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宗教多元主義を学ぶ意義に関しての考察

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宗教多元主義を学ぶ意義に関しての考察

南 部 千 代 里

1.はじめに  浅川晃広が日本は「既に移民大国」1であると述べているように、多様な 宗教的背景をもった人々と、どのように共存し、より善い社会を形成してい けばよいのであろうかという問いが、今日の日本の大都市において現実問題 となっている。なぜなら、従来の「技能実習」に加え、2019年から新たに「特 定技能」が創設されたことにより、数十年前には海外に行かなければ遇うこ ともなかったビジャーブ姿のイスラム教徒たちと、隣人として日常的に顔を 合わせて生きるようになったからである。このような宗教の多元化現象の問 題に関して、私たち日本人に先駆けて、1951年以降よりインド亜大陸等から 労働力として英国に移住してきた、所謂多様な宗教背景をもった外国人労働 者とキリスト教文化圏に生きる英国人との平和共存のために宗教の平等と寛 容を説いたのが、キリスト教神学者であり哲学者でもあるジョン・ヒック (John Hick、1922―2012、以後ヒックに統一)である。  本研究は、中田考が「日本でも、とくにアジア地域を中心とするムスリム 労働者の増大によって、ヨーロッパに似た状況が出現しつつある」2と述べ ているように、好む・好まないに拘らず、今まさにヒックがおよそ50年前に 英国で体験した宗教現象と似た現象に日本が直面していることから、ひとつ の試みとして、イスラム教を取り上げて、仏教文化圏に生きる私たちがなぜ 宗教多元主義を学ぶのか、その意義に関して考察する。  『コーラン』は、井筒俊彦訳(岩波書店、2014年第67刷、引用中の()は 井筒の挿入)を使用する。ことわりとして、本研究では「コーラン、イスラ ム教、イスラム教徒」を用いる。但し、本論中における引用や文献では、著 者に従い「クルアーン、イスラーム、ムスリム」と表記する。

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2.宗教多元主義  一つの社会において複数の宗教が共存している現象を宗教の多元化と解す るならば、宗教多元主義は日本仏教においては問題とはなり難い3。しかし 多元的状況が、もしある種の危機を感じさせるとしたならば問題となろう。 それは、たとえば従来仏教は「非暴力主義」4であると言われてきたが、 2017年9月、スリランカのイスラム系ロヒンギャの難民保護施設をシンハラ 仏教の過激な仏教僧らが襲撃した5ように、仏教も自宗教を守るためには例 外ではないことが明らかとなったからである。宗教多元主義はこのような問 題との関係から考える必要がある。しかし、それはキリスト教文化圏から発 せられたものである。そのため仏教文化圏に生きる私たち日本人においては、 それの思想構造を把握することが肝要となる。よって本章においては、ヒッ クが提唱した宗教多元主義とはどのような理念であるのかを概観してみたい。 ⑴ 宗教多元主義の骨子  多元主義(pluralism)ということばは、価値(倫理・道徳)多元主義、 文化多元主義、民族多元主義などと多方面で使われている。これは、単に多 数の価値、文化、民族が在るということではなく、善悪の価値観などは民族・ 文化によって異なるという多元的見方である。宗教においても同様に、救済 への道が「一つしかない」というのではなく、その道は「多数ある」6とい う意味での多元性を認めるのが、宗教多元主義(Religious Pluralism)であ る。  宗教多元主義は、世界的にも宗教の世俗/多元化現象が進む現代にあって、 自宗教だけが真理であると主張するキリスト教の独善的な態度はすでに通用 しないという認識に立つ。したがって一方では、グローバルな意識に示唆さ れる方向でキリスト教の絶対主義(Christian absolutism)を内部から解体 し7、他方ではキリスト教徒が「天の父」と呼ぶ神を「超越的な究極リアリ

