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家庭における所得形態の史的研究-II : 賃金生活者家庭における所得形態の推移について(1)

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(1)家庭における所得形態の史的研究-1Ⅰ. 賃金生活者家庭における所得形態の推移について(1) 相 A. Study. Historical Tbe. 馬 the. on. transition. Form. form. of the. 子*. 信. of wage. Family. of. Earnings-II.. in. of earnings. bone. the. earners-(1). Nobuko. SoMA. SUA(MARY The level of laborers in our was determined by wage country originally living in farming Lifein the the the of villages. agricultural standard districts, on level based, led in poverty, the laborers'wage was which and it was farmers to maintain hardly possible for the greater part of tenant even the lowest standard of living. Wage. earners. utter. such. those. understand forth. low. the. the. reasons. Tbe produced. sprang. destitution. why. in level. of this aim these wage. thesis,. their living and bow earned in their household budgets. This to thesis also aims and. earners. of. our. It numerous. mainly. the. country, must. in飢1enCe which. be. was. mentioned. were. therefore, and. earners. were. they. make clear they exerted developing as that,. of Home. Economics). country. from. the on a. the. bee.ause. of. we. to. are. brought we. pursue. off.. era. circumstances how pursuing. to era,. their. role played the industry. capitalistic problem. to. which that. essential. clarify the labor by cheap. settled,. as. class if and,. is to. their. elements wbic血are llnrelated from the vieⅥrpoint of 〃earnings. *家政学教室(Dept.. of our it is. badly. so. peasantry. confined,. characteristic laborers, these. of farmers. tenant. the. among. they. which. conditions. wage. from. up. of. economics, in the family''・. by and. wbicb farmers. ca血accounts the. low. national. wage. life. nation. contains dealt it is here wages. in. it. with.

(2) 相. 96. 馬. 目 ほ. 子. 倍. 次. じめに. Ⅰ. わが国における賃労働者家庭の発生とその特徴. 1.農村の分解過程における農民の生活と貨幣所得 2.賃労働者発生の基盤としての日本農業の特殊性 Ⅱ. 低賃金と明治以降の経済政策(上) 1.農村の生活と低賃金 2.低米価政策と家計の実態. ま. と. め. は. じ. め. に. 前稿1)においてわが国の農耕家庭が権力規制のなかでいかに貧しい生活を営んできたか, またその貧しい生活の中で農民が稼得をどのように工夫し,生活を維持してきたかについ て触れておいた。 農耕生活ほ自然的条件に左右される.その上わが国においては過酷な貢租により農民は 経済的には生産費をも回収出来ないという,絶対値がマイナスになるか,あるいはそれに きわめて近い条件のもとで生活を強いられてきた。このマイナス要田に対する農民の積極 的努力と工夫が農耕生活のなかに家内手工業を発生させたもので,農民が貨幣経済に近づ くことを阻止されればされるほど家内手工業は農家における貨幣収入の担い手になるとい う矛盾の中で発展してきたのである。 そうした農村社会を背景に農民層の中から賃労働者が出てくるのであるが,本稿におい てほ,農村に貨幣経済が浸透してゆく過程における農民生活の状態と,賃労働者発生の特 殊な事情,および賃労働者の所得に関する基本的な二,三の問題について考えてみたい。 Ⅰ. わが国における賃労働者家庭の発生とその特徴. 農民の経済生活の中で,貨幣需要が次第に多くの割合を占め,それにつれて農民の生活 様式も意識も変ってゆくのであるが,長い間に培われた農民的資質はたやすく変りうるも のではなく,その後の国民生活全般に多くの影響を与えている。 しかしここでほ賃労働者家庭の母胎としての農村生活の実状を,農家の家計を中心に考 えてみたいと思う。. 1.農村の分解過程における農民の生活と貨幣所得 農村の近代化過程において農民の生活に貨幣はどのように関与したか,それを明らかに するた捌こ, と、したか,. (1)農村に貨幣ほどのようにして入ってきたか,. (2)農家ほなぜ貨幣を必要. (3)それほどのように使われたかなどの点を中心に考えてみたい。. 1)本学人文紀要第一類,第十七輯1971。.

(3) 家庭における所得形態の史的研究-. 97. II. (1)農村に貨幣が入ってきた客観的社会的要因を,その重要度から見ると,第1に小 作料の金納化であり,第2に生産物の商品化である.農民にとって前者ほ社会的条件であ り,後者ほ生産的条件である。 農民の生活を規制した最大のものほ小作料であり,その金納化ほ農村を急速に崩壊させ, 1873)ほこれに拍車をかけ 貨幣経済の浸透を早めることとなった。地租改正(明治6年, る結果になったが,この改正は個々の農民生活の近代化にほ結びつかず,むしろ農家を窮 乏化させる一面を持っていたo 農村経済の貨幣化は,前述のように小作料の金納化が一般的になった地租改正の以前か ら,自然発生的に徐々甘こ農村に参透しており,農家は経済的欲求から換金作物の生産,加 工を中心に新な小南晶生産に努力し,貨幣獲得の手段を構じていたのである2'.明治の地 租改正により農民の家計には現金の動きがいっそうはげしくなったと言えるo 生産面において農家は支配的強EE的条件のもとに,零細な米麦中心の農業を行ない,坐 活維持の必要から商品作物の生産に努力したが,農家における生産物の商品化僚向は,流 通交換の拡大をもたらすと同時に消費面においては,貨幣支出を迫り,農家は否応なく貨 2)換金作物は地域により異なり,その土地に合ったものが作られたo城下町近くの農村でほ読菜 額に重点がおかれ,また藩士の馬塩としての苅大豆も農業商品となったo地方的特産物として の換金作物には,和紙原料の樽,蝋原料の-ゼ,漆器のうるし,染料としての藍,紅花,油原 料の菜種,胡麻,その他綿,蘇,さとうきびなどが作られた。これらの換金作物の多くは藩の 「本田にみだり 独占専売となり,原料植物もその加工製品もきびしく統制され規制を受けたo に棉作をすれば処罰する」, 「本田畑に甘煮を栽培することを禁ずる」というような禁令が各地 に出されている.それにもかかわらず農民は換金作物に異常な努力を集中したo 棉作は金肥がたやすく得られる畿内に集中し,砂糖黍ほ南九州に栽培されるというようむこ換 C. 金作物の特化がすすみ,幕末(1877)頃にほその分布が次のようになっているとトマス● スミスは「近代日本の農村的起源」に書いているo 河内,尾張,摂津,三河,伯者が棉の全産額の38・97oを占め,近江・美濃,越後,伊勢, 河内が菜種の41・97oを占め,丹波,倍濃,武蔵,甲斐,上野が菌の52・27o,筑前・但馬, p・ 106. 摂津,阿波,武蔵が藍の68・9%を占めていたo .表5. 1877年の各地域における商品作物の比率. 古島敏雄「近世における商業的農業の展軌『社会構成史体系』. Vol・. 1・8. (1950),. 10真の記. 警ミミ諾㌘o#墓誌&co蒜蒜警誤誤認諾莞式●、iof7 -村ごと硝 -. 異があり,それほ自給自足型の農業と混在していると注意している。.

