近代日本の小学校にみる校歌の歌詞の変容と郷土との関わり
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(2) 音楽教育学第49−2(2020). 1.はじめに. から昭和初期にかけて作成された校歌に着目する。. 今日では,日本国内の大多数の学校が校歌を有し. 具体的には,第一に,校歌の歌詞に詠われた内容の. ており,学校における校歌の存在は自明のことのよ. 変容を明らかにする。そして第二に,学校現場の教. うに捉えられている。校歌の歌詞に,校訓や地域の. 員が校歌をどのような歌として捉えていたのかを把. 山川,名所,旧跡がしばしば詠い込まれるのも,周. 握する。これらの作業を通して,何が1930年代に校. 知の通りである。すなわち,校歌は日本人にとって. 歌の全国的な普及を推進したのか,またさらに,学. あまりに身近で,馴染みのある歌であるといえよ. 校や学校を取り巻く社会のなかで,校歌がどのよう. う。しかし,学校が自ら固有の校歌を制定するの. な役割を期待されていたのかを検討していきたい。. は,世界的にみても極めて稀な学校文化である。校 歌が日本特有の学校文化として発展を遂げ,各学校. 2.明治期の校歌. に普及し,存在し続けてきたにもかかわらず,校歌. 2.1 校歌が作られ始めた時期. に関する研究,なかでも校歌を歴史的な視点から捉 えた研究は,十分な蓄積があるとは言い難い。. 本節では,まず,いつ頃から学校が校歌を制定す るようになったのかを確認する。ただ,校歌を最初. これまでの校歌研究によれば,1930(昭和5)年. に制定した学校を特定することは,至極困難であ. 頃を境として,全国的な校歌制定の動きがあったと. る1)。なぜなら,校歌を作成し,制定したはずであ. されている。渡辺裕(2010)は校歌の普及について. る学校には,校歌制定に関する史料が残存していな. 「全体的な状況を大雑把に描くならば,明治三十年前. いことが非常に多いのが実情だからである。学校記. 後から小学校を中心に最初の校歌制定の動きが盛ん. 念誌等の巻頭で,現在,あるいはかつて歌われてい. になり,大正期から昭和初期にかけて,その第二波. た校歌の歌詞や楽譜が掲載される一方,その由来に. とともに,今度は中学校などでも校歌制定の動きが. ついてはほとんど触れられることなく「校歌制定年. 広が」ったと指摘している(p. 144)。加えて,1907. 不明」,「作詞者・作曲者不明」と記載されているも. 音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)への校歌作成. しかしながら公文書や教育雑誌の記事から,校歌. 委託件数の推移からも,とりわけ小学校と中等学校. が作られるようになったおおよその時期を把握する. からの依頼件数が1930(昭和5)年以降に増加した. ことは可能である。例えば,忍岡尋常高等小学校. (明治40)年から1945(昭和20)年にかけての東京. 様子をみることができる(須田 2017a, pp. 1-12)。. のも少なくない。. (現東京都台東区立忍岡小学校)の校歌は,1891(明. なぜ1930年代に校歌制定の動きが活発化したのだ. 治24)年10月8日制定の文部省訓令第二号の規程2). ろうか。本稿では,この問いに迫るために,明治期. に基づき,1893(明治26)年2月18日に文部大臣河. 1)これまでの校歌研究では,日本で最初の校歌は,1878(明治11)年に作成された東京女子師範学校の校歌とされてき た。しかし,同校の『学校一覧』等をみると,1878(明治11)年の時点では,「校歌」として作られたわけではな かったことがわかる。同校の「校歌」は,元々,東京女子師範学校附属幼稚園の園児,及び東京女子師範学校の生徒 の唱歌教育に用いることを目的に1878(明治11)年に作成された唱歌「学道」が,同校での式典・儀式の際に歌う唱 歌としての役割を経て,1900(明治33)年に同校の「校歌」というかたちをとるようになっている。要するに,東京 女子師範学校の校歌は,1878(明治11)年の時点では,唱歌「学道」として存在していたのであり,1878(明治11) 年当初から「校歌」ではなかった。詳しくは,須田珠生(2017b)を参照のこと。 2)祝日大祭日儀式で歌う唱歌について次のように定められた。 「小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル 歌詞及楽譜ハ特ニ其採択ヲ慎ムヘキモノナルヲ以テ北海道庁長官府県知事ニ於テ予メ本大臣ノ認可ヲ経ヘシ但文部省ノ 撰定ニ係ルモノ及他ノ地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ経タルモノ此限ニ在ラス」 ( 『官報』第2484号,1891.10.8) 。 -14-.