テ ィ」8と し て「実 在 者(the Real)」、あ る い は「神 的 実 在(the divine

reality、以後、神的実在に統一)」9と呼び換えて、宗教とは「いずれもが神

的実在に対するそれぞれの歴史や風土を踏まえた経験であり応答である」10

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あるのがヒックである。 ⑵ なぜヒックは宗教多元主義を提唱したのか  ヒックが宗教多元論を考案するに至ったのは、1967年にバーミンガム大学 に転職したことに起因する。英国では、労働力不足を補うため1951年と1959 年にインド亜大陸やカリブ海地域からおよそ200万人の移民を迎えた11。バー ミンガムでもヒックが訪れた時点で、人口の2割にあたるイスラム教徒12 その他ヒンドゥ教徒、シク教徒、仏教徒等が移住しており13、そこは最早キ リスト教中心世界ではなく、宗教が混在する社会となっていた。  ヒックは、教授職のかたわら地域社会における人種や宗教問題に実践的な 関わり14をもちながら、キリスト教徒が抱く移民の宗教に対しての偏見と差 別を払拭させるため宗教多元論を構築した。なぜなら「その地域(バーミン ガム:筆者挿入)では、ネオ・ナチ国民戦線が活動的であり、黒や茶色の肌 をした移民たちやユダヤ人に対して、憎悪を引き起こしたり暴力をすすめた りしていた」15、移民たち「有色人種を劣等だとするこの分類は、彼らの文 化や宗教も同様に見なしていた」16からである。  ヒックは「ユダヤ教の 会シナゴーグ堂 では、神は天地の創造主として」17、「イスラ ム教寺モ ス ク院では、神は天地の創造主であり世界を治める主として」18、「シク 教の 寺グルドヴァーラ院 では、神は天地の創造主、此岸と彼岸の恵み深き主として」19 「ヒンドゥ教寺テンプル院では、〔中略〕神は万物の究極的な主として」20移民たちが 各礼拝所で祈る姿がキリスト教徒と「同一」21であるという現象に「気づい

た」22。つまり「至高者(the supreme being)がキリスト教の教会では「ゴ

ッド」、ユダヤ教の会堂では「アドナイ」、イスラム教寺院では「アッラー」、 シク教寺院では「エコアムカール」、ヒンドゥ教寺院では「ラーマ」とか「ク リシュナ」」23と呼んでいるだけで、拝する対象は「本質的に同一である」24 ことに気づいたのである。その体験から彼は、異なる伝統においても「礼拝 の現象学的類似点」25から「究極的には唯一の神が存在すると主張する点で 一致している」26、「偉大な世界宗教の信仰者たちは、事実上、この唯一の 神を礼拝している」27という結論を導出し、諸宗教を同等に評価する立場に 立ったのである。

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⑶ 宗教多元主義の目的  ヒックの宗教多元論は、「一」なる究極的神的実在への人間側からの応答 として世界の宗教を解する。つまり「一」から派生したものが諸宗教である と帰納的に捉える。ゆえにどの宗教も「救済」においては同一であると規定 した。そして人間は、ただ現象としての宗教を体験できるだけであるから、 各宗教は体験から「一」なる神的実在を「異なる名前」28で呼んでいるに過 ぎないと断言した。これをヒックは、プトレマイオス的世界観からコペルニ クス的世界観、すなわち世界はキリスト教を中心に回っているのではなく、 神的実在を中心に世界のすべての宗教は回っているというパラダイム転換29 をなしたことになると宣言した。ここにおいて神を立てない仏教等が包含さ れる。だが問題は、釈 が説いた仏教は、「苦」からの解脱であり、その解 脱を成就させるための真実の智慧を説いた30ものであって、「一」なる究極 的実在は想定されていない点にある。だからヒックは、宗教多元主義とは何 かを以下のように述べている。 多元主義は、偉大な世界宗教はどれでも<実在者>なり、<究極者>な りに対するさまざまな覚知と概念、またはそれに応じたさまざまな応答 のしかたを具体化し、加えて、その各々の伝統内において<自我中心か ら実在中心への人間存在の変革>が明確に生じつつある―人間の観察 の及ぶ限り、ほぼ同程度に生じつつあるものといえる―とみなす見解 のことである。したがって、偉大な宗教的伝統はそれぞれ代替的な救い の「場」、あるいは救いの「道」とみなすことができる。そしてこの場 なり、道なりに沿って、人は救い・解放・悟り・完成に達することがで きるのである31  このようにヒックが提唱した宗教多元主義は、<自我中心から実在中心へ の人間存在の変革>、すなわち救済が、すべての宗教的伝統の文脈において、 さまざまに異なる仕方で生じつつあると認める見解である。だから伝統的キ リスト教神学や仏教教学の視点から見るならば、宗教多元主義には受容し難 い点は多々ある。然しながら、ヒックが提唱した宗教多元主義は私たちに重