(4) 98. 相. 馬. 信. 子. 幣経済に巻き込まれていった8)o さて,農民を貨幣経済に巻き込む現実の推進者ほ誰であったかというと,それほ商人で あり,商人資本であったo資本を持つ商人の商業的活動ほ農家を刺激し,農家における換 金作物の生産をいっそう押しすすめ,また家内手工業をも発展させた占しかし,商人資本 による農村の家内手工業ほ農民の経済力を強化するには至らず,むしろ生産者である農民 ほ不等価交換を迫られ,利益のほとんどすべてほ商人側に流入することとなり,商人を肥 らせほしたが農民自身はそれによって窮乏生活から抜け出ることほ出来なかったのであるo 商人資本ほ農村における家内手工業を発展させ,また多様化させた。しかしそれを独立 強化させる方向はとらず,むしろ農村を流通機構から隔離するという結果をもたらせたの であるo農民の現実の貧しさと,長い間に培われた受動的保守的な農民の資質ほ商人にと って好都合な取引条件であった。 商人資本による問屋制家内手工業における織物業およびその後のマニュファクチュア段 階において「織物工業の発展は農村の貧困の程度に対応する」という言葉通りの道をわが 国の農民ほ辿ったのである。. こうしてわが国においては農業と非農業とが分離独立することなく,農家副業として同 居的兼業的形態を長く温存してゆくのであって,問屋制商人資本はむしろ農村における正 常な経済発展や商品の流通を妨げる作用をしたとみることが出来る。この点に関してほヨ -ロッ′叫こおける場合と著しく異なる展開を示しているのである. 次に問題の(2)および(3)を,農村において貨幣はどのような機能を果したであろう かという点にまとめて考察してみたい。 農村における貨幣流通の程度ほ地域的な差異はあるが,一口に言えばそれはきわめて停 滞的で,農民の消費生活は極端な節約によって辛じて維持されていたというのが実状であ るo現金は農業生産上止むを得ない必要物資の購入に用いられ,原則的にほなお自給自足 的な生活であり,米麦を中心とした農耕生活であったのである。 したがって,こうした一般小農民の生活においては,貨幣を備蓄するというような余裕 ほ殆どなく,当時の農村には質屋のようなものの他に農民を相手にした信用制度などほ育 つ素地さえなく,農熟ま僅かの金子で無尽や頼母子講などを行なった程度のものと思われ 3). 18世紀の初頭にほすでに各地に市がたち,農民もそこで必要な物を購入した。 1665年会津藩 高田村に設けられた市で,常時販売された商品日掛こほ,布,局,棉,舵,栄,大豆薪,鰍 の楓鎌の柄,唐箕,織機,煙草,穀類,野菜類,日,隻,重などが含まれている。これらが 農民の日用品であることほ重要であるo市ほ半径2-3里以内に少量ずつでほあれ,あらゆる 品物を供給し販売していたoトマス・C ・スミス『近代日本の農村的起源』 p・ 110-111, (秦 考)藤田五郎著作集第三巻, 「商品」生産の発展, 「小商品生産」 -近世封建社会の構造の形成,しかし農民的商品の流通は,領内市場の狭陰性,領主権力の強烈さ,小農民の自立度, などに左右され,特用作物ほあってもそれが商品作物として農民経営の中に組み込まれず,農 民にほ自給経済が強制されるoたとえば大村藩では,寛永検地の時従来茶,秦,措の三種目だ ったものが十四品目の徴収に変更し,農民的商品生産の萌芽が権力に吸収される結果となったo 「幕末期西南辺境領国における涜通構造の特質」透村選三, (『商品流通の史的研究』宮本又次 編所収。.

(5) 99. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ. る。これらは一種の経済的融通機能をもった講で,もともとは信仰集団から派生したもの と言われている。. 柳田国男ほわが国における小作米納の慣習について,その理由を①過去の法則,財産制 ②農民の習性が経済界の変遷 皮,ならびに農法が久しく小作料の米納を必要としたこと,. に随伴する活気に乏しいこと,⑨昔の農村では地主と小作人は相対する別箇の経済主体で (小作は子作であり,地主 ほなく,むしろ両者は共同して農家を経営する事実があった。 ①の理由がなくなった後も⑧の農民的資質は は地親という関係にあったo)などを挙抗 小作料の金納化の進行を阻んだとしている4).. 農家にどの程度の貨幣が流入していたかを知るにほ,農民生活における支払い慣行を見 ることも一つの方法であるoそれによって農家における貨幣流通の実際の姿とその度合を ある程度把握することが出来ると考えられる。 農村における支払い慣行ほ,農村の生産形態と収穫時点にもとづいて,長い間の生活慣 習のなかできづき上げられたものである。したがって米麦を中心とする農村の主な収入ほ, 年に二回とみられ,この収入を中心としたニサイクルによって農民の生活が営まれていた ものと考えてよい。 農村におけるこのニサイクル型がわが国におけるいわゆる盆暮型の支払い慣行を生んだ のであり,農耕生活においてはこの二つの山を中心に,ほとんど一切の生活が運ばれてい たのである占. 農民のこうした生活慣行を過去の記録から拾ってみると,. 「--七月十日ほ観音縁日の. 市が立ち,一日休業して参詣ながら盆買に出るo十四日は盆払いで,正月からこれまでの 買掛りを商家へ支払う。今日から十六日までほ盆休みで,正月とともに一年中で最も楽し い時である。. "盆と正月が一緒に来たような"というのが農村における最大級の楽しみを. 現わす言葉である。」これほ越後長岡領の庄屋が天保10年(1839)ごろに記した『農家 年中行事記』を中心に同地方の農業生活を書いた『粒々辛苦録』を参考にして児玉幸多が 「小作をしている老は地主に対してこの月の十五日 まとめたもので5',暮のところには, までに正米納,金納ともに完済しなければならない。ニ十五日前後には諸勘定の取遣りを 終える。 --大晦日にほ一年の諸勘定万端の始末をつけ」とあり,農民にとって暮の諸払 いを終えることが一年中の最大関心事であった。しかも現実にはそれの出来ない貧しい農 「庄屋・組頭は--村中大小の百姓 民達が多くいたのである。前記『粒々辛苦録』には, を庄屋宅へ呼寄せ--納米不足を吟味するなり,不足の老ほ子供,来年の給米金などを引 当にして才覚し,また田地屋敷まで質入にして弁納するも有て哀れに悲しきこと多し,小 百姓ほ年貢米も秩中より先ず喰込み,名主,年寄の世話となるあり,金納は畑方なればそ の畑の物を代替て出す,然るに畑に作る物は大方年中百姓の夫食となる物故,これも喰込 み極月をこ至りて煩となるなり,. --極月ほ一年の括り放資民の難儀いうばかりなし,金を 借り度ても庄屋,組頭むざと印形せず,印形なければ貸す者もなし,密に相対にて借用す 4)柳田国男「時代と農政」 (『定本柳田国男集』16巻, 5)児玉幸多『近世農民生活史』 p. 276-349。. p・. 145)。.

(6) 100. 相. 馬. 信. 子. るに殊の外高利にて,弥小百姓の詰りと成るなり,後の事を思わざるにほあらゎども,先 ず指当は難儀を凌ぎ,一寸やりの指操にて果ほ身上渡るるなり」とその実状を記しているo また,. 「蔵元への十二月の未納,借用分は翌年に持ち越し,六月に決済される。」のであっ. て,ここで真の皆済が終了するのである。 「年貢米は九月からだんだんに上納して十月, 十一月には何事をおいてもこれにかからなければならなかった」のであるoその上「散野 のある所ほ枯草を株に刈り,柴を取って薪にする,山林のない村里は薪を買い求めて永い 冬の用意をしなければならない。女ほ糸織の仕事がある。男でも半季奉公に出て金をとる. ものもあり,日雇に出る老もあるoいずれも年貢諸役をほじめ,小作年貢金・宿賃碍賃・ 地代,年中の買掛借金の諸払い,家内の衣服などの用意に心を尽すのである。」というの が農民生活の実体で,十二月ほ諸払いをすませ,無事に年の瀬を越すことが出来れば,そ れは何にも増して幸やなことであったのである。 農民の生活に根ざした年二回の支払い慣行は,長くわれわれの生活に残ることとなり, 六月,十二月のボーナスおよびそれにもとづく贈答の慣習ほ農民生活と農民的資質が尾を 曳いているものと考えられる。その意味でわれわれの現在の生活さえなお完全に農民生活 から離脱しているとほ言えないようである. さて19世紀初頭における農家家計に占める年貢の割合を見ると,肥後熊本藩で出され せいでんえんぎ. た『井田街義』にほ,高10石の百姓の年貢について,つぎのように記録している。 田が4反4畝,畑が3反2畝の年貢米は4石6斗6升5合であり,その他に米による貢 租が1石2斗6升3合,別に負担銀が85匁あり,これを米に換算すると9斗9升1合と なり,貢租関係総支出を米にすると合計6石9斗1升9合,つまり高10石に対し,約7 割になっている6)o 児玉幸多ほ前記著書に,上記百姓の収支決算ほ差引米3石4斗2升,銀に直して, 匁ほどの年間不足になるとしており,さらにこの『井田街義』ほ藩例の作製した計算例で あるから事実はもっときびしいものと思われると言っている。農民の貢租負担が如何に重 かったかがわかる。現実の農民の生活ほ上述の例に見るように,絶対量がすでにマイナス になるような家計であったというのが本当の姿であった。 農家の家計については,享保頃と思われる田中丘隅の『民間省要』や,寛延元年刊行の 『田畑重宝記』などにおいてもその大凡を知ることが出来るが,何れもマイナスの家計で ある。この計算上のマイナス分を農民はどうしたかというと,農家経費の大半を自家労働 により賄い,実際の支出を少くして持ちこたえていたものであるo 」. 農民は自分の生活を切り下げることにより,例えば食糧もくず米や雑穀を主とし,その 中に菜や大根をきざみ込んで量をふやし,衣類も節約し,補綴に補綴を加え,元の地がわ からぬ程につぎはぎがされるというのが普通であったo更に,過重な労働を白から課すこ とにより,貢納を果したのであって,貢納の後の残部は極めて少く,その中で生活一切が 賄われたのでその困窮は想像以上のものがあったと思われる。 6). 『日本庶民生活史』巻6,. p.. 102。. 293.

