の主体であり、かつ同時に経験の客体でもあ る。. 学校における道徳教育の課題とその課題を遂行する具体 的な可能性を探りたい。. ③人間の思考には、 「思考されないもの」かつきま とう。 物自体、即日存在、無意識など。. I今日、教育・道徳教育の基本的な問題は何か (1)近代という前提. ④人間は自分の起源から隔てられている。 人間はその出発点においてすでに始まっている経験を下. 今日家庭や学校において生じている教育上の諸問題を. 地にしている。そのために、純粋な起源(アイデンティ ティ)を問うことができない。. 一過的なものと見なさず、またそれらの解決を単に対症 療法的なものとしないという決意を持って教育の理論と. 人間は身体(欲求)によって世界の実在を感じること ができるが、それは同時に身体を通してこの世界に制約. 実践に関わろうとするなら、いくつかの踏まえておかな ければならない諸前提が存在しているように思われる。. され、規定されていることであるO一方、表象の世界に おいては世界は人間の身体(欲求)を通して実在するも. 子どもたちの教育がわれわれ大人の悩みの種となった のは、それほど古いことではない。教育が近代に固有の. のとなる。人間と世界は互いに他方を含み込む関係にあ るのである。近代哲学と科学論の祖と見なされるデカル. 事柄であるかどうかは横に置くとしても、われわれが教 育を構想する基本的な場(トポス)は、近代と呼ばれる. ト(Descartes,R.)の二元論哲学は、その事態に対する. *兵庫教育大学第1部(生徒指導講座). 対応と捉えれば分かりやすい。この混乱した事態の中で、.

(2) 94. 確実なるもの-のデカルトによる探求は、精神を身体の. しかし、彼らの意識をもっとも強く規定しているのは、彼. 上位におき、精神の持っ合理的形式を物に当てはめるこ. らが今生きている家庭や地域社会ではないかもしれない。. とによって遂行された。しかし、それは精神と物の分離. 家庭においてテレビを見、食事をとりそして家族と親しく. という事態がはらむ問題を解決することではない。それ. 交わりながらも、常に彼らの意識を何よりも強く規定して. はかつて絶対的なるもののあった位置に人間自身をおき、. いるものがはかに存在している。それは学校であり、学校. そこから世界を統一的に捉えることであり、むしろもう. に規定された家庭教育ではなかろうか。生活世界の中での. 一つの新たな困難を生じさせることでしかなかった。こ. 自然な自己形成は、学校に制約され、学校に規定されなが. のことは人間であることに直接関わる教育においても避. ら遂行されているのである。家庭において親と子との間で. けて通ることのできない前提をなしており、しかも様々. 語られる内容のほとんどが学校に収赦するものであり5)、. な困難を生じさせることとなる。. 地域社会における子どもの位置が学校に規定されていると. 精神と身体の二元的分離は、人間形成である教育をも 二元的に分離してしまうのである。知の領域における形 成と世界の実在につながる身体の領域における形成3)と. するなら、それは学校による家庭と地域社会の「植民地化」 といわなければならない。 ベンナー(Benner.D.)は、近代において生じるこの. いう二つの領域における人間形成が遂行されることとな. ような事態の背後にあるものを「実践的循環の崩壊」. る。知の領域における形成は、様々な科学的な知の伝達. (zerbrechen des praktischen Zirkels)と名付け、次の. として展開され、学校の発展はこの領域の拡大に対応し. ように述べる。 「この実践的循環の支配する世界におい. ている。一方、身体の領域における形成は、日常的な生. ては、道徳は習慣という形で一般に承認されており、生. 活の中で展開される。これらをいかに統合するかが、教. 活規範はすべての人にとって自明のものと感じられてい. 育学の切実な課題ということになる。コメニウス. る。これは、いわば、理論と実践、理念的価値と現実が. (Comenius.J.A.) 、ルソー(Rousseau,J.J.)そしてペ. 分裂する以前の世界である。しかし、実践的循環の崩壊. スタロッチー(Pestalozzi,J.H.)といった近代はじめの. によって、以前には真として通用していた生活規範の自. 教育思想家がこの問題-の対応をその活動の中心におい. 明性に疑いが差し挟まれ、直接的経験的必要から規定さ. たことは周知のことであろう。ところがこの問題はそれ. れていた人間存在を、新たに、理念によって構想しなけ. ほど単純ではない。. ればならなくなった」 (Benner,D., Hauptstr6mungen. (2)教育と日常生活の分離. der Erziehungswissenschaft. ,zweite Auflage. 1978)の. 有の身体とそれに強く結びつけられた意識を持っている。. だと。つまり、近代以前の伝統的な社会においては、生 活世界はその社会を秩序づけている規範によって規定さ. そして身体の成熟はわれわれの生きて活動する物理的空間. れ、その正当性は改めて問われる必要はなかった。