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社会比較の有効性(5): 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

組原, 洋

Citation

沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL

OF LAW & ECONOMICS(19): 55-78

Issue Date

2013-03-29

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/11201

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まえがき  本稿は、筆者が担当している比較法文明論で2012年度後期において取りあげた内容を中心にし て再構成したものである。  内容的には、まず、国単位での国際関係がいまだに玉突きボールのように進展している中で、 社会の「再帰性」増大が進んでいるという見解を紹介した。  そして、続いて、これと連なる問題として、命の自己決定の問題を考えた。  最後に、年末タイ北部を旅行した関係もあって、タイを中心とする東南アジアの位置づけを考 えた。  タイを旅行したのは主に農業状況を見るということであったのだが、結果的には、様々な関心 をひきおこされて現在に至っている。  内容が多方面にわたり、かつ、未解決の問題が多いため、必ずしも分かりやすい整理にはなっ ていないかもしれないが、今の時点でデッサン風にまとめてみた。 [1]「再帰性」の増大と国際社会  2012年度後期の授業が始まる前から周知のように尖閣諸島をめぐって日中間の対立が激化し、 この問題は現在形で進行中である。  この問題に対する筆者の基本的な立場は、国と国の間の関係と、個人間の関係とは必ずしも一 致していないということである。そういうことで、野村進「島国チャイニーズ」(文献(1))の 第1章を再読してみた。  この本が書かれた時点では、中国と中国人に対する日本のイメージは戦後最悪であった。中国 人留学生らによる福岡一家4人殺害事件(2003年)はもうだいぶん昔の感じになったが、その後、 毒入り餃子事件(2008年)、度重なる反日暴動、そして尖閣諸島における中国漁船衝突事件(2010 年)と続いた。10人中8人までが中国に親しみを感じていない状況になった。  その後の動きは、当時よりはさらに反中感情を煽るものとなっていて、ただ見ているだけでは すまない、という感じが強くなってきたのではないかと思われる。最近は、領域問題とからんで、 中国が嫌いだから中国人も嫌い、といった対応がまかり通るようになっている。  にもかかわらず、日本に長期滞在したり定住したりする中国人の数は急増しつつある。外国人 【研究ノート】

Effectiveness to compare societies(5)

組 原   洋*

Hiroshi KUMIHARA

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登録者数で見ると、在日中国人ならびに台湾人は、2010年度に68万7156人だという。在日韓国・ 朝鮮人を12万人以上引き離してトップである。日本国籍を取得した人も加えると、中国・台湾系 の人口は80万人を超えると見られている。  一般に、「華僑」とは移住先でも中国・台湾国籍を有するものを言い、「華人」とはその国の国 籍を取得したものを言うが、この区分けを取り払って「在日チャイニーズ」、もしくは、この本 の書名のように「島国チャイニーズ」と呼ぶ場合、在日(島国)チャイニーズは爆発的に増加し ている。そして、野村が取材した限りでは、彼らの大半は日本での生活におおむね満足しており、 留学生もほぼ全員が、少なくとも来日時には親日ないし好日であったという。  陳天璽「華人ディアスポラ-華商のネットワークとアイデンティティ」(文献(2))を読んで も、やはり、このような鮮やかな対照を不思議に感じた。  2012年度前期の講義で現代中国法を3回ぐらいで概観してみて、法制レベルでは中国は依然と して、西欧流の法との間に大きな距離が残っているということを強く感じさせられた。この溝は そう簡単には埋まらないであろう。ところが、筆者個人の体験でも、在日チャイニーズの方々は ステキに日本に適応している人が多いのである。  筆者が個人的に知っているRさんなどその好例であろう。最初にあった時は、ガチガチの社会 主義中国シンパのように見えたのだが、その後大きくかわっていって、日本に上手に適応していっ たように見えた。そして、在留許可期限が切れるギリギリのところで日本人男性と結婚した。彼 女は、中国に戻ればちゃんと仕事も見つかったはずである。結果から判断すると、彼女の中で、 中国よりは日本で生活を続けたいという気持ちがどんどん高まっていっていたのではないかと推 測する。やっぱり、日本って自由なんですね。そして、Rさんのように、自分の考えを持ってい る人には、日本は非常に生きやすいところではないかとという気がする。  尖閣との関連で、反日デモについては、テレビでデモを見ていて、全然遠慮のない暴力行為に なっていることを感じた。ステッカーを見ると、日本人を蔑称で呼んで(小日本)、日本人を皆 殺しにせよというのだから、ちょっとまともとは思えない。それを放置する中国政府が置かれて いるのがどんな状況か、というのが重要だということは、誰しも感じたのではないか。  デモで毛沢東の写真を掲げていたのは、正直、意味がよく分からなかった。毛沢東の立場は、 日本軍国主義に罪はあるが、日本人民に罪はないというものであったはずなのだが。  中国では、文化大革命と、それが終わってから起こった1989年の天安門事件が非常に大きな影 響を及ぼしている。ところがデモを見ると、みんな若い人である。彼らはどういう人たちなのか。  9月16日朝日新聞朝刊の「偏向のツケは中国自身に」(文献(3))は、偏った教育や報道のツ ケが今中国側に回ってきているとしている。これについては、以前、清水美和「中国はなぜ「反 日」になったか」(文献(4))を授業で使ったことがある。  歴史問題が日中外交の大きな焦点になったのはそんなに古いことではない。  天安門事件で共産主義の理想が色あせ、党の威信が大きく揺らいだことで、中国共産党はその 正当性を強調するのに抗日戦争の記憶を呼び起こした。「抗日戦争勝利50周年」の95年を中心に 愛国主義を鼓舞する激しいキャンペーンを展開し、各地の戦跡が「愛国主義教育基地」に指定さ れ、小中学生の参観が義務づけられた。  このように、天安門事件後愛国教育が徹底され、98年、中国元首の初の訪日となった江沢民訪