(7) 101. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ. 安政初期の農家支出につきその費目をみると,塩・茶・油・紙などの費用2両,農具・ 家具2両,薪炭1両,衣服1両2分,冠嬉葬祭費2両,日雇給1両2分,音信贈答費1両, 合計10両あまりという記録があるので・農家の自給自足を基軸とした生活の中にも自家 生産の出来ない部分があり'それらの入手には貨幣が支払われ,貨幣支出の比重が次第に 重要度を加えていったのである7'。 有賀喜左衛門ほ安政二年および明治二十二年における自家の婚礼祝儀受納帳よりその受 贈物件を比較し,農民生活の変化を注意しているo 表1 政. 安. 件数. 明 手 金. 皮 足. 不. 明. 2. (扇子を他に添えたもの51). 年. 22. 件数. 拭. 68. 銭. 64 39. 中 風. 酒. 治. 呂. 折物敷袋. 41怨237642. 折杉銭拭敷物. 中小金手風反. 呂. 年. 2. 21 17 4. 白. 米. 3. 海. 苔. 1. 元. 結. 1. (扇子を他に添えたもの5). 表1にある中折と小移ほ紙で,那臓儀として紙が用いられる風習ほこの地方も(信州 上伊那郡朝日村近辺)では,少くも明治の中頃までは存続していたo 有賀は「年代が新しくなるに従い,帳面にほ金銭を主とし・他の物品を添え物の如く記 入している場合が多いが,これは金銭の贈与が盛んになってきたから,金銭の方が主たる が如く見られるに至った許りで,決して本来の贈答の意味ではなかった」と記しているo また「贈答ほ日常の相互扶助に対しては特別の場合であるから,生活の象徴的意味が強め られていることを見逃すことは出来ないoだから贈答に日常の手廻り品ほ回避される傾向 「紙が贈答の対象物として使用されたということほ紡が相当に貴重であ にあった」ので, り,且つ有用なものであった点にその根拠があったと考えちれるo. --婿礼や葬式の贈答. に金銭が優位を占めるに至ったことはそれを物語り,貨幣経済の確立したことが貨幣をし て贈答の対象物たる性質を具備するに至った8'Jといっているo 文化13年(1816)に書かれた『世事見聞録』には,同時代の貨幣化の模様を「菜も大 根も銭に替り,花もすすきも価に拘る」といい,農村生活の変化についても「左程余情も p・ 42-73,ここには18世紀末摂津国の一家族の家計収支の 7)戸谷敏夫『近世農業経営史論』 明細があり,その家族は食榎を自給し,年貢も現物で納めているが,貨幣支出の年間総計ほこ. の保有地の米作の全収穫にほぼ等しいo現物で表現されている収入の大部分ほ実際には売れた ものと思われる.剰余金が貨幣で表示されているのもそのためであるoとしているo 『村落生活』p・ 207-218。 8)有賀喜左衛門,.

(8) 102. 相. 馬. 信. 子. なき百姓の倖どもまた難渋人の妻娘杯も--己が家の姿に娘の織りたる布木綿を嫌い,他 国の産物を買い求め--分限の程の考えもなく,或は網縮緬の羽織を着用し,帽子も奈 良・近江・越後縮など高科なる品を用い--」などとあるから,町人文化が栄えた文化文 政期における都市近辺の農民には都会風を真似る老もあり,農民の日常生活には可成の商 品が這入っていたものと思われるが,農村における農民の生活ほ必ずしもそうでほなく, 一般小農家の消費生活は極度に切り詰められ,勤労と節欲とが相変らず生活の基調であっ た。. 農村経済の貨幣化ほ明治に入るとその速度を早め,農業経営にも農家の家計にも現金の 動きが多くなったが農民の生活にほ幅があり,貨幣経済化の度合にも差がある。大正14 年における自作農(1町9段-2町経営)における農業経営中に占める現金の割合ほ,最 高79・7%,最低11・1%であり,家計費中現金の割合は最高84.7%,最低24.5%とい う農林省の「農家経済調査」があるので,単に平均数字のみで決めることは困難である。 明治以後における農民生活の貨幣経済化ほ次の表2によりその状況を概観することが出 来るo自作,小作何れの農家にも貨幣による収入,支出が多くなっているが,小作農は自 作農に比して純収入が少いので,商品購入の絶対額も少くなっている. 表2. 農家経済の変遷Ⅰ 明23年. 収. 入. 突. 円 賢. rJi. 類. 衣. 入. 実. 諸 買. 1. 3. 5. 7. 9. 9. 5 0. 3. 35. 3. 1. 0. 8 0. 9 ー. 4 3 36 9 1. 6. ー1 5. %o. 額 負. 8. ・. 4. %o. 購入食料品 収. 36 6. 3. 419. t.. 7. 6 6. 53. 汚. -。2譜-. 533-8. tPt. 。-. 入料担肥. 収. 働作負. する割合 収入に対. 賃小諸買. 労. 演. 円 担. 7o. 肥. %. 臨時雇用人給?To 家 家にる 計対割. 費す合 注. 計 衣. 購入食料品. 円. 費 類?To. %. 自作農-1町9段-2町経営の自作農,河合悦三著『農業問題入門』,自作農p・ p.120. 70,小作農.

(9) 103. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ 表3. 注. 農家経済の変遷. Ⅱ. 農林省「農家経済調査」,河合悦三前掲書所載,自作農p・. 71,小作農p・. 121. 「農業を主たる収入とし生計を維持する農家で相当の生活を一負債の少い黒字生 宿-を営む標準耕地面積-適正規模」ほ,昭和十三年農林省調査によれば,全国平均で (田9反,畑7反)となっており, ほ農村1町7反(田1町1反,畑6反),山村1町6反, これらほ小農より中農を意味していると河合は言っている。 2.賃労働者発生の基盤とLての日本兵業の特殊性. (頁108),表4参照。. 前項においては貨幣経済化に伴う古い農村の分解過程について,農民の生活を中心に見 てきたが,つぎに視点を賃労働者に移し,賃労働者家庭が発生する基盤としての農業社会 の動きとその特殊性について考察し,わが国における賃労働者家庭の収入の特徴に触れて おきたい。. 賃労働者の発生基盤としてのわが国の農業の特質を要約すると' (1)わが国の農業は,労働集約的過小義経営であること。 (2)その経営は家族労働によっていること。 (3)農民の技術適応性が大きいことなどが挙げられる。 (1)についてほ,わが国の農業が水田稲作を中心とする以上その経営を大規模経営にす ることは本質的に困難であるが,ノーマンは日本農業の零細経営の原田は,米田小作料が 収穫高の60%という異常な高額によるためで,それ特薦民の土地に対する執着の強さと.

