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自由民権運動下の雲井龍雄の一側面(上) : 『土陽新聞』掲載記事をめぐって

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自由民権運動下の雲井龍雄の一側面

はじめに 明治六年政変に破れて下野した板垣退助と後藤象二郎は、明 治七年一月に愛国公党を設立し、左院に民選議院設立建白書を 提出する。が、結局それはいれられず、板垣は帰郷して同年四 月土佐に片岡健吉、林有造らと供に民権結社立志社を設立する。 その立志社が所謂立志社の獄の後、明治一

O

年から翌年にかけ て機関誌﹁海南新誌﹂﹁土陽雑誌﹂﹃土陽新島を続けて発行 している。その﹃土陽新聞﹂(明治一一年発行分)に幕末維新 の志士として知られる米沢藩士雲井龍科(一八四四J一八七

O

)

の小伝及び漢詩が都合五回掲載されている。言うまでもなく、 これは民権思想啓蒙の一端としての記事に外ならない。自由民 権運動は、理念的部分はともかくとして、表層的には薩長の藩 閥専制批判という形を取る。したがって雲井の展開する薩摩批 判の詩句は、格好の宣伝資料であったに相違ない。本稿は志士 であり、漢詩人であった雲井龍雄が、その死後に展開されてい

(

)

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く自由民権運動の中で精神的支柱としてどのように型作られて いくのか、その一端を捉えようとするものである。 雲井龍雄は幕末明治期に・おいて諸藩の志士と交流する中で薩 長両藩の専制政治に懐慨し、約二

OO

首の漢詩を残した人物で あり、新政府内では土佐藩の後藤象二郎、長州藩の広沢真臣ら と交流があった。そして明治三年、芝二本榎の上行寺及び円真 寺に帰順部曲点検所を設置して、薩長専制の新政府に不平を抱 く士族を糾合していた所を政府から転覆を謀るものとして糾弾 され、同年末に死刑を宣せられ暴首となフた人物である。 明 治 一

O

年の西南戦争以降本格化していく自由民権運動の中 で雲井龍雄の名を目にすることは少なくない。たとえば色川大 ③ 吉氏の北村透谷に関する諸研究が多くそれに言及している外、 かなり脚色され事実無根に近い内容ではあるが﹃雲井龍雄実伝 を の 号 車 一 括 徳川回復噂龍浪﹂という時事小説が明治二ハ年に出版され、大 衆に雲井の名が知られていったという事実もある。そういう明 治 一

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年代の経緯の中で、一一年のこの﹁土陽新聞﹄の雲井に

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関する記事はその初期資料として位置づけられる。そして、こ の流れの結果の一つとして明治二二年の雲井大赦があると考え ることもできる。加えて、最も古い刊本の雲井詩集は明治一三年 発行の浅埜晃斎編﹃雲井龍雄詩文集﹂であるから、それに先行 するものであり、その点に於ける資料的価値もあろう。 本論では﹃土陽新聞﹄に掲載されている雲井の小伝及び漢詩 を紹介し、その上で自由民権運動下の雲井の位置づけについて 管見を述べてみることにしたい。 ー注 l ①﹁海南新誌﹄は明治一

O

年八月から一 a 一月にかけて一七回発 行された知識人向け﹁大新聞﹂であり、﹃土陽雑誌﹄は﹃海 南新誌﹄と平行して明治一

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年八月から一二月にかけて一二 同発行された大衆向け﹁小新聞﹂である。そして両紙が統合 されて﹃土陽新聞﹄が翌一一年一月から-一