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日では、江が「正しい歴史認識」を強調したため、親中派といわれる人々も含め大きな反発があっ た。歴史問題をめぐる両国政府の摩擦がそれぞれの国民感情に影響を与え、親近感が大きく後退 するようになった。  90年代には多くの新聞、出版社が独立採算制に切り替えられ、読者を意識した編集が不可欠に なったという事情も挙げられる。もちろん、共産党宣伝部門の統制下に置かれていることは変わ りがなく、閉ざされた「電脳空間」であるが、愛国主義なら日本や台湾をどれほどどぎつく叩こ うとどこからも文句がつく恐れはなかった。その中で反日的な報道や意見が氾濫した。  このようにして教育されてきた民衆の怒りを当局は制御できなくなったのだと思う。挙げ句、 民衆に迎合するという選択をすることとなったのか。  一方、尖閣の問題だけでなく、戦後の日本の領土問題全般に背後で米国が関係している(文献 (5)参照)。  前期の講義でも、中国と並んで、米国の民法関係の事例を中心にやはり3回ほど見てみた。米 国で訴訟が異常に多いということをどう評価するかが課題として残っていて、これについて考え るところから後期の授業を始めたいと考えていた。  筆者自身は、米国との関係では、メキシコの農業との関連で考え、エリザベス=フィッティン グ「壊国の契約」(文献(6))を読んでいた。  遺伝子組み換え作物(GM作物;F-1種)は1990年代半ば以降急速に広がった。その中で、ト ウモロコシはメキシコを象徴する主穀であるため、GMコーンの輸入、野外実験、商業栽培が問 題となってきた。  コーンを輸入して労働力を輸出するというのがメキシコの国家戦略である。これに対して、反 GM連盟は食料主権と食の質を前面に押し出した。トウモロコシをシンボル化し、メキシコ国民 とその文化の象徴としてこれを利用した。  住民は新自由主義的モデルに対抗して、自分たちをカンペシーノ=百姓と規定し、困難ではあっ ても品位ある暮らしを維持しようとした。時として、その結果、伝統に固執する「百姓本質主義」 に落ち込んでいくきらいがないでもないが、非常に有効な戦略であり、GM種と伝統的品種間の 遺伝子拡散の危険性だけに注目する世間での論議に対して、反GM連盟がその他の重要な問題(貿 易の自由化、企業農業の拡大、農村補助金の削減、出稼ぎと再・出稼ぎの悪循環等)に取り組ん でいく時のバネになった。   結 果 を み る と、 メ キ シ コ の 白 ト ウ モ ロ コ シ 生 産 は1994年 に 発 効 し た 北 米 自 由 貿 易 協 定 (NAFTA)以後かえって増加している。トウモロコシ生産は農外収入によって支えられている。 同時に、それは、自給用にもなれば売りにも出せる便利で融通の利く穀物として、農民にとって はまさかの時の杖になっているのである。  しかし、住民たちがマキーラ(メキシコ国外から輸出のために、保税扱いで一時的に輸入され た商品の加工・組立、修理等を行う工場)で働き、さらに国境をこえて出稼ぎに出てしまうこと で、世代間の農業知識の伝達には断絶が起こっている。そこで、小規模農民として働き暮らした いと願うメキシコ人には「移住しない権利」があってしかるべきではないかという主張がなされ ることとなる。

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 このようなメキシコの状況は、TPP問題で揺れ動いている日本にとって参考となるであろう。  米国での訴訟が異常に多いということについては、池谷祐二・鈴木仁志「和解する脳」(文献(7)) によってその理由を考えてみた。  1997年の米国の民事裁判の数(民事第1審通常訴訟新受件数)は1560万件であるのに対して、 同年の日本は42万件(簡裁事件を含む)、英国233万件、ドイツ210万件、フランス111万件である。  米国の弁護士数は120万人で、弁護士が食べていくために事件を作り出すという状況が起こっ ている。加えて、多人種・多文化であり、常識やニュアンスを共有することが難しいため、争い が起これば法という共通の物差しで解決するしかない。  脳の観点から考えると、遺伝子はゆっくりしか変わらないのに対して、脳は肥大化して、独走 の方向にあり、これが紛争多発の原因だといわれる。他の動物と比較して、人間同士の争いが非 常に多い。戦争はその最たるものである。裁判も形を変えた戦争である。  もともとは大脳皮質が脳幹の奴隷だった。脳幹は呼吸、心拍数、血圧調整、逃げるとか寝るとか、 食欲とか性欲とか生きるのに肝心なことをコントロールしている。その外側に運動を司る大脳基 底核がある。ここまでは他の動物にもある。問題はその外側の部分で、そこが環境破壊し、緩慢 な自殺行為をしているというわけである。もう少し情動とか、動物的な本能の部分とバランスの とれた「理」を考えた方が好ましいんじゃないか、と。  人類がここまで絶滅しないで大増殖してきたのは、決定的な対立を避けるための身体的な機構 がもともとあるからだと考えられる。ところが「理」が暴走するとそういう身体的、動物的な調 整機能が弱くなって相互に首を絞めてしまう。  これを防止するためには、紛争解決のプログラムを子どもの頃から脳にインストールしておく 必要がある。争いが起こるのは人間だから仕方ないが、その後どうやって人間関係の破綻に至ら ないで解決していくのか、学習しておくことが必要である。過保護にすると、いきなりトラブル に遭遇して参ってしまう。個人主義が行き過ぎるとコミュニティそのものがバラバラになって、 解決能力が育たないうちに大人になってしまう。  およそこういう考え方で話が展開しているが、筆者がこの本で十分に理解できなかったのが「再 帰」という言葉の意味である。  たとえば、言語の構造の特色として再帰ということがあげられる。再帰とはある対象の定義に 自身を使用することと定義され、再帰ができると他人の視点から眺められるといわれる。たとえ ば、「私は花子から嫌われているかもしれない」というのは、「私は「花子が私のことを嫌いであ る」と思っている」ということである。  3歳児はかくれんぼができず、隠れないで目を閉じて待っている、これは自分が見えなければ 相手も見えないだろうと思っているからだ、というような説明をきけばなるほどと思う。  サルにも数字の概念はあるが、1は1、2は2で独立しているのに対して、人間の場合は3の 次は4と分かる。その繰り返しで無限が分かる。それは有限も分かるということである、これも 再帰だといわれる。有限性が理解できない限り、紛争は起きない。動物の取り合いはただ目の前 のものがほしいだけで人間の争いとは異質だろう。だから、言葉がなかったといわれるネアンデ ルタール人は平和だっただろうと推測されるのである。他者視点を獲得したということからする

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と紛争が減っていいみたいだが、まさにその言語によって有限性を理解する。   こういうことで再帰という言葉に引っかかっていた。  そういう疑問を持っていたところで、小熊英二「社会を変えるには」(文献(8))の第6章「異 なるあり方への思索」を読んでいたら、現在、社会が「再帰性」を増していっているということ が書かれていて、現在の社会問題を考えていくのに「再帰性」という言葉をキーワードとして考 えられていることが分かった。  この本では、こちらが何かすれば相手も影響をを受けて変化する、すると自分もまた影響を受 けて変化する、といったように、作り作られる度合いが増大することを「再帰性」の増大といっ ている。  現代の政治の危機に対応する思想家として、小熊はアンソニー=ギデンスを取り上げている。 ギデンスは90年代に労働党が政権に返り咲いたとき時のトニー=ブレア首相のブレーンである。 伝統を重視する右派とも、社会主義や福祉国家を唱える左派とも異なる「第3の道」を提唱した (文献(9)参照)。  このギデンスの考え方によれば、近代化には「単純な近代化」と「再帰的近代化」がある。再 帰的近代化というのは、すべてが再帰的になり、つまり作り作られる度合いが高まって、安定性 をなくしていくような近代化である。  単純な近代化時代というのは、個体論的な合理主義が成り立っていた時代の近代化である。た とえば、村は1つの個体であるから村の民意は選出された代議士に代表されるはずである。労働 者階級は1つの個体であるから、どのような政策をとれば満足させられるかが明瞭である。同様 に、失業者、母子家庭、高齢者とクラス分けしてそれぞれの集団に応じた政策をとればよい。「農 民」やら「地域」やら「業界」やらを1つの個体とみなして政策を立てることが可能であった。  なぜそれが可能であったのか。ギデンスによれば、近代化の初期の時代には行動様式がまだ慣 習や伝統で決まっていたからである。だから、こういう政策をとれば農民はこう行動するだろう、 労働者にはこう訴えれば投票するだろう、この人に話をつければ地域や業界全体がまとまるであ ろう、という予測が比較的容易だった。  工業化が進んだ時代でも、そういうあり方は別の形で成り立っていた。というより、むしろよ り成り立ちやすくなった。例えば、1960年代から80年代の日本では安定雇用が広がったので、そ れ以前の時代より生活様式やライフサイクルが均質化した。年金制度などは、雇用者、自営業者 や農民というふうにグループ化されて別の形の制度が作られた。  ところが、そういう類型に当てはまらない人がたくさん出てきた。なぜか。人間関係に焦点を 当てて考えると、それは人々が「自由」になって選択可能性が増大したからである。  人々が自由に、合理的に行動するようになったら世の中の見通しがよくなり、予測可能性が高 まって未来の展望が立てやすくなるはずであるが、そうなっていない。なぜか。相手の方も「自 由」になり選択可能性が増大したからである。  男女や家族の関係、企業間の関係、政治家と有権者の関係、そしてどの国に住むのかにおいて もグローバルなレベルで選択可能性は増えているが、相手から選択される可能性も高くなってい る。そのため、予測が立たなくなり、不安が増している。過去の地位や業績もあっという間に陳

