日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5) : 西南戦争までの壮兵編成と兵役志願・再役志願制度
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(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第57巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.57,No.1. 平成18年8月 August,2006. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5) 一西南戦争までの壮兵編成と兵役志願・再役志願制皮−. 遠 藤 芳 信 北海道教育大学函館枚社会科教育研究室. WartimeOrganizationandThoughtoftheMobilizationPlan. BeforetheRusso−JapaneseWar(5) ENDO Yoshinobu. DepartmentofSocialEducatin,HakodateCampus,HokkaidoUniversityofEducatin. 概 要 本研究は,日露戦争(1904∼1905年)に至るまでの日本陸軍の戦時編制の歴史的変遷と成立過程を明らか にしつつ,そこにおける動員計画思想を考察することを目的にしている.戦時編制と動員計画における兵力 編成の基盤をささえるものは兵役制度である.近代日本は兵役制度の基本として徴兵制を組み立てた.ただ し,1873年に徴兵令が制定・施行されたが,壮兵(士族等の志願兵)の召集と新規募集が過度期的に続いた.. つまり,徴兵と壮兵の採用という徴兵制下の過度期的兵員併用・供給構造が貫かれた.本稿は徴兵制施行前 後から西南戦争までの過度期的兵員併用・供給構造の特質を考察するために,特に近衛諸隊の兵員,四鎮台 に召集・編成された兵員(壮兵),徴兵令ともに計画された六鎮台に徴集・編成された兵員(徴集兵,賦兵),. 西南戦争期に召集・募集された壮兵による兵力編成と解隊過程及び新たな兵役志願・再役制度の発足を検討 する.. 12 徴兵制下の過度期的兵員併用・供給構造の特質 兵役制度の目的は,軍に必要な兵員を供給することにある.つまり,兵役制度は兵員の供給制度であり, 特に常備軍設置の国家や軍隊側からみれば,兵員の採用制度を意味する.この場合,「軍に必要な兵員」を 算出・規定しているものは軍隊の編制上の定員である.つまり,兵員を供給・採用するという営みは,軍隊 の編制上の定員を充足(補充)する営みである.つぎに,「軍隊の編制上の定員」を決定するものは,論理 的には,軍隊の編成・配置・戦略計画にもとづく(常備軍という)兵力全体の保有・配備数から算出されて くる兵員定員である.そして,軍隊の編成・配置・戦略計画にもとづく兵力全体の保有・配備数は,歴史的 には,国家の財政・資力や仮想敵国への対応等を基本にして決定されてきた.なお,兵力全体の保有・配備. 49.
(3) 遠 藤 芳 信. 数の内訳決定に関しては,戦闘・戦術の制式にみあう戦闘力行使単位としての基準部隊を設定し,その部隊 の種別や部隊内人員構成の考え方も重要な基準になった.. 近代日本では,常備軍の結集・成立に際しては,兵役制度の一方法としての徴兵制を導入した.徴兵制は 国家による兵員の強制的な採用と供給の制度であるが,歴史的には各国において種々多様なかたちで営まれ てきた.近代日本の場合は,形式的・制度的には国民一般に兵役義務を負わせる徴兵制が導入された(1873 年徴兵令).この場合,軍隊の編成・配置・戦略計画にもとづく兵力全体の保有・配備数を満たすという論 理や目的と,徴兵制による兵員の具体的な供給・採用とをどれだけ厳密に整合・対応させたかということは,. あらためて検討の対象になるかもしれない.ただし,近代日本だけでなく,近代常備軍を成立させた各国で は,自国軍隊の編成・配置・戦略等の諸計画にもとづく兵力全体の保有量・配備数等は,そもそも,常備軍 維持の財政的負担力(人的・物的条件も含む)や政治情勢を顧慮し,互いに他国(仮想敵国)の兵力(の情 報)を念頭におき,自他の兵力の均衡維持等の「想定」にもとづいたものであって,そこに各国共通あるい は自国における絶対的・客観的な基準があったわけではない.したがって,軍隊の編成・配置・戦略等の諸 計画にもとづく兵力全体の保有・配備数等の基準として,あたかも絶対的・客観的な基準があるとみなすこ とも正しくないし,あるいは,徴兵制等による兵員の供給・採用計画数(定員)をめぐる多寡自体等に対し て,「少数精鋭」とか「精兵」を養成するなどの特別な意味を付して美化することも正しくない.なお,近 代日本の建軍期においては,すくなくとも鎮台編制の後半期までは,兵力全体の編成・配置・戦略計画等を 基本にした軍隊当局側の防衛政策・防衛方針(「全国防禦線」などと称される)は未確定であった.. 近代日本では,徴兵制施行前後から西南戦争前後までの兵役制度と兵力編成においては徴兵制のみが機能 していたのではない.そこには徴兵制及び鎮台編制下にあって,徴兵と壮兵を採用する過度期的な兵員併用・. 供給構造が貫かれていた.本稿は,近衛諸隊の兵員,四鎮台に召集・編成された兵員(壮兵),徴兵令と同 時に計画された六鎮台に徴集・編成される兵員(徴集兵,賦兵),西南戦争期に召集・募集された壮兵によ る兵力編成とその解隊過程,さらに,新たに発足した兵役志願制度・再役制度を中心にして検討するもので ある. (1)廃藩置県後の四頚台の兵力編成. まず,廃藩置県後の1871(辛未)年8月20日の兵部省布達による四鎮台設置と新たな統一的な兵力編成(各 地の旧藩兵解隊,四鎮台の本営分骨の常備兵は旧落下の常備兵を召集して補充する)によって,1871年と1872 (壬申)年にかけて召集・編成された四鎮台(東京,東北,大坂,鎮西)の諸隊の概要はつぎの通りである.. 第一に,1871年末現在では,①歩兵隊(下士人員計1,026人,卒人員計6,278人)は,東京鎮台の計5個大 隊,東北鎮台の計1個大隊,大坂鎮台の計3個鎮台,鎮西鎮台の計19個小隊,他1大隊,②砲兵隊(下士人 員計21人,卒人員計215人)は2隊,③造築隊(下士人員不明,卒人員計120人)は計3/ト隊とされている. 第二に,1872年末現在では,①歩兵隊(下士人員計1,681人,卒人員計7,698人)は,東京鎮台の計9個大隊, 東北鎮台の計2個大隊,大坂鎮台の計3個大隊,鎮西鎮台の計4個大隊,②騎兵隊(下士人員計9人,卒人 員計123人)は2個小隊,③砲兵隊(下士人員計53人,卒人員計497人)は3隊,④兵学寮付では,歩兵隊(下 士人員計71名,卒人員計646人)の1個大隊(大坂鎮台から東京鎮台へ所管換えになり,兵学寮付になる), 砲兵隊(卜士人員計12名,生徒人員96人)の1個大隊,工兵隊(前身は造築隊で工兵第一大隊になり,同年. 8月に教導団付属工兵隊になる.下士人員計68人,卒人員計57人)の4個小隊である.(1) 以上の鎮台兵力,すなわち,旧藩兵力の再編成を背景にして,近衛諸隊の編成替えが行われた.すなわち,. 1873年徴兵令施行直前の東京鎮台の兵力は,歩兵については,一番大隊,六番大隊,七番大隊,八番大隊, 九番大隊,十三番大隊,十川番大隊,十七番大隊,十八番隊の計9個大隊で約半数を占めていた.東京鎮台 諸隊兵員の出身県は,八番大隊と十七番大隊の一部をのぞけば,ほぼ関東以西が多い.陸軍は,1873年1月. 50.