O

回にわたり発行 される。﹁土陽新聞﹄の号数は﹁海南新誌﹄をうけて一八号 から始まる。これら三種の機関誌の成立その他に関しては家 永三郎氏らが整理された﹁海南新誌・士陽雑誌・土陽新聞﹄ (昭和五八年、弘隆社)の解説及び解題一・二に詳細に論じて ある。参照されたい。尚、﹁土陽新聞﹄は明治一一年に発行 禁止の処分を受けた後再刊されるが、再刊分は今回の考証か らは除外した。 ②雲井龍雄研究に関しては安藤英男氏のものが資料の多さ、考 証の轍密さで群を抜いている。本稿に於いても安藤氏のもの を使用した。校訂に於て使用したもの以外では以下のものが ある。参照されたい。 ﹃雲井龍雄詩伝﹄(昭和四二年、明治書院) ﹃雲井龍雄研究伝記篇﹄(昭和四七年、明治書院) また筆者も拙稿﹁雲井龍雄研究序説││憾慨と隠逸をめぐって ││﹂(徳島大学教養部紀要人文社会二八)に於て雲井詩の特 質について論じている。併せて参照されたい。 ③北村透谷を始めとする自由民権家と雲井龍雄との関係に関し ては色川大士口氏の﹁明治の文化﹄(昭和四五年、岩波書庖)、 ﹃新編明治精神史﹄(昭和四八年、中央公論社)などに詳しい。 参照されたい。 ④明治一六年に東京太平堂より﹁雲井龍雄実伝徳川凶復噂龍浪﹂ (秋亭実著、菊亭静校閲)が出版されている。また時事小説に ついては明治文化研究会編﹃明治文化全集﹂第一二巻時事小 説篇(昭和三四年、日本評論社)に詳しい。参照されたい。 但しこの本には前記の雲井龍雄のものは紹介されていない。 第

1

章 掲載記事の紹介と検討 ﹃土陽新聞﹄に掲載されている雲井龍雄関係の記事は次の通 りである。

I

第二三号(明治一 O 雲井龍雄小伝 O 送釈俊師之京師 O 退集議院 編 輯 安 岡 道 太 郎 一年二月五日)

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第二五号(明治一 O 雨中看海裳有感 編 輯 渡 辺 医 皿 第 二 七 号 ( 明 治 一 一 年 二 月 二 五 日 ) O 就縛被護送子東京途中之作 編 輯 渡 辺 医 町 第 二 八 号 ( 明 治 一 一 年 二 a 月五日) O 禁鋼中送人行東京 O 失 題 編 輯 渡 辺 医

V

第三五号(明治 a 一年四月一五日) O 失 題 編 輯 美 濃 部 周 平 編集者が傍点を施している部分もあわせて、以下記事の全文 を挙げる。(本号は凹まで) 尚、雲井詩の記事を紹介するにあたり、論者は簡単な校訂を 施した。というのも、﹃土陽新聞﹄自体が新聞という字句に対 して雑になりがちな出版物であることにより、明らかな誤字が ままあるという事、そして雲井自身が自らの詩を複数の者に書 き送るという事をしており、真蹟が複数存し、真蹟聞にも字句 の異同があるという二つの理由による。加えて先に言及したよ うに、﹃土陽新聞﹂のこの記事は最も早く刊行された雲井の詩 集に先行するものであるという事情もある。 校訂にあたって参照した文献は以下の通りである。注記の際

E

一年二月一五日 は繁雑になるのを避けるためアルファベットで表示した。(文 字の異同については底本と比して明らかに誤植であり、そのた め内容に差異が生じているもののみ原文を訂正した上で原文の 文字を注記した。したがって異同があっても内容に大差のない 場合は、原文はそのまま示した上で底本の文字を注記した。尚、 記事は全て旧字体で表記されているので、記事については旧字 体を使用する。) A 浅埜晃斎﹃雲井龍雄詩文集﹄(明治一二一年、写本) B 桜井美成﹃雲井詩集﹄(明治二七年、須佐権平発行)

C

麻績斐・桜井美成﹃東北偉人雲井龍雄全集﹂ (明治二七年、東陽堂

D

安藤英男﹁雲井龍雄研究詩篇﹄(昭和四七年、明治書院)

E

安藤英男﹁新稿雲井龍雄全伝﹄(昭和五六年、光風社出版) (このうち B は C が刊行される前に桜井が詩だけを抽出して 編集したものなのだが、

B

C

聞にも文字の異同がみられるの で、両方とも取り挙げて・おいた。また

D

と E は共に安藤氏の 考証によるものであるが、ここにも安藤氏の見解により、真 蹟聞の文字の異同などによる字句の変更などが見られるので、 ともに取り挙げておいた。) -第 二 三 号 O 雲井龍雄小博 雲井龍雄、羽州米津の人。資性豪遁にして不輯、而れども 容貌温柔にして婦人の如し。嘗て安井軒息の門に遊び、塾長