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要な示唆を与えている。それは、自宗教の主張を絶対/優越視して他宗教の 価値と真理性を一切認めない宗教排他主義(Religious exclusivism)を、ま た他宗教の価値や真理性をある程度認めるが自宗教を最上位におく宗教包括 主義(Religious inclusivism)をも拒み、すべての宗教には価値と真理性が 存在していることを肯定して、諸宗教間の「対話」を通して世界の平和共存 を目的として、「寛容」を徳とする宗教多元主義理論を構築したからである。 伝統的キリスト教神学者岩村信二は、ヒックは「宗教が悪しき独裁主義に陥 らない限り、宗教と宗教の共存をはかり、果ては忌まわしい宗教戦争を避け ようとした」32と理解を示している。 3.イスラム教と宗教多元主義  現在の日本社会は、イスラム教への「開国」33期にあると言われている。 なぜなら、約1500年前に仏教が、400年前にキリスト教が伝来して以来、最 終異宗教としてイスラム教を受入れるか否かが、今後の日本社会を規定する からである。この意味において私たちの判断・決定は、今を生きる者だけの 問題ではなく、子孫の問題であり、それは日本文化、すなわち仏教文化を延々 と築いていけるか否かの重要問題である。ところが、これ程の問題であるに も拘らず、圧倒的多数の日本人にはイスラム教への知識の備えが殆ど無に等 しいのが現状である。だが他方では、日本国内にあるイスラム教寺院は1990 年前には4つであったが、今や100を越えている34。後でも述べるが、母国 帰還を希望しないイスラム教徒のための墓地がすでに日本国内に3箇所確保 されている。  現在世界中のイスラム教徒は18億人35であるが、2050年には「四十億に増 えると推測」36されている。もしこの予測が当たると、地球上の二人のうち 一人がイスラム教徒となる。よって本章においては、その人たちが堅信して いるイスラム教とはどのような宗教なのかを簡素に概観し、そして宗教多元 主義との関わりについて考えてみたい。 ⑴ イスラム教の基本的教理  イスラム教は、アラビア半島のメッカ(マッカ)という商業都市において、

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およそ1400年前に生れた、比較的新しい宗教である。その当時メッカは、イ ンド洋海域と地中海圏とを結ぶ中継貿易拠点となっており、東西の物資がこ こを経由して交易していた。始祖ムハンマド(570頃―632)も「万よろずよ世の主、 慈悲ふかく慈愛あまねき御おん神かみ、審さばきの日(最後の審判の日)の主しゅ宰さい者しゃ」37 あり「恐ろしい復ふくしゅう讐の神」38であり「不可知なるもの」39であるアッラー(ア ラビア語でthe Godを意味し、アッラーという固有名詞をもった神を指して いない、「アラブのキリスト教徒によっても用いられる」40)から召命され るまで交易商に雇用されていたため、隊商を率いてメッカからシリアまで赴 いていたと言われている。たとえば、イスラム教の聖典である『コーラン』に、 取引や協定、盟約、条約、報酬といった商業的用語が多く見られるのはこの ためである。  聖典『コーラン』は、西暦610年頃からムハンマドが歿する632年までのお よそ22年間、神は天使ジブリール(ガブリエル)を通じて語りかけた、その 間の啓示を一冊の書物としたものである。よって、そこには人間が手を入れ る余地はまったくない。一語一句「神のことば」である。  アラビア語が神に選ばれた聖なる言語であると堅く信じるだけでなく、コー ランとは「声を出して詠まれるもの」41という意味であるがため「声を出す」 のが信仰の根幹である。それはムハンマドが出生前に父を、幼児期に母を亡 くした「不幸な生い立ちのために読み書きなどはできなかった」42ためであ ったと言われている。そこに貫抜かれていることは、迫り来る終末への警告 と唯一なる神アッラーへの帰依の呼びかけである。『コーラン』第10章100節 には「何びともアッラーのお許しなくしては信仰に入ることはできぬ」43 書かれている。  イスラムとは神への「服従」44を意味するが、その教の基本的教義と儀礼 は「六信五行」45である。六信とは、神、天使、聖典、預言者、来世、天命で、 これらの存在は信じなければならない。最後の天命とは、この世で何が起こ ろうとも全ては神の意志の表われであり、そういう宿命に人間は逆らわれな い「未来のことを知っているのは神だけだから、人間が未来のことを断言し たり、確信したら不敬」46になるという意味である。五行とは、信仰告白、 礼拝、喜捨、断食、巡礼で、全イスラム教徒に課せられた義務である。信仰