(4) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5). 8日に日比谷陸軍操練場で「陸軍始」の行事として「飾隊式」(後の観兵式)を実施した.この時に出場し た東京鎮台諸隊は半数弱の4個大隊であるが(一番大隊,九番大隊,十三番大隊,十四番大隊),その合計. 人員は2,090人とされている.(2)当時,1872年末の四鎮台合計の隊付人員は10,551人(内,下士は1,745人, 兵卒は8,322人)であった.他方,後述の近衛諸隊合計の隊付人員は5,532人(内,下士は878人,兵卒は4,331. 人)であった.(3)っまり,徴兵制施行直前の隊付人員数の比較では,東京鎮台の人員数だけにおいても, 近衛諸隊の人員数とほぼ均衡したことが推定される.以上の鎮台と近衛の兵力関係のもとで,近衛諸隊の編 成替えが遂行されたことになるが,その特質は下記の通りである. (2)近衛諸隊の解隊・免役における特典政策と統制. 近衛の前身は,宮闘の守備のために1871年(辛未)2月に置かれた「御親兵」であり,兵部省に隷属して いた.近衛諸隊の編成替えの基本方針は,1872年3月9日制定の近衛条例によって固められていた.それに よれば,御親兵は近衛兵と改称され,歩兵3連隊,騎兵1大隊,大石駁4座によって編成し,近衛の兵卒は「全 国諸隊ノ精選ナルヲ法トス」「毎歳本省二於テ其欠員多寡ヲ量り国内諸営団二就テ壮兵ノ行状謹格ニシテ技 芸二精通スル者ヲ簡ヒ」とされるように,各鎮台から壮兵(的部分)を「選抜」して供給・補充する体制を とった.また,近衛兵全体の管轄官街としての近衛局が宮中に置かれ,近衛兵の司令官としての近衛都督が 置かれた.そして,山県有朋が近衛都督に,西郷従道が近衛副都督にそれぞれ任命された.ここで,近衛兵 管轄官街の近衛局が宮中に置かれたことは,外見的には新近衛兵の「政治的中立化」を意図したものであろ う.この時,従来の近衛諸隊は隊号が改められ,歩兵が一番大隊から六番大隊までの6個大隊(下士792人, 3,958人),騎兵が2/ト隊(下士22人,兵卒88人),砲兵が一番大隊と二番大隊(下士64人,兵卒483人)から 編成されており,将校をふくむ隊付人員合計は5,532人であった(ただし,1872年末現在).近衛諸隊の編成 替えは旧御親兵の役割(武力を背景して廃藩置県を断行)の終了をふまえつつ,さらに天皇直轄を鮮明にし た中核的軍隊の成立をめざしたものである. ところで,近衛局内に「紛議」を生じて,同年6月29日に山県有朋が近衛都督の重任に堪えないとして辞 表を提出したとされている.これは,山県有朋が近衛都督として鹿児島・山口・高知の旧三洋から召集・編 成した旧御親兵を統轄していたが,「其(旧御親兵)の将士甚だ精鋭なりと錐も又願る制御し難く,平素有. 朋に心服せざる将卒往々其の命令に反抗し,ついに紛糾解くべからざるに至れるものの如し」(4)のような 状況発生もからみあいつつ,近衛諸隊の編成替えに対する抵抗を基本的背景にしているとみなすべきだろう. これに対して,当時,明治天皇は西日本巡幸に供奉していた参議西郷隆盛と西郷従道に帰京を命じて事態収 拾にあたらせ,7月19日に西郷隆盛に陸軍元帥及び近衛都督兼任を命じた. これより先,近衛局は4月9日に陸軍省秘史局に対して,解隊・免役の伍長以下兵卒に対する解隊・免役 期限と賞典下賜をとりまとめてほしいことを申し出た.それによれば,①近衛隊伍長以下兵卒の服役は来年 3月までとし,②伍長以下(最初の「御親兵」編入者)に対して免役時に賑粗金と帰県旅費を渡し,その他 に「勲功賞典」として,「帰県後従前取来り候俸禄之外五ケ年間壱ケ年米五石宛下賜り候事」とし,③最初 の「御親兵」編入から遅れて編入した者には,②と同様に「五石」の賞典米を2年間下賜する,④免役後に なお服役を出願する者は近衛兵に編入させるが,その編入者には旅費を渡さない,⑤帰県後に「猶国家有事. 之際徴召乃命アレハ速二出張有之候様兼而御申渡置有之度」と上申されている.(5)秘史局は近衛局上申の 特に②と③の「五石」を「三石六斗」と減量修正した.その後,陸軍省内ではさらに賞典米量を検討し,「五 年間二人扶ヒ」にすることの考え方も出され,陸軍大輔山県有朋は7月(日欠く)に太政官正院に近衛兵伍 長以下免役者に対する賞典米下賜等を伺い出た.山県有朋の伺いは,賞典米「一ケ年二人口」の下賜期間を 5年間(最初の編入者)あるいは2年間(その後の編入者)にわたって与える,免役後の再服役H願者は諸. 隊に編入させる(ただし,旅費はなし),と述べた他は上記の秘史局上申内容とほぼ同じである.(6)太政官. 51.
(5) 遠 藤 芳 信. は上記伺いを8月4日に許可し,翌1873年2月15日にその下賜の取り扱いを大蔵省に指令した. 以上の近衛諸隊解隊・免役時の伍長以下に対する対策の中で,第一に,特に賞典米下賜の措置は,後年「実. 二特殊ノ恩典」(7)と評価されているように,かなりの特典措置といえるものであった.近衛諸隊は翌1873 年2月8日に解隊の具体的な日程が指示され,解隊式を挙行し,上記の一番大隊から六番大隊までの6個大 隊は2月15日から同21日にかけて解隊された.この解隊・免役の際に,陸軍省は2月14日に太政官に,大蔵 省に対して上記賞典米下賜の手続き実施を達してもらいたいとあらためて申進し,太政官は翌2月15日に同 手続き実施を大蔵省に達した.以上の賞典米は,1873年8月7日の陸軍省達によれば,本人が年限未満にお いて死没した場合には,定期にその相続人(相続人無しの時は身寄親族者)に下賜されることになった.旧 近衛諸隊は政府の支配政策の道具として編成され,その解隊・免役は支配政策の道具としての役割が終了し たことを意味するが,伍長以下兵卒側からみれば,5年間あるいは2年間にわたって賞典米をうける「権利」 は遺族にも継承されることになり,政府に対する信頼を失わせないことになった.. 第二に,近衛諸隊の解隊・免役に際して,陸軍省は2月19日に,免役の各兵伍長以下の帰郷者取り扱い方 (兵事関係事項に関する所管鎮台と管轄県庁の処分区分等,帰郷者の管外旅行や管外寄留の許可等)を指示 し,また,近衛局・軍務局・砲兵局・裁判所・熊本広島両鎮台に対して,帰郷者で郷里において国法を犯す 者は軍律(1872年頒布の海陸軍刑律)第14条によって地方裁判所の処置にゆだねること,有事における召集 命令に応じない等の諸規則・布令にそむく者や「軍部二属スル罪犯」は軍律によって処分することを指示し た.さらに,陸軍省は5月9日に,旧近衛解隊免役者に対して,「管外旅行」の原則禁止(やむをえない事 故の時は,その事実と旅行先・往復日数を柵記して管轄庁に碇出し,所管鎮台・営所の許可を得ること,本 人帰着に際しては県庁から所管鎮台に届出ること)を達した.つまり,旧近衛諸隊免役帰郷者の管理・統制 をあらためて明確化した.. なお,1872年10月15日の陸軍省達は,近衛諸隊解隊による非職の士官・下士官の取り扱いに対して,①非 職士官で都下滞在を命じられた者の所轄についてはその時々に指示があり,帰郷者はその地方の鎮台本分営 長官の所轄になり,②非職下士官でこのたび限り都下滞在を命じられた者は月給の三分の二と食料全部を与 えられ,帰郷者は月給の三分の一のみが与えられ,また,所轄関係は士官の例に準ずると指示した.この場 合,非職の士官・下士官で都下滞在が命じられる者の条件・基準は明確ではないが,都下滞在が命じられた 非職下士官はかなりの待遇を得ることになり,あるいは軍曹以上の下士で再役出願者は鎮台諸隊に編入させ られた.さらに,上記の非職と帰郷を命じられた下士官の曹長と軍曹は1875年2月にすべて解官を申し付け られたが,9月29日に賞典米(各二人口分を5年間あるいは2年間)を与えられることになった.この時の 陸軍省調査によれば,賞典米下賜対象者は合計351人(出身県別は,鹿児島県148人,高知県120人,山口県83. 人)であった.(8)また,同年11月に鹿児島県出身者61人が追加され,翌1876年2月には山口県出身者33人 と鹿児島県出身者11人が追加された.ただし,賞典米下賜以前に重罪を犯した者(死刑)は同対象者名簿か ら削除された. (3)新近衛兵編制の成立と壮兵の召集・除隊. 新近衛兵編制の具体的な基本計画は,1873年徴兵令布告と同時に規定された「近衛兵編成並兵額」によっ て規定された.すなわち,近衛兵の兵員は全国諸兵の「模範」たるべきもので諸兵の上位にあって(給俸を 増加する),「全国共戴ノ 至尊」を護衛するが故に,「各鎮管内常備熟練兵ノ中強壮ニシテ行状正シキ者ヲ ー小隊毎二兵種二応シ若干人ヲ撰挙シタル者ヨリ編成シ奉命其日ヨリ更二五ケ年ノ役ヲ帯ハシメ満期ノ上ハ 後備軍ノ籍ヲ免スル者ナリ」と位置づけられて編成されることになった.つまり,近衛兵編成における兵員 供給の原則は,徴兵制によって各鎮台に徴集された兵員のいわば「再服役化」によって実現するものであっ た.. 52.