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と昂る。人呼びて A 7 張良と日ふ。夙に英才を懐き、又騒思鏡 なり。市して詩は最も古瞳に長ず。皆雄偉悲壮なり o A 7 其 の 詩を讃めば以て其の人を想見するに足る。戊辰の蹴に、兵を 特ゐて王師に抗ふ。後轄に謄じて東都に来り官に列するも、 幾もなくして其の職を辞す。嘗時は王政創業の際にして、政 務繁劇、百度未だ備はらず。然るに大臣等、遊蕩荏注し、展 には北里の花を吟じ、タには二橋の月を晴きて、以て政を顧 みざる者あるに至る。是に於てか、慨然として済世の志を懐 き、縞かに薫奥を結び、以て姦を斬らんと謀る。事費はれ遂 に小塚原に棄せらると云ふ。(筆者改行) 余久しく東都に遊ぶ。友人某曾て余の矯に之を解すること 詳らかなり。蓋し友人某は雲井氏の知人ならん。嘗時は其の 事の是非、余之を知るあたはずと雄も、常に矯に其の人を景 慕す。一日其の墓を小塚原に弔ふ。時は方に秋、墓は寒網枯 州の中に在り。百品悲鳴し、滴露凝涙して、幽魂を弔ふの状 に似たり。余、訪僅すること之を久くして、感慨禁ずるあた はず。熟つら古今を回覗するに、陳慨義烈の士、生命を白刃 に委ぬること多し。諸誤姦滑の輩は、皆威福を嘗世に檀にす。 若し氏をして時事に感激する所なく、或は卿相の高位に列 せしめば、安逸して以て其の天年を終ヘしならん。未だ知る べからざるなり。然れども事蕊に出でず。菅に美穂を受くる あたはぎるのみに非ず、貴重の生命を以て、此の尺齢の小墓 に換ふ。悲しいかな。然りと難も、死生を外にして以て功名 を博むるは、大丈夫の常なり。其の成るに及、びてや、王公の 隼と矯り、相特の貴と属る。其の敗るるに及びてや、首を背 州白沙に曝し、謹するに賊名を以てす。是に由りて之を観れ ば、彼の順と逆とは成敗を以て之を論ずるに過、ぎざるが如し。 鳴呼、大丈夫の名を成すに何ぞ必ずしも順逆を論ぜんや。聯 か感ずるを書して以て小博を作る。(原漢文) ・この小伝を読めば、以下に掲載される彼の漢詩が思想啓蒙の 一翼を担うものとして評価されていることがわかる。﹁友人某﹂ が誰であるかは不明だが、﹁其の事の是非、余之を知るあたは ず﹂としながらも、当時まだ国事犯である雲井の行動を﹁酒世 の志﹂を抱いて﹁政を顧みざる﹂﹁姦﹂或は﹁諸課姦婿の輩﹂ を斬らんとしたものであるとし、その﹁順逆﹂は論ずべきでは ないと結論づけている。そしてむしろ雲井の﹁大丈夫﹂、﹁懐 慨義烈の士﹂としての精神性を色濃く出し、高く評価している。 したがって、当然のごとく以下に掲載される雲井詩も、この路 線に沿ったものが選定されていることになる。 0 送 非。死。生。稗 有。嘗o嘗。俊 功。芳。雄。師 名。聾。園。之 遠

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専。蓋。京 超。千。因。師 群。市

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0海。 ① 樺俊師の京師に之くを送る 生きては嘗に雄圃四海を蓋ふベく 死してはー嘗に芳聾千杷に博ふベし 功名遠く群を超ゆることあるに非 ③ ずんば 宣に喚びて虞の男九と属すに足ら んや 俊師 宣足喚馬虞男児 俊師謄大而気豪 謄は大にして気は豪