(3) 近代日本の小学校にみる校歌の歌詞の変容と郷土との関わり(須田 珠生). 野敏鎌より「校歌ト定メ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ. (一)ゆきもほたるも あつめねど みよのひか. 際唱歌用ニ供スル」ことが「認可」されている(東. りを うちあふぎ おしへのかゞみ みにそへて . 京都公文書館所蔵 請求番号 623. A7. 09)。同校より. こゝろのそこも てらすなり. も早く文部省に自校の校歌を提出し,文部大臣の 「認可」を受けた学校は見当たらない。さらに,同 校と文部省の間で行われたやりとりは『東京府教育 会 雑 誌 』( 第43号 1893.3.21, p. 37) と『 教 育 時 論 』. (第290号 1893.5.5, p. 13)にそれぞれ「小学校校歌」, 「小学校の校歌」の題で掲載されたが,両雑誌とも 3). (二)みよのめぐみに みがきなす つゆのしら たま さやけくも はごとにうけて たみくさは まなびのにはに しげるなり(p.15) 上記の《校歌》の歌詞には,「おしへのかゞみ」 や「まなびのには」等,教育に関連する語はみられ. 校歌関連の記事は同記事が初出である 。加えて,. るが,先行研究において校歌の歌詞の「構成要素」. 各学校の記念誌等でも忍岡尋常高等小学校よりも先. として挙げられている「土地,郷土の山河,自然,. に校歌を作成した学校は,管見の限り見当たらな. 風景」や「土地,学校の歴史」は,一切含まれてい. い。最も早く校歌を作成した学校を特定するのは困. ない(水崎 2000, pp. 49-56)。勿論,どの学校でも. 難であるが,少なくとも1893(明治26)年には校歌. 歌うことが可能な校歌であることを前提に作られて. を作り,歌う学校が存在していたと言える。. いるため,こうした内容が含まれていないのは,当. 2.2 同一の校歌. 然と言えば当然であろう。. ただ,校歌が作られるようになった1890年代は,. だが,一学校固有の歌として制定された校歌で. 必ずしも今日のような一学校一校歌という構図が. あっても,校歌が作られ始めた当初は,その歌詞に. あったわけではなかった。つまり,先の忍岡尋常高. 地名や固有名詞,歴史的内容を含むとは必ずしも限. 等小学校のようにその学校固有の校歌を有する学校. らなかった。次節では,実際に各学校で制定された. がある一方,固有ではない校歌を歌っていた学校も. 校歌を事例に挙げ,当初の校歌の歌詞がどのような. あったのである。. 内容であったのか,加えて,いつ頃から学校の周辺. 1896(明治29)年に出版された『学校必用唱歌集 . 環境や歴史といったその学校が置かれた地域に特化. 全』には,全国のどの学校でも歌えるように作成さ. した内容が校歌の歌詞に詠まれるようになったのか. れた《校歌》という曲名の唱歌が《新年始業式》 , 《卒. を検討する。. 業式》, 《進級式》, 《五月廿八日(皇后宮御誕生日)》, 《運動会》,《学校創立記念式》等の24の唱歌と共に 掲載されている。同唱歌集は,その序文に「世ノ此. 3.校歌の歌詞内容の変容 3.1 唱歌教育の実施. 種ノ唱歌ヲ望ムモノ極メテ多シ。然ルニ今猶闕如タ. 本節では,1869(明治2)年5月から12月に京都. リ」(頁番号なし)と記されていることから,各式. 市中,すなわち現在の京都市中心部に創設された64. 典や儀式,行事の場に適した唱歌の不足を補うこと. の小学校の校歌を事例に取り上げる。これら64の小. を目的に出版されたことがうかがえる。同唱歌集に. 学校は日本初の学区制小学校として創設され「番組. 収められた《校歌》の歌詞は次の通りである。. 小学校」と言われている。本稿が京都市中の小学校. 3)定期刊行物(雑誌,新聞,官報)については,本文中に示すにとどめた。 -15-.
(4) 音楽教育学第49−2(2020). 校歌を事例とする最大の理由には,その先駆的な近. 京区内の希望者に売却し,その収入でドイツ製の風. 代教育の実践が挙げられる。京都では1872(明治. 琴(オルガン)を一台購入している(京都市学校歴. 5)年の学制公布に先駆けて,1871(明治4)年8. 史博物館編 1998, p. 160)。国産オルガンの製造に尽. 月に小学校の授業内容を示す小学課業表が作成され. 力した山葉寅楠が山葉風琴製造所を設立したのが. た(京都市教育委員会京都市学校歴史博物館編 2016,. 1889(明治22)年であるから,かなり早い時期から. かなり早くからその取り組みが行われていた。. て,開智校(後の京都市立開智小学校)では,1892. p. 28)。加えて,唱歌教育に関しても全国的にみて,. 校内にオルガンが設置されていたと言える。加え. そもそも学校が校歌を制定し,それを歌うために. (明治25)年12月の時点で『幼稚唱歌集』,『小学唱. は,校歌を教授することができる教員や楽器等の環. 歌集』,『普通唱歌集』,『新曲唱歌集』,『明治唱歌. 境が整えられている必要がある。しかし,日本にお. 集』等の複数の唱歌集が唱歌科用の図書として所蔵. ける唱歌教育は,指導できる教員や教材,教授法が. され(『蔵品簿 図書之部』頁番号なし),少なくと. 整っていなかったことから,他教科と比してもその. も翌年には,学校内に唱歌室が設けられていた(「明. 導入に歳月を要した。小学校で「唱歌」が必修とな. 治廿六年三月現在校地校舎図」)。. るのは1907(明治40)年の小学校令中改正時であ. このように京都の小学校では,早くから唱歌教育. る。ただ,この時点でも「附則」に「当分ノ内之ヲ. の充実が図られていた。本節では校歌を作り,それ. 欠クコトヲ得」と添えられ,「附則」が完全に削除. を児童に歌わせる素地が十分にあったと考えられる. されたのは1926(大正15)年のことであった。. 京都市中の小学校校歌を事例に,歌詞の変容を追う. 唱歌教育がなかなか進展しない状況下では,学校 や地域によっては,唱歌教育の目的を解さない授業. こととする。 3.2 京都市中の小学校校歌. が平然と行われていた。例えば,1892(明治25)年. では,京都市中の小学校ではどのような歌詞の校. 発行の『教育時論』には「唱歌教授の弊害」として. 歌が歌われていたのだろうか。表1は,64校の小学. 「先年某学校の女教師が『オルガン』の調子に乗り. 校校歌のうち制定年が確定でき,なおかつ本稿が対. て, 『カツポレ』を踊りたりとて,頗るハヶ敷き議論. 象とする1890年代から1930年代の間に制定された21. ありたり」 (第255号 1892.5, p. 12)という報告が寄せ. の校歌の1連目の歌詞を記したものである4)。. られている。加えて, 『音楽之友』の掲載記事「香川. 明治期に制定された4校の校歌と大正期以降に制. 県下音楽の状況」では「師範学校の卒業生が居る所. 定された17校の校歌では,その歌詞の様相が異な. は大に進歩して居る」一方, 「小学校の先生は検定試. る。すなわち,明治期に制定された4校の校歌に. 験に唱歌が無いから一向平気で居る」(第1巻6号,. は,その学校に特化した内容,すなわち学校の周辺. 1902.4, p. 16)と,そもそも教員自身が唱歌教育に対. 環境や歴史を示す語句が全く含まれていない。仮. して消極的な態度を示していた様子がうかがえる。. に,日本国内の他地域の学校の校歌として歌われた. こうした状況のなか,京都市中の日彰校(後の京. としても何ら違和感のない歌詞である。一方,大正. 都市立日彰小学校)では,山階宮家から殿舎を譲り. 期以降に制定された校歌の歌詞には,表中にゴシッ. 受けた時の道具や杉戸を1887(明治20)年8月に中. ク体で示したように「日本の英傑太閤が」城を築い. 4)表1は,各学校の学校記念誌,閉校記念誌,学校史資料を用いて作成した。 -16-.