(6) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5). ここで,鎮台編制下の兵員供給と近衛編制下の兵員供給との連動体制を組み立てることが徴兵制施行の課 題になるが,ただちに完成するものではなかった.「近衛兵編成並兵額」の近衛兵額(定員合計3,880人)に よれば,近衛兵編成の兵力(歩兵2連隊,騎兵1大隊,砲兵2/ト隊,工兵1/ト隊,輪重兵1隊)は,歩兵は 2個連隊で総員3,200人であり,鎮台から毎年撰挙される兵員数(合計776人)の内で歩兵は640人とされた. また,近衛兵は平常からその定員を満たしておくために,欠員発生ごとに各鎮台から兵員を補充し,戦時に は特に定員を増加させないとされた.ただし,以上の「近衛兵編成並兵額」は上記の徴兵制によって徴集・ 編成された鎮台の兵員から撰挙されることを基本計画として示したものであって,当時の徴兵制による兵員 供給構造の未完成段階(壮兵・徴兵による過度期的な兵員の併用・供給構造)においては,当面,上記の四 鎮台(1873年からは六鎮台)に召集された兵員(壮兵)によって撰挙・編成されることになった. それでは,新近衛兵はどのようにして兵員を採用・編成し,そして除隊させるに至っただろうか.. まず,第一に,東京鎮台の歩兵の中か ら「精選之上」編入させ(2月8日に東京鎮台に布達),さらに旧 近衛諸隊解隊免役兵中の再服役(希望)者を「取交編束」することによって編成するとした(2月12日に近 衛局に布達).これによって,歩兵は逐次4個大隊(2個連隊)に編成されることになった.この結果,後 者の旧近衛諸隊解隊免役兵の再服役者については,陸軍省は1873年4月9日に伍長以下再服役者720人を編. 束したことを太政官に届けているが,(9)この720人がすべて新近衛兵に編入されたか否かについては不明で ある.なお,この再服役者の服役年数は解隊日から2年間とされた.この結果,1873年末の近衛兵の隊付兵. 員は2,190人(内,歩兵は1,906人)になり,下士は380人(内,歩兵は319人)になった.(10)翌1874年1月 22日に近衛歩兵は連隊に編成され,近衛歩兵第一連隊と第二連隊が成立した.1874年末の近衛兵の隊付兵員 は2,642人(内,歩兵は2,345人)になり,下士は506人(内,歩兵は432人)になった.ただし,前者の東京 鎮台の歩兵(壮兵)からの編入者数は不明である.壮兵からの編入者数が明らかになるのは,1874年12月末 に壮兵の漸次解隊・免役の方針が示され,同時に同壮兵免役者(1871年の廃藩と四鎮台設置時における旧藩 兵から召集の下士以下)に対して賞典米各一人口2年分を下賜することになり,近衛局と各鎮台で同壮兵を 調査するに至った1875年3月以降である.この調査によれば,(11)近衛歩兵第一連隊及び同第二連隊の賞典 米下賜対象者は合計1,979人とされ,内訳としては圧倒的に西日本が多いが,東北地方の酒田県・置賜県(硯 山形県)の出身者が目立つことも注目される.なお,1875年1月28日に旧近衛解隊時の伍長以下再服役者を 免役することが決定された. 第二に,1875年6月9日の近衛兵額改正によって近衛兵全体の定員削減がなされ,歩兵定員は1個大隊670 人になり,2個連隊の総定員は2,688人になった.そして,毎年各鎮台において徴集・入営兵から撰挙する 兵員数は665.6人(内,歩兵は537.6人)とされた.以上の近衛兵額を「新旧交代」によって充足することを めざして,陸軍省は1875年12月29日陸軍省達158号おいて,鎮台における徴集・入営兵からの撰挙・召募に よって近衛に毎年入営する歩兵兵員数と毎年除隊される歩兵兵員数の関係を示す「近衛歩兵召募並免除年紀 表」を規定した.本表は徴兵令にもとづき,常に近衛歩兵定員2,688人を充足するために,毎年2月に537.6 人(繰上げて538人,ただし在役総員2688人を計算上確保するためには切り捨てて537人の年期がある)を各 鎮台から入営させ,同時に同数の538人を除隊させていく「新旧交代」のシステムの完成時点を計画したも のである.それによれば,法律的には,1880年に至って初めて徴兵制施行を基盤にした鎮台兵力編成に連動. する新近衛歩兵編制が完成する計画であった.(12)ただし,1875年作成の「近衛歩兵召募並免除年紀表」は, 壮兵が過去1873年(1,013人)と1874年(393人)の合計1,406人が2年間にわたって召募・入営したことを 前碇にした計画であるが,近衛歩兵隊付兵卒は上記のように少なくとも1873年末は1,906人(1874年は2,345 人)であるという統計(前掲『陸軍沿革要覧』)もあるので,1873年のその差893人と1874年のその差939人 の「在営」の根拠・意味は説明しにくい.この893人と939人はおそらく旧近衛諸隊解隊免役兵中の再服役者. 53.
(7) 遠 藤 芳 信. と推定される.1875年以降の『陸軍沿革要覧』に示された近衛歩兵隊付兵卒人員の統計は,「近衛歩兵召募 並免除年紀表」の在役総員2,688人に近い. (4)東京鎮台等における壮兵の召集と免役. 廃藩置県後の1871年(辛未)8月の旧藩兵の解隊と統一的召集による四鎮台兵力編成の概要については本 紀要の静稿(第54巻第2号,2004年2月)で述べた.この四鎮台兵力編成の特質は下記の通りである. 第一に,解隊された旧藩兵の統制を強化したことである.たとえば,兵部省は同年12月に各県宛に,元大 中藩の常備兵が当該県下に1/ト隊ずつ置かれたことに対して,今後,同兵を当該県庁管轄にすること及び同 兵の「兵隊之称号」を廃することを指示した.つまり,「兵」とは国家・政府のみが管轄してその名称をつ けるものであり(兵力編成の中央集権化),地方官庁には「兵」(なるものの組織や名称)は存在しないこと. を明確にしたのである.この場合,さらに県庁移管になる同1/ト隊の「廃置並給養等之儀」は大蔵省に伺う べきことを指示した.つまり,従前の1/ト隊の廃置は,兵力行使上の意義よりも財政的措置の視点から考慮 されるべきであることを明確化したのである.その後,1872年(壬申)1月10日に大蔵省は県庁管轄の同1 小隊の「兵」をすべて解隊し,財力(石高)に応じて「捕亡吏」としておくことを諸県に指示した.ただし, この後,地方官庁が「頑民暴動」の鎮圧ために「貫属士族等」を募集し,「隊伍」を組み立て,「兵士」の名. 目によって防禦措置をとっていた地方官庁もあったようである.これに関して陸軍省は1873年8月8日に府 県に,地方官庁における兵力編成は「陸軍之権限ヲ犯シ甚不都合」であること,鎮台から隔絶した地域等で は情勢上一時的な権宜としてあったとしても「鎮台ヲ除ク之外兵隊之名義無之筈」として厳しく禁止するこ とを指示した.すなわち,兵力編成に関する独占的管理権限は鎮台にあることを再度明確化した.しかし, その後,西南戦争等において警備目的の盟約書等にもとづく住民の自主的な武装組織が発生するに至る.. 第二に,鎮台の本営分骨への兵員召集に関して,特にその補欠召集については鎮台管轄下の県に召集手続 をとらせることにした.たとえば,①1872年(壬申)3月20日に石川県に対して,元金沢県解隊歩兵の中か ら2/ト隊を東京鎮台第三分骨兵(名古屋)の補欠として召集すること,②同年7月5日に岩手県に対して, 元盛岡藩解隊歩兵の中で1/ト隊を東北鎮台本営兵補欠として召集すること,③同年8月2日に佐賀県・小倉 県・長崎県・三瀦県に対して,四民の中から歩兵志願者を精選して鎮西鎮台に差し出すこと(計55人),④ 同年8月27日に小田県・島根県・浜田県・山口県・広島県に対して,四民の中から歩兵志願者を精選して鎮 西鎮台第一分骨に差し出すこと(計112名),⑤1873年2月27日に岐阜県・浜松県・筑摩県・愛知県・石川県・ 新川県に対して,四民の中で歩兵志願者の検査合格者を名古屋鎮台に補欠召集させること(同様に宮城県・ 盤前県・福島県・水沢県・若於県・青森県・岩手県・秋田県・酒田県・山形県・置賜県に対しては仙台鎮台 に,小田県・島根県・浜田県・山口県・広島県・名東県・高知県・愛媛県に対しては広島鎮台に指示し), ⑥1873年5月14日に石川県に対して,四民の中で歩兵志願者の検査合格者を名古屋鎮台に補欠召集させるこ と,を指示した.以上の1873年徴兵令施行前後の鎮台歩兵補欠召集等の手続きは,その召集兵は志願兵・壮 兵であるにもかかわらず,事実上は府県に対する割り当て仕事(賦役・賦兵)の組織化という性格を示して いる.. 第三に,鎮台召集兵の服役期限と除隊取り扱いの問題がある.これについては,陸軍省は,①1872年4月 25日に東京鎮台召集兵に対しては服役期限を満3年(入隊年から)と規定し(再役については詮議のうえ若 干年服役させる),今後は故障による除隊出願は許可されないこと,現在やむをえない情実がある者につい ては詮議するので至急申し出ることを指示し,②同年10月7日に大坂・鎮西・東北の各鎮台召集兵に対して は服役期限を「未定」としつつも,今後の除隊出願の扱い方として,嗣子で父母を失い他に兄弟が無く営産 に支障がある者,独子独孫で父母祖.父母が病気・「極老」であり本人がいなければ父母・祖.父母の余生を支 えることができない者,兄弟がいても病気や障害者・幼児であり父母の病気を看護できない者に関しては,. 54.