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世を憤りて夙に祇林に入りて逃ぐ 津梁ありと難も布く所なし 奈ともし難し天下の泊々たるを 惜しむ君が奇才の抑塞して逢する を得ず 柾げて其の砲を方とし其の項を圃 くするを 何 事 ぞ 衣 鉢 纏 九 身 を 潔 く し 聾梅大鼎調ふるを局さざるは 天下の溺れたるは援けて収むべし 人生宣に志を得るの秋なからんや 或場呑狼食、王土割裂するに到 ら ぱ 八州之州任君馬蹄之蝶揃 八州の凡君が馬蹄の蝶院に任せ ん 君 A 7 去りて向ふ東海道 到 る 慮 の 山 河 感 多 少 古城残塁は超か韓か 勝 敗 予 り 尚 島 知 し ⑬ 駿 の 山 参 の 水 英雄の起る慮は地形好し ⑬ 知る君此に到りて気は慨然 ⑬ 暗に悟るベし大丈夫は空しく老 憤世夙入祇林逃 難有津梁無所布 難奈天下之泊々 惜君奇才抑塞不得逗 柾方其砲固其項 或。人、天、不何 到。生、下、馬事 虎o宣、之、盟衣 呑。無、溺、梅鉢 狼。得、援、調横 食。志、可、大潔 王。秋、収、鼎身 土。 割。 裂。 層、知、英o駿。勝。古。到。君。 悟、君、雄。之o敗。城。慮。今。 大、到、起。山。有。残o山o去。 丈、此、慮。守。跡。畢。河。向。 夫、気、地o参。尚Q超。感。束。 空、慨、形。之。可。耶。多o海。 不、然、好。水。討。韓。少。道。 可、 老、 ⑬ ゆべからざるを ︹ 校 訂 ︺ ①詩題を A E は﹁送樺俊師﹂に作り、 B は﹁示俊師﹂に作 り 、 C D は﹁樺大俊、護憤時事、慨然有漕度之志。特蹄 省其親於尾州。賦之以贈駕己に作る。安藤氏は

D

に 本詩の真蹟は﹁少なくとも二種ある﹂と指摘し、字句に 異同はないが詩題は﹁送稗大葬﹂と﹁送大葬﹂であると 注 記 し て い る 。 ②原文は﹁還﹂に作るが ABCDE に従って﹁遠﹂に改め た 。 ③﹁非有功名遠超群﹂を A B は ﹁ 功 名 非 右 遠 超 群 ﹂ に 作 ④ ABCDE すべて﹁児﹂を﹁子﹂に作る。 ⑤﹁無所布﹂を A は ﹁ 敷 無 慮 ﹂ に 作 り 、 CDE は ﹁ 無 虞 に 作 る 。

ABCDE すべて﹁横﹂を﹁僅﹂に作る。 ⑦ABCDE すべて﹁到﹂を﹁至﹂に作る。 ⑧ ABCDE すべて﹁州﹂を﹁草﹂に作る。

ABCDE すべて﹁探摘﹂を﹁践蝶﹂に作る。 ⑩﹁跡﹂を A B は ﹁ 逃 ﹂ に 作 る 。 ⑪ ABCDE すべて﹁尚﹂を﹁猶﹂に作る。 ⑫﹁討﹂を

C

は ﹁ 訪 ﹂ に 作 る 。 ⑬﹁駿之山守参之水﹂を C は﹁参之水守駿之山﹂に作る。 D E は﹁参之水駿之山﹂に作る。 ⑭﹁起慮﹂を A は﹁所起﹂に作る。

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⑬﹁到﹂を CDE は﹁至﹂に作る。 ⑬ ABCDE すべて﹁曙﹂を﹁嘗﹂に作る。 ⑬ ABCDE すべて﹁空不可老﹂を﹁不可空老﹂に作る 0 ・明治三年二月中旬の作である。同じ時期に長州に於て戊辰戦 争の論功行賞への不満に端を発する脱隊騒動が起こっている。 そして、その暴動は九州へも飛火し、一時騒然となった時期で ある。(﹃土陽新聞﹂二六号には、この脱隊騒動に参加し、翌 年には日田で農民一撲を指導した犬楽源太郎の﹁獄中読頼三樹 之詩有感﹂という詩が掲載されている J 雲井は斗南藩士原直鉄 らとともに芝二本榎に於て決起の謀り事を練っていた。その折、 盟友糟大俊も雲井に賛同し、地元尾張での決起を主導すべく出 発する。その際、雲井が大俊師に贈ったものである。官頭に o 点 を施して、真の男子は雄荘な計画を抱いて、その功名を千歳に 伝えねばならないとする気概を強調し、末尾、点部の﹁大丈夫 は空しく老ゆべからず﹂がそれを受けている。また中ほどの、点 部﹁天下の溺れたるは援けて収むべし、人生宣に志を得るの秋 なからんや﹂の二句は、民権運動のスローガンとしても通用す るものであり、最初に掲載する詩としての価値はこの上もない も の で あ ろ う 。