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腐化してしまう。グローバル化で均質化がもたらされるといわれるが、実際には選択可能性と多 様性が増大する。  何らかの足場がないと「自由」というのはたんなる不安定に転ずる。しかし、「自己」を作れ ば作るほど、主体であるはずの「自己」が変化して揺らぐのだから、鏡に鏡を映しているような もので、いつまでも安定しない。  再帰性の増大は誰にも不安定をもたらすが、恵まれない人々への打撃が大きくなる。かつての 貧しい人々は、共同体や家族の相互扶助で経済的な貧しさをカバーしていた。あるいは、自分が 培ってきた仕事や技術や生き方への誇り心理的な貧しさを補ったりしていた。ところが再帰性が 増大し、選択可能性と視線とにさらされると、それが揺らいでくる。相互扶助も誇りも失って、 無限の選択可能性の中に放り出され、情報収集能力と貨幣なしにはやっていけない状態に追い込 まれる。  ギデンスが提案するのは、再帰性には再帰的に対応すべきだということである。具体的には対 話の促進である。もう「村」とか「労働者」とかの従来の「われわれ」にそのままの形で頼るこ とはできないので、対話を通してお互いが変化し、新しい「われわれ」を作るしかない、と。  このようにして作られる関係をギデンスは「能動的信頼」と呼んでいる。こちらから働きかけ て、自分が相手に何をできるか考え、それを実行して相手の信頼を得ていく。  政治でいえば、公開と対話がコンセプトとなる。それは代議制民主主義ををやめろということ ではなく、できるだけ代議制に公開と対話を導入して人々に参加してもらうことである。  このようなやり方で政治を活性化しないとどうなるのか。ドイツの社会学者ウルリッヒ=ベッ クは、現代社会では「ブーメラン効果」が起こってしまうと言っている。  ベックによれば、現代社会はリスク社会である。雇用も、家族も、教育も従来の安定性を失っ て不安が増している。政府も専門家も信頼を失い未来が見通せない。「危険」と「安全」の線引 きができない。こういう社会では階級という概念が成立しにくくなる。現代ではどんな特権層で も「絶対に大丈夫」ということはなくなり、離婚や、契約解除や、落選や、凋落のリスクをかか えている。同時に、リスクをとれば上に行けるかもしれないという感覚も、貧富の差を超えて広 がっている。ベックが「リスク社会」という本を書いたのは1986年のチェルノブイリ原発事故の 直後であったが、放射能のリスクは階級の上下を問わない。そういう意味でベックは「貧困は階 級的で、スモッグは民主的である」と言った。  ベックのいうリスク社会とは、再帰性が強まって不安定感が増した社会である。ブーメラン効 果というのも再帰的なものである。近代の社会は、主体は客体を操作できると考えてきた。科学 は自然を操作できる。政治は民衆を操作できる。場合によっては切り捨てれば関係ないと考えて きた。しかし、自然をいいように扱うと環境問題が発生して自分にはね返ってくる。あまりに格 差が開くと治安が悪化したり、少子化や税収低下が起こって自分にはね返ってくる。第三世界の 貧困など関係ないと思っているとテロや地球環境破壊が起こって自分にはね返ってくる。地方の ことは東京には関係ないと思っていると原発事故が起きてはね返ってくる。こういうのがブーメ ラン効果である。  以上のような考え方からすれば、関係の中にしか個体はなく、関係の中ではじめて各個体がど ういうものかが決まって来るという、構築主義といわれる考え方に帰着する。

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 構築主義的に考えると、たとえば、「男並みに働く」か「女らしく主婦になる」かどちらかを 選べという発想は「女の役割」がもとからあって決まっている発想に基づくが、そうではなく歴 史や社会関係の中で「女」や「男」がどうつくられてきたのかと考えることになる。  こういう考え方を尖閣の問題に応用するとどうなるのであろうか。  尖閣諸島はいつから問題だったのか。領海が12カイリになり、排他的経済水域が200カイリと なる前はどうでもよい岩の塊であった。1978年の日中平和友好条約の際も、他に重要な項目があっ たので棚上げされた。過去の経緯を振り返ると、琉球処分後の1880年、日本政府は琉球処分に抗 議する清に対して、琉球列島のうち宮古島、石垣島など南半分を譲ってもよいと提案した。日清 戦争でうやむやになったが、尖閣諸島ももちろん割譲範囲に含まれていた。歴史上には日本政府 の主張に好都合な史実もあるが、「領土」を明確な国境線で区切るという発想がアジアに入って きたのは19世紀に入ってからだから、それ以前の「史実」を作った人はそういう発想では動いて いなかった。  さらに、1972年に沖縄の施政権が返還されたあとも、尖閣諸島の2つの島は米軍の爆撃場になっ ていて、日本側は許可なく立ち入れなかったし、1996年に日本の右翼団体が尖閣諸島の1つに灯 台を建てた時もっとも抗議したのは台湾の漁業組織であった。このように日米関係でもあり、日 台関係でもあって、これを日中関係として考えるのは現実そのものではないということになる。 これを「日中関係」として考えるのは「現実」そのものではなく、ある偏りをもって構築された 認識だということになる。  このような問題がいつからどんなふうに取りあげられた結果「国益」と意識するようになった のか、というふうに考えるのが構築主義の考え方である。  個体論的な発想だと、中国政府と日本政府のどちらかの主張が正しく、どちらかが間違ってい るのだから、歴史的証拠を挙げて立証し、相手を説得し、それでもきかなければ圧力をかけると いう発想になる。これに対して、関係論的な考えに立つと問題がそうやって構成されてきたかを 調べ、相互の関係と認識を変えることによって解決を図るという道が見えてくるというわけであ る。  なお、文献(6)も構築主義の立場から書かれている。 [2]命は誰のものか  オランダモデルが、文献(8)で、「再帰性」を増した社会における政策の成功例としてあげ られている。  女が企業戦士になり男が専業主夫になっても社会を変えたことにはならないし、非正規雇用労 働者が正社員になり、正社員が非正規になっても対立が解消されたことにはならない、というこ とから、オランダではフルタイムの正規雇用を無理に増やすのではなく、1996年の労働法改正で フルタイムとパートタイムを均等待遇にした。  労働時間が違うだけで、同じ労働なら同じ時間給、社会保障制度が適用され、解雇条件も同じ とされた。その結果パートタイムでも問題が少ないのでそれを選ぶ人も増え、失業率も低下した。  このようなワークシェアリングの成功をもたらした政労使合意に代表されるオランダの経済シ

