• 検索結果がありません。

読みとりの授業過程について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "読みとりの授業過程について"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 読みとりの授業過程について. Author(s). 三上, 勝夫; 安増, 京子. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 33(1): 1-10. Issue Date. 1982-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4888. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 読みとりの授業過程について. 三上勝夫 o 安増 京 子. 石本由紀子先生の授業を見せてもらった. 桂元三先生に引率さ れた百名近くの学生は, この授業 圧倒さ れてしまった。 斉藤喜博のそれに代表される 「活動の組織」 の教授学の観点からは申し分 に のない授業だったろうと思われる。 子どもたちの感応の力もすばらしく育てられている. これらの 点る こついては, 授業後の渡辺守夫先生のお話し, 学生の感想, 道新の記事などが的確な指摘をして く れている. 他方,「認識の形成」の教授学の立場から見ても, 相当に興味ある問題が含まれている. ここ では, 石本先生の授業を素材にさせてもらい, 読み方教育における認識の問題について議論し てみる。 この学級は六年生 (札幌市立北都小学校) , 教材は 『二銭銅貨』 (黒島伝治) だった。. 授業の過程. 健吉が稲を苅っていると, 角力を見に行っていた子供達は, 大勢群がって帰って来た。 彼等 は, 帰る道々独楽を廻していた. …略…楽しそうに帰ってきたんでしょ う。健吉ももう大きいけれど行きたかったんでしょう。 …略… 健吉はやっ ぱり大きくても一年 に一回くらい しか 来ないすもう だから, いきたかったん で し ょ う. … 略 …. それを見ていた藤二はね, 大勢で帰ってきたんだから(指摘さ れて)あ, 健吉は。 むらがるっ ていうことは集まるっていうことなんだから, みんなで集まってわあわあいいながら帰ってき たんだと思うんだ. それで藤二はそれを見て (指摘さ れて中断) ……。 … 略… 一 年 に 一 回 しか な い か ら, 口 に は 出 さ な い け れ ど, や っ ぱ り 心 の 中 で は そ う い う の を. 見ているうちに, 見に行きたいという気持は少しあったんだねえ。 … 略… 自分 はこんなに一生懸命働いているのに, この子供達はみんな楽しそうに遊んでいる んだから, だからここでは, うらやましそうに健吉は見ていた。 …略…貧乏のために見に行けなかった。 …略…だけど自分も行きたいけど, 藤二のことを思うと, 藤二のことがなおさらかわいそう というか, そういうふうに 思ってたと思うんだよね。 自分がそう で, 大人になって仕事で行け ないんだけど, 藤二は六つなんでしょ う。 六つなのに 仕事 で, い っ し ょ に 仲 よ く でき な い っ て い う こ と で… 略 ….