(5) 近代日本の小学校にみる校歌の歌詞の変容と郷土との関わり(須田 珠生) 表1 京都市中の小学校校歌 校歌制定年月日. 学校名. 作詞者. 作曲者. 一連目の歌詞. 1901(明治34)年 以前. 修道 (記載なし)(記載なし) 湧きいづる山のした水くむなべに にごる心は持たじとぞ思ふ. 1902(明治35)年. 修徳 (記載なし)(記載なし) 徳を修め 智恵を磨けよ 諸ともに 力の限り 励み進みて. 1904(明治37)年 1月9日. 正親. 1908(明治41)年 7月1日. 六原 (記載なし)(記載なし). こころはなおく 身は強く 世のことわりを 知りてこそ 皇国 の民と いうべけれ つとめはげめや 教え子よ. 1914(大正3)年 4月. 成徳 (記載なし)(記載なし). 御代のめぐみを かしこみて あらたになれる学びやは 都の市 のいちじろく ところ得てこそ さかえなれ. 1916(大正5)年. 豊園. 不詳. 不詳. 花の都の真中に 其の名も著き豊園は その上豊臣秀吉公 別屋 の跡とぞ聞こえたる. 1918(大正7)年 10月. 有済. 藤井乙男. 田村虎蔵. 1919(大正8)年. 京極 (記載なし)(記載なし). 不詳. 不詳. 学びの窓の呉竹は 世を重ねて 栄えけり 正しく直き心こそ 人たる道の基なれ. 学びの窓に いならびて 心は清く 身も強く かたきに耐えて たじろがず むつび学ばん もろともに 常盤の緑茂り合ふ 御花に近き学び舎に 宮居の甍仰ぎて 日毎 に辿る人の道. 1919(大正8)年 我等は聚楽の生徒なり 日本の英傑太閤が 築きし城のありしあ から1920(大正9) 聚楽 (記載なし)(記載なし) と その学校に学ぶなり かかる誇りと喜びを 放たず常に励み 年頃 なん 1924(大正13)年. 仁和 (記載なし)(記載なし). ゆたかにひらく大園の 千余百の実の ふたば めぐみのつゆに もえいでて きょうの仁和に しげるなり. 1928(昭和3)年 5月. 菊浜. 浜田紫水. 近藤義次. 清き高瀬の かたほとり 歴史も古き 川の辺に そびえてたて り まなびやの その名もかほる 菊浜の. 1928(昭和3)年 9月. 開智. 高野辰之. 島崎赤太郎. 緑したたる 東山 朝夕に 眺めつつ 鴨川近き 学校の 開智 に われらは 学ぶなり. 1931(昭和6)年 10月. 淳風. 吉澤義則. 近藤義次. 比叡の山の雪の朝 大井の川の月の夕 京は名所美しや 京は名 所美しや. 1933(昭和8)年. 清水. 佐々木信綱. 片山頴太郎. 1934(昭和9)年 4月. 春日. 荻野きくえ. 不詳. 竹の園生のいや高き 大御光を仰ぎつつ 春日の庭の若草と も ゆる我らに誉れあれ. 1934(昭和9)年 10月. 桃薗. 吉沢義則. 近藤義次. れきしは長し 千年の においは今も あらたなる 京に生まれ し われらなり. 1934(昭和9)年. 翔鸞. 上島信三郎. 近藤義次. 北野の森に 咲く梅の 香もしるき 学び舎に 心正しく 身も 強く 力の限り 伸んかな. 1936(昭和11)年 3月. 粟田. 上島信三郎. 杉本秀治. 東の山の山ふもと うまし自然のふところに ゆかりはしるき学 舎の 粟田の名こそ尊けれ. 1936(昭和11)年 12月8日. 西陣. 上島信三郎. 近藤義次. はとりべの 古きゆかりに 今も咲く 芸術の華の あやにしき 誉は高し あな貴 その名 西陣. 1939(昭和14)年 9月16日. 明倫. 明倫校教員. 近藤義次. ちとせの文化 あやなせる みやこにその名 いとしるき わが 明倫の ほまれをば いのちとながく うけつぎて 学ぶわれら は 日本の 花と匂いて 咲きいでん. 1939(昭和14)年 9月. 親道. 吉澤義則. 近藤義次. 東山脈日の照りて 栄ゆる木々の色かえぬ 操を己が心にて 勉 め学ばん 諸共に. 花のみやこの東山 名も清水のわれらが校舎 いかなるさちぞ たぐいなき けしきに包まれ 我らは学ぶ. -17-.