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告白とは、メッカに向かって一日五回「アッラーのほかに神なし、ムハンマ ドはアッラーの使徒なり」と唱える儀礼であり、喜捨とは財産の2.5%程を 貧しい者や病人に与えることである。但し最後の巡礼は、全イスラム教徒が 対象ではなく、経済・時間・体力のある者に課せられた義務である。また 『コーラン』には、日々の食生活に関して「食べてはならぬもの」47とは何か、 細かい食物規定が示され、これを破ることは「罪」48である。  イスラム教において、聖典『コーラン』のつぎに重要な書物は『ハディー ス』である。これは、ムハンマドの生前の言行(スンナ)の詳細を記したも のである。「語ったこと」49という意味であるハディースは、『コーラン』に 記されていることを実際どのように実行すればいいのかを13世紀頃にまとめ たものである。たとえば、イスラム教徒の男性の殆どが髭をのばしているの は『ハディース』に「マホメットはヒゲを生やしていた」50と書かれている からである。『コーラン』と『ハディース』の記述を集大成した律法が『シ ャリーア(イスラム法)』51である。 ⑵ イスラム教における人間観と世界観  イスラム教の人間観は、「聖典の民」52と呼ばれるユダヤ・キリスト教と 基本的に同じで、人間は唯一なる超越神が創造した被造物である。  神の創造のもとでは、人間も自然も神の被造物であり同格であるが、ただ 人間だけに神の「代理者」53という位置が与えられている。したがって人間 が被造物の頂点に立つ支配的存在と考えられるが、これは被造物世界を管理 する義務の責任を負った地位にあるという意味で、自然を好き勝手に加工、 破壊する権利があるという意味ではない。そして『コーラン』第4章38節に は「アッラーはもともと男と(女)との間には優劣をおつけになったのだし、 また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上にた つべきもの」54と書かれている。  イスラム教では、『コーラン』第2章75節に「悪業の財を積み重ね、罪で その身をがんじがらめにした者ども、彼らは劫火の住人となって、末永くそ こに住みつくことになろうぞ。だが正しい信仰をもち、善功を積む人々、そ ういう人々はみな楽園の住人になって、そこに末永く住みつくことになろう

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ぞ」55と書かれているように、有限な現世に対し、来世は無限である。神の 代理者という責務を担う人間は、生前は地上に神の意志に基づいた道徳的秩 序を構築し、死後は天地の終末まで墓中で眠り、終末の時には現世における 行為の質に応じて楽園か地獄かの地位が神によって下される。このようにイ スラム教における死生観は、来世こそが真なる生の場所であって、死は永遠 の生への「通過点」に過ぎない56。たとえば、楽園に迎えられた男性は「清せい 浄 じょう 無む 垢く の妻たちをあてがわれ」57、それも清浄な妻は「何人もあてがお う」58と記されている。  イスラム教では、死者は生前と同じ人物として来世に復活する。『コーラン』 に「猿になって何ど 処こ かへ行ってしまえ」59という語句があるが、これはユダ ヤ教において安息日に律法を遵守しなかった者は猿にされてしまうという戒 めであって、イスラム教において輪 転生は想定されていない60。「入信さ えすればどんなに暗く疚しい過去も清算され、栄光に満ちた未来と来世が約 束」61されている。  イスラム教では死者が復活する際に元の肉体を必要とするため、埋葬は、 航海中の水葬はやむをえないが、原則土葬である62。火葬は、『コーラン』 第4章59節において「まこと、我らの神兆を信じないような者ども、そうい う者どもはいまに燃えさかる火に焼いてくれようぞ。皮膚がすっかり焼けて しまったら、何遍でも新しいのと取り換えて、天罰をじっくり味わわせてや るぞ」63と書かれているため、宗教関係における罪人のみに行なう。これゆえ、 神が火獄の懲罰を与えていない遺体を人間が火で焼くことは大罪である。そ のため日本においては、山梨県甲州市と静岡県静岡市内、北海道余市郡内の 3箇所にイスラム教徒専用霊園(土葬墓地)が準備されている64。但し『コー ラン』第4章29節において自殺を禁じていることから、その者には葬儀は行 なわない65。テロリストの自爆は自殺か殉教かに関して、イスラム教学者塩 尻和子は「多くのイスラム法学者は、自爆テロはジハードに名を借りた犯罪 であると判断している」66と述べている。  イスラム教において最大の罪は『コーラン』第2章77節にて「アッラーを 措いて他の何者をも拝んではならぬぞ」67と命じられているように、他神や 偶像を拝することである。なぜならムハンマドが「アッラーは、御自分が他