(3) . 三上勝夫・安増京子. この部分については, 「藤二のことを思うと」 の的確な発言があって, やや修復さ れたとはいえ, 健吉は 「行きたかっ た」 し, 「うらやまし」 かったとする「読み」 が認められたかたちとなっていて, うなずけない. 行きたがっていたのは藤二であり, 仕事もいつになくいやがった. むらがり帰って くる子供達 を見て, 健吉が弟の藤二のことをふと思ったとするならば, すもうに行っ た子供達と, 行けなかった藤二とは バラディ グマチッ クな関係にあるわけだから, 妥当で, 必要な想像にもとづ く 読 み であ る と い っ て い い.. 健吉が 「大人」 であるという発言もたしかにあったが, 健吉の年齢が二〇歳前後であるというこ とを推定させる記述は読みとれていたのだろうか. 読み手の子どもたちには, 六歳の藤二よりやや 年上の兄の像があるかもしれない. ここ での 「読み」 は, 読み手の感情が先にあっ て, それを登場人物の感情におきかえる作業が行 なわれたと見るのが適当だろう. そう見ると, 健吉を藤二と読み違えた子どもの気持がよくわかる. このく だり で, 読み手が, 道々 こまさえ廻しながら帰ってくる子供達と対比して, 藤二をあわれと 思い, 家族にも同情す ることはもちろん自由だ.. それから暫く 親子は稲を苅りつづけた. そして, 太陽が西の山に落ちかけてから, 三人は各々 徒荷を持って帰っ た. 「牛 屋 は, ボ ッ コ ひ っ そ り し と る じ ゃ な い や.」. 「うむ.」 「藤二は, どこ ぞへ遊びに行たんかいな.」 母は荷を置くと牛部屋をのぞきに行っ た, と, 不意に吃驚して, 「健よ, はい来い !」 と声を頭わせて云っ た. …略… 行く前には藤二はね, …略…緒を思い切り引 っ ぱっていたんでしょう. 八当りするように声 出しながらぶ つけるように. それなのに帰ってきたら, シーンとしていて何にも声もきこえな い で ね, な お さ ら び っ く り っ て い う か, 不 思 議 に 思 っ た ん じ ゃ な い.. …略…このとき (田に行く前) は, 多分牛は臼をひいていたんでしょう. その石うすって音 がす る は ず で し ょ う. ガ ラ ガ ラ っ て. そ の 音 さ え も な ん な い で, そ の 音 さ え 聞 え な い で シー ン と し て いた ん だか ら, こ の 時 は, 不 安, 心 配 し て い る ん じ ゃ な い. … 略 … 遊 びに 行 っ た ん か い な っ て 書 い て あ る け れ ど, や っ ぱ り そ れ だ け じ ゃ なく て, 心 の 中 では どう し た の か な, 藤 二 は い な い の か な っ て, そ う い う ふ う に 思 い な が ら, 帰 っ て き た ん じ ゃ な い か な. あ の, 前 に も 母 が ね, 藤 二 に「そ ん な に 引 っ ぱ っ た ら 後 ろ へ こ ろ ぶ ぞ」っ て 言 っ た し ょ そ の .. 時に, なんか心配っ ていうかそういう気持があったんでしょ う. そしてここでもシーンと牛屋 が静 ま り か え っ て い る ん だ か ら ね, や っ ぱ り そ う い う と こ ろ でも どう し た ん だ っ て ね, そ う い じ うノ ・配 がす ごく あ っ た ん でな い.. 「すると, 母は牛屋をのぞきに行っ た」って書いてあるしょ. 不安があるけれど, やっ ぱり「遊 びに 行 っ た ん か い な」っ て 書 い て あ る し ょ. ど こ 行 っ た ん だべ っ て ね. だ か ら, ち ょ っ と こ う の. ぞくような具合だったんだと 思う ん だけ ど, … 略 … どこ 行 っ た ん だべ な と 思 っ て い た ら, や っ ぱ り倒 れ て た か ら ウ ワ ー ッ て 腰 ぬ か す っ て い う か, 「健 よ, は い 来 い !」っ て 言 っ た ん じ ゃ な い..

(4) . 読みとりの授業過程について. …略… ここでも読み手の主観が, 登場人物におしあてられたままになっている。 たしかに作品のしかけ によって, 読み手には, ある不安が醸成されている。 「彼は牛の番をしながら, 中央の柱に緒をかけ, その両端を握って, 緒よ延びよとばかりに引っ ぱった. 牛は彼の背後をくるくる廻っ た。」 こ れ が, こ の 場 面 の 直 前 の 文 であ る。 「う し ろ へ こ ろ ぶ ぞ!」という驚告にもかかわらず藤二はそ. うしている。 この文は, 藤二の身におこる不幸を暗示している. だから読み手が不安を覚えるのは 当然なのだ. しかし作品中の人物が, 同 じく感じているか どうかは別だ。 そもそも, この前の場面での 「牛の番」 を藤二にさせるということの意味がきちんと読みとられ ていたかどうかが疑問となる. この作品での 「牛の番」 とは, 牛が怠けたなら, 鼻輪でもとるか, 尻でもたたくかして, ぐろくる廻りをつづけさせることである. それが藤二のこの日の仕事だ. す もう を 見に や らせ て も も ら え な い わ け だ. 牛 屋 が ひ っ そ り し て い る の は, 牛 が臼 を ひ い て い な い と いう こ と な の だ. 母 親 に は 藤 二 が 「番」 を し っ か り せ ず に 遊 びに い っ た の か と う つ る. 子 ども ら しい 駄々 を こ ね る こ と も あ っ た と は い え, 藤 二 は, い い つ け を よ く き く 子 だ っ た ろ う.. 粉ひき牛の番もまかせられる。 そんな藤二なのだから, 「遊びに行たんかいな」ということばとはう らは らに, そ こ は か と な い 不 安 が母 親 に な か っ た と は い い 切 れ な い。 しか しそ こ ま で だ。 そ れ 以 上. の想像は許容範囲をこえる。 「のぞきに行く」 と表現さ れる行為も軽い. ちょっ と見に行くという程度のことだ。 もちろんそ こにたいへんな事態が待ちうけているとも知らずに. この場面 (第三節) は, とくにきわだって明瞭に, 健吉の視点からできごとが物語られている。 驚く母の声を聞いた健吉には, まだ何がおこっ ているのかわからない。 健吉の目をとおして事態を 目撃することになる読み手にも, 当然のことながらわからない。 読み手は文脈からの推測が可能だ という点では, 作中人物より優位にいるが. 「倒れてたからウワーッて腰をぬかすっていうか, 『健 よ, は い 来 い !』っ て 言 っ た ん じ ゃ な い。」 と い う 子 ど も の 読 み は, こ の 後 の 文 に 書 か れて い る こ と を使 っ て しま っ た わ け だ。. 健吉は, 稲束を投げ棄てて急いで行っ て見ると, 番をしていた藤二は,独楽の緒を片手に握っ た ま ま, 暗 い牛 屋 の 中 に 倒 れ て い る. 顎 が ね じ れて, 頭 が 血 に 染 っ て い る.. …略… -. そして, 健吉も見たら, この, 藤二が倒れているんでしょ。 それも片手に緒をぎっ ちりにぎっ たまま。 それはね, 今でもまだ生きているっていうようにね。 手だけは, そういうふうにぎっ ち りに ぎ っ て い た ん で な い。. T. こ ま の 緒 を ぎ っ ち り に ぎ っ て い た っ て 言 っ た ん で し ょ う。 こ ま ,の 緒 を ぎ っ ち り に ぎ っ て た っ て いう の は ?. -. …略…緒をやっ と買っ てもらえてもみんなのより短くて, そういう気持で何回も何回も一生 懸命, こう, 柱に緒をかけて引っ ぱっていて, それでも伸 びないうちに, そうやって死んでも.