しか. の拡大を伴い、その物理的空間の拡大は、われわれの意識. し、近代以後生活規範の自明性に疑いが差し挟まれると いうことは、その生活規範を規定していた絶対的な理念. われわれは、一人一人固有の名前を持ち、一人一人に固. の拡大とも連関しているように見える。そこには確実に空. きているのではない。まず特定の人間との関係の中へ生ま. が失われたことを意味するのであり、その正当性は個々 人が内的にうち立てる人間存在についての理念に任され ることとなったのである。. れ、そして固有の秩序や構造を持ったある具体的な世界で. この状況は、学校における教育においても決定的な問. 間と意識の関係について一般的な構造が存しているように 思える。しかし、われわれは単なる物理的な空間の中に生. 育っなかで、自我を形成しそしてこの異体的な世界から、. 題を生じさせるように恩われる。学校における教育は家. やがて一般的な世界へと足を踏み出していくのである。こ. 庭や地域社会における子どもたちの様々な体験を基盤に おかざるを得ないからである。例えば、学校において子. の異体的な世界は、物理的空間的世界とは異なり、そこに 生きる人々が共通の意味規定を共有し合っている世界であ る。これを「生活世界」4)と名付けておこう。すると、家. どもたちが学ぶ知識は、その意味規定を何に依拠してな されるのであろうか。日常的な生活世界をおいてはかに. 序と構造を有する生活世界の上に成り立っているというこ. はなかろう6ところが、親や子どもたちにとってE]常の 生活世界は、二次的なものでしかなく、むしろ学校に規. とができる。この生活世界を生きることによって子どもは. 定されてしまっている。家庭や地域社会で経験すること. その生活世界の構造(「生活形式」)に規定され、そして彼. は、学校での学習によってむしろ価値づけられてしまう のであるdノ今E]子どもたちの自然体験、社会体験の不足. 庭やそれを取り巻くいわゆる地域社会は、まさに特定の秩. の人格の多面的な側面と統一を獲得して、いわゆる自己形. 形成の過程を十分には遂行し得ていないように思われる。. が子どもたちの健全な成長を阻んでいるといわれiそれ が家庭の弱体化や、地域社会の消滅に由来するかのよう に語られるが、むしろ学校による生活世界の支配の帰結. 碓かに、子どもたちは家庭や地域社会の中に生活している。. として考えてみる必要があるのではなかろうか。. 成を遂げていくのである。 しかし、今日、子どもたちはこの、いわば、自然な自己.

(3) コミュニケーション的行為理論による道徳教育の可能性. (3)大人と子ども 近代の前提は、大人と子どもという教育が成立する基. 95. 前者を彼は「技術」 (Techne) 、あるいは「製造」 (Herstellung)と呼び、それに対して後者を「実践」あ. 盤である教育的関係においても決定的な困難さを生じさ. るいは「相互行為」 (Miteinanderhandeln)と呼ぶ。製. せることとなる。われわれがこれまで当たり前の事柄と. 造が対象の固有の規定性に従ってのみなされ得るのに対. して構想してきた教育においては、子どもは常に不完全. して、相互行為は、むしろ了解的な意味コミュニケーショ. な存在として捉えられる。 「良き大人」へ向けて教育さ. ンの枠内での相互的影響作用(ein gegenseitiges. れるべき存在なのである。しかし、この「良き大人」と. Aufeinandereinwirken)として遂行される。もし理性. はいったい誰のことなのであろうか。近代以後そのモデ. 的存在を技術的に取り扱うなら、そこに誤りが生じる。. ルは存在しているだろうか。それはどこにも存在しない. それは人間の自由と品位に対立し、被教育者は主体では. 一つの理想であり、歴史的に繰り返し様々な形で想定さ. なく対象となってしまうからである。デルボラフは、教. れてきた不確かな理念にすぎないのではなかろうか。. 育という行為は「加工(治療)」や「製造」とは異なり、. なぜ不確かなのか。それは現実の大人との関わりの中. 「主体一対象モデル」に基づく行為ではなく、むしろ教. では想定されにくいからである。すでに触れたように、. 育は相互行為として「主体一主体モデル」に基づく行為. われわれが生きているこの近代においては、社会は一つ の理念によって完結したものではなく、いわば、 「閉じ. であることを主張しているのである。教育が実践である というのは、このような教育的行為の独自性に由来する. られた社会」ではない。その成員が自己が何者であるか. のである。. をつねに問い続けなければならない不確かな、 「開かれ. しかし、デルボラフも教育を「主体一対象モデル」で. た社会」なのである。それにも関わらず、ある人間像が. はなく、 「主体一主体モデル」として把握することに成. 一方的にすべての子どもに求められるなら、そこに様々. 功しているとはいえない。マッシェライン. な葛藤が生じることは避けられないのではなかろうか。. (Masschelein.J.)も指摘するように6)、なるほどデル. 