(8) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5). 除隊出願者に対して,本人親族から父母兄弟姉妹の有無年齢等の明細を各府県庁に出願させ,各府県庁は当 該事実の調査のうえ相違なき者については鎮台に提出する,という手続きをとると規定した(「除隊取扱規 則」).しかし,以上の東京鎮台をのぞく鎮台の「除隊取扱規則」の実施の結果,「右願出候者移多有之」と. なり,「徒二兵員ヲ減少シ其際限モ無之」になったとされている.そのため,1873年7月27日に陸軍省は五 鎮台と府県に対して,今後,除隊出願に際しては,府県庁は検査合格者の中から「代人」を選んで差し出し,. 鎮台で検査し補欠入営させることを指示した.以上によれば,鎮台召集兵は志願兵・壮兵であるにもかかわ らず,窓意的な除隊を許可せず,除隊の許可条件としては出身家族の自営・自活に対する配慮の視点を示し た.その意味では,「除隊取扱規則」は,府藩県に徴兵兵員の検査・撰挙を指示した1870年11月13日の徴兵 規則第2条の「一家ノ主人又ハー子ニシテ老父母アル者或ハ不具ノ父母アル者等選挙ス可カラサル事」とい う規定を部分的には継承している.なお,「除隊取扱規則」の規定に際して,東京鎮台をのぞく三鎮台召集 兵の服役期限を「未定」としたのは,同時点で兵力確保の見通しが立たなかったからであろう.. 第四に,1873年2月8日の陸軍省布達によって東京鎮台管轄下兵員が近衛兵に編入すれば,東京鎮台にお いては転出した近衛編入兵員数に相当する兵員数が当然欠けることになる.これに対して,陸軍省は,6月 1日から10日までの徴兵令による徴集兵員入営の直前の5月14日に,兵学寮付の歩兵第五大隊(2月19日に 諸兵の大隊の隊番号は「00番大隊」から「第00大隊」と改称される,1972年末の歩兵五番大隊の人員数 は上長官1名・士官31名・下士71名・卒646名)を東京鎮台直轄にもどし,第一連隊第一大隊と改称させた. この歩兵五番大隊は1871年に大坂鎮台に召集された諸県兵によって編成され,1972年3月22日に東京鎮台に 所管換えになり,同時に兵学寮付になっていた.以上のように,1873年からの新近衛兵編制を支える兵員は,. 旧近衛諸隊免役者の再服役をのぞけば,旧鎮台召集(徴兵制施行前の四鎮台編制下の東京鎮台)の兵員(壮 兵)によって補充され,東京鎮台等で欠けた歩兵兵員数の何割かを同様に従前の壮兵によって補充し,ある いは補欠召集するという,壮兵の「玉突き」的馴l頁送りの供給と採用の構造をともなった.. 第五に,1874年に至り,特に佐賀の乱(2月)と台湾出役事件(5月)等に対応して,壮兵の臨時募集や 鎮台歩兵補欠募集が行われた.すなわち,①2月20日に大坂鎮台・熊本鎮台・広島鎮台の管下府県に対して, 非常出兵時に常備兵員不足した場合に府県下において所管鎮台兵役志願者を臨時召集することがあること, 特に大坂鎮台と広島鎮台においては「臨時募兵約法」(服役期限を定めず,任務終了後に解隊・免役,才幹 ある者は士官・下士に任ずることがある,など)にもとづき召集することを達し,②3月18日に「歩兵召募 規則」を規定して茨城・若桧・鳥取・栃木・白川・長野県に対して,東京鎮台歩兵補欠のために士族や元卒 中から志願者を召集することを達し(服役期限は約3ケ年,士官・下士志望者は検査の上士官学校や教導団. に入学させる,技芸熟達し才幹ある者はその隊の伍長に抜擢する,など),(13)③8月7日に各鎮台に対し て歩兵1大隊人員増加(768人)のために各鎮台管下府県から壮兵志願者を召集すると達し,同日に各府県 に対しては具体的な検査手続きを達した(年齢20歳以上30歳以下,「自家ノ産業」に故障ない者,「朝廷ノ為 身命ヲ棄テ奉仕致シ可中辛」等の「誓文」を行う).この場合,10月3日に,召集不足があれば走尺(身長 5尺)未満者も採用し,さらに不足の場合には本年に限り年齢35歳までの者の採用を許可するとした.なお, 陸軍省は1874年8月8日に陸軍全部に対して,服役満期の下士と兵卒は当分の内免役を差止めすることを布 達したように,陸軍は台湾出役事件に対応した卜士・兵卒の確保に苦慮していた.. (5)壮兵の解隊と1875年徴兵令参考における現役志願の手続き規定 1874年末に全国の壮兵諸隊の漸次解隊の方針が決定された.すなわち,1874年12月20日に山県有朋陸軍卿 は,徴兵令による徴募手続き等が「略相整候」として,全国の壮兵諸隊を明年1月から「順次ヲ趣ヒ以解隊. 之儀著手致」(14)したいと太政大臣に伺いHている.陸軍卿の伺いは12月28日に許可された.ただし,この 1875年の壮兵諸隊の漸次解隊に際して,陸軍省がとった二つの重要な措置がある.. 55.