(5) . 三上勝夫・安増京子 に ぎ っ た ま ま っ て い う ん だか ら, そ れ だけ 緒 の こ と を.. -. …略…この藤二には, 死んでま でも握っているんだから, こまの緒が大事っていうか, 短く ても無理して でもお母さんが買ってく れたんでしょう. だからそれだけ緒を大事にしてるって いう か, 緒 は 自分 のもので離したくないように, そういう気持で緒をぎっちりにぎっていた.. -. … 略 … 私 は ち ょ っ と 違 う と 思 う ん だけ れ ど, そ れ ほ ど 緒 が 短 い の が 気 に な っ て い た. す も う. も見に行けないし, 緒も短い, 何もかも違うんでしょう. だからそれだけ緒が短かかったとい う こ と が 気 に な っ て, 死 ん で ま でこ う に ぎ っ て い る ほ ど… 略 …. -. …略… 多分, に ぎっていたのは, みんなの仲間に入りたいっていう気持が深くあって…略…. -. 自 分 だ け が 貧 乏 で,貧 乏 な た め に こ う や っ て 何 も か も み ん な と い っ し ょ に な れ な い っ て いう,. そういうくやしい気持が死んでもやっ ぱり残っていて…略… -. …略…そういう強い気持があって片手は離れてしまったけれど, 片手はもう絶対離れないっ て いう 位 に, そ う い う 風に に ぎ っ て い た ん で し ょ う. … 略 …. …略… T. ここんとこ い いか な ?. 頭 が ね じ れ て い る。 頭 が 血 に 染 ま っ て い る.. …略… -. … 略 … そ う い う ふ う に な か ま に 入 れ な い. 自分 の 思 っ て い た こ と を で き な い ま ま に, そ の ま ま 死 ん でい っ た ん で し ょ う. だ か ら 何 か こ こ で 強 め て い る っ て い う か. 何 々 し て い る っ て い う こ と で, み じめ っ て い う か そ う い う 感 じ を 強 め る た め に … 略 …. -. 私は, 藤二の気持を強めているというよりは, 母の後悔, あと ででてく るんだけど, 母の後 悔 の 気 持 を 強 め て い る ん じ ゃ な い か と 思 う ん だけ れ ど. 何 々 し て い る っ て いう の は, 今, 目 の 前 で お こ っ て い る よ う な か ん じ で し ょ う. だか ら 何 て い う か, そ う い う 風 に … 略 … そ の 藤 二 の. 倒れていたようすだけは刻みこまれているっていうか, そういう感じだと思う. 一 場面が頭にうかぶ. …略… 子どもたちと教師のやりとりのなかで, 「片手に握ったまま」 という本文は, 「片手に」 の印象が ややうすくなり, 「ぎっ ちり」 が加わって, 「ぎっ ちり握っている」 という表現にすり変ってしまっ た. そのこともあっ てか 「読み」 はテキストから離れて, 主観的なものにのめりこんでゆく. かけつけた健吉の目 (同時に読み手の目) にうつろのは, 倒れている藤二の姿である. その藤二 の片手には緒がにぎられていた。 「独楽の緒を片手に握っ たまま」 の文, あるいはその文の描く形象から読みとれるものはいうま でもない. 緒を延ばそうとして引 っ ぱっていた藤二の片手から緒がはずれ, そのはずみでのけぞっ て倒れたところを牛に踏み殺さ れたということである. 「緒が大事」「短い」のを気に病んで, 「みん なの仲間に入りたい」「くやしい気持」 などの多様な 「読み」 が, この文ないし, 形象がさしだす意 味の解読にあてられているが, いずれも誤読である. 文なりひとまとまりの文なりが形象を描き出し, 描きだされた形象がさらに何らかの意味をさし 出すという文学作品の表現の構造を, この子どもたちは経験的に知 っているのであろう. 子どもた ちの 「読み」 は, もっ ぱら形象の意味を詮索することにあてられている. だが, 形象の意味の理解 は, そもそも形象が正確に読みとられていることを前提にしなければ, 成り立たない. さらにいま 一つ 重要なことは, 形象の意味は文脈のなかでしか特定できないということだ. 文脈をはなれては, 片手に緒をにぎりつづける形象は, 緒への執着とも読める. しかしこの作品の文脈においてはそう.