(6) 音楽教育学第49−2(2020). た歴史(聚楽校の校歌)や,「東山」,「鴨川」と. れるようになった背景の一つには,熊野の主張にみ. いった山川(開智校の校歌),学校が置かれている. たように,地域の特徴を表す事物や環境に,校歌を. 地名が含まれている。つまり校歌が制定された時. 歌う児童や生徒らの理想像を投影しようとする学校. 期,換言すれば,校歌が作られた時期によって校歌. 側の意図があったのである。. の歌詞内容に違いがみられる。. 以上のように,作成された時期によって校歌の内. なぜ時代を経るにつれて,校歌の歌詞に地名や山. 容に変化がみられるということは,校歌という歌に. 川の固有名詞,地域の歴史が詠われるようになった. 対する認識にも何らかの変化があったと考えられる。. のだろうか。このことを解き明かす一つの手掛かり. 次節では,大正期以降,学校現場の教員らが校歌に. として『岐阜県教育会雑誌』に掲載された熊野敏夫. 対していかなる認識を示していたのか,さらにその. の論考をみていきたい。熊野は1905(明治38)年7. 認識がどのように展開していったのかを検討する。. 月に制定された岐阜県赤坂尋常高等小学校の校歌作 成に携わった人物であり,同校の校歌の歌詞には 「金生山」と「杭瀬川」という地域の山川の固有名 5). 詞が詠われている 。熊野は「金生山」と「杭瀬川」. 4.郷土歌としての校歌 4.1 校歌と郷歌 本節では,はじめに,大正期以降に学校現場の教. を歌詞に詠んだ理由として「実用的人物を養成する. 員らが校歌をどのような歌として捉えていたのか. 自然の教化備はれるを以て,児童生活の理想を表す. を,第七回全国小学校唱歌教授担任中等学校音楽科. に此山川を骨子として校歌を選定せんと思」(第130. 担任教員協議会での講演の内容から探る。同協議会. 号 1905.7.28, p. 13)ったと述べている。すなわち熊. は,1916(大正5)年6月3日から7日にかけて東. 野は,彼が「理想的心術」であるとする「事理に達. 京高等師範学校附属小学校講堂にて開催された。主. して周流滞りなきこと水の如き知を以て意見を定. 催は初等教育研究会である。初等教育研究会は, . め,義理に安んじ厚重遷らざること山の如き志を以. 第一回の綴方を皮切りに,順に各教科の全国小学校. て定めたる意見を実行する」 (p. 13)姿勢を「杭瀬. 訓導協議会を主催しており,第七回が唱歌・音楽教. 川」と「金生山」という固有名詞によって表現しよ うとしたのである。. 員のための協議会であった。第七回の報告書には 「(参加の─引用者)募集広告を出すと,続々と申込. 校歌が作られ始めた当初にはみられなかった学校. があつて,締切期日までに,早や九十名の多きに達. の周辺環境を表す語句が,地域や学校によって差は. し,これに当校(東京高等師範学校附属小学校─引. あるにせよ,大正期に入るのを前後に校歌の歌詞に. 用者)の職員三十一名を加えると,総員百二十一名. 詠われるようになった。すなわち,学校は地域に特. と云ふ多数に上つた」 ( 『教育研究』 [臨時増刊]1916.11,. 化した内容を歌詞に含めることで,どの学校でも歌 える内容の校歌ではなく,自校特有の内容の校歌を. p. 1)と,全国各地から唱歌教員,音楽教員が大勢参 加し,盛況に行われた様子が記されている。これほ. 作るようになった。学校が校歌の歌詞に独自性を持. ど大々的に,唱歌・音楽教員向けの協議会が開催さ. たせるようになったのである。そうした校歌が作ら. れた前例はない。同協議会では「各会員の講演時間. 5)同校の校歌の歌詞は次の通りである。「一 たかくそびゆるかなふやま きよくながるゝくひせがは やまはうごか ぬわがこゝろざし みづはよどまぬわがちのかゞみ 二 しめすしぜんのさとしをば おのがこゝろののりとして まなべともどちゆめをこたらず はげめともどち世をえきすべく」 ( 『岐阜県教育会雑誌』第130号,1905. 7. 28,p. 13) 。 -18-.
(7) 近代日本の小学校にみる校歌の歌詞の変容と郷土との関わり(須田 珠生). を,凡そ八分間とし」(p. 2),5日間で87の会員講. る郷歌は,校歌とほぼ同時期に作られ始めた歌であ. 演が行われた。これらの講演のなかで,神奈川県鎌. る。前述したように少なくとも1893(明治26)年に. 倉郡正修小学校兼神奈川県師範学校訓導であった星. は校歌を作り,歌っていた学校があった。郷歌も,. 野増蔵は,校歌について次のように発言している。. 京都市小学校長会によって京都市歌が作られたのが. 4. 4. 校歌 従来諸所の学校が校歌に依りて訓育上偉大 の効果を収めつゝあることは,爰に更めて申述べ るまでもないことであります……土地の事情に依 り校歌と郷歌とは同一のものにても差支ない許り でなく,寧ろ其の方が都合が好い処が少なくない. 1897(明治30)年であり(京都市編 1918, p. 268), その後も1898(明治31)年に『若越郷土唱歌』が,. 1901(明治34)年には『兵庫県多紀郡郷土唱歌』, 『宮城県郷土唱歌』,『信濃唱歌』が相次いで出版さ れている。 では,なぜ星野は「土地の事情に依り校歌と郷歌. ことゝ考えられます(pp. 49-50)。 . とは同一のものにても差支ない許りでなく,寧ろ其. 星野の講演は第一日目の5番目に「団結力養成と. 同一曲にする提案をしたのだろうか。彼は,その理. の方が都合が好い処が少なくない」と校歌と郷歌を. 唱歌教授」の演題で行われた。各日の講演の主題を. 由を次のように述べている。. みていくと,第一日目は「唱歌教授の概論に属する 問題」が,第二日目は「唱歌教授の基本練習に関す. 斯の如く( 「校歌と郷歌」が「同一のものに」─引. ること」が,第三日目は「唱歌教授上に於ける楽譜. 用者)なつたならば,……青年処女も之に和し,. のこと」が,第四日目は「児童の趣味に適合せる歌. 