(10) 104. 相 表4. 馬. 信. 子. 各農民層の標準経済状態の比較 貧. 農. 小. 農. 中. 農. 線. 入 純 収 (円) 家族従業者1人当り月収(円). 租. 税. 小. 公. 収. 入. 7. 米. 11. 42. 7. ー5. 12. 4. 64. 72. 麦). 7. 6. 計購入すべきもの 購 買 余 力. 79. 84. 内. (食 用. 0. 94. 1 3. 24. 66. F:. 1 5483. 0 63. 0. 0. 19 0. 2 12. 55. 32. 4. 1 5. 24. 0 83 0. 0 l. 3. 2町4反. 備考1・昭和初年米価庭先相場1石, 3.. 6. 0. 標準経営面環. 2・. 0. 3.8. 消費上の購入必要品. 62 1433992. 売 生産上の購入品. (古. 6. 14. 480735町. 賃. 1. 11. 27.52円の時代の米作老のもの. -は,あるけれども僅かだし,土地所有者としてのものでほないので,無視しもの 0ほ,なし. (この表ほ,日本内地の家族労働力成人換算3・5人とし,小農の経営面積を1町5反と推定, 各種資料にもとづき,河合悦三が推定算出したものである) 107 河合悦三.前掲書p.. 相待って零細農業を維持させ,また農村における過剰人口と,明掛こおける土地改革,日 本の地形の特殊性などが農業技術の棟械化や革命の試みに乗り越え難い障碍となったとい っている9)o. 有賀喜左衛門ほ・. 「農民に対する封建的収取の強化は農耕の集約化によって応える以外. になく・それは分家による持高の分割に依るか,また小作人への請負耕に依るかしなけれ ば可能でなく,前者は血縁に対して行なわれ,それほ一面血縁の独立的地位に対する希求 を満足させるものであった10】」といっていることもうなづける。. 農民の耕地がどの程度であったか,その保有状況をみると,享保11年(1726)におけ る全国農家1戸当り面積は8反4畝という推定がある11'.明治17年(1884)にほ平均9). 12. 労. 0. 607. 0. 1. LnB.1. 出. CO. Eg1. 支. 日. o好30お. 賃. 0. (XU. 料. 労. 販. 32. 30 42. 9007. 作. 課. E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』 p. 209-210o 福武直ほ農民の土地に対する執着について「土地を生産のための手段と考えるよりほ,農民 にとって土地は家産であり,その家産を惜しみない肉体労働によって耕作し,家業として農業 をつづ仇節倹につとめて家格を維持し,少しでも高めてゆくこと'これが農民に出生ととも に与えられた運命であったo」と述べている. 『日本農村の社会問題』p・ 240,農民のそうした 資質が現実の生活をいっそうきびしくし,貧しさを運命的なものとして耐え忍ぶことのみを強 調する生活態度を造りあげていったものと考えられる。 10)有賀喜左衛門『日本家族制度と小作制度』 p. 285。 ll)河合悦三『農業門題入門』 p. 9。.

(11) 105. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ. 農家当りの耕地面積は田畑合せて9反6畝あまり,明治42年(1909)にほ9反7畝あま り,でほとんど変化していない1乏).また,全耕地に対する小作地の割合ほ,明治16,. 17. 年頃は37%,同20年末で39.34%,同25年には39.9%と増加している18).このこ とは農地が実際には細分化の傾向に進んでいることを意味するのである。 柳田国男は「一戸内の労力全部を使用するに足るだけの土地がなければ農業は独立しま せぬ」-. -「一家の生計を支える収入の上からほ-町歩以上の土地を要するが,家内の労力 を利用しつくすを限度とすると七反部より余計ほ持たれぬことになる14)」といっている. 耕地面積と必要労働者数について民間の記録には,耕地-町歩を耕作するには4人から5 人の大人の全日労働を必要とする15),とある。 さて当時の家族数は二十人を越える大家族ほ比較的少く,人別帳による農民の家族数ほ 平均5,. 6人で,近世初期にほすでに小家族制をとっていたと考えられるo. トマス・C. ・スミスほ小保有地家族ほ平均一家族当り4人であるとし,古島敏雄は, 「最も古い家族形態を残していると考えられる信州南部の山間村落において,一夫婦とそ 6人家族が一般的であり,農業上の労力需要ほ隷属農 の蔽系-,二世代を中心とした5, 民の賦役と譜第下人の労力に依存していた16)」と前記著書に記している. 2080. 12) E.班.ノーマン前掲書p・ 13)同上p.199。. 320 河合悦三,前掲書p. 表6 耕地面積軒こ対する小作地面積割合の変遷. 明. 治. 5. 年(1872). 30.63%. (1873). 31. 10. 16. (1883). 36. 75. 20. (1887). 39. 34. 25. (1892). 39. 99. 38. (1905). 43. 90. 6. 21, 22。 14)柳田国男,前掲書p・ p・ 103にほ下記の表がある。 15)古島敏雄『近世日本農業の構造』 乗7 耕作面積と必要労働者数. 耕作面積. 所要経常労働者数. 内傭人労働■_. 貞享2年(豊年税書). 10反. 4人. 元線初年(地方の聞書). 25. ■8. 5. 宝永4年(耕穣春秋). 38. 6. 4. 2人■. 107,なお「元疎頃の事実としてほ,血縁の分派ほ下人化するのでなく, 16)古島敏雄,前掲書p. -たび同一家族内にあって妻帯して,大家族形態を与えも,程なく本百姓として独立して行く のが時代の趨勢であったといい得ることを知るのである.野村兼太郎氏が一般的に小家族を推 定されたその見解(「概していへば,人別帳に現われたところに依れば,かなり早い頃から小 家族制で,一家の人員は平均五,六人であるo勿論ある特別の地域では大家族制の残存してい たところもあるが,普通一般には祖父,祖母,父,母,女,孫ぐらいで,時に伯叔父,伯叔母 の寄宿し,従兄弟が同居している老もあるが大体ほ少数からなる」野村兼太郎「徳川時代村落 研究序説-その静態的研究-」三田学会雑誌,昭和15年8月)は,最も中世的な残樺 を多く持っているであろうと考えられる山間部伊部の地方についても事実たることを知り得た のである。」と加えている。.