(6) . 読みとりの授業過程について. ならない. 柱にかけた緒を強く引くあまりに, 倒れて, 踏み殺さ れたのだということが語られてい る。 まずはこう読むことだ。 この場面で用いられている 「歴史的現在」 とでもいうべき表現手段にかかわっての 「読み」 は成 功しているか. 記録では 略してあるが 「こんな後からになっても, 今起きたことのようにそれが胸 に浮かぶことなんだね」 という教師のまとめが結論のようになっているが, そうだろうか。 語りの 「いま」 に, 事件の 「いま」 が重なってくるのか, 事件の 「いま」 が語りの 「いま」 を引きよせる のか。 子どもたちは前者をとっ た。 が, 歴史的現在の本質は後者ではないかと思われる。 さらにいえば, 作品に用いられている表現手段のあれこれに ついて, それらすべてを読みの対象 としなければならないということはないだろう。 この場合の歴史的現在も, とりあつかうべきかど うかの判断は微妙なところだ。 この場面に限っても, たとえば 「健吉は」 の 「は」 の使用のし方は 異例 である。 主文に 「藤二は」 という主語があるのだから, 従属文の主語は 「健吉が」 の方がすわ りがいい. では, そのような異例の 「健吉は」 の表現力は? また, 「番をしていた藤二は」 という いい方も気にかかる。 たんに 「藤二は」 でもいいではないか。 いや, やはり 「番をしていた」 こと にもこだわりたい。 これらはいずれも味わいある表現ではあるけれども, 私たちの文芸学が, その 味わいをときほ ぐせない以上は, 読みの対象にすえることはあきらめるほかはないのである. 赤牛は, じいっ と鞍を背負って子供を見守るように立っていた。 竹骨の窓から夕日が, 牛の 眼球に映っていた。 縄が-ツニツ牛の傍 でブン ブン羽をならしてとんでいた。 ……… …略… 私は, この, 赤牛って書いてあるから, ただ牛がじいっと鞍を背負って子供を見守るように して 立 っ て い た っ て だ け じ ゃ な い で し ょ う。 赤 牛 は っ て 書 い て あ る で し ょ う。 … 略 … 頭 が 血 に そま っ て い る の は 藤 二 な ん でし ょ う。… 略 … 血 っ て い う の は 赤 っ て い う こ と な ん で し ょ う 赤 っ 。 て い う の は,赤牛 っ て い う の は こ こ では 悲 しみ っ て いう か,そ う い う こ と を表 わ し て い る ん じ ゃ ブ !し、。. そ れに, こ こ で 暗 い 牛 屋 や, 血 に 染 っ て い る と か, 赤 牛 と か, 夕 日 でも う う す 暗 い で し ょ う。. ここではその悲しみや, 何か赤いっていうこと で, 死の感じ, 死のようすが…略… … 略…竹 骨 の 窓 か ら牛 の 目 玉 に 映 っ て い た っ て 書 い て あ る で しょ う。 さ し こ ん で い た と は 書. いてないでしょ。 …略…だからやっ ぱり藤二は, 後からのことだけれども牛に踏まれて死んだ ん で し ょ う。 だか ら や っ ぱ り 牛 も ね, 人 を 踏 ん だ っ て い う の か な, そ れ を しち や っ た の で, 赤. い夕日がさしこんでいたかも知れないけれど, でもこうやって牛の目玉に映っているような感 じで…略…やはりそういうようなことをここで感じていると思います。 こ こ では 夕 日 と い う よ り も, こ の 牛 の 目 玉に は ね, 藤 二 を 映 して い る っ て いう か ね, 赤 っ て いう の は 悲 しみ と か で し ょ。 や っ ぱ り そ の 藤 二 が … …. …略… 藤二が映ってるの ?. T. こ の 牛 に。 何 て 書 い て あ る。. い や, 夕 日。 そ れ で牛 の 目 玉 が 真 赤 と い う わ け でなく, 黒 っ ぽ い 色 に な っ て ね。 そ れ で, こ. の牛が泣いているっていっ たら変かも知 れないけど, そういうふうに見えたと思います。 悲 しみ を表 わ して い る。. -. …略… -. それからハエが一つ二つ牛のそばでブン ブン羽をならしてとんでいたと書いてあるでしょ。.