通俗教育会等開催の際には,各種階級を網羅せる. 曲の調査」と「唱歌科成績考査……と云う問題」. 聴衆が機会を作つて合唱したならば,時ならぬに. が,第五日目は「唱歌教授上の実体験」が,挙げら. 春風漂ひ,邪気一掃し楽しみ分ち,趣味を向上せ. れている(pp. 2-4)。すなわち,第一日目には,唱. しめ,互いに一致協力して不知不識の中に,社会. 歌教授の総論が,そして第二日目から第五日目にか. 矯風の実を挙げ得ることゝ信じて疑はぬのであり. けては,唱歌教授の各論に進むという形式で各講演. ます(前掲『教育研究』,p. 50)。. の順番が組まれた。なかでも第一日目の1番目から 5番目は,唱歌教育と国民性との関係,及び唱歌教. 星野の主張によれば「社会矯風の実を挙げ得る」. 育による団結力の養成に関する講演が並べられてい. には「各種階級を網羅」する人々が一同に歌うこと. る。つまり,星野の発言は一訓導の発言には違いな. が可能な歌が必要であった。そうした歌を作る案と. いが,全87講演のなかでも,唱歌教育の必要性を説. して,校歌と郷歌を同一にすることを提案したので. く重要な講演として位置づけられていたと推察する. ある。つまり彼は,学校に在学する児童によって歌. ことができる。. われる「訓育上偉大の効果」を持つ校歌に,地域の. では,星野の発言を具体的にみていこう。星野は. 歴史や風土といった郷歌の要素を加えることで,校. 講演のなかで,校歌の有用性を述べ,さらに加え. 歌を在学児童だけではなく,「青年処女」を含む. て,校歌と郷歌,すなわち市町村歌に代表される郷. 「各種階級を網羅」する人々,すなわちその地域全. 土について詠った歌,を同一曲にすることを提案し. 体の人々によって歌われる歌にすることが可能にな. ている。星野が校歌と同一にすることを提案してい. ると考えたのである。星野が「校歌と郷歌」を「同. -19-.
(8) 音楽教育学第49−2(2020). 一のものに」することを提案した1916(大正5)年. の目標を達成するにあたり,唱歌科には郷土を題材. は,前節で述べたように,ちょうど校歌の歌詞に学. にした歌,すなわち「郷土歌或は青年団歌,校歌な. 校周辺の歴史や固有名詞が詠われ始めた時期であ. ど」の「郷土の歌」を児童に歌わせ,児童に郷土を. る。星野はこうした傾向に目をつけ,校歌を一学校. 自覚させることが求められた。茨城県師範学校第二. の歌にとどめるのではなく,学校を越えて,より広. 附属常磐小学校が編纂した『郷土教育の再検討と其. い範囲で歌われる歌にしようと主張したのである。. の実際的研究』にも「我が郷土に於て新設すべき郷. 4.2 郷土教育運動と校歌. 土歌」として「校歌」が挙げられ(1932, p. 308),. 1916(大正5)年の第七回全国小学校唱歌教授担. 「郷土歌」を「新設」する理由として,次のような. 任中等学校音楽科担任教員協議会における星野の提. ことが主張されている。「吾々はもつと自国音楽で. 案,すなわち「校歌と郷歌」を「同一のものに」. ある日本音楽の研究をなし,……新日本音楽・新郷. し,校歌を在学児童だけでなく,地域の人々にも歌. 土音楽の建設発展をはからなければならない。そし. われる歌にする案は,先見性のある見解であった。. て郷土民の生活と民情とに融合した,又あらゆる関. すなわち,1930年代になると郷土教育運動の興隆と. 係に於いて郷土民を育んで行く慈愛に満ちた音楽教. 重なり,星野の提案は現実のものとなっていったの. 育をなさなければならない。斯くして吾々は郷土を. である。1930年代には『郷土調査及研究 各教科郷. 歌ひ,郷土を理解し,郷土愛に燃え,よき郷土人と. 土化の実際』(滋賀県島小学校 1931),『郷土教育の. なることが出来,又祖国愛に根強い人間となること. 再検討と其の実際的研究』(茨城県師範学校第二附. が出来るのである」(p. 302)。すなわち校歌は,郷. 属常磐小学校 1932),『各科郷土化の実際』(山口県. 土教育を唱歌科で推進するなかで「郷土の歌」とし. 都濃郡福川尋常高等小学校 1933),『各科郷土教育. て位置づけられ,「正しき郷土人」や「よき郷土人」. 資料』(大湊尋常高等小学校 1933)等,各学校の郷. をつくるための教材としての役割を担うようになっ. 土教育の実践をまとめた報告書が出版された。それ. たのである。. らの報告書によれば,唱歌科の授業には次のような ことが期待されていた。. では,なぜ校歌は,「郷土の歌」になり得たのだ ろうか。まず「郷土の歌」に求められた内容を確認 しよう。大湊尋常高等小学校編纂の『各科郷土教育. 唱歌科は積極的に郷土への貢献は出来なくとも郷. 資料』には,「郷土唱歌の題材として足るもの」と. 土の気風を淳朴に,剛健に,質実ならしめること. して「1,郷土として誇るに足るべき風景或は事物 . には大いに役立つものである。……正しく郷土の. 2,模範となるべき歴史的又は現代の人物 3,愛. 情緒を理解鑑賞させ,郷土に対する理解が出来れ. 郷心を喚起すべき古跡 4,麗しき郷土の民情を表. ば児童を正しい郷土人たらしめるのである。而し. 現したるもの 5,遺業 6,行事 7,神社仏閣」. て各郷土にてそれ/\郷土歌或は青年団歌,校歌 などがあれば,これ等郷土の歌を一通り理解せし. (1933, pp. 353-358)の7項目が列挙されている。一. 方,1930年代に理想とされていた校歌はどのような. めることが肝要であらう(近間編 1933, p. 169) 。. ものだったのだろうか。愛知第二師範学校附属小学. 上記の引用によれば,学校は郷土教育を実践する. 林佐源治は1930(昭和5)年12月発行の『教育研. ことで「正しい郷土人」の養成を目指していた。こ. 究』において「鹿児島第一師範学校附属小学校の校. 校と東京高等師範学校附属小学校の訓導であった小. -20-.