今日の学校における子どもたちの生徒指導上の諸問題は、. ボラフは、教育は人間的な可能性を「生み出すこと」. 大人の子どもへの対応が生ぬるいから生じるのではなく、. (Hervorbringen)ではあるが、それは製造のように技. 社会の大きな変化にもかかわらず、相も変わらず大人か. 術的には可能ではなく、被教育者自身によって達成され. ら子どもへの一方的な伝達と要求として教育が展開して. ねばならないし、教育者によって開かれ、支えられ得る. いることに由来すると考えるべきなのであり、そこに大. 特殊人間的な可能性を生み出すことであると捉えている。. 人と子どもとの間で葛藤が生じるのは、むしろ自然なこ. しかし、彼は主体性と相互主体性との関係についての伝. とと考えなければならない。. 統的な把握に与しており、相互行為を「了解的意味コミュ. むしろわれわれの求めなければならないのは、われわ. ニケーション」の枠内での意図的諸主体の相互的影響作. れ大人と子どもがおかれている近代という時代の中で、. 用と捉えているのである。このような実践は、彼自身も. その近代がわれわれに余儀なくしている教育の諸前提に. いうように、生徒の自律性と自己責任性をまず完成する. ついて共通認識を持っことであり、その上でそれらの前. というその固有性に直面する教育的状況の中では不可能. 提に対応し得るような教育の形を探ることであろう。. である。デルボラフにおいては、自己にある寄与を付与 する可能性は生徒に帰せられるのであるから、教育的行. Ⅱ教育とはどういう行為か. 為は技術的であってはならない「生み出すこと」ではあっ ても、その寄与は教師による生徒の未来からの先取りで. (1)教育的行為の伝統的モデル デルポラフ(Derbolav,J.)は、 『現代教育科学の論争 点』 (小笠原道雄監訳、玉川大学出版部、 1979、原題 Systematische Perspektiuen der Pddagogik. 1971). あることによって、子どもに対する影響行使にとどまり、 現実には相互行為(Interaktion)にはなり得ないので ある。 従来、教育学の中で繰り返し主張されてきたことの一. において、教育の行為としての構造を解明している。そ の際、彼は、自然のあらゆるものは法則に従っており、. つは、教育が教師から生徒への一方的な影響付与なので. ただ理性的存在のみが法則の表象に従って、すなわち原 理に従って行動することができるだけであるというカン. 達なのではなく、生徒も一人の主体であり、教育は「主. ト(Kant.I.)による「自然的対象」と「理性的存在」. しかしながら、デルボラフにおいて示したように、依然. の区別に従いながら、人間の行為実践の根本理解につい ての二重性に言及している。デルボラフによれば、対象. 教育者の責任倫理を要求することで、教師一生徒関係が. にとって妥当する「加工(治療)」 (Behandlung)と、 理性的存在にとって妥当する「行為」には違いがあり、. はなく、また教師から生徒-の教育内容の一方的な伝 体一主体関係」の中でのみ成り立つということであった。 として「主体一対象モデル」は克服されていない。彼は 「主体-対象モデル」に陥ることを回避し得ると考えて いるのである。教育の実際においても、ほとんどの場合、.

(4) 96. 教育を構成する要因は、教師、生徒そして内容なのであ り、そこでは教育の行為モデルは自然科学的モデルにと どまってしまっている。. の中でその世界を構成する規則に従いながら様々な関係. それを図式化して示せば次のようになるであろう。. に対しているのである。しかも、すでに述べた近代の前. 「大人(教師) - r子ども(生徒) -対象(世界)j」 これは「大人(教師) -対象(世界)」と「子ども(生. 提を踏まえるなら、子どもの自我はこの関係の中ではぐ. 徒) -対象(世界)」という二つの並行的な図式の総合. (Wittgenstein,L.)流にいえば、意図は、言語ゲームの. として成り立っているのである。大人がこの世界の様々 な対象を認識することが標準とされ、それに子どもが近. 意味で、言語の文法の基礎に立ってのみ、すなわち規則. づくよう指導・援助を行うのが教育として捉えられてい る。これは近代以後典型的な主体的哲学を基盤においた. る。つまり、意図は慣習を構成する規則の上にのみ成り 立つのである7)。規則は私的に従うことはできないから、. 教育の理論的な枠組みを示している。ここでこの図式が. 規則の遂行は主体的行為というよりむしろ共同行為であ. 成り立っための決定的な条件は、子ども(生徒)の自発 性であり、自己活動ということになろう。しかし、この. り、主体性は共同行為の所産と考えることができる。し. ように捉えられた教育においては、依然として子どもは 未熟な存在であり、大人による教育的操作の対象でしか. を作り出し、それらの関係を遂行している。そしてそれ らの関係を基盤におきながら様々な対象を含むこの世界. くまれるということができよう。ヴィトゲンシュタイン. の基礎の上に立ってのみ同一化できるということであ. たがって、教育は相互主体的な行為ということになる。 