(9) 遠 藤 芳 信. 第一は,徴兵制の枠内での兵役(常備役,現役)志願の手続きを措置したことである.すなわち,山県有 朋陸軍卿は太政官への壮兵解隊の伺いに先立ち,徴兵令の地方官向け解説書としての「徴兵令参考」を編集 し各府県に頒布したいとして,同年10月30日に太政官に伺いを立てた.その第5条によれば,「本年ノ徴兵 抽薮ノ列二人り常備役志願ニテ補充或ヒハ落薮等ヲ息フル者ハ其親或ヒハ兄叔伯惣テ家主タル者会得ニテ戸. 長証印ノ上ハ抽薮以前二常備番号以内ノ薮ヲ抽カシム」(15)と起案され,抽薮における常備役志願者の便宜 を与えるものであった.本規定はその後の徴兵制の枠内での現役志願者の設定・奨励の囁失になるもので あったが,山県陸軍卿の何いは12月28日に許可され,徴兵令参考は翌1875年1月23日に陸軍省達布第23号に よって陸軍全部に布達された.つまり,陸軍省においては壮兵の解隊方針と徴兵制の枠内での現役志願の許 容あるいは奨励の方針をセットにして組み立てていたことが窺われる(注(38)の補注参照).. 第二には,陸軍省は1873年2月の近衛諸隊の解隊・免役における賞典米下賜の前例を根拠にして,1875年 1月18日に,①今回,旧近衛諸隊管所属の非職下士で解官される者と再服役者で満期解官される者に対して も同様に賞典米下賜を措置したいこと,②1871年の廃藩と四鎮台設置時に旧藩兵から召集した鎮台常備兵で 解隊免役される者に対しても賞典米下賜として1ケ年一人口2ケ年分を措置したい,と太政官に上申したこ とである.これに対して,太政官の左院は1月24日に陸軍省上申の趣旨と下賜の措置を至当であると審査し, 太政官は1月28日に同措置を許可し,さらに下賜対象人員等を詳細に調査して届けることを陸軍省に指示し た.. (16). 以上の全国の壮兵諸隊の漸次解隊の方針を受けて,1875年2月9日に陸軍省は近衛局と各鎮台に対して, 全国の壮兵を「漸ヲ以テ悉皆免役申付候」とし,免役該当者の調査を布達した.また同日に,陸軍全部に対 して,上記の1871年7月の廃藩と四鎮台設置時に旧藩兵から召集した鎮台常備兵には6月1日から賞典米下 賜として1ケ年一人口2ケ年分を措置すること,下賜される2年間には時宜によって召集することがあるこ とを布達した.また,3月19日に陸軍省は府県に対して上記2月9日の布達内容を示したうえで,該当者が 帰郷した際には本人の本貫族籍等を調査して所管鎮台に届けること,本人の死没・逃亡・他家相続・勤仕・ 貰属替・改姓名等の時にも所管鎮台に届けることを布達した.ただし,全国の壮兵諸隊の漸次解隊における 賞典米下賜の措置の理解についてはやや混乱があり,陸軍省は同年3月13日に近衛局と各鎮台に,賞典米下 賜は1871年の廃藩と四鎮台設置時における旧藩兵からの召集兵に限定されること(旧薄からの補欠召集兵や 1871年以前の徴兵・徴募兵等は除かれる)をあらためて布達した.さらに,陸軍省は5月19日に上記の3月 13日の布達を確認したうえで「賞典米賜方規則」を規定し,特に,下賜される本人が死没したときはその相 続人や親族に与えられること,賞典米は本人勤務中の「功労ヲ賞」するために与えられるが故に下賜後の犯 罪処刑(軽重にかかわらず)があっても2年間は本人や親族に与えられること,2月9日現在で罪科未決・ 当罰・脱走中の者であっても兵籍を脱しない者にはすべて賞典米が与えられること,賞典米の渡し方は本人 管轄府県庁で取り扱い,渡し方の期日・方法等はすべて大蔵省の措置に属すること,を布達した.以上の賞 典米下賜対象者の限定と調査にもとづき作成された1875年6月現在の「諸兵隊人員調査簿」によると,賞典 米下賜対象者は4,064人(内訳は東京鎮台547人,名古屋鎮台372人,大坂鎮台647人,広島鎮台765人,熊本. 鎮台1,335人,仙台鎮台338人)とされた.(17) 1875年2月の全国壮兵諸隊の漸次解隊・免役の際の賞典米卜賜は,1873年2月の旧近衛諸隊解隊・免役の 際の賞典米下賜と同様に相当の特典措置であった.これらの賞典米下賜の措置は,旧近衛諸隊及び廃藩後の 鎮台諸隊に召集・採用された士族を中心とする壮兵に対して,旧落体制下の勤務意識(藩主に忠誠)を払拭 させ,政府・国家に対する忠誠意識を形成することにおいて少なからず効果があった. (6)西南戦争における壮兵の臨時召集と新規募集. 1877年の西南戦争においては,当初,現有の近衛・鎮台から現役兵諸隊を抽出して臨時的に編成された第. 56.
(10) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5). 一旅団(勅使護衛兵を改廃し,東京鎮台歩兵第一連隊と大阪鎮台歩兵第八連隊の各1個大隊等を基本にして 2月19日に編成),第二旅団(勅使護衛兵を改廃し,近衛歩兵第一連隊の2個大隊を基本にして2月18日に 編成),第三旅団(近衛歩兵第二連隊第三大隊の3個中隊,東京鎮台歩兵第二連隊第三大隊の3個中隊,同 第三連隊第三大隊の1個中隊,名古屋鎮台歩兵第六連隊第一大隊,大阪鎮台歩兵第八連隊第一大隊,同第九 連隊第三大隊の2個中隊,同第十連隊第三大隊の3個中隊,広島鎮台歩兵第十一連隊第一大隊の1個中隊, 同第三大隊の1個中隊等を基本にして2月25日に編成),第四旅団(近衛歩兵第二連隊第二大隊,東京鎮台 歩兵第二連隊第一大隊及び第三大隊の各2個中隊,名古屋鎮台歩兵第人連隊第三大隊の3個中隊,大阪鎮台 歩兵第九連隊第三大隊の1個中隊,同第十連隊の第二大隊等を基本にして3月14日に編成),の特設があった. 同時に各鎮台・近衛の現役兵のみでなく,後備軍兵員等の召集・動員の必要が想定・議論されていた. まず,東京の陸軍省は2月9日時点で京都出張中の山県有朋陸軍卿に,「近日ノ形勢」を判断し,名古屋. と大阪の両鎮台管轄下の後備軍を復習のために召集する伺いを出した.(18)なお,すでに東京鎮台は定例復 習として,3月4日から召集することを予定していた.山県陸軍卿は同日に両鎮台の後備軍復習としての召 集を許可し(都合次第では東京鎮台の召集を早めてもよい),さらに,各鎮台司令長官に対して,不測の事 態への対応を平時から準備し,有事において達巡阻摸することがないように日夜勉励従事すること等を諭し た.そして,陸軍省は翌10日に名古屋・大阪の両鎮台に対して後備軍定例復習のための召集に着手すること を達した.2月19日に征討令が布告されたが,2月21日に山県陸軍卿は陸軍省に対して,各鎮台においては 第二後備軍編入の下士を各営所に召集し,その他の後備軍兵は報知次第ただちに指定地に集合できるように あらかじめ指令しておく措匿のとりかたを達することを通報した.陸軍省は山県陸軍卿の通報にもとづき, 同日に各鎮台に対して第二後備軍編入下士の召集等を指令した.以上の第二後備軍の召集によって,東京鎮 台(後備歩兵第一,第二大隊),名古屋鎮台(後備歩兵第三,第四大隊),大阪鎮台(後備歩兵第五,第六大 隊)に歩兵第二後備軍が編成されることになった(2月26日陸軍省達乙第66号.10月1日に解隊の指令). つぎに,同年3月初めに岩倉具視などの文官系官僚から兵員不足が危惧され,旧藩士族の兵員徴募等が議. 論されていた.(19)ただし,内閣顧問木戸孝允は同徴募に強固に反対していた.その後,京都所在で征討事 務最高統括機関の行在所は4月4日に「壮兵募集被仰付候」として,壮兵の新規募集を指令した.また,内 務省管轄の警視庁巡査と新規募集の巡査を兵員とした旅団(3月25日に別働第三旅団,7月中旬に新撰旅団) の編成に着手した.西南戦争における壮兵召集(従前の近衛兵及び東京鎮台等服役者で解隊・免役時に賞典 米を下賜された者く旧近衛兵は二人口,旧東京鎮台等兵は一人口〉,「臨時召集」等と称される)及び新規募 集(「新募壮兵」「臨時募集」等と称される)の軍制上の特色は下記の通りである. 第一に,壮兵の召集・編成に関する陸軍省の一貫した方針があったのではなく,それらの調査・情報も錯 綜していた.まず,壮兵召集の方針は,後備軍召集にかかわる2月23日の仙台鎮台からの伺い(「此後ノ変 動難計二付元下士二非サル後備兵並ニケ年間賞典米賜りタル元壮兵ヲ即今召集致シ置ク可然哉御指令ヲ乞. フ」)に対する陸軍省指令において「ニケ年間賞典米ヲ賜ハリ居ル壮兵召集ハ伺之通り」と示された.(20) ただし,ここでの壮兵は上記旧東京鎮台等兵の一人口下賜者であり,3月16日に陸軍卿代理西郷従道は鳥尾 小弥太中将(当時,参謀局長.行在所陸軍事務取扱の職務につく)に仙台鎮台の伺いは「兵員寡少二付同台. 二限り聞届タリ」(21)と通報した.その後,陸軍省はこの一人口卜賜者召集対象鎮台を拡大し,3月20日に 陸軍省達甲第10号を達し(鎮台,第六軍管を除く府県宛),上記1875年2月の東京鎮台等における1871年召 集壮兵の解隊・免役者で賞典米一人口下賜者を召集することにした.そして,第一・二軍管管下府県の者を 東京鎮台に,第三・四・五軍管管下府県の者を大阪鎮台に召集しようとした.これらの兵は「遊撃隊」(4 月4日の新規募集による壮兵の大隊編成も同隊号呼称)と称され,当初,歩兵は第一大隊から第五大隊,砲 兵は第一小隊と第二小隊に編成する方針であったが,仙台鎮台管下の召集状況(3月23日までに415名中183. 57.