(7) . 三上勝夫・安増京子 き こ え るく ら い な ん で し ょ う. 羽 が ブ ン ブ ン き こ え るく ら い な ん だ か ら, こ こ ら あ た り が シ ー ンと 静まりかえっ て… 略…. …略…はねの音がきこえるくらいなんだからね. こう, 音でさえ聞えるんだから, 健吉は声. -. も でなく て ね … 略 … こ う, 母 も 健 吉 も び っ く り し て ね. た だ 立 っ て る だ け だ … 略 …. …略… あまりの事態に, 息をのんでたちすくむ健吉. 時間の流れが瞬時とまり, 意識の一部が妙に覚醒 している. 罪ない殺害者の牛, その目にうつる夕日, ハエの羽音, 意識に 映ずるこれらのものの列 挙が語るのは, すべてを覚りながら, すべなく立ちつくさ ざるをえない異常事態の体験者のすがた である. しばしば書き手の力量欠如の暴露でしかない 「………」 の読みこみは避けておく方が賢明 なのだが, この場面にかぎっては, なすすべのなさの表現として取りあつかうこともありえる. 子 ども の 「羽 が ブ ン ブ ン き こ え るく ら い な ん だか ら, こ こ ら あ た り が シ ー ン と 静 ま り か え っ て」. 「ただ立ってるだけ」 などの読みは, この形象のさしだす意味にやや接近していてよい. しかし, 赤牛の 「赤」 に 「悲しみや」 や 「死」 を, 牛の目に映る夕日に, これまた 「悲しみ」 を 「読む」 ということには賛成 できない. 作品の文や形象から, 読み手がどのような印象を受け とる かは, ある意味で自由なのだから, その印象を語りあうことは大いにあってよいし大事なことだ. 「私はこう感じた」 と. ただし, そのことが根拠にもとづく客観的な読みの作業といつも幸福に- 致しているとはか ぎらない, むしろ別のことだ, と, 自覚さ れたうえでなされる必要がある. 読み において, 印象や主観が先行することは少しも否定されない. だが, そこにとどまっ ていては読み にはならないのだと強調しておこう. ことばじりを捕えるようだが. 子どものひとりが 「やっ ぱり藤二は, 後からのことだけれども牛 に踏まれて死んだんでしょう」 と発言している. 正確には, 後から (すなわち後の母親の会話の文 から) , 死んだ事情がはっきりするのだとでもいうべきなのだろうか. そ れでも気になるのは, この 後の三年後にもつづく母親の述懐を待つまでもなく, この場面にこそ藤二の死とその事情がはっき りと書かれているのだということが, 読み手に理解されているかどうかということである. なすす べもなく立ちつくすこの瞬時の描写こそ, 藤二の死をはっきりと語るものなのである. 作品の読み は, そこまでの文脈において読めるものは読む, 読めないものは読まない, というのが原則だ.. 「畜生 !」 父は稲束を荷って帰った六尺棒を持ってきて, 三時間ばかり, 牛をブンなぐりつ づけた. 牛にすべての罪があるように. 「畜生!. おどれはろくなことをしくさらん !」. 牛は恐れて口から泡を吹きながら小屋の中を逃げまわった. 鞍は殴れ, 六尺は折れてしまった.. -. 父 は こ の 時, 「畜 生」っ て 言 っ た ん で し ょ う. こ の と き は も う こ の「畜 生」っ て い う こ と ば しか ね, 出せ な い く ら い 悲 し い っ て い う か, く や し い っ て い う か, く や し い, そ の く や し い 気 持 を こ の こ と ば に ね, ぶ っ つ け る よ う に 「畜 生」っ て い っ た ん じ ゃ な い.. …略… ■ 6. … 略… 自 分 の 子 供 を 殺 し た の は お ま え な ん だ っ て ね. … … 自 分 の 力 を 出 しき っ て ブ ン な ぐっ.