しかし、子どもが大人になる過程を展望しながら考え てみると、このモデルは完全とはいいにくいように思わ. ない。さらに決定的な問題は、われわれの認識は「主観一 対象」という図式で成り立つのかどうかということであ. れる。なぜなら、子どもの成長は様々な諸関係の中で行. る。これはデカルト以来われわれの科学的認識の基盤を なしていたものであるoしかし、フッサール. 始するわけではないからである。しかも、家庭や地域社. (Husserl.E.)による批判を待つまでもなく、このよう な図式は、結局はわれわれの認識の間主観性とその基盤. Bのように子どもと子どもの関わり、子どもたちの様々. われるのであり、大人と子どもの一対一の関係の中で終 会そして学校という教育の場の広がりを考慮するなら、 な活動を考慮に入れなければならない。したがって、教. である生活世界を廃棄してしまうものであり、近代以後、. 育はAとBの両方をその行為モデルとして考えなければ. 生活世界を廃棄しては認識は成り立たないことを忘れて いるといわなければならない。認識の対象である事物は、. ならないであろう。 Bは大人は一人の子どもに対するだ. 純粋透明な空間としての世界の中にあるだけではない。 そう捉えられるのは学的な認識の世界のことであって、. もは大人に対すると同時にやがて複数の同じ子どもたち. けではなく、子どもたちにも対するのであり、また子ど と共同することによって成長していくことを前提におい. 社会的・文化的世界の中で子どもの自己形成の達成に関 わる教育においては、そのような捉え方はむしろ問題を. 子ども集団への関わりという二つの視点を共に含まなけ. 生じる原因ともなる。教育的領野においては、認識の対. ればならない。しかし、それにも関わらず従来教育学に. 象は生活世界の中にあるのであって、デカルトはその事 物を数的量に還元して、それが存在している「環境との. 子どもの社会化という観点から教育を考えるとき、教育. 複雑な相互関係の網の目」から切り取ってしまうのであ る。それだけではない。認識するわれわれさえ、われわ れが存在している生活世界における関係の網の目から切. ている。教育はこの子どもたちの共同活動と大人による. おいてはこの部分を等閑視していたようにも思われる。 はこの大人と子どもの相互行為と子どもたちの相互行為 という二つの相互行為によって成り立つと考えなければ ならない。. り取られてしまっている。われわれは他者との関係の中 で生活形式を獲得し、自我を形成することはすでに述べ たが、ここではそれが捨象されているのである。. Ⅲ教育的行為としてのコミュニケーション的行為. (2)教育行為の相互主体的モデル 以上の議論を踏まえて、改めて教育の行為モデルを構. (1)コミュニケーション的行為理論. 想するとすれば、次のように考えてみる必要があるよう に思われる。. での相互行為という二つの相互行為の複合として教育を 捉えるとき、それを具体的に構想していく行為理論が必. A 「r大人(教師)一子ども(生徒)i -対象(世界)」. 要になる。それを考えていく上でとりわけ大きな手がか. あるいは、 B 「[大人(教師) - r子ども(生徒)一子ども(生徒)J]. りを与えてくれると思われるものは、ハーバーマス. 大人と子どもの問での相互行為と子どもと子どもの間. (Habermas.J.)の提唱する「コミュニケーション的行. -対象(世界)」 Aは大人と子どもとの関わりを前提においたモデルであ. 為理論」である。. るO大人と子どもは共に生きている場としての生活世界. des kommunikativen Handelns)とは、 --バーマス. ここで「コミュニケーション的行為理論」 (Tbeone.

(5) コミュニケーション的行為理論による道徳教育の可能性. 97. が1981年に公刊した同名の大著(河上倫逸ほか訳『コミュ. れる。オースティンの言語行為論は発語行為が三つの形. ニケイション的行為の理論』上・中・下未来社、 1985-. 態を持っことを明らかにした。発語行為(locutionary. 87)において示した批判的社会科学理論である。ハーバー. act) 、発語内行為(illocutionary act) 、発語媒介行. マスの学問的な仕事は、彼の師であるホルク-イマー. 為(perlocutionary act)がそれである。発語行為は事 実的言明行為であり、発語内行為は命令、助言等々の社 会的行為である。発語媒介行為は発語によって聞き手に 対して発語者の意図について一定の結果をもたらす行為. (Horkheimer.M.)とアドルノ(Adorno.T.W.)に導かれ たフランクフルト学派によって展開された批判理論を批 判的に継承しながらも、その基本的な視座である「啓蒙 の弁証法」を追求する理論的営為が現代社会の展開の中 で悲観主義を帰結してしまうのはなぜかと問うことによっ て、近代以来の道具的理性を批判的に克服する可能性を 一貫して探求してきた。その探求の過程は必ずしも単純 ではなく、現代思想の主要な潮流をなしている人物との 幾度かの学術的論争を経由しながら自らの学問的基盤の 再構築を行い、思想的な転回を行っている。