(9) 近代日本の小学校にみる校歌の歌詞の変容と郷土との関わり(須田 珠生). 歌」を例に挙げ①「土地に即してゐる」こと,②歌. は,国家的意識・国民主義的精神を,本源的契機と. 詞中に「歴史が出てゐる」こと,③「校訓が少しも. してゐる事を認識しなければならない。即ち今日の. 無理なく調子のよい言葉で文中に配されてゐる」こ. 郷土意識は中央集権的な統一的努力に対立するかの. と,④「青年になつても老年になつても歌へる様な. 封建的藩閥的地方意識ではなく,統一的国家を支持. 文」であること,以上の4点から「大へんよく出来. し,その伝統と構成と機能とを理解し,国家意識を. てゐ」る校歌であると称賛し,さらに,校歌を作成. 高揚する最も本源的な意識である」(小野田 1936,. する際の注意点として「学校の精神をその中に有力 に入れること」や「校歌は其の学校独特のもので, (ママ). p. 534)。島小学校もまた,この定義に則り,「本校」 が定める「郷土」とは,「児童の直接観察する事象. どこの学校のにしてもよい様なものにしたくない」. の存する生活環境の領域」から「漸次拡大して郡,. から「その為には其の村の地理なり歴史なりを入れ. 県,更に進んでは,国家」(滋賀県島小学校 1931a,. ると共に学校精神を詠みこむこと」を挙げている (第365号 , pp. 68-70)。校歌の歌詞に詠むべきとされ. p. 7)に及ぶ領域を網羅するものであると述べてい る。文部省社会教育官であった千葉敬止は,同校を. た「其の村の地理なり歴史」は,「郷土唱歌の題材. 「郷土教育を以て名ある学校であ」り,「他の範とす. として足るもの」として挙げられた「1,郷土とし. べきものの少なくない」学校であると述べている. て誇るに足るべき風景或は事物」や「2,模範とな. (滋賀県島小学校編 1931b, p. 1)。同様に,東京高等. るべき歴史的又は現代の人物」,「3,遺業」と一致. 師範学校の訓導を務めていた千葉春雄も,同校は郷. する。つまり校歌の歌詞に求められる内容と「郷土. 土教育に関して「日本に於ける先鞭者」のような存. の歌」の歌詞に求められる内容が概ね合致したこと. 在だと称している(p. 2)。すなわち,島小学校は,. で,校歌は「郷土の歌」として認識されるように なったのである。. 郷土教育連盟や文部省の企図を忠実に体現しようと した学校であった。. 加えて,「郷土の歌」として位置づけられるよう. 模範的かつ精力的な郷土教育を実践していた同校. になった校歌は,単に学校に在学している児童や生. で,校歌はどのように扱われていたのだろうか。同. 徒に歌われるだけでなく,地域の人々に歌われる歌. 校が編纂した『郷土の調査及び研究 各教科郷土化. としての役割も果たすようになる。例として,滋賀. の実際』には,「郷土に育まれた音楽」として同校. 県島小学校での郷土教育の実践を挙げよう。同校. の校歌が挙げられ,この校歌は,同校が置かれた滋. は,郷土教育について「郷土教育は一村の教育であ. 賀県島村の風土を詠んだ《島村十景》や《島村の唄》 ,. り,一町の教育であり,一國の教育であつて,決し. 《滋賀県青年団歌》,《滋賀県処女会歌》などと共に,. て従来の如き学校教育の一新設科目であつてはなら. 「郷土青年処女の歌」に分類されている(1931b, p. 373-. ない」(滋賀県島小学校編 1931a, p. 9)との方針を 掲げていた学校であった。. 376)。島村の「処女会」と「青年団」の規約によれ. ば,「処女会」は「郷土に在住する女子にして,義. 郷土教育連盟の創始者の一人である小田内通敏. 務教育を了へたる年より,満二十歳に至る処女を以. は,1936(昭和11)年発行の『教育学辞典』のなか. て組織」 (p. 6)されていた。一方, 「青年団」は「郷. で「郷土」を次のように定義している。「今日の日 本国民の郷土意識は小にしては,部落から行政上の 市町村に,中にしては,道府県に,更に大にして. 土在住の男子にして,四月一日に於て満二五歳まで. は,団員たる義務」(p. 16)があった。校歌が歌わ. れた頻度を同校の史料から判断することは困難だ. -21-.