退 噌不。天。集 暗容。門。議 無射。之o院 悲 鈎o窄。 奮 - 0窄。 麟管。於。 !棋仲。饗。 集 噌 容 天 議 唾 品 れ 門 院 喧ノずのを 悲 窄 退 な 射 き く 爪 し 鈎 は w の 費 嘗 ー よ 麟 管 り 棋 ③ 仲 ネ し 欲、目卒、毎、 白、生 向、視、経、咲、還 何、蛸、一、豪、江 底、艇、難、策、湖 試、洲、一、猶、異 吾、首、倍、未、ー 才、尾、来、擢、夢 生きて江湖に還九異に一夢 自ら咲ふ豪気猶ほ未だ擢けず 一難を経る毎に一倍し来る ⑥ 畔 視 す 蛸 艇 洲 の 首 尾 何れの共に向って吾が才を試さん と欲する ⑧ ⑨ 講 皐 平 生 此 の 志 を 護 る ⑩ 道窮まり命毛くも何ぞ意とするに 足らん ⑫ 只、九須らく痛飲して強ひて自ら寛 すべし 首を埋むるの山は 講撃平生護此志 道窮命講何足意 只須痛飲強自寛 埋首之山到慮翠 ︹ 校 訂 ︺ ①原文は﹁衆議院﹂に作るが﹁集議院﹂に改めた。詩題を A は ﹁ 失 題 ﹂ に 作 り 、 B は ﹁ 題 障 壁 ﹂ に 作 り 、 CDE は﹁題 集議院障壁﹂に作る。 ②﹁噌暗﹂を A は . ﹁ 瞳 帽 ﹂ に 作 る 。 ③原文は﹁鱗鰭﹂に作るが A E に従って﹁騨膜﹂に改めた。 B C は﹁鱗娯﹂に作り、 D は﹁麟顧﹂に作る。 ④﹁還﹂を A B は﹁蹄﹂に作る。 ⑤﹁咲﹂を C E は﹁笑﹂に作る。 ⑥﹁昨視﹂を BCDE は﹁牌明﹂に作る。 ⑦﹁欲向何虞試吾才﹂を A は﹁向何慮欲試我才﹂に作り、 CDE は﹁将向何慮試我才﹂に作る。 到る慮翠なり

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⑧ ﹁ 講 皐 ﹂ を A は﹁講李﹂に作る。(李は撃の俗字 )BC D E は﹁溝墾﹂に作る。﹁溝墾﹂は﹃孟子﹄牒文公下の ﹁志士は溝墾に在るを忘れず、勇士は其の元を喪ふを忘 れず己を典故としている。 ⑨ ﹁ 護 ﹂ を BCDE は﹁決﹂に作る。⑧と併せて考えると、 ﹁土陽雑誌﹄と A の二つだけは、この句に異なった意味 を付与している。すなわち﹃土陽新聞﹄と A は﹁私は常 常学問を重ねることを大事としてきたパ一という意味にな り 、 BCDE は﹁私は志士である以上、常々溝墾に死ぬ 覚悟はできているはという意味になる。ただし前者の意 では前後関係にいささか無理が生じる。 ⑩ ﹁ 意 ﹂ を ABC は﹁怪﹂に作り、 D E は﹁異﹂に作る。 ⑪ ﹁ 只 ﹂ を CDE は﹁唯﹂に作る。 ⑫ ABCDE すべて﹁強﹂を﹁酔﹂に作る。 ・雲井龍雄は明治二年九月に集議院寄宿生となったが、翌一

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月には退朝させられる。(東京米沢藩邸が記していた﹃東京御 帳﹂によると正式には翌三年一月二八日に退院となる。)﹁退集 議院﹂はその当時に詠まれたものであり、所謂公議であるはず の議院に於てかつて戊辰戦争に参加した者として退朝を迫る新 政府の看板と実情の矛盾に憤ったものである。 冒頭。点部は﹁史記﹄斉太公世家を典故とする部分であり、 斉の桓公は自らに矢を射た管仲を宰相として登用したというも のである。雲井はその故事を引いて、自分を追い出した集議院 の懐の狭さへの憤りを表現している。ここに集議院を離れて野 に降った雲井と、明治六年政変に於て征韓論に破れ、下野した 板一知六後藤とが同質のものとなり、現政府の実情を知らせる資 料として格好の材料となる。そして、点部の﹁豪気未だ擢けず、 一難を経る毎に一倍し来る﹂の語が、民権運動家らの気概を示 すものとしてそのまま転用し得るものとなっている。