もっとも大 きな転回は、 『認識と関心』 (Erkenntnis und Interesse. 1968奥山次良はか訳、未来社、 1981)にまとめられた 60年代はじめからの解釈学、認識論を基軸に置いた「認 識関心」の理論からの言語論的転回であろう。そこでの 基本的な問題は、自己の哲学的な視座が、末だ意識哲学 的な認識モデルにとどまっていることであった。理性は 対象的世界に対する支配の道具としての一面的な合理性 として捉えられるにとどまってしまい、近代の道具的理 性に対する批判は、不十分さを免れなかった。そうなっ. である8)。これによって言葉を交わすことは単に何かを 聞き手に対して伝える行為にとどまらず、発語内行為と 発語媒介行為とに見られるように,話し手と聞き手との 問で行われる社会的行為でもあることが示される。ただ 発語内行為が発語に内在する力によって成り立つのに対 して、発語媒介行為は話し手と聞き手との社会的関係に 規定されている。この違いが社会的行為としてのコミュ ニケーション的行為と戦略的行為の違いに対応している と考える。アーレントのいう社会構成的行為は前者であ り、 -ーバ-マスはこの発語内行為を話し手と聞き手と の間の合意が成立するための普遍的な条件を明らかにす る普遍的語用論としてさらに発展的に展開する。そこで は、言葉を交わすことは三つの妥当要求の提示として捉 えられる。つまり、話し手と聞き手とは、言語的コミュ ニケ-ションにおいて、事実的言明の内容が真であると いう真理性の要求、人格相互の関係に関わる社会的道徳. てしまったのは、近代以後の科学がモナドとしての個人. 的な規範や価値についての言明が正当であるという正当. が対象の世界に対時するという考え方を土台にしている. 性の要求、さらには内的な真情の表明が誠実なものであ るという誠実性の要求を掲げていると捉えられる。そし てそれら三つの妥当性が確認されることがコミュニケー. という基本的な前提を疑っていなかったからである。そ こから、 --バ-マスは意識哲学的な認識モデルに対し てコミュニケーション理論的認識モデルを対置すること になる。そのために、一般にこの時期の彼の発展は「コ ミュニケーション理論的転回」とも呼ばれるが、それに よって彼の社会理論に新たな基盤が築かれることとなる。 これを具体化するために、ハーバーマスはアーレント (Arendt.H.)の『人間の条件』 {The Human Cor,乙dition.. ション的行為の目標ということとなる。 日常的にはこれらの妥当要求はいちいち意識されるこ とはない。慣習的行為の背後にある合意を各人は当たり 前のことと見なしているからである。しかし、必ずしも 常に妥当要求について合意がなされるとは限らない。行 き違いが生じたときには、改めて新たな合意が当事者の. てのコミュニケーション活動の意義についての着想、ヴィ. 間で追求されることとなる。そして了解がうち立てられ る。このように捉えるなら、コミュニケーション的行為. トゲンシュタインの「言語ゲーム論」、そして彼につな. は、相互行為による合理性の追求でもある。その合理性. がるオースティン(Austin,J.)とサール(Searle.J.). は道具的理性に基づく一面的なものではなく、理論的理 性、実践的理性そして審美的理性に基づく三つの妥当性. 1958)における公的領域の形成に関わる社会的行為とし. のいわゆる「日常言語学派」によって言語学の領域で展 ニケーションが単にある内容の言明や伝達にとどまらず、. に対応する複合的な合理性であり、また批判可能性と普 遍的な根拠に基づく合理性と見なされ得る。この合理性. 社会を構成し、遂行する社会的な行為でもあるという基. に依拠したコミュニケーションのメカニズムに含まてい. 本的な発想を導入することによって、近代以後われわれ. る当事者に対して強制なく義務づける力が、社会の構成. の思考や行為の基本的なトポスとなった生活世界の批判. を達成する力と捉えられるのであり、また社会的諸問題. 的なポテンシャルを社会の規範的分析に導きいれること. の解決の可能性が示されるのである。. が可能になるということである。. (2)コミュニケーション的行為としての教育的行為. 開されていた言語行為論に着目する。このことはコミュ. 言語的なコミュニケーションが事実的言明であると同. 以上に概述したハーバーマスのコミュニケーション的. 時に、社会構成的機能を持っというのは、言語学におけ. 行為理論の考え方は、われわれがⅡにおいて考察した教. る語用論(Pragmatik)とのつながりの中で明らかにさ. 育的行為の新たなモデルを具体的に構想しようとすると.