(8) . 読みとりの授業過程について. て い る で し ょ う。 だ か ら す ごいく や し か っ た こ と が わ か る ん じ ゃ な い 。. -. …略…牛に罪があるように, すべての罪だから力いっ ぱい自分でも力が出し切れないほ ど, もう 思 いき り た た いて, た た い て, た た き ま く っ て … 略 … 牛 に す べ て の 罪 が あ る よ う に っ て あ る で し ょ う。 牛 に す べ て の 罪 が あ る の P. T. … 略… だか ら牛 に は た だ 少 し 踏 ん だ だ け な ん だ け れ ど。 こ の も と っ て い う の は 父 が 長 い 緒 を 買 っ て や れ な か っ た か ら, こ ん な ふ う に 貧 乏 だ か ら っ て こ と が, 買 っ て あ げ ら れ な い っ て こ と が, 牛. -. には罪はないんだけれど, 自分にはぶっつけるものがないから全部牛に, 力の限り全部ぶっつ け た.. …略… -. そ れは ね, や っ ぱ り 貧 乏 だか ら な ん で し ょ。 だ か らや っ ぱ り な ん て い う か, そ の 母 さ ん が ね, あ の 藤 二に さ, 二 銭 を, た っ た 二 銭 安く し た だ け で, 貧 乏 だか ら, そ う い う ふ う に や っ た ん で し ょ う. … 略 …. T. ここで直接藤二を殺したのは牛なんだけれども, もとをずっとた どっていくと本当は牛にす べ て の 罪 があ る ん じ ゃ な い ん だ。 じ ゃ あ どこ に 罪 が あ る ん だ っ て い う こ と を, こ れ か ら み ん な はさ く っ て いく ん で し ょ。 そ こ ん と こ は, 今 度, 三 年 た っ た あ と の 母 の 嘆 き の こ と ば があ る で しょ. そ こ の と こ ろ で も う 一 回 じ っ く り 話 し あ っ て み よ う。 … 略 … 次 も う ち ょ っ と 進 ん で 。. -. こ こ では, 母 と か 兄 は と め よ う と も し な い で, た だ 見 て い た と 思 う ん だ。 だ か ら そ れ だ け 父 と 同 じく ら い の 気 持 が あ っ て … 略 …. …略… 牛を殴打しつづける父親の怒りを, 子どもたちは「悲しい」「くやしい」「にく い」と読みとっ た。 これは, 妥当な読みである。 父親がはきだす「畜生 !」ということば, 「ブンなぐりつづける」行為, それらは尋常ではない怒りの, そしておそらく 「くやしさ」 や 「悲しさ」 のいりまじった感情の表 現 であ る。. 母親は, 息をふきかえすことのない息子をかきいだいて母屋へ行っ たろう。 ぬれ手ぬぐいに藤二 の顔の血の汚れをふきながら泣きくずれ, 何時間ものあいだ, そのままであったにちがいない。 父 親は牛を殴りつづける。 父は怒りにくるい, 母は悲しみに打ちひしがれる。 それはまた, わが子へ の父親なりの, 母親なりの愛のせつない証しにほかならないのだが。 健吉は, いまは牛屋にいて父親を見ている. 鞍がこわれ, 六尺棒が折れて父親がなぐるのをやめ るまで. 「母とか兄はとめようともしないでただ見ていたと思うんだ」という子どもの発言は, おそ らく半分は正解だ‐ この作品にとって目撃者健吉の存在はきわめて重要である. 「牛にすべての罪があるように。」 このような, 倫理性にまさった, 評価的な文体の挿入は, えてして作品をぶちこわすもとになり かねない。 この場合は, からくも失敗をまぬがれたというばかりか, むしろ積極的な効果をにない えている。 そうなりえたのは, 目撃者健吉の存在である. 健吉の目から見て, その 「ように」 見え たのである. この表現は, 目撃者の目をかりて, 父親の行為の必然性を説明しながら, それを客観 化するという高度の技法的な支えのうえに立っている。「牛には罪はないんだけれども, ぶつけるも のがないから全部牛にぶつけた」 という趣旨の子どもの発言は, よい意見である。.