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ステムは協調経済(コンサルテーション・エーコノミー)と呼ばれてきた(文献(10)参照)。  オランダはきわめて中央集権的な国であるが、地方分権化が進んだ国でもある。オランダでは 政府が、合意形成のためのための統合アプローチとして、政策審議会組織や諮問委員会のネット ワークを社会全体に張りめぐらすことによって国民の声を反映させることに努力してきた。諮問 委員会は各省が独自に設定するもので既存の代表的なNGOを指名する場合が多い。オランダの NGOは日頃から政府に対するロビー活動の一環としても政策提言をしばしば行う。またオラン ダでは関係省庁担当者の横断的な統合も特徴として挙げられる。省庁間の独立性は強く人事異動 もほとんどないが、各省庁間の担当者間の連携はスムーズである。そうしたネットワークによっ てコンセンサス形成の仕組みを作り上げ、多様化する社会の中での中央集権的政府への信頼構築 を可能にしてきた。つまり、合意を得るまで議論を尽くし、その上にたって政府が政策を進めて いく。こうしたアプローチが発生しているのは、中央集権的な国ではあるが、政策実施は地方自 治体や民間団体に大幅に権限委譲したやり方をとっているためである。  合意形成システム形成の歴史的事情の1つが治水である。オランダには今も12世紀に始まる ウォーターボード(水域管理局)がある。排水システムの建設と維持は各コミュニティの責任で あったのでオランダには地域コミュニティの自治が早くから確立されていた。また、干拓技術の 発達が人々に「自由」の感情を育成したとも言われる。憲法第133条はウォーターボードを地方 自治体と同じ位置づけに規定している。  キーワードは制御(コントロール)ではないか。飾り窓問題しかり、ソフトドラッグの自由化 しかり、安楽死問題しかり。  オランダは1960年代まで宗派別、政治信条別にそれぞれがまったく別々の社会グループを形成 し、「柱状社会」と言われていた。各「柱」間に深い亀裂があるにもかかわらず各「柱」指導者 の協同的な姿勢と行動によって中和された。このように多元主義と政治的調整の伝統が政治的近 代化の過程で長期にわたって先行していたこと、そして、オランダが実質的な絶対主義の時代を 経験しておらず、絶対主義以前の諸伝統が強く残っていることも多元主義の民主主義がうまく機 能する理由である。  オランダについては、1996年度にまとめて考えたことがある(文献(11))。その時に痛感した のは、このようなガバナンスのうまさよりは、その前提として自己決定権が極限まで尊重される 社会だということであった。それが一番明瞭に見られるのが安楽死の容認である。  上京中の11月3日に、石飛幸三「「平穏死」という選択」(文献(12))という出たばかりの本を買っ た。本の題名になっている「平穏死」という概念に引っかかったからである。この本では、胃ろ うをつけること、はずすことの是非が論じられている。  5年ぐらい前に、グループホームに入っていた筆者の叔母が脳卒中で倒れて病院に運ばれた。 命は助かったのだが、意識は戻っていない。もう意識が戻ることはないであろう。入院して手術 後、ちょっとしてから、胃ろうをつけましょうという話があり、つけてもらった。これで栄養は 十分とれるようで、多少波はあっても同じような状態で生きてきている。叔母は大正9年生まれ だから90歳をこえた。  叔母の場合、最初は意識が戻るのではないかという希望をわれわれは持っていた。結構見舞に

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行って、今日は調子がいいようだとか、悪いようだとかと一喜一憂していた。しかし、だんだん、 もう意識が回復することはないだろうと思わざるを得なくなった。  そういうこと以上に、叔母自身はこうやって胃ろうで生かされている状態をどう思うであろう か、ということを考えるようになった。確実にいやがるであろう。胃ろうははずして早く死なせ てくれと言うであろう。  老衰の末に胃ろうをつけたくないという人は国民の約8割、医療関係者では9割にのぼるのだ そうである。うなずける数字である。  叔母の場合、老衰ということで胃ろうをつけたわけではなく、胃ろうをつけることに抵抗はな かったのだが、その後回復しないために、結果的には老衰の場合と同じことになってしまった。 いったんつけてしまうと、はずすにはずせなくなる。  現在、胃ろうをつけて人工栄養で生かされている人は、なんと30万人とも40万人ともいわれて いると、この本で初めて知った。実際、叔母が入院している病院でも胃ろうをつけた人がずらり と並んでいて、大部分は寝たきりで、意識もなさそうに見える人が多い。こういう状態を現実に 見てしまうと、胃ろうというものに疑問を感じざるを得なくなる。  新聞でも胃ろうについての記事をしばしば見かけるようになり、その是非についてさまざまな 意見があることも分かってきた。  たとえば認知症の高齢者が誤嚥性肺炎(飲食物や唾液などが誤って気管に入って細菌感染し、 引き起こされる肺炎)を起こすと、ハンコを押したように胃ろうを勧められることとなり、その 結果、認知症高齢者の7割に胃ろうがつけられることとなっているのだという。病気を治しても らって長生きできるようになったのはいいことかもしれないが、老化に伴う病態も同じように考 えられ、病院に回されて病気と同じように扱われ、その結果高齢者は自然な形で最後を迎えられ なくなっている。  在宅では胃ろうを含む外科手術的なことはできず、8割の人が自宅で死にたいと願っているの に、8割の人が病院でなくなっているというのが実態である。延命治療法は進歩したのに世の中 のルールを決めている法律は昔のままであり、延命法があるのにそれをしないと不作為の殺人に なってしまう、ということを医師は恐れているからである。  たとえばオランダでは病院死亡率は3割前後である。他の先進諸国でも日本ほど高いところは ない。  こういう日本の現状に疑問の声を上げたのが石飛である。石飛が力説するのは、老いは病気で はないということである。アンチエイジングということが叫ばれているが、人間が歳を取らなく なり、老化しなくなり、死ななくなるということはあり得ない。だから、何歳であれ、まだ生き ていける人には医療が役立つが、病院は老衰の終焉を迎えるところではないというのである。そ して、延命も、これからもまだ人生がある場合は有益であるが、終焉を迎える人には時に有害で あるという。  日本だと保険がきき、高齢者は1割負担なので、胃ろうをつくる手術は1万円ですむ。これを、 サッチャー時代の英国で腎不全の老人の透析を全額負担にしたのと同じように全額負担にすれば おそらく胃ろうをつける人は激減するであろう。胃ろうをつけた人に対して1年間にかかる医療 費と介護費の合計は約500万円だという。かくして毎年1兆円~2兆円の税金が使われている。

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 医師は不作為の殺人ととがめられないようにと考え、患者の家族も保険で医療費が出るからと いうことで、高齢者は人生の最後を病院で迎えることになる。本人の意思というものは一体どこ に置き去りにされたのであろうか。  自分のことは自分で決めるという自己決定権の考え方が常識になっている欧米では、人間の尊 厳ということが非常に重視される。2010年に、カリフォルニア州に続いてニューヨーク州でも終 末期の患者に不必要な医療をすると医師が罰せられ、罰金5000ドル、重犯の場合には禁固刑を含 む刑罰に処せられることとなったという。  本の題名になっている「平穏死」とは何か。刑法で殺人とは「自然の死期」に先立って他人の 生命を絶つことだといわれる。死因は外因死と内因死とに分けられ、内因死は病死と自然死に分 類されるが、平穏死は自然死の一種として主張されている。平穏死というのは、「自然の死期」 が来た人には平穏に亡くなっていただくということである。  では高齢者の「自然の死期」は、具体的にはどう判断するのか。石飛は、医師としての経験か ら、何日の何時に死ぬというように特定の時をいうことはできないが、回復の望みのない老衰末 期であること、あと数週間の命だろうとか、数日の命だろうということは見当がつくという。  医師の判断に委ねると医師の主観的な判断になるおそれがある、という反論が出てくるであろ うが、それに対しては複数の医師による判断というように客観的判断を担保する方法を工夫すれ ばいいと石飛はいう。  では、平穏死というのは安楽死、尊厳死とどう違うのか。安楽死は一般に広義と狭義に分けら れる。狭義の安楽死は医師が致死薬を注射するか、患者に飲ませて絶命させるような場合である。 広義の安楽死には植物状態になった患者の人工呼吸器をはずしたりする場合も含まれ、これが尊 厳死とよばれる。行為のタイプとしては平穏死は尊厳死とよく似ている。違いとして指摘されて いるのは、安楽死や尊厳死は高齢者に限定していないこととと、あと、安楽死、尊厳死はいずれ も患者の苦痛を和らげることが成立要件の1つであるが、平穏死にはその要件はないということ である。  実際、叔母も、別に苦しんでいるわけではない。おおむね穏やかな表情といってもいい。ただ いずれこの先は死ぬしかないという状態であることはハッキリしている。  胃ろうの取り外しに本人の意思表示が必要かどうかは問題であろう。しかし、少なくとも、従 前の意思に反してはならないということは言えるであろう。老衰末期ということになると、本人 の意思は不明のことも多いであろう。その場合、胃ろうを取りつけないこと、あるいははずすこ とについて近親者の反対がないことも必要であろう。  11月11日の朝日新聞朝刊の第1面トップ記事(文献(13))が「延命治療せず 6割経験」と いう記事であった。これは全国の救命救急センターへ搬送された高齢者についての調査結果であ る。記事には人工呼吸器や人工心肺、人工透析などの治療中止や差し控えがあげられていている。  2006年に富山県射水市民病院で医師が人工呼吸器をはずしガン患者ら7人が死亡した事件で は、警察は書類送検の際、厳重な処罰を求めるものではないとし、不起訴となった。  日本救急医学会は2007年11月に、「終末期の定義と一定の条件を満たせば延命措置の中止がで きる指針」として「救急医療における終末期医療のあり方に関する提言(ガイドライン)」を発 表した。この「提言」によれば、主治医以外の複数の医師も含めて客観的に終末期と判断された

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場合、治療を続けても救命の見込みのないことを家族に説明し、家族がなお治療継続を望むので ない限り治療停止も許される。  この「提言」はあくまで救急現場における終末期を問題にしており、慢性疾患を含む終末期一 般を対象としているわけではないことが強調されている。その上で示された終末期の定義は、「不 可逆的な全脳機能不全と診断された場合」「生命が人工的な装置に依存していて、生命維持に必 須な臓器の機能が不可逆的に不全で、移植などの代替手段もない場合」「さらに行うべき治療が なく、現在の治療を継続しても数日以内に死亡することが予測される場合」「積極的な治療開始 後に、回復不可能な疾病の末期であることが判明した場合」の4つである。  停止の具体的な方法としては、人工呼吸器、ペースメーカー、人工心肺、人工透析、血液浄化 の治療中止ないし差し控えのほかに水分や栄養の補給の制限や中止もあげられている。  終末期の定義の中に脳死が含まれている。日本では1997年に臓器の移植に関する法律が成立し たが、そこでは脳死を一律に人の死とはせず、当人が脳死状態での臓器提供の意思を書面によっ て表示し、遺族も提供に同意した場合に限って脳死は人の死と認められた。脳死が人の死である かどうかの判断を本人や家族の決定に委ねることは、本来客観的であるべき人の死の概念になじ みにくく、かつ法律関係を複雑かつ不安定にするという批判があった一方で、これを高く評価す る人もいて、その背景には、長く脳死を人の死ととしてやってきた欧米の中に、脳死を人の死と することに無理があったとする意識が兆してきたことが指摘される。  そういう考え方の問題より、本人の意思がなければ脳死臓器移植がができない点に強い異論が あった。法的には書面での意思表示は15歳以上でなければ有効と認められず、脳死状態からの臓 器移植はできなくなっていた。臓器移植法は3年で見直しが予定されていたこともあわせて、そ の後見直し論議が盛んに行われ、2009年に改正案が成立した。脳死を人の死と定義し、本人の臓 器提供拒否の意思表示がない限り、家族の同意により臓器を摘出できるとするものである。背景 には周知の通り、移植する臓器、特に子どもの臓器不足がある。  脳死と尊厳死の法制化運動とはつながっているのではないかということが香川知晶「命は誰の ものか」(文献(14))で指摘されている(176頁)。そして、脳死と臓器移植とが結びつけられ、 命を人の手で操作するということとつながってきた。  2001年4月10日に成立したオランダの安楽死法は狭義の安楽死を対象としている。患者の治療 拒否権については1995年に医療契約法が施行され、点滴管やカテーテルを引き抜くことができる。  三井美奈「安楽死のできる国」(文献(15))によると、人口1600万のこの国で、年間死者数の 2~3%にあたる2000 ~ 3000人が安楽死している。この数字には植物状態になった患者の人工 呼吸器を止めたり、疼痛緩和のためにモルヒネを投与して死期が早まった場合は含まず、医師が 致死薬を注射するか、患者に飲ませて絶命させた場合である。  安楽死法では、医師が同法の要件を満たして行い、遺体埋葬法の規定に従って自治体の検死官 に届けた場合犯罪とならないとしている。届出書類を要件審査するのは医師、法曹関係者、倫理 問題の専門家の3人で構成される安楽死地域評価委員会である。委員会が要件違反があったとし た場合のみ検察が刑事捜査にはいる。  同法はリビング・ウィルの尊重をうたっていることでも画期的だった。  ドイツでは、ユダヤ人に対する安楽死政策の記憶から安楽死法への批判が非常に強い。しかし、

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オランダの安楽死それとは違うと、容認派は主張している。安楽死の合法化には、それに見合う だけ社会が成熟していなければならないとするのである。  具体的な条件としてはまず、誰もが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度が挙げられ る。  オランダでは、65歳以上の高齢者で独居か夫婦で生活している人は全体の9割にのぼる。施設 入居者は少なくて、1割程度である。家族と同居する人は1~2%にすぎない。この点が日本な どとは非常に違う。日本の場合、同居率は49.1%である(2000年)。  オランダで高齢者の自立を可能にしているのは特別医療費保険である。国民皆保険の医療保険 は2本立てで、社会医療保険(通院や短期入院、歯科治療など)と特別医療費保険(寝たきりに なったときの施設入居費から在宅介護・家事まで。1967年制定)に分かれる。特別医療費保険の 保険料は、収入の10.25%である(2000年)。  オランダでも70年代は施設介護が中心で、24時間介護の看護ホームがせっせとつくられたが、 82年に在宅介護が給付対象となり、高齢者の在宅自立が進んだ。保険が生涯面倒を見てくれるか ら、個人年金はまるまる生活費に使える。  保険制度と並んで、かかりつけ医制度が独居老人を支えている。オランダではどの家庭も担当 のかかりつけ医を持ち、専門医にかかる場合かかりつけ医の紹介が必要となる。  かかりつけ医に看取られて死ぬ人も多い。4割がかかりつけ医に看取られ自分のベッドで死ん でいく。安楽死の8割5分は地域の開業医によって行われる。  98年のEU世論調査では、オランダでは7割が今の医療制度に満足しているといい、EU平均の 41%を大きく上回った。  それから、個人主義の徹底ということも重要な要素であると考えられている。つまり、患者本 人の気持ちに第一義を置く環境が必要だということである。これからすれば、たとえばガンの告 知なども当然ということになる。  この点は日本でも変化がみられる。日本の最高裁は、1983年時点でのガン告知が問題になった ケースにつき、本人に対する告知をしなかったことによる損害賠償請求の訴えを棄却する判決を 1995年に下した。ところが、1990年から91年にかけての時点でガン告知が問題になったケースで は、最高裁は2002年に医療者側を敗訴させた。  あとのケースでは、患者は肺ガンの末期と診断された男性で当時77歳であった。病院の医師は 診断を告げなかった。自らの転勤が近く、本人ではなく家族に説明しようとしてその機会がない ままになり、カルテに説明の必要がある旨の記載しただけで次の医師に引き継いでしまった。こ の男性は、胸の痛みが治まらないので、約半年後に別の大学病院を受診し、末期の肺ガンである 旨の説明が家族に対してなされた。男性は病名を知らないまま、それから半年後に死亡した。家 族は先の病院を説明義務違反で訴え、慰謝料を請求した。1審では原告が敗訴、2審では逆に勝 訴した。最高裁は原審を維持し、家族に慰謝料を認めたが、判決理由は次のようになっている。「医 師が患者本人にはその旨を告知すべきではないと判断した場合には、患者本人やその家族にとっ てのその診断結果の重大性に照らすと、当該医師は診療契約に付随する義務として、少なくとも、 患者の家族等のうち連絡が容易な者に対しては接触し、同人又は同人を介して更に接触できた家 族等に対する告知の適否を検討し、告知が適当であると判断できたときには、その診断結果等を

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説明すべき義務を負うものといわなければならない」(文献(16))  このように、判決は端的に家族に知らせる義務があるとはしていない。いわんや、本人への告 知義務があるとは言っていない。  最高裁は契約上の付随義務だというのだが、契約当事者は患者自身のはずであり、その患者は 何しろ告知を受けていないのである。この判決から10年後の現在ならばどういう判決が出るであ ろうか。  患者より家族という風潮があると、患者ではなく家族が決定に影響力を持つようになる。それ を象徴するのが、1991年の東海大付属病院事件である。被告人となった医師は、患者の意識がな く苦痛を感じられる状態ではなかったのに、「死なせてやってくれ」という家族の要請に押され て塩化カリウムの注射を打ち、絶命させた。  オランダの安楽死については、安楽死を医師と患者だけの密室に閉じこめないようにな制度づ くりがなされていることも評価できる。上述の安楽死地域評価委員会がその中核となっており、 医師と検察の間のクッション役を担っている。同委員会は毎年報告書を発表し、問題となったケー スについては具体的な討議内容を情報公開している。  安楽死法は16歳以上の未成年者(オランダでは成年は18歳)にも安楽死の自己決定権を与えた。 子どもの安楽死権は法案論議の中でもっとも紛糾した点であった。当初の法案では12歳以上の子 どもに安楽死を要請する権利を認めていた。だが、法案に反対する投書が2万通国会に寄せられ た結果、政府は法案を修正し、12歳以上16歳未満の子どもについては保護者の同意がある場合に 限って安楽死できることとなった。  子どもの安楽死と並んで問題とされたのは、「痴呆に陥る苦痛」は安楽死の要件となりうるの かということである。痴呆老人の実態をみて、痴呆になったら安楽死したいと希望する高齢者は 増えている。だが完全な痴呆状態になってしまったらその希望は忘れて無邪気に生きている。医 療現場では安楽死法ができる前から痴呆を苦にする患者への安楽死が行われていた。これはどう であろうか。患者の自己決定権の名のもとに痴呆老人の安楽死がひんぱんに行われることとなら ないであろうか?  赤ちゃんの安楽死は可能であろうか。理屈から言えば、自分で死の要求ができない新生児には 適用できないはずである。オランダ小児科医協会は1992年「やるべきか、やらざるべきか」とい う題の報告書をまとめた。報告書は、障害に治癒の見込みがなく、「意味ある人生」を送る可能 性がほとんどない場合、医師が両親と相談の上で、治療の不履行または停止ができるとした。報 告書では「意味ある人生」を、外部とのコミュニケーションをとる能力の有無や医療への依存度、 苦痛の度合い、寿命などから総合的に判断する問題だと定義した。つまり、植物状態の新生児は 「意味ある人生」を送れないと判断される可能性がある。  報告書から2年後の94年、染色体異常によって口蓋破裂や脳異常などの複合的障害(13トリソ ミー症候群)をかかえていた生後25日の赤ちゃんに、医師が強度の睡眠薬を注射し死なせる事件 が起きた。赤ちゃんが、成長とともに脳膜の異常が拡大し苦しんでいるのをみて、両親が死なせ るように頼んだのである。このまま延命措置を続けても数週間から数ヶ月の命とみられた。医師 は殺人罪で起訴された。1審、2審とも無罪判決が出た。1996年、保健省と司法省は新生児の意 図的絶命について検討部会を設置した。翌年まとめられた報告書は、一定の要件が整えば死なせ

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てよいとの判断を示した。こうなると、自己決定権の問題というより、生かすべきかどうかを関 係者間で合理的に決めていこうということではないか。  新生児の死が認められるなら胎児も当然、特定の条件下に「安楽死」を認められるべきだとい うことになる。オランダでは妊娠24週間を過ぎて胎児が母体外でも生きられるまで育つと、人工 妊娠中絶は刑法で可罰となる。ところが、生後の延命措置が「絶望的な事態」の延長にしかなら ず、両親の自発的意思があるなどの条件を満たせば妊娠24週以降の後期中絶も認める見解をオラ ンダ政府は示した。医師は安楽死と同様、実施後の届け出が義務づけられる。超音波診断など出 生前診断の技術進歩で重い障害を持つ胎児の闇中絶が懸念されるなか、各国に先駆けて法の歯止 めをかけようとするのが目的だとされる。しかし、「絶望的な事態」とは何かが大きな問題である。 オランダ政府は、ダウン症、HIV感染、筋ジストロフィーなど、新生児が一定期間以上生存可能 な場合は対象外と明言している。  ベルギーはオランダをモデルとする安楽死法を制定し、2002年6月に発効した。方式や要件は ほぼオランダと同じだが、自殺幇助はわく外においている。カトリックでは自殺は人殺し以上の 罪という考え方が強い。また、家族や介護者の役割が法律に明記された。医師は患者が希望すれ ば家族や後見人とも話し合う義務がある。終末期にない場合は患者が安楽死希望を記してから最 低1ヶ月おくよう求め慎重を期した。  スイスは積極的安楽死を刑法第114条で罰しているが、第115条が利己的動機にもとづく自殺幇 助を罰しているのを、「利己的動機ではなく、患者の利益のために行う自殺幇助であれば刑法に 抵触しない」と解釈することで末期患者に対する自殺幇助が広く行われている。オランダとは違 い、医師の同意は要件としていない。  オランダは自由都市の国であった。スペイン・ハプスブルグ家のフェリペ2世治下に入ったと き、ネーデルランド北部7州は1579年ユトレヒト同盟を結成し、1648年、ウェストファリア条約 で独立した。カトリックのスペインに対する独立戦争では、新教カルバン派の商人が中心を担っ た。このためカルバン主義は国中に広がった。カルバン派の考え方では、職業も神が定めた天職 であり、堂々と金儲けにいそしむことができる、というよりそれが義務である。そして、日々質 素に暮らす。神の前では隠し事など何もないという考え方が、家の奥まで見える住宅の窓に象徴 されるような。透明度を尊ぶ気風を生んだ。新教ではカトリックのように信者が教会に統合され ず意識がさまざまな方向にさまよう。人は1人で神と向かい合わなければならない、たった一人 で死ぬまでの道を歩いていかなければならないという人生観が安楽死容認社会の根底に流れてい る。  以上のような背景を考えると、日本で積極的安楽死が容認されるのは困難であろう。意識調査 でも、患者が告知を希望しているが家族が反対している場合、家族の意思を尊重すべきだという 答えが21.4%にのぼる。  自己決定権については、エホバの証人への輸血訴訟で、最高裁は2000年2月29日、憲法上の人 格権と認めた。  遺伝病と望まれない出産に関して、樋口範雄「続・医療と法を考える 終末期医療ガイドラ イン」(文献(17))で、医師が不正確な情報を伝えた結果ペリツェウス・メルツバッヘル病(PM 病)という遺伝病の子どもを産んだ両親の訴えを認めた事例が紹介されている。

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 この訴訟で、1審の東京地裁は2003年4月25日、子どもの両親それぞれに880万円の慰謝料を 認めた。2審の東京高裁は2005年1月27日、慰謝料だけでなく介護費用等の財産的損害も認め、 ただ、両親側にも25%の過失があるとして相殺し、両親それぞれに2415万円の賠償を認めた。同 年10月20日、最高裁は上告を棄却して確定した。  生まれてきた障害児のために賠償責任を厚くした方がよい、というのはもっともであるが、考 えてみるとそれは障害児を負の存在と認め、産むべきではなかったという見解につながらないで あろうか。   尊厳死の問題や出生前診断の問題は、最近になって急に出てきた問題ではない。最近ひんぱん に論じられるようになったのは、医療技術のめざましい進歩が背景にある。たとえば、出生前診 断については、妊婦の血液から胎児のDNAを調べることにより99%の精度でダウン症かどうか 分かるようになった。曖昧にでなく、非常に確実に胎児に障害があると分かれば悩むのは当然で ある。  こういう問題に対してどう考えるのか。欧米流の考え方だと、当事者の自己決定権を尊重する ということになる。ところが、当事者の意思というのがハッキリしない場合どうすればよいのか。 明確な意思を表示をしないうちに植物状態になってしまった人の人工呼吸器や胃ろうをはずす決 断は誰がすればよいのか。出生の問題になるともっと明瞭で、当事者である胎児や生まれたばか りの赤ちゃんは意思の表示などできない。  この問題について、文献(14)では、まず生まれてきた子に重い障害があったとしたら、治療 に同意するか、そのまま死なせるかという問題、次に、生まれてくる子どもに障害があるとわかっ たとき、その子を産むかどうかという問題について述べらている。続けて代理出産について述べ られている。  代理出産反対の立場は、代理出産を認めれば家族関係の崩壊と妊娠・出産の商品化を招くとい うことである。特に有償代理出産は赤ちゃんをモノ扱いし、売買契約と変わらないではないかと。 そして、代理母となる女性が通常低所得者層だろうことは容易に推測できるので、貧富差が拡大 し、経済的な格差が進むという結果を招く。  代理出産賛成の立場は、代理出産も不妊治療の一環だとする。代理母もだまされているわけで はなく、妊娠・出産がリスクを伴っていることは十分に承知した上で引き受けているはずである と。  賛否はにわかには決しがたい問題であろう。特に豊かな国では、妊娠や出産の商品化による経 済的な搾取といったものが露骨な形ではあらわれにくい。  自然であることを理由とできなくなった以上、誰もが納得できる基準など見つかりそうにない。 では、当事者の決定にゆだねるということでいいのか?  代理出産については、自然主義対契約主義の対立が法的規制対自己決定権という対立に言い直 されている。では自己決定権とはどのような内容を持つ主張なのか?この主張を支えているのは 古典的な自由主義である。他人に危害を及ぼさなければ個人で勝手に決められるということであ り、だから最小倫理ともいわれる。自己決定権の主張が私的領域に向けられた場合はプラバシー の権利といわれる。

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 米国の場合、19世紀後半からプライバシー権がハッキリした形で主張されるようになった。 20世紀にはいると医療に関係する問題でも語られるようになり、特に重要なのは1914年のシュレ ンドルフ事件である。メアリー=シュレンドルフは腹部に違和感があったのでニューヨーク病院 で診察を受けた。悪性腫瘍が疑われたので、入院して検査したところ、医師は悪性と判断し、子 宮を摘出した。メアリーは、検査することには同意していたが手術は一切行わないように話して あったとして訴え、勝った。この判決はインフォームド・コンセントの考え方の源泉の1つとなる。  確かに人間は社会的動物で、まったくひとりで生きているわけではない。その意味では自分の ことは自分だけで決められるというのはたんなるフィクションに過ぎない。だがそれはなくては ならないフィクションであり、尊重されるべきである。自己決定の領域が認められないような社 会は恐ろしい。しかし、命に関わる問題の多くは自己決定権では話がすまない。  非配偶者間人工授精(AID)は、日本では1949年に慶応大学で第1子誕生以来1万人を超えて いる。男性側に原因がある不妊治療として実施されてきた。ところがこの方法が長年使われるこ とによって、当初はほとんど意識されることのなかった問題が、近年指摘されるようになった。 たとえば、物心がつく頃に自分が父親に似ていないということで深刻に悩む子どもが出てきたの である。いろいろ調べて生物学的父を求めてルーツ探しが始まることもあるようだ。  遺伝性の病気が問題となるような場合は、別の意味で深刻である。病気を十分理解するために は生物学上の父親の遺伝情報が必要とされることもあるからである。  AIDによって生まれてくる子どものルーツを知る法的な権利を保障するところも出てきて、た とえばオーストラリアのヴィクトリア州ではそうした子どもが遺伝学上の父親の身元情報につい て、住所氏名をはじめ、すべてを知る権利が法律で認められているとのことである。  このように自分のルーツを知る権利の問題をみると、生殖技術に関しては、当事者の自己決定 といっても肝心の子どもが当事者からはみ出していることがよく分かる。この点は、障害児の治 療停止や出生前診断による選択的中絶の場合にも指摘できる。自己決定といっても、決定される のは自分のことではないのである。  米国では、プライバシー権の及ぶ領域は個人ではなく家族だと解した例もあり、たとえば小学 生の子どもの教育内容を選ぶ権利が親のプライバシー権として認められたケースもある。しかし、 命が問題となるケースでは、単純に家族だからといってすべてを家族に委ねていいのだろうか。 [3]タイ  12月23日から30日まで、タイのチェンマイとその周辺を動いていた。  筆者は、チェンマイに行ったのは2回目で、今回は友人の松山順一さんが先に来て泊まってい た日本人経営のゲストハウスを利用した。若い旅行者も泊まっているのだが、ゲストハウスの利 用者の半分ぐらいは下宿として利用している。たまたま1940年生まれのおじさんが泊まっていて、 ラオスからチェンセーン経由でチェンマイに来て2週間いるのだという。ここに来たのはビザ更 新のためだそうで、ラオスのルアンパバンに今は滞在していて、また戻るそうだった。すでに年 金生活だが、年金は月当たり6万円にならないそうで、それでは日本では暮らせないので、外に 出ているわけである。  松山さんは農業専門で、一緒に動いてタイ北部の状況を観察した。