(6) 98. き大きな手がかりを与えてくれるものと思われる。バー バ-マスのこの社会理論としてのコミュニケーション的. 考を促すとともに、道徳教育の新たな可能性を示唆して いるように思われる。以下では、概略ではあるがその基. 行為理論に対しては、様々な批判が提出されているが、 特に普遍的語用論の構想は、了解を達成する上で当事者. 本的な要点について述べてみたい。 生活世界の複雑化とその基盤にある了解の合理性の増. が妥当要求にのみ拘束されるための条件としての「理想 的発話状況」を前提とするが、現実の社会的状況はそれ とはほど遠く、むしろ戦略的行為が支配的であるといっ. 大は、社会的世界を構成する規範構造とその規範構造の. た指摘がなされよう。. 済的な生産様式の第二次的な表現にすぎないというマル. しかし、教育においてはこれらの批判はここでは考慮 の外においても差し支えないように思われる。なぜなら、 教育を戦略的行為としてのみ捉え、遂行するなら、そこ に様々な問題を生じることとなるからである。むしろそ うであったから近代以来様々な問題を抱えざるを得なかっ. 正当性についての了解を担っている主体の判断の合理性 の増大を意味する0 -ーバ-マスは法、宗教、道徳が経 クス主義の教説に異論を差し挟む9)。むしろそれらは独 自の発展をすると考える。つまり、社会の基盤にある規 範構造が諸主体のコミュニケーション的行為においてそ の正当性が吟味され、組み替えられていき、社会的な諸 関係のあり方が進化していくと見なす。それを担う主体. たのではなかろうか。確かに、教育は大人の世界にある 様々な文化財を子どもに伝達し、大人の社会に導き入れ. のあり方も発展していくと考えるのである。社会の進化 がそれを担う諸主体の進化と平行すると考えられている. ることであるが、それを遂行する教育的行為がその目的. のである。 その過程を具体的に示すために、ハーバーマスが注目. を技術的に達成する行為として可能であるということを 意味しない。 Iにおいて検討した近代の前提は、社会の 構造的な転換によって、確固たる社会的基盤が崩れ、教 育が意図的、組織的に行われる必要が生じたということ. するのが、コールハーグ(Kohlberg.L.)の通徳性の発 達段階の理論である10)。コールハーグはピアジェ (Piaget.J.)の発達理論を継承しながら、道徳性の発達 に関して新たな見解を示した。彼は道徳性を道徳の「内. なのであり、その教育は知的、身体的領域と同時に、道 徳的な領域をも含まざるを得なくなったのである。しか. 容」ではなく「形式」において捉える。個々の道徳的内. も、三つの領域は相互につながっており、切り離すこと が不可能でもある。そのことは教育が技術的な道具的行 為や戦略的行為としては成立し得ないということを意味. 容は相対的なものであるのに対して、それらの内容に関 して行われる道徳的判断の形式は普遍的であると考える。 それぞれの判断は「正しさ」 (正義)を志向するもので. しており、絶対的な道徳的基盤の崩壊は、それに代わっ. あり、その正しさの基準は一様ではなく、個々人の成長、 発達に伴って変化するものと見なす。 「前慣習的レベル」、. て個々人が自己の内に道徳的あり方を自律的にうち立て ることを可能にする行為としての教育を指示する。これ. 「慣習的レベル」そして「脱慣習的な原理に導かれるレ. らの条件を満たす教育的行為は、基本的には大人(教師) と子ども(生徒)が了解をうち立てる行為、つまりコミュ. ベル」という、いわゆる「三レベル6段階」論がそれで ある。. ニケーション的行為ということになろう。しかも近代の 前提が普遍的な道徳的基盤の崩壊である以上、普遍的な. ハーバーマスは、コールハーグのこの道徳性の発達段 階を、それが抱える個人主義的な限界を克服するために、. トポスを前提にすることはできない。あくまでも日常生 活、すなわち生活世界の基盤の上で、大人と子どもそし. 社会的な環境やシステムと個々人の道徳性との相互性と いう観点から、相互行為(コミュニケーション的行為). て子どもと子どもが共に当事者として属している生活世. の発達段階として読み替えていく11)。第一の相互行為の. 罪(を構成する生活形式)について了解をうち立ててい くことが、教育の過程として構想されなければならない。. レベルでは、言語使用における第一人称と第二人称が行 為の関係に通用され、相互行為を自己と他者のパースペ. その際、生活世界は子どもの成長と共に拡大し複雑化し ていく。この生活世界の複雑化は、そこでの了解の合理. クティヴ(視点)から捉える。前段は非対称の関係のな かで権威に左右され、後段は対称の関係のなかで利害に. 性の増大でもあるから、その世界の当事者でもある子ど もたちの道徳的態度や道徳的思考の普遍性と自律性の進. 左右される。第二の相互行為のレベルでは、新たに第三 人称のパースペクティヴが生じ、当事者の相互性を観察. 展として捉えることができよう。. 者の観点から捉えることができるようになる。前段は具. Ⅳコミュニケーション的行為理論による道徳教育. 体的集団のパースペクティヴから役割行為として社会的 行為を捉え実践することができ、後段は社会全体のパー. (1)道徳教育とコミュニケーション的行為 この生活世界の複雑化とそこにうち立てられる了解の 合理性の増大という考え方は、われわれに道徳教育の再. スペクティブから社会全体の維持という観点から社会競 範に導かれた相互行為を取ることができる。第三の相互 行為のレベルでは、話者のパ-スペクティヴと世界のパー スペクティヴが統合され、現存する社会規範や社会的秩.