(11) 遠 藤 芳 信. 名が応召)をみて,まず,歩兵2個大隊を編成することにした.以上の召集方針によって,①3月25日に遊 撃歩兵第一大隊(下士103名,兵卒492名)が編成され(大阪鎮台管轄下になり,3月下旬編成の別働第四旅 団に編入,10月1日に解隊の指令),②3月25日に遊撃歩兵第二大隊(下士89名,兵卒772名)が編成され(名 古屋鎮台の管轄下になり,3月14日編成の第四旅団に編入,10月1日に解隊の指令),③3月27日に遊撃砲 兵第一小隊が編成された(大阪鎮台の管轄下になり,3月20日編成の別働第二旅団に編入,人員不明,10月 1日に解隊の指令),さらに,④3月31日に遊撃歩兵第三大隊(当初,山口県下から賞典米一人口下賜者を 召集したが,1個大隊として成立し難く,4月の新規募集の壮兵が編入される∼後述),が編成された. ただし,3月16日に西郷陸軍卿代理から通報をうけ,さらに陸軍省からの一人口下賜者召集対象鎮台の拡 大に関する相談を受けた行在所陸軍事務取扱の鳥尾中将らの壮兵召集方針には近衛兵の二人口下賜者の召集 もふくまれ,やや,錯綜していた.たとえば,鳥尾中将は3月18日付で広島鎮台宛に,二人口を受けた山口 県及び高知県在の「元近衛兵之下士」と一人口を受けた旧鎮台兵中の「元下士丈」を鎮台に召集することを 達した.(22)これによれば,広島鎮台が壮兵の召集・編成地として計画され,かつ,壮兵の部隊編成に先行 して,特に旧近衛兵等下士の召集による部隊編成現場の準備と監督が重視されている.この場合,当初,鳥 尾中将は二人口を受けた旧近衛兵は山口県と高知県だけで2,3千名がいるはずと予想し,旧近衛兵二人口 下賜者による部隊編成も想定していたことが考えられる.しかし,旧近衛兵二人口下賜者等に関する調査不 足・誤謬等もあり,また,陸軍省には旧近衛兵二人口下賜者(2ケ年間)の応召義務は法的にはすでに1875 年3月時点で終了しているという認識があり,西郷陸軍卿代理は3月23日に鳥尾中将に対して同召集を「特 別」なものにする場合の行在所における「特別ノ御詮議アルヤー通り心得皮」(23)として,それらの審議・ 決定等の手続きの明細を通知してほしいことを伝えた.これに対する鳥尾中将の回答は不明であるが,鳥尾 中将は3月23日付で旧近衛兵二人口下賜者の召集を取り消して,旧鎮台兵中の一人口下賜者のみを召集(集 合地は下関)することを広島鎮台に指令した.. (24)この時点での旧近衛兵二人口下賜者召集取り消しは,旧. 近衛兵二人口下賜者(2ケ年間)の応召義務の法的限界もあり,また,特別措置として実際に召集したとし ても,西郷軍の旧近衛兵との戦闘が想定されることもあり,慎重さを期したものであろう. 第二に,4月4日の壮兵の新規募集等通達の対象府県の問題がある.行在所はまず4月4日に壮兵新規募 集の天皇裁可を得て,太政大臣は同日に陸軍省に対して「壮兵募集被 仰付候間従前ノ利親二因り徴集可致. 此旨相違候事 但一万人ヲ目途トシ費額ノ儀ハ征討費ノ内ヨリ可仕私事」(25)と達した.また,太政大臣は 同日に壮兵の新規募集を陸軍省に達したことを各府県に通達し,募集の詳細は陸軍省から達することを通知 した(行在所達第9号).つぎに,同日に山口県下の旧近衛兵召集の天皇裁可を得て,同日に山口県令に対 して「其県下元近衛隊ノ者召集被 仰付候条馬聞出張之広島鎮台参謀長卜申合七速二取計可之有此旨相違候. 事」(26)と達した.なお,この旧近衛兵召集は賞典下賜中の有無にかかわらず召集するものであった. ところで,上記のように,太政大臣から壮兵の新規募集が各府県に通知されたが,実際の募集方針等は愛 知県以西の府県に通知された.これは壮兵の新規募集の大半を大阪所在の陸軍参謀部が担当することになり, 募集の地理的便宜性の理由もさることながら,当該府県在住の士族等に対する政治的かつ個人的な人脈関係 等を考慮・重視し,あるいは西郷軍への呼応想定士族に対する警戒のためである.すなわち,鳥尾中将は4. 月5日に,岐阜,愛知,石川,兵庫,堺,三重,滋賀,愛媛,岡山,島根,広島,高知,大分,長崎,福岡 の15県及び京都,大阪の2府に対して,「其県下士族平民ヲ不論従前旧淳二於テ軍役二服セシ者年齢四十歳 己下十七歳己上ニシテ志望之者有之候ハハ至急取調人名並履歴書相添大阪陸軍参謀部へ可申出」(27)と通知. した.他方,鳥尾中将は同日に山口県と和歌山県のみに対しては,上記の愛知県以西計17府県への通知文と 同一文章の他に「但募集二付而者手当金トシテ金三拾円宛下賜候事」(28)とい. う但し書きを加えて通知し,. さらに,翌6日に山口県下派出の長屋重名陸軍中佐に対して,諸事県庁官員と打ち合わせること,募集・召. 58.
(12) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5). 集に応じた壮兵・旧近衛兵が下関に集合するまでの旅費日当は徴兵に準じて一時県庁で繰替えしておくこ と,日給は編成の日より二等卒と同給にすることなどの細部を指示した.これによれば,山口県と和歌山県 を基本にして壮兵の新規募集及び旧近衛兵の召集を重視したことは明確である.なお,壮兵新規募集のため に,和歌山県へは5名の官員(陸軍省),山口県へは8名の官員(1名は内務省,5名は陸軍省,2名は広 島鎮台),後に広島県へは3名の官員(1名は内務省,2名は陸軍省),が派出された. かくして,4月4日の壮兵新規募集と旧近衛兵召集によって編成された遊撃歩兵の大隊は下記の通りであ る.すなわち,①遊撃歩兵第三大隊(4月7日に山口県下からの新規募集壮兵が編入され,上記3月31日召. 集の一人口下賜者と合併.4月10日に編成替えの方針が出され,(29)5月25日に第四旅団に編入され,10月 11日に小倉で解隊),②遊撃歩兵第四大隊(4月29日に①の新規募集壮兵の第三大隊第3中隊・第4中隊を 第四大隊第1中隊・第2中隊と改称し,さらに,残部壮兵によって第3中隊を編成.6月17日と7月13日に 熊本鎮台に編入され,10月14日に小倉で解隊),③遊撃歩兵第五大隊(和歌山県下からの新規募集壮兵で5 月14日に大阪鎮台管轄になり,7月7日に熊本鎮台に編入され,12月22日に大阪で解隊),④遊撃歩兵第六 大隊(和歌山県下からの新規募集壮兵で6月19日と8月3日に第一旅団付属になり,6月26日に大阪鎮台管 轄になり,12月22日に大阪で解隊),⑤遊撃歩兵第七大隊(山口県下からの新規募集壮兵で7月2日に広島 鎮台管轄になり,7月24日にその一部が第二旅団に,8月2日にその一部が別働第二旅団に編入され,10月 12日に小倉で解隊),⑥遊撃歩兵第八大隊(広島県下からの新規募集壮兵で6月19日に第一旅団付属になり, 7月2日に広島鎮台管轄になり,10月12日に小倉で解隊),⑧別働遊撃歩兵第1中隊と同第2中隊(山口県 下から召集した旧近衛兵二人口下賜者で,4月17日に隊名が付けられ,5月15日に熊本鎮台に編入され,7 月2日に解除され,10月14日に小倉で解隊),⑨遊撃別手組(大阪府下から撃剣に従事している者を募集し, 4月12日に編成され大阪鎮台管轄になり,5月10日に別働第一旅団に編入され,10月20日に大阪で解隊),. ⑲遊撃砲兵第2小隊(和歌山県下からの新規募集壮兵で大阪に在留し,10月14日に大阪で解隊),である.(30) 以上は特定の府県を重視した壮兵の新規募集による大隊編成等であるが,同一県における壮兵募集に際して も,たとえば,西郷中将は4月13日に広島県下派出の斉藤正言陸軍少佐に対して,広島県においては「士族. 兵卜農兵卜二派アル」(31)ので注意し,物議が発生しないように取りはからうことを指示しているように, 相当の慎重性を求めた.(32) 第三に,壮兵の新規募集は上記のように大隊編成を基本にしていた.その場合,「壮兵 歩兵一大隊編成表」. が作成・規定された.(33)それによれば,同編成表における1個大隊人員合計751名(大隊長1名,士官21名, 下士83名,兵卒640名 〈上等卒36名,卒604名〉,軍吏1名,軍医1名,職工4名)は,西南戦争直前に改正 された1877年1月17日陸軍省達乙第22号の歩兵一連隊編制表における1個大隊人員合計752名の内訳とほぼ 同一である(下士のみが1名少ない).また,1個中隊の合計人員184名の内訳も同歩兵連隊編制表の合計人 員184名の内訳とほぼ同一である.さらに,同編成表の備考においては,①従前の軍役における士官・下士 相当者を「士官心得」あるいは「下士心得」に命ずる(「心得」とは一時的に上級職務に従事すること),② 大隊長以下の職務においてはすべて勤務上の名義(大隊長心得,中隊長心得など)を用いる,③大隊長の判 定によって小隊長の職務を命ずる(下士の職務も同様),④時宜によっては下士の伍長を置かず,すべて上 等卒を同職務にあてることがある,⑤同編成表中の諸官は時宜により増減があり,職工については置かない ことがある,⑥士官に選ばれた者は軍装科として50円,下士兵卒は手当金として30円を支給する,⑦士官心 得以下の日給(大隊長心得は本官俸給の5分の3,士官相当者は少尉試補の本給,下士心得は本官二等給, 上等卒は近衛一等卒の本給,兵卒は鎮台二等卒の本給)を支給する,⑧出征を命ぜられたときは手当として 日給1ケ月分を支給する,⑨戦地H張中の士官は増俸として各日給の5分の3を,下士以下は各日給の4分 の2を支給する,⑲被服は,士官以上は自弁(ただし,洋服とし,色は紺又は黒等の無地品とし,帽子は陸. 59.
(13) 遠 藤 芳 信. 軍成規の略帽にする),下士以下は官給とする,⑪士官心得が欠乏し,やむを得ず下士心得が士官心得に命 じられた時には被服科として20円を支給する,と規定された.したがって,壮兵としての給与・待遇が,一 般徴兵出身の兵員等に比べて特別に厚く配慮されたということはない.. (34). 問題は,以上の新規募集壮兵の給与・待遇条件のもとにどれだけの志願者が出てきたか,ということにな る.壮兵の新規募集等が重視された山口県では,同県派出の内務省少書記官木梨精一郎から,すでに5月15 日に壮兵547名を陸軍事務所に渡し,5月31日現在で412名をまとめて陸軍事務所に渡し,さらに370名が集. 合する予定であると報告されている.(35)他方,山口県下からは時宜によっては新規募集の壮兵の大隊をさ. らに2個編成する予定もあった.(36)っまり,遊撃歩兵第四大隊,同第七大隊の編成の他にさらに1個大隊 を編成し,通計3個大隊になることも予定された.これは,4月当初の遊撃歩兵第三大隊に編入の壮兵新規 募集分の2個中隊の編成もあるので,山口県は愛知県以西で最多の壮兵を募集することになる.つまり,上 記の木梨少書記官報告の5月31日からの採用人員合計数(782名)を起算しても,残り1個大隊相当数の壮 兵を募集しなければならない.これらの報告状況をうけて,西郷中将は6月19日に,元兵役経歴者の応募不 足による大隊編成の遅れを危惧し,「旧藩ニテ調練銃ドリ等心得タル者採用敦シテモ苦シカラスニ付至急大 隊編制スヘシ」と木梨少書記官等に指示し,兵役経験の基準を横和し,大隊編成のための募集強化を督促し. た.(37)しかし,その直後,山口県下からの1個大隊の編成が充足することによって,また,6月28日に広 島県に対して壮兵1個大隊募集を指示したこともあり(遊撃歩兵第八大隊の編成),山口県下におけるさら なる三番目の大隊の募集の指示をとりやめた. 第四に,壮兵の新規募集応募者の志願・採用の手続きの問題がある.まず,陸軍参謀部は,上記のように 年齢オーバー者や兵役無経験者を採用しない方針をとっていた.その上で,志願者は履歴書を添え,1877年 1月29日陸軍省達甲第7号徴兵令参考改正の第9条に規定された親族及び区長・戸長の保証書を提出し,寄. 留者については身元引受人及び寄留地の区長・戸長の保証書を碇出させることを指令した.(38)っまり,徴 兵制の枠内における常備軍服役(現役服役)の志願・採用体制がすでに存在しているが故に,1877年4月の 壮兵の新規募集とは,応募者の資格を限定しつつも,徴兵制にもとづく現役服役の志願・採用手続きを大幅 に省略・簡略化した志願者採用という一面をもっているように見える.問題は,政策として壮兵を「募集」 する場合には,国家・政府が志願者応募を積極的に奨励・促進し,その「募集」に対応した国家・政府の責 任や手当にかかわる契約関係の発生がともなうことである.また,応募者としては当然に士族が想定される 問題がある.西南戦争における壮兵の新規募集においては,以上の志願・採用問題が明確に解決されていた とは考えられない.なお,陸軍参謀部の内部では,壮兵新規募集の際の応募者人選にあたり,4月27日に滋 野清彦陸軍中佐が和歌山県下派出の自江景由陸軍少佐に「旧士官下士之輩召募二応候者之内将来終身武官之. 望有之者而己人選之義二付御出発之際桂々御談致置候通精々御着手相成度」(39)と指示しているように,終 身武官志望者を優先的に採用する方針を立てていた雰囲気がある. (7)西南戦争終結後の壮兵解隊方針と再役志願制度の開始. 西南戦争は9月24日の最後の戦闘によって終結した.これに先立ち,壮兵の解隊時における幹部(戦役期 間に士官心得・下士心得に命じられた者)の扱い方が各隊で問題にされていた.たとえば,8月3日に鹿児 島所在の小沢武雄大佐は征討陸軍事務所の滋野清彦中佐・渡辺央中佐に,各旅団から遊撃各大隊付の士官心 得・下士心得の職務名義にある者で才能適任者はその「本官」に任用してよいか否かの伺いが出ているが,. どのように取り扱うべきかを照会している.(40). これに対して,滋野中佐等は翌4日に,平定後の解隊時に. 各人の志望によってさらに終身陸軍従事を願う者と願わない者とを調査して通知する「内定」を作成してい. るので,現在では本官に任用すべきでないことを回答した.(41)さらに滋野中佐は翌5日に小沢大佐に対し て,後備軍と遊撃隊の兵卒から下士への任用の可否に関する照会については,個人の見込みとして,「何分. 60.