(12) 106. 相. 馬. 信. 子. 江戸時代には分地制限17'があったが大部分の農民はそれに達しない土地しか持っていな かったし,この制限令も忠実に励行されたとほ言えなかった。 農民ほ上述のように狭少な農地を主として家族労働により経営してきたのであるが,実 ほこの経営農地の零細性が結果的にほ農民の小南晶生産を可能にし,賃稼ぎや出稼労働を 助長することとなったのであるQしかも農地の零細性が農民をして完全な離農形態をとら しめないで,常に兼業の形でそれらを行なうこ-tを可能にしたのである. 水田稲作を主とし,家族労働によるわが国の農作業は季節的に労働力の平均化を困難に し,短期間に集中的に必要とする労働力の供給源として村落共同体の結(ゆい)などが存 在したoしかしわが国の村落共同体ほ運命的な要素を多く持ち,労働面でほ互に支えられ ながら,実ほ排他的・閉鎖的性格を内包し,それが日本農業の分業化を阻んだ一要素で, このことはヨ-ロッパにおけるそれとほ異なる作用を果したといえるのである18・. わが国に三十年近く在勤したサー・ジョージ・サンソムほ「日本が18世紀において農 村問題を解決出来なかったのは農業方法を改善する試みに欠けていたからでほない。それ は全人口が唯一種の穀物・すなわち米に依存していたこ1とである. -・・日本で農業改革が 出来なかったのほ,日本の封建政治構造でほなく,集約的な小規模米穀生産という伝統的 な組織のためである19'」としているが,小規模米穀生産に追いやったものほ,わが国の自 然的条件と,権力支配による高額な頁粗にもとづく農民の貧困でもあったと言える0 (2)わが国の農業が零細農であり,主として家族労働によっていることほ大きな特徴で あるo家族労働力ほ雇用労働と異なり,賃金を支払うわけではなく,その意味でほ全く計 算外の労働力なのであるo計算されぬ労働力ほ家族内に埋もれて日立たないが,農繁期以 外にほ不必要な労働力を常時家庭内に抱えていることであり,そうした余剰労働力ほ実質 的にほ農家のなかに潜在的失業人口を形成しているのであるoこの潜在的失業人口が貨幣 欲求と結びつくとき・それほ何時でも賃労働者となり,出稼労働者となり得るのである。 河合悦三は「農民ほ内容から見れば大部分ほ賃労働をしなければ生活出来ない貧農に等 しい農民であって,. --土地が狭くて農業だけでほ人手が余っているのに貧しい生活をし なければならない農民ほ近い未来の貧農である」とし,貧農とほ農業だけでほ食べてゆけ ない農民のことをいうと言っている. 17)幕府ほ土地の細分を禁止し, 「名主は25石以上百姓ほ10石以上 それ以下の老ほ石高を 分けてほならぬ,百姓ほ10石以下, 1町歩以下の田畑は子供ならびに兄弟にも分けてほなら ぬ,分け高も,残り高も10石以上なければならぬo」河合悦三, 『農業問題入門』p. 14とし たから,実際にほ分家ほ不可能に等しかったoただ新田開発の場合は別であった。当時「世に あほう者を田分け(たわ桝というのは,かの田地分より来る詞なり」といわれ,百姓どもが. 田地少く飢人となるのほ,田畑を分けるためであるとして,所帯を分けることをかたく禁じた。 児玉幸多『近世農民生活史』 p. 261-264。 18)大農方式によるヨ一口ッ′噴業においてほ,農家に止まるということほ,大農方式による分業 組織に組み込れることであって,そこから排除された労働力ほ農家や農場集落から完全に離脱 することを意味し,それらの余剰労働力はマニュファクチュアに致収されたり,独立の職人と なったり,また海外の労働市場に流出したりしたoヨーロッパにおける村落共同体はその意味 において分業組織の基盤としての役割を果してたといえる。 19) G・B・サンソム『世界史における日本』 p. 27, 28。.

(13) 107. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ. 農村におけるこの潜在的失業人口の蓄積ほ農民の経済生活を圧迫し,最低の生活を余儀 なく強い,農業の片手間に賃仕事をなし,また出稼労働の形で都市へ流出せしめる原因と なった。しかし大事なことほ,これらの労働力は自家の必要に応じ何時でも農村に帰って くる浮動的過剰人口であって,離農の形をとってほいない。したがって都市で食べられな くなれば,農村-還流するのである。 このように労働力としての過剰人口ほ農村と都市の間で相互補完的役割を果し,その点 ではきわめて弾力性のある労働力といえのである。 一方こうした浮動的労働人口は,その浮動性のゆえに最低賃金の職にしかつくことが出 来ず,そのことがまた一般賃金の水準を引き下げる債向をもつこととなるのであるoこれ ら農民の賃労働者ほ農業から完全に独立したものでなく,本質的には農民であり,農家に 生活の基盤がある出礎ぎ着であったoその点に閲し,グーテンペルクほ,. 「日本において. は西欧的な意味での工業プ占レタ1)アートが存在しなかった」とそのことを指摘してい る20).. 大正十二年から昭和七年までに解雇された工・鉱労働者の四割が農家へ帰っていること にもそのことが伺える。. 「農村は日本人にとって"ふるさと"であり,ことあるごとにたち帰るべき寄りどこF, となっている。. ・-田舎こそが本家であり,都市は分家にすぎないという関係(長男が農 業をつぎ,二,三男が働き場を求めて都市へ進出する)が,日本の民衆の問には根づよい のである21)」といわれるごとく農民は貧しく,農業経営ほ小さいが,生活の基盤としての 農村は,大きな力を持っているのである。 農家の二,三男は分家として村内で世帯をもつことが次第に困難となり,小さいうちか ら都市の商家に丁稚奉公をしたり,徒弟として職人の家に住み込むようになった。、余剰労 働力としての農民は, ①農家に止まって農業をつづ机換金作物や小商品生産に努力し, そのうち小部分は分家をする. ②また一部ほ行商など商業的面にすすみ,一部ほ技術を身 につけて職人となるo ③一部は賃労働者となり都会に流出するのである. しかもそれらの農民は,ことあるごとに農村に帰ってくるのであって,日本の農業家族 functional non ほなかなかのことでは分散しないのである,しかし賃労働者はやがて family (土地をもたず農業生産機能を失った生活)への道を進むことになるのである。. 「分家させてもらえない農村の二,三男が,その村にとどまるためには,大工とか左官, 馬車引きになるか,あとはムコグチを待つぐらいで,そのほかに残された道は労働者とな り都合に流出するかであった望2'」という?がわが国における過少農経営の実状であったろ うと思われる。. (3)農民の技術についてほ,上述のように職人ほ農民の貧しさへの積極的努力にほかな らない転職であったが,やがて技術を身につけて独立した職人になる老も出てきた。技術 (篠田雄次郎訳)0 20)ェリヒ・グーテンペルク『日本の企業』 p・ 194。 21)筑波常治『日本人の思想』一農本主義の世界65, 66o p・ 22)大牟羅艮『ものいわぬ農民』.

(14) 108. 相. 馬. 信. 子. を身につけた者はその技術を家職としたが,その技術は職に対する一子相伝というように 家庭内に閉鏡され,そこで鍛錬され,みがかれて,家庭内に蓄積されていったoそしてこ れらの技術はやがて伝統工芸への道を切り開いたのである。 しかしここで問題にしたいのほ,そうした特殊な技術でなく,農民一般の農民的資質の 中で培われた技術適応性についてである。 トマス・. C. ・スミスは日本兵民の技術について「工業が労働力の量と質に応ずる速度で しか発達出来ないというのは実際にほ農業の性格に応ずる速度で--ということを意味す る。. --日本では二千年以上も前から農業労働力は知らず知らずのうちにすでに工場労働 へ移行を準備していた。 -商業的農業と賃金労働の経験が農民たちに,貨幣誘因に対し 敏感に反応することを教え,また貨幣目標の追求における非人間的関係に耐えていく力を ある程度まであたえていたが,同時に農業は忠誠と服従の習慣を破壊するほどに変化して -. いなかった.. --農村からきた勤労者ほすでに半ば訓練をう叶た労働者であった.農村工 業が;彼らに手と目の機敏さ,道具や原料への関心,器械の調子などに適応する力を備え ていた.一方都市工業は彼等の技能を無意味にしてしまうほど進歩していなかった.これ ほど優秀な労働力の準備を背景にして工業化に乗り出した国は数少いであろう乏8)」と日本 の農民の技術を評価している。 彼はまた小規模の核家族が一貫して農民社会の究極単位となってきたことを強調し,小 規模編制の労働力は緊密で,訓練されやすく均質な社会集団をつくることができ,それは 農耕を製造工業の段階へと押しすすめるのではなく,むしろ手工業的性格を強くし,農耕 単位を小規模化し,核家族を定着させたといっている。 以上のように賃労働者発生の基盤としてのわが国の農村は,兎に角貧しく,狭少な農地 を家族労働により経営し,しかも米麦を中心とする農作業は農耕を集約化せざるを得なく なり,また労働力の季節的バランスをとることが困難であるため,潜在的失業とみられる 余剰労働力を常時抱え込むことになり,それらが生活の補助的収入として塵外収入を求め るようになったものであるo. このような日本農業の体質や構造ほ近代的な商業資本や高利貸資が暗躍するのに好都合 な地盤を提供してきたのである。. Ⅱ. 低賃金と明治以降の経済政策(上). 1.農村の生活と低賃金. 農村の生活水準は農民の生活を規制するのみでなく,国民一般の生活をも規制してゆく ものである。. 農村から流出する賃労働者の低賃金ほ,農民の生活水準の低さにもとづくことが多いが, この浮動的な賃労働者ほ前述のように,独立した賃金労働者ではなく,農村を本拠とする 出稼ぎ者であり,したがってその賃金ほ個々人の窓意的な家計補的な稼得手段にすぎない 23)トマス・C・スミス,前掲書p.318-320。.