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 そのうち、パーイというチェンマイから北方に3時間あまりの町に行った時はレンタカーを利 用した。タイは車が左側通行であるだけでなく、信号が少なく、右折はUターン方式でやるとこ ろが多いので走りやすいと聞いていたのでそれを実際に試してみた。  タイ最高峰のドーイ・インタノン(インタノン山)国立公園にはソンテオという小型バスを チャーターして行った。  以前から行ってみたいと思っていた、ミャンマーとの国境近くにあるメーホンソンには飛行機 で行って1泊した。この町にはミャンマーからの難民であるカレン族の集落がいくつかある。カ レン族の女性は首に真鍮のコイルを巻いて長く伸ばす風習があることで知られている。しかし、 たまたまならともかく、わざわざそれを見にいくという気持ちにはならず、着いた翌日に運転手 つきの車を借りて、メーホーソンの南65キロのところにあるクンユアムの旧日本軍の博物館であ るタイ日友好記念館を見にいった。  日本軍がクンユアムに入っていたのは1941年から45年までの間である。ビルマ・インドへの進 攻路としてタイが使われたのである。展示を見てから受付に戻ると、訪問者の記帳ノートがあり、 それを見て非常に驚いたのは、日本語で書かれたものよりタイ語で書かれたものの方が多いぐら いなのである。いまだにタイ人で日本軍のことを忘れない人がいるということなのであろうか。  クンユアムのことは、桑野淳一「アジアを結ぶタイ国境部」(文献(18))に詳しく書かれてい る。日本軍はビルマ・インパール作戦で大敗して敗走した。投じられた戦力は30万人、うち11万 人は生き残ったものの19万人もの兵が屍となった。その退却路は白骨街道と名づけられた。退却 の末にたどりついたのがクンユアムである。  チェンマイの南方にあるラムパーンという町にも、往きは列車、帰りはバスで行った。ラムパー ンはモン族によって開かれた。モン族は11世紀にハリプンチャイ王国を建て、その首都はチェン マイとラムパーンの間にあるラムプーンである。ラムパーンの寺院にも、町の中にある建築物に もビルマの影響が明らかに認められた。  今回の旅行で一番印象に残ったのは夜市である。チェンマイでは毎夜ナイトバザールが開かれ ているが、これは、基本的に歩道を使ってやっている。これとは別に、チェンマイに着いた夜、 日曜日の夜市をやっているというので見に行った。道路を使ってずっと続いている。盛況だった。 ちょっと汗ばむ程度で暑くはなかった。歩いても歩いても終わらず、途中で戻ってきた。  メーホンソンでは、たまたま陰暦12月満月の夜にぶつかり、湖畔で夜市が開かれていた。タイ の北部ではこの夜にローイ・クラトンといって、熱気球をあげる。100円ちょっとで買えるので、 たくさん空に上がっていって壮観である。水の精霊に感謝する祭りで、空への灯籠流しと思えば よい。一見の値打ちがある。露店の方も工夫のある商売がいろいろあって、見飽きない。  タイ北部もすでに車社会化していることも強く印象に残った。チェンマイの人口は、郊外も入 れれば30万人近くになると思われるので、那覇市と同じぐらいのサイズではないかと考えられる が、路線バスは全然不十分で、ほとんどジープニーのようなソンテオか、トゥクトゥクと呼ばれ るオート三輪車によっている。これで今後もやっていけるかどうか。自家用車がさらに普及して いったらどうなるか、だいたいの予想はつく。  講義で旅行の話をしてみたら、学生の感想の中に、タイのことはほとんど何も知らないという ものがあった。それから少数民族というものに興味を持ったというのもあった。これも、歴史を

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知らないことには把握できない。そういうことから、柿崎一郎「物語 タイの歴史 微笑みの国 の真実」(文献(19))をまとめてみた。  日本人がタイとの関係で一番知っているのは山田長政のことだろう。  山田長政は沼津藩主のかごをかつぐ人夫であったが、1612年頃朱印船に乗ってアユタヤに向 かった。アユタヤには日本人町があり、彼は日本向けの蘇木(スオウの木)や鹿皮の買い付けを 行い、その成功とともに名声を築いていった。また、彼は日本人義勇兵の隊長となり、当時のソ ンタム王の信頼を勝ちとっていき、官位・欽賜名を授けられた。しかし、彼は1628年にソンタム 王が死去したあと王位継承争いに巻き込まれ、1630年に毒殺された。彼の死後まもなく、日本の 鎖国によって朱印船貿易も廃止され、日本人町も消えていくこととなった。  山田長政の活躍についてはその後様々な脚色が加えられて神話化されていき、第2次大戦前に なると南進政策を正当化するためのプロパガンダとして修身の題材として取り上げられた。しか し、有能な外国人を登用することがごく普通に行われているタイにおいてはこのような例は珍し いことではない。  下川裕治・仲村清「新書 沖縄読本」(文献(20))の21章「琉球人が「風の人」だった頃」に よれば、日本人町ができたところは、それ以前に琉球町がつくられていた場所だという。琉球王 国とアユタヤ王朝との交易は1300年代後半から1500年代後半まで約200年間続いた。琉球王国が 琉球船を仕立てて東南アジアに向かったのは中国の明がとった海禁政策がきっかけだった。内外 に問題を抱えていた明は中国人の海外渡航を禁止することで貿易を制限していった。しかし、東 南アジアから持ち込まれる物資は欠くことのできないものであった。そこで明は朝貢形式の貿易 を許していった。明に貢ぎ物を捧げる周辺国に、その見返りとして貿易の権利を与えたのである。 そこに食い込んだのが琉球王国だった。言ってみれば、海外との貿易を制限されている中国人に かわって琉球人が東南アジアに向かったことになる。  琉球船が東南アジアに持ち込んだのは主に中国の青磁、東南アジアから中国の明に運んだのは 染料の蘇木、コショウが中心だったといわれる。運ばれた物資の一部は日本にも届いた。日本は 室町時代で、琉球船が持ち込む高価なものを買えるのは京都の貴族や大名だけだった。  琉球船は帆船である。琉球船は北東の風が吹く9月から11月にアユタヤに向かい、南西の風が 吹く3月から4月に帰ってきた。そのためアユタヤに滞在する期間は半年にもなり、当然琉球町 がつくられていった。  琉球は明と友好関係を結ぶ国家だった。室町幕府も琉球を外国と認めていた。しかし琉球は小 さな島国国家でもあり、明、日本とのパワーバランスを巧みに操っていくことが国家を守る最良 の方法だった。琉球王朝の中継貿易が最も盛んだったのは尚泰久時代であり、1454年から60年ま での間になる。しかし、海上輸送の発達は世界の大航海時代に結びついていき、西欧諸国がアジ アに進出してくる。ポルトガルがインドのゴア、マラッカを占領し、インドから東南アジアの海 上貿易を支配しようとしていた。その中でアユタヤ朝は貿易の独占に踏み切り、琉球船を使った 売買を禁止していった。ポルトガルはその後も北上しマカオを拠点とすることに成功し、明との 直接貿易の足場を築いた。そしてやがて、長崎とマカオを結ぶ交易ルートを確保した。その中で 琉球の中継貿易は衰退し、アユタヤの琉球町も寂れていった。1570年を最後に琉球船はアユタヤ に姿を見せなくなった。この後、琉球町があった土地に日本から来た武士や迫害を逃れたキリシ

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