(9) . 三上勝夫・安増京子. 牛に 「ぶつける」 ほかない父親. 父の気持はわかるが, 打っても しかたがないと見ている健吉. 授業の検討 まずしい作業ながら, これまで 「読みとその根拠」「言語と形象による表現の二重性」 「読みの過 注 )」などを議論してきているので ここでは やや異っ た角 度からの問題を二つほど考えて 程の原則( , , みることにする. この授業記録は, それには都合がいい. たいていの国語の教室では, 作品に登場する人物の気持を読みとるということが, たいへんに重要視さ れている. 読み方の各時間の指導案を見ると, その時間にとりあつかう段落の 人物の気持. 範囲で, 「そのときの登場人物の気持 (あるいは′い清) を読みとる」 という型の目標がたてられるこ とが圧倒的に 多い. これについてはある意味で納得できないわけではない. 自分の他に存在するものに思いいたるという意味での想像力に欠陥のある社会のなかで子どもが 育っている. す ぐれた文学作品とであうことで, 他人の心のなかにわけ入る体験をもつことができ るとすれば, 子どもにとってそれは貴重なこと であるにちがいない. 子どもの心の成長にとって プ ラスでないはずはない. 作品中の人物の気持を理解するということも想像力的な体験といっていい だろう. たとえ実生活におけるそれではないとはいえだ. 実生活とはことなって, むしろ自分以外 の人物の内面がよく分かるように仕組まれているという点で, ありがたいことだともいえる. つく りばなしだと分っていても, 「思いしらされ」 たり, 「身に つまさ れ」 たりの知的, 感情的な体験を 読み手は味わうことができる. しか し, そ う で は あ っ て も, そ そ っ か しく 分 っ た つ も り に な る こ と は 好 ま しい こ と では な い だ ろ. う. これまでに用いてきた用語でいえば, 人物の気持は, 形象の意味として表現さ れることが多い. 想像力の要求される所以である. 一般的にいって, 形象の意味を読みとる想像は, 二つの方向からの限定を受ける. 一つは, トー トロジーにす ぎないのだが, 形象の意味は形象がになうというところからくる. 首をたてにふると いう形象は, 肯定 (同意, 受諾……) するという意味をになう. ブルガリア人でもなければ, これ を否定の意味には受けとるまい. 二つめには, 文脈において形象の意味は特定されるということで ある. ある形象が 「多義的」 である場合, それを特定するのは文脈である. 前者の系として, 形象 の読みとりが的確 でなければ, 形象の意味の妥当な読みは成りたたないということがいえる. 後者 からも, 文脈 (それまでの形象) との重ねあわせがきちんとなされなければ, 形象の意味は妥当な か た ち では 特 定 で き な い と い え る.. この観点からみると, 「独楽の緒を片手に握ったまま」の形象の意味の読みは, 検討に値する. 第 一に, 「片手に握っ たまま」 の形象を, 微妙なちがいではあるが 「片手に ぎっちり握っ たまま」 と読 んだことである. 発言のつづくなか で, 形象の力点は 「ぎっちり」 におかれるようになり, 結局, 藤二の独楽の緒への執着としてその意味が解読されることになった. 第二は, 文脈との重ねあわせ である. それが意識的になさ れなかったことも, まずかった. たしかに文脈をはなれれば,「片手に 握ったまま」という形象は, 緒への執着と読む方が自然だとさえいえる. むしろこの読みが先にあっ て, 「ぎっちり」がおのずから加えられたのかもしれない. 子どもの読みには, それなりに根拠があ るのだから, ここから本来の授業にはいって, この読みは 「多義的」 な形象の一解釈であったが, 文脈のうえからはより妥当な読みが採られるべきだということを発見させることはできただろう. 8.