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の(偶像)と一緒にならべられたら絶対に、お赦しにはならない」68、「多 神教徒は、まったく汚けがれそのもの」69と嫌忌したからである。その理由は、人々 がアッラーの意志に反して他神や偶像を拝するのは「みんなシャイターン(サ タン)がとりかえしのつかないほど道を迷わしてやろうと企たくらんでおる」70 らである。かつて「ムーサー(モーセ)が数々の神兆(奇蹟)をもって来た 時も、お前たち(イスラエル:筆者挿入)は彼の留守に(黄金の)犢こうしを拝む という大変な不義を犯した」71ように、「ターグート(アラビアの鬼神)」72 や「(偶で 像く神)を信じてはならぬとあれほど言いきかされておるのに」73 像に頼るのは、実は、シャイターンが背後で人間を堕落させようと働いてい るからである。このようにイスラム教の世界観は、善なる神と悪なるシャイ ターンという二元論74である。ゆえにイスラム教では汚れそのものである異 教徒との結婚は禁じている。『コーラン』第2章220節には、相手がイスラム 教に改宗するなら許されるが、さもなければ「彼ら(邪宗徒)は汝らを地獄 の劫火に誘う」75と書かれている。 ⑶ 宗教多元主義におけるイスラム教理解  イスラム教では、ムハンマドは唯一神アッラーから「初めて「人類全体に 遣わされた」」76、それも「最後の預言者」77であり、『コーラン』を通して 真の宗教が啓示されたと堅信することから、とかくイスラム教は「不寛容な 宗教」78と言われる。だが古屋安雄は「キリスト教のように自分の宗教こそ は「唯一の宗教」であるということを絶対的に主張する宗教はほかにない。 〔中略〕イスラム教であってもそれほど絶対的には主張しないであろう」79 と言っている。しかし『コーラン』第3章17節には「真の宗教はただ一つイ スラームあるのみ」80と書かれている。よって、キリスト教もイスラム教も 自宗教の絶対/優越性を主張する点においては排他主義81である。だがこれは、 先述のスリランカの仏教僧の動向からも窺えるように、仏教においても然り である。仏教が宗教である以上、自己の奉ずる教学を唯一無二、最高と見る 排他主義に立たざるを得ない。だから先述の岩村信二は、この者たちが対立 したならば「もう解決はない。ただ果てしない泥沼の如き争いが続くだけで ある」82と述べている。

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 したがって宗教多元主義の問題は、単に理論上の問題ではなく、人類の生 死の決定に関わる現実的な問題である、と言えよう。そうであるからこそ、 今後世界の人々が平和共存していくためにも、宗教間における対話がより活 発におこなわれなければならない、と誰しもが思うであろう。だからヒック は、宗教多元主義者としての立場から、イスラム教に対しても以下のように 提言している。 イスラム教徒は、ユダヤ教やキリスト教の『聖書』を通して、またヒン ドゥー教や仏教などの聖典を通して、神的実在と出会っている人々を、 別のアブラハム的信仰の枠内で好意的に認めるべきであり、また何らか の解釈のもとでこうした人々を含めようと、「聖典の民」というコーラ ン的概念の拡大を図るべきであるのだが、それでもやはりイスラム教徒 は『コーラン』の啓示が独自の位置づけを有するという強い意識を保持 しようとする。そこにはすべての者が聞き従わなくてはならない神の最 終的な、決定的な、命令の言葉がある。したがって、そのような確信の もとでは、当然のことながら、宗教多元主義の完全な、無条件的な受け 入れは促進されない。83  このようにヒックは、イスラム教の基盤を変えない、すなわち『コーラン』 の独自性と唯一性を保持しつつ、他宗教との対話と平和共存を模索する可能 性として、イスラム教の絶対/優越性への要求を抑制した自己改革を提案し ている。つまり、諸宗教の神・神々は「一」なる究極的神的実在が「異なっ た名前」で呼ばれているだけで、決して相反する神概念ではないことを理解 するようイスラム教に要請しているのである。なぜなら、ヒックが提唱した 宗教多元主義の肝要は、キリスト教、あるいはイスラム教、仏教だけが唯一 絶対的宗教ではなく、世界に存在するすべての宗教は真理性をもち「同じ程 度に救い/解放の脈絡をなしている」84という点にあるからである。つまり、 各宗教が自宗教の絶対/優越性への主張を克服する時に、真の対話と寛容が 生れることを明らかにした点にある。  信楽峻麿は「私は基本的には、浄土宗、浄土真宗においても、この宗教多