(10) 音楽教育学第49−2(2020). が,「郷土青年処女の歌」に分類されていることか ら鑑みて,在学中の児童だけではなく,「郷土」に 「在住」する「処女会」や「青年団」の構成員も, 同校の校歌の歌い手であったことは違いない。. 校行事にあって, 『運動会と学芸会』は『二大行事』」 (山本・今野 1986, p. 170)であり,なおかつ運動会. は「村ぐるみ町ぐるみの“祭”であった」(p. 373)。 個人対個人の「競争」ではなく,「地域住民の応援. また,1932(昭和7)年に福富村(現佐賀県杵島. を背後にうけて,学級対抗・分団対抗・字対抗とい. 郡白石町)役場によって編纂された『福富村郷土. う形態をと」ることで,運動会は「学校行事であり. 誌』には「村治の道歌」,すなわち「人の踏むべき. ながら……地域や『ムラ』の行事の性格を帯び」て. 道を教へる,倫理道徳の歌」(八波 1936, p. 256)が. いたのである(p. 286)。福島小学校坂部分校から東. 福富尋常高等小学校の校歌が一緒に収められている. 託するための文書であるから,当然,運動会の参加. (1932, p. 99-101)。つまり,先の滋賀県島小学校の. 者やその様子については記載がない。しかしながら. 採録されているが,そのなかには,福富村の村歌と. 京音楽学校に送付された依頼状は,校歌の作曲を委. 校歌と同様に,同村において福富尋常高等小学校の. 当時の運動会の性格を踏まえれば,学校に在学中の. 校歌は,学校に在学する児童の歌であると同時に,. 児童だけでなく,在村青年層や町村民も同校の運動. 村民のための歌でもあったのである。. 会の参加対象者であったことは容易に想像できる。. さらに,校歌が歌われた場面からも,その歌い手. 1911(明治44)年から1914(大正3)年にかけて. に地域の人々が含まれていたことが推察できる。. 文部省が編纂した唱歌教科書である『尋常小学唱. 1933(昭和8)年に,当時,唯一の官立音楽学校で. 歌』の編集委員として尽力し,校歌の作詞も数多く. あった東京音楽学校に校歌の作曲を委託した長野県. 手掛けた八波則吉は,校歌は「式日は勿論,運動会. 下伊那郡神原村の福島小学校坂部分校の主任・山崎. などで合唱されてゐるうち,何時しか村の老若男女. 勝繁が送付した依頼状には,次のような内容が記さ. が悉くおぼえて,子守歌にも,盆踊の歌にも利用さ. 6). れている 。 「実は当校は明治十年の開校なるも校歌 と申すもの之失く年々の運動会其他に何となく淋し. れるやうになる」と述べている(1931, p. 89)。つま り八波の記述に依拠すれば,学校在学中に校歌が未. く候」(『東京音楽学校作曲委託関係書類』内の長野. 制定であった人々が地域内に居住していたとして. 県下伊那郡神原村福島小学校坂部分校主任・山崎勝. も,制定後に地域ぐるみの学校儀式・行事で校歌を. 繁から東京音楽学校への依頼状 , 1933)。各学校か. 繰り返し歌い,聴かせることで,地域社会に校歌を. ら東京音楽学校へ送付される校歌作成依頼状には定. 根付かせ,地域全体で歌える歌にしようとする働き. 型がなく,記されている内容は学校によって様々で. かけがなされていたのである。. ある。なかでも福島小学校坂部分校からの依頼状の. 1916(大正5)年の協議会での星野の提案は,. ように,どういった場面で校歌を歌う予定かを記し. 1930年代に各学校で実施された郷土教育を契機とし. た依頼状は極めて少ないが,同校の依頼状からは,. て実現し,校歌は「郷土の歌」として児童や生徒の. 運動会をはじめとする学校行事の場で校歌を歌う予. みならず,その地域社会に住む人々も歌い手とする. 定であることが読み取れる。. 歌になっていったのである。. 山本信良らによれば,「大正・昭和期の小学校学 6)東京音楽学校への校歌作成委託や依頼状についての詳細は,須田珠生(2017a)を参照のこと。 -22-.
(11) 近代日本の小学校にみる校歌の歌詞の変容と郷土との関わり(須田 珠生). 5.おわりに. 「郷土の歌」である校歌を地域社会全体に根付かせ. 本稿では,校歌の歌詞に詠われた内容の変容,及. ることで,その地域に住む「郷土人」としての意識,. び教員らによる校歌への認識を明らかにし,そのう. ひいては,「国民」としての意識を醸成させ,それ. えで1930年代に校歌が全国的に普及した背景に何が. ぞれの地域社会における共同体意識の形成という地. あったのかを検討してきた。. 域づくりの一端を校歌に担わせようとしたのである。. 本稿で明らかになったことは,大きく次の2点で. では,校歌の歌い手であった学校の児童や生徒,. ある。第一は,校歌の歌詞中にその地域に関わる内. 地域の人々は,「郷土の歌」として位置づけられた. 容が積極的に詠われるようになったのは,おおよ. 校歌をどのように受容していったのだろうか。校歌. そ,大正期を境としてであったことである。これま. がいかにして,学校や郷土,さらには国家への帰属. での校歌研究では,校歌の歌詞に地理的環境や歴史. 意識と結びついていったのか。この点についての具. 的環境が含まれることは当然視され,異論が呈され. 体的な論証は,別稿を期すことにしたい。. ることはなかった。しかし本稿でみてきたように, 明治期に作成された校歌には,学校で学ぶにあたっ. 引用・参考文献. ての心構えは詠われていても,その学校の所在を顕. 粟田小学校(1969)『粟田沿革史 京都市立粟田小. 著に示す語句はほとんど出てこない。こうした校歌. 学校創立百周年記念』粟田小学校.. に大正期頃から地域に関わる内容が積極的に詠われ. 茨城県師範学校第二附属常磐小学校編(1932)『郷. るようになり,校歌を郷土の歌と同一のものにする. 土教育の再検討と其の実際的研究』教育実際社.. 提案が出された。. 大槻效編(1969)『菊浜─菊浜小学校百周年記念. 第二には,校歌が全国の学校に普及していった背. 誌─』菊浜小学校創立百周年記念事業実行委員会.. 景には,郷土教育運動の推進が大きく関わっていた. 大湊尋常高等小学校編(1933) 『各科郷土教育資料』 .. ことが挙げられる。冒頭で述べたように,校歌は. 小田内通敏(1936)「郷土」『教育学辞典 第一巻』. 1930(昭和5)年頃から全国的に普及したとされて いる。郷土教育運動の実践に伴い,郷土の歌の作成 の気運が高まったことで,地理的・歴史的環境を詠 んだ校歌は1930年代になると,現場の教員らによっ て「郷土の歌」として位置づけられるようになっ た。学校は郷土教育を実施することによって,「正. 岩波書店. 開智尋常小学校(1892.12) 『蔵品簿 図書之部』 (京 都市学校歴史博物館所蔵).. 加藤里路作歌 楠美恩三郎作曲(1896)『学校必用 唱歌集 全』村上書店. 京都市学校歴史博物館編(1998)『我が国の近代教. しき郷土人」や「よき郷土人」の養成を目指した。. 育の魁 京の学校・歴史探訪』京都市生涯学習振. それを達成するための手段の一つとして「郷土の. 興財団.. 歌」を歌わせることを奨励したのである。. 京都市教育委員会京都市学校歴史博物館編(2016). 学校は,在学児童・生徒だけではなく,地域社会 全体の人々を校歌の歌い手として囲い込んだ。1930. 『学びやタイムスリップ 近代京都の学校史・美 術史』京都新聞出版センター.. 年代の郷土教育運動において, 「郷土」は,学校が置. 京都市教育委員会編(1994)『閉校記念誌 開智. かれた市町村だけではなく,市町村を包含する道府. ─輝ける123年のあゆみ─』京都市教育委員会.. 県,ひいては国家を意味した。すなわち,学校は,. 京都市教育委員会編(1994)『閉校記念誌 豊園. -23-.