(15) 家庭における所得形態の史的研究-. Ⅱ. 109. という特徴をもつものであった。農村に本拠があるということは,いざとなれば何時でも. 農村に帰る.ということで奉り,そこでほ,生活の程度を落しさえすれば兎に角食べられる ということである.それが農業のもつ一つの特性であり,わが国の農家の性格でもあった. 家計の補助的手段にすぎない出稼労働者の賃金は当然低賃金であり,それがまた農村の 生活水準を低いところに押し止どめ,かつ村内における日傭とりの賃金を低くする原因と もなるのであるが,この二者は互に原因結果をなしつつ,一般労働者の低賃金を定着させ ていったのである.明治政府の賃金政策はこうした農村の事情を背景に低賃金の基礎をつ くったのである。. さて国民の生活ほ文字通り米中心の生活であり,明治初期における労働者の賃金や官吏 の給料は米を基準にして支払われていた。. それは封建時代の奉緑が米によって表わされていた名残でもあるが,何より先に労働者 の生活が米を中心にした貧しい生活,つまり栄養の大半を米によって充すという食生活で あることを物語っているものである。米ほ何といっても他の副食品より安く満腹感を与え, かつカロリーを充したからである。. 明治二年における官吏の賃金ほ,それを定めた官緑定則によると,最下級の雇傭人賃金 ほ,年に米十二石,一日当り三升三合で,米を基準にして支払われた。また明治十五年に 大阪紡蹟が創業した時の賃金ほ,男子には米二升分,女子にはその六割ときめられていたo 勿論米が現物で支給されるのでほなく,当時の米相場で換算して現金で支払われたのであ る.それによると男子の賃金は一日当り十二銭,女子は七銭であった. 表8,表9に見るような賃金構造の傾向ほその後も長くつづけられた。表8によると, 官労工場の労働者の賃金ほ全体に高く,民間労働者の賃金ほ大工などの職人層より低く, 女子は男子よりさらに低いものであった. 「イギリスにおいてほ,土地をおわれた農民が家族を伴って都市に流入して労働力とな った。わが国の場合は-. -小作料によって生活を困窮させられた小作農の子女が工業の中 心であった紡績工業の労働力となった。 --したがって女子労働者の賃金ほ,イギリスの 場合と異なり,家族の生活費を含めた世帯の賃金としては成立せず,一人分の生活費しかも寄宿舎という"大量生産物"的な安上りの生活費用として成立せざるをえなかった 表8. 小島健司『日本の賃金』. p.. 明治18年の賃金相場(日額). 140,. 141。.

(16) 110. 馬. 相 表9 明. 治. 男工等給. 信. 子. 大蔵省印刷局工場の賃金 年. 8. 女工等給. 明 日. 一. 給. 治. 男工等給. 19. 女子等給. 等 職工. 一. 62. 〟. 50. 等外一等職工. 〝. 〝. 三. 〝. 四. 〝. 40. ○ ○. 〝. 30. 〝. 25. 〝. 〝. 80. 〝. 70 60 50. 等工. 45. 等 女. 一. 〝一二試三. 16. 〝. 工. 35. 等外一等女工 ○ 級. 工. 〝. 〝. 工. 級. 工. =. ○ 等外四等女工 ○ 一. 級 女工 〝. 010. 000. 0. 試験女工 幼年試験女工. 『明治前期の都市下層社会』p.. 513012. 験 ○. 生活古典叢書2. 40. 〝. 20. 三等女工 四. 35. 90. 30252020161. 二等女工. 等外試験職工. 1.00. 〝. ″. 45. 一等女工. l.20. ″. 肘二三四五六. 〝. 二三四五六五筈〝. 二三四五. 〟. 工 〝. 83. 〟. 〝. 日義 Lー' 等. 一. 1.00. 〟. 日 給. 一. !. I j.i:li l.25. 年. 10 10. 7. 380. のである24).」という事情が両表によって知ることが出来る。 2.供米価政策と家計の実態 明治政府の財政基盤は地租収入であった皇5). o. 政府は明治六年(1873)地租改正条令を公布したが,その前年に土地売買に関する制限 を解き,明治八年(1875)にほ百坪以下の土地でも切り売りを許した。 24)小島健司『日本の賃金』 p. 1390 25) (イ) E.H.ノーマン前掲書, p.318. 1868年(明治元年)-1884年(明治14年)までほ地租が経常収入の78%o (総収入の 大半)むこ達していたo 1890年にはまだ507oあったが,その間,低落の債向を示してい るoなお同書の頁229にほ次の数字を掲げている. 1875年-1879年(明治. 8-12)地伍ほ国庫歳入の80.5%. 1880. -1884. (明. 13-17). u. 65.6. 1885. -1889. (明. 18-22). 〝. 69.4.

(17) 家庭における所得形態の史的研究-. 111. Ⅱ. 明治四年(1871)からほ,作物の種類に関する制限を廃し,田畑に何を作ってもよいこ とになり,更に米,豆,雑穀から油を製造する自由も許可された。またそれらの製品を自 由に売りさばくことも自由になり,長い間農民を苦しめてきた「経済外的強制」が大幅に ゆるめられることになった。. 政府は地租改正に当り,従来の収穫を標準として地租を土地の価格に応じた課椀に変え たo. もう一つの根本的な改革は,栄,麦など従来物納であったものをすべて金納に変えた. ことであった。. この改正において地租負担は,従来の収穫米に対する場合よりその割合ほ減少したが, それにもかかわらず地租ほ依然としてほとんど農民の全余剰労働を吸収していたといって よい望6)o. 明治政府のこの改革によって農民の生活が貧困から抜けられたわけでほない。明治五年 (1872).には藩有林,官有林に対する入会権が廃止された。村民の古くから持っていたこ の慣習ほ,家畜の飼料,農作物の肥料,燃料,農具の材料などの供給源であったため,そ れほ農民の実質的支出に直ちに影響をおよばした。このことは農民をいっそう速やかに貨 幣経済に巻き込むことになり,同時に農民の零細化傾向を進める結果となった27)o (ロ)河合悦三,前掲書,. p.. 29。. 表13. 地. 租. 変. の. 中田1反当り 収 米 穫 府. 租. 線 貞 享. 田. 税. 1,000石. 法(1186年以降) 法(1594年). 1,170 1,290. 明. 治. 13. 午(1880年). 治. 14. 午(1881年). 治. 16. 明. 治. 17. 大 昭. 正11年 和 8 年 (12ケ年平均). 1. ,770 1,800 1. 年(1883年) 午(1884年) 自(1922年) 至(1932年). ,900 1,560. チ. 2,568. 432. 明. %.. ll 12. 明. 1,600. 余剰労働中 地租の割合. 41. 田 税 法(1686年) 明治6年地租改正(1873年). 収穫米中年貢 或は地租の割合 4467印3. 倉. 鎌 支. 化. 23 界 17. 85 1 0 lnV以 上. 1. 備考1.労働力とほ収入(収入米)から肥料および手間代等を差引いたもの。 2.地租にほ地方税,公課を含む。 14年は異常に米価が高かった時で,明治16, 17年がむしろ普通の年であ 3.明治13, った。. 26)表13,明治16, 17年の余剰労働中地租の割合,および備考3参照o 27)入会権ほ徳川時代に広く行なわれていた慣習であったが,明治政府の土地改革による「私的土 地所有の厚別」と「民有とすべき確証のない土地ほ国有とする」という措置により,多くの土 地が農民から離れ,国有またほ皇室の御料となった.明治三十一年には林野面積の67.27oが 国有林,御料林野であった。生活権の一部を奪われた自作農の中から小作農に転落する者が出 てきた。 13),表6参照。.

(18) 112. 相. 馬. 信. 子. 一方地主の地租は金納であるのに,地主が受け取る小作料ほ現物納入であったため,也 主は納入された米を如何に有利に換金するかという点に関心を集中し,米価,つまり米相 場を高騰させることに腐心してきたが,小作農民たちの生産費の膨張や現金支出の増加に 対してほ考慮を払うことなく,小作料を取り立てたので,小作農民たちの家計は苦しく, 賃仕事その他で補なわなければ維持することが困難な状態であった。 地主の他の関心事ほ減税であり,明治十年政府はその意に応じて地租を百分の三から百 分の二・五に減じたo. この地租の軽減と米価の上昇が一般地主を土地貸付地主に転化させ, 小作農民を増加させる結果を招いたとも言える。 明治元年におけるわが国の米作人口ほ少くも全労働力の八十パーセントを占めていた。 地租の金納化はまさに米の貨幣化であり,そのことは同時に農産物の商品化を押しすすめ る作用をなしたのである。. 明治政府ほ米価の急騰をおさえるため,米や原料品の輸出政策をとり,農業生産物の価 格釣上げを計り,農民を救済するとともに正貨の流出を防ごうとした28). この政策で農民に貨幣収入をもたらせたものは茶と生糸であった。輸出解禁は農村の商 品市場に刺激を与え,それを発展させる上での役割を果したが,一方棉作やさとうきび作 などほ輸入製品に抑されて次第に凋落していった。 また従来農家の家内手工業として定着していた綿糸紡績(和綿)ほ次第に没落し,それ に代って機械製品である低廉な輸入洋綿が勢を得て,農村の手工業的紡績に打撃を与える ことになった。. 織物類についてほ,それが直接消費のために輸入されるものであるから,生産資料であ る綿糸ほど生産過程を侵害されないで,農民は自家用晶として綿布の生産をつづけること が出来たが,綿糸の場合は大変な傷手を受けることとなった。 家内生産綿糸と輸入綿糸の価格の相異は下表の通りで,その打撃の大きがうかがわれる。 表1(). 土星・岡崎『日本資主義発達史概説』. p.. 192,. (ノーマン前掲書p.. 219所載). 家内工業としての製糖,製紙業なども没落したが,製紙業ほ伝統技術が守られ,家庭に 蓄積された技術は,現在もなお"和紙"として高級品や趣味製品の生産む羊生かされており, このことは農村の家内手工業を考える上で忘れてほならないことである。 こうして農家に定着していた家内手工業ほ新な方向をとらぎるをえなくなり,綿糸に代 28)幕徹ま安政六年(1859)神奈川,長崎,函館を開港し,開放経済体制に入った.しかしその結 果は大幅な輸入超過となり,金が流出し(わが国の金銀の比価が外国に比し金が割安であっ た)国内経済を圧迫した.米価は文久元年(1861)ごろから急騰し,慶応二年(1866)には急 騰以前の十五倍を超えるほどになったo.

(19) 113. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ. る養蚕業が盛んになってくるのである。 さて日本の工業は(1)農民の高額小作料による生活の窮乏化, による兼業体の温存,. (2)農工分離の不徹底. (3)農村および都市における過剰人口による生活の困窮などを背景. にして生じた低廉労働力に依存して展開したもので,そのうちで最も早く横械工業を確立 したものほ紡績業であったが,機械化により量産が行なわれるようになると,その製品は 国内市場では消化しきれず,輸出に活路を見出すほかなく,そのためにほ,生産品の価格 を低くおさえなければならなかった。価格を安くして輸出を盛んにしようとするには,第 一に労働者の賃金を低くすることが必要であったo ゎが鄭土おける国民一般の生活水準ほ低く,自給自足的生活が残っていたから,国内市 場において有効な購買力を造出することは不可能であったo したがって当然の帰結として日本の紡績業は輸出型にまで成長したのであるが・海外市 場においては先進国とくにイギリス綿業との厳しい競争があり,さらに国内市場において も国民一般の生活水準の低さに対応して,低価格製品ならびに生活必需品の生産に重点を ぉいたため,全体としては菅本の蓄積が思うように伸びなかったと言うことが出来るo 政府は工業化をすすめ資本の蓄積を計る手段として,国民にひたすら勤労と節欲の生活 を求め,いわゆる体制的郎rlが一貫して行なわれたのであり,それほ急速な工業化を余儀 なくされたわが国経済政策の特色でもあった。 (2)米の輸出解禁・ 政府ほ米に関してほ, (1)地租の金納化,. (3)輸出関税の免除など. を行ない農民の増産意欲の強化を計った。前述のように政府にとって米ほ最も重要な財源 でもあったからである.. 政府はその後,単位面積当りの収量増加を計るなどの増産政策をたてたが,それらによ る増加分がそのまま農民に入ったわけでなく,その集紛化は当然金肥などの現金支出分を 多くし,農民を貨幣経済に巻き込むと同時に家計-の圧迫を増していったのであるo 米価ほ農民の問題だけでなく,国民全体の生活に関する問題であったo政府がこの米価 問題に意を用いざるを得なくなったのは大正年代に入ってからで,朝鮮,台湾米の移入増 加に加えて豊作が重なり,米価が低落したためである。 政府ほ大正四年(1915)に米価調節令を定め,大正十年(1921)には米穀法を制定した。 大正十四年(1925)には更にそれを改正して,米の生産政策だけではなく,米の需給調節 をも行なうため,米の買入れ,売渡し,保管など一切を政府の手でするようにしたo昭和 六年(1931)政府は第二次の改正を行ない統制を強化したoそのことは実ほ,政府が米穀 法によって定めた米の最低価格が米の生産費を大幅に下廻るのを承認させるためであり, また朝鮮米,台湾米の移入を統制し,政府手持の米を操作することにより,米の価格を操 作することであった。. 以上のような事情のもとに政府は米の低価格政策に移った.政府のこの低米価政策は実 は都市に洗出した労働者の低賃金による生活を維持させるた捌こ必要な政策的意図による ものであった。. 農村における日傭賃は前述のように全く家計補助的なもので,きわめて低い賃金であっ.

(20) 114. 相. 馬. 信. 子. た。一方都市に勃興してきた企業が農村から労働力を曳き出すためには,農村における日 傭賃にアルファ分を加える必要があった。政府はこの農村日傭賃に加えられるアルファ分 を出来るだけ低くおさえて,企業を育成してゆく要があったし,また僅かの賃金差によっ て労働力が移動するという農村の状態もまだ必要であった. 農民を生かさず殺さずというのは,過去の歴史だけではなく,この段階においてもなお 重要な政策であったのである。政府の低米価政策は低賃金政策の手段としてなさねばなら ぬものであったということができる.. 農民は生産費にも足りない低米価による収入のマイナス分を,土地を極度に活用して生 産性を高めることにより,また賃稼ぎと副業による収入によって辛うじて補った。 政府ほ低米価政策をとると同時に,こうした農民に対し救済策の形で副業に対する保護 奨励政策をとった。家計の苦しい農民ほ一様にこの政策指導を求めたため,結果としてほ 生産過剰を招来し,生産品の価格は低落した。こうして大多数の農民ほ副業による収入の 増加を求めながら,反って借金を背負い込むことになる場合が多かった。 政帝は米穀市場における米価をその手持米によって操作し,それによって低米価政策を 維持しつづけたが,実はこの価格操作と農民副業への助成運営を通して,農民の家計を規 制し,更にそれによって都市労働者に対する低賃金の基盤を固定したのである。農民と都 市労働者の生活を規制することほ,全国民の生活を競制することであり,それによって政 府ほ急速な資本の蓄積を可能にすることができたのであるo さて明治末年にほわが国においても低所得階層の生活問題や生計費問題が論じられるよ うになり,当時の農商務省工務局長の岡実が,わが国の職工の生計状態につき「(1)最近 の物価騰貴ほ賃金がそれ以上の率で上昇しているから職工の生活にほ悪影響がない。 (2) 物価騰貴に悩まされているのは小工場主や小作農,小定額所得者であり, (3)独身者・特 に女工の賃金ほ一応充分である。しかし世帯主労働者の家計にほ余裕がなく,食費割合ほ 六割に近くしてなお収支辛うじて相償う状態であるから,不時の失費に対処するための労 働保険の制度が必要である。 (4)ともかく諸外国に比較すればわが国の職工の生活水準ほ. 低く,これを改善するにほ支出の大宗たる食費を低廉にする政策が必要であるo」などの 報告をしている29'oこれに対する批判ほ勿論あったが80',この岡報告にもとづく明治末大正初期の工場労働者家計を四人世帯で世帯主の日給70銭月収20円を最低とし,その モデル家計を表11のように作っている81)o また農省務省農務局が明治四十二年に実施した「農業小作人・工業労働者生計状態に関 する調査」によると,五人世帯の標準家計費ほ,支出総額29円31銭,うち食費ほ20 円20銭でエンゲル係数が68・9%におよんでいる。この二十円という食費を食料費物価 指数で換算すると,ほぼ明治二十年の最低生活水準に一致するという82'。 29)生活古典叢書7 30)同上, 31)同上,. p・. 32)同上,. p.21。. 19. p.70。. 『家計調査と生活研究』(光生館). p.. 19。. ・・-岡報告に対し大西猪之介,鈴木文治,福田徳三等が批判したo.