(7) コミュニケーション的行為理論による道徳教育の可能性. 序そのものを対象化し、現実の世界や社会をひとつの可 能なケースとして捉えることができる。前段は規範の正 当性を評価する原理に基づいて討議ができ、後段は「理 想的な役割取得」に基づいた規範の決定の手続きのパー スペクティヴを持っことができる。 ハーバーマスのこの相互行為の発達段階論は、それぞ れの社会のあり方の変容(進化)を生み出す相互主体的 行為をも明らかにしている。つまり、社会を構成する規 範構造が、その社会を構成している諸主体の相互行為の 段階に依存しており、その社会を構成する諸主体の相互 承認のあり方に依存しているということである。そして、 その相互承認は言語的なコミュニケーションにおける妥 当要求(ある規範が正しいことの根拠の主張)に対する. 99. れば、話し合いの中で、内容の主張とその内容の正しさ の根拠の主張とを区別し、正しさの根拠こそ重視すべき なのである。この正しさの根拠が、社会的関係の基盤と なっている規範構造なのである。話し合いの中でこの正 しさの根拠が変わることで、関係自体も変わらざるを得 ない。そして新たな規範構造に基づいた関係による学級 が承認され、それに参加する当事者としての個々人の成 長も生み出されるのである。 (3)学校における道徳教育の具体的構想 これまでの我が国の学校における道徳教育の基本的な 考え方は、個々の子どもたちがこの社会に生きる上で基 礎的なものとして必要とすると思われる規範や価値につ いて、日常生活に類似した状況を設定する資料を通して. 妥当要求-の異議の申し立てによって展開する。そこで. 考えることによって、道徳的心情や遺徳的判断力をはぐ くむというものであった12)。このような考え方の基盤に は、道徳教育は規範や価値の直裁的な伝達ではなく、規. は規範構造の正当性が疑問に付され、正当性を有する新. 範や価値を思量する主体的構えに関わることであるとい. たな規範の相互承認が行われるのである。それによって. う近代特有の捉え方が存在している。学校における道徳 教育がこの考え方をとる限り、現代社会の諸問題に直結. 了解によって行われる。したがって、規範構造の変化っ まり社会的関係の変化は、コミュニケーションにおける. 新たな規範に基づく新たな社会的関係が成立することと なる。そして同時に個々人の発達も達成されるのである。 (2)学校における道徳教育の可能性 従来の道徳教育は個々の児童・生徒の主観的心情のレ ベルにとどまるか、それとも社会規範の伝達にとどまる かのいずれかであったように思われる。そこでは集団と 諸個人との関係は、まず個人があってその集合として集 団が位置づけられるか、集団があってそこへ参加するも のとして個人が位置づけられるかのどちらか二者択一的 だったのではなかろうか。これらは極めて個人主義的考 え方であり、また適応主義的な考え方である。このよう な捉え方に基づいた道徳教育は、個々人の成長と個々人 が織りなす社会的関係の変容を結びつけて捉えることが できない。そのために学校における学級集団としての社. する日常生活の中で子どもたちが引き起こす様々な葛藤 は、学校の道徳教育への不信を生じさせることになるよ うに思われる。なぜなら、そこでの道徳的思考は、個人 の枠の中で展開され、個々人がともに作り出している社 会の枠の中では展開されないために、社会的状況の中で 生じる道徳的実践においてはその力を発揮できないから である。 道徳教育は、主体的な枠の中で捉える道徳教育ではな く、むしろ子どもたちが日常生活や学校の教室において 行っている社会的相互行為の基盤にある相互主体的なコ ミュニケーション的行為によるそれとして構想されなけ ればならない。 それを図で示せば、以下のようになるであろう13)。. 会が未発達であるがために、個人を抑圧することもある. 生活世界・体験活動・道徳教育の関連構想図. ことを考慮することができない。そのために教育活動そ. ti全学校. れ自体が不適応を逆に生じさせることとなる。また、道 徳教育の基本的な方法としての話し合い活動を適切に捉. 序 自 ( 公 ) 的 生 活 世 可 E共 同 的 生 活 世 界 l. えることができない。話し合いの中で何が生じるのか、 どうして個々人の道徳的成長が生じ、学級内の問題の解. T T TT. 決につながるのかを説明できないのである。結局は個人 の視点にとどまったり、逆にそれを全体の視点で置き換 えることでしかないのではなかろうか。 そうならないためには、 -ーバーマスのコミュニケー. ション的行為理論に基づいて個々人が織りなす関係の変 容、集団の質的な変容を目標に置いた道徳教育を考慮す べきである。そこでは話し合い活動は、内容的にはいか なる問題を扱おうとも、常に学級がその基盤の上に存在 している規範構造の正当性をより合理的なレベルに高め ていくことにつながるものでなければならない。換言す. I ;r ▼ 生 活 形 式 の 複 相 化 . ー 壬 壬 r ー 生 活 形 式 の 再 構 成 一 一 壬 C i i ' ' i _ i ∈ ∃ l L i ヨ 三 五 l l 三 五 ̄ _ f i ! 浅 F r 口 1 ' D D互 P a ' ' ロ 口 的 : : 的 的 : : 的 聖 i 社 会 化 漕 翌 =道 : 徳 教 育 の 転 換 漕. 相. 行 : 為 l. 閲 : 行 行 : : 行 係 l 為 為 . . 為 様 々 な 諸 体 験 I . l 体 験 活 動 の 再 構 成 I I L. T T恕 了 霊 ー. l 聖 ( 私 ) 的 生 活 世 可一 個 人 的 生 活 世 界 】.