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元主義の主張に対しては、賛意を表すべきであると思う」85と述べ、竹村牧 男も、諸宗教「それぞれが排他主義では、対話は成立しえない。〔中略〕ヒ ックの宗教多元主義のように、とりあえず最初の出発点を仮に決めて、そこ から対話を重ねていきつつ、相互理解を深めていく道が考えられてよいであ ろう」86と賛同し、ジョン・L・エスポズィートも、今も世界では宗教間の 対立が、戦闘が続いていることを考えると「多元主義と寛容の精神を促進す るとともに、非寛容を排し過去の遺恨を忘れることがますます大きな重要性 を帯びてくる」87と述べている。 4.おわりに  東西の冷戦構造が崩壊し、イデオロギー対立が終った後に、これまであま り文化の表面に出て来なかった宗教が、9・11米国同時多発テロを頂点とし て、イスラム教原理主義者88によって顕著となってきた。それらは表立って は民族や経済格差の問題を標榜しているが、実際、彼らが抱いている89のは、 繰り返しになるが、3―⑵において述べたように『コーラン』に「真の宗教 はただ一つイスラームあるのみ」、「アッラーは、御自分が他の(偶像)と一 緒にならべられたら絶対に、お赦しにはならない」、「多神教徒は、まったく 汚れそのもの」と書かれている、非イスラム教徒(ダール・アルハルブ)90 への「憎悪と敵愾心」91である。  では信仰に生きる者に無抵抗な者を殺害させる力を持たせる排他心は、ど うすれば克服でき得るのであろうか。それには、ひとえに理性の克己心に頼 らざるを得ないのであるが、その時に役立つのがヒックの「神は多くの名前 を持つ(God has many names)」という多元的宗教観である。つまり、ど の宗教にも真理性は存在している、その意味において諸宗教は平等であり、 救済においては、その道は一元的ではなく多元的であるという考えである。 これにより宗教上の偏見と差別が払拭され「寛容に至らせる」92、「宗教間 の誤解と闘争に終止符が打たれる」93、世界平和実現のためには必要な理論 である、と言えよう。  しかし、サミュエル・ハンチントンが「民族と言語が共通していても宗教 が違うと人びとはたがいに殺しあう場合があり」94と言っているように、た

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とえば、日本の仏教や神道、キリスト教、新宗教の信者が、宗教多元主義は 宗教対立の場にあって有効に働く理論であると賛同しても、イスラム教徒が、 仏像を拝することや「多神教は絶対に赦されない大罪中の大罪である」95 いう堅い信念を内に秘めているならば、宗教間における真 な対話は困難と なろう。だが、イスラム教にのみ他宗教との対話が問題となるという設問は 最初から偏見を伴っている、という意見がある。なぜなら日本人イスラム教 徒は「中東やアラブのイスラームとちがって暴力的ではない」96、平穏であ るとよく言われるからである。  これに対してイスラム教学者内藤正典は「イスラームそのものは、本質的 に、どこでもいっしょです。アジアのイスラームがソフトに見えるというの は、〔中略〕私たち(非イスラム教徒:筆者挿入)と接するときに優しそう に見える(私たちが勝手にそう思い込んでいる)ということにすぎませ ん」97と言明している。だが内藤は、「ムスリムの人口は、いまも増えてい ます。好きでも、嫌いでも、これからの私たちは、イスラームという宗教を 信じる人たちと共存していかなければなりません」、だから私たちは、「イス ラームの何を誤解してきたのかを知らなければなりません」98と提言している。  以上から、本研究は、ヒックがバーミンガムで多くの移民たちと出会った 経験、すなわち、キリスト教徒以外の人々の人生の中にも、神・神々、ある いは仏がいまして、今まさに救いのために働いている、という気づきから宗 教多元主義を唱道するようになったことと似た状況が、今私たち日本人にも 迫り来た以上、過去の忌まわしい宗教間における対立99を繰り返さないため、 また仏教文化圏に生きる日本人(非イスラム教徒)にはイスラム教徒と付き 合うための「術と知識の両方が欠けている」100ことから、感情的な民族/国 粋主義や宗教排他主義に傾斜することを回避するためにも、諸宗教間の「対 話」の重要性と「寛容」を説いたヒックの宗教多元主義を学ぶ意義がここに あるのではないだろうか、と考える。

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【 】 1 2018年6月末、法務省入国管理局による統計では在留外国人総数はおよそ230万人。 厚生労働省が出している資料によると、外国人在留労働者数は2030年には282万人 と予測。浅川晃広『知っておきたい入管法』平凡社、2019、pp.79―131. 2 中田考「イスラームにおける共存を妨げる者―カリフ制、「イスラームの家」の 再興による共存の実現を目指して」、森孝一編『ユダヤ教・キリスト教・イスラー ムは共存できるか―ー神教世界の現在』明石書店、2008、p.218. 3 「日本では昔から神道、仏教、儒教、〔中略〕さらにキリスト教、このようなさま ざまな宗教が他国の場合と比べればたいした軋轢もなく併存して来たという伝統 がある」。八木誠一「訳者解説」、ジョン・ヒック+ポール・F・ニッター編、八木 誠一+ 口恵訳『キリスト教の絶対性を越えて―宗教的多元主義の神学』春秋社、 1993、p.423.日本の場合はシンクレティズムというもので「ユダヤ教、キリスト 教あるいはイスラム教によって根本的に影響を受けてきている人たちの宗教への アプローチとの違いを生んでいます」。ハロルド・ネットランド、松元保羅訳『ど んな宗教でも救われるのか』いのちのことば社、1993、p.20. 4 ワールポラ・ラーフラ、今枝由郎訳『ブッダが説いたこと』岩波書店、2016、 p.178. 5 https://newsphere, jp/world-report/20171003 6 ジョン・ヒック、間瀬啓允訳『宗教的多元主義―宗教理解のパラダイム変換』法