(21) 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ. 115. 表11. l. l. 主=ミ亨:li.. I:_三三l:三:u;f. このようにして政府の低賃金政策ほ低物価政策と閑聯しつつ企業を育てたが,他方大正 期に入り第一次大戦後における米価騰貴に対する政策の失敗は,米騒動の原田をなした33'o 第一次大戦後のはげしいインフレの中で労働者やサラリーマン,また農民の生活ほ窮乏 化し,生存費を大幅に割るような家計状態がつづいた。 当時の労働者家計の一端を示す家計轡4'によってその実状を考察すると賃労働者の家計 が全くの赤字家計であったことが明らかである。 エンゲル係数は54.5%,主食費だけで家計総額の三分の一を占め,副食費ほ主食費の 半分にすぎない。このような米による食事のパターンほ国民の一般的傾向で,生活の貧し さを表わすものである。. 『日本経済統計集』によると,小売物価指数,大正3年を100とすると,米騒動のあっ た7年ほ186になり,生計費指数も同じ期間に74.3%も上昇しており,第一次大戦後 のはげしいインフレを示している。. なお日本銀行調査によると,大正3年7月における食物指数を100とすると大正7年 (森本厚書の計算でほ229) (1月-9月平均)は192.5を示し,物価平均指数は199, である3Vo. 森本厚吉は日本人が普通の労働をするのに一日どれほどの栄養が必要であるかという見 33)米騒動の直接のきっか桝ま米価の急騰であるo大正七年春(1918)内地米一升24銭が七月中 旬には40銭をこえ,八月ほじめには50鏡をこえた。こうした実質収入の低下は農民や漁氏, 賃労働者を深刻な生活難に追いやり,その結果急騰する米価に対し,富山県西水橋の主婦三盲 人ばかりが町長や米産に押しかけたことに端を発し,忽ち全国にひろがったもので'当時のは げしいインフレーショソを物語る証左でもあるo 34)丸岡秀子『物価と家計簿』 p・ loo p・ 1610 35)生活古曲叢書7前掲書, なお羽仁もと子がその著『家事・家計論』に提示した大正時代の夫婦二人の標準家計実にお ける収入は月額100円で,収入の一書陀純貯金に, -割を特別費に見積っているから支出総 額ほ80円で,夫婦二人の消費支出としては可成多く,大正後期の案とみても相当上流家庭の 家計であり当時としてほ理想案的要素を含むものと考えられるが,一応参考資料としいて加え ておく。.

(22) 116. 相. 表12. 馬. 信. 子. 米騒動当時の-労働者の家計 (家族-夫,妻,、子(6才,. 注. 4才)計4人). 大正7年8月23日付,東京日日新聞掲載による。 ( )の中ほ支出総額に対する費目別比率。. 地に立ち,それを充すための費用を計算した。 それによると,大正七年における(米騒動の起きた年)東京市小売価格で計算し,一人. 一日当り最小生存食費ほ21銭であり,最小生活食費ほ54銭であるとしている86,.この 計算によると,家族四人の-ケ月の食物費ほ64円80銭となり,生存食費でも25円21 36)森本ほ蛋白質96グラム,月旨肪20グラム,炭水化物450グラム,総熱量2,400カpl)-と して計算しているo (前掲書p・ 160)この栄養素の構成は摂取量とともにその内容,質など種 々検討され,現在は性別,年齢別,労働別の所要量が提示されているが,国民1人1日当りの 所要量は,蛋白質70グラム,脂肪48グラム,蹄カロリー2・150で,カロリー源としての炭 水化物系食品としては穀類340グラム,いも類50グラム,砂糖20グラム,合計410グラ ムともされている..

(23) ■117. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅱ. 銭となるo前記の労働者家計の食物費-ケ月四人分の22円90銭払. この生存食費にさ. えおよばないのである。その窮乏状態がうかがわれるのあるが,労働者や農民などのこう した貧しい生活ほその後もつづき,わが国の資本蓄積は国民の生活の貧′しさの上に築かれ ていったということができる。 ま. と. め. 農民の労働は過重でしかもその生活は長い歴史の中で一貫して貧しく,生きるための必 死の努力が,農民家族の勤労と節欲以外になかったという生活のなかセ,農民的資質と生 活様式がきずかれていった。 農民の生活に貨幣が入ってきても,その初期においてほ,それがあまりにも少量かつ不 規則であるため,貨幣資本として機能することほはとんどなかった。 そうした農業生活における農民の支払い形態は,その収穫をもととして当然盆と暮に集 中し,生活のサイクルもそれによって規制された. 年二回に集中された支払い形態をもつということは,一般生活における貨幣の動きをき わめて停滞的なものにし,さらに半年間の債務返済のための相殺部分が大半をしめていた ため,収入分を稼待として入手する可能性はほとんどなく,結局ほ自給自足的な生活が中 心にならざるを得なかったものと考えられる。 賃労働者の賃金はこうした農民の生活を基盤にして成りったているoその意味で農民の 経済生活を徹底的に掘り下げてみる必要があり,また農民の貧困の原因をはっきりさせて おかねばならないのである。. 賃労働者の低賃金が,労働者自身の生活をどのように規制し,さらにそのことが労働者. 以外の生活にどのような影響を与えていたであろうか,などの問題を農民の稼待と貨幣経 済の進展の中で考察したいと考えたが,賃労働者発生の背景としての農村生活にほ経済外 の諸問題が多く,なお幾多の課題をのこした。 賃労働者の低賃金と農民の疎得において,最も大きな役割を果したのほ,明治政府の政 策であると思われたから,その点に関しては簡単に触れておいた。 労働者の低賃金についてほその発生過程における農業社会における前提条件の分析に重 点を置いたために十分な論究はできず今後の課題として残されることになった。 さて,本小論において絶えず問題になったのほ,家庭における所得とは一体何であろう かということであった。絶対量がすでにマイナスであるような農民の稼得や,赤字家計の 賃労働者の生活にも収入として現金が家計内に入っているが,それらは正常な生活を維持 するにはきわめて不充分な額であり,殊に農家における副業的家内工業にみられるように, 商人資本による一方的な不等価交換によってもたらされる貨幣額ほまことに僅少なもので あって,これらを農家における稼待と言いうるであろうかということであった0 家庭における所得とは,少くとも一度は稼得分として掌握し,その上で自主的な判断に. もとづく自由な支出をおこない,それによって生痛が維持出来るという基本的要素を持つ ものでなければならないと思われる。この点に関してほ別の機会に改めて考えたい。.

(24) 118. 相. 馬. 信. 子. 家庭における所得は,経済生活の進展とともにその性格も内容も変り,さらにまた家庭 における生活意識や,長期的な生活期待をも変えてゆくものであって,それらの問題を含 め今回不充分な点をも次回にほ補なってゆき度いと考えているo 本論文につき幾多のご助言をいただいた国学院大学の飯塚重威教授に心から御礼を申し 上げます。.

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