(8) 100. これは生活世界・体験活動・道徳教育の関連を構想し. 注. たものである。学校の独自の役割を社会と学校の関係の 中に位置づけて、道徳教育の新たな形を構想している。. 1) Foucault.M.,Les Mots et les choses, 1966.渡辺 -民はか訳『言葉と物』新潮社、 1974。. おわりに. 2)同上及び内田隆三『ミッシェル・フーコー』講談社、. 以上の考察から、我が国の道徳教育は近代のもはや伝 統となってしまった枠組みのもとで主体的な観点から捉 えられていたということ、そのために子どもたちの生活 世界や社会的な場の中での成長と学校における成長とが 分離したままという道徳教育の理論と実践において重大 な問題を抱えてきたことが明らかになるであろう。今日 の子どもたちの諸問題に対応するためには、この問題を 克服しない限り対症療法的対応を抜け出すことはできな. 1990, pp.103-104参照。 3)ここでいう「身体の領域における形成」は、身体教 育に限定されない。 4)中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波新書、 1992,p. 28参照。 5) NHK世論調査部編『現代小学生の生活と意識-N HK世論調査』明治図書、 1991参照。 6 ) Masschelein , J. , Kommunikatives Handeln und. いのではなかろうか。すなわち、問題が起これば厳しい 対応が要請され、その厳しい対応が逆に子どもたちの内. Pddagogisches HaJideln ,1991, S.181f.参照0 7 ) Wittgenstein ,L. ,Philosophische Untersuchungen.,1953. 藤本隆志訳『哲学探究』大修館書店、 1976参照。. に問題を生じさせれば、またまったく逆の対応が要請さ れる。その繰り返しが存続するにすぎない。それを避け. 8) Austin,J.L.,How to Do Things with Words,l%2. 坂本百大訳『言語と行為』大修館書店、 1978参照。. るためにも、教育及び道徳教育は、近代の主体的枠組み を相互主体的な枠組みへ早急にシフト・転換させる必要 があるのではなかろうか。その際の鍵は、道徳の学習を 「教室という社会」において子どもたちが作り出してい. 9 ) Habermas,J.,Zォr Reko!istruktio!i des Historischen. Materialismus. 1 976参照。 10) Habermas.J.,MoralbewuBtsein und kommunikatives HandelnAWS.三島憲一ほか訳『道徳意識とコミュ. る規範構造の組み替えに結合することであると筆者は考. ニケーション行為』岩波書店、 1991, p.183以下を. えるのである。 (付記)本稿は、マツダ財団研究助成金(代表者:渡遠満. 参照。. 「中学校における「いじめ」 ・ 「不登校」に関する実践 的指導の開発研究」)による研究成果の一部であるO. ll) Ebenda.同上pp.254-255の下の表を参照のこと。 12)文部省『小学校学習指導要領』大蔵省印刷局、 1989,。 13)この図は戸崎徳子と筆者が共同で作成した。. 相互行為の段階,社会的パースペクティヴ,そして道徳段階 認知 の 構造. 行為 類型. パ ース ペ クテ イヴ の構 造. 行 動 期 待 の構 造. 権威の概念. 動 機 づ けの 概 念. 準拠的個人 の権 威 : 外 的 にサ ンク ショ. 個 人 に対 す る忠 誠心 :. 社会 的パー スペクテ イヴ パ ースペ グテ イヴ. 正 義 の観 念. 道徳判断の 段階. 前慣習的段階 権 威 に左 右 さ れ る相 互 行 為. 相 互性 に も とづ く 個 別的な行動 パ 行 為 パースペ クテ イ ター ン ヴの結 合. 利 害 に左 右 さ れ る協 同 行 動. 慣習的段階. 社 会 的 に一 般 化. 役割行為. され た行 勤パ ター ン : 社 会 的役 割. 規 範 に導 か れ. 観 察者 の パ ー ス ペ ク テ イ ヴ と参 加 者 のパースペ クテ イ ヴ の調 整. た相 互 行 為. 社 会 的 に一 般 化 され た役 割 : 規 範 の体 系. ン され た 窓 意. 報酬/ 処罰 によ る方 向 づ け. 超個人的窓 意 の 内 面 化 さ れ た権 威 = 忠誠心 超個人的集 合意 志 の内 面 化 さ れ た権威. 務. 話 者のパ ースペク デ ィス ク ル ス. テ イヴ と.政界 のパ ー ス ペ クテ イ ヴ の統 A Cコ. スペクテ イヴ. 集 合体 の パ - ス ペ クテ イヴ ( シ ス テ ムの 観 点 ). 規範の吟味 の た. (社 会 に ア プ リ オ. め の規 則 = 原 理. リな) 原 理 の パ ー. 原理の吟味 の た め の規 則 : 規範の根 拠づ け の手 続 き. 理想的妥 当 対 社会的通用. 補 償 の対 称 性. 2. 役 割同調性. 3. 現 存 す る規 範 の 体 系への同調性. 4. 正 義の原理 によ る方向づ け. 5. 規範の根拠 づけ の手続 きによ る 方向づ け. b. ペクテ イヴ. 対 傾 向 性. = 正 当性 脱慣習的段階. 1. 自 己 中心 的 パ ー ス. 帝 一 次 態 ra <-0 'ヾ. 義. 命 令 と服 従 の 相 補性. 自 律 性 対 他 律 性. スペ クテ イ ヴ 手 続 きに も とづ く パースペ クテイヴ (理 想 的 - 役 割 取 得).

(9) コミュニケーション的行為理論による道徳教育の可能性. 101. On the Possibility of Moral Education through the Theory of Communicative Action. Michiru WATANABE In this article ,1 will argue on the problems of the modern education,and propose a new model of moral education in school. Preface. I What are the fundamental problems in the education and moral education in the school? (1) The Premises of the modern age (2) Separation between education and the day-life (3) adulthood and childhood. nwhat sort of action does education belong to? (1) the traditional model of the educational actin (2) the intersubjective model of the educational action. HIThe communicative action as the educational action (1) the theory of communicative action (2) the educational action as the communicative action. IVThe. mora一. education. through. the. theory. of. the. communicative. action. (1) moral education and the communicative action (2) a possibility of the moral education in school (3) a plan to concrete the moral education through the theory of the communicative action Epilogue.

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参照

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