蔵館、1994、p.70.John Hick, Problems of Religious Pluralism, the Macmillan press Ltd, London, 1985, p.34.以後ジョン・ヒックの著作に関して、前掲書はヒック・和訳 主タイトル・和訳ページ・原著ページ、同上書は和訳ページ・原著ページに略記。

7 ジョン・ヒック、間瀬啓允/本多峰子訳『宗教多元主義への道』玉川大学出版部、

1999、p.195.John Hick, The Metaphor of God Incarnate, SCM Press Ltd, London, 1993, p.152. 8 同上書、p.3.原著, p.ix. 9 同上書、p.173.原著, p.134. 10 前掲書、ヒック『宗教的多元主義―宗教理解のパラダイム変換』、p.64.原著, p.31. 11 ジョン・ヒック、間瀬啓允訳『神は多くの名前を持つ』岩波書店、1986、p.30.

John Hick, God Has Many Names: Britain’s New Religious Pluralism, Macmillan Press Ltd, London, 1980, p.13.

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から世界を見る』筑摩書房、2012、p.190. 13 保坂俊司『グローバル時代の宗教と情報 ―文明と祖型と宗教』北樹出版、 2018、p.57. 14 「今であれば解放の神学と呼ばれるような活動を、そのとき実践していた」。ジョン・ ヒック、堀江宗正訳「自分史」、編者間瀬啓允 稲垣久和『宗教多元主義の探求 ―ジョン・ヒック考』大明堂、1985、p.3. 15 同上書、p.3. 16 前掲書、ジョン・ヒック、八木誠一+ 口恵訳「キリスト教の絶対性の超克」、ジ ョン・ヒック+ポール・F・ニッター編『キリスト教の絶対性を越えて―宗教的 多元主義の神学』、p.46. 17 前掲書、ヒック『神は多くの名前を持つ』、p.97.原著, p.45. 18 同上書、p.98.原著, p.46. 19 同上書、p.98.原著, p.46. 20 同上書、pp.99―100.原著, p. 47. 21 前掲書、ヒック「自分史」、『宗教多元主義の探求―ジョン・ヒック考』、p.4. 22 同上書、p.3. 23 前掲書、ヒック『神は多くの名前を持つ』、p.97.原著, p.45. 24 同上書、p.97.原著, p. 45. 25 同上書、 p.102.原著, p. 48. 26 前掲書、ヒック「自分史」、『宗教多元主義の探求―ジョン・ヒック考』、p.4. 27 前掲書、ヒック『神は多くの名前を持つ』p.103.原著, p.48. 28 同上書、p.161.原著, p.74. 29 前掲書、ヒック『宗教多元主義 ―宗教理解のパラダイム変換』、p.99.原著, p.53. 30 長尾雅人「仏教―無我思想を中心に」、田中美知太郎編『宗教と倫理』人文書院、 1977、p.167. 31 前掲書、ヒック『宗教多元主義 ―宗教理解のパラダイム変換』、p.74.原著, pp.36―37. 32 岩村信二『宗教多元論・是か否か』キリスト新聞社、2002、p.77. 33 保坂俊司『イスラームとの対話』成文堂、2000、p.i. 34 保坂俊司『「格差拡大」とイスラム教』プレジデト社、2015、p.5. 35 飯山陽『イスラム教の論理』新潮社、2019、p.9. 36 眞田芳憲『日本人のためのイスラーム入門』佼成出版社、2005、p.5. 37 井筒俊彦訳『コーラン(上)』岩波書店、2014、第67刷、p.11.

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38 同上書、p.86. 39 同上書、p.12. 40 ジョン・L・エスポジィート、塩尻和子・杉山香織監訳『グローバル・テロリズム とイスラーム―穢れた聖戦』明石書店、2004、p.181. 41 塩尻和子『イスラームの人間観・世界観―宗教思想の深淵へ』筑波大学出版会、 2008、p.124. 42 前掲書、保坂俊司『グローバル時代の宗教と情報―文明と祖型と宗教』、p.45. 43 前掲書、井筒俊彦訳『コーラン(上)』、p.351. 44 同上書、p.89. 45 前掲書、保坂俊司『グローバル時代の宗教と情報―文明と祖型と宗教』、p.51. 46 大島直政『イスラムからの発想』講談社、1981、p.23. 47 前掲書、井筒俊彦訳『コーラン(上)』、p.172. 48 同上書、p.172. 49 前掲書、保坂俊司『グローバル時代の宗教と情報―文明と祖型と宗教』、p.53. 50 同上書、p.53. 51 同上書、p.53. 52 『コーラン』ではユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒を含めて「聖典の民」 と言い、神の天啓を授けられた民の意味。前掲書、井筒俊彦訳『コーラン(上)』、 p.33. 53 同上書、p.17. 54 同上書、p.137. 55 同上書、p.27. 56 前掲書、塩尻和子『イスラームの人間観・世界観―宗教思想の深淵へ』、p.7. 57 同上書、p.16. 58 同上書、p.142. 59 同上書、p.23. 60 内藤正典『イスラムの怒り』集英社、2009、p.175. 61 前掲書、飯山陽『イスラム教の論理』、p.9. 62 前掲書、大島直政『イスラムからの発想』、p.45. 63 前掲書、井筒俊彦訳『コーラン(上)』、p.142. 64 前掲書、保坂俊司『「格差拡大」とイスラム教』、p.109. 65 前掲書、塩尻和子『イスラームの人間観・世界観―宗教思想の深淵へ』、pp.18 ―19. 66 同上書、p.19.

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67 前掲書、井筒俊彦訳『コーラン(上)』、p.77. 68 同上書、p.140. 69 同上書、p.305. 70 同上書、p.143. 71 同上書、p.30.『旧約聖書』「出エジプト記」第32章における「金の仔牛事件」を 指している。 72 同上書、p.143. 73 同上書、p.143. 74 前掲書、田中考『ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか―ー神教 世界の現在』、p.207. 75 前掲書、井筒俊彦訳『コーラン(上)』、p.63. 76 島田裕巳+中田考『世界はこのままイスラーム化するのか』幻冬舎、2015、p.39. 77 同上書、p.38. 78 田丸徳善・星川啓慈・山梨有希子『神々の和解』春秋社、2000、p.71. 79 古屋安雄『宗教の神学―その形成と課題』ヨルダン社、1985、p.265. 80 前掲書、井筒俊彦訳『コーラン(上)』、p.89. 81 梅津光弘は「Exclusivismを専心的な宗教的信念の積極的側面」として捉えること を提案している。前掲書、梅津光弘「倫理学的に見た宗教多元主義」、『宗教多元 主義の探求―ジョン・ヒック考』、p.111. 82 前掲書、岩村信二『宗教多元論・是か否か』、p.41. 83 前掲書、ヒック『宗教多元主義 ―宗教理解のパラダイム変換』、p.92.原著, pp.48―49. 84 前掲書、ヒック『宗教多元主義への道』、p.116.原著, p.88. 85 信楽峻麿「宗教多元主義と浄土教」、『比較思想研究』第22号、比較思想学会、 1995、p.16. 86 竹村牧男「諸宗教の共存への道を求めて」、『平和のための宗教―対話と協力  第12号』世界宗教者平和会議日本委員会研究所、2019、p.120. 87 前掲書、ジョン・L・エスポズィート「二十一世紀のイスラームとキリスト教― 対立か共存か」、『ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか―ー神教 世界の現在』、pp.275―276. 88 現在一般的に用いられている原理主義とは、欧米のジャーナリズムで用いられて いたFundamentalismの訳語として1980年代に用いられるようになったものである。 詳細は、前掲書、保坂俊司『イスラームとの対話』、pp.187―189を参照。 89 高木徹『大仏破壊 バーミアン遺跡はなぜ破壊されたのか』文藝春秋、2004、

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pp.324―325. 90 イスラム教では、世界をダール・アルイスラム(イスラム教徒の家:イスラム教 支配地域)とダール・アルハルブ(戦争の家:異教徒支配地域。いずれイスラム 教化されなければならない地域)の二分法である。保坂俊司『イスラム原理主義・ テロリズムと日本の対応―宗教音痴日本の迷走』北樹出版、2004、pp.122―123. 91 前掲書、岩村信二『宗教多元論・是か否か』、p.70. 92 前掲書、ヒック『宗教多元主義への道』、p.189.原著, p.147. 93 ジョン・ヒック、間瀬啓允 渡部信訳『もうひとつのキリスト教―多元的宗教

理解』日本基督教団出版局、1989、p.163.John Hick, The Second Christianity, SCM Press Ltd, London, 1994 , p.91. 94 サミュエル・ハンチントン、鈴木主税訳『文明の衝突と21世紀の日本』集英社、 2000、p.109. 95 前掲書、飯山陽『イスラム教の論理』、pp.21―22. 96 前掲書、内藤正典『イスラームから世界を見る』、p.72. 97 同上書、p.72. 98 同上書、pp.15―16. 99 前掲書、岩村信二『宗教多元論・是か否か』、pp.93―96. 100 前掲書、内藤正典『イスラムの怒り』、p.64.

参照

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