(14) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(5). 難事」であり,やむを得ずして一時任用したとしても(本隊解隊日には解任の約束があるので)一般の下士 任用の成規に照らして不都合があるとした.そして,やむを得ず任用した場合には,平定後にさらに各自の 志望を調査し,陸軍従事希望者には再役下士の例にならって任用日から満3年を服役させることも考えられ. る,などと回答した.(42)ただし,以上の照会・回答においては,遊撃各大隊と称しても,臨時召集者編成 の大隊であるか,新規募集者編成の大隊であるかは明瞭でなく,壮兵解隊の全体方針も明確でない. 陸軍省の壮兵解隊時における幹部職務従事者の扱い方に対する基本方針は,士官心得・下士心得の職務を 免じたうえで,さらに,本人の志望にもとづき任用手続きに入るというものであった. その結果,第一に,後備軍及び臨時召集の壮兵に関して,10月1日陸軍省達乙第162号は各鎮台に対して「今 般鹿児島賊徒平定二付第一及第二後備兵並臨時召集ノ元壮兵ニシテニケ年間一人口下賜ノ者悉皆解隊申付候 条」として,各隊帰営のうえ,当該の鎮台・営所でただちに帰郷させることを指令した.ただし,下士以上 任用者に対しては追って何らかの措置があるので,当該鎮台・営所所在地に滞在させておくことと該当者名 簿の調製・提出を指示した.第二に,10月1日の指令と同時に,征討陸軍事務所から「壮兵解散手続書」(43) が鹿児島所在の渡辺央中佐にただちに伝えられた.これは,山口県・広島県・和歌山県から募集した壮兵の 解散手続きを規定したものである.それによれば,①士官心得・下士心得者も全隊解散の時はすべてその「心 得」を免じられたものとして認識すべきことを申し渡すべきこと,②士官心得・下士心得者でさらに陸軍従 事を志望する者に対しては,その願いを許可し,数ヶ月間戸山学校などに入校・修行させ,卒業後はその「材 幹」に応じて士官又は下士に任用し,下士任用者はさらに3ケ年服役させるので,解散時に志願書を碇出さ せて帰郷させること(士官心得者は年齢35年以下,下士心得者は年齢30年以下,すべて身体強壮者に限定), ③旧近衛兵解散も以上に準ずること,とされている.第三に,新撰旅団の解散における士官心得・下士心得 者に対する10月20日の陸軍省達号外がある.これは,上記の第二の「壮兵解散手続書」の①②③に近く,巡 査でさらに陸軍従事志望者に対しては検査合格の上教導団に入学させる(年齢25年以下)とした.第四に, 10月1日の指令をさらに具体化したもので,下士任用者のみの措置ではあるが,10月27日の陸軍省達号外に よって近衛局・各鎮台・教導団に指令された.つまり,常備兵と第一・第二後備軍兵及び臨時召集の元壮兵 で一人口下賜者の下士任用者をすべて免官にしたうえで,壮兵を除いて各自の元役に復させるとした.その 場合,下士服役志望者はその願いを許可してそのまま勤続させるとした.ただし,常備兵からの任用者は任 官当日より7ケ年間の服役,後備軍及び元壮兵からの任用者は任官当日より3ケ年間の服役とし,下士免官 によって元役に復した者はなるべく上等卒に採用するように取りはからうと指示した. 他方,西南戦争における多数の戦病死者発生によって,各鎮台の兵員の欠員発生は明確であった.これに. 対しては,①1876年の徴兵分については「臨時補欠」の措置をとり,(44)②1874年徴兵の満期者で再役志願 者には「人員ヲ不限許可可致」として(1877年10月30日陸軍省達号外),対処したものと考えられる.ここ で注目されるのは後者の再役志願を限りなく許可したことである.一般兵員の再役制度開始の詳細は不明で あるが,1875年6月13日太政官達第100号検閲便職務条例第1条において検閲の目的が「褒賞情願ノ事実ヲ 査確シ」と規定され,さらに第15条に「下士ノ中再役ヲ望願スル者」の書類点検(「第二節 部署ノ検閲」) が規定されていることにもとづき,おそらく一般兵員が兵卒としての再役を願い出るようになったものと考 えられる.そして,陸軍省は,最初の徴兵の1973年徴兵の常備役満期前に,1876年1月18日陸軍省達第4号 において「歩騎砲工輪重兵再役人員表」を示し,各鎮台に対して,各種兵卒の常備服役満期者で「再役」を 志願する者はさらに3ケ年間の再役を申し付けるので,志願者名簿を毎年の検閲便巡廻時に提出すべきこと を達した.ただし,本年満期の志願者について早々に調査して碇出することを指示した.本陸軍省達の再役 人員表によれば,兵種毎に許可人員(歩兵は280人,騎兵は8人,砲兵は72人,工兵は36人,輪重兵は14人) が示され,同再役3年満期後は後備軍編入を免じられるとされた.この場合,各年の徴集兵員は当初予定の. 61.
(15) 遠 藤 芳 信. 常備兵1ケ年徴集兵員数(1875年1月15日改訂の徴兵令附録「六管鎮台徴員並式」に規定)から当該兵種の 再役人員数を除いた人員とされた.再役制度は志願者側からみれば徴兵制の枠内の志願制度であるが,採用 者側からみれば,兵営内の兵員減少に対して,その減少をカヴァーするいわば調整弁・安全弁のような性格 をもっていたとみてよい.その後も,1877年12月に陸軍省は1875年徴兵で来春満期者に対しても再役志願者. の調査を進め,同志願者の多寡をふまえて来年度の徴兵数を算出する構えをもっていた.(45)また,一般兵 員の再役志願は検閲時における点検対象名簿として調製され(1879年9月太政官達第34号陸軍検閲条例第16. 条中の「下士兵卒再役志願者ノ人名録」),陸軍卿から許可されることになった.(46) 以上のように,1873年徴兵令から西南戦争前後までは,徴兵制下の過度期的兵員併用・供給構造の特質と して,壮兵の臨時召集と新規募集及び解隊・免役(特に戦役従事の元壮兵が下士等の下級幹部に志願し編入 させられた)とともに,徴兵制の枠内での現役志願制度と再役制度が発足したことが重要な意味をもった.. 注 (1)陸軍省編『陸軍沿革要覧 明治二十三年度』45∼45頁,1890年. (2)陸軍省編『明治軍事史』上巻,104∼105頁,1966年,原書房. (3)注(1)の46∼48頁. (4)宮内庁臨時帝室編集局編修『明治天皇紀 第二』727頁,()内は遠藤,1969年,吉川弘文館. (5)防衛研究所図書館所蔵 〈陸軍省大日記〉 中『明治五年 従正月至四月 御親兵掛』所収. (6)国立公文書館所蔵『公文録』陸軍省之部壬申自八月至九月,第4件所収. (7)近衛師団司令部編『近衛師団沿革史』3丁,1910年. (8)国立公文書館所蔵『太政類典』第二編第227巻第4類兵制26,軍功賞及他典二止,第3件所収. (9)上掲『太政類典』第「編第205巻第4類兵制4,武官職制四,第6件所収. (1q)拝(1)の49∼51頁. (川 前掲『公文録』1875年6月陸軍省伺附録上諸兵隊人員調査簿,第1件所収.近衛歩兵第一連隊の賞典米下賜対象者は892. 人(出身県別では,和歌山県158人,石川県137人,名東県130人,愛知県89人,敦賀県79人,岡山県54人,広島県49人,茨 城県30人,酒田県29人,佐賀県23人,飾磨県21人,鳥取県20人,他),近衛歩兵第2連隊の賞典米下賜対象者は1,087人(鳥. 取県225人,和歌山県181人,愛知県95人,石川県89人,広島県79人,酒田県59人,白川県52人,岐阜県51人,置賜県45人, 茨城県41人,佐賀県34人,新川県24人,渡会県22人,岡山県20人,他)とされている. (1勿 近衛兵等の徴兵・壮兵の編成替え関係は解明されてこなかった.1875年までは壮兵(鎮台から召集・入営)と賦兵(徴兵 令による徴集兵)が混合し,かつ同兵員数も一定せず,1876年に至り徴兵令上の定員をふくめて完全充足の2,688人が在役 することになっている.その後,1874年召募壮兵が除隊し,皆無になるのは1879年とされている.しかし,西南戦争後の11 月時点では,定員2,688名に対して,在営の壮兵は380名,同賦兵868名,同年定規編入賦兵538名,戦死及び負傷者1,219名, 補欠兵(臨時)1,282名となり,各鎮台からの補欠兵入営次第,ただちに壮兵380名を免役させることにした(前掲 〈陸軍省 大目記〉 中『明治十年十二月 大目記 陸軍省第一局』近衛223号所収,1877年11月15日付近衛都督代理野津道貫発陸軍卿 代理西郷従道宛の「近衛壮兵免役ノ件伺」参照).これにより,1879年を待たずにして,近衛の壮兵は皆無になるとされた. (1瑚 東京鎮台の歩兵補欠については,陸軍省は旧藩兵員数を指定して志願させる手続きをとっていたことが窺われる.たとえ ば,長野県参事は4月19口付で津打出陸軍大輔に対して,長野県では旧松代藩兵隊の中から「百十二名之志願者募集可相成」 のところ「精々撰択得ル所縫二九十名」であったと述べ,①志願の有無を問わず徴集すれば人員を満たすことは可能であり, ②他旧藩籍老中から撰挙すれば容易に補欠が可能であるが,どのようにすべきかを伺っている.これに対して津田は長野県 内の士族や元卒等から志願させて撰挙することを指令した(前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治七年 諸県』所収). (14X15)前掲『公文録』1874年12月陸軍省伺一,第23件,24件所収. (16)注(8)に所収.なお,賞典米下賜は同調査書の名簿記入漏れなどがあり,1877年頃まで続く. (17)注(川の『公文録』1875年6月陸軍省伺附録上諸兵隊人員調査簿,第1,2件所収. (咽 前掲〈陸軍省大日記〉 中『明治十年 鹿児島事件 徴募編制三 後備軍』第1号所収. (1切 目本史籍協会編『岩倉具視関係文書 第六』17頁,1969年,東京大学出版会復刻,原本は1934年. ¢ゆ 注(咽の第12号所収.. 62.
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