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雨 第 線。中二 ;黒。看五 紅 。 海 号 沈。業 情。有 無。感 力。 花、恰。 容、是。 如、楊。 愁、妃。 {可、暗 所、後。 愁、色。 再 嵯 生 死 往 不 或 、 嘗 、 把 、 想 、 我 、 事 我 者 者 々 以 属 、 時 、 酒 、 昔 、 向 、 無 赤 海 函 激 水 魯 、 問 、 賦 、 漬 、 花 、 策 城 島 首 昂 火 連 、 盟 、 詩 、 殿 、 問 、 久 僅 尚 送 就 挫 或 、 今 、 賞 、 々 、 花 、 遠 脱 唱 賊 死 其 張 、 四 、 海 、 南 、 黙 、 巡 身 義 庭 地 志 良 、 散 、 業 、 荘 、 々 、 ① 雨 中 海 業 を 看 て 感 あ り 線 は 濃 ひ 紅 は 沈 ん 九 情 と し

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介 。 ・ し ④ ⑤ 恰も是れ楊妃暗後の色 花 容 愁 ふ る が 知 き は 何 の 愁 所ぞ 払 化 に 向 ひ 会 ふ も 花 黙 々 ⑧ 想 ふ 昔 漬 殿 々 南 の 荘 酒を把り詩を賦して海裳を賞す 嘗 時 の 同 盟 A 7 四散 或 は 魯 連 と 局 九 或 は 張 良 水 火 を 以 て 其 の 志 を 挫 か 九 往々激田町して死地に就く 死者は首を函にして賊庭に送られ ⑬ ⑭ 生者は海島に尚ほ義を唱ふ 嵯 九 赤 城 僅 か け 凶 身 を 脱 し 再 挙 策 な く 久 し く 遼 巡 す

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今 針 此 花 想 往 事 今 此 の 花 に 封 し て 往 事 を 想 へ

J

⑬ ⑬ 愁 涙 和 雨 紅 泊 巾 愁 涙 雨 に 和 し て 紅 巾 を 治 す O 秋津天築云ふ、悲壮濯酒にして、筆底に血涙を含む、と。 ( 原 漢 文 ) ︹ 校 訂 ︺ ①詩題を A は﹁己巴三月雨中観海業有感作﹂に作り、 B は ﹁ 雨 中 覧 海 裳 有 感 ﹂ に 作 り 、 C は ﹁ 雨 中 観 海 裳 ﹂ に 作 り 、 D E は﹁雨中観海業有感﹂に作る。 ②﹁締源紅沈﹂を B C は﹁矯紅欲滴﹂に作る。 ③原文は﹁情﹂に作るが ABCDE に従って﹁情﹂に改め た 。 ④﹁是﹂を CDE は ﹁ 似 ﹂ に 作 る 。 ⑤﹁晴﹂を B C は ﹁ 浴 ﹂ に 作 る 。 ⑥﹁我﹂を C は ﹁ 五 己 に 作 る 。 ⑦﹁向﹂を CDE は ﹁ 封 ﹂ に 作 る 。 ⑧﹁想﹂を D E は ﹁ 憶 ﹂ に 作 る 。 ⑨﹁局﹂を E は ﹁ 成 ﹂ に 作 る 。 ⑩﹁不以水火挫其志﹂を A B は ﹁ 須 水 火 不 砕 其 志 ﹂ に 作 り 、 CDE は﹁不特水火挫其志﹂に作る。 ⑪﹁激身﹂を CDE は﹁暴想﹂に作る。 ⑫﹁賊庭﹂を A B は﹁王廷﹂に作る。特に A の ﹁ 王 廷 ﹂ は時勢を考えた上での作為的なものと思われ、﹃土陽 新聞﹂が﹁賊庭﹂のままで掲載しているのは、かなり大 胆なものと考えられる。 ⑬﹁島﹂を B は ﹁ 嶋 ﹂ に 作 る 。 ⑬﹁尚﹂を ABDE は ﹁ 猶 ﹂ に 作 る 。 ⑮﹁我﹂を CDE は ﹁ 吾 ﹂ に 作 る 。 ⑬﹁僅﹂を A B は ﹁ 績 ﹂ に 作 る 。 ⑬﹁想﹂を CDE は ﹁ 関 心 ﹂ に 作 る 。 ⑬﹁愁﹂を BCDE は ﹁ 血 ﹂ に 作 る 。 ⑩﹁泊﹂を CDE は ﹁ 潟 ﹂ に 作 る 。 ・明治二年春の作とされている。八句目に張良の名が見えるが、 ﹃史記﹄留侯世家が示す通り、張良は秦始皇の狙撃に失敗し、 一時下部に潜伏し、力をためで再起を期していたことがある。 雲井は張良を退く勇気を持った智将、潜伏者などのイメージで 捉え、しばしば詩中にその名を登場させる。この﹁雨中看海業 有感﹂も、前年の戊辰戦争に於ける敗北からしばらくたち、雲 井自身が再起を期しつつも、しばらくは潜伏しようとしていた 頃の作である。したがって、秋津天集の言う﹁筆底に血涙を含む﹂ は、戊辰戦争で死んでいった仲間たちへの、また﹁策なく久し く俊巡する﹂自らへの血涙である。これも下野を強いられた板 垣らのイメージをダブらせているものであろう。 皿 第 二 七 日 方 O 就縛被護送子東京途中之作 縛に就きて東京へ護送せらるる途 中の作 ② 狂欄を廻して一世を済はんと欲し 欲廻狂潮漕一世