(10) . 読みとりの授業過程について. この場合の形象の意味は, 緒を柱にまわして引っ ぱっていた片方の手がはずれて のけぞって倒 , れたところを牛 に踏み殺されたということ であろう 藤二の気持というのは別のことだ このよう . 。 に, 人物の気持は形象の意味として表現されることが多いけれども 形象の意味がいつも人物の気 , 持であるとはかぎらない. ところで気になるのは, 子どもたちの読みが 正確には読み誤りが 二 , , つの制限をこえた想像によるものだったというだけ では説明しきれないように思えること である . この教室でさえ, 読みといえば結局のところ人物の気持を読むことだという定型ないしは呪縛から 逃れき っ てはいないのではなかろうかと疑われる 個々 の形象を 人物の気持の表現として性急に . , 解釈しょ うとする志向が, この分節についてだけ ではなく 随所にみられる , 。 さきに述べた ように人物の気持を読むということはだいじなこと である しかしそれは作 品の豊 . かな読みの一部にすぎないというべきだろう また作品中 の人物の気持をおしはかることが 貴重 . , な想像力的な体験であるはず であるならなおさら 根拠にも とづく客観的なもの であることが望ま , れるのである。 まして, 毎時間の読みの授業の主要な課題が いつも人物の気持を読みとること で , あるはずがない. 発言 の 組織. こ の こ と に か ん し て, 結 論 め いた こ と を さ き に い う と こ の 授 業 は そ の 各 分 節 と , ,. も, そこから本来の授業となるべきところを, 中途 でとどまってしまっているということ であろう . これま でに見たように, 子どもの発言はいず れもが一定の根拠をもっており 的確に組織されれば , , 妥当な読みに達する可能性を充分にもっている 一例 として 授業の最初のーこまを取りあげよう , 。 . ここでは, 健吉も角力を見に行きたかったとする読 み(a) 健吉を藤二と読 みちがえた読み(b) , , およびかなり的確な, 健吉が藤二の気持を思いやったという読 み (c) が出さ れている この (a) . と (b) について検討してみる。 読み (a) は明らかにそれま での読みの不充分さ によるものといえる この作品の二節目の冒頭 . には, 「子供達は皆んな連れだって見に行った 藤二もいきた がった 」 いう文がある しかも健吉 . 。 . は働き盛りの青年として描かれている. このことがしっ かり読みとられているなら 「う らやましそ , うに健吉は見ていた」という読みは, おそらく生まれてこない この場合 適当なところ で 「大き , . , いけど行きたかった」 という趣 旨の発言が, 健吉像としては矛盾していないか どうかを 作品の前 , の部分へ読みもどることな どの指示もふくめて, 問いかけてやることは有効 だっ たかもしれない . しかし, この子どもたちの読みは, 角力を見に行っていた子供達が帰ってく るのを見ているのは 健吉だということをふまえている点 では正しい この作品の視 点は健吉の目によ りそっている だ 。 。 から, 読み (b) があらわれると, 読み (a) の子どもたちは これを論外のこととしてつぶして , しまっ た。 「それを見ていた藤二はね」という発言はたしかにおかしい それはそうなのだが よく 。 , 考えると, 読み (a) も読み (b) も似たようなものに思えてくる 読み (a) は 行きたがって 。 , いた藤二の心理を健吉の気持だとしてしまったのだし, 読み (b) も健吉と藤二の混同という点 で は同じである. 健吉と藤二の混同という 形ではあれ, この子どもたちのよう に 読み手は 健吉と角力帰りの子 , , 供達とが描かれているこの場面で, どう して藤二のことを思う のだろうか それは まず 視点の 。 , , よりそっ ている健吉の目をとおして, 読み手も角力帰りの子供達 をながめることになること つぎ . に, その角力に行ってきた子供達とただ一人行けなかった藤二は一対の 関係になっていること こ . の二点る こよる. 健吉には, 行った子供達と二重写しに, 行けない藤二が見える と読み手には見え , る。 も どかしい程の発言をとおして, 子どもたちが全体としていおう としているのはこういうこと だ。. だから, この子どもたちの発言を組織するのに, これらの読み (a) (b) をただちに誤りとし ,.

(11) . 三上勝夫・安増京子 て は な ら な い の だ と 思う. 読み (a) は, 健吉の視点ない しは立場からことがらを見ようとしてい. る. 健吉の見たものをとおして健吉がどう思っているかを推しはか ろうというのは, そのかぎりに おいて正しい. 読み (b) は角力帰りの子供達との対比として, また文脈の流れとして藤二のこと を思わないわけには行か ないということだとすれば, これもそのかぎりにおいて正しい. 読み(a) と読み (b) は補いあって妥当な読みに至るのだといえる. 授業がせ っ かくの発言を充分組織せずに進ん でいく なら, 発 言のよさ を生か しき れないという こと ではすまずに, 子どもたちの不充分な, 主観的な読みを追認してしまうことに なるだろう. ど の子どもの読みもそれなりに根拠があるのだか ら, 子どもたちが自分の読みの的確な面と不充分な 面とを発見し, 喜べるような組織の しかたは可能だし, しなければならないこと だ. 的確な読み (c) を偶然のこととしないためには, うえに述べたような配慮による発言の 組織は ぜひ必要だった.. (注) 三上勝夫 「文学作品の読みにかんするいくつかの問題」HD日 1981 教』 62 号 ( , 7). 65 号 ( 1982 , 3). (北海道民間教育研究団体連絡協議会編)『民. 1982 66 号 ( , 7). [付記] 小論は56年度の教育課程論の講義に, 教育実地指導講師としてお願いした桂元三先生に, 指導の一環と して, 学生ともども引率してもらい, 札幌市立北都小学校六年の石本由紀子先生の授業を参観させてもらった際の 授業記録にもとづいて作成した. (安増:本学非常勤講師 札幌分校) (三上:本学助教授 札幌分校). 10.

(12)

参照

関連したドキュメント

とりひとりと同じように。 いま とお むかし みなみ うみ おお りくち いこうずい き ふか うみ そこ

長期入院されている方など、病院という枠組みにいること自体が適切な治療とはいえないと思う。福祉サービスが整備されていれば

これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ

遮音壁の色については工夫する余地 があると思うが、一般的な工業製品

○安井会長 ありがとうございました。.

きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを