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耕地整理と一体的に実施された集落再編と治水対策 明治時代後期の在村地主による富山県舟川新集落における農業農村近代化の試み

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1.はじめに

1.1 本論の目的と研究方法 1975年,富山県下新川郡朝日町舟川新(Fig.1)の山 崎市次郎(当時 100 歳:以下,山崎と略記)に,茨城県 知事・岩上二郎注1)から感謝状が届いた。「全国に先駆け 耕地整理と集落再編成をされた事業は,茨城県にとって 多大の参考になった」という(前田)1)。集落第二の地 主(豪農)であった山崎は,第一の地主藤井十三郎(以 下,藤井と略記)の主導のもとに注2),明治 35~39 年 (1902~1906)に耕地整理を契機に集落再編を実現した。 我が国では同様の事例は希有であったため,農村総合整 備事業が緒に就いた 1970 年代に注目された。 舟川新の事績は,農村計画分野では笹野3),嘉手川4) 青木ら5)6),7)の研究によって知られている。しかし,既 往研究では具体的な技術内容や歴史的な意義に関する考 察は十分とはいえない。 舟川新の事例は,二つの側面から捉えることができる。 一つは,耕地整理,集落移転,河川改修等の地域の生産・ 生活に関わる物的基盤の整備。あと一つは,これに並行 して行われた生産・生活に関わる社会的装置・仕組みの

■論文

耕地整理と一体的に実施された集落再編と治水対策

明治時代後期の在村地主による富山県舟川新集落における農業農村近代化の試み

Integrated Farmland Consolidation Project Comprising Village Reorganization and Flood Control

Attempts of Agriculture and Rural Modernization in Funakawashin Village, Toyama Prefecture, by Landlords in a Village of Late Meiji Era

有田 博之

1*

Hiroyuki ARITA1*

Abstract:The farmland consolidation project in Funakawashin, Asahi Town, Toyama Prefecture, Japan was carried out in the late Meiji era. It garnered significant attention in the 1970s, as an example of village reorganization, when the rural comprehensive de-velopment project was about to begin. Two young large-scale landowners planned and led this consolidation project. The primary purpose of the farmland consolidation was to strengthen the production base of landowner management ; simultaneously, it also served as a hydraulic control measure by modifying river channels. The prefecture is located in the Kurobe River alluvial fan where flood control measures are indispensable for stabilizing agricultural production. Village reorganization was conceived in the context of improving agricultural production bases and hydraulic control measures. It was shown that the reorganization of villages helped to put in order agricultural land use, and simultaneously improved the convenience and comfort of agricultural production and liv-ing, and that the consolidation of cultivated land would be an opportunity to realize a physical plan for the village space. Techniques such as plot shape and topsoil handling adopted in farmland consolidation were creative and led the era. In this study, while focusing on the physical implementation of Funakawashinʼs land consolidation, settlement relocation, and river improvement carried out in an integrated manner, we consider their interrelationships and the significance of the project from the perspective of improving the physical infrastructure related to local production and living.

Keywords: Farm Land Consolidation, Reorganization of Settlement, River Improvement, Landlord in Farm Village, Late Meiji Era, Agriculture and Rural Modernization

キーワード:耕地整理,集落再編,河川改修,在村地主,明治時代後期,農業農村の近代化

1個人 1Individual

Corresponding Author* : [email protected]

Fig.1 舟川新の位置 Position of Funakawashin village

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整備である。両者は一体的に企画・実施されたが,本論 では,前者の生産・生活に関わる物的な基盤整備の特徴 について,耕地整理に併せて実施された集落移転,防災 対策(Table 1)との相互関連性をもとに考察し,舟川 新で行われた事業の背景・意義について論じる。 研究方法は,文献調査を基礎としたが,現地踏査や山 崎の孫・山崎久雄氏らへの聞き取り調査で確認した。 1.2 舟川新の位置・地理的条件 舟川新は,入善町との境界に接する黒部川扇状地東部, 標高 20~28m の扇端上部に位置し(Fig.1),南から北に 0.9%の勾配で緩やかに降下する斜面上にある。集落東 部には二級河川・小川の支川・舟川,西部には二級河 川・入川が集落を挟んで流れている。小川は舟川新の下 流部で接し,右に湾曲して舟川と合流する。また,耕地 整理前の入川は集落内で屈曲していた。このため,舟川 新の洪水危険性は高く,安政 4 年に舟川の大洪水に遭っ た注3)ほか,明治以降も度々浸水被害を受けている。

2.耕地整理

2.1 事業の立ち上げ 藤井は,福野農学校教頭・西村栄十郎の田区改正講演 を聴いて注4),事業を思い立った3),(以下,以前の引用 文献を示す場合,「前掲.3」等と表記):p.11)。当時, 藤井は 19~20 才であった。共鳴した山崎と共に富山県 に相談するが,当時は担当窓口がなかった(前掲.4: p.14)。藤井はこの後 2 年ほど東京の私立学校(農商務 省農務局10):p.78)に遊学し,測量学・数学注5)を学び, 耕地整理の知識も深めた(前掲.3:p.11)。 藤井は 1897 年に帰郷すると,短期の内に,山崎らと 共に集落移転と一体的に行う田区改正の計画案を固めた。 計画案は,集落青年層の支持を得るが,宅地移転につい ては抵抗が強く,田区改正にも反対する動きがあった (前掲.3:p.11)。これに対して藤井らは,各戸を説得し, 事業参加の誓約書を取り付け,1898 年 11 月には地主を 集めて田区改正・宅地移転の実施(前掲.8)を決定した。 帰郷後一年ほどの短期に,事業計画(Fig.2)作成と実 施合意まで進行した。事業が認可されたのは 1901 年で あり,田区改正事業は耕地整理事業となっていた。 2.2 耕地整理の背景 既往研究(前掲.3,4,5)では,耕地整理の背景とし て,圃場の物的条件・社会的条件に注目している。青木 ら(前掲.5:p.539)は,舟川新で耕地整理が必要となっ た理由として,①劣悪な耕地条件:耕土は 10cm 程度と 薄く,圃場面の凹凸が大きく,区画が狭小であるほか, 湧水による排水不良田が多かった。また,散居の屋敷林 は陰地を多く発生させた。②境界争い:河川氾濫によっ Table 1 舟川新の耕地整理に関わる経緯

Events related to Funakawashinʼs farmland consolidation

年月日 事   象 1874.08.18 山崎市次郎・誕生 1875.03.15 藤井十三郎・誕生 1894~1895 某日 西村栄十郎の田区改正の講演 藤井・山崎が上安原村見学 1895~1897 藤井氏・東京遊学 1898.11 耕地整理・宅地移転の決定 1898.11~1899.01* 幹線道路整備・着工 1899.01~1899.04* 幹線道路の側溝整備・着工 1899.04~1903.04 集落移転 1901 耕地整理事業認可 1902.03~1906.11 耕地整理・工事 1912.05.09 藤井十三郎・没 1913 舟川・河川改修 1976.03.27 山崎市次郎・没 *)竣工時期は不明だが,遅くともこの時期 藤井8),笹野3),嘉手川4),青木ら5)をもとに作表 Fig.2 舟川新集落の耕地整理前後の土地利用 Land use before and after farmland consolidation in Funakawashin village

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て耕地境界が流亡するため境界争いが絶えず,土地生産 性は低く安定性に乏しかった。筆者はこれらに加えて, 地主層の経営基礎の不安定化があったと考える。 富山県では,明治 19(1886)年には戸数 0.6%の地主 が 20%の農地を占有し,明治時代後半には小作地比率 は 50%を超えた。何れも全国有数の水準であった。し かし,地主の経営も不安定で,この間,激しい出入りが 見られた(朝日町12):440︲443)。一方,明治末期から大 正期には,資本主義経済は農村にも浸透し,兼業化の進 行と共に,他出傾向が進んだ。明治 45 年には,舟川新 の属した大家庄村では兼業農家率は 36%に達した。こ の値は,下新川郡管内では中位であった。また,現住人 口/本籍人口の比率(大正 9 年調査)は,朝日町地区で 81.9%,大家庄村で 75.6%であった。農村人口も変質・ 流動化し,農業労働力の確保も徐々に困難化していた(前 掲.12:446︲450)。耕地整理は,地主層にとって,経済 的基礎の安定化を目的とした事業であったと考えられる。 2.3 耕地整理に期待された効果 2.3.1 土地生産力 第一は反収の増加であったろう。明治初年の下新川郡 一帯の反収は県内でも低位にあり,最上位の礪波地区の 2.18石/反に対して 1.76 石/反と,1 俵(60kg)程度劣っ た(前掲.12:p.448)。舟川新は 1.86 石/反であり,郡内 ではやや上位であったが,湧水による冷水田・排水不良 田が地区の 65%と多く安定性に乏しかった(前掲.10: p.76)。藤井等が参考にした上安原村では,耕地整理に よって反収は 1.8 石から 2.1 石に伸びており,増収率は 17%であった(四月朔日13):p.79)。 2.3.2 農地面積 増反は増収に繋がる。舟川新のように周辺に開発余地 のない地区では,荒蕪地・沼沢地などの開田による増反 への期待は大きい。藤井等が参考とした上安原村の田区 改正でも田畑で 3.7%程度の増反があった注6)(前掲.13: p.79)が,舟川新ではそれ以上が見込まれた。 2.3.3 労働生産性 労働生産性を高める技術として明治農法を代表する乾 田馬耕がある。乾田馬耕は明治期に普及し,明治 37 (1904)年の全国の牛馬耕普及率は田 53.9%,畑 32.9% に達していた(清水14):404︲406)。富山県では普及は遅 れた(中西15):p.9)が,整形区画では効率が高まるため, 耕地整理が普及の契機となった(前掲.11:p.3)。営農 上確保すべき人員は,耕牛馬の希少地域では米作で 7 ~ 8人/反に対して,普及地域では概ね 5 人/反以内と,労 力節減効果は 2 ~ 3 人/反に及んだ(前掲.15:p.17)。 2.3.4 水源の強化・安定 散居集落では,農家は宅地周辺の耕地・水路を占有し たが,土地・水利に関する直接的関係は狭い範囲に限ら れた(橋本16):571︲572)。このため,従前は,営農・生 活の両面で用水に不便を感じることが多かった。水源を 安定・強化するには,集村化によって自村独自の水利系 統をもつことが求められた(綿貫17):p.9)。 2.3.5 境界問題の解消 度重なる洪水による耕地境界の不明確化に起因する境 界争い(前掲.5:p.539)に加え,小規模不定型な圃場は, 一筆が数十枚の区画として小作されていたため注7),面 積が不確定で,小作料の徴収に困難を来していた(前掲. 8:p.55)。これに対して,耕地整理は区画形状を規格化 し,測量で位置を確定するため,問題は解消される。

3.集落再編の一体的実施

3.1 既往研究における集落再編の理由 集落移転の理由として,笹野(前掲.3:p.11)は,山 崎からの聞き取りをもとに,碁盤目状の区画配置にする うえで散居という集落形態が障害であったとしており, これが既往研究の共通見解となっている注8) 障害は以下のように整理されている(前掲.6:p.541)。 ①農道の直線化は困難,②農道を直線化しても宅地と結 ぶ宅道が農地を分断する,③宅地・墓地等の地物が道路 を屈曲させ,④屋敷林が陰地農地を作る。 わが国では圃場整備と同時に集落再編をした事例は極 めて少ない。大半の事例は,工事に伴う補償等による小 規模な住宅移転や,集落機能の再編対策として既存集落 から離れた場所に移転する集落再編事業(過疎地域対策 緊急措置法,1970)によるものである。舟川新において も耕地整理の効果を高めるには集居とする方が効率的で あるのは確かだが,これだけでは住民の説得は困難であ ろう。黒部川扇状地の新田村・舟川新の固有の立地上の 特性との関係に注目する必要がある。 3.2 集落立地と耕地整理 舟川新は,元禄亥年(1695),隣村・二枚板の山崎・藤 田・藤井の三氏が草分けとして開拓した。開村当時は黒 部川の河原であり,整備前の地形は,付近の村より低いが, 中央部が「寄州が固化した如き,或は乱流の間に生じた 紡錘形」のような微高の自然堤防を形成していた。地区は, 乱流によって形成された凹凸が細かく入込む,通常の扇 状地より複雑な地形構造であり,用水路・道路・区画形 状等は全体として地形に依存していた(前掲.17:p.7)。 舟川新の従前集落は,凝集的散在(前掲.17:p.8)と

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表現される特異な形態であった。本来は散在していた住 居が,戸数増加に際して,地形的制約によって限られた 立地可能な場所に凝集したため,居住条件は村内一様で はなかった。集落中央部が高く居住地として最も好適で あった(前掲.17:p.8)が,複雑な地形条件の下で小作 農の宅地選択の自由度は低く,多くは大規模地主の住宅 周辺の劣悪な環境に居住した(前掲.17:p.9)。こうし たなかで,宅地と混在する介在的な農地が発生した。 舟川新では,固有の扇状地地形が集落・農地の形態に 支配的な影響を及ぼしたのである。集落用地を地区中央 部に生み出すことと整形圃場の形成は相互規定的な関係 にあった。このため,集落空間全体を対象として,地形 の凹凸・湾曲を修正・整形し,一体的に農地・集落を整 備する必要があった。 3.3 集落移転と水害対策 3.3.1 水害の常襲 舟川新は水害に悩まされてきた。扇状地を流下してき た小川は,舟川新の東岸を流下する舟川と集落下流部で 合流し,右方向に湾曲する(Fig.1)。また,耕地整理前 の入川は集落内で屈曲していた。こうした地形と河川配 置のため,安政 4(1857)年の大洪水被害に見るような, 洪水の危険性は高かった。これに対応するため,藤井等 は耕地整理に併せて入川の改修をした(前掲.8:p.54)。 また,1913(大正 2)年に舟川が氾濫した際,河川法 (1896)に基づいて河川改修をした(前掲.3:p.8)。 3.3.2 水害対策としての集落移転 富山県の扇状地では,水害を回避するための手段とし て集落移転が歴史的に行われてきた。庄川扇状地の砺波 平野での黒野ら18)の調査では,近世以来度重なる洪水に 遭遇しており,集落の流失に伴って移転・再建や他村へ の移住などが行われた。散居村地帯の列状村の多くは集 落移転によるものであった。舟川新は黒部川扇状地にあ るが,集落の自然的・文化的な立地条件は砺波平野と共 通性が高い。舟川新の集落移転も,扇状地における水害 防御の歴史との関連が注目される。

4.農家の反対

耕地整理の実施について計画段階で農家の反対があっ た。青年層も当初は計画案に賛同したが,間もなく反対 に転じた。反対理由について既往研究は農家の保守性を 指摘したもの(前掲.4:p.16)があるが,詳細な分析は ない。反対理由は,①資金,②技術,③換地,④地主・ 小作関係が想定される注9)。①②③は圃場整備事業内部 の問題であり,④は社会的背景の問題である。 4.1 資金面の問題 耕地整理だけでなく集落移転の費用も加わるため負担 感は大きく,事業費の調達・負担が不確定で,効果も不 確定であったため,農家は不安を抱いたと思われる。実 際,藤井は銀行の融資を得るため奔走しており,最終的 には資金繰りが旨くゆかず,増歩地を売却した。工事費 も平坦地と異なり傾斜・凹凸があり施工が困難であった ほか,礫の除去や表土扱い(表土を区画形成に先立ち脇 に寄せ,区画形成後に戻す)も加わったため,工事費の 見込みは困難で高騰が危惧された。藤井等に任せておく と土地を取り上げられるといった流言(水谷20):p.21) も,こうした事情を反映していたと思われる。 4.2 技術面の問題 技術面の信頼感は,直接に利用し経済的利害に関わる 農家にとって基礎的条件となる。戦後の圃場整備事業で 機械施工が始まった当初も,技術的信頼感は乏しく,多 くの地区で反対運動が起きた。舟川新でも,表土が薄い (前掲.3:p.12)ことなどから農家は減収を危惧し,施 工は試行錯誤的であった。表土扱い等では西欧農具のス コップを使用したほか,均平化等のための土砂・礫移動 にトロッコの導入等が試みられた(前掲.20:p.22)。 4.3 換地の問題 換地における農家の拘りは,基本的に①位置と②評価 において生じる。 位置に関しては,当時は従前地に原則として換地を定 める原地換地を基本としたが,舟川新では交換・分合を 活用して可能な範囲で集団化した(前掲.8:p.52)。こ のため,位置に関する不満は少なかったと思われるが, 宅地跡・荒蕪地・沼沢地などの開田地では,纏めて換地 する際にこれらの配分を受ける可能性があった。従前地 の条件が悪い土地の配分を農家は嫌ったと思われる。 通常,未整備であった地区の換地では,縄延びがなく なり,名目上の増歩になる。しかし,舟川新では,土地 評価を[評点×面積]とし,事業前後の総評点を一致 させる換地とした(前掲.3:p.14)ため,小作農は縄延 びの効果も内部化できないうえ,従前の総評点数と同じ 面積を借り受けることから,整備後の土地評価の全般的 上昇によって小作実面積が縮小する可能性があった。地 主層は増歩地の配分を参加面積に応じて受けることとし たため,小作層とは利害が異なった。 4.4 地主・小作関係 下新川郡一帯は,明治以降農民の争議が続いており, 小作農民と地主の緊張関係が社会的背景としてあり,状

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況は流動的であった。明治 2 年の農民一揆「ばんどり騒 動」のほか,その後も地主と小作人の衝突は大小様々に 継続した注10)(前掲.12:456︲459)。ばんどり騒動では 家・土蔵の焼捨や取毀が頻発した。下新川郡一帯は,小 作農の不満が社会化しやすい環境があった。耕地整理で は縄延びの解消等が小作人に不利益をもたらす可能性が あるため,小作人は反対側に与したと思われる。

5.移転集落の設計

5.1 列状村の選択 5.1.1 洪水に対する安全性 移転集落の形態(Fig.2)は,住宅を街路両側に配す る路村(上野21):p.44)に区分される列状村の一種であ る。黒野ら22)の調査では,礪波平野の散居村において河 川氾濫被害の回避策として集落移転をした事例の多くが 列状村で,河川から最も遠い位置を選定している。舟川 新が立地する小川・舟川流域でも河川に近い集落に列状 村が確認される。舟川新が列状村を選択したのは,地域 の先行事例を参考したものと思われる。 列状村の追加的利点として,黒野ら(前掲.22:p.214) は防災投資の縮小を指摘している。屋敷が相互に接して 並ぶ列状村では,洪水時に水に当たる屋敷辺は散居より 減少し,石垣等の防壁建設費は縮小する。 5.1.2 区画割り調整 列状村では宅地の配置順序が決まれば,沿接する道路 は一本であるため,区画割りの調整は容易であった。舟 川新では,住宅移転の位置選択は抽選で順位を決め,農 家は希望位置を当選順に選定した注11)(前掲.8:p.52)。 宅地の間口幅は,最小値は決めていたであろうが,住宅 ごとに異なることから,希望が集中したところは抽選後 に調整が行われたと思われる(Fig.3注12))。道路左右の 宅地数も異なるが,藤本ら(前掲.6:p.542)は,新設 道路を基準として旧宅地と同じ側に選定された可能性を 指摘している。また,住宅移築の移動距離を小さくした いという意向が働いた可能性も考えられる。 5.1.3 利水上の利便 従前には,用水には不便を感じていたが,集村化に よって自村だけの水利系統をもつことができた(前掲. 17:p.9)。列状村の直線水路では,構造が賢固となり延 長も短縮するため維持管理労働が節減されるほか,流水 が一本の水路に集中して流量が安定・豊潤化するため生 活用水以外の多様な利水注13)が可能となる。集落移転前, 農家は湧水に依存していたが,移転後は流水を生活用 水・農業動力用水等として利用した(前掲.7:p.544)。 5.2 移転集落の位置 移転集落は,集落中央を南北に貫通する位置に配置さ れた(Fig.2)。既往研究は位置を,「図面上で機械的に 決めた(前掲.5:p.540)」としたが,地形的な理由が背 景にあった。また,洪水災害の視点に立つと,地区の東 西を北流する舟川・入川に並行し,集落内で両河川から 遠い位置でもある注14)。これは,砺波平野における集落 移転事例でも,屋敷地を村落領域のなかで河川から最も 遠い位置に立地させている(前掲.22:p.214)のと一致 する。機械的な作業ではなく,多様な配慮が窺える。 5.3 幹線道路の整備 集落の中央を貫く幹線道路は,幅員 1.5 間注15)(2.7m)・ 延長 320 間(576m)とし,道路両側に 0.4 間(0.72m) の用水溝注16)を沿わせた(前掲.8:p.52)。また,両水路 外側に将来の道路拡幅用地として幅 0.5 間注17)の宅地を 配し,全幅で 3.3 間(5.94m)を確保した(Fig.4)。予備 地を確保したのは,運搬手段や交通量の変化による拡幅 の必要性を考慮したと思われる。計画時に合意が得られ ず,やむを得ず採用した妥協策と思われるが,藤井・山 崎が長期的な視野のもとで事業を計画していたことを示 している。

6.耕地整理事業の実施

藤井・山崎は上安原村の田区改正事例等を見学した (前掲.10:p.75)。上安原村は,規模が 60ha と舟川新 63haに近く,村を単位として実施された点で類似性が 高い。しかし,4 ヶ月未満(明治 21 年 3 月~ 6 月)で 綿貫17)・笹野3)をもとに作図 Fig.3 舟川新における移転当時の宅地配置 Residential land layout at the time of village relocation in Funakawashin

Fig.4 幹線道路・水路の敷地計画 Site plan for trunk road and waterways

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工事を完了し,費用の大半が労賃(前掲.13:p.77)で あった上安原村と,3 年を要し多様な費用を必要とした 舟川新は地区の状況が異なっていた。犀川下流の沖積平 野上の上安原村は耕土が肥沃であったが,黒部川・小川 の扇状地上の舟川新の耕土は貧弱であった。先進事例の 機械的な適用では舟川新の課題解決は困難であった。 6.1 事業における創意・工夫 6.1.1 圃場システム 区画(耕区)を 10a(10 間×30 間:18m×54m)とし, 幅員 1 間(1.8m)の農道を圃区毎に設け,用排兼用水路 を沿わせた(Fig.5)。平坦地・上安原地区の石川方式(6a 区画)の圃場システムを参照しながら,地区の地形条件 等を考慮した独自の工夫が見られる。 区画の規模・形態は石川方式と異なり,農道配置密度 を減じたほか注18),水路は用排分離とせず,区画形状は 今日の圃場システムの原形である鴻巣方式と同じである。 鴻巣方式の開発は舟川新の事業開始と同年(1902 年) であり,「耕地整理講義」25)出版 3 年前であるのを考慮す ると,高い技術対応力が認められる注19) 6.1.2 表土扱い 表土扱い注20)を行った(前掲.3:p.12)。表土扱いとは, 耕地の土壌を保全するため,施工時に先ず表土を剥いで 脇に寄せ,区画整形後に戻すものである。先行事例の多 くは平坦地で表土も厚く,表土扱いはなかったと思われ るが,表土が薄く,礫の多い扇状地では必須であった。 表土扱いの費用は田面掻均工(Table 2)に計上されて いる。凹凸地形の均平工や資材・人件費の上昇に加え, これが事業費増高の要因の一つとなったと考えられる。 6.1.3 施工区の設定 地区を 30 施工区に区分し,関連農家がこれを単位と して工事を進めた(Fig.6:前掲.4:22︲23)。利点は, 次の 2 点にあったと思われる。①表土が薄いため広域を 一括施工すると,表土移動について利害対立の生じる恐 れがあった。②事業は 3 年の長期に亘ったため,農家は 営農しながら施工する必要があったが,工区設定は労力 配分を計画化・効率化したと思われる注21) 6.1.4 密集地換地 換地は,ある小作者の小作地が集中する区画を当該小 作者の換地とし(密集地換地),換地は新規区画を単位 として交付した(前掲.8:p.55)。土地所有ではなく, 借地を基準とした換地であった点でも注目される。 6.1.5 河道修正 入川の河道修正を耕地整理事業の施工において先行的 に実施し,屈曲を緩和した(前掲.8:p.54)。周辺集落 との調整は困難であったと思われるが,生産力の安定化 にとって治水は最優先事項の一つとして実施した。 6.2 事業の効果 農家が耕地整理に期待するのは生産力の向上である。 生産力は,農地面積の増加(増歩)と土地生産性(反収)・ 労働生産性(能率)の向上によってもたらされる。 6.2.1 増歩 地租が税収の多くを占めていた初期の田区改正・耕地 整理にとって,増歩は国・土地所有者にとって大きな関 心事であった注22)。事業によって畑も田とされたため, 田は 22.50ha 増歩し,畑は 0.54ha 減歩した。田の増歩率 は 35.6%に及んだ(Table 3)。増歩の原資は,縄伸びの他, 道路・水路・池沼及び山林原野であった。農地内の土地 Fig.5 舟川新における圃場システムと石川方式

Paddy field system in Funakawashin village and in Ishikawa

笹野3)をもとに加工・引用

Table 2 舟川新の耕地整理費用内訳 (円) Breakdown of farmland consolidation cost

費 用 計画 ① 実績 ② 差額②-① 道路・水路 4,859 4,859 0 暗渠 53 154 100 田面掻均し 7,139 10,622 3,483 橋梁 0 309 309 創業費 356 169 -187 雑給・雑費 172 882 710 予備 80 0 -80 合 計 12,658 16,994 4,336 *)円未満は四捨五入 嘉手川4)をもとに加工・引用 嘉手川4)をもとに加工・引用 Fig.6 耕地整理の施工区

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利用が効率化されたほか,未利用地が農地化された。 6.2.2 反収増加 事業実施前に 1.86 石(270kg)/10a注23)であった地区の反 収は,1906年には2.21石(332kg)になった(前掲.10:p.76)。 増加率は 23%で,上安原村の 16%(前掲.12:p.79)を上 回る。1880 年代の富山県の反収は 260kg/10a の水準で北 陸 4 県のみならず全国でも高い地位にあった(田林27) p.237)が,これと比べても 72kg/10a 程多い。 反収増加の主要因は乾田化であった。農商務省農務局 (前掲.10:p.78)は,整理前の舟川新は「排水悪しき為 裏作として紫雲英を栽培し得へき田地は…6 町餘に過ぎ ざりしも…排水完全なるに至らは 50 町歩に逹すへし」 と述べている。レンゲ栽培は肥料代節減にも繋がった。 6.2.3 労働生産性の向上 労働生産性の向上は,自作地主・小作経営者にとって 労働力不足の改善や,副業機会への対応を可能とする。 藤井(前掲.8:p.59)は耕地整理による労働節減効果 として Table 4 を示した。3 ~ 4 人/10a/年程度(22~ 29%)が削減されている。乾田馬耕・正条植えによる能 率向上と,畦畔面積の減少が寄与したことを伺わせる。

7.耕地整理と河川改修の一体的実施

藤井等は圃場整備と地区内の小河川・入川の河道改修 による治水対策を一体的に計画・実施(前掲.8:p.54) した。耕地整理を核とする事業は,生産力の向上・安定 化を図ると共に注24),生活面の安定性確保も目的とした。 住宅・農地の水害防止を図るには,治水対策を圃場整備 に併せて実施する必要があった。地形条件の制約や隣村 との調整等を伴う私人の改修には自ずと限界があったが, 河道の屈曲は大幅に緩和された(Fig.2)。 その後,耕地整理完了後の大正 2(1913)年に舟川が 氾濫した際,耕地整理時には資金面等でできなかった堤 防の嵩上げを目的とした河川改修を,山崎の主導で河川 法(1896)に基づき,地区上下流を含む延長 1,200m で 実施した注25)(前掲.3:p.8)。資金面で苦労したなかで, 当時は負担金が生じた河川改修をしたのは,生前の藤井 と共有したであろう洪水防止が舟川新の生産・生活の生 命線とする認識が山崎にはあった。改修では,隣接部落 との対立を生み,主導した山崎は生命の危険にも遭った が注26)(前掲.3:p.13),工事を完了させた。

8.おわりに―総括と評価―

8.1 耕地整理を契機とした総合開発 舟川新の耕地整地における移転集落の実施・位置選定 の背景には,農業生産力の改善と共に地域の災害防除の 戦略があった。舟川新の事例は,生産性を向上させるう えで耕地整理と集落再編成・河川改修を一体的に実施し た総合性に特徴があり注27),これらが集落空間のフィジ カルプランを実現し,農業生産・生活面での利便性・快 適性を高めた点に大きな意味がある。河川法(1896)に よって河川管理方式は従来の低水対策から高水対策に移 行するが,耕地整理計画当初からこれも踏まえていたと 考えられる。舟川の河川改修は藤井の生前には着手され なかったが,山崎が引継ぎ,総合的な事業を完成させた。 8.2 高い技術構成力 舟川新の計画の特徴の一つは空間把握の独自性にあり, 地域を総合的に捉え,必要な手段を有機的に構成した。 集落移転が不可欠であったのは固有の凝集的散居形態に 起因していたが,多様な地域課題を総合化した構成力に は驚かされる。江戸時代後期から耕地整理技術の多様な 試みがあった(小川30):162︲203)ことや,二宮尊徳の 事蹟などは藤井等にインスピレーションを与えた可能性 があるが,土地利用の整序化を図るための集落再編成な どの発想には固有の飛躍がある。こうした能力の源泉を Table 3 耕地整理前後の土地利用 (10a)

Land use before and after farmland consolidation

地 目 施工前 施工後 増加面積 田 626.217 851.204 224.987 畑 5.426 0.016 -5.410 道 路 209.527 21.821 -131.796 水 路 33.206 池 沼 0.3 堤 防 22.404 宅 地 51.518 44.517 -7.001 山林原野 81.622 0.315 -81.307 墓 地 0.621 1.2 0.579 社 地 1.803 1.821 0.018 合 計 976.804 976.734 -0.07 *)合計値の施工前後の差異は誤差 笹野3)をもとに加工・引用 Table 4 耕地整理後の労働節減効果 Labor saving effect after farmland consolidation

作業種 従前①10a当たりの員数(人・頭/年)整備後② 差①-② 耕起・整地(人) 3.16    同上(馬) 1.05 0.7 0.35 除草 3 2 1 灌漑等の管理 0.8 0.5 0.3 刈り取り・収穫 5.7 4.9 0.8 植え付け 2.77 1.75 1 合計    (人) 15.43 11 3.44       (馬) 1.05 0.7 0.35 *)藤井8)をもとに作成。増減・合計が一致しない部分は原 典転載時の誤記と思われるがママとした。 ⎫ ⎜ ⎜ ⎬ ⎜ ⎜ ⎭ ⎫ ⎜ ⎜ ⎬ ⎜ ⎜ ⎭

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辿る情報はないが,藤井家が測量技術に関わる家系で あったことも関係したのではないかと想像される。測量 技術者がもつ地域の地勢や空間構造に対する直観が,舟 川新の計画に影響したのではないだろうか。 8.3 技術開発費等の負担 事業費確保に藤井等は苦労した(前掲.3:p.13)。理 由として物価の高騰注28),施工の困難,集落再編関連費 用の発生等が考えられるが,耕地整理で他地区と異なる のは表土扱いや均平化等の未確立な技術に対する,現場 の工夫・試行錯誤が不可避であったことである。舟川新 の事業費高騰は,技術開発費用も事業内で負担していた ことにも起因すると考えられる。また,入川の河道改修 は今日では公共事業となるが,当時は地元負担であった。 農商務省農務局の耕地整理事例集(前掲.10)は,舟 川新の評価に関して入川の改修や表土扱い・均平工の課 題については触れていない。現場で生じる具体的な技術 課題への国の関心は薄い。こうしたことが,技術開発・ 費用負担改善を遅らせた一因になったと思われる。 8.4 地主主導の耕地整理 舟川新の耕地整理事業は,寄生地主化が支配的となる 前の段階における,在村の豪農層が村の生産力の増強・ 安定を目的とした事例として注目される注29) 当時,自作地主層の経営は不安定化していた。資本主 義経済の伸展に伴い農民の流動化注30)と労働力減少・労 賃上昇などが進み注31),雇用労働力を必要とする地主層 の自作継続は困難化した(前掲.32:p.44)。舟川新の耕 地整理を基軸とする試みは,地域の生産力向上を基礎と した藤井等地主層の生き残りをかけたものであった。 一方,当時の地主(豪農)主導の計画には,理念性や 理想主義的な傾向が伺える。秋田県千畑村で耕地整理に 併せて集落中心から放射状街路を形成した坂本理一郎 (千畑村)34)が一つの典型だが,藤井・山崎も私財を投げ 打っても長期的・計画的に集落を整備しようとした点で 共通する。こうした視点からの研究は,従来と異なる地 域形成の側面を我々に示す可能性がある。 謝辞 現地調査では,山崎久雄氏及び朝日町・あさひふるさと体験 推進協議会の上澤聖子氏の支援をえた。記してお礼申します。 注釈 注 1 )1959~1975 年在職。「農工両全」の地域開発を目指した。 注 2 )藤井家は,水田 15.5 町歩を所有する部落一の地主で, 村の総代を務めた。山崎家は藤井家に次ぐ水田 6.2 町歩を 所有する第 2 位の地主で,糀商の商家でもあった。両家は 大半を小作に出していたが,合計田2.5町歩を自作(桜井2) p.19)していた。生年は山崎が一年早いが(Table 1),部 落内の実権は藤井が圧倒していたであろう。一方,二人は 地元・大家庄小学校の同期であり,気心は知っていた。 注 3 )安政 4(1857)年の舟川洪水で変地(土地の状態が著し く変化し不毛化)となった舟川新の測量図(新川郡五ケ庄 組舟川新村領舟川縁古田変地所縄入之図,1857)が残る。 注 4 )西村氏の教頭在任期間は明治 27(1894)年 10 月~28 (1895)年 10 月であるため9),藤井が講演を聴いたのは, 明治 28~30(1895~1897)年の東京遊学前の明治 27~28 (1894~1895)年と考えられる。 注 5 )藤井の 4 代前の辰右衛門は,伊能忠敬と同時代の高名な 富山藩の測量家・和算家である石黒信由の門下生であった (まいぶん KAN11):p.2)。藤井はこうした環境に育った。 注 6 )上安原の田区改正の始発は,石川郡立模範農場の試験結 果に基づくが,安達敬之石川郡長は特に 7.8%の増歩率の 大きさに注目した(前掲.13:p.80)。 注 7 )同様の圃場形態は地滑地帯の棚田などで典型的に現れる。 注 8 )綿貫(前掲.17:p.9)は,物資集散時の運搬の不便解消, 積雪期における浄土真宗の宗教的集会「お座」への老幼者 の参集の利便性向上を挙げているが,要因としては付随的。 注 9 )反対理由の一つとして,祖先からの屋敷地を換え,屋敷 林を切ることの苦痛に求めるもの(前掲.17:p.9)がある。 礪波平野の事例から推測すると,屋敷林を備えていたのは 地主層の住宅で小作層はなかった可能性が高い(村松19) p.290)。指導者の藤井が率先して屋敷林を提供したことは 地主・小作間の対立感情を沈静化させたと思われる。 注10)明治 30 年代には米騒動,大正 13(1924)年には大家庄 横水で小作調停法適用第 1 号となる争議,大正 15(1926) 年には舟川新で年貢引き下げの大規模小作争議が勃発。 注11)ただし,従前の底地所有者が宅地化を望んだ場合,これ が優先された(前掲.5:p.540)。 注12)不明の 2 戸は除かれている。共同浴場の位置は移転宅地 と重なるが,既報論文のままとした。 注13)耕地整理工事の終える前年(1905)に,防火用ポンプを 購入し防火用水として利用。昭和初期には,流水でタービ ン水車を稼働して脱穀(前掲.7:p.544)。1970 年の調査時 (前掲.3),水路は流雪溝として利用。 注14)舟川・入川の河床は高く,堤防内には微耕地もなく平坦 であったため地形上の立地選択の条件は乏しい。しかし, 山崎久夫氏の話では,集落移転後何度か舟川・入川の氾濫 を経験したが,何れも一部農家の床下浸水程度に止まった。 注15)笹野(前掲.3:p.11),嘉手川(前掲.4:p.19)は 2.5 間 としているが,現地踏査をもとに 1.5 間と推測した。2.5 間は拡幅用地を含む値と考えられる。1.5 間は道路法街路 構造令(1919)・ニ等小路に該当。1910 年代以降に都市部 で進む耕地整理法を使った土地区画整理での支線道路・幅 員 2 間(名古屋市東郊耕地整理組合23):p.70)より狭い。 注16)笹野(前掲.3:p.11)は 0.5 間(0.9m)としたが事業を 実施した藤井(前掲.8:p.52)にしたがった。 注17)地籍図(昭和 59 年以前)では,幹線道路(赤線)両側 に水路(青線)が配置され,その両外側に分筆された宅地 がある。土地台帳では,宅地は大正 3 年に最初の登記がさ れ,道路拡幅時の昭和 25 年に分筆され,0.5 間幅の用地が 提供された。地元古老の話では,宅地として登記していて も道路拡幅用地とすることは集落で合意されていた。分筆 に際して売却価額が生じていないこともこれを裏付ける。 注18)圃区毎の農道配置は工区長辺方向の段差に対応し,用排 兼用水路は傾斜地では用地の節約となる。地形条件と圃場 システムとの関係は有田・木村24):20︲33 を参照。 注19)舟川新は,富山県農会の模範耕地整理地区(明治 34 年) に指定された(前掲.4:p.21)。また,明治 40 年の農商務 省主催・全国審査会で鴻巣地区に次いで 2 位となった。 注20)表土扱いでは,舟川新はスコップの使用やトロッコの導

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入など独自の工夫をした。表土扱いの技術基準の提示は, 第二次大戦後(農林省農地局・農政局26):p.193)。 注21)上安原地区の田区改正が作付け前の 4 ヶ月弱(3 月 5 日 ~ 6 月 28 日)の短期に工事を終えたのとは異なる状況で の事業持続策であった。集落移転と耕地整理を並行する状 況では,農家の労力配分にも有効であったと思われる。 注22)高多久兵衛の田区改正で増歩が大きいことを当時の石川 県知事は評価した(前掲.13:p.80) 注23)米 1 石=150kg で換算。嘉手川(前掲.4:p.37)は 1.530 石/10a としたが,農商務省農務局(前掲.10:p.76)を採用。 注24)扇状地の新田経営は河道の安定化と結びついている(黒 野・菊地28):p.123)が,治水の重要性を唱導した富山県の 自由民権家・稲垣示(1849~1902)の影響も考えられる。 注25)河川法(1896)は,治水対策を,旧来の低水工事中心の 「預防ノ工」から,「防御ノ工」である高水防禦工事(山本・ 松浦29):p.56)に変更。Fig.2[整備後]で計測すると舟川 の地区内延長は 720m 程で,残り 500m 程度は地区外上下 流に及んだことが事業調整を困難化したと思われる。 注26)農民の多くが自由民権運動の影響を引き継ぎ政治的で あった。富山県出身の稲垣示・杉田定一らは北陸地方の自 由民権派を「北陸七州有志懇談会(1883 年)」に結集した。 注27)総合性は耕地整理事業の論理の中からは得られない。農 商務省農務局(前掲.10:p.79)の舟川新評価でも,河川 改修や集落移転については補論で触れるに止まる。 注28)上安原村の田区改正(1887 年)時の人夫賃金は 10 銭/日 (前掲.13:p.72)に対して,舟川新(1902 年)では 25 銭/ 日であった(前掲.3:p.12)。単純比較はできないが,15 年間で 2.5 倍である。この間の年率物価上昇率(花輪31) p.4)で試算すると,1902 年は 1887 年の 1.7 倍。 注29)初期の耕地整理事業は,酒匂常明の方針もあって(大鎌, 1976:p.54)33),地主層が主導した(今村ほか32):p.45)。 主導者は以下の二種に区分できる。①藤井や秋田県千畑村 の坂本理一郎(前掲.34)等の大規模地主,②鴻巣町常光 村聯合耕地整理地区(前掲.10:4︲23)等の中小地主。 注30)舟川新の離村農家は明治 40 年代に全 54 戸中 10 戸に及 び(前掲.4:p.50),一部は北海道に移民した(前掲.3: p.15)。北海道移民は北陸地方で広く行われ,明治 35~44 (1902~1911)年に富山県が全国最多(前田35):p.7)。 注31)鴻巣町常光村聯合耕地整理地区では産業振興による労力 減少,労賃上昇等が農業経営を圧迫した(前掲.10:p.5)。 引用文献 1)前田英雄(2003):100 年前の富山県舟川新の農村整備事業, 農業と科学,544,6︲10. 2)桜井武雄(1974):農村計画の先駆的業績―富山県舟川新 の集落改造事業―,茨城県田園都市協会,水戸. 3)笹野伸治(1971):富山県舟川新地区の耕地整理事業につ いて,農業土木学会誌,39 ⑿,7︲15. 4)嘉手川暁(1971):宅地移転による集落計画の研究―富山 県朝日町舟川新の場合―,東京工業大学工学部建築学科 1970年度卒業論文. 5)青木志郎・藤本信義・嘉手川暁(1972):耕地整理事業に ともなう集村化計画について―富山県舟川新地区における明 治時代の集落再編成 1―,1972 日本建築学会大会講演梗概集, 5056,539︲540. 6)藤本信義・嘉手川暁・青木志郎(1972):集村化計画にと もなう部落組織の変化と空間対応―富山県舟川新地区におけ る明治時代の集落再編成 2―,1972 日本建築学会大会講演梗 概集,5057,541︲542. 7)嘉手川暁・藤本信義・青木志郎(1972):集村化計画にと もなう集落空間の変化について―富山県舟川新地区における 明治時代の集落再編成 3―,1972 日本建築学会大会講演梗概 集,5058,543︲544. 8)藤井十三郎(1906):耕地整理事業報告―大家庄村大字舟 川新外五大字村耕地整理事業報告―,(『嘉手川(前掲.4)』), 52︲59. 9)富山県立福野高等学校同窓会(1970):沿革概要,会員名 簿昭和四十四年,p.3. 10)農商務省農務局(1907):耕地整理事例第 1 輯,農商務省 農務局,東京. 11)まいぶん KAN(2011):朝日町の偉人―明治の大事業 舟 川新耕地整理―,企画展資料,朝日町. 12)朝日町誌編纂委員会(1984):朝日町誌・歴史編,朝日町. 13)四月朔日良秀(2007):石川県上安原耕地整理史の予備的 研究⑵,新潟産業大学経済学部紀要,35,71︲86. 14)清水浩(1953):牛馬耕の普及と耕転技術の発達,(農業発 達史調査会編,『日本農業発達史 1』),中央公論社,東京, 289︲483. 15)中西僚太郎(1994):明治前期における耕牛・耕馬の分布 と牛馬耕普及の地域性について,歴史地理学,169,2︲22. 16)橋本征治(1969):散居村における社会構造の地理学的研 究,人文地理,21 ⑹,547︲574. 17)綿貫勇彦(1935):黒部扇状地の計画的集村,聚落地理学 論文集,2,1︲11. 18)黒野弘靖・菊地成朋(1998):村落と屋敷の対応関係から みた散村の構成原理―砺波散居村における居住特性の分析  その 2―,日本建築学会計画系論文集,507,151︲155. 19)村松繁樹(1953):砺波平野の散村三論,人文研究,4(3 の 2),273︲292. 20)水谷たけ子(1989):富山県土地改良偉人伝・藤井十三郎, 圃場と土壌,239,19︲24. 21)上野福男(1967):農山村(木内信蔵編,『都市村落地理 学』),朝倉書店,東京,26︲99. 22)黒野弘靖・菊地成朋(1999):列状村の集落空間とその水 系・ミチへの連関―砺波散居村における居住特性の分析 そ の 3―,日本建築学会計画系論文集,520,213︲217. 23)名古屋市東郊耕地整理組合(1934):解散ニ因ル事業報告 誌,名古屋市東郊耕地整理組合. 24)有田博之・木村和弘(1997):持続的農業のための水田区 画整理,農林統計協会,東京. 25)上野英三郎(1905):耕地整理講義,成美堂書店,東京. 26)農林省農地局農政局(1967):圃場整備の進め方,地球出版, 東京. 27)田林明(1984):北陸地方における稲作の地域差,筑波大 学人文地理学研究,8,235︲263. 28)黒野弘靖・菊地成朋(1995):村落形態の分類とその領域 構成―砺波散居村における居住特性の分析 その 1―,日本 建築学会計画系論文集,477,117︲124. 29)山本三郎・松浦茂樹(1996):河川法の成立と河川行政⑵, 水利科学,40 ⑷,51︲78. 30)小川誠(1953):耕地整理事業の胎動,(農業発達史調査 会・編,『日本農業発達史 1』),中央公論社,東京,153︲289. 31)花輪俊哉(1972):わが国物価の歴史的分析,生命保険文 化研究所論集,23,1︲13. 32)今村奈良臣・佐藤俊朗・志村博康・玉城哲・永田惠十郎・ 旗手勲(1977):『土地改良百年史』,平凡社,東京. 33)大鎌邦雄(1976):明治後期における耕地整理政策の展開, 農業総合研究,30 ⑶,47︲90. 34)千畑村郷土誌編纂委員会(1986):東嶽翁,『千畑村郷土誌』, 千畑村,891︲896. 35)前田英雄(2005):富山の関東・東北移民と北海道移民, 農業と科学,563,6︲10. (2020.9.24 受理,2021.2.21 採用)

Table 2  舟川新の耕地整理費用内訳 (円)

参照

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