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道之窮通未肯計 直気吐来震九重 満眼神服是芥帯 天日不照孤臣心 柾被浮雲遮且蔽 欲死則死生則生 道 の 窮 通 未 だ 肯 て 計 ら ず 直気吐き来りで九重を震はし 涌眼の神間吋是れ芥九 天 日 照 さ ず 孤 臣 の 心 桂げて浮雲に遮

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つ蔽はる 死せんと欲せば則ち死し生きん とすれば則ち生く ⑥ 我が肘は宣に容易に人をして撃せ しめんや 櫨 車 タ 過 東 寧 川 権 車 タ に 東 寧 の 争 過 ぐ 目 撃 湖 山 涙 泊 秘 湖 山 を 目 撃 し て 涙 挟 を 泊 九 ⑨ 回 思 遭 逢 夢 耶 曇 回 息 す れ ば 遭 逢 夢 か 虞 か 壮 圃 唯 有 水 東 逝 壮 圃 唯 九 水 の 東 に 逝 く あ り 鳴呼縦令此山如嘱此河知帯 鳴呼縦令ひ此の山は嘱の如く此 の河は帯の如くとも 直 々 之 志 安 能 日 間 日 匝 々 の 志 安 く ん ぞ 能 く 替 れ ん や O 凌雲日く、豪強不屈の気、字々に溢る。千歳の下、怯夫を して起たしめん、と。(原漢文) O 暮洲日く、大丈夫の志を持すことの固きこと、首に此の如 くなるべし、と。(原漢文) ︹ 校 訂 ︺ ①詩題を A は﹁櫨車過万水慨然有作﹂に作り、 B は﹁庚午 夏有召櫨致龍雄於米津途中過東寧河慨然有作﹂に作り、 我肘 一 一 旦 容 易 使 人 製 CDE は﹁北下途上﹂に作る。 ②ABCDE すべて﹁廻﹂を﹁回﹂に作る。 ③﹁股﹂を A C は﹁敵﹂に作り、 BDE は﹁級﹂に作る。 ④

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を CDE は﹁帯﹂に作る。 ⑤原文は﹁湛﹂に作るが ABCDE に従って﹁遮﹂に改め た 。 ⑥﹁易﹂字を BCDE は 欠 く 。 ⑦﹁川﹂を B C は﹁河﹂に作る。 ⑧﹁泊﹂を C は﹁潟﹂に作る。 ⑨﹁思﹂を A B は﹁首﹂に作り、 CDE は﹁顧﹂に作る。 ⑩﹁唯﹂を B は﹁只﹂に作る。 ⑪﹁河﹂を A は﹁川﹂に作る。 ・明治三年八月、雲井は太政官の命によって、幽閉中の米沢 から東京へ櫨送される。同年初めに帰曲部局点検所を芝二本 榎の上行・円真の両寺に設け、不平士族を集合させたことに対 する政府の弾圧である。末尾部の凌雲・暮洲のコメントに﹁豪 強不屈の気﹂﹁怯夫をして起たしめん﹂、﹁大丈夫の志を持す﹂ などとあり、第二三号に記されていた小伝と同質の評価がなさ れている。ただし小伝と異なり、雲井詩に対する直接のコメン トに於て、とりわけ彼が米沢から東京へ櫨送される時の作に対 して、かくの知きコメントを付しているということは、当時と してはこれも大胆なものであったに相違ない。(以下次号) (ありま・たくや総合科学部講師)

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