(12) 音楽教育学第49−2(2020). ─輝ける123年のあゆみ─』京都市教育委員会.. 創立百周年記念事業実行委員会編『創立百周年 翔. 京都市 教 育 委 員 会 編(1997)『 閉 校 記 念 誌 春 日. 鸞校史』創立百周年記念事業実行委員会.. ─輝ける126年のあゆみ─』京都市教育委員会.. 近間学助編(1933)『各科郷土化の実際』山口県都. 京都市 教 育 委 員 会 編(2007)『 閉 校 記 念 誌 有 済. 濃郡福川尋常高等小学校 .. ─輝ける135年のあゆみ─』京都市教育委員会.. 東京音楽学校(1991)『東京音楽学校作曲委託関係. 京都市教育委員会編『閉校記念誌 六原─輝ける. 書類』(マイクロフィルム)日本近代音楽財団.. 141年のあゆみ─』(2017)京都市教育委員会 .. 福富村役場編(1932)『福富村郷土誌』石山共栄堂.. 京都市編(1918)『京都小学五十年誌』.. 水崎富美(2000)「明治後期の校風養成と近代校歌. 京都市立清水小学校編(1969)『清水』清水小学校. の成立─学校行事再編のための『校訓』 ・ 『郷土』 ・. 創立百周年記念事業実行委員会.. 『歴史』・『ジェンダー』─」『東京大学大学院教育. 京都市立聚楽小学校長松本利治編(1970)『聚楽校. 学研究科 研究室紀要』第26号,pp. 49-56.. 百年史』聚楽小学校創立百周年記念事業委員会.. 明倫校創立百周年記念事業会編(1969)『明倫百周. 京都市立桃薗小学校,京都市立桃薗幼稚園編(1985). 年誌』京都市立明倫小学校.. 『桃薗要覧』.. 八波則吉(1931)『唱歌作歌法講和』京文社.. 京都市立西陣小学校編(1959)『創立九十周年 沿. 八波則吉(1936)『道歌清談』実業之日本社.. 革のしおり』京都市立西陣小学校.. 山本信良・今野敏彦(1986)『大正・昭和教育の天. 滋賀県島小学校編(1931a)『体験と信念に基く郷土. 皇制イデオロギーⅡ』親泉社.. 教育の学習と実践』明治図書.. 鷲見久雄編『京都市立仁和小学校百周年記念誌』. 滋賀県島小学校編(1931b) 『郷土調査及研究 各教. (1969)仁和小学校創立百周年記念事業委員会.. 科郷土化の実際』明治図書.. 修徳自治連合会会計理事近森佐太郎編(1992)『「脩. 渡辺裕(2010)『歌う国民』中央公論新社. 『開智』「明治廿六年三月現在校地校舎図」(京都市. 厥徳」─修徳小学校一二三年の鎮魂─』修徳自 治連合会.. 学校歴史博物館所蔵).. 『親道─百年の歩み抄─』(親道小学校創立百周年記. 修道校創立百周年記念事業委員会編(1969)『修道 校創立百周年記念誌 修道』京都市立修道小学校 .. 淳風校史編纂委員会編(1969)『淳風校百年史』淳. 念),出版年なし. 『成徳百年誌』(1969)京都市立成徳中学校. 「第7607号 明治24年12月7日 長官より文部大臣. 風校創立百周年記念事業委員会.. 宛 東京市下谷区忍岡小学校に於て大祭祝日其他. 須田珠生(2017a)「学校校歌作成意図の解明─東京. 免状授与式等の節,生徒をして特に唱歌の為別紙. 音楽学校への校歌作成依頼状に着目して─」『音. 歌詞譜面,校歌と定め度旨校長より申出に付認可. 楽教育学』第46巻第2号,pp.1-12.. の義に付上申」(東京都公文書館所蔵 請求番号. 須田珠生(2017b) 「東京女子師範学校における校歌 の成立と『尋常小学唱歌』との関係」『教育学研 究紀要』第63巻,pp. 525-530.. 623. A7. 09).. 『本校沿革史年表』(京極校)京都市学校歴史博物館 所蔵.. 正親百周年記念事業実行委員会編(1969)『正親百. 『本校教育ノ推移ト伝統』(京極校)京都市学校歴史. 年』正親百周年記念事業実行委員会.. 博物館所蔵. -24-.
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